諸國里人談卷之二 文字摺石
○文字摺石(もじすりのいし)
陸奧國信夫(しのぶ)郡にあり。桒折(こうり)より半里ばかり脇(わき)、節黑(ふしくろ)川の先にあり。長〔ながさ〕一丈二尺、幅六尺ばかりの石也。石の表は土に付(つき)、裏の方、上にあらはる。むかしは、此石の上に忍草(しのぶくさ)を布(しき)て、衣(きぬ)を覆(おほひ)て、上より、これを扣(たゝ)くに、忍の紋、衣(ころも)に移れり。是、當所の名産として、上古、任國の人々、都への土産(つと)にして、甚(はなはだ)本奔しけるとなり。髮を亂したるやうに紋を摺(すり)たるにより、「亂れそめにし」とはよめりとぞ。
[やぶちゃん注:所謂、「信夫文字摺石(しのぶもじずりいし)」。福島市山口字文知摺前(ここ(グーグル・マップ・データ))にある曹洞宗香澤山安洞院、通称「文知摺観音(もちずりかんのん)」(文禄四(一五九五)年開山)の境内にある、長さ三メートル、高さ二・五メートルの石がそれに比定されている。平安時代、狩衣に用いられた毛地摺(もちずり)絹をすった石或いは草木染め(忍草という草をまことしやかに草の名として出すものが異様に多いが、私は全く採らない)にしてその表面の模様を転写した石と伝えられ、河原左大臣源融彼の(「古今和歌集」巻第十四「戀歌四」(七二四番)・「小倉百人一首」(十四番))、
陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑにみだれむと思ふ我ならなくに
の歌は、伝承上では、融が按察使(あぜち)として来国し、ここで出逢った山口の長者の娘虎女への思慕が込められたものともされる。江戸時代に福島藩主堀田正虎、明治初期に信夫郡長が石の周辺を整備した(以上は主に小学館「日本大百科全書に拠る)。以下、より詳しくは、私は私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅21 早苗とる手もとや昔しのぶ摺』の注で、可能な限り、詳しく説明したつもりでいるので、そちらを参照されたい。
「桒折(こうり)より半里ばかり脇(わき)、節黑(ふしくろ)川の先にあり」「桒」は「桑」の異体字。現在の福島県伊達郡桑折町(こおりまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。しかし、その市街地は文知摺観音の真北で、八キロメートルは有に離れており、地図上ではどう見ても「半里」でもなければ、「脇」でもない(普通、当時、陸奥を表現する場合に、先の北位置の場所を指して、そこを起点に(「より」)南を指して「脇」とは言わないと私は思う)。「節黑(ふしくろ)川」なんてない。桑折と文知摺観音を隔てている川は阿武隈川及びその支流の胡桃川である(但し、これは地名かも知れない。しかし、例えば「黒川」という地名は周辺に現認出来なかった)。どうもおかしい。そこでただなんとなく「桑折」の「脇」で「半里」で調べてみた。すると、桑折の東に、気になる川の名を見出した。「摺上川」である。ここは現在の桑折の町域から二キロ程(「半里」)離れた位置にある。ただ、文知摺観音は、この記載時に既に「文知摺石」として知られていたわけだから、その比定地を動かすわけにもゆかぬ。取り敢えず、私の消化不良の部分をそのままに記しておくこととする。
「長〔ながさ〕一丈二尺」長幅約三メートル九十一センチ。今の石より一メートルばかり大きいぞ?
「幅六尺ばかりの石也」短幅約一メートル八十二センチ。
「土産(つと)」①では無粋に「どさん」とルビする。③のそれをここでは採った。]