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2018/06/29

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年  最後の厄月

 

      最後の厄月

 

 五月五日から居士は「病牀六尺」を『日本』に掲げはじめた。然るにその七日から容体が思わしからず、十三日に至って未曾有の大苦痛を現じた。厄月の五月はここに至ってもなお居士を脅(おびやか)すことを已めなかったのである。十四日は比較的無事であったが、前日の反動で非常に弱り、十五日の朝は三十四度七分という体温が少しも上らなかった。もう居士もあきらめて、前年秋秀真氏の造った石膏像を取上げ、その裏に「自(みづから)題(だいす) 土一塊牡丹生けたる其下に 規 明治三十五年五月十五日」と書きつけたほどであったが、午後からは次第に苦痛が薄らぎ、あたかも根岸三嶋神社の祭礼であったので、豆腐汁、木(き)の芽和(あえ)の御馳走に一杯の葡萄酒を傾ける。祭の句が八句も出来るという風で、どうやら危険を脱し得た。

[やぶちゃん注:「病牀六尺」では「五」(後の末尾クレジットは五月十日)に(例の初出で翻刻、二箇所で句点を挿入した)、

   *

○明治卅五年五月八日雨記事。

昨夜少しく睡眠を得て昨朝來の煩悶稍度を減ず。牛乳二杯を飮む。

九時麻痺劑を服す。

天岸醫學士長州へ赴任の爲め暇乞に來る。序に予の脈を見る。

碧梧桐、茂枝子[やぶちゃん注:「しげえこ」。]早朝より看護の爲めに來る。

鼠骨も亦來る。學士去る。

きのふ朝倉屋より取り寄せ置きし畫本を碧梧桐らと共に見る。月樵の不形畫藪[やぶちゃん注:「ふけいぐわそう」。]を得たるは嬉し。其外鶯邨畫譜[やぶちゃん注:「わうそんぐわふ」。]景文花鳥畫譜、公長略畫など選り出し置く。

午飯は粥に刺身など例の如し。

繃帶取替をなす。疼痛なし。

ドンコ釣の話。ドンコ釣りはシノベ竹に短き糸をつけ蚯蚓を餌にして、ドンコの鼻先につきつけること。ドンコ若し食ひつきし時は勢よく竿を上ぐること。若し釣り落してもドンコに限りて再度釣れることなど。ドンコは川に住む小魚にて、東京にては何とかハゼといふ。

鄕里松山の南の郊外には池が多きといふ話。池の名は丸池、角池、庖刀池、トーハゼ(唐櫨)池、鏡池、彌八婆々の池、ホイト池、藥師の池、浦屋の池など。

フランネルの切れの見本を見ての話。縞柄は大きくはつきりしたるがよいといふこと。フランネルの時代を過ぎて、セルの時代となりしことなど。

茂枝子ちよと内に歸りしが稍〻ありて來り、手飼のカナリヤの昨日も卵産み今朝も卵産みしに今俄俄に樣子惡く巢の外に出て身動きもせず如何にすべきとて泣き惑ふ。そは糞づまりなるべしといふもあれば尻に卵のつまりたるならんなど云ふもあり。予は戲れに祈禱の句をものす。

  菜種の實はこべらの實も食はずなりぬ

  親鳥も賴め子安の觀世音

  竹の子も鳥の子も只ただやすやすと

  糞づまりならば卯の花下しませ

晚飯は午飯と略同樣。

體溫三十六度五分。

點燈後碧梧桐謠曲一番殺生石を謠ひ了る。予が頭稍惡し。

鼠骨歸る。

主客五人打ちよりて家計上のうちあけ話しあり。泣く、怒る、なだめる。此時窓外雨やみて風になりたるとおぼし。

十一時半又麻痺劑を服す。

碧梧桐夫婦歸る。時に十二時を過る事十五分。

予此頃精神激昂苦悶已まず。睡覺めたる時殊に甚だし。寐起を恐るゝより從つて睡眠を恐れ從つて夜間の長きを恐る。碧梧桐らの歸る事遲きは予のために夜を短くしてくれるなり。

