ブログ・アクセス百十万突破記念 梅崎春生 熊本弁
[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年八月号『新潮』に発表された。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第四巻」(昭和五九(一九八四)年刊)を用いた。
謂わずもがなであるが、梅崎春生は熊本五高出身である。また、事実上の主役である「川路」は「関門海峡の某島」(伏せてある)で第二次世界大戦中に兵役に就き、「いじめられ」たと語るところは、春生自身の戦争体験と美事にダブっており、川路が作者の分身の一人でもある印象を与える。
本作のメイン・ロケーションは梅崎春生自身をモデルとする主人公「ぼく」の「信州の山居」であるが、梅崎春生も昭和三二(一九五七)年の夏、蓼科高原に別荘を新築し、それ以降、概ね、毎夏をここで過ごし、か「蓼科大王」と呼ばれた。
また、作中、引用される(小説中への俳句の引用というのは梅崎春生にしては非常に珍しい)杉田久女(ひさじょ 明治二三(一八九〇)年~昭和二一(一九四六)年)の句は、大正九(一九二〇)年八月の信州での「信州吟」(病中吟ともに百六十五句の句群)の中の初めの方にある一句で、これらは大正九年八月に信州松本に久女の実父の骨を納骨に行った際(恐らくは二人の子を連れて)の嘱目吟である。この直後、彼女は腎臓病を発症し、東京上野の実家へ戻って入院加療に入り、そのまま実家で療養に入った(この時、専ら、久女側からの意志で、夫杉田宇内(旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で画家)との離婚問題が生じた)。この時の夫との別居は約一年に及んでいる(小倉への帰還は大正十年七月)。久女は結婚後の大半を小倉で過ごし、福岡県立筑紫保養院で亡くなっており、福岡生まれの梅崎春生は、ある種の親和性を彼女に抱いていたことが、ここから判る。私は久女を偏愛し、彼女の全句集(ブログ版・PDF縦書版他)や小説・随筆もブログ(先のリンク先)で手掛けているので、興味のある方は見られたい。
文中で主人公の「ぼく」が、「雅楽」の「型の一つに、背をやや前屈し片袖で顔をおおうようなのがあった」と述べているが、これは雅楽ではなく、能の「シオリ」を指しているように思われる。泣いていることを表わす所作で、指を伸ばした手を、顔より少し離れた前方へ、目を覆うように上げて、零れる涙を押さえる動きを指す。
「ぼく」が学生時代に語学が不得手だったと述べるシーンがあるが、春生自身、語学が苦手だったかどうかはさておき、遺作「幻化」の中の印象的なシークエンスの末尾に、主人公「五郎」がドイツ語の単位を落として落第したというエピソードが出る(リンク先は私のブログ版電子化注の当該部分。なお、梅崎春生も事実、熊本五高で三年進級に落第してダブっている)のを、私は思い出した。
後半、「去年の十月、ぼくは自宅の階段からずっこけて背骨を打ち、しばらく静養した」と出るが、これも事実で、昭和三七(一九六二)年十月、子どもふざけていて転倒し、第十二胸椎を圧迫骨折し、さらにギックリ腰になって難渋した。本作はその翌年夏の発表だから、謂わば、非常に共時性の強い作品であることも判る。
後半で「ぐれはまな」という語を川路は使うが、これは熊本弁ではない。「ぐりはま」の転訛で、貝の「はまぐり」(蛤)を用いた古来からの「貝合わせ」の遊びからきた江戸言葉(東京方言)で、「食い違うこと」や「あてが外れること」を意味する。サイト「日本語俗語辞書」のこちらによれば、『貝の中でもハマグリは殻がしっかりし、形状が波形なため、もともと一緒だった殻同士でないとピッタリと合わないことから』「貝合わせ」に『用いられた。そして、ピッタリ合わなかったものを』「ぐりはま」『(ハマグリの倒置)と呼び、『蛤』をそのまま』百八十度』回転させた(逆さにした)漢字も存在した。ここから』、「貝合わせ」に『関係なく、先述のような意味で』「ぐりはま」が『使われるようにな』り、また、『後にこれが訛った』「ぐれはま」という『言葉が使われるようになり、現在も使われる『ぐれる』という動詞に通じ』ている、とある。この川路の謂いは、自身の性格についての謂いであり、寧ろ、今の「グレる」と同じ用法であるように思われる。
