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2018/06/03

諸國里人談卷之一 大佛 (その二 方広寺大仏)

 

○京都大佛殿方廣寺は、天正十四年、太閤秀吉公、建立あり。本尊釈迦の大像は、華嚴の説法方廣佛(せつぽうほうこうぶつ)の躰相(ていさう)をうつせりと。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に方廣寺と号す。大德寺の古溪和尚をして、これに住せしむ。しかれども、寺、成就せずして遷化す。かるがゆへに、聖護院道澄(しやうごゐんどうりう[やぶちゃん注:ママ。])、別當職となる。慶長元年閏七月、大地震に、佛像、破壞(くゑ)す。秀吉公、いへらく、「佛の知見をもつて何ぞ其身の破壞(くゑ)をしらざるや。信ずるにたらず。」といひて、矢を以〔もつて〕これを射給ふ。然して後、信州善光寺の如來を請じて、此殿の本尊とす。時、方(まさ)に、殘暑酷烈なるに、俄に、飛雪、天に滿(みち)、寒氣、人を侵す。これ、如來の祟(たゝり)なりといふ。秀吉公、八月十八日に薨逝(こうせい)す。その前十七日、佛を善光寺へ還(かへ)さしむ。そのゝち、内大臣秀賴公、銅像を作らしめんとねがふ。慶長七年、鑄造(いぞう)の日、佛の腹の中より、火、出〔いで〕て、堂舎、燒失す。ふたゝび、堂を建(たて)むとおぼす。則(すなはち)、先(まづ)、大像を鑄て、後(のち)に堂を構へしむと云々。【「雍州府志」】

佛軀(ぶつたい)長十丈【但〔ただし〕、座壇とも。】

[やぶちゃん注:以下、底本では上下二段になっているが、ブラウザの不具合を考え、上下から左右の順に一段で示した。]

 面(おもて)長〔ながさ〕 一丈八尺

 眼 橫五尺五寸 竪二尺

 鼻 高〔たかさ〕五尺五寸 橫四尺

 鼻穴(はなのあな) 二尺

 口 橫八尺 堅二尺二寸

 耳 長さ一丈

 掌(たなごころ) 一丈二尺【指ノ端ニ至〔いたる〕。】

 拇(おやゆび) 周〔めぐり〕 六尺五寸

 膝 周 十三丈八尺

 羅※(らほつ) 数三百五十

           大二尺五寸

[やぶちゃん注:「※」=「享」+「力」。①・②・③、総てがこの字体。吉川弘文館随筆大成版では「勃」で翻刻し右にママ注記するが、私は従えない。無論、「螺髮」の誤りではある。]

