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2018/06/02

諸國里人談卷之一 大佛 (その一 奈良大仏)

    ○大佛

南都、東大寺は、聖武帝の御願なり。天平(てんぺい)十五年、近江國滋樂(しがらき)におゐて、大佛を造り、同十六年に、佛像、成就す。大寺を建(たて)て、安置す。天平十七年、南都にこれを遷(うつす)。

番匠(ばんじやう)【稻部百世〔いなべのももよ〕・益田繩手〔ますだのなはて〕。】 佛工【國公麿〔くにのきみまろ〕。】 冶工(いものし)【柿本男玉〔かきのもとのおだま〕・高市眞國〔たけちのおほくに〕・高市眞麿〔たけちのままろ〕。】

[やぶちゃん注:「麿」は原典では③も①も「广」の中に「呂」であるが、表記出来ないので「麿」とした。因みに吉川弘文館随筆大成版も『麿』である。]

開元(かいげん)道師 婆羅門僧正 咒願師(じゆぐわんじ) 行基僧正

天平勝宝四年四月九日供養 天子行幸

 道師 婆羅門〔ばらもん〕僧正 咒願師 道璿〔だうせん〕律師

[やぶちゃん注:「璿」は③も①も(つくり)の上部が崩しで判然としないため、漢字を確定出来ない。ここは仕方なく、吉川弘文館随筆大成版の字をそこに当てた。この僧の名前の漢字としてはこれで正しい。しかし、この字に似た字(異体字・別字を含む)はワンサカあり、この字で沾涼が本当に書いているのかどうかは、正直、判らぬと私は思う。]

大佛座像高 五丈三尺五寸

[やぶちゃん注:以下、底本では上下二段になっているが、ブラウザの不具合を考え、上下から左右の順に一段で示した。]

 面長(おもてさげ)一丈六尺【廣〔ひろさ〕九尺五寸】

 眉(まゆ) 五尺四寸五分

 目〔め〕長〔ながさ〕三尺九寸

 口 三尺七寸

 鼻(はな)長三尺【穴徑〔あなのわたり〕一尺】

 頸(うなじ) 二尺六寸五分

 耳(みゝ)長八尺五寸

 螺髮(らほつ) 九百六十六【高〔たかさ〕一尺】

 頤(おとがひ)長一尺六寸

 肩徑(かたのわたり) 二丈八尺七寸

 胸(むね)長二丈九尺

 腹(はら)長 一丈三尺

 肘(ひぢ)ヨリ腕(うで)一丈五尺

 臂(ひぢ) 一丈九尺

 掌長(たなごゝろ) 一丈三尺

 中指(なかゆび) 五尺【周〔めぐ〕り四尺五寸】

 脛(はぎ)長二丈三尺八寸

 膝厚(ひざのあつさ) 七尺

 膝前徑(ひざのまへのわたり)三丈九尺

 足裏(あしのうら)一丈三尺

土蓮花(れんげ)【周〔めぐり〕三十四丈七尺・高八尺】

 蓮花銅座【徑・六丈八尺 高・一丈】

花【二百八十枚・周二十一丈四尺】

 基(もと)周り二十三丈九尺

○治承四年十二月廿八日、平重衡(たひらのしげひら)の兵火(ひようくは[やぶちゃん注:ママ。])によつて灰燼となる。

後白河法皇、源賴朝公幷〔ならびに〕俊乘坊重源(しゆんじやうばうちやうげん)に勅して再興。重源、諸國を勸化(くわんげ)し、大佛殿本尊、悉(ことごとく)成

建久六年三月十二日、供養。

 道師 權僧正覚憲 咒願師 權僧正勝賢(しやうけん)

後鳥羽院、行幸。源賴朝上洛。

 番匠【物部爲里・櫻嶋國宗】 佛師【康慶・運慶・定覚・快慶】

 冶工(いものし)【宋ノ陳和桂・草部是助】

   佛を鑄(いる)金銅(こがねあかゞね)の入用

[やぶちゃん注:以下、底本では上下二段になっているが、ブラウザの不具合を考え、上下から左右の順に一段で示した。]

黃金(わうごん) 一万四百三十六兩

唐銅(からかね) 七十三萬九千五百六十斤

水銀(みづかね) 五万八千六百二十兩

白鑞(はくろう) 一万二千六百二十斤

金箔 十五万枚

炭  一萬六千六百五十六石

○永祿十年、松永彈正兵火によつて回祿して、御頭(みくび)、燒落(やけおち)たり。當國(とうごく)の畫工山田道安といふ者、財宝を抛(なげうち)て、これを補(おぎのう)。延宝の頃、當寺の僧、龍松院殿(りうしやうゐんでん)、造立(ざうりう)の大願をおこして、勅許、命(たいめい)を奉(うけたまは)り、諸國を勸進して堂を立(たつ)

釿始(てをのはじめ)、千僧供羪(くやう)。貞享五年四月二日、棟上(むねあげ)、宝永二年四月十日。堂供羪、宝永六年四月八日。

別號は城大寺(じやうだいじ) 大華嚴寺(だいけごんじ) 恆説華嚴寺(こうせつけごんじ) 國分寺 金光明四天王護國之寺(こんかうめうしてんおうごこく〔の〕てら)【三論華嚴八宗兼學。】

[やぶちゃん注:本「○大佛」の項は以上の奈良の東大寺の大仏の後に、今はない京都の方広寺大仏(本書刊行時の寛保三(一七四三)年には三代目の木造大仏があった)の条が続くしかし、それで終わりで、並んで然るべき鎌倉の大仏(現在の大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)の阿弥陀如来坐像)が載っていないのは頗る不審が、ここではそれを分離して示した。なお、東大寺の大仏殿の図と思われる「大仏」の挿絵が、の左上部に載る(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースの画像)。

「南都、東大寺は、聖武帝の御願なり」「東大寺」公式サイトの「東大寺の歴史」の記載によれば(下線やぶちゃん)、七~八『世紀の東洋の世界は、唐を中心に善隣友好の国際関係が昇華した時代であった。当時の唐朝は道教を信奉したが、同時に仏教も振興し、帰化僧による仏教聖典の漢訳の盛行もそのひとつの現れであり、各地で仏教寺院が建立され、それぞれの国家の安寧と隆昌を祈願させた』。『これらの政策が、わが国で聖武天皇が天平』一三(七四一)年に、『国分・国分尼寺建立の詔を発する範となったことは周知のところである』。『奈良時代は華やかな時代であると同時に、政変・』旱魃『・飢饉・凶作・大地震・天然痘の大流行などが相次ぎ、惨憺たる時代であった。このような混乱の中、神亀元年』(七二四年)『二月、聖武天皇が』二十四『歳で即位し、待ちのぞんでいた皇太子基親王が神亀四年』(七二七年)十月五日に誕生する。しかし、神亀五(七二八)年九月十三日、『基親王は一歳の誕生日を迎えずして夭折』してしまい、『聖武帝は、すぐに親王の菩提を追修するため』、『金鍾山寺を建立(同年』十一『月)し、良弁(のちの東大寺初代別当)を筆頭に智行僧九人を住持させた』。その十三年後の天平一三(七四一)年、『国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられたのに伴い、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが東大寺の前身寺院とされる』とある。

