諸國里人談卷之二 根矢鉾立【幷鼡喰石】
○根矢鉾立(ねやのほこたて)【幷〔ならびに〕鼡喰石】
越後、出羽の界(さかひ)に根矢浦(ねやうら)といふ所、海中に圓(まどか)に高き大石あり。徑(わた)り百間余、これを「根矢の鉾立」と云〔いふ〕。「此石に寄生虫(がうなむし)、這(は)ひ上り、石の頂(いたゞき)に至れば、天上す」と、いひつたへたり。「皆、半途(はんと)より落〔おつ〕る」となり。裾(すそ)に寄生(がうな)の空貝(からがひ)、眞砂(まさご)のごとくに、あり。○又、根矢浦より三里、出羽のかたに鼠関(ねづがせき)といふあり。此所の石、すべて、鼡の喰(くい)たる跡のごとくにして、穴、あり。
[やぶちゃん注:添え題の「鼡喰石」は読み方不詳。「ねずみくらいいし」「ねずくいいし」「そじきせき」(現代仮名遣。「喰」は国字で本来は音がない。「ジキ」は「食」の音の当て読み)の孰れも語呂が悪い。本条の挿絵が後に別にここに載る(左上。リンク先は「早稲田大学図書館古典総合データベース」の①)のであるが、これだけ特徴的なランドマークなのに、この名、「根矢鉾立」「根矢浦」が全く見当たらない。しかし、鼠ヶ関の南方三里を地図上で探してみると、多少、オーバーするが、直線で十四キロメートルの位置に「笹川流れ」(新潟県村上市内の鳥越山から狐崎までの全長十一キロメートルに及ぶ海岸の名勝名)という、浸食により形成された奇岩・怪石などの岩礁や洞窟などのある場所が見出せた。ここ(グーグル・マップ・データ。それでは判らないが、国土地理院の地図で見ると(こちら)、この附近に多数の岩礁群が確認出来る)である。「にいがた観光ナビ」の「笹川流れ」の写真を見ると、なんだか、それらしい巨大な(映り込んでいる観光船のサイズを比較せよ)岩の島があるんだが? ここかなぁ? 識者の御教授を切に乞う。
「徑(わた)り百間余」直径百八十一メートル。
「寄生虫(がうなむし)」「寄居蟲」「宿借」で、甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科 Paguroidea のヤドカリ類のこと。古語では「かみな」が最古形で、そこから転訛して「かむな・かうな・がうな・ごうな」などと呼ばれていた。なお、ここに出る「ヤドカリ昇天伝承」はすこぶる珍しいもので、海産無脊椎動物フリークの私は非常に興味があるのだが、誰か、この伝承を別に書いたもの、言い伝えを御存じの方、是非ともお教え願いたい!
「裾(すそ)に寄生(がうな)の空貝(からがひ)、眞砂(まさご)のごとくに、あり」「空貝」(「からがひ」は①に拠ったが、実は③には「うつせがい」のルビがあり、私はその読みの方が好みである)この直前の記載からは、彼ら「やどかり」らは、悉く、昇天出来ずに、その鉾立て岩の中腹から落下するというのであるから、この空貝(うつせがい)はそのように落下して死んでしまった「やどかり」骸(なきがら)(事実は、単なる死んだ貝なのであるが)だと沾涼は謂いたいのであろう。
「鼠関(ねづがせき)」山形県鶴岡市鼠ヶ関にある古関跡。ウィキの「鼠ヶ関」によれば、『蝦夷に対して置かれた城柵の一つである都岐沙羅柵が鼠ヶ関周辺にあったのではないかという説があるが、確たる証拠は発見されていない』。『平安時代には白河関・勿来関とともに奥羽三関と呼ばれ、東北地方への玄関になっていた。当時の文書には根津とする表記もある』『江戸時代には「念珠関」「念珠ヶ関」と表記されており(読みは同じく「ねずがせき」)、現在の県境より』一キロメートル『ほど北にあって』、明治五(一八七二)年に『廃止されるまで』、『北国街道と羽州浜街道の境になっていた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「此所の石、すべて、鼡の喰(くい)たる跡のごとくにして、穴、あり」個人ブログらしい「鼠ヶ関より」の「鼠ヶ関の地名について」を読むと、十一世紀に成立した歌学書「能因歌枕」の「出羽の部」の始めに「ねずみの関」とあるのが文献上の初見とあり、室町時代に成立した源義経の一代記である「義経記」では、義経一行が「念種関」を通過したと出るとし(但し、同作では関を通ってから「はらかい」(原海(はらみ))という所に着いたとあり、これは現在の鼠ヶ関の位置とは相違する。「原海」は新潟県との県境から鼠ヶ関駅辺りまでの地名で原海であり、ここから先、港に添って鼠ヶ関川を渡り、北進してやっと念珠関(跡)に達するからである旨の記載がある)、語源説には、ここで沾涼が言う、『鼠が食った跡のような穴があいている石』が多くこの関所附近にある『からというのや、寝ずに張番をした関所、また根締が関からの転』などが挙げられるが、そのまま退けられており(従って、この「鼡の喰(くい)たる跡のごと」き「穴」のある石の考証はしない。恐らくは海岸端の風波に浸食された岩(泥岩系)か)、最後に結論として、『この関は、京、鎌倉の南と、出羽、陸奥の北を分けるものであった。これは「南」最北端であり、北陸道の北限であった。そしてその位置に、北からの侵入を防ぎ、南からの逃亡を妨げるために、関が置かれたものである。だから鼠ヶ関は、山形県の荘内地方の地名としては、考えてはいけないのである』。『こう考え』『ると、「ねずみの関」のねずみは、自ら正体を現すであろう。これは「子の関」なのである。子は北方を意味するのである。私の考えでは越の国の最北端に置かれたのが、子の関であり、これが「ねずみの関」になり、「鼠ヶ関」になったのであろうと思われる』とある。非常に共感出来る解釈である。]
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