 白毫(びやくがう) 徑〔わたり〕 二尺

 後光 高 十八間

    橫 九間

 蓮花壇(れんげだん) 各八尺

 堂棟(どうのむね) 高二十五間

 桁行(けたゆき) 四十五間二尺五寸

 梁間(はりま) 二十七間五尺五寸

 柱 九十二本 徑 五尺五寸

            四間隔立

[やぶちゃん注:前条の冒頭に注した通り、標題「大佛」の中の一条。所謂、現存しない「方広寺大仏」である。方広寺は現在の京都府京都市東山区にある天台宗の寺。以下、主にウィキの「京の大仏を元に記すと(下線太字はやぶちゃん)、方広寺が豊臣秀吉によって創建されたのは天正一四(一五八六)年で、前年の天正地震を受けて、奈良の東大寺に倣って、大仏の建立を計画、大仏殿と大仏の造営を始め、九年後の文禄四(一五九五)年、大仏殿がほぼ完成し、高さ約十九メートルの木製金漆塗坐像大仏(原型・初代が安置された。しかし、慶長元年(一五九六)年に発生した慶長伏見地震により、開眼前の大仏は倒壊し、この時、秀吉は大仏に対し激怒して、ここに記された罵倒を浴びせて大仏の眉間に矢を放ったと伝えられている。その僅か二年後の慶長三年に秀吉は死去してしまい、同年中に、大仏のない大仏殿で、ない大仏の開きようのない開眼法要が行われている。大仏殿は、高さ約四十九メートル、南北約八十八メートル、東西約五十四メートル『という壮大なものであり、また境内は、現在の方広寺境内のみならず、豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院そして三十三間堂をも含む広大なものであった。大仏殿は、現在、豊国神社が建つ位置にあった』。『秀吉の子豊臣秀頼が遺志を継ぎ、片桐且元を中心に』、『今度は銅製で大仏の再建を行ったが』、慶長七(一六〇二)年十一月、鋳造作業中の『鋳物師(いもじ)の過失により』、『仏像が融解して出火』、大仏殿は炎上(第二次・未完してしまった(これには別に放火による慶長九(一六〇四)年の焼失とする異説もあるという)。慶長一三(一六〇八)年十月には、再び、『大仏および大仏殿の再建が企図され』、『大仏殿の創建は』慶長一五(一六一〇)年から開始された。『徳川家康も諸大名に負担その他を命じ、自身も米の供与や大工・中井正清を送っている。また、大仏に貼られる金の板金は江戸で鋳造されている』。同年六月には『地鎮祭が行われ、大仏殿と銅製の大仏は』慶長一七(一六一二)年に完成(第三次・二代目した。慶長一九(一六一四)年には、四月に梵鐘が完成、『南禅寺の禅僧文英清韓に命じて銘文を起草させ』、『落慶法要を行おうとしたところ』、鐘銘の「國家安康 君臣豐樂」の文句を徳川家康が「家」と「康」の字を分断しているのは徳川氏への呪いの文句であり、後者は暗に豊臣家の繁栄を言祝ぐものと曲解、大仏開眼を延期させて豊臣方を憤激させた。秀頼は片桐且元を遣わして誤解を解こうとしたが、最初から意図的な物言いであった家康に容れられず、豊臣方も硬化、且元も大坂を退城して慶長十九年十月の「大坂冬の陣」を引き起す原因となった。所謂、「方広寺鐘銘事件」である。その後、江戸時代に入って、寛文二(一六六二)年の地震によって大仏が『小破し、木造で造り直されることになった。この大仏は「都名所図会」によれば』、『高さは六丈三尺』(約十九メートル)と、「奈良の大仏」(十四メートル)よりも『かなり大きかった。大仏殿は「東西二十七間、南北四十五間」』(四十九×八十一メートル)と、これもまた、奈良東大寺の大仏殿(五十七×五十五メートル)を凌ぐものであったという第四次・三代目。★本書の刊行時(寛保三(一七四三)年)に現存していたのはこれ★)。『東海道中膝栗毛では弥次北が大仏を見物して威容に驚き』、『「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さを描写する。壊れた』二代目の『方の大仏の銅は寛永通宝の鋳造に用いられたといわれる』。しかし、この三代目の木造大仏も寛政一〇(一七九八)年七月に『大仏殿に雷が落ち、本堂・楼門が焼け、木造の大仏も灰燼』『に帰した。「京の
京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン」という京のわらべ歌はこの時の火災のことを歌っている』とある。『その後は同様の規模の大仏および大仏殿が再建されることはなかったが、天保年間』(天保一四(一八四三)年頃か)『に現在の愛知県の有志が、旧大仏を縮小した肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進した。しかしそれも』、昭和四八(一九七三)年三月二十八日深夜の火災によって焼失している』(第五次・第四代目。『大仏がかつてそこにあったことの名残として今日、鐘銘事件のもとになった梵鐘が吊られた鐘楼(明治再建)と、諸将の名が刻まれた石塁や石塔を見ることができる。大仏殿の台座があったと考えられる場所は、大仏殿跡緑地として整備されている』とある(私は行ったことがない)。