「天平(てんぺい)十五年、近江國滋樂(しがらき)におゐて、大佛を造り、同十六年に、佛像、成就す。大寺を建(たて)て、安置す。天平十七年、南都にこれを遷(うつす)」まず、同じく「東大寺」公式サイトの「東大寺の歴史」から引く(下線やぶちゃん)。天平一二(七四〇)年二月、『河内国知識寺に詣でた聖武天皇は』、「華厳経」の教えを依り所として『民間のちからで盧舎那仏が造立され』、『信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたという。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった』。「華厳経」の『研究(華厳経講説)は、金鍾山寺(羂索堂』(けんさくどう)『)において、大安寺の審祥大徳を講師として、当時の気鋭の学僧らを集め、良弁の主催で』三『カ年を要して』、天平一四(七四二)年に『終了し』、『この講説により、盧舎那仏の意味や『華厳経』の教えが研究され』て、天平一五(七四三)年十月十五日に『発せられた「大仏造顕の詔」に、その教理が示されたのであ』った。『もちろん、教理の研究と平行して』、『巨大な仏像の鋳造方法や相好なども研究された上でのことであったことは言うまでも無い』。天平勝宝四(七五二)年四月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修され、その後も』、『講堂・東西両塔・三面僧房などの諸堂の造営は』、延暦八(七八九)年三月の『造東大寺司の廃止まで続行された』。『盧舎那仏の名は、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏の意味。左手で宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわしながら、人々が思いやりの心でつながり、絆を深めることを願っておられる』とある。次に大仏の造立について、ウィキの「東大寺盧舎那仏像」から引く。『東大寺大仏は、聖武天皇により天平』『一五(七四三)年に『造像が発願された』が、『実際の造像は』二年後の天平一七(七四五)年から『準備が開始され、天平勝宝』四(七五二)年に『開眼供養会が実施された』。延べ二百六十万人が『工事に関わったとされ、関西大学の宮本勝浩教授らが平安時代の』「東大寺要録」を元に行った試算によれば、『創建当時の大仏と大仏殿の建造費は現在の価格にすると』、約四千六百五十七億円と『算出され』ている。なお、『大仏は当初、奈良ではなく、紫香楽宮の近くの甲賀寺(今の滋賀県甲賀市)に造られる計画であった。しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど』、『不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(国公麻呂とも)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。天平勝宝』四『年の開眼供養会には、聖武太上天皇(既に譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇を初めとする要人が列席し、参列者は』一『万数千人に及んだという。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当した』とある。以下、同ウィキの年表をもとに抜粋すると、

   *

天平十五年 十月十五日(七四三年十一月五日)

聖武天皇が近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発する。(「続日本紀」)

天平十六年十一月十三日(七四四年十二月二十一日)

紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる。(同前)

天平十七年(七四五)年

都が五年ぶりに平城京に戻り、旧暦八月二十三日(七四五年九月二十三日)、平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される。(碑文に拠る)

天平十八年十月六日(七四六年十一月二十三日)

聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う(「続日本紀」)。これは、大仏鋳造のための原型が完成したことを意味すると解されている。

天平十九年九月二十九日(七四七年十一月六日)

大仏の鋳造開始。(碑文)

天平勝宝元年十月二十四日(七四九年十二月八日)

大仏の鋳造終了。(碑文)

天平勝宝四年四月九日(七五二年五月二十六日)

大仏開眼供養会が盛大に開催される。(「続日本紀」)この開眼供養会の時点で大仏本体の鋳造は基本的には完了していたが、細部の仕上げ・鍍金・光背の制作などは未完了であった。

   *

以上から、大仏造立の具体部分での沾凉の記載には重大な齟齬があるものの、流れとしては比較的しっかりと押さえていることが判る。

「番匠(ばんじやう)」大工の古名。元は唐代に中央官庁で使役された工匠のことであったが、本邦では、律令制時代、朝廷に交替(「番」は交代勤務の意)で勤務していた飛騨工 (ひだのたくみ) を「番匠」と称した。「大工(もく)」とも呼称した。鎌倉・室町になると、主に建築職人を指すようになり,「番匠大工」とも呼ばれた。彼らは京都・奈良・鎌倉などの都市に居住し、大きいな寺社に所属して、座を組んでいた者が多かった。江戸以降は一般の大工を指すようになった。

「稻部百世」生没年不詳・多くは猪名部百世(いなべのももよ)とする。講談社「日本人名大辞典」他によれば、造東大寺司(ぞうとうだいじし:太政官直轄の令外(りょうげ)の官名。七四八年頃、東大寺の前身である金光明(こんこうみょう)寺の造営機構が発展して成立。職掌は東大寺・大仏の造営、東大寺領の経営、写経事業、石山寺の造営など。写経所・造仏所ほか多くの所(ところ)で構成されており、職員は最盛期には長官(かみ)・次官(すけ)各一名、判官(じょう)・主典(さかん)各四名等を配し、四等官の位階も八省に匹敵した。七八九年に停廃されて東大寺造寺所となった)で大仏造立から開眼に従事した。木工寮(もくりょう)の長上工(ちょうじょうこう:常勤の技術監督官)となり、天平宝字二年の「大般若経」の写経にも関わった。神護景雲元(七六七)年、称徳天皇の東大寺行幸の時には、功労者として外従五位下(外位は「げい/がいい」と読み、馴染みの律令制の普通に目にする、主に都及び貴族の「位」=「内位」に対する格下の位階。五位から初位までの二十階があり、地方の豪族や俘囚の長など卑姓のものに与えられた。外位を与えられたものが、その後、功績を積んで内位に叙されることもあった。平安中期以降になくなっている)を授けられている。「東大寺要録」には、「大工(だいこう)」「従五(四)位下」で「伊勢守兼東大寺領掌使」とある。伊賀出身。氏は「猪(爲)奈部」とも書く、とある。

「益田繩手」(ますだのなわて 生没年不詳)「朝日日本歴史人物事典」他より引く。東大寺造営の技術者。大工。越前国足羽(あすわ)郡出身。足羽郡大領(郡の長官)の生江東人(いくえのあずまひと)や越前国の史生(ししょう:諸国の主典(さかん)の下に属し、公文書の書写や修理などに従った下級の書記官)、造東大寺司主典の安都雄足(あとのおたり)らの推挙によって、造東大寺司に勤めることになったと推察される。天平勝宝八(七五六)年二月に大仏殿院工事を担当する現場「造大殿所」の統率者である大工として従事し、翌年、正六位上から外従五位下となっている。天平宝字二(七五八)年に銭三百文を納めて、「大般若経」の書写に関わっている。同六年、木工の技術に優れていたため、石山寺(大津市)造営工事について意見を求められてもいる。同八年、従五位下、天平神護元(七六五)年、無姓であったのを連(むらじ)の姓を賜り、奈良西大寺の造営にも関与した。神護景雲三(七六九)年、従五位上に昇った。技術者で内位を授けられた特異な人物である、とある。

「國公麿」国中公麻呂(くになかのきみまろ ?~宝亀五(七七四)年)。ウィキの「国中公麻呂によれば、氏姓は無姓の「国」の後に「国中連(くになかのむらじ)」となった。名は「君麻呂」「公万呂」とも『記される。百済系渡来人である完了(徳率)・国骨富の孫とされる。官位は従四位下・造東大寺次官』。『祖父・国骨富』(くにのこつふ)『は徳率』(第四位の位階)『の位にまで昇った百済の高官であったが、天智天皇』二(六六三)年の白村江(はくすきのえ)の戦い」の後、まもなく、『百済が滅亡したため』、『日本に帰化した』。

