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2018/06/04

諸國里人談卷之一 雷鳥

 

    ○雷鳥(らいのとり)

越(こし)のしら山に「雷の鳥」と云〔いふ〕あり。「雷(かみなり)をくらふ鳥」と云〔いへ〕り。貌(かたち)、雉子(きじ)に似たり。

 しら山の松の木陰にかくろいてやすらにすめる雷(らい)の鳥かな

此歌を書〔かき〕て家内に呈すれば、其所〔そこ〕に雷(らい)の難、あらず、と云り。

○越後國古志(こし)郡國上山〔くがみやま〕の寺に塔を造るに、三度、雷のために、破れたり。白山の開山泰澄和尙、塔の傍(かたはら)に座して、法華を誦(じゆ)すれば、大きに雷(らい)し、雲中(うんちう)より、一童男(どうなん)、かしら、おどろのごとくにして、縛られ落(おち)て、和尚に赦(しや)を乞(こひ)て曰(いはく)、

「我は山の地神(ぢしん)なり。塔ある時は住所(ぢうしよ)なし。故(かるがゆへ)にこれを壞(へ)すなり。」

于ㇾ時(ときに)、泰澄曰、

「此山に、水なし。汝、冷泉を出すべし。又、方四十里、雷(らい)の聲を、なすべからず。」

跪(ひざまずき)て諾(だく)す。卽(すなはち)、縛(しばり)を解く。

神童、指を以〔もつて〕、石巖(せきがん)を鑿(ほ)るに、淸泉、涌出(ゆしゆつ)す。

又、方四十里に、雷霆(らいてい)、せず。

此二つの事、今に至(いたつ)て、かはらず。

○泰澄は越前麻生津(あしやうづ)の産、父は安角、母は伊野氏なり。夢に、白玉、懷中に入ると見て、孕(はらめ)り。白鳳十一年、誕(たん)ず。世俗、「越(こし)の大德(だいとこ)」と稱せり。平日、頭(かうべ)のうへに金(こがね)の光り、現ず、と也。病(やまひ)あるもの、其(その)鉢(はち)の飯(いゝ)を食すれば、痙(い)えずといふ事、なし。常に鬼神をつかふと云(いへり)。

