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2018/06/08

諸國里人談卷之二 京女郞 田舍女郞

 

    ○京女郞 【一の嶋山にはあらず。よほどほなれて二ケ所にあり。】

     田舍女郞

讚岐の沖に、「京の女郞」・「田舍の女郞」といふ石あり。嶋山の尾崎(をさき)に、人の立〔たち〕たるがごとし。遠くより見れば、「京の女郞」といふは、官女の姿に似たり。「田舍の女郞」は賤しき女の立たるがごとし。其所に至りて見れば、姿・貌(かたち)もなく、たゞ、いふばかりなき大きなる巖(いはほ)なり。海上、凡〔およそ〕半里ばかりより見ゆる。其貌(そのかたち)、現然たり。

[やぶちゃん注:「ちょっと今は」と、現存を期待しないで検索を掛けたところが、豈図らんや! あった! サイト「日本の島へ行こう」の「京の上臈島・局島」だ! ここだ!(グーグル・マップ・データ。小豆島の大きな一島(豊島)を隔てた本土(岡山県)にかなり近い香川県香川郡直島町(なおしまちょう)にある直島諸島の二島である)先のサイトによれば、「京の上臈(﨟)島(きょうのじょうろうじま)」は、恐ろしや! 別名「屍島(しかばねじま)」じゃど! 面積は三百四十平方メートルで周囲二・六キロの無人島とある。この島は南に浮かぶ大きな有人島である直島の重石ノ鼻の北約一キロの海上に浮かび、標高は五十七メートルで、『花崗岩の露出が多く、古くは採石場として利用され』、『また、海岸からは古代製塩遺跡も見つかってい』るとある。『京の上臈島周辺は小島が多く、屏風七浦と呼ばれ』、『穏やかで風光明媚な場所で』あるが、『中世には海賊が多く出没したり、浅瀬も多く航行する船には難所として知られてい』たという。『ここで命を落とした人も数多くいたようで、別名「屍島」とも呼ばれ、いろいろな伝説が語られてい』るとする。さても、ここに、本文の名の二つの岩が登場するのだ! 『島の南端に「京の女郎岩」と「田舎の女郎岩」と呼ばれる岩があ』るが、①これは配流された『崇徳上皇に仕えた女郎のなかに』、『仲の悪い二人がいて、この島を訪れても諍(いさか)いが絶えなかったので』、『石にされてしまった』と、まずプレ怪談があって、一方、別の由来が複数続くのである(但し、崇徳上皇が流された場所は香川県坂出市林田町で(雲井御所跡が現存)、ちょっとここからは位置が離れている。(グーグル・マップ・データ))。②『昔、児島半島に暮らす三兄弟がいて、京に交代で仕事に出かけてい』たが、『長兄は京で結婚、次男は田舎で妻を娶り、交代で家を空ける生活』を送っていた。『そのうち、それぞれの妻は夫の行動に疑念を抱くようになり、嫉妬が募り、失望し』、遂に『島で身を投げてしま』った。『そのことを知った兄弟は不憫に思い、身を投げた海岸に女の形をした石を建てて供養した。近くを行き交う船は石を見て「京の女郎」「田舎の女郎」と言うようになり、いつの間にか』、『この島を京の上臈島と呼ぶようになった』というものである。他にもまた、②『玉野市南部にある渋川八幡宮』((グーグル・マップ・データ))『には「浜の神さん」と呼ばれる祠があ』るが、『仕事で京に出かけた男が、そこで恋仲になった女を連れて渋川へ帰る途中、女を島へ置き去りにしてしま』った。『男は村に妻がいたのか、それとも遊びだったのか』判らぬが、ともかくも『女が邪魔になった』のであった。『数日後、女は躯(むくろ)となって渋川の浜へ流れ着き、村人が念仏をあげて何度も沖へ流してや』ったが、翌日には、また、『戻ってきてしまう。話を聞いた男は』、『自分が置き去りにした女だと気づき、後悔して祠を建てて女を弔った』という。さらに、③『この島に棲む女郎蜘蛛が美女に化けて、近くを通った船を沈めて船人の生血を吸った。という恐ろしい話もあり、この島には江戸後期の勤皇画家と言われる佐藤正持による妖怪圧伏の石碑まである』らしい、と記されてある。沾涼が、この怪奇談を知っていたら、漏らさず、詳しく記していただろうに! ちょっと残念!

 リンク先によれば、二つの岩は「京の上臈島」の南の端にある。「京の女郎岩」は個人ブログ「アウトドアdeプチ家出」のぽかぽか日和のシーカヤックで大きな画像()で見られるが(う~む、確かに! なんとなく艶なり!)「田舎の女郎岩」はネット検索を掛けても今のところ、画像が見当たらない。見つけた追加する。序でに、今一つの「局島」(「京の女郎岩」と「田舎の女郎岩」の南西九百メートル沖合に浮かぶ)も崇徳上皇絡みの命名とあり、上皇が『この島を見て「お局さまが北枕でお休みになっているようだ」と』言ったことに由来すると、先の「京の上臈島・局島」にあることを言い添えておく。沾涼の最後の謂いからすると、両岩は二キロほど離れた海上から見た時に、それらしく見えると言っているようである。]

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