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2018/06/05

諸國里人談卷之二 ㊂奇石部 息栖甁

 

諸國里人談 卷之二 菊岡米山翁著

 ㊂奇石(きせきの)部

    ○息栖甁(いきすのかめ)

常陸國息栖(いきすの)明神の磯ぢかき海中に、「女甁(めかめ)」・「男甁(おかめ)」とてニの奇石あり。男甁は徑(わたり)一丈あまりにして、銚子(てうし)のかたちなり。その口とおぼしき所に溝(みぞ)あり。中は控(うつろ)のごとく窪みて、鍋の形也。女甁は、わたり、五、六尺ばかり、土器(かはらけ)に似たり。土俗曰(いはく)、「これは神代(しんだい)の銚子の土器なり。」と。此石、滿潮(みちしほ)には、二、三尺、沈めり。干潟(ひがた)には水上(すいじやう)にあらはれける。その銚子の中は素水(さみづ)にして、潮の味ひ、なし。これを「忍鹽(をしほの)井の水」といへり。

 心ある人に見せばやひたちなる息栖の濱の忍鹽井(をしほい[やぶちゃん注:ママ。])の水

○人皇十五代若櫻宮天皇御宇、三載二月、鎭座の額あり。

○長能(ちやうのう)曰、「鹿嶋といふ嶋は、社頭より十町ばかりのきて、今は陸地よりつゞきたる嶋になん侍る。その所に『つぼ』といふものゝ、まことにおほきなるが、半過(なかばすぎ)て埋(うづも)れて見えしを、先達(せんだつ)の僧に尋しかば、『これは、神代より、とゞまれるつぼにて、いまに殘れる』よし、申〔まうし〕侍りしかば、身の毛もよだちておぼえ侍りしが、「こかめ」は、ことたがひて、よめりける。

                  長能

 神さぶるかしまを見れば玉だれのこかめばかりぞまた殘りける

かしまとあれども、今は息栖の海中にあり。西行の「撰集抄」に、鹿島の事は、みな、息栖の風景なり。息栖は鹿島の旧地なるかしらず。○又忍鹽井の水は勢州山田にもあり。【兩宮の御饌(みけ)に用〔もちひ〕水なり。】

 代々を經て汲〔くむ〕ともつきじ久かたの天〔あめ〕よりくだす忍鹽井の水

[やぶちゃん注:『「こかめ」は、ことたがひて、よめりける』の「は」は、吉川弘文館随筆大成版は「そ」と翻刻する。①~③総て、確かに「そ」と読むのが穏当な崩しに、確かに見えるのであるが、しかし「こかめそことたがひてよめりける」の文字列では、読解が私には出来ない。そこで私は、これは「者」の崩し字ではないかと考えた(早稲田大学図書館古典総合データベースの画像をリンクさせておく)。それはこの部分が、次の長能の自作の一首の間違いを自ら訂正している文句であると読めるからで、私はこれを長能が半分埋もれてしまった大きな「つぼ」(壺)と称していた「男瓶(おかめ)」見、それを詠み込むに際して大きいのに、つい、歌の銚子、基、調子から、「こかめ」と「事違ひて、詠めりける」と言ったものと採るのである。「こかめそことたがひてよめりける」のままで読めると仰られる方は、是非、お教え願いたい。なお短歌の作者の「長能」の位置は、ブラウザでの不具合を考え、上に引き上げてある。

