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2018/06/12

北條九代記 卷第十二 楠正成天王寺出張 付 高時人道奢侈

 

      ○楠正成天王寺出張 付 高時人道奢侈

同五月[やぶちゃん注:正慶元(一三三二)年。]に、楠正成、又、天王寺邊に出張(しゆつちやう)す[やぶちゃん注:打って出た。]。六波羅より隅田(すだ)、高橋に五千餘騎を指副(さしそ)へて向けらる。正成、二千餘騎を以て、追落(おひおと)す。隅田、高橋、白晝に京都に逃上(にげのぼ)る。又、宇都宮治部〔の〕大輔公綱(きんつな)、七百餘騎にて向ひければ、楠、聞きて、態(わざ)と、天王寺を引退(ひきしりぞ)きたり。宇都宮、是を面目として、同七月二十七日、京都に上洛せしかば、楠、又、入替りしに、近國遠境(ゑんきやう)の軍勢、馳付(はせつ)けて、今は大軍にぞなりにける。天下、既に亂逆に及び、國家、漸く傾敗(けいはい)[やぶちゃん注:国が衰え滅びること。]に至れども、相摸守高時人道宗鑒(そうかん)は、行跡(かうせき)、更に改むる色なく、愈(いよいよ)恣(ほしいまゝ)に成りて、極信(ごくしん)正道の輩(ともがら)を隔てて近付(ちかづけ)ず、愛し仕ふる者とては、美女の媒(なかだち)、大酒(たいしゆ)の者、無道の利口[やぶちゃん注:道に外れた喋(しゃべ)くり。]、無益の内奏[やぶちゃん注:ここは内輪で申し上げる下らない話の意であろう。]、傾城[やぶちゃん注:遊び女(め)。]・双六(すごろく)[やぶちゃん注:双六の博奕打ち。]・猿樂[やぶちゃん注:猿楽法師。寺社に所属した滑稽な物真似や言葉芸をする職業芸能者。]・田樂[やぶちゃん注:田楽法師。予祝の田遊(たあそ)びやその派生芸を演じた僧形の職業芸能者。]、追從輕薄を以て世を謟(へつら)ふ輩(ともがら)、是を「善者(よきもの)」と心得て、朝夕に出頭せさせ、美酒、佳肴を前に列ね、終日(ひねもす)終夜(よもすがら)、醉(ゑひ)に和して、諸國の訴(うつたへ)をば、打捨てて聞く事なし。訴人、憂苦(うれへくるし)めども、知らず。鎌倉中に集置(あつめお)く所の美女三十七人、何(いづれ)も所領、二、三ヶ所を付けられ、この賂(まかなひ)[やぶちゃん注:この怪しげな大勢の連中を抱え続けるための賄いの費用。]の費(つひえ)、千萬とも限(かぎり)なし。新座・本座[やぶちゃん注:田楽で、新しく結成された新流行のグループと、旧来からあった伝統的なグループを、かく称した。]の田樂六十餘流、二千餘人、是を在鎌倉の大名、其分限に應じて、二、三人づつ、預けられ、美女、遊興の爲に高時一獻を勤め、田樂一曲を奏すれば、見物の中より、綾錦の小袖・大口[やぶちゃん注:「おほぐち(おおぐち)」大口袴。束帯を着用の際の表袴 (うえのはかま) の内側に穿く袴。裾口が大きく開いており、通常は表裏ともに紅 (くれない) の平絹を用いた。]・直垂・水干等の裝束を抛(なげ)出して、是を積む車、山の如し。八珍[やぶちゃん注:珍味。]の備(そなへ)、九獻[やぶちゃん注:何度も巡る献盃の儀。]の肴、數を盡して調味を飾る。高時入道、是に心を蕩(とらか)されて[やぶちゃん注:「とろかされる」の意。酒色に溺れて締まりがなくなり。]