諸國里人談卷之二 龍淵
○龍淵(りうゑん)
和泉國蜂田(はんだ)郡家原寺(いゑはらてら[やぶちゃん注:「ゑ」はママ。])の山のうへに、赤龍淵(しやうりうゑん)と云〔いふ〕石あり。徑(わた)り、七、八寸の穴あり。其中の水、旱天(かんてん)に涸(かれ)ず、霖雨(りんう)に溢(あふ)れず。また、旱魃の時、此石に雨を祈るに、驗(しるし)あらずといふ事なし。其傍(かたはら)に白龍淵といふ石あり。うへ、少し、窪めり。降(ふり)つゞく雨にも、一滴、たまらず。たゞ染入(しみいり)て消(きゆ)るがごとし。
[やぶちゃん注:「和泉國蜂田(はんだ)郡」これは現在の堺市西区家原寺町(えばらじちょう:旧家原寺(えばらじ)村)を含んだ地域の旧名と思われるが、そこは少なくとも公式な旧郡名ではなかったように思われるので、やや不審である。ウィキの「八田荘村」によれば、嘗て大阪府にあった八田荘(はったしょう)村は「和名類聚抄」などに見られる平安時代の古い郷の名である「蜂田(はちた)」から転じたものであるとし、『現在、氏神社は「はちた」、村名(地区名)は「はった(しょう)」、大字(町名)は「はんだ」と読み方がさまざまである』からである。或いはここは「蜂田郷」の沾涼の誤記かも知れない。ともかくも、ここに出る寺は現存し、真言宗一乗山院清涼院家原寺(えばらじ)と現在は呼称する(ここ(グーグル・マップ・データ))。同寺のウィキによれば、『寺伝によると』、慶雲元(七〇四)年、かの名僧行基が自身の生家を『寺に改めたのに始まるとされ』、『かつては多くの子坊を有したが』、『兵火などで衰退した。江戸時代には田安家が帰依して寺領を与えられた』とある。同寺の公式サイトには、現在の『境内地は』二『万坪に及ぶ』が、『明治初年の廃仏毀釈で荒廃し、また』、『大戦後の農地解放で敷地や農地を失い』、その後、再建復興されて『現在にいたっている』とあること、公式サイト内にこの奇石の記載がないこと、航空写真を見るに東南方向に嘗て山があった痕跡があること等から考えて、ここにある「赤龍淵」(しやうりうゑん)」「白龍淵」という石は現存しない可能性が高いように思われる(ある場合はお教え願いたい。訂正する)。
「七、八寸」二十二~二十四センチメートル。
「霖雨」何日も降り続く雨。長雨。]
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