諸國里人談卷之一 嵯峨釋迦
○嵯峨(さがの)釋迦
山城嵯蛾、淸凉寺(せいりうじ[やぶちゃん注:ママ。])の釈迦如來は、一條院の御宇、東大寺の奝然法橋(しうねんほつきやう)、宋國に入(いり)て、聖禪院(しやうぜんゐん)におゐて、優填(うてん)第二の模像を礼し、乃〔すなはち〕、佛工張榮を雇(やとひ)て模刻して、これを得、鄭仁德(ていにんとく)が舩に乘(のり)て歸る。又、一切經五千四十人巻、十六羅漢の畫像を獲(ゑ)て連臺寺(れんだいじ)に至る。大臣・公卿、車を下りて、これを拜す。其(その)優填(うてん)の模像を見〔みる〕に、今、嵯峨の淸涼院にあり【「元亨釋書」。】。
大念佛 每年三月九日より十五日に至ル。弘安二年ニ始(はじま)る。
御身拭(おみのごひ) 每年三月十九日。
當寺、舊(むかし)、融大臣(とほるのおとゞ)の山庄〔さんざう〕「棲霞觀(すいかくわん)」なり。貞觀年中に、改〔あらため)〕て、寺とし、空海に賜ふ。住持恒寂(こうじやく)を以〔もつて〕開祖とす。
[やぶちゃん注:「山城嵯蛾、淸凉寺(せいりうじ)の釈迦如來」現在の京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗五台山(ごだいさん)清凉寺(せいりょうじ/しょうりょうじ:現行も「凉」は(にすい))。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「清凉寺」によれば(下線太字やぶちゃん)、「嵯峨釈迦堂」の通名で知られ、中世以来の融通念仏の道場。初め華厳宗、後に浄土宗となった。『この寺の歴史には、阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という』二『つの寺院が関係している。この地には、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融』(弘仁一三(八二二)年~寛平七(八九五)年:従一位・左大臣。)『の別荘・栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる』寛平八年、『融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。その後』、天慶八(九四五)年になって、『重明親王』(しげあきらしんのう 延喜六(九〇六)年~天暦八(九五四)年:醍醐天皇第四皇子)『妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。一説では、「釈迦堂」の名の起こりは』、『この時であるという』。『棲霞寺草創から数十年後、当時の中国・宋に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然』(ちょうねん 天慶元(九三八)年~長和五(一〇一六)年:平安中期の東大寺の僧。俗姓は秦氏。京都出身。東大寺の観理に三論教学を、近江国石山寺の元杲(げんごう)に真言密教を学んだ。早い時期から入宋を志し、永観元(九八三)年、宋に渡り、天台山を巡礼した後、汴京(べんけい)を経て、五台山を巡礼、太宗から大師号や「新印大蔵経」などを賜って、日本への帰途についたが、途中、インドの優填王(うでんおう)が造立したと言う釈迦如来立像を模刻させ、胎内に、その由来記などを納めて、寛和二(九八六)年に帰国した。翌年、請来した釈迦像は京都上品蓮台寺に安置された。同年、法橋に任ぜられ、永祚元(九八九)年から三年間、東大寺別当を務めている。ここはウィキの「奝然」に拠った)『という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋』からの帰途(九八五年)、『台州の開元寺で現地の仏師に命じて』、一『体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インドの優填王』(うてんおう:ウダヤナ。インドのコーサンビー(憍賞弥国)の王。釈迦在世中、仏教を保護した王として知られる。漢字音写には他に「于闐(うでん)」「優陀延(うだえん)」がある)『が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので』、これはインド―中国―日本と伝来したことから、「三国伝来の釈迦像」、また、釈迦に生き写しとされるところから』「生きているお釈迦様」と呼ばれている。