諸國里人談卷之二 要石
○要石
常陸國鹿島明神にひとつの神石あり。丸く柱のごとくにして、亙り一尺五寸ばかり、頂き少(すこし)窪めり。地を出る事、二尺余、その根のふかき事、幾丈といふ限(かぎり)しらず。動(うごか)せば、ゆるぐなり。其石の本〔もと〕を箆(へら)をして穿(ほれ)れば、虫、いづる。そのむしの數(かず)にて幾人(いくにん)の子を育(そだつ)つると云〔いふ〕を占ふと云。土俗の説なり。
或書(あるふみに)曰(いはく)、光俊朝臣、かしまの社(やしろ)にまうで侍りけるに、おくの御前(みまへ)とて、不開(あかず)の御殿よりは、二、三町ばかり、東の山の中におはします御殿にて、古き神官をよびて、
「これに平(たいらか[やぶちゃん注:ママ。])なる石の圓(まろげ)なるが、二尺ばかりなるや、ある。」
となん、とひ侍るに、
「さる石あり。」
とて、御殿のうしろの竹の中に埋(うづも)れて侍りけるを、ほりいでゝけり。此明神、あまくだり給ひて、此石のうへにて座禪せさせ給ふ石なり。「万葉集」に「石のみまし」とあるは、是なり。
光俊朝臣
尋〔たづね〕かねけふ見つるかなちはやぶるみやまのおくの石のみましを
[やぶちゃん注:短歌の作者の「光俊朝臣」の位置は、ブラウザでの不具合を考え、上に引き上げてある。
現在の茨城県鹿嶋市宮中にある鹿島神宮の要石は花崗岩製で、ウィキの「鹿島神宮」によれば、『境内東方に位置する霊石。古来「御座石(みまいし)」や「山の宮」ともいう』。『地上では』直径三十センチメートル、高さ七センチメートル『ほどで、形状は凹型』。『かつて、地震は地中に棲む大鯰(おおなまず)が起こすものと考えられていたため、要石はその大鯰を押さえつける地震からの守り神として信仰された』。『要石は大鯰の頭と尾を抑える杭であるといい、見た目は小さいが』、『地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている』。「水戸黄門仁徳録」に『よれば、水戸藩主徳川光圀が』、七日七晩、『要石の周りを掘らせたが、穴は翌朝には元に戻ってしまい』、『根元には届かなかったという』(「鹿島神宮」公式サイトのこちらの記載では、加えて、『怪我人が続出したために掘ることを諦めた』とある)。『過去に神無月に起きた大地震のいくつかは、鹿島神が出雲に出向いて留守のために起きたという伝承もある』。『鹿島神宮と地震に関しては』、建久九(一一九八)年の『「伊勢暦」に詠み人知らずとして見える、次の地震歌が知られる』。
ゆるぐともよもやぬけじの要石鹿島の神のあらん限りは
また、康元元(一二五六)年に藤原光俊(葉室光俊(はむろみつとし 建仁三(一二〇三)年~建治二(一二七六)年:歌人。当初は藤原定家に師事したが、後藤原知家らとともに、御子左派への対抗勢力を形成、文応元(一二六〇)年以降は鎌倉幕府第六代将軍宗尊親王の歌の師として鎌倉歌壇にも重きをなした)が『神宮を訪れた際、要石を「石の御座(みまし)」として、次の歌を歌っている』(前の歌とともに典拠は二〇〇四年刊の「神宮誌」)。
尋ねかね今日見つるかな千劔破(ちはやぶる)深山(みやま)の奥の石のみましを
また、独立したウィキの「要石」によれば(下線太字やぶちゃん)、『鹿島の要石は、鹿島神宮奥宮(武甕槌神』(たけみかづちのかみ:鹿島神宮の主神。伊弉諾尊が火神軻遇突智(かぐつち)の首を切り落とした際に十束剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」の根元に付着した血が、岩に飛び散って生まれた三神の中の一柱。雷神・剣の神・相撲の元祖ともされる神)の荒魂(あらみたま))『の背後約』五十メートル、本宮からは東南東へ約三百メートル『離れた、境内の森の中に』あるとあり、『日本神話の葦原中国平定において、天津甕星(天香香背男)』(あまつみかぼし(あめのかがせお):葦原中国平定に最後まで抵抗した神)『は平定の大きな妨げになった(日本書紀、巻第二神代下、第九段一書の二)』。『天香香背男討伐にあたり』、『武甕槌神は見目浦(みるめのうら)の磐座に降り』たが、その『磐座が現在の要石』であり(本文で「此明神、あまくだり給ひて、此石のうへにて座禪せさせ給ふ石なり」がそれを指している)、『住居が鹿島神宮の原型であると伝えられる』。「鹿島宮社例伝記」に『よれば、鹿島社要石は仏教的宇宙観でいう、大地の最も深い部分である金輪際から生えている柱と言われ、この柱で日本は繋ぎ止められているという』。こうした要石は日本全国に認められる、それらは概ね、『地上部分はほんの一部で、地中深くまで伸び、地中で暴れて地震を起こす大鯰あるいは竜を押さえているという。