「常陸國息栖(いきすの)明神」現在の茨城県神栖(かみす)市息栖にある息栖神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮及び千葉県香取市の香取神宮とともに「東国三社」の一社。ウィキの「息栖神社」によれば、『社伝では、第』十五『代応神天皇の代に日川の地(にっかわ:現・神栖市日川)に創建されたという』。『その後』、大同二(八〇七)年)四月十三日、『藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝える』。『当社の名称について『日本三代実録』では「於岐都説神」と記される。また』、元亨元(一三二一)年の『古文書で「おきすのやしろ」と記されるように、当社は「おきす」と呼ばれていた』。『この「おきつせ・おきす = 沖洲」という古称から、香取海に浮かぶ沖洲に祀られた神であると考えられている』。『祭神が久那戸神(岐神)・天鳥船命であることからも』、『水上交通の神であることが示唆され』、『鹿島・香取同様に東国開発の一拠点であったという見方もある』とする。『国史では、『日本三代実録』において』、仁和元(八八五)年に『「於岐都説神」が正六位上から従五位下に叙されたという記事が見える。この「於岐都説神」は当社を指すものとされる』。『当社は古くから香取神宮・鹿島神宮と並んで「東国三社」と称されたといわれる。ただし』、『地理的な関係から鹿島神宮の影響が強く、当社は同宮の摂社とみなされていた。鎌倉時代の『鹿島社例伝記』や室町時代の『鹿島宮年中行事』から、鹿島神宮と当社の密接な関係性が指摘され』ている。なお、『当社は朝廷からの崇敬を受け、元寇の際にも国家安泰を祈願するために勅使が派遣されたという』。『江戸時代には徳川家の崇敬が篤く』慶長九(一六〇四)年に『鹿島神宮領から』十四『石が給された』、また、『この時代には、「下三宮参り」と称して』、『関東以北の人々が伊勢神宮参拝後に東国三社を巡拝する慣習があったという』。『参拝客が利用する息栖の河岸は利根川水運の拠点として江戸時代から大正時代まで栄えたという』とある。さらに、『一の鳥居の両側には「忍潮井(おしおい)」と呼ばれる』二『つの井戸があり、「日本三霊泉」』(後の二つは伊勢の「明星井(あけぼのい)」と京都伏見の「直井(なおい)」とされる)の一つ『という』。『社伝では神功皇后』三『年に造られたとし、日川からの移転に際して後から自力でついてきたという』。『井戸はそれぞれ「男瓶」「女瓶」という名の』二『つの土器から水が湧き出ているが、現在の井戸は』昭和四八(一九七三)年五月に『河川改修のため移転している』とあり、ここに記されているものとは少なくとも位置は全く異なるものであることが判る(引用元に「忍潮井(男瓶)」と「忍潮井(女瓶)」の外観写真あり。下線太字やぶちゃん)。

「徑(わたり)一丈あまり」直径三メートル三センチほど。原型のそれは異様に大きなものであることが判る。

「中は控(うつろ)のごとく窪みて、鍋の形也」銚子の形であるのに中は空洞になっていて、その内形は鍋の形であるというのは、これまた奇奇怪怪である。恐らくは外形はずんぐりとした銚子型を成しているが、上から覗くと、鍋(寸胴?)型であるということか?

「五、六尺」約一メートル五十二~一メートル八十二センチ。

「土器(かはらけ)に似たり」古来、女性生殖器は土器片(かわらけ)に擬えられた。

「これは神代(しんだい)の銚子の土器なり」実際、銚子附近からは縄文時代の大きな遺跡が見つかってはいる。当初、私はこれらは自然物(岩礁)がシミュラクラしたものと思っていたが、ネットで調べると、明らかに人工物であることが判った(グーグル画像検索忍潮井 男 女)。個人サイト「陸前三郎のへや」の神栖市息栖 息栖神社のそれぞれを見ると、女瓶は欠損しているように見える、丸い口をした、男瓶と同系列の、二回りほど小さい造物と思われる(複数の写真で、周囲を囲っている横方向の杭の本数が男瓶の方が一本多いことから大きさが有意に違うことが判る)。

「二、三尺」約六十一~九十一センチメートル。

「干潟(ひがた)」ここは干潮時の意。

「素水(さみづ)」純淡水。岩礁の下部に陸からの淡水の地下水が湧出しているものと考えられる。

「忍鹽(をしほの)井の水」「神栖市観光協会」公式サイト内の「息栖神社」のページによれば、『息栖神社で隠れたスポットなのが、常陸利根川沿いの大鳥居(一の鳥居)の両脇に設けられた二つの四角い井戸「忍潮井(おしおい)」で』、『それぞれの井戸の中に小さな鳥居が建てられ、水底を覗くと二つの瓶(かめ)がうっすらと見え』るとし、『この二つの瓶は「男瓶(おがめ)」と「女瓶(めがめ)」と呼ばれ』、一千年『以上もの間、清水を湧き出し続けてきたとされ』、『この忍潮井は、伊勢(三重)の明星井(あけぼのい)、山城(京都)の直井と並び、日本三霊泉の一つに数えられてい』るとあって、『しかもこの清水には、女瓶の水を男性が、男瓶の水を女性が飲むと二人は結ばれるという言い伝えがあり、縁結びのご利益もあるとされて』いるとする。但し、現在は『忍潮井の水を直接飲むことはでき』ないとあり、『境内の手水舎の奥にある湧き水は、忍潮井と同じ清水で、お水取りをすることができ』とある。

