子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十三年 未完の小説、焼かぬ自像
未完の小説、焼かぬ自像
二月三月合併号を出した『ホトトギス』は、創刊以来最初の臨時増刊を発行して、これを補うことになったので、居士はそのために小説「我が病」を草することを思立った。「曼珠沙華」以来三年目の試みである。題名の示す通り、日清戦争従軍を背景にした事実に、多少の小説的色彩を点じたもので、居士の自伝的な意味をなす上からいっても、極めて珍重すべきものであるが、惜むらくは金州の舎営までで筆を投じてある。居士はこの小説において、はじめて写生文の筆法によって事実を描こうとした。「我が病」の本題たる病がまだ顔を出していない位だから、果してどれだけの長さになる予定だったかわからぬけれども、もしこれが完成していたら、恐らく居士の作中第一の長篇になったであろう。居士がこれまでに書いた小説とは、全くその世界を異にするものである。
『ホトトギス』の増刊は四月上旬に出る予定であったが、都合で六月に延期された。『日本』に出た「週刊記事」の中に
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が四字下げ。]
三月二十九日(「我病」を草す)
ともし火のもとに長ぶみ書き居れば鶯鳴きぬ夜や明けぬらん
とあるから、この時分執筆にかかっていたものであろう。『ホトトギス』の写生文なるものは、従来短篇に限られていたが、寒川鼠骨(さむかわそこつ)氏の「新囚人」が出るに及んで、漸く長きに向わんとする勢を示した。『ホトトギス』の増刊が殆ど三篇の文章によって埋められている一事を見ても、慥にこの傾向を卜(ぼく)することが出来る。但(ただし)「我が病」はこの号に間に合わなかったため、未完のまま遺(のこ)ることになってしまった。
[やぶちゃん注:「寒川鼠骨」(明治八(一八七五)年~昭和二九(一九五四)年)は正岡子規門下の俳人(子規より八つ年下で同郷)。ウィキの「寒川鼠骨」より引く。『病床の子規に侍り、遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽くした』。『元伊予松山藩士寒川朝陽(ともあき)』『の三男として、現・松山市三番町に生まれた。本名陽光(あきみつ)。号の鼠骨は粗忽に通じるという』明治二〇(一八八八)年、番町小学校から県立松山中学校に入』り、六年後、十八で『三高の前身京都第三高等中学校へ進み、河東碧梧桐・高浜虚子と同じ下宿に住んだ。碧梧桐が二つ、虚子が一つ年上で』、三『人して郷土松山の先輩正岡子規を敬い慕い、日本新聞の俳句欄へ投稿し、選者の子規の選を受けた』。三高は明治二七(一八九五)年に中退、『京都日の出新聞の記者になった。子規を慕って上京したり』、『大阪朝日新聞に勤めたりしたが』明治三一(一八九八)年、『陸羯南社長の了承と、子規の勧めで日本新聞記者になった。その時の『最も少ない報酬で最も多く最も真面目に働くのがエライ人なんだ』という子規の教えを座右の銘とした』。翌年、『田中正造を取材で知り、彼の足尾鉱毒事件への取り組みを紙面から支援した』。この明治三三(一九〇〇)年二十五歳の時、『日本新聞の社説が第』二『次山県内閣への官吏誣告罪に問われ、雑誌の署名人だったために、』十五『日間収監された』が、その体験記がここに出る「新囚人」である(翌年、出版。下線やぶちゃん)。明治三五(一九〇二)年九月、『子規の臨終を看取り、その葬儀の執行にも参画した。翌年から俳句の入門書を多く出版した。日本新聞を退いた』。大正二(一九一三)年、『山谷徳治郎の週刊紙『医海時報』の編集者にな』り、翌年には『政教社の客員となり、『日本及日本人』誌を編集した。日本新聞の俳句選者にもなった』。大正七(一九一八)年には本「子規居士」の作者『柴田宵曲を門弟とした。この年』、『ホトトギス社が始めた宝井其角の五元集の輪講会の座長となり、下谷区上根岸』三十八『(現・台東区根岸)の自宅を主会場にした。柴田に筆記・編集させ』、「其角研究」の題名で『ホトトギス』に連載した(大正一〇(一九二一)年終了)。大正一三(一九二四)年、『子規の命日の毎月』十九『日に『子規庵歌会』を催すことに定め、その記事を『日本及日本人』誌に載せ』ている。『前々からの子規庵を保存し、子規の遺業を伝える案件が』、大正一二(一九二三)年九月の『関東大震災後に具体化し、敷地買収や庵の修改築作業』を経て、昭和二(一九二七)年に『落成した。