、夜晝の境(さかひ)を忘れ、その隙(ひま)には、唐(から)の、日本(やまと)の奇物を愛し、座に列ねて、翫(もてあそび)とす。或時、庭前に犬の嚙合(かみあひ)けるを見て、高時、面白き事に思ひ、是を好む事、骨髓に徹る[やぶちゃん注:すっかり夢中になる。]。媚(こび)を求むる佞人(ねいじん)[やぶちゃん注:言葉巧みに、表だけは諂(へつら)う、心の邪(よこしま)な者。]共、奇犬を求めて進ぜしに、世に奇犬を飼立(かひた)てて、犬一疋を、錢、二、三十貫より百貫に及びて買取り、魚鳥(ぎよてう)を飼うて食とし、錦繡(きんしう)を著(き)せて衣とす、金銀を鏤(ちりば)め、珠玉を飾りて[やぶちゃん注:その「お犬さま」の衣装や敷物・繫ぐ綱や紐などからの装飾として、である。]、高時に奉れば、思掛けざる恩祿に預る。人、科(とが)あるも、宥(なだ)めらる[やぶちゃん注:許されてしまう。]。道行人(みちゆきびと)も公犬(こうけん)[やぶちゃん注:「お犬さま」。]の通るに逢ひぬれば、馬より下(お)りて、笠を脱ぎ、道の傍(かたはら)に跪く。天下の諸國この風に效(なら)ひ、「鎌倉樣(やう)の犬合(いぬあはせ)」[やぶちゃん注:「樣」は「風の」の意。]とて地頭・御家人まで、儀式を整へて弄(もてあそ)ぶ。諸大名の手に、五疋・三疋づつ預りて、賞翫輕(かろ)からず、肉に飽き、錦(にしき)を著たる奇犬、鎌倉中に充滿して、四、五千疋に及べり。月に十二度(ど)の犬合には、一族・大名・御内[やぶちゃん注:「みうち」。御内人(みうちにん)。北条得宗家に仕えた武士・被官・従者。]・外樣(とざま)の人々、堂上堂下に座を列ねて、見物す。兩陣の犬共、二百疋を放し合(あは)せ、入違(いれちが)へ、追合(おひあは)せて、上になり、下になりて、噉合(かみあひ)ける有樣、其聲、天地に渉つて洋々たり。戰(たゝかひ)に雌雄を決し、郊原(かうげん)[やぶちゃん注:野原。]に尸(かばね)を爭ふに似たり。「皆、是、鬪諍(とうじやう)死亡の前相(ぜんさう)なり」と、心ある人は眉を顰め、汗を握る。是等の費に財寶を散(ちら)し、正税(ぜい)官物(くわんもつ)[やぶちゃん注:租税と上納物。]に募りて、民を貪り、百姓を虐(はた)りける[やぶちゃん注:「徴(はた)る」は、そうした税徴収や献上品を「催促する」以外に、「責め立てる・虐待する」の意をメインとしている。]程に、諸國の郡縣、人、悴(かし)け[やぶちゃん注:痩せ衰え。すっかりみすぼらしくなり。]、家、衰ふ。されば、『庖(くりや)に肥えたる肉あり、廐(うまや)に肥えたる馬あり、民に飢(うえ)たる色あり、野に餓莩(がへう)あり。これ、獸(けもの)を率(ひき)ゐて、人を食(はま)しむるに異ならず』と、孟子の云ひしは實(げ)にさる事ぞかし。高時入道は、奢侈(しやい)に躭(ふけ)りて、政道に暗く、管領長崎高資は、逆威(ぎやくゐ)[やぶちゃん注:悪逆非道な権威。]を振(ふる)うて、主君を輕(かろし)め、奢(おごり)の甚しき事、云ふ計(ばかり)なし。高時入道、竊(ひそか)に謀つて、高資が一族兵衞尉高賴(たかより)に仰せて、高資を殺さんとす。その事、顯れて、高賴、却(かへつ)て奧州へ流され、高資、愈、逆威強し。政理、邪(よこしま)に重欲を行ひ、人望に背く事、重疊(ぢうでふ)せしかば、上、恨み、下、憤りて、世の中、かく亂れ立ちたるこそ、淺ましけれ。