   *

とある(全文)。

『十五日の朝は三十四度七分という体温が少しも上らなかった。もう居士もあきらめて、前年秋秀真氏の造った石膏像を取上げ、その裏に「自(みづから)題(だいす) 土一塊牡丹生けたる其下に 規 明治三十五年五月十五日」と書きつけたほどであった』これは「病牀六尺」の「九」(後の末尾クレジットは五月十八日)に出る。やはり全文を初出で示す。

   *

○余が病氣保養の爲めに須磨に居る時、「この上になほ憂き事の積れかし限りある身の力ためさん」といふ誰やらの歌を手紙などに書いて獨りあきらめて居つたのは善かつたが、今日から見ると其は誠に病氣の入口に過ぎないので、昨年來の苦みは言語道斷殆んど豫想の外であつた。其が續いて今年もやうやう五月といふ月に這入つて來た時に、五月といふ月は君が病氣の爲め厄月ではないか、と或友人に驚かされたけれど否大丈夫である去年の五月は苦しめられて今年はひま年であるから、などゝ寧ろ自分では氣にかけないで居た。ところが五月に這入つてから頭の工合が相變らず善くないといふ位で每日諸氏のかはるがはるの介抱に多少の苦しみは紛らしとつたが、五月七日といふ日に朝からの苦痛で頭が惡いのかどうだか知らぬが、兎に角今までに例の無い事と思ふた。八日には少し善くて、其後又た天氣工合と共に少しは持ち合ふてゐたが十三日といふ日に未曾有の大苦痛を現じ、心臟の鼓動が始まつて呼吸の苦しさに泣いてもわめいても追つ附かず、どうやらかうやら其日は切拔けて十四日も先づ無事、唯しかも前日の反動で弱りに弱りて眠りに日を暮らし、十五日の朝三十四度七分といふ體溫は一向に上らず、其によりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず最早自分もあきらめて、其時恰も牡丹の花生けの傍に置いてあつた石膏の肖像を取つて其裏に「自題。土一塊牡丹生けたる其下に。年月日」と自ら書きつけ、若し此儘に眠つたらこれが絶筆であるといはぬ許りの振舞、其も片腹痛く、午後は次第々々に苦しさを忘れ、今日は恰も根岸の祭禮日なりと思ひ出したるを幸に、朝の景色に打つてかへて、豆腐の御馳走に祝の盃を擧げたのは近頃不覺を取つたわけであるが、併し其も先づ先づ目出度いとして置いて、扨て五月もまだこれから十五日あると思ふと、どう暮してよいやらさぱりわからぬ。

○五月十五日は上根岸三島神社の祭禮であつてこの日は每年の例によつて雨が降り出した。しかも豆腐汁木の芽あえ[やぶちゃん注:ママ。句も同じ。]の御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない愉快であつたので、

  この祭いつも卯の花くだしにて

  鶯も老て根岸の祭かな

  修復成る神杉若葉藤の花

  引き出だす幣に牡丹の飾り花車[やぶちゃん注:「だし」。]

  筍に木の芽をあえて祝ひかな

  齒が拔けて筍堅く烏賊こはし

  不消化な料理を夏の祭かな

  氏祭これより根岸蚊の多き

   *]

 