その資金』を得る目的で『アルスから出版した』のが「子規全集」全十五巻であった。『碧梧桐・虚子・香取秀真が編集委員となっているが、実務は鼠骨と宵曲と』が担当している。翌昭和三年には『子規庵の隣に移り住ん』でいる。昭和二〇(一九四五)年(七十歳)、四月の『空襲に自宅も子規庵も焼かれたが、鼠骨が提案し設計して建てた土蔵に保管した子規の遺品・稿本類は守られ』、戦後も十『月には歌会を再開した』翌年の九月に『焼跡に仮宅が建つまで』、子規庵の『斜め向かいの書道博物館に仮寓し』、毎晩、『土蔵を盗難から守った』。『生来虚弱で、直腸狭窄、腎盂炎、蛋白尿、神経痛を病んでいた』が、昭和二六(一九五一)年から『歩行困難となり、子規の行事には臥床のまま』、『参加するようになった』。昭和二九(一九五四)年、九月の『子規忌を気にしながら』、丁度、一月前の八月十八日、『肺炎のために没した』。戒名は鼠骨庵法身無相居士である。]
「我が病」は出来上らなかったが、この時分の居士は、そう病苦が甚しかったわけではない。四月中には粘土を捏ねて自像の首を造り、その首の置物台を造り、湯ざましようの器を造ったりしている。土は秀真(ほつま)氏が今戸から壺に入れて齎(もたら)したものであった。前後三日を費して自像の首を造り上げた居士は、これを缶(かん)に入れて秀真氏の許まで届けさせた。居士の考は窯で焼いてもらうつもりであったが、中が空虚になっていないから焼けにくい。首は焼かずに石膏に取ることになった。この粘土細工に関し、居士は三回にわたって歌の手紙を秀真氏に寄せている。粘土は骨が折れるせいか、画ほど永続(ながつづき)はしなかったけれども、居士はこういうものの上に直に興味を発見し得る人であった。
[やぶちゃん注:残念ながら、この子規遺作の石膏頭部像は現存しない模様であるが、「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」内の「山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵」の正岡子規「竹の里歌全集」で「自作土像(秀真へ)」六首が読める。]
病室の前に金網の大鳥籠を据えたのも、やはり四月中の出来事である。或人の庭に捨ててあったのを、浅井黙語(忠)氏の周旋で借りることになったので、亜鉛屋根のついた、円錐形の籠の中には、先ずキンバラの雄一羽、ジャガタラ雀の雌一羽、鶸(ひわ)の雄一羽が放たれた。居士はこの籠の中に五尺ばかりの李(すもも)の木を植え、来年の春花が咲いた時分に、花の中を小鳥の飛ぶ様を見るつもりであったが、小鳥は木の葉を片端からむしってしまうので、希望は全く外れてしまった。この大鳥籠の歴史――最後にカナリヤが矮雞(ちゃぼ)に変り、矮雞の声もまた病牀の居士を悩ますようになって、遂に庭隅に移されるまでの変遷は、「病牀苦語」というものに委しく述べてあるが、この大鳥籠の出現はガラス障子に次ぐ出来事であり、居士の眼を集しませることも少くなかったに相違ない。
[やぶちゃん注:「浅井黙語(忠)」洋画家。既出既注。
「キンバラ」「キンパラ」の宵曲の誤り。「病牀苦語」では子規自身ちゃんと「キンパラ」と書いている。スズメ目カエデチョウ科キンパラ(金腹)属キンパラ Lonchura atricapilla。南アジア及び東南アジアに分布する留鳥で、本邦には棲息しなかったが、明治四三(一九一〇)年頃に、東京都で野生化した群れが見つかって以降、各地で見つかっている外来種である。画像はウィキの「キンパラ」を。
「ジャガタラ雀」スズメ目カエデチョウ科キンパラ属シマキンパラ(島金腹)Lonchura
punctulata。インド・スリランカ・東南アジア・中国南部に分布するが、沖縄・神奈川で侵入が確認されている。画像はウィキの「シマキンパラ」を。
「鶸(ひわ)」スズメ目スズメ亜目スズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ亜科 Carduelinae に属する一部の種群の総称。「ヒワ」という種はいないが、知られた種としてはヒワ亜科カワラヒワ属マヒワ Carduelis spinus がいる(マヒワの画像ならはウィキの「マヒワ」で)。
「カナリヤ」スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria。
