諸國里人談卷之二 巫石
○巫石(みこいし)
下野(しもつけ)國、日光山中禪寺に、巫石・牛石(うしいし)あり。男躰山(なんたいさん)は女人結界(〔によにん〕けつかい)の所なり。相傳ふ、當所(たうしよの)巫(みこ)、登山せん事を欲す。「我、神につかふ身なれば、平性(よのつね)の女には異(こと)なり。何ぞ、其崇(たたり)あらんや。しかし、自(みづから)その土を蹈(ふま)ば罪あるベし。牛は優(ゆう)にして嶮岨を步むに理(ことわり)あり。」と、牛に乘(のり)て、禪鏡坊谷まで至るに、その牛、立僵直(たちすくみ)て死す。巫(みこ)、これを罵詈(のゝしる)。牛、たちまち、石と化す。己(をのれ[やぶちゃん注:ママ。])も又、同じく、石と成〔なり〕て、今にその形を殘すと、いひつたへたり。○「左傳」云、『昔シ有リ二貞婦一。其ノ夫從ㇾ役ニ、遠ク赴ク二国難ニ一。㩦テ二弱子ヲ一餞乄送ル二此ノ山ニ一。立テ望ㇾ夫ヲ而化シテ爲ルㇾ石ト。因テ以テ爲ㇾ名ト。○「幽明錄」云、『武昌ノ北山ノ上ニ有二望夫石一。』。
[やぶちゃん注:明治五(一八七二)年まで、御神体である男体山と、その麓の中禅寺湖畔まで総て(現在の二荒山(ふたらさん)神社の狭義の御神体としての「山内」の結界境内地内というべきか)が女人禁制・牛馬禁制の聖域であった。女性は女人堂(ここ(グーグル・マップ・データ))まで、牛馬はそこから東南下方に二キロほど下った位置にあった「馬返し」(グーグル・マップ・データ)までしか立ち入ることは出来なかった(『日光紹介サイト「大好き!日光」』の「巫女石」に拠った(リンク先には巫石や女人堂の写真も有る。因みに、現在、女人堂は女人だけでなく、男性でも「登る」ことが出来ない。ここは現在の「第一いろは坂」の途中に位置するが、この道は「下り専用ライン」となっているからである。文明が強制した新たな結界とも言えよう)。現在、「巫女石(みこいし)」(現行の表記。「巫(ふ・かみなぎ(かんなぎ))」は「巫覡(ふげき)」とも称し、神を祀って、神に奉仕し、時に神意を世の人々に伝えることを役割とする人々を指すが、古式では女性(シャーマンとしては女が原型であろう)は「巫」で「みこ・めかんなぎ」、男性の場合は「覡」で「げき・をかんなぎ」或いは「祝(ほうり)」などと呼称した)と称するものはここ(グーグル・マップ・データ。中禅寺湖東端岸にある国道百二十号に架かる二荒山神社奥宮の大鳥居の向かって右手の少し高い路傍)にあり、一方の「牛石」と称するものはここ(グーグル・マップ・データの中央位置。ストリートビューで離れているが、視認出来る。二荒山神社奥宮の本参道の鳥居の手前右手の「男体山頂奥宮登拝口」の石碑の前に当たる)に現存する。但し、少なくとも、後者は沾涼が見たものとは異なるものである。個人ブログ「志/源光」の「日光巡り~中禅寺湖~二荒山神社鳥居付近編~」に画像入りで、牛石の記事が載り、そこにある説明板に『この石は付近での道路工事の際に出土したもので』、『かつてこの付近にあった「牛石」の一部ではないかと、いわれているもの』とあるからである。同じのブログには『日光巡り~巫女石・日光山 総本堂「三仏堂」編~」⑵』があり、そこでは「巫女石」が写真入りで紹介されてある。そこには日光教育委員会の説明版の写真が掲げられてあり、それによれば、巫女は稚児(男児)姿に変装して、この中禅寺湖湖畔の大尻(中禅寺湖から華厳の滝までを大尻(おおじり)川と称し、それ以降は大谷(だいや)川となって鬼怒川に合流している。ここは先の現在の牛石のある「男体山頂奥宮登拝口」からは実測で七百五十メートル離れている。そもそもが先に石になったはずなのに、牛石の方がここより先の男体山頂奥宮入口直近にあるというのは、伝承に相応しくないではないか。そういう意味でもこの牛石は伝承上からは真っ赤な偽物と断ずるべきものである)まで登って来られたが、遂にそこで『女性であることが露見し、神罰により石に変えられてしまったという伝説による石であ』ると記されており(これは「露見」したのは人の目にであり、神があたらここまで登って来るのを見抜けなかったというのは如何にも神らしくないボケであって、この女人登攀の事実があったならば(女人禁制の場所では事実、しばしばこうした侵犯事件があったことは事実記録として残っている)、神罰によって石にされたというのは実は人々によって神域を犯した罰として殺害されたことの比喩であろうと私には思われる)さらに『また、この巫女石は享禄』五(一五三二)年『の日光山権現因縁位縁起には「児石」(ちごいし)とあるのが最古の記録で、天保』八(一八三七)年の『日光山誌には「巫女石」と明記されてい』るとある(本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊)。