[やぶちゃん注:やはり特異的に改行を施して読み易くした。

「雷鳥」鳥綱キジ目キジ科ライチョウ属ライチョウ亜種ライチョウLagopus muta japonica ウィキの「ライチョウによれば、日本(本州中部)固有亜種であり、飛騨山脈・赤石山脈・火打山・焼山・乗鞍岳・御嶽山で繁殖する。以前は木曽山脈・白山(はくさん:本文の「越(こし)のしら山」。石川県白山市と岐阜県大野郡白川村に跨る標高二千七百二メートルの山)・八ヶ岳などにも分布していた。日本国内に於ける現在の分布北限は新潟県頸城山塊の火打山と焼山で、分布南限は赤石山脈(南アルプス)のイザルガ岳。なお、北海道にはエゾライチョウ属Tetrastesのエゾライチョウが棲息する。北海道に Lagopus 属が棲息していない理由は分かっていない。『江戸時代以前の文献では蓼科山、八ヶ岳、白山』『にライチョウが生息していたと記録されているが、現在は生息していない』。』天敵の一つである『猛禽類の天敵を避けるため』、『朝夕のほかに雷の鳴るような空模様で活発に活動することが名前の由来と言われているが』、『実際のところははっきりしていない。古くは「らいの鳥」と呼ばれており』、『江戸時代より火難、雷難よけの信仰があったが』、『「らい」がはじめから「雷」を指していたかは不明である』。『ヨーロッパや北アメリカでライチョウ類は重要な狩猟対象の鳥として古くから利用されていて、信仰の対象として崇められていた日本とは対照的である』。『文献上での最初の登場は』、ここで挙げられた正治二(一二〇〇)年に纏められた「夫木和歌抄」の中の、『後白河法皇が詠んだ「しら山の松の木陰にかくろひてやすらにすめるらいの鳥かな」と』、『従二位藤原家隆が詠んだ「あわれなり越の白根にすむ鳥も松をたのみて夜をあかすらむ」で、当時の白山登山者から伝わった話が京の、後白河法皇に伝わり、「らいの鳥」の名で詠んだとされている』。『江戸時代初期に中国の明から渡来した高泉性敦が『鶆(らい)』を著した名称も用いらるようになった』。正徳元(一七一一)年に『加賀藩がライチョウを見た白山と立山の登拝者から調査した』記録では、『「らいの鳥」が用いられ』ており、享保五(一七二〇)年の『調査では「らいの鳥」と「雷鳥」の両方が用いられていた』。『江戸時代には立山、白山、御嶽山にライチョウが生息していることが、登拝者により広く知られていて、江戸時代後期に牧野貞幹が『野鳥写生図』でライチョウのオスとメスを写生し』、『「鶆鳥」と表記し、毛利梅園が『毛利禽譜』で白山のライチョウのオスと雛を写生し』、『「雷鳥」と表記している』。安永八(一七七九)年に『葛山源吾兵衛の『木の下陰』などにあるように』、『長野県の諏訪地域や上伊那地域では「岩鳥」と呼ばれていて』、天保五(一八三四)年の『『信濃奇勝録』の乗鞍岳のものには「がんてう」の振り仮名が付けられていた』。文化一〇(一八一三)年『の小原文英による『白山紀行』の写生図では「雷鳥」と「鶆鳥」の両方を記している』。『地方名では富山県で「閑古鳥」、木曽の御嶽山で「御鳥」などの記録がある』。『日本のライチョウに学名Lagopus muta japonica が付けられたのは』明治四〇(一九〇七)年で、大正五~七年(一九一六年~一九一八年)に刊行された百科事典「広文庫」で『「雷鳥に鶆に作るは誤、本邦の神鳥にして支那になし」と記載され、「雷鳥(ライチョウ)」の名称が一般的となった』、『現在は和名で『ライチョウ』と表記され、識別のために日本の亜種が「ニホンライチョウ」と表記される場合がある』。『日本のライチョウは江戸時代までは信仰の対象として保護されていたが、明治時代に一時乱獲され』、その後、『法律で保護され』、『現在に至っている』。『江戸時代よりずっと以前から山岳信仰登拝者に知られ、神秘性を帯びた「神の使者」の鳥とされて』きた経緯があり、『江戸時代』『以前は、宗教的な殺生禁断の戒律により』、『人により捕獲されることは少なかったと考えられている』とある。私の亡き山の先輩は若い頃(と言っても無論、違法)、ライチョウの子を焼いて食べたことがあり、非常に美味かった、と言っていたのを思い出した。