本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが百十万アクセスを突破した記念として公開する。【2018年6月15日 藪野直史】]
熊本弁
川路君のことについて書こうと思う。彼は酔っぱらうと、よく熊本弁を使った。初対面でいっしょに飲んだ時、ぼくは彼が熊本出身者だとばかり思っていたほどだ。
川路をぼくの信州の山居(というより山小屋に近い)に伴って来たのは、大和君という年少の旧友だ。大和は昔ある出版社に勤めていて、そこで友達になった。何故友達になったかというと、大和は酒飲みで、そんな縁からだったと思う。酒の酔い方、飲みっぷりが、つまりぼくの肌に合ったのだ。その出版社は間もなくつぶれた。が、大和との交友は続いた。
前ぶれもなく彼等が信州にやって来たのは、八月の終りか、九月に入っていたかも知れない。
紫陽花(あじさい)に秋冷いたる信濃かな
という杉田久女の句があるが、まさしく秋冷という感じの気候の頃だった。盛夏なら避暑客や登山族でいっぱいになるけれど、その頃は宿も割にすいていて、二人は一部屋を確保し、荷物を置いてぼくの山小屋にやって来たのだ。松虫草がたくさん生えている斜面の径(みち)をごそごそと登って来て、大和が窓から首を出した。ぼくはびっくりして昼寝の姿勢から起き上った。
「やあ。ごめん下さい。これ、川路てんです」
大和は恐縮してそばの男を紹介した。
「ぼくの友達で、H大学でフランス語を教えています」
川路はまぶしそうな表情で頭を下げた。ちょっとふしぎな印象を受けた。体の割りに頭が大きい。いや、頭の割りに体が小さく瘦せているのである。愁(うれ)いを含んだ眼で、そのくせいつも顔はわらっているように見えた。
も少し山の上にある先輩を訪ねて行くというので、
「では帰りに寄りなさいよ。洒とビールを用意しとくから」
と大和に言ったら、川路はからかうような声で、
「何だ。君の大酒飲みは、こんなところにまで響き渡っているのか」
と笑った。それでぼくは何となく川路という人は酒をたしなまないんだなと思ってしまった。
夕方二人は山からぼくの小屋に降りて来た。遠慮する二人を招じ入れて、卓についた。ゴザを敷いた粗末な板の間で、彼等はきちんと坐る。いくら膝をくずしなさいと勧めても、遠慮してくずさない。ビールが二本目にかかった頃、やっとあぐらをかいた。
酒は飲まないとの予想で、ぼくは川路のために、肉や塩魚や山菜などの手料理を用意していた。ところが川路は飲むのである。グイグイと言うより、ゴシゴシとコップを口に持って行く。ぼくは言った。
「大和君を大酒飲みだとからかっていたが、君も案外飲むじゃないか」
「こいつ、ぼくより大酒飲みなんですよ」
大和がかわって説明した。川路はにやにやと笑って頭をかいた。
一時間ほどしたら、二人ともがくんと酔ってしまった。天気にたとえると、黄昏(たそがれ)というものが短いのである。素面(しらふ)の白光から、突如として酔いの闇に入るようなものだ。大和はだいたいそんな酔い方をするが、川路のもそれと同じだった。類は友を呼ぶのか。
「わしゃ九州人は好かんですたい」
ぼくが九州の福岡出身と判ると、川路の表情が一瞬動いた。そしてそう応じた。
「何故好かんのかね?」
ぼくは訊ねた。ぼくも少しは酔っていた。
「どぎゃんもこぎゃんもなかですたい。好かんもんは好かん」
「こいつ、酔うと、すぐ熊本弁が出るんです」
大和が傍から口を出した。
「おい。川路。まだ熊本弁は早いぞ」
「よか。よか。お前は口ば出すな」
川路は手を振った。