[やぶちゃん注:「本尊釈迦の大像は、華嚴の説法方廣佛(せつぽうほうこうぶつ)の躰相(ていさう)をうつせり」方広寺大仏は初代から一貫して毘盧遮那仏である。毘盧遮那仏は正しくは釈迦ではなく、宇宙の真理を全ての人に照らして悟りに導く仏(天台宗では「法身仏」、密教では大日如来と見做す)で、確かに「華嚴の説法」=「大方廣佛華嚴經」(略称「華厳経」)に詳しく説かれてはいる。「方廣佛」の「方広」は「方等(ほうどう)」と書き、「方正にして平等」の意の梵語の漢訳語で、通常は大乗の教えを指すが、ここは「大方広仏」=毘盧遮那仏=「時空間を超越した絶対的な存在としての仏」を指している。

「大德寺」現在の京都府京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗龍宝山大徳寺。開基は大燈国師宗峰妙超。正中二(一三二五)年を正式創立とする。

「古溪和尚」蒲庵古渓(ほあんこけい 天文元(一五三二)年~慶長二(一五九七)年)は臨済僧。俗姓は朝倉氏(戦国大名)。越前国出身。大慈応照禅師。古渓宗陳(こけいそうちん)とも呼ぶ。ウィキの「蒲庵古渓」によれば、『出家して下野国足利学校で修学し、その後』、『京都大徳寺の江隠宗顕に師事した。天正元年』(一五七三年)、『笑嶺宗訢(しゅうれいそうきん)の法を継ぐため、堺南宗寺から大徳寺の住持職となった。この際に堺時代に知り合った千利休から祝儀を受けている。同年、利休に「抛筌斎(ほうせんさい)」の号を授けた』。天正一〇(一五八二)年、『織田信長が本能寺の変で横死すると、利休らの依頼を受けて百ヶ日法要を行い、羽柴秀吉が信長の葬儀を行った際にも導師を務めた』。翌天正十一年、『大徳寺に総見院を開創し』、翌十二年に『秀吉が信長の菩提寺として天正寺の建立を企図したとき、建立事業を任された。しかし』天正一六(一五八八)年、『石田三成との衝突がきっかけ』となって『秀吉の勘気に触れ』、『九州博多に配流となった』。『その後、千利休の援助により京へ戻り』、天正一九(一五九一)年には『豊臣秀長の葬儀の導師を務め』ている。しかし、『この年に発生した利休の切腹事件に絡んで、事件の発端となった利休の木像が大徳寺山門にまつられていた事件の責任をとらされた。その際、いたく立腹した秀吉が大徳寺の破却を試みるが、古渓が使者の前に立ちはだかり』、『短刀で命を絶とうとしたため、秀吉は慌てて使者を引き上げさせたと言われている。晩年は洛北の市原にある常楽院に隠遁した』とある。ウィキの「方広寺」によれば、豊臣秀吉は東大寺大仏に代わる大仏の造立場所を、『当初は東山の東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定で、小早川隆景を普請奉行とし、大徳寺の古渓宗陳を開山に招請した』。しかし、『大仏と大仏殿の造立は』、一旦、中止され、』『遣迎院の移転も途中で中止(おかげで遣迎院は南北に分立』してしまう『)された』。後の天正一六(一五八八)年に、『場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗佛光寺の敷地に変更して再開(佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転)した』とある。しかし、古溪和尚の遷化は慶長二(一五九七)年で、これは方広寺の大仏殿がほぼ完成して初代木製金漆塗坐像大仏が安置された文禄四(一五九五)年の二年後のことであり、ここで沾涼が「寺、成就せずして遷化す」というのとは齟齬する。開山は確かに古溪なのであるが、恐らくはこの初期のごたごた(これは禅僧とっては如何にも馬鹿馬鹿しい喧騒そのものでしかないと思う)中に、古溪は常楽院に隠棲してしまったのではなかろうか? そうした錯雑が後代にちゃんと伝えられなかった結果の誤りなのではないろうか? 識者の御教授を乞う。