天平一七(七四五)年、『正七位下より外従五位下に昇叙され』、翌天平十八年には『造仏長官に任ぜられ、東大寺盧遮那仏の造像と大仏殿建立の指揮を執』った。天平二十年、『従五位下、天平勝宝元年』(七四九年)には、『聖武天皇の大仏殿行幸に際して従五位上に昇叙され』ている。天平宝字二(七五八)年、『東大寺大仏殿竣工。大和国葛下郡国中村に居住していたことにより、国中連姓を賜与され』た。天平宝字五年、『正五位下・造東大寺次官に叙任され』、後、『法華寺浄土院・香山薬師寺・石山寺の造営に参画する。天平神護』三(七六七)年、『東大寺主要伽藍の完成を祝した称徳天皇の東大寺行幸に際して従四位下に叙され』、神護景雲二(七六八)年には『但馬員外介に転任』している。『最終官位は散位従四位下』(「散位」(さんみ/さんい)は、律令制下で、位階を持ちながら、官職に就いていない者の呼称。「散官」とも称する。もとは散位寮、後に式部省所轄とされ、臨時の諸使・諸役のために出勤したりした(但し、三位以上でありながら、摂関・大臣・大納言・中納言・参議の孰れにも就任していない者を指す場合もあるので注意が必要))。『確実な公麻呂作品は存在しないが、東大寺の大仏、戒壇院四天王、法華堂の諸造や、新薬師寺十二神将が公麻呂作品と推定されている』。『聖武天皇が作ろうとした盧舎那仏は高さ』五丈(約十五メートル)『と巨大なものであり、当時の鋳工たちの中で敢えて鋳造に挑む者はいなかったが、公麻呂は非常に優れた技術と思慮により、盧舎那仏の建造を成し遂げたという』とある。

「柿本男玉」個人サイト内の「東大寺と柿本人麻呂の関係?」に「続日本紀」に『正六位上の柿本小玉(男玉)、従六位上の高市連真麻呂にそれぞれ外従五位上を授けた』(天平勝宝元年十二月二十七日条)とあるので、「かきのもとのおだま」と読むか。

「高市眞國」高市大國(たけちのおおくに 生没年不詳)のこと。「朝日日本歴史人物事典」に奈良時代の官人で、東大寺大仏鋳造作業の中心的人物。名は真国とも書く。大和国の人。大仏の鋳造に大鋳師として従事し、その功により、天平二〇(七四八)年には外従五位下に昇り、連姓を賜った。天平感宝元(七四九)年に外従五位上、次いで従五位上を賜り、同二年に正五位下と昇進している。これは大仏鋳造の節目ごとに、その中心として働いたことによって加階されたものと推定されている。「東大寺要録」は、最終的に従四位下まで昇って東大寺の領掌(支配人格)となり、河内守も兼ねたと記している、とある。

「高市眞麿」(たけち(「たかいち」とするものもある)のままろ 生没年未詳)は、個人ブログ「日朝文化交流史」の「奈良大仏造立に貢献した渡来人たち」によれば、先の国中公麻呂の副長官で鋳物師とし、さらに『渡来人の子孫』とする。

「開元(かいげん)道師」開眼(かいげん)導師(法会などの際に衆僧の首座として仏式を執り行なう僧)。

「婆羅門僧正」(ばらもんそうじょう ?~天平宝字四(七六〇)年)は日本に渡来したインドの仏教僧。バラモン階級のバーラドバージャ姓の出身で、名をボーディセーナいい、菩提僊那(ぼだいせんな)などと音写した。唐に滞在していた時、遣唐使の多治比広成(たじひのひろなり)らの要請を受けて、中国僧・ベトナム僧らとともに天平二(七三〇)年に中国を出帆、同八年に太宰府に到着した。行基とも会見し、天平勝宝二(七五〇)年に僧正となった。ここにある通り、東大寺の大仏開眼の法会では導師を務めている。「華厳経」に学殖の深い人であったらしく、また呪術的な面にも秀でていたとされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」及び講談社「日本人名大辞典」を参照した)。

「咒願師(じゆぐわんじ)」(「じゅがんし」とも読む)法会の際に呪願文(じゅがんぶん/しゅがんぶん:法会や食事の際に施主の願意を述べて幸福などを祈願した文章)を読む僧。七僧(法会の際に重要な役を勤める七人の僧。講師(こうじ:仏前の高座に上がって経文を講義する僧)・読師(どくし:高座で講師と対座して経題・経文を読み上げる僧)・呪願師・三礼師(さんらいし:読経に当たって三礼(三度の礼拝)の文を唱える僧)・唄師(ばいし:声明(しょうみょう)の一種である唄(ばい:漢語又は梵語で偈頌(げじゅ)を唱えるもの。短い詞章を、一音一音、長く引いて、節を多く付ける。如来唄・云何唄(うんがばい)などの種類がある)を唱える僧)・散花師(さんげし:仏前に紙の蓮片や樒 (しきみ) の葉などを散らして道場を清め、仏を賛美する僧)・堂達(どうだつ:法会の実務総指揮を担当する会行事(えぎょうじ)の下にあって、仏事を主催する導師に願文を、呪願師に呪願文を伝達する僧)の一つ。

「行基僧正」(天智七(六六八)年~天平勝宝元(七四九)年)は広汎な社会事業に尽力して仏教を全国に布教した法相宗の僧。「朝日日本歴史人物事典」から引く(一部の記号を変更した)。彼の『事跡は、「大僧上舎利瓶記」「続日本紀」「日本霊異記」「行基年譜」などから知ることができる。河内国(大阪府)大鳥郡蜂田郷(のち和泉国に属す)の生まれ。父は高志才智』(こしのさいち)、『母は蜂田古爾比売』(はちだのこにひめ)。『ともに中国系帰化人の氏族である』。天武一一(六八二)年十五歳で出家し、『「瑜伽師地論」「成唯識論」などの経典を学』んだが、それらをたちまちのうちに『理解したという』。八『世紀初めごろまでは』、『山林修行に力を注いだ。生馬仙房・隆福院など』、『彼の初期の院は』、『その伝統をひくものである。やがて広く各地を周遊し、布教活動を行って多くの信者を得た。しかし、養老元(七一七)年、『政府から名指しで糺弾された。指に火を灯し、皮膚を剥いで写経するといった活動が』、『異端的呪術とみなされ、また路上での布教活動がとがめられたと考えられる。しかし、このとき』、『還俗とか流刑といった具体的な刑罰は科されなかった。行基はこの弾圧に、呪術を穏当なものに変えるなどによって柔軟に応じ、それまでの路上活動から』、『院を中心とする活動に転換していった。同』七『年、三世一身法(田の開墾を奨励し、開墾者の私財権を一定期間保障した法)が発布されると、これに対応して池造りなど』、『灌漑事業に取り組み、また船息(港)・橋・布施屋(旅人の休息所)を多数』、『造立した。こうした活動は郡司クラスの地方豪族と結びついて広範に展開され、政府も容認し』、『登用するところであった。彼の集団に加わる信徒は』一千『人を数えたという。「日本霊異記」に描かれたような呪術も得意としたらしく、しばしば「霊異神験」を示したといい、行き通う人々は彼を礼拝したという。人々から「菩薩」と仰がれた。天平』三(七三一)『年には従う者のうち老齢者に官度が認められた。同』十五『年には東大寺大仏造立のため』の『勧進活動を行い、同』十七『年には大僧正に任じられ』、四百』人の官度』(官度僧:官庁の許可を得て得度した公的認定が与えられた僧)『が与えられた。没した時には大僧正で薬師寺の僧であった。『その道場は畿内に四十余所、行基四十九院と呼ばれている。畿外の諸道にも建立したらしいが』、『詳細は不明。著作はない。死後、行基信仰が発生した』。

「道璿(だうせん)律師」(どうせん 七〇二年~天平宝字四(七六〇)年)は唐から渡来した律宗僧。俗姓は衛。本邦の法相宗の僧栄叡(えいえい)・普照の要請を受けて、天平八(七三六)年に菩提僊那(ぼだいせんな)・仏哲らとともに来日し、大和の大安寺で律・禅・華厳を教え弘め、天平勝宝三(七五一)年、律師となった。同四年、東大寺大仏開眼供養の呪願師を務めた。

