子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十四年 「墨汁一滴」
「墨汁一滴」
「墨汁一滴」が『日本』に出はじめたのは一月十六日からである。居士がこれを草することを思立って、二回ほど文章を送ったところ、一向新聞に出ない。この事は大に居士を失望せしめた。そこで鼠骨氏に書を送って、場所は択ばぬ、欄外でも差支ない、欄外を借りて欄外文学なども洒落れているが、欄外二欄貸さないだろうか、といった。毎日書くつもりではじめた「墨汁一滴」が載らないようでは新聞も読みたくない、病中は楽(たのしみ)が少いから、一の失望に逢った時慰めようがない、というのである。この書簡が十五日附のもので、その翌日から「墨汁一滴」は紙上に現れたのであった。
[やぶちゃん注:「墨汁一滴」はここに書かれた通り、新聞『日本』明治三四(一九〇一)年一月十六日から七月二日まで(途中四日のみ休載)百六十四回連載された。それは、以前にも紹介した国立国会図書館デジタルコレクションにある初出の切貼帳冊子で総てが見られる。それにしても、二回分のそれが、一向に掲載されなかったのは何故なのか? 或いは最初のそれ(前章注に電子化してある)に、編集者である当の鼠骨の贈った地球儀の話が出ることから、これを原稿というよりも彼宛ての年初の挨拶吟と誤認したものか? 二回目の原稿(翌日一月十七日のクレジット)の原稿も一月七日の会に岡麓が持ち来った年始祝いの七草を植えた竹籠の話で、最後に、
あらたまの年のはじめの七くさを籠に植ゑて來
し病めるわがため
という歌で締めくくっており、或いは、鼠骨は、この「墨汁一滴」と表題した二つの原稿は単なる歳旦の言祝ぎの二篇であり、まだ多少は続くかも知れぬから、孰れどこかでその標題で完結するであろうものを纏めて発表しよう考えていたのかも知れぬ。ところが、上記のような本格連載ものとして子規が考えていたことを知って、慌てて掲載したものではなかったか?]
「墨汁一滴」は最初から一行以上二十行以下ということを大体の限度としていた。その日その日思いついたことを記して行く点は『松蘿玉液』などに似ているけれども、文の短いに反して含蓄は甚だ多い。『松蘿玉液』以後における五年間が、単に居士の病苦をのみ募らしめたものでないことは、どの箇所を開いて見て明な事実である。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「墨汁一滴」の第十二回目の一月三十一日クレジットのもの。切貼帳で校合した。句読点は底本と切貼のそれを合わせて用いた。以下も同じ。]
人の希望は初め漠然として大きく後漸く小さく確實になるならならひなり。我病牀に於ける希望は初めより極めて小さく、遠く步行(ある)き得ずともよし、庭の内だに步行き得ば、といひしは四、五年前の事なり。其後一、二年を經て、步行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに餘りに小さき望かなと人にも言ひて笑ひしが、一昨年の夏よりは、立つ事は望まず、座るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつ程になりぬ。しかも希望の縮小は猶こゝに止まらず。座る事はともあれ、せめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥し得ば如何に嬉しからん、とはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早我望もこの上は小さくなり得ぬ程の極度に迄達したり。此次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釋迦は之を涅槃といひ耶蘇は之を救ひとやいふらん。
こういう世界は『松蘿玉液』時代の居士の想像を許さぬところであった。「墨汁一滴」の人に与える感銘が『松蘿玉液』の比でないのは固より当然といわなければならぬ。
居士は『日本』紙上におけるあらゆる執筆を廃し、「墨汁一滴」に一切を集中しようとした。歌に関する問題も俳句に関する問題も、やはり「墨汁一滴」で埒(らち)を明けようとした。格堂氏から預ったままになっていた平賀元義の歌を天下に紹介したのも「墨汁一滴」においてであった。居士は世に知られず、不遇の裏(うち)に一生を了った元義の歌が醇乎(じゅんこ)[やぶちゃん注:「純乎」とも書く。全く雑じり気のないさま。]たる万葉調なるを見て「一たびは驚き一たびは怪し」んだが、広くその歌を知らしめんとしてこの筆を執ったのである。「『万葉』以後において歌人四人を得たり。源實朝、德川宗武、井手曙覽(いであけみ)、平賀元義是なり」といい、