「ビールじゃいっちょん酔わん。はよ酒ば出してくだはりまっせ」
彼は熊本弁をやめなかった。うるさいほどそれに執した。やがて二人は完全に酔っぱらって、宿に戻るというので、懐中電燈を貸してやり、それでも心配なのでぼくも下まで降りることにした。ぼくの懐中電燈の光の輪の中で、山道を降りる川路の頭が、ラッキョウを逆さにした具合にぐらぐらと揺れる。
「よか月ですなあ」
ぐらぐらしているくせに、川路は天を仰いでそんな嘆声を上げる。
「星がむごうたくさん見ゆるばい」
だから足を取られて、両三度辷(すべ)り転んだ。たすけ起すと、川路の腕はなよなよとして細かった。宿の玄関まで送り届けて、ぼくは小径をのぼり、小屋に戻って来た。板の間で飲み直した。
二人は翌日の正午頃、また山小星に訪ねて来た。ぼくは丁度(ちょうど)起きたばかりで、小屋の外で歯ブラシを使っていた。
ぼくは雅楽を実際には見たことがない。しかしテレビでは見たことがある。その型の一つに、背をやや前屈し片袖で顔をおおうようなのがあった。川路と大和はそれと同じ恰好(かっこう)で、背広の袖で顔をかくすようにしながら、小径を登って来た。日射しをさけるためでなく、上から見ているぼくの視線をはばかってである。
「昨夜はたいへん失礼しました」
「それにたいへん御馳走になりまして」
と、こもごもしおらしげに挨拶をした。昨夜の酔態をてれているのである。小屋の前の平たい岩に腰をおろして、しばらく雑談をした。
「川路君は熊本県のどこの出身だね?」
昨夜問い忘れたことを、ぼくは訊ねてみた。
「ぼくは熊本出身じゃありません。中国地方の――」
「でも熊本弁が使えるじゃないか。熊本に住んだことがあるの?」
「いえ。軍隊で半年ほど――」
召集されて関門海峡の某島に勤務していた。その隊の大半が熊本出身者で占められていて、そこで覚えたのだという。ぼくは熊本に四年住んだことがあるが、熊本弁をほとんど使えない。たった半年の経験で、少々おかしいところもあるが、とにかく使いこなせるのは大したもんだ。それを言うと、川路は気弱そうに笑いながら答えた。
「ええ。ずいぶんいじめられましたからねえ」
その体で兵隊勤めはつらかっただろうと考えたが、それは口に出さなかった。
それから二人で先輩の家に行くと言うので、
「夕方には寄りなさいよ。また洒の用意をして置くから」
「ありがとうございます。でもあの肉はイヤですよ」
「なぜ?」
「あれ、馬の肉だそうじゃないですか。今朝宿の主人に聞きましたよ。どうも味がへんだと思っていた」
「馬肉はきらいなのかい? もりもり食べたじゃないか」
ここら地方では、肉というとおおむね馬肉のことなのである。
「好き嫌いの問題じゃありませんよ。肉を食うなんて、それじゃあ馬が可哀そうだ」
川路は頭をかかえた。
「ぽくに食われた馬が、気の毒でしょうがない」
「気にしない。気にしない」
と大和が川路の肩をたたいてなぐさめた。大和は馬肉の件では平気らしい。
「さあ出かけようよ」
川路は頭から手を外し、ていねいな挨拶をして、二人は小径を登って行った。案外冗談や誇張が好きな男だと、その後ろ姿を見送りながらぼくは思った。
夕方、待っていたがやって来ないので、馬肉をさかなにして、ビールを飲み始めた。三本ほど飲んでも、まだまだ姿を見せない。昨夜のことで遠慮して、まっすぐ宿に戻ったんじゃないか。そう思って山道を降り、宿の玄関で女中に訊ねると、
「そのお二人さんなら、バーの方にいらっしゃいます」
バーヘ行くと二人はたのしそうにしゃべりながら、酒を飲んでいる。ぼくの姿を見ると、ぴょんと止り木から飛び降りてあわてて挨拶をした。
「こんなところで飲んでいるのか。来るかと思って待ってたんだよ」
「ええ。毎晩々々お世話になるのも悪いと思いまして――」
もうそろそろ酔っている。
「それで遠慮をばいたしました」
「仕方がないね。ではぼくもここで飲むとするか」
