子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十二年 牡丹の前に死なんかな
牡丹の前に死なんかな
居士は和歌において曙覧を論ずるのと殆ど同時に、俳句の方面においては「俳人太祇(たいぎ)」を草して太祇の価値を宣揚した。大祇の句は曙覧の歌ほど世に知られなかったわけではないが、技倆(ぎりょう)に伴うだけの名声は得られなかった。天明に重きを置く居士の書いたものを見ても、これ以前には太祇の名はあまり見当らぬ。居士が太祇の特色の一として趣向の複雑ということを挙げた中に、「中には今日の新派と極めて似て居る者もある。今日新派の人も太祇の句を研究したといふではない、太祇のえらいといふ事を知ったのも去年位の事からであるから、特に大赦を學んだといふ譯は無いが、いはゞ太祇は新派の先鞭を著けて居たのである」ということが見えるから、明治になってからも久しく顧られなかったのである。畢竟その作品を纏めて見る機会が与えられなかったためであろう。
[やぶちゃん注:「俳人太祇」は原文を確認出来ないので、「子規居士」で訂した(後も同じ)。「太祇」は炭太祇(たん たいぎ 宝永六(一七〇九)年~明和八(一七七一)年)。江戸中期の俳人で江戸出身。ウィキの「炭太祇」によれば、『江戸においては水国・慶紀逸に江戸座の俳諧を学ぶとともに、劇界や遊里の人々とも交流を持った』。『宝暦年間』(一七五一年~一七六四年)『には奥州・京都・九州などを巡った後、京都島原の遊郭内に不夜庵を営んだ』。『支持者である桔梗屋呑獅のほか、与謝蕪村とも交流があったという。また、太祇は島原の女性たちに俳諧や手習いの教授を行っていた』。『太祇の編んだ歳旦には』、『俳人や遊里の主人連中の他に、女性たちの名前が見える。それらの多くは島原遊里案内記』「一目千軒」『と照合が可能であり、実在の太夫や天神』(てんじん:官許の遊女又は芸妓の内、太夫(たゆう:松の位)に準ずる者への呼称)『たちである。彼女らの句には百人一首のパロディや地歌の曲名を読み込むものなど、趣向が凝らされている』。『また、秋の島原を舞台に灯籠を飾る行事を復活させたとされる』。『太祇は』『没するまで』、『島原に住まうことになるが、宝暦六』(一七五六)年(満四十七歳)『に一度、江戸への帰遊を果たしている。これは上洛していた五雲の帰江に誘われてのものであり、この江戸滞在』も、『五雲の住まいに仮寓した。そこで旧知の俳人たちと再会し』、『交流した太祇は、その秋には島原へ戻っている』。私の好きな俳人である。]
「俳人太祇」は太祇の句の特色を、各方面から一々実例について論じたので、居士一流の行届いた文章であるが、特にその見識を見るべきものは、絵括的に蕪村、太祇の比較を試みた一段と、いわゆる天明調の先駆者として移竹(いちく)の名を挙げている点とにある。今日になって見れば、太祇は実力相当の名声を得ているから、格別の事もないようなものの、「蕪村を除けば天下敵なし」の彼が蓼太(りょうた)、暁台(きょうたい)、闌更(らんこう)の下積(したづみ)になり、蒼虬(そうきゅう)、梅室(ばいしつ)よりも世人に知られておらぬ状態を見ては、慨然(がいぜん)[やぶちゃん注:憤り嘆くさま。]たらざるを得なかったであろう。居士が太祇の不遇に同情した最初の一節と、「長く地中に埋れて居た者が忽ち明るみに出た時には、其光が殊に强く感ぜらる。吾々が今日太祇に對する感じはその通りであるが、若し世人が此と同じ感を起した時があつたら、其時が則ち太祇が眞成の名譽を得た時である」という結論とは、尋常研究者に求むべからざる熱を有している。居士は単に古人を紹介するの域にとどまらず、古人を活(いか)し得る人であった。
居士が夜を徹して書いた「俳人太祇」は先ず三月の『ホトトギス』に載せられ、翌年二月『太祇全集』を「俳諧叢書」の一として出版するに当り、これを附録にした。『太祇全集』を読む者に取って、この一篇が何よりの解説になっていることはいうまでもない。
四月の『ホトトギス』から居士は「随問随答」を連載しはじめた。松山発行時代に試みた「或問(わくもん)」を再興改題し、問の来るに従って明快な啓蒙的解答を与えようとしたのである。
厄月の五月は今年は無事でなかった。五月頃から発熱が乱調子になり、三日も四日も睡ることが出来ず、腰痛もまた烈しい。一切の食物を廃して、牛乳と菓物(くだもの)だけを摂るという始末になった。九日になって把栗(はりつ)、鼠骨(そこつ)両氏が牡丹の鉢を持って見舞に来たので、この日から「牡丹句録」を草することにしたが、次の一節は十日の日に靑野左衛門氏をして筆記せしめたものである。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。これも原文当たることが出来ないので「子規居士」で訂した。]