 「病牀六尺」を読んで著しく目につくのは、絵画に関する文字の多いことである。常時居士の目に触れた絵画は主として木版刷の画本であったが、居士はこれによって病牀徒然の時を銷(しょう)すと共に、何らか語るべきものをその裏[やぶちゃん注:「うち」。]に見出し得たのであった。居士の画本を見るのは必ずしも画の鑑賞のみにとどまらぬ。座右の画本から鶴を画いたものを探し出して、その趣向を比較して見たり、広重の「東海道続絵(つづきえ)」には何処にも鳥が画いてないが、五十三駅の一枚画を見ると、原駅のところに鶴が二羽田に下りており、袋井駅のところでは道ばたの制札の上に雀が一羽とまっていた、ということを発見したりする。文鳳(ぶんぽう)、南岳(なんがく)の「手競画譜(しゅきょうがふ)」のうち、文鳳の画十八番について一々こまかな説明をしているところもあるが、あれなどは居士が如何に画本を楽しんで見ていたかを語るもので、殆ど画を読むの域に達しているかと思う。

[やぶちゃん注:『広重の「東海道続絵(つづきえ)」には何処にも鳥が画いてないが、五十三駅の一枚画を見ると、原駅のところに鶴が二羽田に下りており、袋井駅のところでは道ばたの制札の上に雀が一羽とまっていた、ということを発見したりする』「病牀六尺」の「卅五」(後の末尾クレジット「(六月十六日)」)の箇条書きの中の一条。『鳥づくしといふわけではないが』(太字「鳥づくし」は原典では傍点「●」)のという書き出しで始まるアフォリズム風超短編エッセイ群七篇である。以下の本文の太字は原典では傍点「◦」

   *

一、廣重の東海道續繪といふのを見た所が其中に何處にも一羽も鳥が畫いてない。それから同人の五十三驛[やぶちゃん注:これで「つぎ」と読ませているらしい。]の一枚畫を見た所が原驛[やぶちゃん注:これで「はらじゆく(はらじゅく)」と読ませているらしい。]の所にが二羽田に下りて居り袋井驛[やぶちゃん注:これで「ふくろゐじゆく(ふくろいじゅく)」と読ませているらしい。]の所に道ばたの制札の上にが一羽とまつて居つた。

   *

この「廣重の東海道續繪」というのは、知られた歌川広重の代表作「東海道五十三次」のヴァージョンの一つ。天保三(一八三二)年に初めて東海道を旅した広重が、その途中に写生した沿道の風景を版画にし、翌年、保永堂と仙鶴堂の合梓(ごうし)で「日本橋朝之景」から、順次、開版して行き、天保五年一月に五十五枚のシリーズを完成した。途中で保永堂が版権を独占したらしく、同版元のものが『保永堂版』と呼ばれ、二十種に亙る東海道シリーズの中でもこれが最も知られたものであり、子規の言っている「五十三驛」というのがその保永堂版である。ウィキの「東海道五十三次浮世絵では、三種に大別される「保永堂版」・「行書版」・「隷書版」の全五十五図を比較しながら細部まで見ることが出来るが、

●「保永堂版」の、

「原驛」はこれ(田中の鶴であるが、正岡子規には悪いが、この富士の中腹には別に十七羽の鳥影が列を成している。子規が「これも鶴だからいいんだ」とぶつくさ言うのなら、まあ、それはそれでいいが

「袋井驛」はこれ制札の上に非常に尾の長い鳥(それもその尾はピンと上を向いている!)。しかし、これは私には雀には見えない

である。因みに、試みに私も以上の三種を一枚一枚、総て見てみたが、確かに、「保永堂版」には上記の二枚だけにしか鳥は描かれていないようだ。但し、「保永堂版」ではない、

●「行書版」ヴァージョンでは(以下のリンクは総てウィキの「東海道五十三次浮世絵の各個画像)、

・「日本橋」に遠景を飛ぶ様式化した千鳥模様風の鳥が五羽(朝烏か)

・「川崎」は大型の鷺が二羽

・「鞠子」に三羽(これは絶対に確かな雀)

描かれており、

●「隷書版」ヴァージョンでは、

・「大磯」(鴫立庵)に立つ一羽

・「興津」の廻船の帆の彼方に列を成す有意な数の鳥影(シルエット)