実を言うと、ぼくも独り酒に飽きて、相手が欲しかったのである。席を卓の方に移して、川魚などをさかなにして飲み始めた。ホームグラウンドだから、彼等は昨夜ほど急激に酔いはしない。それでもだんだん回って来て、また熊本の話になった。
「四年間も住んでいて熊本弁をしゃべれないなんて、何ちゅうことですか」
川路はぼくにからんだ。
「あんたはきっと学生の時、語学が不得手だっただろ」
「そうだね。得意じゃなかったな」
「そうだろ。そうだろ」
川路は合点々々をした。
「わしの学生でも、語学が下手なのは、とかく不器用なのが多かですたい」
「何を言う。君だって不器用じゃないか。昨夜も三四度転んだよ」
「そら慣れん山道だけん、仕方なかです」
「軍隊でも君はうまくやれたとは、ぼくは思わないな」
「軍隊?」
川路の表情は歪んだ。
「軍隊の話はやめましょう」
その中にバーの閉店時刻が来て、ぼくは外に出、彼等は部屋に戻った。ふらふら歩いている中に、帽子を忘れたことに気がついて宿に戻る。バーはしまっているので、二人の部星に行き、ノックもせず入って行くと、二人とも寝床にあぐらをかいて、ウィスキーを汲み交していた。
「あっ。いけねえ」
れいの雅楽の型で顔をかくした。さっき別れ際に、あんまり深酒するんじゃないよ、と先輩面して忠告したばかりなのである。二人はバーの閉店時刻を承知していて、部屋に予備のをかくしていたらしい。
翌朝九時頃、二人はリュックサックをかついで、わが山居にやって来た。酔うと無頼になるけれども、素面(しらふ)だと彼等は借りて来た猫みたいにおとなしい。
「いろいろお世話になりました」
これから東京に戻るのでおいとま乞いに参ったと言う。
「ちょっと上れよ。昨日用意したビールや料理が手つかずで残っているから」
「でも昨晩は、酒は飲むなと――」
「そうは言わないよ。深酒はするなと言っただけだ」
宿酔気分で迎え酒をやろうかと思っていたところなので、リュックを手繰り寄せ、強引に部屋に引き上げた。彼等は観念したかどうかは知らないが、顔を見合わせて、のこのこと上って来た。そこでビールの栓を抜いた。
「いい景色ですなあ」
一本ずつあけた時、川路が窓の外を見て言った。顔がいくらか赤くなっている。迎え酒だから、よくきくのだ。
「今まで景色を眺めなかったのか」
ぼくはあきれて言った。
「一体この三日間、何をしてたんだね?」
「え? ええ」
川路は大和の顔を見た。
「おれたち、何をしてたかなあ」
「うん」
大和も腕を組んで、何かを考え出そうという表情になった。
「東京の暑さにぼけてしまったんじゃないか」
ぽくはビール瓶を買物籠に五六本詰め込んだ。ついでにさかなも。
「いい景色のところに連れてって上げる。そこで飲みましょう」
山小屋から十五分ほど登ると、通称見晴し台という場所がある。三百六十度が見渡せる大景観で、アルプスや八ヶ岳やその他の諸山、平地、湖などが見える。さすがの二人も感心したらしく、ビール瓶をぶら下げたまま、しばらく佇立(ちょりつ)していた。ややあって川路が言った。
「いい景色だなあ。一体ここは何県ですか?」
「おい、おい。バカな質問はよせよ。長野県にきまってるじゃないか」
大和がたしなめて、ぼくに弁解した。
「ここに来る汽車の中で飲みつづけだったんで、すこし見当が狂っているんです」
「そうだ。長野県だった」
川路は芝草に腰をおろして、ビール瓶の口飲みをした。秋風が川路の長い髪の毛に吹いてばらばらにする。男のくせに絹糸みたいに柔かい毛だった。
持参したビールはそこで全部平らげ、ぼくの山居に戻り、二人はリュックを背負った。
「おみやげにこれを持って行きます」
と、松虫草の花を一つずつ手折り、胸にさした。ぼくはその二人をバスの停留場まで送って行った。
四五日経って大和から礼状が来た。同封の大和夫人の文章では、
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げとなっているが、ブラウザでの不具合を考え、無視した。]