「越後國古志(こし)郡國上〔くがみ〕山の寺」「國上山」は新潟県燕市国上(くがみ)にある標高三一二・八メートルの国上山(くがみやま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。弥彦山の南。俗に弥彦山脈と呼ばれる山並みの南端に位置する。「寺」は山頂から約一キロメートル弱南の中腹にある越後最古の古刹とされる真言宗雲高山(うんこうざん)国上寺(こくじょうじ)。和銅二(七〇九)年、越後一の宮弥彦大神の託宣によって建立されたとされる。ここ(グーグル・マップ・データ)。詳しい沿革は同寺の公式サイト内のこちらが詳しいが、慈覚大師円仁・源義経・上杉謙信及び良寛(晩年の三十年間、ここの五合庵に住み、最晩年はこの麓の乙子神社境内社務所へ、最後は島崎村(現在の長岡市)木村元右エ門の邸内に移った)所縁の寺でもある。この寺については、以前、北越奇談 巻之六 人物 其二(酒呑童子・鬼女「ヤサブロウバサ」)の注で書いたが、面白いことがある。それは、ある意味、ここに登場する、妖しい雷神みたような化け物とどこか親和性があるので、再掲しておくと、何と、この寺は、かの酒呑童子(のモデルというべきか)が少年の頃、この寺で過ごし、修行をしたというのである。地元の民草は彼を鬼と見做し、彼らが棲む「穴」を「鬼穴」と称したという伝承がkeiko氏のブログ「自分に還る。」の『酒呑童子~越後から大江山へ●国上寺「酒呑童子絵巻」から』に載っている。この題名にもある通り、国上寺には「大江山酒呑童子繪卷」とともに寺の縁起が残されており、そこには酒呑童子の生い立ちがくわしく記されているという。「能面ホームページ」のこちらによれば、『恒武天皇の皇子桃園親王が、流罪となってこの地へ来たとき、従者としてやってきた砂子塚の城主石瀬俊網が、妻と共にこの地にきて、子がなかったので信濃戸隠山に参拝祈願したところ懐妊し、三年間母の胎内にあってようやく生まれた。幼名は外道丸、手のつけられない乱暴者だったので、国上寺へ稚児としてあずけられ』た。『外道丸は美貌の持ち主で、それゆえに多くの女性たちに恋慕された』が、『外道丸に恋した娘たちが、次々と死ぬという噂が立ち、外道丸がこれまでにもらった恋文を焼きすてようとしたところ、煙がたちこめ』、『煙にまかれて気を失』ってしまう。『しばらくして気がついたとき、外道丸の姿は見るも無惨な鬼にかわってしま』っており、遂に『外道丸は身をおどらせ』、『戸隠山の方へ姿を』消し、後に『丹波の大江山に移り』住んだとあるという。どうです? そこはかとなく、響き合うでしょ?!

「白山の開山泰澄和尙」泰澄(たいちょう 天武天皇一一(六八二)年~神護景雲元(七六七)年)は奈良時代の修験道の僧で当時の越前国(後に加賀国に移る)の白山を開山したと伝えられる。ウィキの「泰澄によれば、『越前国麻生津(福井市南部)にて、豪族三神安角(みかみのやすずみ)の次男として生まれ』、十四歳で『出家し、法澄と名乗』った。『越智山にのぼり、十一面観音を念じて修行を積』み、大宝二(七〇二)年、『文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ、豊原寺を建立する。その後養老元』(七一七)年、『越前国の白山にのぼり』、『妙理大菩薩を感得した』。『同年、平泉寺を建立する。養老』三『年からは越前国を離れ、各地にて仏教の布教活動を行』い、養老六年、『元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜った』。天平九(七三七)年には『流行した疱瘡を収束させた功により、孝謙仙洞重祚』によって『称徳天皇に即位』した折りには、『正一位大僧正位を賜り』、この時、『泰澄に改名した』『と伝えられる』とある。

「法華」「法華經」。

「一ツ童男(どうなん)、かしら、おどろのごとくにして、縛られ落(おち)て」一人の、髪をおどろおどろしく大童に振り乱した、奇怪な男が、縛られたままに落ちてきて。無論、謂わずもがな、この呪縛と転落は、泰澄の法華経誦経による呪力によるものである。

「越前麻生津(あしやうづ)」現在の福井市三十八社町(さんじゅうはっしゃちょう)。生誕地として現在、真言宗白鳳山泰澄寺がある。(グーグル・マップ・データ)。

「父は安角」ネット上の諸記載によれば、土地の豪族で水運業を営んでいたともされる三神安角(みかみやすずみ)。高句麗から渡来した亡命帰化人ともされる。

「母は伊野氏」不詳。

「白鳳十一年」六七一年。ウィキの記載より十一年早い。

「平日、頭(かうべ)のうへに金(こがね)の光り、現ず」何時も、頭部の上に後光が射していたというのである。

「其(その)鉢(はち)」僧として布施を受ける鉄鉢(てっぱつ)。

「痙」「癒」に同じ。]

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