奝然は』、『日本に帰国後、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓に』、『この釈迦如来立像』『を安置する寺を建立しようとした。奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、延暦寺の反対にあい、その願いを達しないまま』、長和五(一〇一六)年、奝然は没した。その後、程経ずして彼『遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺で』、やがて、清凉寺が栄えたので、棲霞寺はこれと合併した。但し、現存の建物は元禄期のものである。『融通念仏との結びつきができたのは』、弘安二(一二七九)年『以降のことで』、『この年、大念仏中興上人と呼ばれる円覚が、当寺で融通念仏を勤修している。その後、当寺で大念仏が盛んになり、融通念仏の道場となった。嵯峨大念仏が初めて執行されたのは、下って』嘉吉三(一四四三)年のこととされ』、『その後、応仁の乱で本寺の伽藍は焼失するが』、文明一三(一四八一)年に再興された。享禄三(一五三〇)年に『円誉が当寺に入り、初めて十二時の念仏を勤修してより、本寺は浄土宗の寺となる。釈迦堂(本堂)は』、慶長七(一六〇二)年に『豊臣秀頼によって寄進・造営されたが、その後、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災し、また、大地震の被害もあり』、『伽藍の破損は甚大』であった。
本尊木造釈迦如来立像は北宋の仏師張延皎及び張延襲の作で、像高は一メートル六十センチメートル、『伝承では赤栴檀というインドの香木で造られたとされるが、実際には魏氏桜桃という中国産のサクラ材で作られている。頭髪を縄目状に表現し、通肩(両肩を覆う)にまとった大衣に衣文線を同心円状に表すなど、当時の中国や日本の仏像とは異なった特色を示し、その様式は古代インドに源流をもつ中央アジア(西域)の仏像と共通性がみられる』。これは既に一部を述べたが、『当時、宋に滞在していた奝然』が九八四年に、『当時の都であった開封(汴京)』(調べて見たところ、本文に出る「聖禪院」、正しくは「啓聖禪院」に、その原型であるインド渡来の像があった)『で優填王造立という釈迦の霊像を拝して、その模刻を志し』、翌年、『台州開元寺で本像を作らせた。以上の造像経緯は像内に納入されていた「瑞像造立記」の記述から明らかであり、背板(内刳の蓋板)裏面には』上記二人の『仏師の名が刻まれている』。『この釈迦像の模造は、奈良・西大寺本尊像をはじめ、日本各地に』百『体近くあることが知られ、「清凉寺式釈迦像」と呼ばれる』。昭和二九(一九五四年に『本像の背面にある背板(内刳』(うちぐり)の部分『を蓋状に覆う板)をはずして調査したところ、内部から造像にまつわる文書、奝然の遺品、仏教版画など多くの「納入品」が発見され』ているが、そのうちの『「五臓六腑」(絹製の内臓の模型)は、現存する世界最古の内臓模型であり』、『医学史の資料としても注目される』。『本寺の釈迦像は、前述のとおり』、十『世紀に中国で制作されたものであるが』、本邦に伝来後、『中世頃から』、『模刻像ではなく、インドから将来された栴檀釈迦像そのものであると信じられるようになった』。『こうした信仰を受け』、元禄一三(一七〇〇)年より、『本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まる。また、徳川綱吉の母である桂昌院の発願で、伽藍の復興がおこなわれた。
このように、三国伝来の釈迦像は信仰を集め、清凉寺は「嵯峨の釈迦堂」と呼ばれて栄えた』とある。沾涼のこの叙述は寛保三(一七四三)年であるが、正確な事実経緯(一部に誤りはある)を伝えている点で評価出来る。
「一條院の御宇」六十六代一条天皇(六十四代円融天皇(六十三代冷泉天皇の弟)の子)の在位は寛和二(九八六)年六月から寛弘八(一〇一一)年で、奝然の渡宋は永観元(九八三)年、帰国は寛和二年で、謂いとしては正しいとは言えず、六十五代花山天皇(冷泉天皇の子)の御宇とするのが穏当(花山天皇は寛和二(九八六)年六月二十二日、突如、十九歳で宮中を出、剃髪、仏門に入って退位したため、一条天皇は僅か七歳で即位している。これが藤原道家の策謀として「栄花物語」「大鏡」に描かれていることは高校の古文の教科書にも載るのでよく知られている)。