・「白須賀」の海上に二十羽の列を成す鳥影

・「桑名」の渡舟の帆の彼方に多数の鳥影

が描かれていて、個体数でなら、「隷書版」に鳥は断然、多く描かれている。子規が見た「東海道續繪」というのは、これら「保永堂版」・「行書版」・「隷書版」完本の出る前の、単発で出していたものか?(刷りの悪さや劣化が想起される) 法政大学図書館の「正岡子規文庫」(子規の旧蔵書)を見たが、残念ながら、これらの絵図は含まれていなかった。

『文鳳(ぶんぽう)、南岳(なんがく)の「手競画譜(しゅきょうがふ)」のうち、文鳳の画十八番について一々こまかな説明をしているところもある』「病牀六尺」の「六」(「(五月十二日)」分)。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。「文鳳」は河村文鳳(安永八(一七七九)年~文政四(一八二一)年)で、山城国出身で優れた人物画や山水画で知られた。ウィキの「河村文鳳」によれば、『歌川国芳』、『歌川国貞、渓斎英泉など後代の浮世絵師等にも大きな影響を与えた。俳句にも秀でており』、『上田秋成、与謝蕪村等と交遊し、俳画も好んで描いた。生前は有力絵師の一人でだったようで』、『文鳳原画による』「文鳳畫譜」・「帝都雅景一覽」・「文鳳漢畫」・「文鳳山水遺稿」などの画譜類が十『種類以上』、『出版されているが、なぜか現存作品は極めて少ない。速い運筆による人物画を得意とし』たとある。「南岳」は渡辺南岳(明和四(一七六七)年~文化一〇(一八一三)年)。京都の人。円山応挙の高弟で「応門十哲」に数えられた。美人画を得意とし、後年には尾形光琳に私淑し、その技法も採り入れている。後、江戸に出て、円山派の画風を伝える一方、谷文晁や酒井抱一らとも交遊した。この「南岳文鳳手競畫譜」というのは文化八(一八一一)年刊らしいが、稀覯画譜らしい。]

 

 「如何にして日を暮すべきか」これが居士の大問題であった。従来楽しみとしていたことも、かえって皆苦しみの種になった。畢竟周囲と調和することが甚だ困難になったので、「麻痺剤の十分に効を奏した時はこの調和がやや容易であるが、今はその麻痺劑が十分に効を奏することが出來なくなつた」というのである。「情ある人我病床に來つて余に珍しき話など聞かさんとならば、謹んで余は爲に多少の苦を救はるゝことを謝するであらう。余に珍しき話とは必ずしも俳句談にあらず、文學談にあらず、宗教、美術、理化、農藝、百般の話は知識なき余に取つて悉く興味を感ぜぬものはない」と居士はいっている。「病牀六尺」の材料は訪客の話頭から生れたものも少くないが、それにしても範囲が実に広汎である。忽(たちまち)にして釣の話、忽にして能の話、忽にして水難救済会の話、信玄と謙信との比較が出るかと思えば、演劇界の改良はむしろ壮士俳優の任務であるというような議論も出る。あるいは庭園を論じ、あるいは盆栽を論じ、芝居と能との比較を論じ、あるいは女子教育の必要を論じ、あるいは飯炊(はんすい)会社を興さんことを希望するなど、殆ど応接に遑がない。あらゆる楽(たのしみ)は変じて苦となる居士の境涯において、こういう活力が那辺に蔵されているか、不思議というより外に適当な言葉は見当らぬようである。

[やぶちゃん注:「麻痺剤の十分に効を奏した時はこの調和がやや容易であるが、今はその麻痺劑が十分に効を奏することが出來なくなつた」「情ある人我病床に來つて余に珍しき話など聞かさんとならば、謹んで余は爲に多少の苦を救はるゝことを謝するであらう。余に珍しき話とは必ずしも俳句談にあらず、文學談にあらず、宗教、美術、理化、農藝、百般の話は知識なき余に取つて悉く興味を感ぜぬものはない」「病牀六尺」の「四十」(「六月二十一日」)。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの初出画像)。