「大佛座像高 五丈三尺五寸」十六メートル二十一センチメートル弱。《十六メートル二十一センチメートル弱で、完全一致》(以下、最初の掲げるのは本文の寸法のメートル法換算値で、後に添えた《 》は東大寺公式サイトに載る現在の公式サイズ或いは私の比較解説である)。なお、サイト「東大寺・御朱印」の『奈良県・東大寺の大仏の大きさ(高さ・重さ)・名前・歴史・特徴」(画像・写真付き)』には、以前の原大仏に近いもの『奈良時代(鎌倉時代)』(このバカ長い併置はなんだか呆れる。一部が鎌倉時代のものということだろうど)の数値が対比して示されてある。但し、出典が全く示されていないので、これ、信用されるかどうかは、自己責任で参考にされたい(これを信ずるなら、座高・掌の長さ・中指の長さが現在より長いのを除くと、旧大仏は全体にややサイズが小さいことになる

「面長(おもてさげ)一丈六尺【廣九尺五寸】」約四メートル八十五センチ。《公式サイトには顔面長はなく、しかも髪の生え際から頤(左右の頬骨を結ん下唇の下端までの長さで顎の先の部分が含まれてない)の数値しか計算出来ず、それは四メートル十三センチメートルである。これから単純計算すると、下唇下端から頤先までが、八十二センチメートルとなる。事実、後の「頤(おとがひ)長一尺六寸」(四十八センチ五ミリ弱)と比べても倍弱となるので、この沾涼の示した数値は明らかにおかしいことになる》。

「眉(まゆ) 五尺四寸五分」約一メートル六十五センチ。《公式サイトには眉の長さは表示されていないが、次の現在の目幅と、眉の場合、測定位置の起点と終点をどこに置くかが難しいと思われるので、この数値もあまり不審ではない》。

「目長三尺九寸」約一メートル十二センチ。《目幅一メートル二センチ。》。

「口 三尺七寸」約一メートル十八センチ。《口幅一メートル三十三センチ。これも左右の端をどこで採るかで異なるので、十五センチの違いの違和感はない。》。

「鼻(はな)長三尺【穴徑一尺】」約九十一センチ弱。「長」は縦の長さであろう。《『鼻の高さ』として五十センチとあるが、この「高さ」は文字通り、顔面からの突き出た高さであるから、この数値とは違って当たり前である。》「穴徑」鼻の穴の直径。約三十センチメートル。《先の『奈良県・東大寺の大仏の「大きさ(高さ・重さ)・名前・歴史・特徴」(画像・写真付き)』のサイト主の感想の中に、大仏の『鼻の穴の大きさが、大仏殿の柱の穴の大きさ』(三十七センチ×三〇センチ)『と同じだと言うのには、少しし驚』くとあるから現在と合致していると言ってよかろう。》。

「頸(うなじ) 二尺六寸五分」約八十センチ。《公式サイトにないが、穏当な数値と思う。》。

「耳(みゝ)長八尺五寸」二メートル五十七センチ五ミリ。《二メートル五十四センチ。》。

「螺髮(らほつ) 九百六十六【高一尺】」「螺髮」は仏の三十二相(仏のみが備えているとされる三十二の優れた身体的特徴)一つで、肉髻(にっけい:頂髻と呼ぶ。頭の頂の部分が広汎に有意に盛り上がって髻(もとどり)のような形を作っていること。智慧の測り知れない深さを表わすとされる)とともに、仏の頭髪の特有な形式。右回りに螺旋状になっているものを指す。「一尺」は三十センチ三ミリ。《公式サイトになし。》。なお、「九百六十六」個あるというのは造立された奈良時代の原型の螺髪数であって、本記載の時制である江戸時代にはすでに違っている東大寺公式サイト内の質問「大仏さまの螺髪(らほつ)の数はいくつありますか?」によれば、京都大学生産技術研究所が行ったレーザ・スキャンによる東大寺大仏の三次元計測のデータにより、螺髪の数は、損壊して外れてしまっている螺髪も含めると、現在の大仏には四百九十二個の螺髪が取り付けられていたと推定されるという結果が得られたとあり、その内訳は現在も頭に付いているものが四百八十三個、落下するなどして外れてしまったと思われるものが九個ある、とある。

「頤(おとがひ)長一尺六寸」四十八センチ五ミリ弱。《数値なし。前の「面長」の私の注を参照。》。

「肩徑(かたのわたり) 二丈八尺七寸」八メートル六十五センチ五ミリ。《公式サイトになし。》。

「胸(むね)長二丈九尺」八メートル七十九センチ弱。《公式サイトになし。》。

「腹(はら)長 一丈三尺」約三メートル九十四センチメートル。《公式サイトになし。》。

「肘(ひぢ)ヨリ腕(うで)一丈五尺」四メートル五十四センチ五ミリ。《公式サイトになし。》。

「臂(ひぢ) 一丈九尺」五メートル七十六センチ弱。《公式サイトになし。》。

「掌長(たなごゝろ) 一丈三尺」約三メートル九十四センチメートル。《二メートル五十四センチ。現行のものは手首位置を大きく減じているのであろうか? にしても、この沾涼の示した数値の違いは誤差範囲内を越えていて、おかしい》。

「中指(なかゆび) 五尺【周〔めぐ〕り四尺五寸】」「五尺」は一メートル五十一センチ五ミリ。「四尺五寸」約一メートル二十七センチ。《中指の長さは一メートル八センチとするが、別に中指の付根から中指の先端(『但し、湾曲しているので、湾曲に沿って計測』と注がある)は約一メートル五十一センチとあるのと合致する。後の、中指の周りの長さは公式サイトにない。》。

「脛(はぎ)長二丈三尺八寸」七メートル二十一センチ。《公式サイトになし。》。

「膝厚(ひざのあつさ) 七尺」約二十一センチ。《二メートル二十三センチ。》。

「膝前徑(ひざのまへのわたり)三丈九尺」十一メートル八十二センチ弱。《両膝の幅十二メートル八センチ。》。

「足裏(あしのうら)一丈三尺」約三メートル九十四センチ。《公式サイトになし。》。

「土蓮花(れんげ)【周〔めぐり〕三十四丈七尺・高八尺】」「土蓮花」とは大仏の坐す蓮華座の下部を巡っている下方に向かって反転するように開いた花弁、「反花(かえりばな)」のことを指しているものと思う(その上に巡っている上を向いて花開いている花弁は「仰蓮(ぎょうれん)」(請花・受花(うけばな)とも称する)と言う。ともに二十八弁(大小各十四弁)の花弁を表わす)因みに、蓮華座に用いられるそれは、仏教で説くところの理想境阿耨達池(あのくだっち)に咲く蓮華の中でも最も高貴な種と名指される「プンダリーカ」で、反花のついたものは満開の花盛りのさまを示すものとされる。なお、ウィキの「東大寺盧舎那仏像」によれば、本大仏の仰蓮には、それぞれに鏨(たがね)で彫った線刻画があり、二度の兵火にも拘わらず、『台座蓮弁の線刻画にはかなり当初の部分が残り、奈良時代の絵画資料として貴重である』。『なお、現在、銅の蓮華座の下に石造の円形の台座があるが、創建当時の大仏の台座は銅の蓮華座の下にさらに石造の蓮華座があった』。「信貴山縁起絵巻」には治承四(一一八〇)年の『兵火で焼ける以前の大仏の姿が描写されているが、そこにも銅と石の二重の蓮華座が描写されている』とある。「周〔めぐり〕三十四丈七尺」は約百三メートル九十三センチ、「高八尺」は二メートル四十二センチ強。蓮華座の上段の外周は六十一メートルで、下段でも六十九メートル六十センチで、明らかにこの沾涼の示した数値は誤差の範囲を越えて誇大である。但し、この誇大表現は恐らくは沾涼に咎があるのではなく、前の齟齬するものも含めて、東大寺の僧が代々受け継いできた本「大仏」の誇張宣伝によるものであると私は考える。》。

