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2018/06/27

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年 『獺祭書屋俳句帖抄』

 

  明治三十五年

 

    『獺祭書屋俳句帖抄』

 

 明治三十五年(三十六歳)[やぶちゃん注:一九〇二年。子規の没年である。]は来た。この一月二日に唐紙を展べて福寿草を画き、それに添えた文句にもやはり偈(げ)の気味があるから、全文を引用して置く。

[やぶちゃん注:以下底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合した。割注風のポイント落ち右寄せの箇所は、読みにくくなるので、【 】で同ポイントで示した。最後の二行の【 】は「ン――ン――」の後の、一行の二行割注であることを示すもの。]

 

明治卅五年一月二日朝

 コヽアを持て來い【無風起波】

コヽア一杯飲む【小人閑居不善ヲナス】

 菓子はないかナ【佛ヲ罵ツテ已マズマタ祖ヲ呵(か)セントス】

 もなかではいかんかナ

 いかん鹽煎餅はないかナ

 ない【趙州無字】

 ン――【打タレズンバ仕合セ也】

左千夫來ル【咄牛乳屋】

 御めでたうございます

 同【健兒病兒同一筆法】

 空也せんべいを持て來ました【好魚惡餌ニ上ル】

 丁度よいところで【釣巨鼈也不妨】

空也煎餅をくふ【明イタ口ニボタ餅】

 …………

 …………【空ハ薄曇リニ曇ル何事ヲカ生ジ來ラントス】

 …………

 コヽアを持て來い……蜜柑を持て來い【蜜柑ヲ剝ク一段落】

 ン――ン――【何ラノ平和ゾシカモ大風來ラントシテ天地靜マリカヘル今

        五分時ニシテ猛虎一嘯暗雲地ヲ掩テ來ランアナオソロシ】

 

[やぶちゃん注:最初の断っておくと、「偈」風のパロディであるから、十全には私自身、理解している訳ではない。但し、「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」の暴挙を成した私には多少判るところは、ある。そういうところだけを注する。悪しからず。

「コヽア」当時、牛乳は一般に独特の臭いが好かれず、子規もココアを入れて飲んでいたらしい。しかも後に「牛乳屋」左千夫が来るのが絶妙の洒落となるのである。

「無風起波」「無門關」の「序」に、「恁麼説話、大似無風起浪好肉抉瘡。」(恁麼(いんも)の説話、大いに風無きに浪を起こし、好肉に瘡(きず)を抉るに似たり。)とある私は「ここに記した以下の説話にしてからが、全く風がないのにあたら物騒ぎな波を立てたり、美しい肌(はだえ)を抉って醜く消えない瘡(きず)をつけるような厄介なものなんである。」と訳した。

「趙州無字」「でうしうむじ(じょうしゅうむじ)」。「無門關」第一に出る、非常によく知られたぶっ飛んだ公案「趙州狗子(でうしうのくす(じょうしゅうのくす))」。趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん 七七八年~八九七年)は唐末の禅僧。「趙州和尚、因僧問、狗子還有佛性也無。州云、無。」(趙州和尚、因(ちな)みに僧、問ふ。「狗子に、還りて、佛性(ぶつしやう)有りや無しや。」と。州云く、「無。」と。)で、私は以下のように敷衍訳した。

   *

 趙州和尚が、機縁の中で、ある僧に問われた。

「犬ころ如きに、仏性、有るや!? 無しや!?」

 ――実は、この僧、嘗てこの公案に対して趙州和尚が既に、「有(ある)」という答えを得ていることを、ある人の伝手(つて)でもって事前に知っていた。――だから、その「有(ある)」という答えを既に知っている点に於いて、その公案を提示した自分は、趙州和尚よりもこの瞬間の禅機に於いて明らかな優位に立っており、その和尚が、「有(ある)」という答えや、それに類した誤魔化しでも口にしようものなら、この超然と構えている和尚を、逆にねじ込んでやろうぐらいな気持ちでいたのである[やぶちゃん注:子規の「マタ祖ヲ呵(か)セントス」とはこの僧の内実をパロったのだと私は思う。]――ところが――

 趙州和尚は、暫くして、おもむろに応えた――

「無。」

   *

である。詳しくは、「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」を読まれたい。

「打タレズンバ仕合セ也」公案を知ったかぶりしたりして増長慢になって自慢げに応じた者は警策で強かに打(う)たれるのが常。「打(ぶ)たれなかったなら、それだけ、マシ、だぜ」と子規はせせら笑うのである。

「左千夫來ル【咄牛乳屋】」割注は「チェッ! 牛乳屋かい!」。歌人伊藤左千夫は明治二二(一八八九)年から本所区茅場町(現在の墨田区江東橋)で牛乳搾取業を自営していた。ここは但し、軽蔑しているのではない。禅問答によくある、超然としたポーズの一つである。

