子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十四年 昨年今年明年
明治三十四年
昨年今年明年
明治三十四年(三十五歳)[やぶちゃん注:一九〇一年。]には、前年の「新年雑記」にあるような軽快な事柄は見当らない。
うつせみの我足痛みつごもりをうまいは寐ずて年明にけり
というような状態で新年を迎えたのである。居士の枕頭には巻紙・状袋などを入れる箱があり、その上に置いた寒暖計に小さい輪飾が括りつけてあった。
枕べの寒さ計(はか)りに新玉(あらたま)の年ほぎ繩をかけてほぐかも
という歌はこれを詠んだのである。
[やぶちゃん注:「うまい」は万葉語で「熟寢(寐)」「味眠」などの漢字を宛て、「快く眠ること・熟睡」の意の名詞である。この後者の一首は、直後の「墨汁一滴」の巻頭(底本は朱の手書きで一月十六日のクレジットが入る。)に載っている。以下に国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子で翻刻したが、読み易さを考え、一部に句読点を追加して打った。
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病める枕邊に卷紙狀袋など入れたる箱あり、其上に寒暖計を置けり。其寒暖計に小き輪飾をくゝりつけたるは、病中、いさゝか、新年をことほぐの心ながら、齒朶の枝の左右にひろごりたるさまも、いとめでたし。其下に橙を置き、橙に竝びて、それと同じ大きさ程の地球儀を据ゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて、鼠骨の贈りくれたるなり。直徑三寸の地球をつくづくと見てあれば、いささかながら、日本の國も特別に赤く書く[やぶちゃん注:底本は手書きで二重線でそれを抹消して「そめら」に修正。底本の切貼帳の製作者は不明であるが、或いは、子規に非常に近い人物で、子規の命によって、初出を改稿したものの原本である可能性もあるか。以下の改稿部も総て現行の「墨汁一滴」の通りだからである。]れてあり。臺灣の下には新日本と[やぶちゃん注:手書きで「記」を挿入。]したり。朝鮮滿洲吉林黑龍江などは紫色の内にあれど、北京とも天津とも書きたる處なきは餘りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀は、此赤き色[やぶちゃん注:手書きで「と」を挿入。]紫色との如何變りてあらんか、そは二十世紀初の地球儀の知る所に非ず。とにかくに狀袋箱の上に並べられたる寒暖計と橙と地球儀と、是れ、我病室の蓬萊なり。
枕べの寒さ計りに新年の年ほぎ繩を掛けてほ
ぐかも
*]
この年『日本』にはじめて掲げたのは「書中の新年」及「御題の短歌を新年の紙上に載することにつきて」の二篇であった。「書中の新年」というのは「家人に命じて手に觸るゝ所の書籍何にても持ち來らしめ、漸次にこれを關してその中より新年に關する字句を拔抄(ばつしやう)」するという趣向のもので、その冒頭には次のように記されている。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合した。]
明治卅四年は來りぬ。去年は明治卅三年なりき。明年は明治卅五年ならん。去年は病牀に在りて屠蘇を飮み、雜煮を祝ひ、蜜柑を喰ひ、而して新年の原稿を草せり。今年も亦病牀にありて屠蘇を飮み、雜煮を祝ひ、蜜柑を喰ひ、而して新年の原稿を草せんとす。知らず、明年はなほ病牀にあり得るや否や。屠蘇を飮み得るや否や。雜煮を祝ひ得るや否や。蜜柑を喰ひ得るや否や。而して新年の原稿を草し得るや否や。發熱を犯して筆を執り、病苦に堪へて原稿を草す。人はまさに余の自ら好んで苦むを笑はんとす。余は切に此苦の永く續かん事を望むなり。明年一月余は猶此苦を受け得るや否やを知らず、今年今月今日依然筆を執りて復諸君に紙上に見(まみ)ゆる事を得るは實に幸なり。昨年一月一日の余は豈能く今日あるを期せんや。
「新年雑記」に記されたところと大体似ているけれども、前年に比べるとどこか迫った点がある。一年間に著しく進んだ病苦が自ら然らしむるのであろう。
一年前にはじめて「新年雑詠」の短歌を募集し、『日本』に掲げた居士は、今年は旋頭歌を募ってその結果を新年の紙上に発表したが、選に入った者は僅に七人、各一首ずつに過ぎなかった。これは居士の病苦が多くの歌を選むの労に堪えなくなったのではない。居士の歌に臨む標準が次第に高く、一年前とは全く程度を異にするためである。この傾向は已に歌会を廃する少し前あたりからの評語にも見えているが、旋頭歌の選に至って更に顕著になった。旧来の惰性によって歌を作る者は、勢い振落されざるを得ぬ。一面からいえばこの傾向は、居士の歌の世界を前より狭くしたように見えたかも知れない。居士の選歌の標準が高まったということも、外聞からは容易に窺い得ぬものであるだけに、これに従って進む者は固より不退転の勇気を必要とする。居士の晩年になればなるほど、その選に入る顔触が少数者に限られた観があったのは、全くこのために外ならぬのであった。
一月の『ホトトギス』には「初夢」及「蕪村寺再建縁起」が出ている。「初夢」は睡中(すいちゅう)に見た夢というよりも、むしろ居士が胸裏に描いた夢の方であろう。新年と共に病から脱却して方々年賀に歩いたり、汽車に乗って帰郷したりする、これらの夢は居士に取っては実現すべからざるものになってしまった。富士山を下りながら砂を踏みすべらして真逆様に落ちたと思えば、腰の痛み、背の痛み、足の痛み、身動きもならぬ現実に還らざるを得ない。軽快な「初夢」の文章が読む者にいうべからざる悲哀を感ぜしむるのはこのためであろう。
[やぶちゃん注:「初夢」は「青空文庫」のここにあるが、新字新仮名で、国立国会図書館デジタルコレクションの俳書堂の「子規遺稿 第二編 子規小品文集」をお薦めする。
「蕪村寺再建縁起」の方は本文は小さくて読めないが、「土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べもの)」で不折の俳味に富んだ挿絵が見られる。それによれば、『蕪村宗の俳阿弥という行脚僧が、化物や狐狸と力を合わせて月並村の妨害をはねのけ、荒れ果てていた蕪村寺をみごと再建するというストーリー』とある。]
「蕪村寺再建縁起」は黄表紙に擬したもので、不折氏が挿画を画いている。こういう趣向を新聞雅誌の上に凝すことは、居士得意のしところであったが、病苦はその余力をこういう方面に用いることを困難ならしめた。「蕪村寺再建縁起」は最後の趣向と見るべきものである。
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