「聖護院道澄(しやうごゐんどうりう)」「りう(りゅう)」は読みとしておかしい。また、吉川弘文館随筆大成版はこの本文を『道隆』としているのだが、従えない。①・②・③総てが「道澄」で「どうりう」とルビするからであり、これは戦国時代の僧で京都聖護院門跡であった道澄(どうちょう 天文一三(一五四四)年~慶長一三(一六〇八)年)のことしか思われないからである(聖護院道隆という人物はいない)。ウィキの「道澄」によれば、道澄は『関白太政大臣近衛稙家の子』で、『叔父の聖護院門跡道増に付いて得度し、園城寺長吏、熊野三山検校、大僧正、准三后を歴任』した。永禄三(一五六〇)年、『長尾景虎(上杉謙信)との約束に従って越後へ下向、翌年の景虎の関東出兵にも同道している。その後は織田信長、豊臣秀吉と親交を持ち、また和歌や連歌に通じた』。文禄四(一五九五)年、照高院を開基し』、『別當職となる』とある。どうも、ここも沾涼の叙述は微妙に変な感じを受ける。この沾涼の謂いが正しいとすると、この文禄四年に道澄は照高院(この寺は当時は方広寺の東直近にある東山妙法院にあった。後、「方広寺鐘銘事件」に関連して廃されている)を開基して別当職となると同時に、この方広寺の別当にも古溪和尚の後釜として就任したことになる。そういうことがないとは言わないが、大仏殿と大仏の造立を抱え、しかもごく近いとはいえ、別な寺の別当職も兼務するというのはどうか? やはりここも或いは伝聞情報の錯綜があるのかも知れないと思った。

「慶長元年閏七月、大地震」文禄五年閏七月十三日(一五九六年九月五日)慶長伏見地震。子の刻(午前零時頃)に発生し、京では伏見城天守(完成間近であったが、城内だけで六百人が圧死したとされる)・東寺・天龍寺・二尊院・大覚寺等が倒壊し、死者は一千人を超えた。現在の京都・伏見付近の有馬―高槻断層帯、及び六甲・淡路島断層帯を震源断層として発生したマグニチュード七・二五~七・七五程度と推定される内陸地殻内地震(直下型地震)。参照したウィキの「慶長伏見地震」によれば、『被害は京阪神・淡路島の広い地域に及び、大坂・堺・兵庫(現在の神戸)では家々が倒壊した。また、現在の香川県高松市でも強震を伴ったとされている』とある。

「信州善光寺の如來を請じて、此殿の本尊とす。……」ウィキの「方広寺」によれば、震災後、『秀吉は、夢のお告げと称して、倒壊した大仏に代わり、善光寺如来(阿弥陀三尊)(当時は甲斐に在り)を移座して本尊に迎えることを計画。木食応其』(もくじきおうご 天文五(一五三六)年~慶長一三(一六〇八)年:真言僧・出家前は六角氏に仕えた武将で、出家後は外交僧・勧進僧・連歌学者として活動した)『の尽力により』、慶長二年七月十八日(一五九七年八月三十日)に『善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された』。『これ以後』、『大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれることになり』、『如来を一目拝もうとする人々が押し寄せるようになった』一方、『秀吉は翌慶長』三年に『病に臥し、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年』八月十七日、『善光寺如来は信濃の善光寺へ戻されることとなったが、秀吉は』、まさにその翌日に没してしまったのであった。

「時、方(まさ)に、殘暑酷烈なるに、俄に、飛雪、天に滿(みち)、寒氣、人を侵す」上に示した通り、グレゴリオ暦の八月三十日であるから、この異常気象は半端ない

「内大臣秀賴公、銅像を作らしめんとねがふ。慶長七年、鑄造(いぞう)の日、佛の腹の中より、火、出〔いで〕て、堂舎、燒失す」やはりウィキの「方広寺」から引いておく。『豊臣秀頼は』慶長四(一五九九)年、『木食応其に命じて大仏(銅造)の復興を図るが』、慶長七(一六〇二)年、『流し込んだ銅が漏れ出たため』、『火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿は烏有に帰した』。

