子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十三年 短歌募集と「叙事文」
明治三十三年
短歌募集と「叙事文」
明治三十三年(三十四歳)[やぶちゃん注:一九〇〇年。]という年は、居士に取って重大な意義を有する年であったと思われる。従来土に根を苦していた居士の文学は、大体この年において収穫期に入った観があるからである。
「新年雑記」に新な年を迎え得たよろこびを述べて、その底に「來年の正月に逢へるか逢へぬか」という大問題が首を出していることは誰も知るまいとあるが、この間の消息は健康者の解せぬところであろう。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。国立国会図書館デジタルコレクションの俳書堂刊の「子規遺稿 第二編 子規小品文集」所載の「新年雜記」の画像で校合した。以上の「來年の正月に逢へるか逢へぬか」も本文に鍵括弧を附して出現するフレーズであるから、校訂して示したが、幾つかの底本・校合本への疑義が生じた。一つは「逢著」で、底本は「逢著」、校合本は「逢着」、しかし「子規居士」は「逢著」であり、今までの正岡子規の用例から見ても「逢著」の可能性が高いので、ここはそれで採った。次に「來年の正月」の「正月」であるが、底本は「四月」、校合本は「正月」、しかし「子規居士」は「四月」である。ここは文脈から言って私は「正月」だろうと踏んだ(無論、厄月の五月を意識して「四月」とした可能性はあるものの、「正月」の方がすっきりと腑に落ちるからである。最後の「迄は」「積りだ」の鍵括弧は校合本は錯雑があるので底本と「子規居士」に従がった。]
さて此大問題に逢著したところで「なに今年も」とやつてのける勇氣は最早なくなつた。「初曆五月の中に死ぬ日あり」とも詠んだ。しかしそれは噓だ。まだ五月なんかに終る氣遣は無い。とにかく來年の正月迄は生きるつもりだ。といつては見たが「とにかく」「迄は」「積りだ」といふ言葉を省く事が出來なかつた。
居士は前年の正月に比して身体が余計に弱ったと思うといい、元日の蜜柑の喰いようが少かったといっている。前年後半が比較的無事だったといっても、病勢はその歩を停めているはずがない。「五月の中に死ぬ日あり」は三十二年初頭の「所思」であった。例の厄月を思い浮べたので、果して「牡丹句録」前後の苦痛になって現れたが、どうにか通過することが出来た。こういう一年をうしろに背負った居士が、更に新な一年を前面に望んで、漠然たる不安を感ずるのは当然の話である。
この年になって第一に記さなければならぬものに、『日本』における和歌の募集がある。従来俳句の方には『小日本』時代を除いて、特に題を課して句を募るということはなかった。歌も「百中十首」以来、いろいろな歌が紙上に現れぬでもなかったが、その多くは居士に和して起った俳人の作であった。三十二年七月以来、短歌会の記事によって、月々の作品と研鑽の迹とを発表するようになったものの、なお居士の身辺に集る人の作品のみに局限される憾(うらみ)があった。短歌募集は歌における居士の主張が那辺(なへん)まで及んだかを見るべきものとして注目に催する。この募集は羯南翁の旧案に基くものだそうである。
前年十二月に募集され、この年の劈頭に発表された「新年雑詠」を振出しとして、「森」「桜」「読平家物語」という順序に次々と続けられて行った。「新年雑詠」に伊藤左千夫の名があり、「森」に長塚節の名が見える。「桜」に至って蕨真(けつしん)、安江秋水(やすえしゅうすい)、葯房子(やくぼうし)(鈴木豹軒(ひょうけん))らの作家が現れた。短歌募集の一事は少くとも従来短歌会に姿を見せなかった作家を、居士の身辺に引付ける効果があった。居士も「森」以後選者詠を掲げ、「桜」及「読平家物語」については、募集歌に対する批評乃至感想を述べている。
[やぶちゃん注:「蕨真(けつしん)」(明治九(一八七六)年~大正一一(一九二二)年)は歌人。本名は蕨(わらび)真一郎。正岡子規に学び、後、『馬酔木』の発刊に参加。明治四一(一九〇八)年、郷里である千葉県山武郡の自宅を発行所に、伊藤左千夫らと『阿羅々木(あららぎ)』(後の『アララギ』)を創刊した。
「安江秋水(やすえしゅうすい)」生没年は確認出来なかった。歌人で『馬酔木』創刊時の編集同人であることのみ判った。
「葯房子(やくぼうし)(鈴木豹軒(ひょうけん))」(明治九(一八七六)年~昭和三八(一九六三)年)は中国文学者で歌人。新潟県生。名は虎雄、「葯房」は別号。明治二三(一八九〇)年に上京し、第一高等学校から東京大学漢学科卒、明治三十四年、『日本新聞』に入社して陸羯南の知遇を得、後に女婿となった。明治三十六年には『台湾日日新聞』漢文欄主筆に招かれ、渡台。後、職を辞して帰朝後、京都大学助教授となり、大正八(一九一九)年には同大学教授となって、昭和一三(一九三八)年の退官まで、三十年に亙って中国文学を講じた。中国文学関連の著作が非常に多い。文化勲章授与者。]
短歌募集と並んで新に『日本』紙上に試みたのが文章の募集である。各地における歳晩歳始の記事を募ったのであったが、その結果は居士を満足せしむるものでなかった。居士はここにおいて自己の抱懐する文章上の意見を発表するの必要を感じ、「叙事文」なる題下に『日本』に連載した。叙事文の名は用いてあるけれども、実はいわゆる写生文のことで、「作者若し須磨に在らば讀者も共に須磨に在る如く感じ、作者若し眼前に美人を見居らば讀者も亦眼前に美人を見居る如く感ずる」文章の長所を力説したものである。
[やぶちゃん注:「叙事文」は『日本付録週報』の明治三三(一九〇〇)年一月二十九日・二月五日・三月十二日版新字正仮名であるが、「里実文庫」のこちらで読める。それで校合し、漢字を恣意的に正字化した。]
居士は三十一年の末に「写生、写実」なるものを『ホトトギス』に掲げ、絵画の写生を論じたことがあった。次いで写実と小説との関係に及ぶ順序で、その旨が予告してあったにかかわらず、続稿は遂に出ずに終った。文章に関する居士の意見の纏ったものとしては、「叙事文」一篇を推さなければなるまいと思う。居士は文章における虚叙(抽象的)を排し、実叙(具象的)によるべきことを主張した。虚叙は人の理性に訴えることが多いのに反し、実叙はこれを感情に訴える。「虛敍は地圖の如く実叙は繪畫の如し。地圖は大體の地勢を見るに利あれども、或る一箇所の景色を詳細に見せ且つ愉快を感ぜしむるは繪畫に如(し)く者なし」というのである。この点について虚叙と実叙との相異を実際の文章の上で示し、如何に描くべきかという方法を示すのが「叙事文」一篇の主意であった。こういう文章上の主張は、已に『ホトトギス』において実行されていたのだけれども、一般の理解するところとなるには大分の距離がある。『日本』における歳晩歳始の記事が居士を失望せしめたのは、当時としてはむしろ已むを得ぬ結果だったかも知れぬ。しかしその失望が「叙事文」一篇となって現れたことを思うと、必ずしも無意義な試みではなかった。