[やぶちゃん注:標題の「奢侈」は本文に出る通り、「しやい」とルビするが、これは現在と同じく「しやし(しゃし)」が正しい。「度を過ぎて贅沢なこと・身分不相応に金を費やすこと」の意。湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」巻五の四項目「相模入道弄田楽(でんがくをもてあそび) 幷(ならびに) 鬪犬の事」及び、巻六の「楠出張天王寺事(くすのき、でんわうじにでばりのこと) 付(つけたり) 隅田(すだ)高橋 幷(ならびに) 宇都宮〔が〕事」を主として、「将軍記」の巻五の「七月」、「日本王代一覽」の巻六の他、「太平記評判祕傳理盡鈔」(たいへいきひょうばんひでんりじんしょう:江戸時代に広まった太平記」の注釈書。全四十巻。近世初期、日蓮宗の僧大運院陽翁(永禄三(一五六〇)年~元和八(一六二二)年?)が纏めたものと見られもので、「太平記」の本文に沿って奥義を伝授する体(てい)のもの。「伝」(本文にない異伝)と「評」(軍学・治世などの面から、本文を論評した部分)から成る。ここはウィキの「太平記評判秘伝理尽鈔」に拠った)の巻三「主上御夢 付 楠事」に基づくとされ、『高時の行状について、『太平記』の犬を好む記事に『太平記評判秘伝理尽鈔』での奢侈ぶりを添え、高時が政道に暗く、家臣高資に侮られ』、『世情の乱れをもたらしたと批判する』と記されておられる。