「蓮花銅座【徑・六丈八尺 高・一丈】」こちらが仰蓮部であろう。直径が約二十メートル六十センチで、高さが三メートル三センチ。《蓮華座上段直径十八メートル三十センチから十八メートル四十センチメートルであるから、やや誇張表現。》。

「花【二百八十枚・周二十一丈四尺】」枚数は激しい誤り。前に述べた通り、反花と仰蓮それぞれ二十八枚であるから、計五十六枚のはずである。周囲は約六十四メートル五十三センチメートル。《公式サイトになし。》。

「基(もと)周り二十三丈九尺」台座基部の円周は九十六メートル三十九センチ弱。《既出であるが、下段の円周六十九メートル六十センチで、それを指すなら誇大も甚だしいことになるが、これはその下の、広義の台座を指しているのかも知れない。》。

「治承四年十二月廿八日、平重衡(たひらのしげひら)の兵火(ひようくは)によつて灰燼となる」治承四年十二月二十八日(ユリウス暦一一八一年一月十五日)に行われた南都焼討(やきうち)を指す。平清盛の命を受けた平重衡(保元二(一一五七)年~文治元(一一八五)年:清盛五男)ら平氏軍が、東大寺・興福寺など、奈良(南都)の仏教寺院を焼き討ちにした事件。ウィキの「南都焼討」によれば、『平氏政権に反抗的な態度を取り続けるこれらの寺社勢力に属する大衆(だいしゅ)の討伐を目的としており、治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の』一つであった。『特に東大寺は金堂(大仏殿)など主要建築物の殆どを失い、中心から離れた法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外は全て灰燼に帰するなど』、『大打撃を蒙っ』ている。失火延焼説もあるが、当時の戦術から見ても『計画的放火であった』と考えられる。しかし、『大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るものであったと考えられ』ている。重衡は翌二十九日に『帰京し、この時』、『持ち帰られた南都大衆の首級四十九余り』は、『ことごとく』、『溝や堀にうち捨てられたという』。因みに、重衡はその後の「一ノ谷の戦い」で源氏の捕虜となり、鎌倉へ護送されたが、頼朝は彼の人物に感服、厚遇した。しかし、平氏滅亡後、南都衆徒の要求によって引き渡さざるを得なくなり、重衡は木津川畔で斬首された。

「俊乘坊重源(しゆんじやうばうちやうげん)」(保安二(一一二一)年~建永元(一二〇六)年)鎌倉初期の浄土僧。「俊乘坊」は字(あざな)。号は南無阿弥陀仏。武士紀季重(きのすえしげ)の子で、俗名は刑部左衛門尉重定。出家し、醍醐寺で密教を学んだが、後、源空 (法然) から浄土宗を学んで、念仏の弘通(ぐつう:仏法を広めること)に畿内を遊行(ゆぎょう)、仁安二(一一六七)年から安元二(一一七六)年の間に実に三回も宋に留学したとされ、入宋中には、浄土教の知識を得たほか、阿育王山の舎利殿を建てた建築法を体得したともされる。但し、近来、重源の入宋を疑う説もある。治承四(一一八〇)年、東大寺が兵火に焼かれると、東大寺再建のため、造東大寺大勧進職となり、諸国を回って勧進に努めた。周防国が東大寺造営料国になると、同国司ともなっている。慈善救済事業も多く行っており、新たな開港や各地での架橋を行っている。ウィキの「重源」他によれば、『平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏(盧舎那仏像)もほとんどが焼け落ちた。』『重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。当時、重源は齢』六十一『であった』。『東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があった。周防国の税収を再建費用に当てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も京の後白河法皇や九条兼実』、『鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼し、それに成功している』。『重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導した。自ら巨木を求めて周防国』『の杣(材木を切り出す山)に入り、佐波川上流の山奥(現在の滑山国有林』『付近)から道を切開き、川に堰を設ける』『などして長さ』十三丈(三十九メートル)・直径五尺三寸(一・六メートル)もの、『巨大な木材を奈良まで運び出したという』。『更に伊賀・紀伊・周防・備中・播磨・摂津に別所』(ある寺院の本拠地から離れた所に営まれた当該寺院の宗教関連施設)『を築き、信仰と造営事業の拠点とした』。『途中、いくつもの課題もあった。大きな問題に大仏殿の次にどの施設を再興するかという点で塔頭を再建したい重源と』、『僧たちの住まいである僧房すら失っていた大衆たちとの間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。なお、重源は東大寺再建に際し、西行に奥羽への砂金勧進を依頼している。更に東大寺再建のためには』、『時には強引な手法も用い』ている。例えば、建久三(一一九二)年九月、『播磨国大部荘にて荘園経営の拠点となる別所(浄土寺)を造営した時』、『及び』、『周防国阿弥陀寺にて湯施行の施設を整備した時に』は、『関係者より勧進およびその関連事業への協力への誓約を取り付けたが、その際』、『協力の約束を違えれば』、『現世では』「白癩黒癩」(ハンセン病の症状別の旧異名)『の身を受け、来世では「無間地獄」に堕ちて脱出の期はないという恫喝的な文言を示している』。また、文治二(一一八六)年七月から閏七月に『かけての』、『大仏の発光現象など』、『大仏再建前後に発生した霊験譚を』、『重源あるいは』、『その側近たちによる創作・演出とする見方もある』という。『こうした幾多の困難を克服して、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。文治元』八月二十八日(一一八五年九月二十三日)『には大仏の開眼供養が行われ』、建久六(一一九五)年には大仏殿を再建して落慶供養が行われた(本文の「建久六年三月十二日、供養」がそれ)。また、建仁三(一二〇三)年には、総供養が行われている。『以上の功績から重源は大和尚の称号を贈られている。また東大寺では毎年春の修二会(お水取り)の際、過去帳読踊において重源は「造東大寺勧進大和尚位南無阿弥陀仏」と文字数も長く読み上げられ、功績が際立って大きかった事が示されている』。『重源の死後は、臨済宗の開祖として知られる栄西が東大寺大勧進職を継いだ』とある。

「勸化(くわんげ)」この場合は、僧が仏寺・仏像を造営するために、信者に寄付を勧めて集めることで、「勧進」に同じい。

「覚憲」(天承元(一一三一)年~建暦二(一二一三)年)は法相宗の僧。父は藤原通憲(信西)。宝積院(ほうしゃくいん)僧正・壺坂僧正とも称される。興福寺に入り、蔵俊に師事して法相・唯識を学び、藤原頼長から将来を嘱望された。「平治の乱」の後、父に連座し、伊豆国(一説に伊予国)に配流となったが、安元元(一一七五)年には奈良大安寺の別当に任じられた。その後、治承四(一一八〇)年に興福寺権別当、文治五(一一八九)年に同寺別当に任ぜられ、南都焼討を受けた興福寺の復興に努めた。建久元(一一九〇)年に権僧正となり、東大寺大仏殿落慶供養の導師を務めている。同年、壺坂寺に隠棲した。唯識論の注釈に大きな功績を残した(辞書類及びウィキの「覚憲」に拠った)。