「心ある人」情趣を解する人であるが、伝承から恋する人を匂わせている。

「人皇十五代若櫻宮天皇御宇、三載二月」「若櫻宮天皇」というのは磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)に遷都した第十七代天皇履中天皇(仁徳天皇二十四年?~履中天皇六年/在位:履中天皇元年~同六年)のことのように思われるが、第十五代は応神天皇であり、「鎭座の額あり」とする以上は応神天皇でなくてはおかしい。しかし、これ、孰れも、干支が合わない(応神天皇三年は「壬辰(みずのえたつ)」、履中天皇三年は「壬寅」で、孰れも「癸未(みづのとひつじ」ではない)から、このクレジットは信ずるに足らない。なお、同神社の社殿は昭和三五(一九六〇)年に火災で焼失しており(この時の社殿は享保七(一七二二)年造営のもの)、ここにある扁額も焼失したものと思われる。

「長能(ちやうのう)」平安中期の貴族で歌人の藤原長能(ながとう/ながよし 天暦三(九四九)年~寛弘六(一〇〇九)年?)か。しかし、以下の一首は「長能集」にも確認出来ない。

「十町」一キロ九十メートル。

「神さぶるかしまを見れば玉だれのこがめばかりぞまた殘りける」「神さぶ」は「神々(こうごう)しくなる・荘厳に見える」。「玉だれの」「玉垂れの」。「玉簾」で「すだれ」の美称であるが、簾が出てくるのはどうもおかしい気がする。寧ろ、「玉垂れの」は、緒(お)で貫いた玉を垂らして飾りとしたことから、「緒」と同じ音の「を」に懸かる枕詞でもあることから考えると、この歌は或いは、

 神さぶる鹿島を見れば玉垂れの男瓶(をがめ)ばかりぞまた殘りける

であったのではないか、という推理が、一つ、働いたことを言い添えておく。

『西行の「撰集抄」』江戸時代までは西行作と信じられていた西行に仮託した鎌倉時代(文永年間(一二六四年~一二七五年)頃)に成立した仏教説話集。

「勢州山田」現在の三重県伊勢市山田。伊勢神宮外宮の鳥居門前町。しかし、現今では伊勢に「忍鹽の水(をしほゐのみづ)」(或いは「忍鹽の井」)は存在しない。これは、先に出した三霊泉の一つである明星水のこと(現在の多気郡明和町上野(伊勢山田の西北)の安養寺((グーグル・マップ・データ))の境内にある)ではないかとも思ったが、どうも位置が気になる。これは違う意味のものではないかと考えていたところ、最後の歌を調べて、氷解した。最後の注を見られたい

「兩宮」伊勢神宮内宮と外宮。

「御饌(みけ)」神に供える食べ物。

「代々を經て汲〔くむ〕ともつきじ久かたの天〔あめ〕よりくだす忍鹽井の水」「風雅和歌集」巻第十九の「神祇歌」にある伊勢神宮外宮の禰宜の子息である度会延誠(わたらいのぶとも 生没年未詳)の一首(二一〇七番)、

   神祇を

 世々を經て汲むとも盡きじ久方の天よりうつすをしほゐの水

参照した平成三(一九九一)年三弥井書店刊の次田香澄・岩佐美代子校注「風雅和歌集」によれば、「天よりうつす」は『高天原から続く』の意で、「をしほゐの水」は『御潮斎。海水を汲み、家内外にまいて浄め、神前に供えること。おしほとり』とあった(太字やぶちゃん)。これで、これは特定の井戸をさすのではないことがはっきりした。沾涼の勘違いである。]

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