「優(ゆう)にして」運動性能に優れていて。
「禪鏡坊谷」不詳。閲覧可能で細部視認可能な古地図も調べたが、判らない。一つ気になるのは、現在、「巫女石」のある位置は谷ではないこと、ここから二荒山神社奥宮入口までは中禅寺湖湖畔のフラットな道しかないこと、その北側は男体山の南麓であるが、深い谷上の箇所はないことなどから考えると、この「禪鏡坊谷」は先に行った二荒山神社奥宮の男体山登攀口附近の谷間か、或いは逆に、華厳の滝よりも手前の谷かでなくてはならぬ。
「立僵直(たちすくみ)て」三字へのルビ。「僵」(音「キヤウ(キョウ)」)は「斃(たふ)れる」で、本来は「仰(の)け反(ぞ)って倒れる・仰向けにひっくり返る」の意であるが、現代中国語では「面(おもて)を改める・表情をひきしめる」「活動していないさま・膠着状態にあるさま・二進(にっち)も三進(さっっち)も行かない」「硬直した・こわばった」の意味を持ち、本来は別字である「殭」と通じて、本邦では広く「斃(たお)れて(死ぬ)こと」「仮死状態」にあるの意で用いる例を見るから、ここは四肢を直立させて立ったそのままに直ちに即死したことを指す。
「罵詈(のゝしる)」二字へのルビ。
「左傳」「春秋左氏傳」。孔子の編纂と伝えられる五経の一つである史書「春秋」の代表的な三つの注釈書の一つ(他は「春秋公羊(くよう)傳」「春秋穀梁傳」)。紀元前七百年頃から凡そ二百五十年もの間の歴史が記されている。伝統的には孔子と同時代の魯の太史左丘明の注釈とされるが、怪しい。但し、以下は同書の引用ではなく、後に記す「幽明錄」の記載であって、冒頭は以下に示す通り、「左傳」ではなくて「相傳」である。恐らく、「左」は沾涼自身が「相」の字の崩し字を読み違えたものと考える。にしてもその冒頭をわざわざ切り離して後に附すというのは、仕儀として訳が判らないから(こんなことはオオボケで通常の感覚では成し得ないことである)、或いはこの部分は、誰かが誤って書いたものを無批判にそのまま引用してしまったものかも知れない。されば、このままでは混乱のもとであるので、以下に、
「幽明錄」の当該箇所を頭に完全正字(引用元は中文サイト。所持する諸本で校合した)
で示し、訓読は、
Ⅰで「諸國里人談」のそれを沾涼の提示した(一部に不審がある)漢文をその訓点に従って示したもの
を示した。そこでは、一部の送り仮名は〔 〕を付けずに附した。但し、「爲(な)る」の「な」と「爲(す)」の読みは、沾涼がカタカナで附したものである。そして次の、
Ⅱでは私が改めて訓読し直したもの
を掲げおく。
*
○「幽明錄」原文
武昌陽新縣北山上有望夫石。狀、若人立者。相傳、昔、有貞婦、其夫從役、遠赴國難。婦攜弱子、餞送此山。立望夫而化爲立石、因以爲名焉。
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Ⅰ(沾涼提示の漢文『昔シ有リ二貞婦一。其ノ夫從ㇾ役ニ、遠ク赴ク二国難ニ一。㩦テ二弱子ヲ一餞乄送ル二此ノ山ニ一。立テ望ㇾ夫ヲ而化シテ爲ルㇾ石ト。因テ以テ爲ㇾ名ト。』の訓読版)
昔し、貞婦、有り。其の夫、役により、遠く、国難に赴く。弱子を㩦へて、餞し、此の山に送る。立ちて、夫を望みて、化して、石と爲(な)る。因て以て名と爲(す)。
Ⅱ(私の「幽明錄」訓読版)
武昌(ぶしやう)新縣(しんけん)の北山(ほくさん)の上に「望夫石」有り。狀(じやう)、人の立つるがごときなり。相ひ傳ふ、「昔(むかし)、貞婦(ていふ)有り、其の夫(をつと)、役(えき)に從ひ、遠く國難(こくなん)に赴(おもむ)く。婦(つま)、弱子(をさなご)を攜(たづさ)へ、此の山にて餞送(せんさう)す。立ちて夫を望み、而して化し、立石(りつせき)と爲(な)る。因りて以つて名と爲(す)。
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「餞送」は酒や料理を揃えて酒宴設け、人を見送る(餞別する)こと。なお、もうお判りと思うが、これは中国で発し、本邦でも各地で見られる望夫石(ぼうふせき)伝承の古形である。本話の神罰による石化の怪奇談の参考添え書きとしては、私は何だか、ピント外れだよ、とツッコミたくなる。]
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