「釣の話」複数箇所あり、ドンコ釣りは前の注で出したが、「二十九」(六月十日)が所謂、「釣尽くし」の章段である。以下、リンクが面倒なので、初出ならば国立国会図書館デジタルコレクションのこちら、新字新仮名でよいならば「青空文庫」のこちらで、各自、章番号などで探されたい。

「能の話」思いの外、多い。「十五」(五月二十七日)で狂言との歴史的絡みに触れ、「三十三」(六月十四日)では現代(当代)能楽界へ苦言を呈し、「五十二」(七月三日)では能と近世以降の芝居の比較論など(宵曲の言う「芝居と能との比較を論じ」)、快刀乱麻の体(てい)を成す。

「水難救済会の話」「三十四」(六月十五日)。

「信玄と謙信との比較」「三十六」(六月十七日)。

「演劇界の改良はむしろ壮士俳優の任務であるというような議論」「三十七」(六月十八日)。

「庭園を論じ」「四十六」(六月二十七日)。

「盆栽を論じ」「五十一」(七月二日)。

「女子教育の必要を論じ」「六十五」(七月十六日)から「六十七」(七月十八日)まで連続している。

「飯炊(はんすい)会社を興さんことを希望する」「飯炊」は「炊飯」に同じい。飯炊きを専門にする業者である。「七十三」(七月二十四日)。]

 

 居士の枕頭にはかつて「古白曰来」の下に書かれた千枚通しがある。「俳句分類」に従事していた時分は、毎日五枚や十枚の半紙に穴をあけて綴込まぬことがなかったため、錐の外面は常に光を放ち、極めて滑(なめらか)であった。或日ふと取上げて見ると、錐は全く錆びてしまって、二、三枚の紙を通すにも錆に妨げられて快く通らぬ。居士はここにおいて「錐に錆を生ず」の歎を発し、英雄髀肉(ひにく)の歎に比せざるを得なかった。―――「病牀六尺」の中にはこういう箇所もある。

[やぶちゃん注:『「古白曰来」の下に書かれた千枚通し』既に「古白曰来」の私の注で本文全部を電子化し、画像も載せてある。

「或日ふと取上げて見ると、錐は全く錆びてしまって、二、三枚の紙を通すにも錆に妨げられて快く通らぬ。居士はここにおいて「錐に錆を生ず」の歎を発し、英雄髀肉(ひにく)の歎に比せざるを得なかった」「四十九」(後の末尾クレジット「(六月三十日)」)。初出で全文を翻刻する。一部は底本の書き込みに拠ったもので示し、一箇所、句点を追加した。

   *

○英雄には髀肉の嘆といふ事がある。文人には筆硯生塵[やぶちゃん注:「ひつけんちりをしやうず(ひっけんちりをしょうず)」。]といふ事がある。余も此頃「錐錆を生ず」[やぶちゃん注:太字は初出底本では傍点「◦」。]といふ嘆を起した。此の錐といふのは千枚通しの手丈夫な錐であつて、之を買うてから十年餘りになるであらう。これは俳句分類といふ書物の編纂をして居た時に常に使ふて居たもので其頃は每日五枚や十枚の半紙に穴をあけて、其書中に綴込まぬ事はなかつたのである。それ故錐が鋭利といふわけでは無いけれど、錐の外面は常に光を放つて極めて滑らかであつた。何十枚の紙も容易く突き通されたのである。それが今日不圖手に取つて見たところが、全く錆てしまつて、二三枚の紙を通すのにも錆の爲に妨げられて快く通らない。俳句分類の編纂は三年ほど前から全く放擲してしまつて居るのである[やぶちゃん注:下線太字は初出底本では傍点「ヽ」。]。「錐に錆を生ず」といふ嘆を起さゞるを得ない。