四家の歌を見るに、實朝と宗武とは氣高くして時に獨造[やぶちゃん注:初出に拠る。岩波文庫版もママ。底本は「独創」。]の處ある相似たり。但宗武の方、霸氣稍强きが如し。曙覽は見識の進步的なる處、元義の保守的なるに勝れりとせんか、但技倆の點に於いて調子を解する點に於いて曙覽は遂に元義に如かず。故に曙覽の歌の調子とゝのはぬが多きに反して元義の歌は殆ど皆調子とゝのひたり。されど元義の歌は其取る所の趣向材料の範圍餘りに狹きに過ぎて從つて變化に乏しきは彼の大歌人たる能はざる所以なり。彼にして若し自(みづか)ら大歌人たらんとする野心あらんか、其歌の發達は固より此に止(とど)まらざりしや必せり。其歌の時に常則を脱する者あるは彼に發達し得べき材能の潛伏しありし事を證して餘あり。惜しいかな。
という。居士の結論は常に断々乎としている。平賀元義は居士にょって顕揚(けんよう)せられた最後の歌人であった。「墨汁一滴」十二回を費(ついや)した元義の事は、直(ただち)に『心の華』に転載せられた。
[やぶちゃん注:前にも述べたが、平賀元義の賞揚は「墨汁一滴」の二月十四日(クレジット)から始まり、二月二十六日までの、十二回、一日のブレイクもなしに連載されている。以上の長い引用部は最後の二月二十六日分の最終段落総てで、その前に本文中で引用されてある「『万葉』以後において歌人四人を得たり。源實朝、德川宗武、井手曙覽(いであけみ)、平賀元義是なり」という箇所も同日分の第三段落の冒頭部である。]
歌に関する文章は必ずしも元義の事にとどまらぬ。有名な「鐡幹是ならば子規非なり、子規是ならば鐡幹非なり、鐡幹と子規とは並稱(ならびしやう)すべき者にあらず」という言葉もこの中にあり、短歌会の諸子に対する警策もまたこの中にある。或時の短歌会で、最もいい歌は誰にも解せらるべき者だという主張と、いい歌になるほどこれを解する人が少くなるという主張とが対立した一ことがあった。居士はこれを聞いて、「愚かなる人々の議論かな。文學上の空論は又しても無用の事なるべし。何とて實地に就きて論ぜざるぞ。先づ最も善きといふ實地の歌を擧げよ。其歌の選擇恐らくは兩者一致せざるべきなり。歌の選擇既に異(こと)にして枝葉の論を爲したりとて何の用にか立つべき。蛙は赤きものか靑きものかを論ずる前に先づ蛙とはどんな動物をいふかを定むるが議論の順序なり。田の蛙も木の蛙も共に蛙の部に屬すべきものならば赤き蛙も靑き蛙も兩方共にあるべし。我は解し易きにも善き歌あり、解し難きにも善き歌ありと思ふは如何に」と「墨汁一滴」に書いた。こういう問題に対する居士の所論は、坦々たる中道を行くの概(おもむき)があった。
[やぶちゃん注:前者「鐡幹是ならば子規非なり、子規是ならば鐡幹非なり、鐡幹と子規とは並稱(ならびしやう)すべき者にあらず」は一月二十五日クレジットのもの。全文を初出で電子化する。ここは句読点もママとした。
*
去年の夏頃ある雜誌に短歌の事を論じて鐵幹子規とへ並記し兩者同一趣味なるかの如くいへり。吾以爲へらく兩者の短歌全く標準を異にす、鐵幹是ならば子規非なり子規是ならば鐵幹非なり、鐵幹と子規とは並稱すべき者にあらずと。乃ち書を鐵幹に贈つて互に歌壇の敵となり我は明星所載の短歌を評せん事を約す。葢し兩者を混じて同一趣味の如く思へる者の爲に妄を辯ぜんとなり。爾後病牀寧日少く自ら筆を取らざる事數月未だ前約を果さゞるに、此の事世に誤り傳へられ鐵幹子規不可並稱の説を以て尊卑輕重に因ると爲すに至る然れども此等の事件は他の事件と聯絡して一時歌界の問題となり、甲論乙駁喧擾を極めたるは世人をして稍歌界に注目せしめたる者あり。新年以後病苦益〻加はり殊に筆を取るに惱む。終に前約を果す能はざるを憾む。若し墨汁一滴の許す限に於て時に批評を試るの機を得んか猶幸なり。
*
また、後者の長い引用は、三月二十七日クレジット分のほぼ全文である。宵曲が訳してしまった以下を頭の附ければ、全文となる。
*
先日短歌會にて、最も善き歌は誰にも解せらるべき平易なる者なりと、ある人は主張せしに、歌は善き歌になるに從ひいよいよ之を解する人少き者なりと。他の人は之に反對し遂に一場の議論となりたりと。
*]
落合直文氏の歌に対し、精細なる批評を試みたのも「墨汁一滴」においてであった。居士は毎日一首、多くても二首位の都合で、一々これを解析して微に入り細を穿つ評語を加えた。こういう精細な歌評は、居士以前に誰も企てぬものであったろうと思われる。
[やぶちゃん注:歌人で国文学者であった落合直文(文久元(一八六一)年~明治三六(一九〇三)年:陸前伊達藩の重臣鮎貝の家に生まれたが、国学者落合直亮(なおあき)の養子となった東京大学古典講習科中退。叢書「日本文学全書」の刊行や「日本大文典」などの国語辞典編輯等、国文学者としての業績の他に、「青葉茂れる桜井の」「孝女白菊の歌」の作者として知られ、和歌改良を目指して『浅香社』を結成、与謝野鉄幹・尾上柴舟らの門下を育てた。以上は平凡社「マイペディア」に拠る)の歌への「墨汁一滴」での批評は三月二十八日クレジット分から始まり、七日連続で四月三日分まで行われている。]
« 子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十四年 昨年今年明年 | トップページ | 子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十四年 歌また歌 »