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2018/06/24

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十四年  歌また歌

 

     歌また歌

 

 五月十三日、左千夫氏に与えた居士の書簡に「藤の歌山吹のうた歌又歌歌よみ人に我なりにけり」という歌がある。前年末に作りた「雪」の旋頭歌を新年の『日本』に揚げて以来、居士は殆どその歌を示さなかったが、四月二十八日に至って

 

 瓶(かめ)にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり

 

の歌にはじまる藤の十首が先ず「墨汁一滴」に現れた。これに端を発して、山吹の歌、岩手の孝子の歌、かしわ餅の歌、ほととぎすの歌という風に、十首ずつの短歌が引つづき発表されたが、五月四日の「しひて筆を取りて」という一連の歌がその中の絶唱であろう。

[やぶちゃん注:名吟「瓶(かめ)にさす」の載るそれを以下に初出(国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子)で示す。私は中学二年の時、この一首を詠んで落涙するほどの感銘を覚えたのを忘れない。

   *

夕餉したゝめ了りて仰向に寢ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有樣なり。艷にもうつくしきかなとひとりごちつゝそゞろに物語の昔などしぬばるゝにつけてあやしくも歌心なん催されける。斯道には日頃うとくなりまさりたればおぼつかなくも筆を取りて

  甁にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上

  にとゞかざりけり

  甁にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上

  に垂れたり

  藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみか

  どの昔こひしも

  藤なみの花をし見れば紫の繪の具取り出で寫

  さんと思ふ

  藤なみの花の紫繪にかゝばこき紫にかくべか

  りけり

  甁にさす藤の花ぶさ花垂れて病の牀に春暮れ

  んとす

  去年の春龜戸に藤を見しことを今藤を見て思

  ひいでつも

  くれなゐの牡丹の花にさきだちて藤の紫咲き

  いでにけり

  この藤は早く咲きたり龜井戸の藤咲かまくは

  十日まり後

  八入折の酒にひたせばしをれたる藤なみの花

  よみがへり咲く

おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日頃稀なる心やりなりけり。をかしき春の一夜や。

   *

「十日まり後」は「とをかまりのち」で音数律合わせのために「十日あまり後」を約したもの。「八入折の酒」「やしほりのさけ」で上代語。「何度も繰り返して醸(かも)した芳醇な酒」のこと。「八醞」「八塩折」或いは「やしぼり」と濁って読んだりもする。]

 

 佐保神の別れかなしも來ん春にふたゝび逢はんわれならなくに

 いちはつの花咲きいでゝ我目には今年ばかりの春行かんとす

 病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花を見れば悲しも

 世の中は常なきものと我愛づる山吹の花散りにけるかも

 別れ行く春のかたみと藤波の花の長ふさ繪にかけるかも

 夕顏の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我いのちかも

 くれなゐの薔薇ふゝみぬ我病いやまさるべき時のしるしに

 薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽摘みし昔おもほゆ

 若松の芽だちの綠長き日を夕かたまけて熱いでにけり

 いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を蒔かしむ

 

 居士はこの歌の終(おわり)に「心弱くとこそ人の見るらめ」の一語を加えている。暮春の情と病牀の居士と、庭の風物とが渾然として一つのものになっていること、この一連の如きは少い。藤の歌の中にも「藤なみの花をし見れば紫の繪の具取り出で寫さんと思ふ」「藤なみの花の紫繪にかゝばこき紫にかくべかりけり」とあり、ここにまた「藤波の花の長ふさ繪にかけるかも」とあるが、この藤を画(えが)いて歌を題したものが今でも遺っている。紅の薔薇のふふむにつけても、五月という厄月(やくづき)の到ることを思い、夕顔の棚を作ろうとしながらも、秋まで持つべき命であるかということを念頭に浮べる。しかも居士は秋の草花の種を庭に蒔かしめ、命あらばそれを見ようとしているのである。この一連の歌を誦(しょう)して、居士の心持を直に身に感ぜぬというならば、その人は畢(つい)に詩を談ずるに足る人ではない。

[やぶちゃん注:「佐保神」(さほがみ(さおがみ))は「佐保姫」とも称し、春を司る神の名。奈良の都の東方には佐保山があったが(現在の奈良市佐法蓮佐保山附近であるが、開発が徹底的に進行してしまい、山の面影はない。ここ(グーグル・マップ・データ))、この方角は五行説で春に当たることに由来する。

「いちはつ」一初。単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属イチハツ Iris tectorum。屋根菖蒲。種小名 tectorum (テクトルム)はラテン語で「屋根の」の意味。和名はアヤメ類の中で一番先に咲くことに由来する。

「ふゝみぬ」蕾が膨らんだ。

「薩摩下駄」駒下駄に似た形を成すが、台の幅が広く、白い太めの緒をすげた男性用の下駄。多くは杉材で作る。

「いたつき」「勞(いたつき)」は病気。

「知らに」万葉以来の連語。「知る」の未然形に打消の助動詞「ず」の古型の連用形「に」が付いたもの。「知らないで・知らないので」であるが、ここは「知らず」がよかろう。