   *

因みに、「髀肉の嘆」は、三国時代の蜀の劉備が、長い間、馬に乗って戦場へ行かなかったため、腿(もも)に無駄な肉がついてしまった、と嘆いたという「三国志」の「蜀書先主傳 註」の故事に拠るもので、活躍したり、名を挙げたりする機会がないことを嘆くことを指す比喩。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。後の文末クレジットでは「(六月二日)」分の全文。例の国立国会図書館デジタルコレクションのこの初出切貼帳の画像を視認して校合した。なお、底本「評伝 正岡子規」の「狗子」のルビ「くし」に従った(こう読んでも、無論、構わない)が、私は「くす」と読みたい人間である。なお、これは「趙州狗子」の公案で、これは既に注した。]

 

○余は今迄禪宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りというふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平氣で生きて居る事であつた。

○因みに問ふ。狗子(くす)に佛性(ぶつしやう)ありや。曰、苦。

 又問ふ。祖師西來(そしせいらい)の意は奈何。曰、苦。

 又問ふ。………………………。曰、苦。

 

[やぶちゃん注:「祖師西來の意は奈何」やはり人口に膾炙した(んな評言は公案にとっては死の宣告と同じだ。人口に膾炙した公案など「糞の糞の極み」である)公案の一つ。やはり、私の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」から引こう。

   *

  三十七 庭前栢樹

趙州、因僧問、如何是祖師西來意。州云、庭前栢樹子。

無門曰、若向趙州答處見得親切、前無釋迦後無彌勒。

   *

  三十七 庭前の栢樹(はくじゆ)

 趙州(でうしう)、因みに、僧、問ふ、

「如何なるか是れ、祖師西來(せいらい)の意。」

と。

 州云く、

「庭前の栢樹子(はくじゆし) 。」

と。

   *

  三十七 庭の柏(かしわ)の樹(き)

 趙州和尚は、ある時、機縁の中で、僧に問われた。

「達磨大師は、何故、西に行ったか?――禅とは何か?」

 趙州和尚は言った。

「あの庭の柏の樹。」

   *

リンク先では私は敢えて述べていないが、この「柏」は裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis を指し、この木は中国では棺材として使用されてきた。]

 

 「病牀六尺」の中にはこういう箇所もある。

 居士の病牀における煩悶は、生死出離(しょうじしゅつり)の大問題ではない。病気が身体を衰弱せしめたためか、脊髄系を侵されているためか、とにかく生理的に精神の煩悶を来(きた)すのだといい、死生の問題は大問題ではあるが、それは極(ごく)単純な事であるので、一旦あきらめてしまえば直に解決される、ということを「病牀六尺」に書いたことがある。この「あきらめる」ということについて或人から質問が来た。死生の問題はあきらめてしまえば解決されるということと、かつて兆民居士を評して「あきらめる事を知って居るが、あきらめるより以上のことを知らぬ」といったことと撞著(どうちゃく)しておりはせぬかというのである。居士はこれに対し譬喩(ひゆ)を以て答えた。

 子供が養生のために親から灸を据えられる場合、灸はいやだといって泣いたり逃げたりするのは、あきらめがつかぬのである。到底逃げるにも逃げられぬ場合だと観念して、親のいう通りおとなしく灸を据えてもらう。これは己にあきらめたのである。しかしその間灸のあつさに堪えず、棉神上に苦悶を感ずるとすれば、それは僅にあきらめたのみで、あきらめる以上の事は出来ない。親のいう通りおとなしく灸を据えるのみならず、その間書物を見るとか、いたずら亭でもしているとか、そういう事で灸の事を少しも苦にしなくなれば、はじめてあきらめる以上の域に達するのである。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。初出で校合した。最後に改めて全文を示す。]

 