「健兒病兒同一筆法」「兒」は「男」或いは「人」。仏から見れば人赤子、乳児である。されば、ここは「健兒」が牛乳で壮健な左千夫、「病兒」が子規で、「同一筆法」とは、そんな両極の二人が同じ言葉で年賀の挨拶をしよる、という謂いである。

「空也せんべい」ネットを調べると、塩煎餅とするが、どこのどんなものか、何故、「空也」か判らぬ。上野池の端にあった明治一七(一八八四)年の和菓子屋「空也」(現在、銀座に現存)があるが、少なくとも今は煎餅を扱っていない。識者の御教授を乞う。

「好魚惡餌ニ上ル」意味は分かるが、出典未詳。

「釣巨鼈也不妨」「巨鼈(きよべつ)釣りしなり。妨げず。」か。土産の「空也せんべい」を指すか。ここは素直ということになる。

「明イタ口ニボタ餅」『明(あ)いた口(くち)に「ぼた餅」』。

「空ハ薄曇リニ曇ル何事ヲカ生ジ來ラントス」最後の割注部とともの。年頭、既にして、子規は何か自身の不吉なものを感じているようである。どうというわけではなしに、身体変調の予兆を感じていたのかも知れない(後の本文を参照)。

「五分時」「分時」と同じくごく短い時間、あっという間の意か。

「一嘯」「いつせう(いっしょう)」。一声、吠えること。

「掩テ」「おほひて」。]

 

 年頭は比較的無事であったらしく、

 

 藥のむあとの蜜柑や寒の内

 煖爐(だんろ)たく部屋暖(あたたか)に福寿草

 繭玉や仰向にねて一人見る

 解(げ)しかぬる碧巖集や雜煮腹(ざふにばら)

 

などと詠み、上根岸へ移って来た碧梧桐氏に「移居十首」を示したりしていたが、一月十九日に至り、不安な容体になって来た。特に痛が烈しいというわけではないけれども、どことなく苦痛を感ずる。知友相踵(あいつ)いで到り、夜は必ず誰かが泊って警戒することにしたところ、二十三日には大分気分がよくなった。警戒はこの日で解かれたが、この事あって以来看護輪番を設けることになり、左千夫、碧梧桐、虚子、秀美、鼠骨、義郎の諸氏が交〻(こもごも)その任に当った。午後から出かけて行って、深更まで病牀に侍(じ)するのを例とした。

 一月十六日の『日本』紙上に短歌を募る旨が見えている。居士を中心とする少数同人の歌は、その後も引つづき『日本』「週報」に掲げられていたけれども、一般から募ることは前年一月の旋頭歌以来中絶の形であった。今度の募集は社友三人に嘱してこれに当らしむという規定で、在来のと少しく種類を異にする。一人は病中にあって閲読意の如くならざるを致し、他の一人また事情に妨げられて期日を充す能わずという理由の下に、葯房(やくぼう)氏の選歌だけが紙上に掲載されることになったから、居士もその一人ではあったのであろうが、この三人選は遂に実現せず、「週報」には依然居士の目を通した歌が連載されつつあった。

[やぶちゃん注:「葯房(やくぼう)氏」当時、『日本』の記者であった後の中国文学者で文化勲章を受章した鈴木虎雄(明治一一(一八七八)年~昭和三八(一九六三)年)の歌人としての号。ウィキの「鈴木虎雄」によれば、『新潟県西蒲原郡粟生津村(のち吉田町、現在は燕市に合併)出身』。『妻は陸羯南次女・鶴代』。『上京後、東京英語学校、東京府尋常中学、第一高等中学校で学び』、明治三三(一九〇〇)年に東京帝国大学文科大学漢学科を卒業、『同大学院中退後、日本新聞社、台湾日日新報社、東京高等師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)講師・教授などを経て』、後の明治四一(一九〇八)年に、『新設間もない』、『京都帝国大学文科大学助教授に就任』した。『日本における中国文学・文化研究(中国学)の創始者の一人で、東洋学における京都学派の発足にも寄与した、著名な弟子に吉川幸次郎と小川環樹らがいる。多くの古典漢詩を訳解を著述し、自身も漢詩を多く作』った。『他に、岳父羯南の著作や詩を収めた文集』「羯南文録」『を編んでいる』。「新聞『日本』との関わり」の項。『新聞『日本』には帝大在学中から漢詩・和歌を投稿しており、大学院中退後の』明治三二(一九〇一)年に『入社した。新聞『日本』の漢詩欄の選者で、長善館の門人だった桂湖村の勧めによる。月給は帝大出身者としては薄給の』二十五『円だった。新聞『日本』では「葯房漫艸」を連載し、病に倒れた正岡子規に代わり』、『短歌撰者を務めた。当時は寒川鼠骨と上野に同居しており、子規の「仰臥漫録」によると』、『家賃は』二円五十銭『だったという。子規の没後は根岸短歌会にも出席するようになった』。明治三六(一九〇三)年には『退社して台湾日日新報社へ移るが、日本新聞社との縁は切れず、帰国後の』明治三九(一九〇六)年に『陸羯南の娘と結婚している』とある。]