この藤を画いて歌を題したものが今でも遺っている」不詳。ネット上では捜し得なかった。

 

 五月九日の「墨汁一滴」にはこういうことが書いてある。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

 

今になりて思ひ得たる事あり、これ迄余が橫臥せるに拘らず割合に多くの食物を消化し得たるは咀嚼の力與(あづか)つて多きに居りし事を。嚙みたるが上にも嚙み、和らげたるが上に和らげ、粥さへ嚙み得らるゝだけは嚙みしが如き、あながち偶然の癖にはあらざりき。斯く嚙み嚙みたるためにや、咀嚼に最(もつとも)必要なる第一の臼齒左右共にやうやうに傷(そこな)はれて此頃は痛み強く少しにても上下の齒をあはす事出來難くなりぬ。かくなりては極めて柔かなるものも嚙まずに呑み込まざるべからず。嚙まずに呑み込めば美味を感ぜざるのみならず、膓胃直に痛みて痙攣を起す。是に於いて衛生上の營養と快心的の娯樂と一時に奪ひ去られ、衰弱頓に加はり晝夜悶々、忽ち例の問題は起る「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」

 

 次の長短歌はこの文章の末に記されたものである。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が四字下げ、初出では二字下げであるが、長歌が不具合を生ずるので、特異的に完全に行頭に上げて示した。なお、「虫」は初出のママ。]

 

さへづるやから臼なす、奥の齒は虫ばみけらし、はたつ物魚をもくはえず、木の實をば嚙みても痛む、武藏野の甘菜辛菜を、粥汁にまぜても煮ねば、いや白けに我つく息の、ほそり行くかも

下總の結城の里ゆ送り來し春の鶉をくはん齒もがも

菅の根の永き一日を飯もくはず知る人も來ずくらしかねつも

 

 居士の唯一の療養法は「うまい物を食う」にあった。この「うまい物」は多年の経験との一時の情況とによって定(さだま)るので、他人の容喙(ようかい)[やぶちゃん注:横から他人が口を出すこと。]を許さぬ底(てい)のものであったが、この療養法によって居士は垂死の病軀に一脈の活気を注入し、力を文学の上に伸(のば)し得たのである。かつて『ホトトギス』の「消息」において、一流の御馳走論を述べたこともあった。その御馳走を摂るべき第一関門たる歯が傷(そこな)われたのでは、居士の病牀生活は暗澹たらざるを得ない。「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」という歎声も、決して誇張の言ではないのである。

[やぶちゃん注:「さへづるやから臼なす」よく判らぬが、食事をするために口を動かすことを「さへづる」とし、咀嚼しようとしてみるのだけれど、ああっ!(間投助詞「や」)私の「臼」歯は役立たずで「から」(空)踏みするばかりの意か。「から臼」は「唐臼」を前提として「空」を掛けていよう。

「はたつもの」「畑つ物」で「はたけつもの」に同じ。粟・稗・麦・豆などの畑から穫れる農作物のこと(「つ」は「の」の意の上代の格助詞)。対義語は「たなつもの」(穀つ物)で対語的には稲を限定的に指す(但し、これは広く前者を含めた穀類を指す語でもある)。

「武藏野の甘菜辛菜を、粥汁にまぜても煮ねば、いや白けに我つく息の」やはりよく判らぬが、全く咀嚼が不能になった結果、「粥汁」には「武藏野の甘菜辛菜を」「まぜても煮」ることが出来なくなったので(噛み切れぬから)、いや! 何とまあ! 何の美味そうな混ぜものもない「白」ら「け」きった熱い白粥、それを口に含んでは「我つく」落胆の溜「息の」白さ(粥の温度が高いから五月でも白い息となる)よ! という意味か。]

 

 「墨汁一滴」から会心の条を摘記(てっき)して行くとなれば、まだまだ容易に尽くべくもないが、三十四年には他に記さなければならぬものを控えているので、遺憾ながら割愛して先へ進もうと思う。「墨汁一滴」の稿は七月二日まで続いた。終らんとするに先って不折氏洋行の事があり、数日を費して送別の辞を述べた。『小日本』の条に記した不折氏との最初の会見の事なども、この文中にある。

[やぶちゃん注:「『小日本』の条に記した不折氏との最初の会見の事」明治二十七年の「『小日本』創刊の章のこと。初会のエピソードは六月二十五日クレジットの条に書かれてあり、そこから六月三十日までが中村不折の送別の記となっていて、短い七月一日と二日の記事で「墨汁一滴」は終わっている。漱石洋行に続く盟友の洋行(渡仏。不折の帰国は明治三八(一九〇五)年、で漱石同様、子規の死の床には居合わせることが出来なかった)といった友人の勇躍せんとして旅立つそれは、再び逢えないという感懐も含めて、子規にとっては非常に辛く淋しいものであったことは、彼の送別の語りや詩歌によって判り切ったことではあるが、強烈な芸術家意識を持った彼にはそれ故にこそ、激烈に耐え難いことだったのである。

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