諸國里人談卷之一 大觀音 (江戸青山長谷寺(ちょうこくじ)(麻布大観音))
○武州江戸靑山笄橋(かうがいばし)、普陀山(ふださん)長谷寺〔ちやうこくじ〕【曹洞宗、大中寺末。】。本尊十一面觀音立像(りうぞう)、二丈六尺。御頭(みぐし)、和州長谷の本尊同作なり。はじめは竜雲院(りううんゐん)といふ。溜池(ためいけ)のうへにあり。天正十二年に遷(うつ)る。開山、門菴(もんあん)和尚なり。常に帳(ちやう)をひらきて、これを拜す。
佛工𥡴文會(けいぶんかい)、𥡴主勳は、兄弟なり。河内國春日(かすが)村の人なり。故(かるがゆへ)に世に春日の作と稱す。三尊ともに同作なり。
[やぶちゃん注:本条は項「○大觀音」の三番目(一番目が奈良の長谷観音、二番目が鎌倉の長谷観音)の条であるが、分離して示した。なお、この最後の寺は前二者と異なり、現行、「ちょうこくじ」と読んでいるので、ここではそう読みを私が歴史的仮名遣で振った。
これは現在の東京都港区西麻布二丁目にある曹洞宗補陀山(ほださん)長谷寺(ちょうこくじ)である(ここ(グーグル・マップ・データ))。ウィキの「長谷寺(東京都港区)」によれば(下線太字やぶちゃん)、本尊は釈迦牟尼仏であるが、観音堂があり、そこに十一面観世音菩薩が奉安され、江戸三十三箇所観音霊場の第二十二番札所でもある。『現在地』は嘗て『下渋谷村に属して渋谷ヶ原と呼ばれ、奈良の長谷寺と同一の木材で造られたと伝えられる観音像を祀った』堂宇『があった。山口重政が』天正一九(一五九一)年、『徳川家康に招聘され』、『江戸に上った際、渋谷ヶ原に下屋敷を拝領し』、慶長三(一五九八)年、『この渋谷ヶ原観音堂を基に』、『補陀山長谷寺を創建し、菩提寺とした。開山は家康と親交があり、泉岳寺の開山でもある門庵宗関であった』(門庵宗関は本文の「門菴(もんあん)和尚」のことであるが、どうもこの名は「もんなん(そうかん)」と読むらしい。なお、また、彼は今川義元の孫であるらしい)。『その後、下野国大中寺末寺で』、天正一二(一五八四)年に溜池(現在の東京都港区赤坂にあった江戸城外濠周辺の一部地区に与えられた溜池町)に『あった普陀山瀧雲院と合寺し、寺格を高めた』。『現在は高樹町交差点方面が正面口だが、江戸時代には西麻布交差点方面へ東に延びる道が表参道であった。突き当たった通り沿いには』、天和元(一六八一)年に『門前町(渋谷長谷寺門前)が起立し、その向かい側に渋谷川の支流笄川が流れ、川の両側には原宿村字五反田の田地が広がっていた。現在』、『笄川は暗渠となっている』とある。『寺の裏手、現在の根津美術館には日向国高鍋藩秋月家下屋敷があり、屋敷内の池から境内の脇を通って笄川に至る支流が存在した』。『寺の南側には広大な河内国丹南藩高木家屋敷や組屋敷が存在し、件の山口家下屋敷は高木家屋敷の南にあった』。宝永六(一七〇九)年、『現在の高樹町センタービル付近に渋谷御掃除町が成立したが、大部分は武家地であった』とある。『明治になると、渋谷長谷寺門前・渋谷御掃除町・周辺の組屋敷と共に麻布区笄町に編入され、渋谷ではなく』、『麻布地域に属することとなった』。昭和二〇(一九四五)年の『東京大空襲により本尊・寺もろとも焼失したが』昭和五二(一九七七)年に再興された、とある。
「二丈六尺」七メートル八十八センチメートル弱。
「佛工𥡴文會(けいぶんかい)、𥡴主勳は、兄弟なり。河内國春日(かすが)村の人なり。故(かるがゆへ)に世に春日の作と稱す」前条及び前々条の本文と私の注を必ず参照されたい。]