あまりの苦しさを思ふに、何んの爲にながらへてあるらん。死なんか死なんか、さらば藥を仰いで死なんと思ふに、今の苦しみにくらぶれば、我が命つゆ惜からず。いで一生の晴れに死別會(しべつゑ)といふを催すも興あらむ。試にいはゞ、日を限りて誰彼に其旨を通じ、參會者には香奠の代りに花又は菓(くだもの)を携へ來ることを命じ、やがて皆集りたる時、各〻死別の句をよみ、我は思ふまゝに菓したゝかに食ひ盡して腸に充つるを期とし、其儘花と菓の山の中に、快く藥を飮んですやすやと永き眠りに就くは、如何に嬉しかるべき。
「林檎食ふて牡丹の前に死なんかな」の句はこの時に成ったので、この句を解するには死別会の事を考慮に入れる必要があろうと思う。
[やぶちゃん注:ある記事によれば、挙げた句の後に、
牡丹ちる病の床の靜かさよ
二片散つて牡丹の形變りけり
の二句が続いてあるとする。]
牡丹は三日目の十一日に散ってしまった。「三日にして牡丹散りたる句錄かな」の一句を以て「牡丹句録」は了ったわけである。発熱の方はまだ続いていたが、二十日過にはなくなって食慾も殆ど平生に復するに至った。三十年の容体に似てはいても、今度はよほど軽くて済んだ。
「牡丹句録」は六月の『ホトトギス』に掲げられた。この牡丹は別に八首の歌となって、少し後の『日本』に出てもいる。この病により居士は暫く筆硯を廃せざるを得なかったが、虚子氏が病気で入院したため、『ホトトギス』の原稿だけは、病をつとめて口授したりした。「小生病氣したら貴兄一人でやらねばならぬ、貴兄病氣したら小生一人でやらねばならぬ」という居士の懸念が忽ち実際に現れて来たので、両者同時に病むということは居士も予想の外だったかも知れぬ。漱石氏が「小説『エイルヰン』の批評」という長い原稿を熊本から寄せて、『ホトトギス』の巻頭を埋めたのはこの際の事であった。
[やぶちゃん注:「小生病氣したら貴兄一人でやらねばならぬ、貴兄病氣したら小生一人でやらねばならぬ」「明治三十一年 『ホトトギス』東遷」参照。
「小説『エイルヰン』の批評」明治三二(一八九九)年八月発行の『ほとゝぎす』に掲載。子規から以上のような状況から懇請されて投稿したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの大正七(一九一八)年漱石全集刊行会刊「漱石全集」第十巻(初期の文章及詩歌俳句)のここで読める。『エイルヰン』はイギリスの詩人・批評家・小説家のウォルター・セオドア・ウォッツ=ダントン(Walter Theodore Watts-Dunton 一八三二年~一九一四年:長年、事務弁護士を務めた後、一八七五年頃から文芸批評家に転じた。ロマ族(Roma:インド・中近東・ヨーロッパ・アメリカ合衆国などに住む少数民族。かつては「ジプシー」(Gypsy・Gipsy)と呼ばれた)の伝承や風習を研究、ロマの娘の登場する詩集「恋の到来」(The Coming of Love:一八九七年)を出した。ロマはこの小説「エイルウィン」(Aylwin:一八九八年)でも重要な役割(漱石は『シンフアイ』と音訳している)を演じていると参考にした「ブリタニカ国際大百科事典」にある。この小書評で興味深いのは漱石が、『「エイルヰンの父に「シユエデンボルグ」宜しくと云ふ神祕學者が居る』と説明しているところで、則ちこれは比喩形容で「この小説の主人公であるエイルウィンの父親として、かのスウェーデンボルグみたような神秘学者が出てくる」の謂いである。このスウェーデン王国出身の十八世紀の科学者にして、霊界透視や遠隔観応能力を持っていたとされる神秘主義思想家のチャンピオン、エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg 一六八八年~一七七二年)の名を記していることである。これから十五年後の『東京朝日新聞』大正三(一九一四)年七月十三日掲載の夏目漱石作「心」の「先生の遺書」の第八十一回で主人公『私』(=『先生』)とKとの会話の中にKが『シユエデンボルグが何うだとか斯うだとか云つて、無學な私を驚ろかせました』と登場することになることである(リンク先は私の初出復刻版のブログ版。サイト一括版の「心 先生の遺書(五十五)~(百十)」ははこちら(孰れもオリジナル注附き)。実は、それ以前、漱石は「三四郎」(発表は明治四一(一九〇八)年)の構想断片のメモの中に『Swedenborg』の名を記しているそうである(全集を持っているので確認しようと思ったが、面倒なので、二つの識者のネット記載を確認してかく記した。悪しからず)。]
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