「ふたゝび、堂を建(たて)むとおぼす」慶長一三(一六〇八)年から再建開始。慶長一七(千六百十二)年には大仏に金箔を押すところまで完成し、慶長十九年、梵鐘が完成して家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなるも、かの「鐘銘事件」となるのである。

「雍州府志」江戸時代に刊行された山城国に関する最初の総合的地誌。著者は儒医黒川道祐(どうゆう)。全十巻。自序は天和二(一六八二)年と推定されるが、最終第十巻の板行は貞享三(一六八六)年。「大明一統志」に倣って、京都の所在する山城国を中国の雍州に擬し、まず、山城の地理・風土を概説、次いで神社門・寺院門・土産門・古迹門・陵墓門に分け、各部門ごとに山城八郡を順次、詳説している。特に特産物や商工業を記した土産門は資料として貴重である(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「佛軀(ぶつたい)長十丈【但〔ただし〕、座壇とも。】」これは無論、沾涼が本書を刊行した寛保三(一七四三)年当時に現存していた第四次・三代目の巨大な木造坐像の寸法である。この通りだと、座壇を含めた高さは約三十メートル三十センチとなるが、これは誇張も甚だしい。先に示した通り、この大仏の高さは六丈三尺で約十九メートルである。以下、比較数値資料を提示しようがないので、くれぐれも、眉唾、眉唾で見られたい

「面(おもて)長〔ながさ〕 一丈八尺」三メートル十五センチ。

「眼 橫五尺五寸 竪二尺」眼の横幅が一メートル六十六センチ七ミリほど。縦が(眼瞼間)一メートル二十一センチ。

「鼻 高五尺五寸 橫四尺」高さ(東大寺のケースと同じで突き出た鼻の高さととっておく)一メートル六十六センチ七ミリほどで、鼻の小鼻を含んだ横幅が約一メートル二十一センチ。

「鼻穴(はなのあな) 二尺」鼻の穴の直径が六十一センチ弱。先の引用に出た「東海道中膝栗毛」の弥次北の台詞。「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」。

「口 橫八尺 堅二尺二寸」唇の幅が約二メートル四十二センチ、口唇の上端から下端までの縦の長さが六十七センチ弱。

「耳 長さ一丈」三・〇三メートル。

「掌(たなごころ) 一丈二尺【指ノ端ニ至〔いたる〕。】」手首から中指の先までであろう。三メートル六十四センチ弱。先の引用に出た「東海道中膝栗毛」の弥次北の台詞「手のひらに畳が八枚敷ける」。

「拇(おやゆび) 周〔めぐり〕 六尺五寸」約二メートル二十七センチ。

「膝 周 十三丈八尺」座位の膝の広さであろう。約四十一メートル六十三センチ。

「羅※(らほつ) 数三百五十」「大サ二尺五寸」(「※」=「享」+「力」

「螺髮」の大きさ(頭皮からの高さ)であろう。約六十センチ七ミリ。

「白毫(びやくがう) 徑 二尺」仏の眉間にある右巻きの白い旋毛で、光を放つとされる。彫刻では主に水晶玉を象嵌して表現する。直径六十センチ六ミリ。

「後光 高 十八間」「橫 九間」舟形後背の高さは約三十二メートル七十二センチ。最大長の横幅が約十六メートル三十六センチ。最初の仏像の体長に合わせるなら、これくらいにしないとおかしいわけだが、ね。

「蓮花壇(れんげだん) 各八尺」約二メートル四十二センチ。

「堂棟(どうのむね) 高二十五間」四十五メートル四十五センチ。

「桁行(けたゆき) 四十五間二尺五寸」八十二メートル五十七センチ。先に示した通り、大仏殿は「東西二十七間、南北四十五間」(四十九×八十一メートル)であったあら、これは、珍しく堂の南北の長さにごく近い。

「梁間(はりま) 二十七間五尺五寸」四十八メートル七十五センチ。同前。

「柱 九十二本 徑 五尺五寸」柱の直径は一メートル六十七センチ弱。

「四間隔立」柱と柱の間が七メートル二十七センチほど隔たっているということ。]

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