あるいは貫いている、あるいは打ち殺した・刺し殺したともいう』。『龍は柱に巻き付いて国土を守護しているとも言われる』。『そのため』、要石のあるところ『には大地震がないという。ただし、大鯰(または竜)は日本全土に渡る、あるいは日本を取り囲んでいるともいい、護国の役割もある』。『鹿島神宮の要石は大鯰の頭を押さえると伝えられる』『要石を打ち下ろし』、『地震を鎮めたのは、鹿島神宮の祭神である武甕槌大神(表記は各種あるが鹿島神社に倣う。通称鹿島様)だといわれる。ただし』、『記紀にそのような記述はなく、後代の付与である。建御雷命(武甕槌神)は葦原中国平定で国津神を悉く鎮め平らげたことから、大地を要石で押し鎮めたという伝説が生まれたとされる』。『武甕槌大神は武神・剣神であるため、要石はしばしば』、『剣にたとえられ、石剣と言うことがある』。『江戸時代には』、
ゆるげどもよもや拔けじの要石鹿島の神のあらん限りは
『で締めくくる呪』(まじな)『い歌を紙に書いて』、三『回唱えて門に張れば、地震の被害を避けられるという風習があった』。安政江戸大地震(安政二年十月二日(一八五五年十一月十一日)後、『鹿島神宮の鯰絵を使ったお札が流行し、江戸市民の間で要石が知られるようになった。地震が起こったのは武甕槌大神が神無月』(十月)『で出雲へ出かけたからだという説も現れた』とある。
「亙り一尺五寸ばかり」直径約三十センチ四・五ミリ。
「二尺余」六十一センチメートルほど。現在(高さ七センチメートル)より九倍弱突出していたことが判る。
「其石の本〔もと〕を箆(へら)をして穿(ほれ)れば、虫、いづる。そのむしの數(かず)にて幾人(いくにん)の子を育(そだつ)つると云〔いふ〕を占ふと云」これは現在、伝えられていない貴重な占術法である(但し、今は要石は囲いに中にあり、こうした仕儀は行えなくなってはいる)。虫の種(しゅ)が気になる。
「おくの御前(みまへ)とて、不開(あかず)の御殿」これについては、今野政明氏のブログ「はてノ鹽竈」の「茨城県鹿嶋市――鹿島神宮:秘事に属すべき本殿内の作法――」に驚くべき事実が記されている。鹿島神宮宮司、東実氏の「鹿島神宮」(学生社刊)の引用である(一部で改行した)。
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一社の秘事に属すべき本殿内の作法について、『当社例伝記』に、
開かずの御殿と曰うは、奉拝殿の傍に御座す、是即ち正御殿なり、北向きに御座す、本朝の神社多しといえども、北方を向いて立ち給う社は稀なり、鬼門降伏、東征静謐の鎮守にや、当社御神殿の霊法かくの如く、社は北に向ける、其の御神躰は正しく東に向い安置奉る、内陣の例法なり、(原文は漢文)
とあるように、社殿は北向き、神座(御神体)は東向きに坐す、しかも南西のすみにである。
つまり社殿の中で一番重要な御祭神は、ふつう[やぶちゃん注:「の」の脱字か。]神社のように中央にいて、参拝者に相対するようには置かれていない。横向きに、しかも中央ではなく、田の字形四間に区切って考えると、入って右側の奥の一つに鎮座しておられるのである。
多少、古代史に関心のある人ならば、この社殿の配置図を見て、すぐ、おや?と思われることだろう。その通り、もう多くの読者が気がつかれたように、この配置、内部構造は、あの日本神話で重要な位置を占める出雲の、大国主命をまつった出雲大社の内陣と共通するものがあるのである。
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しかも、この本殿の神座は地図上で、明らかに、「要石」の方向、真東に向いていることが判るのである(距離は四百二十二メートルほど。グーグル・マップ・データを見よ)。
「二、三町」二百十九~三百二十七メートル。
「東の山の中におはします御殿」これは距離から見て本殿から東北東へ三百六十メートルほど行った奥宮である(要石周辺には御殿は現在はない)。現行、中央の主参道を経由する場合は、奥宮を経て要石に到達する。
「御殿のうしろの竹の中」奥宮は公式サイトの地図を通常の地図に照らして見る限り、北西を正面として向いて建っており、真後ろの南東の奥、百八十四メートル後方に要石はある。但し、グーグル・ストリートビューを見ると、現在は要石の周囲は竹林ではない。
『「万葉集」に「石のみまし」とある』不詳。調べる限り、現行の「万葉集」の訓読例にはこの文字列(「いしのみまし」或いは「いはのみまし」)はないように思われる。識者の御教授を乞う。]
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