「勝賢(しやうけん)」(保延四(一一三八)年~建久七(一一九六)年)は真言宗の僧。東大寺八十七世座主で醍醐寺第十八・二十・二十二世座主。父は藤原通憲(信西)で覚憲の弟。初名は勝憲。侍従僧正・覚洞院権僧正とも呼ばれた。寛遍に師事し、保元三(一一五八)年、権律師に任ぜられる。翌保元四年、醍醐寺の実運に灌頂を受け、また、常喜院の心覚からも法を受けている。永暦元(一一六〇)年以降、醍醐寺座主に三度も任ぜられたが、一時期、同門の乗海の反対により、高野山へ逃れた時期もあった。父信西の関係から、後白河法皇との結びつきが強く、木曾義仲の上洛の際には、法皇の安穏と天下泰平を祈禱したり、祈雨の為に孔雀経法を修したりしている。東寺二長者・東大寺別当東大寺東南院院主を歴任、文治元(一一八五)年八月十日には権僧正に任じられた。弟子に仁和寺の守覚法親王がいる(ウィキの「勝賢」に拠った)。

「物部爲里」物部為里(もののべのためさと ?~建保元(一二一三)年頃)は鎌倉初期の番匠大工。東大寺大勧進俊乗坊重源に登用され、東大寺の伽藍再建に活躍した。大仏殿造営の功績により、従五位下・伊勢権守の位官を授けられた。文治二(一一八六)年から建久八(一一九七)年まで現役であったことが確認されている。建仁三(一二〇三)年の東大寺南大門仁王像の造像にも関係しており、晩年には重源への報恩として東大寺大湯屋(沐浴施設。東大寺のものは鉄製の釜ような湯桶で、現在は残っていない、と一部の古い事典にはあったが、ブログ「弥勒の道プロジェクト」の「東大寺大湯屋公開」に復元(重源が鋳造させた巨大な壺状の湯桶や一部の柱は鎌倉時代当時の実物)されたものが写真と図面で載る。それを見るに、この釜状のもので湯を沸かしたのではなく、別に湯を沸かしたものをこの湯桶に移して、それで垢を流したりはするものの、主体はその湯気を充満させた半サウナ的なもののようである。これは鎌倉時代の円覚寺門前に民衆のために置いたサウナ式の湯屋と同じで腑に落ちる)の湯田(この大湯屋の経営にかかる費用(湯料)を捻出するためだけの東大寺領の田)として私領田を寄進している。木工寮などの官工系の工匠であった可能性が高い。後の一二二〇年代から一二三〇年代に、高野山や京都の諸寺の造営・修理に名が見られる伊勢権大夫物部為国は為里の系類に属する番匠と推定されている(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「櫻嶋國宗」(さくらじまくにむね 生没年未詳)鎌倉初期の番匠大工。東大寺大勧進俊乗坊重源の下で、物部為里とともに東大寺伽藍再建に活躍し、従五位下・駿河権守の位官を授けられた。建久八(一一九七)年には為里とともに戒壇院の造営を行い、その二年後には法華堂(三月堂)礼堂の造営を行っているが、それ以降の消息は明らかでない。後、建暦三(一二一三)年、栄西に従って京都の法勝寺九重塔を造営した大工駿河権守桜島国重は国宗の子であろう。桜島姓の番匠大工は史料上は、この二人だけである(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「康慶」(生没年不詳)は平安末期から鎌倉初期の仏師で、運慶の父。平重衡の「南都焼討」後の復興造仏の中心人物として活躍し、慶派の基礎を築いたが、詳しい経歴には不明の部分が多い。詳しくは参照したウィキの「康慶」を見られたいが、そこに、この落慶供養の翌建久七(一一九六)年、『東大寺大仏殿の脇侍像・四天王像の造立に参加したのが史料上確認できる最後の事績であ』り、同年作の伎楽面も東大寺にあると書かれてある。

「運慶」(?~貞応二(一二二四)年)は鎌倉時代の造仏界を代表する慶派の名匠で七条仏所の総帥。堪慶の父。復古的傾向の中に写実的で剛健な新しい作風の運慶様式を完成させ、法印の位に昇った。ウィキの「運慶」の「東大寺での仕事」によれば、「南都焼討」の兵火で『主要伽藍を焼失した東大寺復興造仏には、康慶を中心とする奈良仏師が携わっている』。建久五(一一九四)年から『翌年にかけて、東大寺南中門二天像が造立されたが、このうち西方天担当の小仏師として「雲慶」の名が記録にみえる』。建久七(一一九六)年には『康慶の主導で、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像(如意輪観音、虚空蔵菩薩)と大仏殿四隅に安置する約』十四『メートルに及ぶ四天王像の造立という大仕事に携わる。運慶は父康慶とともに虚空蔵菩薩像の大仏師を務め、四天王像のうち増長天の大仏師を担当している』。但し、『以上の諸像はその後』、『建物とともに焼失して現存しない(快慶作金剛峯寺像、海住山寺像をはじめ』、『大仏殿像の形式を模したといわれる四天王像が多く造られ、「大仏殿様四天王像」と称される)。現存するこの時期の作品としては』、建仁三(一二〇三)年『造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像がある。造高約』八・五『メートルに及ぶ巨像』二体は、一九八八年から一九九三年に『かけて解体修理が実施された』が、『その結果、阿形像の持物の金剛杵内面の墨書や吽形像の像内納入経巻の奥書から、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)の』四『名が大仏師となり、小仏師多数を率いてわずか』二『か月で造立したものであることがあらためて裏付けられた』。四『人の大仏師の役割分担については諸説あるが、運慶が両像の制作の総指揮にあたったものと考えられている』。『この功績により、建仁』三(一二〇三)年『の東大寺総供養の際、運慶は僧綱の極位である法印に任ぜられた。これは奈良仏師系統の仏師として初めてのことであった』。承元二(一二〇八)年から建暦二(一二一二)年に『かけては、一門の仏師を率いて、興福寺北円堂の本尊弥勒仏以下の諸像を造っている』。『これらのうち』、『弥勒仏像、無著菩薩・世親菩薩像が北円堂に現存し、運慶晩年の完成様式を伝える。殊に無著・世親像は肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作に数えられている』。『最晩年の運慶の仕事は、源実朝・北条政子・北条義時など、鎌倉幕府要人の関係に限られている。その中で』、建保四(一二一六)年には、『実朝の養育係であった大弐局が発願した、神奈川・称名寺光明院に現存する大威徳明王像を造った。更に、源実朝の持仏堂、北条義時の大倉薬師堂、北条政子の勝長寿院五大尊像などの諸像を手がけている』とある。

「定覚」(じょうかく 生没年未詳)は慶派の仏師。康慶の次男ともされ、これが正しいとするならば、運慶の弟に当たる。息子(又は弟子とも)に覚円がいる。建久五(一一九四)年、快慶とともに東大寺中門の二天像(持国天・多聞天:永禄一〇(一五六七)年、焼失)を造立している(定覚は西方の持国天像を担当した(「東大寺続要録」に拠る))。建久六(一一九五)年、東大寺大仏殿供養に際し、上記の功績により、法橋の位階を受ける。なお、この時、運慶は、康慶の譲りによって法橋より一つ上の法眼を受けた(この時、快慶も法橋を受けたが、彼はそれを運慶の嫡子湛慶に譲っている(「東大寺縁起絵詞」に拠る))。建久七(一一九六)年、康慶・運慶・快慶と共に東大寺大仏脇侍(如意輪観音像・虚空蔵菩薩像)と四天王像を造立した(定覚は如意輪観音像(快慶との共作)と、四天王の内の多聞天像を担当している(「東大寺続要録」に拠る)。建仁三(一二〇三)年、康慶・運慶・快慶とともに東大寺南大門金剛力士像を造立、後に吽形像の像内納入品の経巻奥書から、同像には湛慶と定覚が大仏師として造像に携わったことが判った。同年十一月の東大寺総供養の際には、褒美を覚円に譲り、彼を法橋にさせている。なお、建久七(一一九六)年の東大寺大仏殿四天王像は、像容・身色等を忠実に模した「大仏殿様四天王像」と称されるものが金剛峯寺・海住山寺などに現存する(ウィキの「定覚」に拠る)。