兆民居士が『一年有半』を著した所などは、死生の問題についてはあきらめがついて居つたように見えるが、あきらめがついた上で夫の天命を楽しんでというような楽しむという域には至らなかったかと思う。居士が病気になって後頻りに義太夫を聞いて、義太夫語りの評をして居る処などはややわかりかけたようであるが、まだ十分にわからぬ処がある。居士をして二、三年も病気の境涯にあらしめたならば、今少しは楽しみの境涯にはいる事が出来たかも知らぬ。病気の境涯に処しては、病気を楽しむという事にならなければ生きて居ても何の面白味もない。

 

 この一段は「仰臥漫録」に「理が分ればあきらめつき可申、美が分れば樂み出來可申候」と書いたところを、更にわかりやすく敷街したもので、前年の「命のあまり」に説かるべくして説かれなかったところを、ここで補足したように思われる。この「あきらめ」と「樂しみ」に関する見解の如きは、居士のような病者にしてはじめて発せらるるものでなければならぬ。

[やぶちゃん注:『病気が身体を衰弱せしめたためか、脊髄系を侵されているためか、とにかく生理的に精神の煩悶を来(きた)すのだといい、死生の問題は大問題ではあるが、それは極(ごく)単純な事であるので、一旦あきらめてしまえば直に解決される、ということを「病牀六尺」に書いたことがある』「四十二」(後の文末「(六月二十四日)」クレジット)の条。以下に初出で示す。引用部のみを明らかにするために、そこのみ、初出と一行字数を同じにした。一部に句点を追加した。平仮名型約物の「こと」(「と」の上に「ヽ」が付着したもの)は正字化した。一部の活字脱字は岩波文庫版を参考に直した。

   *

○今朝起きると一封の手紙を受取つた。それは本鄕の某氏より來たので余は知らぬ人である。その手紙は大略左の通りである。

 拜啓昨日貴君の病牀六尺を讀み感ずる所あり

 左の數言を呈し候

 第一、かゝる場合には天帝又は如來とゝもに

  あることを信じて安んずべし

 第二、もし右信ずること能はずとならば人力の

  及ばざるところをさとりてたゞ現狀に安ん

  ぜよ現狀の進行に任ぜよ痛みをして痛まし

  めよ大化のなすがまゝに任ぜよ天地萬物わ

  が前に出沒隱現するに任ぜよ

 第三、もし右二者共に能はずとならば號泣せよ

  煩悶せよ困頓せよ而して死に至らむのみ

 小生は甞て瀕死の境にあり肉體の煩悶困頓を

 免れざりしも右第二の工夫によりて精神の安

 靜を得たりこれ小生の宗教的救濟なりき知ら

 ず貴君の苦痛を救濟し得るや否を敢て問ふ病

 間あらば乞ふ一考あれ(以下略)

此親切なる且つ明鬯平易なる手紙は甚だ余の心を獲たものであつて、余の考も殆んど此手紙の中に盡きて居る。唯余に在つては精神の煩悶といふのも、生死出離の大問題ではない、病氣が身體を衰弱せしめたゝめであるか、脊髓系を侵されて居る爲めであるか、とにかく生理的に精神の煩悶を來すのであつて、苦しい時には、何とも彼とも致し樣の無いわけである。併し生理的に煩悶するとても、その煩悶を免れる手段は固より『現狀の進行に任せる』より外は無いのである。號叫し煩悶して死に至るより外に仕方の無いのである。たとへ他人の苦が八分で自分の苦が十分であるとしても、他人も自分も一樣にあきらめるといふより外にあきらめ方はない。此の十分の苦が更に進んで十二分の苦痛を受くるやうになつたとしても矢張りあきらめるより外はないのである。けれども其れが肉體の苦である上は、程度の輕い時はたとへあきらめる事が出來ないでも、なぐさめる手段がない事もない。程度の進んだ苦に至つては、啻になぐさめる事の出來ないのみならず、あきらめて居ても尚あきらめがつかぬやうな氣がする。盖しそれは矢張りあきらめのつかぬのであらう。笑へ。笑へ。健康なる人は笑へ。病氣を知らぬ人は笑へ。幸福なる人は笑へ。達者な兩脚を持ちながら車に乘るやうな人は笑へ。自分の後ろから巡査のついて來るのを知らず路に落ちてゐる財布をクスネンとするやうな人は笑へ。年が年中晝も夜も寐床に橫たはつて、三尺の盆栽さへ常に目より上に見上げて樂しんで居るやうな自分ですら、麻痺劑のお蔭で多少の苦痛を減じて居る時は、煩悶して居つた時の自分を笑ふてやりたくなる。實に病人は愚なものである。これは余自身が愚なばかりでなく一般人間の通有性である。笑ふ時の余も、笑はるゝ時の余も同一の人間であるといふ事を知つたならば、餘が煩悶を笑ふ所の人も、一朝地をかふれば皆余に笑はるゝの人たるを免れないだらう。咄々大笑。(六月二十一日記)