 

 一月中居士は「『獺祭書屋俳句帖抄』上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」という一篇を口述、虚子、椿堂、鼠骨の諸氏をして筆記せしめた。『獺祭書屋俳句帖抄』上巻は居士の俳句を年代別に抄出したもので、二十五年から二十九年までの分を収めている。居士はそれについて先ず自分の句を選ぶことの非常に難いことから説き起し、各年における俳句の変化などにも言及したもので、一面からいえば明治俳諧史の一部を成すことになっている。居士自身としては自分の幽霊が昔の自分の句を選ぶような心持――病牀の慰みのために、自分一個のために、多くとも十数の俳友に見せる位な心持で選ぶので、「なかなか古人を凌がうなどといふ大胆不敵な野心は持つてゐない」という。そういう心持で過去の句を一々点検した結果、「自分の句は自分が輕蔑して居つたよりも更に下等なものである」と率直に述べているのである。この文章は早速二月の『ホトトギス』に掲げられた。『獺祭書屋俳句帖抄』上巻が刊行されたのは四月になってからであった。

 この春居士は比較的多くの歌を作っている。紅梅の下に土筆などを植えた盆栽を左千夫氏から贈られては詠み、京の人から香菫(においすみれ)を贈られては詠み、碧梧桐氏が赤羽へ土筆を摘みに行くといっては詠むという風に、自在の趣を発揮している。前年山吹の歌を『墨汁一滴』に掲げた時、「粗笨鹵莽(そほんろまう)、出たらめ、むちやくちや、いかなる評も謹んで受けん。吾は只歌のやすやすと口に乘りくるがうれしくて」と附記したが、この春の歌は更に「やすやす」の度を加えているように思う。

 

 くれなゐの梅散るなべに故郷につくしつみにし春し思ほゆ

 つくし子はうま人なれやくれなゐに染めたる梅を絹傘きぬがさ)にせる

 鉢植の梅はいやしもしかれども病の床に見らく飽かなく

 春されば梅の花咲く日にうとき我枕べの梅も花咲く

 枕べに友なき時は鉢植の梅に向ひてひとり伏し居り

     ○

 赤羽根のつゝみに生ふるつくづくしのびにけらしも摘む人なしに

 赤羽根に摘み残したるつくづくし再び往かん老い朽ちぬまに

 つくづくし摘みて歸りぬ煮てや食はんひしほと酢とにひでてや食はん

 つくづくし長き短きそれもかも老いし老いざる何もかもうまき

 つくづくし故鄕(ふるさと)の野に摘みし事を思ひ出でけり異國(ことぐに)にして

 

[やぶちゃん注:「前年山吹の歌を『墨汁一滴』に掲げた時」末尾「(四月三十日)」クレジット分。例の初出で示す。

   *

病室のガラス障子より見ゆる處に裏口の木戸あり。木の傍、竹垣の内に一むらの山吹あり。此山吹もとは隣なる女の童の四五年前に一寸許りの苗を持ち來て戲れに植ゑ置きしものなるが今ははや繩もてつがぬる程になりぬ。今年も咲き咲きて既になかば散りたるけしきをながめてうたゝ歌心起りければ原稿紙を手に持ちて

  裏口の木戸のかたへの竹垣にたばねられたる

  山吹の花

  小繩もてたばねあげられ諸枝の垂れがてにす

  る山吹の花

  水汲みに往來の袖の打ち觸れて散りはじめた

  る山吹の花

  まをとめの猶わらはにて植ゑしよりいく年經

  る山吹の花

  歌の會開かんと思ふ日も過ぎて散りがたにな

  る山吹の花

  我庵をめぐらす垣根隈もおちず咲かせ見まく

  の山吹の花

  あき人も文くばり人も往きちがふ裏のわき

  の山吹の花

  春の日の雨しき降ればガラス戸の曇りて見え

  ぬ山吹の花

  ガラス戸のくもり拭へばあきらかに寐ながら

  見ゆる山吹の花

  春雨のけならべ降れば葉がくれに黃色乏しき

  山吹の花

粗笨鹵莽、出たらめ、むちやくちや、いかなる評も謹んで受けん。吾は只歌のやすやすと口に乘りくるがうれしくて。

   *

前書の「女の童」は「めのわらは」、歌の「往來」は「ゆきき」、「いく年」は「いくとせ」、「我庵」は「わがいほ」。

「粗笨鹵莽(そほんろまう)」「粗笨」は大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。粗雑。「鹵莽」は元は「塩分の多い土地と草茫々の野原・荒れ果てた土地」の意であるが、そこから転じて、前者と同じく「お粗末なこと・粗略・軽率」の意。

「ひでて」「漬(ひ)でて」。]

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