「矮雞(ちゃぼ)」言わずもがなであるが、ニワトリ(キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ Gallus gallus domesticus)の品種。画像はウィキの「チャボ(鶏)」を。
「病牀苦語」後の『ホトトギス』第五巻第八号(明治三五(一九〇二)年五月二十日発行)に掲載。「青空文庫」のこちらで、新字新仮名であるが、読める。]
四月二十九日、好晴に乗じて本所茅場町に左千夫氏を訪問することになった。左千夫氏が居士の許に来はじめたのはこの年一月の歌会からである。「人々に答ふ」の文中で「あまりの事に答へんすべも知らず」といい、「明治の世に生れてかかる言をいはるゝやうではチト賴もしからぬなり。今少し奮發して勉強せられては如何」と手厳しくやっつけられた春園は、二年後に至って居士の教を乞う人となったのであった。この日先ず到った赤木格堂氏が一足先に行くこととし、居士は秀真氏と共に車をつらねて出かけた。左千夫氏不在のため、三人で亀戸天神に詣で、再び茅場へ引返した。根岸へ帰ったのは夜半過だったらしい。この日の記事が「亀戸まで」「車上の春光」の二篇になっている。
[やぶちゃん注:「左千夫」言わずもがな、かの歌人で名品「野菊の墓」等の小説家としても知られる伊藤左千夫(元治元(一八六四)年~大正二(一九一三)年:子規より三つ年上)である。出生時は幸次郎、養子縁組した川島家から復籍して幸治郎。ここに出る「春園」は左千夫の号の一つ。農家で小学校教員の四男として上総国武射(むさ)郡殿台(とのだい)村(現在の千葉県成東町)に生まれた。明治一四(一八八一)年に政治家を志して上京、明治法律学校(明治大学の前身)に入学するも、眼病を病んで中退し、帰郷。明治十八年、再び上京して牛乳店で働いた後、明治二十二年に独立し、本所区茅場町(現在の墨田区江東橋)に牛乳搾取業を営んだ。三十歳の頃から、同業の伊藤並根に茶の湯と和歌を学び、「春園」と号した。明治三一(一八九八)年の「非新自讃歌論」などで小出粲(にいでつばら)・正岡子規と論争し、この明治三三(一九〇〇)年の『日本』に短歌三首が入選したのを機に子規に入門、師事した。根岸短歌会・万葉論講会などに加わり、写実的手法を学び、子規没後、根岸短歌会機関誌『馬酔木』を明治三十六年に創刊、明治四十一年一月に同誌を廃刊すると、同年十月に創刊された『アララギ』に協力し、翌年には自宅をその発行所とし、編集兼発行者として中心的立場に立った。『アララギ』の基盤を作り、後進の育成に当たった功績は大きい。他に写生文二十四篇・小説三十篇を残している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「人々に答ふ」国立国会図書館デジタルコレクションの上と同じ画像のこちらで視認出来る。新字であるが、電子化したものなら、「青空文庫」のこちらで読める。「あまりの事に答へんすべも知らず」「明治の世に生れてかかる言をいはるゝやうではチト賴もしからぬなり。今少し奮發して勉強せられては如何」という激烈な一撃は「其十二」の中の一節。ここ。
「赤木格堂」(あかきかくどう 明治一二(一八七九)年~昭和二三(一九四八)年)はジャーナリスト・俳人で衆議院議員。ウィキの「赤木格堂」によれば、『本名は亀一』(かめいち)。『岡山県児島郡小串村(現在の岡山市南区)出身』で、『東京専門学校(現在の早稲田大学)に在学中、正岡子規に俳句を師事し、『日本附録週報』の代選を任せられた』。明治三五(一九〇二)年に『卒業した後は、『九州日報』の主筆を務め』、『その後、フランスに』三『年間留学し、植民政策学を専攻した』。『さらに雑誌『青年日本』を経営し、『国民新聞』『大阪朝日新聞』に寄稿し』、大正六(一九一七)年、『衆議院議員補欠選挙に立候補し、当選を果たした』。『その後、『山陽新報』主筆に就任し』、『小串村長も務めた』とある。
「亀戸まで」「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」内の「山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵」の正岡子規「竹の里歌全集」のこちらで読める。
「車上の春光」「青空文庫」のこちらで読める(但し、新字新仮名)。]
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