諸國里人談卷之二 姥石
○姥石(うばいし)
越中國立山國見坂のうへ、「姥が懷(ふところ)」に姥石と云あり。むかし、若狹國小濱(おばま)に「止宇呂尼(とうろに)」といふ女僧(あま)ありける。元より、當山は女人結界の地なるを、「推(おし)て參らん」とはかりて、壯(さう)の女一人、童女(どうによ)一人伴ひけるが、湯川(ゆ〔かは〕)の上にて、此壯女、忽(たちまち)、化(け)して杉の木となれり。是を「美女杉」と云〔いへ〕り。彼童女、怖(おそれ)て進み得ず。老女、尿(いばり)をしながら、此體(てい)を見て、大きに怒詈(いかりのゝし)る。その尿の跡、穴となりて、深き事、幾許(いくばく)といふを知らず。國見坂のうへに至る時、俄に、兩角(りやうづの)、生(お)ひて、忽(たちまち)、石と成ル。「姥石」、是也。件(くだん)の兩角は、什宝として今にありと云〔いふ〕。
[やぶちゃん注:「越中國立山國見坂」は、この附近と推定した(グーグル・マップ・データ)が、実はこの石、永く不明であったものが、何と、四年前の二〇一四年(調査は二〇一〇年開始で「姥石」発見は記事を読むに二〇一三年のこと)に、ずっと下方の「弥陀ヶ原」(ここ(グーグル・マップ・データ)。富山県中新川郡立山町芦峅寺(あしくらじ))で発見されていることが、個人ブログ「学芸員の部屋」の『立山で「禅定道」が確認され、「姥石」が発見されるというニュース』によって判った。そこで記事(二〇一四年二月十九日附『北日本新聞』)が翻刻されているので、引用させて貰うと、『江戸時代に立山信仰で使われた旧登拝道、いわゆる「禅定道」跡が立山の千寿ケ原から雄山山頂の間で確認され』、十八『日に県民会館で開かれた立山・黒部山岳遺跡調査指導委員会(委員長・黒崎直富山大名誉教授)で報告された。禅定道は明治期の略地図などで存在は知られていたが、ルートを特定する遺構は見つかっていなかった。調査に当たった県埋蔵文化財センターの久々忠義主任専門員は「登拝ルートの全貌が明らかになり、当時の信仰登山の様子が具体的に分かる」と話している』とあり、以下、『「弥陀ヶ原で姥石発見」の見出しにつづいて』(←これはブログ主の添書き)、『調査は立山・黒部地域の世界文化遺産登録に向けた資料収集を目的に』、五『年計画で実施。禅定道は千寿ケ原から雄山山頂までの約』二十『キロで』、四『年目の本年度は、千寿ケ原-天狗平間約』十三『キロを調べた。過去の調査と合わせ、ルート沿線にあったとされる雄山神社の末社』三十六『ヶ所のうち』、二十七『ヶ所を確認。ブナ平や弥陀ヶ原では、くぼ地となった幅』四十~六十『センチの登拝道跡も見つけた』。『さらに弥陀ヶ原では立山曼荼羅に描かれた姥石(うばいし)を発見した。女人禁制を犯して入山した尼が罰を受けて石になったといういわれがあり、江戸時代には信仰登山の人々が訪れる名所となっていた。姥石のくぼみには高さ』五十九センチ、幅二十五センチ『の石仏が置かれ、「右うはいし道」などの文字が刻まれていた』(下線太字やぶちゃん)。『材木坂と美女平の間、美女杉坂下では江戸時代末期に金沢の町人が禅定道用に寄進した地蔵石仏も確認した。最終年の』二〇一四『年度は、弥陀ヶ原などの現地調査や剱岳山頂遺跡の測量などを行う』とある。さらに『読売新聞』の記事が引かれ、そこには『同センターが昨年』八『月、立山有料道路近くの沢筋にある廃道「姥ヶ懐道」の標高』千九百七十九メートルで『発見した。石は縦』二・五メートル、横二・二メート
ル、高さ一・八メートル。『石の上のくぼみには』、天明三(一七八三)年の銘がある高さ』五十九『センチの石仏が安置されていた。石仏は錫杖(しゃくじょう)と宝珠を持つ地蔵立像。光背には「天明三卯六月廿四日 右うはいし道」の文字が刻まれており、姥ヶ懐道は当時、「姥石道」と呼ばれていた可能性があるという』。『同センターによると、この石は』一九六〇年、『奈良国立博物館長だった石田茂作博士が調査し、石仏が上に安置された石のスケッチを残していたが、その後』、『所在がわからなくなっていた』。『同委員会にオブザーバーとして出席した米原寛・前立山博物館長は「すばらしい発見」と評価し、「道標があるということは、もう一本道があるはず」と指摘した』とある。添えられた写真の『富山新聞』(二〇一四年二月十九日附)の見出しは『曼荼羅の「姥石」確認』とある。なお、個人サイト「犬の擴野」の「諸國里人談」の本条の掲載ページには、『若狭国小浜は八百比丘尼の産地だ。「止宇呂」はトウロもしくはシウロと訓める。シウロならば白に通じ、八百比丘尼の別名である白比丘尼を暗に指しているとも思える。止宇呂尼は幼女、壮女を連れ』、『三世代(少女・中女・老女)で行動しており、イメージとして【全年齢】を統べる存在であり、故に年齢を超越しているようにも見える』というサイト主の考察が示されており、これはすこぶる示唆に富むものと言える。因みに、別に富山県宇奈月町に「姥石」があるという個人記事をネットで見かけたが、現認出来ない。
「湯川(ゆ〔かは〕)」現在、湯川という川は弥陀ヶ原のかなり南方を流れている川の名として現存するのであるが、私はこれは立山の温泉水が流れる川のことを指しており、弥陀ヶ原から上流の川をこう呼んでいるものと推察する。
「兩角は、什宝として今にあり」「什宝」と言うのに、寺社が記されていない。前に出した富山県宇奈月町に「姥石」があるというのなら、鬼女と化した尼のその角もその近くにありそうなもんだが?]