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「困頓」は「こんとん」で「疲れ果てること・困り果てること」の意。「明鬯」は「めいちやう(めいちょう)」で「明暢」に同じい(「鬯」も「のびる」の意)。「言葉や論旨がはっきりしていること」を指す。

『この「あきらめる」ということについて或人から質問が来た……」「病牀六尺」の「七十五」(後の文末「七月二十六日」クレジット分)である。太字は初出では傍点「●」。

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○或人からあきらめるといふことに就て質問が來た。死生の問題などはあきらめて仕舞へばそれでよいといふた事と、又甞て兆民居士を評して、あきらめる事を知つて居るが、あきらめるより以上のことを知らぬと言つた事と撞着して居るやうだが、どういふものかといふ質問である。それは比喩を以て説明するならば、こゝに一人の子供がある。其子供に、養ひの爲めに親が灸を据ゑてやるといふ。其場合に當つて子供は灸を据ゑるのはいやぢやといふので、泣いたり逃げたりするのは、あきらめのつかんのである。若し又其子供が到底逃げるにも逃げられぬ場合だと思ふて、親の命ずる儘におとなしく灸を据ゑて貰ふ。是は已にあきらめたのである。併しながら、其子供が灸の痛さに堪へかねて灸を据ゑる間は絶えず精神の上に苦悶を感ずるならば、それは僅にあきらめたのみであつて、あきらめるより以上の事は出來んのである。若し又其子供が親の命ずる儘におとなしく灸を据ゑさせる許りでなく、灸を据ゑる間も何か書物でも見るとか自分でいたづら書きでもして居るとか、さういふ事をやつて居つて、灸の方を少しも苦にしないといふのは、あきらめるより以上の事をやつて居るのである。兆民居士が一年有半を著した所などは死生の問題に就てはあきらめがついて居つたやうに見えるが、あきらめがついた上で夫[やぶちゃん注:「か」。]の天命を樂しんでといふやうな樂むといふ域には至らなかつたかと思ふ。居士が病氣になつて後頻りに義太夫を聞いて、義太夫語りの評をして居る處などは稍〻わかりかけたやうであるが、まだ十分にわからぬ處がある。居士をして二三年も病氣の境涯にあらしめたならば今少しは樂しみの境涯にはいる事が出來たかも知らぬ。病氣の境涯に處しては、病氣を樂むといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。

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私は、この子規の答えには「何の面白味も」感じないし、正直、思想もない中国の似非哲人が謂いそうな「糞」のような比喩としか感じない。そのような「樂しみの境涯に」ある人間のところに古白は何故に来たって「曰來」と言うのか? 而も、それを記して告白文学として公開することが「樂しみの境涯にはいる事」であり、「病氣の境涯に處しては、病氣を樂むといふことにな」るのだと言うか? 因みに言っておくが、私は幼少時に左肩関節骨髄部結核性カリエスに罹患している。

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