御礼、遅れて申しわけございません。なんですか、川路氏とうちのダンナがお邪魔に上りましたそうで、こちらへ着くと、帰還祝いだか何だか新宿でしこたま飲んで、わが家の玄関をあけて入るなり「最高だった」「大感激」「そりやもう大変なもんだった」等々まるでもう天国から帰ったようなはしゃぎようで、揚句のはて私の感激のしようが足りないと怒り出す始末。日頃モテない男が、たまにもてなしを受けると、こうなんだからイヤんなっちゃいます。
云々とあった。三日も家をあけた照れかくしの気分もあったのだろう。
今年の一月の末、大和から電話がかかった。川路と同行、お見舞いに参上したいと言うのである。そしてその翌日、二人はつれだってやって来た。早速酒を出した。
「背骨をいためたというのに、酒飲んでもいいんですか?」
率先してぼくが飲み始めたので、大和が心配そうに言った。
「いいんだよ。骨と酒とは関係ないよ」
「しかし深酒はいけませんよ。おやじもそう言ってました」
去年の十月、ぼくは自宅の階段からずっこけて背骨を打ち、しばらく静養した。見舞いとはそのことである。
「おやじさんって、お医者さんかね?」
「ええ。元軍医です」
川路君の顔は昨年の夏にくらべて、いくらか暗鬱で力なく見えた。それを言うと、
「ええ。学校の方が忙しいんでね、くたびれているんです」
軍医のことから軍隊の話になった。昨夏のようなグイグイ飲みでなく、盃(さかずき)をあけるピッチが遅い。
「軍隊じゃいじめられましたよ」
熊本県出身の下士官や古兵にひどいいじめ方をされた。それはそうだろうと、ぼくは思う。こんなひよわな体格で、重量物も持ち上げられないし、動作だって不器用だ。軍隊に適するわけがない。しかし古兵にとっては、怠けている、さぼっているという風に見られ勝ちなものだ。そこで徹底的にいじめられる。軍隊とはそういうところだ。半年経ってとうとう病気になり、除隊になった。
その頃のラジオは、朝の起床ラッパから放送が始まる。それが耳に入ると、除隊の身分も忘れて、川路はがばとはね起きる。母親はそれを見て、
「そんなにまで苦労したのかい。じゃラジオのつけ放しはやめる」
と涙ぐんだそうだ。母親の話をしている頃から、だんだん盃のピッチが早くなった。
「そうか。そりやたいへんだったねえ」
「ひでえしくじりですたい」
そろそろ熊本弁が出始めた。
「そんなにいじめられたんなら、熊本弁は聞きたくもないし、またしゃべりたくなくなるのが普通だろう」
ぼくも盃をかさねながら言った。
「君は逆だね」
「逆ですかね」
川路の眼は一瞬するどく光った。それは何かひたむきな執念のようなものを、ぼくに感じさせた。
「でも酔うと、すぐそうなっちゃうんですよ。わしゃあもともと、ぐれはまな性分のごたるな」
そこらあたりを境にして、川路はがくんと酔ったらしい。歩いて帰れそうにないので、家内がハイヤーを呼んで、二人を押し込んだ。
それから五日ほど経って、大和夫人から電話がかかった。
「川路さんが突然亡くなられたそうです」
ぼくは愕然とした。
「え? 何で?」
「何か判りませんけれど、知らせを受けて大和はすっ飛んで行きました。くわしいことが判ったら、またお知らせします」
電話を切って、ぼくは部屋中をうろうろと歩き回った。そして思いついてH大学の事務局に電話をかけた。事故死だということが判った。
その夜ひとりで酒を飲みながら、川路のことを考えていると、急に涙が出て来た。ごまかすために、鉛筆を持って来て、弔電(ちょうでん)の文章を考えて、原稿用紙に書きつけた。
『カワジクン、キミハ……』
彼の家族とは面識ないので、どうしても川路に呼びかける文章になる。書きながら、
「こんなキザな電報を――」
と思ったり、
「弔電を打っても意味ないじゃないか」
と考えたが、結局電話を通じて打ってしまった。何かしめくくりのようなものがないと、やり切れなかったのである。
それから二週間後、大和から手紙が来た。
[やぶちゃん注:以下も、底本では全体が一字下げであるが、先と同様に処理した。]
啓上
その節は大へん御馳走になりまして、御礼の言葉も失したまま、御無沙汰いたしました。