「快慶」(生没年不詳)は運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師の一人。ウィキの「快慶」によれば、彼は『安阿弥陀仏とも称し、その理知的、絵画的で繊細な作風は「安阿弥様」(あんなみよう)と呼ばれる。三尺前後の阿弥陀如来像の作例が多く、在銘の現存作も多い』。『快慶は運慶とともに』「南都焼討」『で壊滅的な被害を受けた東大寺、興福寺など南都の大寺院の復興造仏事業にたずさわった』。建久五(一一九四)年には『東大寺中門の二天像のうち多聞天像を担当したが、これは現存しない』。建仁三(一二〇三)年には東大寺南大門の金剛力士(仁王)像の造営に運慶らとともに参加している。東大寺での修二会(お水取り)の際、過去帳において快慶は「大仏脇士観音並広目天大仏師快慶法眼」と文字数も長く読み上げられ、功績が際立って大きかった事が示されている』。『快慶は東大寺大仏再興の大勧進(総責任者)であった重源と関係が深く、東大寺の僧形八幡神坐像、同寺俊乗堂阿弥陀如来立像など、重源関係の造像が多い。三重・新大仏寺の如来像(もと阿弥陀三尊像だが、江戸時代の土砂崩れで脇侍が失われ、本尊も体部が大破したため、頭部をもとに盧舎那仏坐像に改造)、兵庫・浄土寺の阿弥陀三尊像なども、重源が設置した東大寺別所の造像である』。

「陳和桂」鎌倉時代の日本で活動した南宋出身の渡来工人で、実朝の大陸渡航騒動に関わった妖しい人物でもある陳和(ちんわけい/ちんなけい 生没年未詳)の誤りウィキの「陳和卿」によれば、平安時代末期(十二世紀末)に来日し、治承四(一一八〇)年の『東大寺焼失後、勧進上人の重源に従い、焼損した大仏の鋳造と大仏殿の再建に尽力』し、弟陳仏寿ら七名、及び、河内国の鋳師草部是助ら十四名と共同して作業を行って完成させた。建久六(一一九五)年三月一三日(東大寺の再建供養開始の翌日)、『源頼朝から面会を申し入れられたが、陳は「頼朝は平家と戦った時に多くの人の命を奪っており、罪業の深い人間であるので面会したくない」と回答して面会を辞退した。頼朝はその言葉に感涙を抑え、奥州合戦の際に使用した甲冑・鞍、馬』三『頭、金銀を陳に贈った。しかし陳は、甲冑は造営の釘にし、鞍は寺に寄進するために受け取ったが、それ以外の物は』、『全て』、『頼朝に返した』(ここは私の「北條九代記 南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛」を読まれたい)。『東大寺再建の功績によって、陳元卿は播磨国大部荘など』五『ヶ所の荘園を賜ったが、それらを重源の大勧進職に寄進して』、『彼はその経営に関与していた。ところが、東大寺の僧侶たちから』、『彼が材木を船を造るために流用して再建を妨害し、重源を裏切って』、『先に寄進した荘園を押領して』、『再び』、『自分のものにしようとしていると告発され』、元久三(一二〇六)年四月十五日には、『後鳥羽上皇より「宋人陳和卿濫妨停止下文」が出されて、当該荘園及び東大寺の再建事業から追放され』ている(「山城随心院文書」「鎌倉遺文」に拠る)。但し、『この告発は事実ではなく、外部の人間である重源や陳和卿によって』、『寺の再建の主導権を握られた東大寺の僧侶の反感によるものであったと』もされる。その十年後、彼の姿は突然、鎌倉に現われる。建保四(一二一六)年六月八日、彼は幕府の御所を訪れ、『「当将軍は権化の再誕であり、恩顔を拝みたい」と源実朝への拝謁を希望した。そして』六月十五日に『実朝に拝謁した際、実朝を三度拝み、泣き出した。実朝はその行動に辟易したが、陳は「貴方は昔宋朝医王山の長老であった。その時、我はその門弟に列していた」と述べた。それは実朝がこの』五年も前に『見た夢に出てきた高僧の言葉と同じであり、その夢のことを実朝は誰にも話していなかったため、実朝の信任を得た』。同年十一月二十四日、『渡宋を思い立った実朝に命じられて大船を建造し始める。翌年』四月十七日に『完成し、由比ヶ浜で曳航させたものの、船は海に浮かばず、砂浜で朽ち損じてしまった』(このブットビの一件は私のライフ・ワークの一つで、私の「北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相模守諌言 竝 唐船を造る」を読まれたいし、これは別に「★特別限定やぶちゃん現代語訳 北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相模守諫言 竝 唐船を造る」でオリジナル現代語訳もしているし、また、『やぶちゃんのトンデモ仮説「陳和卿唐船事件」の真相』も書いている。因みに、私の若書き(二十一歳)の駄小説「雪炎」にも登場させてある)。『その後は消息不明。経歴には不明な点が多い』。東大寺南大門の狛犬か彼の作である。

「草部是助」河内国の鋳物師で寿永二(一一八三)年から大仏鋳造に関わった。関わるや、まず、重源の命により、先に注で出した東大寺大湯屋の鉄製湯槽を鋳造、後に彼は東大寺大仏の頭部の鋳造を手掛けた。これは「京都市考古資料館文化財講座」二百六十回「シリーズ ―世界遺産を掘る――」第二回の京都市考古館館長梶川敏夫氏の「醍醐寺と重源」PDF)に拠った。

「一万四百三十六兩」三百九十一・三五キログラム。

「唐銅(からかね)」銅を主体とした錫・鉛の合金。

「七十三萬九千五百六十斤」四百四十三・七三六トン。

「水銀(みづかね)」水銀。現在の大仏は銅の錆である緑青色を呈しているが、創建・再建当時は全身が黄金に輝いていた。この金色仏は、金を大量の水銀に溶かしてアマルガムとし、それを塗布した後、火で炙ることによって水銀を蒸発させて金鍍金(きんメッキ)を施して作ったものであった