「優填(うてん)第二の模像」二像を彫琢した、その二体目の謂いか。
「佛工張榮」先の引用には「張延皎」と「張延襲」の二人の名が記されてある。
「鄭仁德」個人サイト『暗号「山上憶良」』の「宋の太宗への奝然の上奏文と献上品」に、台州寧海県の商人とある。
「連臺寺」京都市北区紫野十二坊町にある真言宗蓮華金宝山九品三昧院上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。確かに、ウィキの「上品蓮台寺」に『嵯峨清凉寺の本尊で、「三国伝来の霊像」として広く信仰を集めてきた釈迦如来像は、一時期、上品蓮台寺に安置されて』おり、「扶桑略記」によれば寛和三・永延元(九八七)年に『奝然が同釈迦像を宋から日本へ請来した際、一時この寺に安置し、後に清涼寺に移したという』とある。
「元亨釋書」虎関師錬(こかんしれん)著になる鎌倉末期の仏教史書。三十巻。元亨二(一三二二)年成立。仏教の伝来から鎌倉末期までの七百年間の仏教史を記し、内容は「史記」及び中国の高僧伝に倣って、高僧四百余名の伝記と、周辺的史実とを漢文体で記したもの。特に禅僧の思想を知る上で貴重であるが、親鸞を除き、道元を軽視するなど、筆者の偏見があることが指摘されている(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「大念佛 每年三月九日より十五日に至ル」嵯峨の大念仏(会(え))。陰暦三月六日から十五日までの十日間、人々が集まって念仏を唱えた行事(現在は三日間に短縮されている)。太鼓などを鳴らしては「ハハミタ」(「アーミダ」の祭儀伝承による特異転訛。以下の引用を見よ)と唱え、念仏後は仮面を被って町を歩いた。「WEB版浄土宗大辞典」の「嵯峨大念仏」によれば、『成立伝承によれば、十万は生き別れの母を求め法隆寺夢殿観音に祈願したところ、融通念仏をもって世の人びとを教化すれば願いがかなえられるという夢告をうけた。よって諸方に道場を設け融通念仏を弘め、夢告によって播磨国において参詣の群集の中の母に会うことができたという。したがって、この大念仏で唱える念仏は「アーミダ」と唱えるところを「ハハミタ」と唱えている。この大念仏は、もと一月・四月・涅槃会・盆・十夜に行われていたが、現在は四月一〇日より三日間』のみ『行われている。講員は嵯峨在住の人に限られ一〇人一組で組織されている。衣裳は常着の上に白袴、黒色の麻地の羽織(背中に大念仏と白く染め抜いたもの)を着て、肩ギヌ(赤白二色に染め分け)をつける。敲鉦たたきがね六、太鼓一、鰐口一の八人が仏前に向かって二列にならび、前列中央の者が導師となって句頭をつとめる。大念仏の式次第は、浄土宗の日常勤行式に準じて行われるが、摂益文の次に敲鉦・太鼓・鰐口による曲調のついた念仏を唱えて約三〇分で終わる。なおこの大念仏とともに無言狂言が行われる。これは壬生狂言と同じく十万の発願によるものといわれ、身振りだけの所作で大衆に仏教の教えを説くもので、演目は「釈迦如来」「しばり坊主」「時女」「釣狐」「花盗人」など二四種あるという。なお十三詣りの親子がこの狂言を見ると親子の縁がきれないとされる』とある。念仏よりも嵯峨大念仏狂言の方が有名になってしまっており、ネット検索を掛けても、やっと上記サイトで内容が腑に落ちた。
「御身拭(おみのごひ) 每年三月十九日」本尊のそれ。現行は四月十九日に行われている。
「山庄〔さんざう〕」「山莊」。
「貞觀年中に、改〔あらため)〕て、寺とし、空海に賜ふ」貞観は八五九年から八七七年であるが、この叙述はおかしい。そもそもが、空海は宝亀五(七七四)年生まれで承和二(八三五)年に没しているので、空海が没した時、源融(弘仁一三(八二二)年~寛平七(八九五)年)は満十三歳だ。改めて天子が寺にして下賜しようがないぜよ!
「住持恒寂(こうじやく)」誤り。始祖(開基)は先の奝然である。恒寂とは淳和天皇の第二皇子で、一時、仁明天皇の皇太子となった(後に廃太子)恒貞親王(天長二(八二五)年~元慶八(八八四)年)の法名である。彼は清凉寺直近の嵯峨大覚寺の初祖であるから、混同したものか。]
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