そこへ突然の川路君の急死で、あなたも奥様もびっくりなさったことと存じます。ぼくも、今もって何をするにつけ、あの人が出てきてやり切れません。実感が来ないというよりも、いつもそこにいるようで、かないません。
それにしても、あなたとは川路君はへんな御縁だったと思います。一度どっかへ逃げたいな、というので、ぼくが信州へ連れ、その三日間というものおもてなしにあずかりまして、川路君にしても、とても楽しかったようでした。今年の夏も是非、と楽しみにしていたところなのです。あの夜も、あんなに愉快そうにはしゃいだ彼を、ぼくはめったに見たことはありません。
こちらも御好意に甘えっぱなしで、今度はこちらでまたお礼しなければ、など二人で話し合っていたのです。奥様に車を呼んでいただき、渋谷で降りようと川路君が誘って、二人でバーを一軒のみました。その夜は、川路君宅へ泊ってしまいました。
翌朝、二日酔いながら気分はよろしく、ひる近くまでブドウ酒をのみ、あなたの噂話など、川路夫人にお喋りして、別れたのが最後でした。
それから事故のあった二月二日まで、あまり酒はやらなかったようです。試験の採点で忙しく、過労の極にあったとききました。あの人は、教師としてはマジメでしたので、採点も疲れるまでじっくり見たようです。
二日夜、パリで知り合ったS紙の政治部長とかいう人に、あちらでお世話になったからと、一席もうけられ、その何軒目かに、銀座の何とかビルの二階にある、何とかいうバーヘ連れて行かれたのだそうです。弟というのがS紙の政治部にいて、つまり弟さんの上司なわけです。弟も同席していれば、とこれはあとになって思うことですが、途中で弟さんが電話で「そろそろ迎えに行くから」といったのに、川路君は「大丈夫だ、もうじき帰るから来なくてもいい」と返事したんだそうです。もう例の熊本弁が出ていたので、弟は定量へきてるよ、とは考えたそうですが。弟が迎えに来る間に、階段から落ちました。
相手が目上の人だったのと、はじめてのバー(高級)だったことなどで、酒をコロシテのんでいたのではないか、と奥さんはいっていました。階段のことを失念して、バーから一歩目が道だと錯覚したんじゃないか、と弟さんはいっていました。
急な階段で(多分、新宿なんかのと違い、コンクリートの硬いやつなんでしょう)真逆さまだったようで、すぐ救急車で京橋病院へ担ぎこまれもう(十二時二十分)意識不明で、翌三日午後六時、絶命とか。奥さんはすぐ駈けつけたそうです。その間、何度もすごい(聞いてはいられない)うめき声をあげ、そして大量の血を何度も吐いたそうです。脳の骨(脳底骨とか?)が折れ、もうどうにもダメで、はじめはわからなくて、翌日(三日)脳手術をして判明したんだそうですが、医者も、こんな運の悪い骨折の人はいない、と奥さんにいったそうです。外傷、何一つなしで。
呼吸が絶えても心臓はしばらく動いていたそうです。頭だけぐんぐんふくらんでいったそうです。
出棺の時、見ました。いつもの二日酔いの朝の眠っている顔でした。
どうもくどくどと書きなぐつてしまいました。一言御報告をと思いながら乱文おゆるし下さい。葬式には、二百人近くの沢山の人が来ていました。小学生一年の男の子と幼稚園の妹と、めずらしそうに、ひょこひょこ庭を、はねていました。奥さんは大学でぼくの二年後輩で、川路君とは、高女での教え子だったんです。泣けないといっていました。ただ、遺体に向って、「ばかやろう!」と一言いいたいだけだ、といっていました。
ほんとうに、死ぬというのが、こんなにあっけないものかと、おどろいています。
何か、ぼくなんかの分を、代表でやってしまってくれたような、いたたまれない悲しい気持です。
川路君と深いつき合いはなかったが、彼の死はひどくぼくにこたえた。若い人の死はつらい。それはぼくの歳のせいかとも思う。
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