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2018/06/14

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 書中落涙

 

     書中落涙

 

 二月十二日、居士は熊本の漱石氏宛に長文の手紙したためた。病中の心境をこまごまと述べたもので、「決して人に見せてくれ玉ふな。若し他人に見られてハ困ると思ふて書留にしたのだから」と断ってあるが、惻々(そくそく)として人を動かすところが多い。羯南翁に関する左の一節の如きは、特に看過すべからざる文字である。

[やぶちゃん注:「惻々として」身にしみて感ずるさま。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後一行空けた。前の引用を含め、「子規居士」で校合した。特異的にカタカナ表記の「子規居士」版を採り、約物「ヿ」(コト)も採用した。異様な長さのリーダもそのままである。底本は十字分(三十点)しか打たれていない。]

 

『日本』ハ賣レヌ、『ホトヽキス』ハ賣レル。陸氏ハ僕ニ新聞ノヿヲ時々イフ(コレハ只材料ヤ體裁ナドノヿ)ケレドモ僕ニ書ケトハハイハヌ。『ホトヽキス』ヲ妬(ねた)ムトイフヤウナヿハ少シモナイ。僕ガ『ホトヽキス』ノタメニ忙シイトイフヿ十分知ツテ居ル故………………………………………………………………………………………………(此間落泪(らくるい))

僕ニ『日本』ヘ書ケトハイトハイハヌ、ソウ[やぶちゃん注:ママ。]シテイツデモ『ホトヽキス』ノ繁昌スル方法ナドヲイフ。ソレデ正直イフト『日本』ハ今賣高一萬以下ナノダッカラネ(賣高ノヿハ人ニイフテ呉レ玉フナ)。僕カライヘバ『日本』ハ正妻で『ホトヽキス』ハ權妻(ごんさい)トイフワケデアルノニ、トカク權妻ノ方ヘ善ク通フトイフ次第ダカラ『日本』ヘ對シテ面目ガナイ。ソレデ陸氏ノ言ヲ思ヒ出スイツモ淚ガ出ルノダ。德ノ上カライフテ此樣ナ人ハ餘リ類ガナイト思フ。(其陸ガ六人目ニ得タ長男ヲ失ツテ今日ガ葬式デアツタノダ、天公(てんこう)是カ非カナンテイフ處ダネ)

 

 居士が社会の人となって以来、『日本新聞』社員として終始した所以のものは、何よりも羯南翁の徳に感じたところが大きかったろうと思う。羯南翁と居士との関係は、普通一般の社長対社員の如きものでなかったのは勿論、性格が合うとか、意見が一致するとかいう点で結ばれているものでもない。もっと深い情の契合(けいごう)であった。夜半この一書をしたためるに当り、掲南翁の事を思い浮べて覚えず落涙するというところに、津々(しんしん)として尽きざる情味が窺われる。

[やぶちゃん注:「契合(けいごう)」合わせた割り符のように、二つの対象が完全にぴったりと一致すること。

「津々(しんしん)として」つぎつぎと溢れ出てきて、尽きることがないさま。

 次の段落の引用も同前の処置をした。]

 

 同じ手紙の中に

 

『日本』ヘ少シ書ク。歌ノ方ヲ少シ研究スルト歌ニノリ氣が出來テ俳句ノ方ヘ少シ疎遠ニナル(貴兄ノ謠ト俳句ト兩方ヘハトイツタヤウナ處デモアラウ)。二月分ノ『ホトヽキス』ノ原稿ハマダ一枚モ出來ンノダ。察シテクレ玉ヘ、僕ガコノ無氣力デ此後一週間位ノ間ニ『ホトヽキス』ヲ書イテシマハネバナラヌト思フテ前途ヲ望ンダ時ノ僕ノ胸中ヲ。

 

といウことが書いてある。『ホトトギス』二月号は遅延のため遂に休刊し、三月号と合併して出すことになった。居士はこの号のために「糞の句」「奇想変調録」「一句一題」その他、比較的多くの原稿を寄せたが、これを境界として『ホトトギス』に居士の名を見ることが少くなった。「俳句分類」もこの号限りで出なくなっている。歌に力を用いるようになった結果、俳句の方に疎遠になったところもあるかも知れぬが、それよりも居士の健康が以前のように諸事を併行(へいこう)しむるわけに行かなくなったためだろうと思われる。

 『日本』には短歌会記事や募集短歌の外に、「短歌愚考」「『草径集』を読む」「『磐之屋歌集』を読む」など、歌に関するものがぽつぽつ現れた。『草径集』は大隈言道(おおくまことみち)、『磐之屋集』は丸山作楽(まるやまさくら)の歌集である。作楽は居士が当代の歌において、僅に敬意を払い得た一人であった。「要するに氏は歌人にあらず、從つて其歌變化に乏し。然れども飽くまで『万葉』の高きを學びて今の世に得難き佳什(かじゅう)を残したるは却て其歌人ならざりしがためのみ」といっている。

 当時の歌人の畠には居士を満足せしむる者は見当らなかったのである。

[やぶちゃん注:「大隈言道」(寛政一〇(一七九八)年~慶応四(一八六八)年)は江戸後期の歌人。福岡の商家の出。

「丸山作楽」(天保一一(一八四〇)年~明治三二(一八九九)年)は外交官・実業家・政治家。江戸生。島原藩士の長男。漢学・洋学を修め、国学を平田鉄胤に学び、影響を受けた。勤王の志士とともに国事に奔走、。明治二(一八七〇)年には外務大丞として樺太でロシアと交渉した。しかし、同四年、征韓論に同調して、一時、投獄されている。明治十五年には「立憲帝政党」を組織して、日本帝国憲法や皇室典範の制定に参画した。明治二〇(一八八七)年のアメリカ外遊後、元老院議官・貴族院議員となった。万葉調の歌人としても知られる。

「佳什」優れた詩歌。立派な文学作品。「什」は「詩経」の「雅」(「詩経」の六(りくぎ:同書に於ける六種の分類。内容上の分類に相当する「風」・「雅」・「頌しょう)」、及び、表現上の分類に相当する「賦 」・「比」・「興きょう)」の六部立) の一つ。周王朝の儀式や宴席でうたわれた詩歌。大雅・小雅に分かれる。)と「頌」(しょう:同じく「詩経」の六義 の一つ。祖先を祀った宗廟そうびょう)に於いて祖先の徳を讃える詩)の十篇をいう「篇什」に基づく語で、「詩篇」の意。]

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