「五万八千六百二十兩」三十五・一七二トン。

「白鑞(はくろう)」「しろめ」とも読み、「白目」とも書く。錫と鉛とをほぼ四対一で配合した合金。錫細工の接着や銅合金などに使う。

「一万二千六百二十斤」七・五七二トン。

「一萬六千六百五十六石」二百リットルのドラム缶約一万五千二十本分。

「永祿十年、松永彈正兵火によつて回祿して、御頭(みくび)、燒落(やけおち)たり」戦国時代の永禄一〇(一五六七)年四月十八日から十月十一日の凡そ半年間にも亙って、松永弾正久秀・三好義継と、三好三人衆(三好長逸(ながやす)・三好宗渭(そうい)・岩成友通(ともみち)。敵対する義継とは近親)・筒井順慶・池田勝正らが大和東大寺周辺で繰り広げた市街戦「東大寺大仏殿の戦い」の中の一戦闘による損壊。ウィキの「東大寺大仏殿の戦い」によれば、永禄十年十月十日に松永・三好連合軍が三人衆軍の本陣があった東大寺を奇襲したが、この時の状況は「多聞院日記」(奈良興福寺の塔頭多聞院で文明一〇(一四七八)年から元和四(一六一八)年にかけて百四十年もの間僧の英俊を始めとして三代の筆者によって書き継がれた日記)に、『今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断』『と記している。午後』十一『時に戦闘が開始され、戦闘中に穀屋から失火』、『法花堂』から『大仏殿回廊、そして日をまたいだ翌』十月十一日午前二時には、『大仏殿が焼失したようである』。また、『四ツ時分から、大仏中門堂へ松永軍が夜討、三人衆側も死力を尽くして戦ったが対抗できず、遂には中門堂と西の回廊に火を放たれて焼失した。この戦いで多くの者が討ち死にした』とも記しており、「東大寺雑集録」でも午後十時と『記載されているので、戦闘はこの時間帯から開始されたと思われている。十分な戦闘準備が整っていない三人衆軍の不意打ち狙いであり、東大寺は防備を目的とした砦でもなく、そのような中で懸命に防ごうとしたが』、『支えきれず、浮き足だって崩れ去っていったのではないかと思われる。この戦いで三人衆軍は討ち死にしたり、焼け死んだりした者が』三百『名を数えた』。なお、ルイス・フロイスの「日本史」では『違う内容で記載して』おり、『多聞山城を包囲した軍勢の大部分は、その大仏の寺院の内部と』、『この僧院のあらゆる場所に宿営した。その中には我らの同僚によく知られていた一人の勇敢な兵士もいたのであるが、我らは世界万物の創造者に対してのみ』、『ふさわしい礼拝と崇敬のことに熱心な、誰かある人にたきつけられたからというのではなく、夜分、自分が警護していた間に、ひそかにそれに火を放った。そこで同所にあったすべてのものは、はるか遠くはなれた第一の場所にあった一つの門、および既述の鐘以外は何も残らず』、『全焼してしまった』と記してある。『この文中にある「我ら」というのはイエズス会のことであり、三人衆軍の兵士でイエズス会に入信している誰かが放火したとして』いるのであり、「多聞院日記」や「東大寺雑集録」とは異なった『記載になっている。切羽詰った久秀が三人衆軍を大仏殿ごと焼き殺そうとした兵火説や、不意打ち狙いの夜襲のため』、『やむ得ず失火してしまった説、三人衆軍の一部の兵による放火説など、現在でも議論になっている』。『奈良の大仏を「戦国時代に仏頭は松永久秀の兵火によって焼き落とされ」と紹介されたり、織田信長が徳川家康に松永久秀を紹介する時に、三悪事の』一『つとして東大寺大仏を焼討したと紹介したので、久秀が焼討したと現在でも語られている。しかし、「大和軍記」には『「(三好軍の)思いがけず鉄砲の火薬に火が移り、」と記載されていたり』、「足利李世紀」には『「三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を張って建っていた。誤って火が燃えつき、」と記載されている事から』、『最近の研究によると「戦の最中の不慮の失火説」が有力である』とある。『この時』、『焼失したのは、大仏の仏頭、伽監、念仏堂、大菩提院、唐弾院、四聖坊、安楽坊などであった。鐘楼堂も火がついたが』、『こちらは僧侶達の消火活動によって類焼を避けることができた。いずれにしてもこの火災で三人衆軍、池田軍は総崩れになり、摂津、山城に退いていった。また、滝山城の戦いで活躍した別所軍もいたようで』、五月十七日に『岩成友通隊が布陣していた氷室山法雲院にいたが、大仏殿が焼けるとみるや』、『自陣を焼いて播磨へ帰国した。一方の筒井軍は後方の大乗院山に布陣していたためか、大きな被害はでず筒井城に引き上げていったと思われている。また別の説では松永軍が次々と寺を焼き払うのを見かね、東大寺を主戦場とする三人衆と意見の相違があり、残留部隊のみを残し』、『早々に筒井城に引き上げていたという見解もある。しかし』、『この時の順慶の詳細な行動については記録がなく、詳しいことは解っていない』とある。

「山田道安」(?~天正元(一五七三)年)戦国から織豊時代の武将で画家。筒井氏の一族で、大和岩掛城主。名は順貞(としさだ)。通称は民部。豪放な水墨画で知られ、彫刻にも優れた。松永久秀の焼討によって損壊した東大寺大仏の修復に努めたことで著名(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「延宝」一六七三年~一六八一年。徳川家綱・徳川綱吉の治世。

「當寺の僧、龍松院殿(りうしやうゐんでん)、造立(ざうりう)の大願をおこして」ここはやや表現がおかしいように思われる。「當寺の僧、龍松院殿(りうしやうゐんどの)、造立(ざうりう)の大願をおこして」か、或いは「當寺の龍松院殿(りうしやうゐんでん)の僧、造立(ざうりう)の大願をおこして」でなくては意味が通じない。まず、「龍松院」というのは東大寺の子院の一つの名である。実は、東大寺の大仏殿は三好・松永の「東大寺大仏殿の戦い」で焼けて以来、ずっと再建されず、鎌倉の大仏のように百三十年もの間、露座であった。そんな中、延宝年間に、この龍松院の住職であった公慶(慶安元(一六四八)年~宝永二(一七〇五)年:江戸前期の三論宗の僧。丹後国宮津(現在の京都府北部の宮津市)の生まれ)が徳川幕府に働きかけ、また、大勧進職として諸国を勧進して廻り、諸大名にも協力を仰いで、東大寺の再建造営に取り掛かったのであった。ウィキの「公慶によれば、貞享元(一六八四)年に『江戸幕府の許可を得て、「一紙半銭」を標語に全国に勧進を進め』、七年後には一万一千両に『まで達した。これは現在の貨幣価値に換算すると』、『およそ』十『億円にも及ぶ。徳川綱吉の援助もあり、元禄』五(一六九二)年に『大仏の修理が完成して開眼法要を行った。この功を認められて翌』元禄六年『には、護持院隆光の仲立ちにより』、第五『代将軍・徳川綱吉に拝謁している。その後も西国に勧進を継続したが』、公慶自身は『大仏殿の落慶を見ることはなく』、数え五十八で『江戸で客死した』。『遺骸は奈良へ運ばれ、東大寺の北にあり、東大寺復興の先人重源が建てた五劫院に埋葬された』。『大仏殿の落慶が成ったのは』それから四年後の宝永六(一七〇九)年であった。『現在の東大寺に見られる大仏殿と、中門・廻廊・東西楽門は』、『このときに再建されたもので』、『公慶の死の翌年、慶派仏師性慶と公慶の弟子即念によって製作された』「公慶上人像」『は、充血した左目やこけた顔、数多く刻まれた皺など写実性に富み、生涯を捧げ復興に東奔西走した公慶の辛苦を今に伝える。本像は勧進所内に建てられた御影堂にあり、志半ばで倒れた公慶が完成した大仏殿を常に見上げられるよう、東を向いて安置されている』とある。

「勅許」当時(延宝年間)は霊元天皇。

「台命(たいめい)」将軍又は三公・皇族などの命令。転じて貴人の命令を指すが、ここは前の「勅許」との並列なので、将軍徳川綱吉のそれ。

「釿始(てをのはじめ)」これで「てうなはじめ(ちょうなはじめ)」とも読み「木造始(こづくりはじめ)」とも称する。「釿」は「手斧」とも書き、読みも「ておの」の音変化したもの。大工道具の一つで、直角に曲がった大きな平鑿(ひらのみ)に木製の柄が付いた鍬(くわ)形をした斧のこと。木材を荒削りした後、平らにするのに用いる。「釿始」めは、建築儀礼の一つで、現在も建築物の起工式で行われる儀式。建築工事の初めに安全を祈願して行われるもので、一本の大きな材木を昔ながらの道具と手業と順序を以って截り、測り、削り、仕上げる一連の所作を行う。

「千僧供羪(くやう)」「供羪」の「羪」は「養」の異体字。

「貞享五年」一六八八年。

「宝永二年」一七〇五年。

「宝永六年」一七〇九年。

「三論華嚴八宗兼學」宗派八宗と区別するために、「三論華嚴」を頭に附したのであろう。教学八宗は既注であるが、再掲すると、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗(以上、南都六宗)・天台宗・真言宗を指す。]

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