「隅田(すだ)」隅田通治(みちはる)。藤原姓。和歌山県橋本市隅田出身の武士(新潮日本古典集成「太平記 一」(山下宏明校注・昭和五二(一九七七)年刊)の注に拠る)。角川文庫「太平記(一)」で岡見正雄氏は『隅田党(紀伊国伊都郡隅田荘に拠った族的武士集団、此頃隅田通治が一族を率いている)の武士』とする。

「高橋」前書に『未詳』とする。同じく岡見氏は『紀伊国守護代であったか』と注されている。

「宇都宮治部〔の〕大輔公綱(きんつな)」宇都宮公綱(乾元元(一三〇二)年~延文元/正平一一(一三五六)年)。例のサイト「南北朝列伝」のこちらには、非常に詳細な事蹟が載り、また、これ、「太平記」を紙芝居のように語っておられて、非常に面白い。引用させて貰うと、『下野の有力御家人・宇都宮氏の第』九『代当主で、南北朝動乱の前半を生きた』人物で、「太平記」でも『要所要所で登場し、良くも悪くも』、『印象に残る名物男でもある』とあされ、『宇都宮氏は宇都宮明神(現二荒山神社)の神官職から有力御家人となった一族。鎌倉幕府の草創期から配下の紀(益子)・清(芳賀)両党を率いて「坂東一の弓取り」と武勇の誉れが高かった。宇都宮公綱は初名は「高綱」だったとされ、これは当然』、『北条高時の一字を与えられたものである。「公綱」への改名時期は不明だが、鎌倉幕府滅亡後と考えるのが自然ではなかろうか』とある。ここにある通り、楠正成が『天王寺方面まで進出し、六波羅軍を破って兵糧を確保』すると、『これを討つべく』、『関東からやってきていた宇都宮公綱が紀・清両党を率いて出馬することになる』。「太平記」では『両者の対決を講談調に面白く語っているが、時期が前年の』七『月にさかのぼらされており、内容をそのまま信用できるわけではない』と注意を促しておられる。取り敢えず、「太平記」に添うと、元弘三/正慶二(一三三三)正月二十二日、『宇都宮公綱は六波羅探題・北条仲時の指名を受けて』、『あえて自分一人、数百の小勢を率いて天王寺へ出陣した。正成は「宇都宮が小勢で出て来たのは決死の覚悟であろう。しかも宇都宮といえば坂東一の弓取りである。紀・清両党も戦場では命知らずの連中だ。そんな軍と戦ってはこちらも大きな被害を受けよう。この戦いで全てが決するわけでもない」と言って戦わずに金剛山方面に退却した。この「宇都宮出陣を受けて楠木軍が退却した」事実は公家の二条道平が』正月二十三日の『日記の中で「仙洞(上皇の御所)の女房から聞いた」と書いており、都でかなり評判となっていたことがわかる』。『勢いに乗った公綱は放火・略奪などの威嚇行動をしながら楠木軍の城(赤坂城か?)へ迫ったが、このとき正成が味方の野伏らに夜の山でかがり火をたかせ、あたかも楠木軍が大軍であるかのように見せかけたため』、『宇都宮軍は恐れを抱き、こちらも戦わずに撤退してしまう。ただし』、『信用のおける戦闘記録である』「楠木合戦注文」では、二十三日に『宇都宮の「家の子」の「左近蔵人・その弟右近蔵人・大井左衛門以下十二人」が楠木の城へ攻め入り、かえって生け捕りにされてしまったとの記事がみえ、結局戦況が悪いので』、二月二日、一先ず、『京都に帰ったというのが真相のようである』。この年、閏二月から「千早城の戦い」が始まるが、『楠木軍の奮戦で』、『まともな戦闘はひと月足らずで終わり、あとは持久戦となった』。「太平記」に『よれば』、『このとき』、『再び』、『宇都宮公綱が紀清両党を率いて出陣し、一時は敵城に肉薄するほどの奮戦を見せ、それがうまくいかないとみると』、『前面に兵を置いて防戦させながら、スキ・クワを手に』、『山城そのものを掘り崩して突破を図ろうとしたという(坑道戦を試みた可能性もあるが、「太平記」本文ではそうは読み取れない)。昼夜の作業を続けるうち』、『三日のうちに大手の櫓を崩すことに成功したため、他の武士たちも「最初からそうすればよかったんだ!」とみんなクワを手に土木作業に打ち込み始めた。しかし』、『さすがに』、『山一つを崩すまでには時間が足らず』、『結局無駄に終わってしまった』と、「太平記」は記すが、『このあたりの描写は「面白さ優先」の感が強く、そのまま事実と見るわけにもいかない』。五月七日、『足利高氏により』、『六波羅探題が攻め落とされ』二日後の五月九日、『そのことを知った千早城包囲軍は崩壊した。その主力は』、一先ず、『奈良に入って』、六月まで『様子をうかがったが、当初』、『奈良の入り口の般若寺の守りに入っていた公綱は』、『投降を呼びかける後醍醐天皇の綸旨を受け取って』、『一足先に京に入っている(「太平記」)。幕府軍の有力武将である公綱にわざわざ綸旨が出されたのは奇異にみえるが、同族の宇都宮通綱が』、五月十八日に『後醍醐側に投降して後醍醐の京都凱旋にも付き従っており、早くから投降のための工作をしていたらしい。宇都宮氏は関東の有力御家人であり、北条一門でもなかったので』、『投降させた方が得策、という後醍醐側の思惑もあっただろう』。『後醍醐天皇による親政「建武の新政」が始まると、公綱は有力武家として重んじられ、土地問題処理を目的とした「雑訴決断所」の奉行メンバーに名を連ねた。彼は畿内担当の一番に配置されているが、ここにはかつて名勝負(?)をした楠木正成も配置されている』(以下、「建武の親政」の破綻から、足利軍への投降、はたまた、後醍醐側への復帰、足利軍との攻防、後醍醐の尊氏との講和による京都への帰還、後醍醐の吉野入りへの追従はリンク先を読まれたい)。その後、『このあとどのように行ったかは不明だが、公綱は拠点の下野・宇都宮に帰還して』おり、延元二/建武四(一三三七)年八月、『奥州の北畠顕家が再度の上洛軍を起こすと、公綱はこれに呼応し』、『軍勢をひきいて合流した。ところが重臣の「清党」である芳賀禅可(高名)が公綱の嫡子・加賀寿丸(氏綱)を擁して宇都宮城にたてこもって足利方につき、北畠軍を妨害した。あくまで南朝につこうとする公綱に対し』、『宇都宮一族の中でも批判の声があがっていたことがうかがえる』。『結局』、『公綱は顕家に従って西上』、翌延元三/建武五(一三三八)年の『美濃・青野原の戦いにも参加している。その後』、『北畠軍は奈良から河内・和泉へと転戦し』たものの、五『月に崩壊すするのだが、この間』、『公綱がどこで何をしていたかはよく分からない。少なくとも顕家ともども戦死したわけではなくどこかで生きていたはずだが、自身の拠点である下野では自身の子である氏綱とそれを助ける芳賀禅可が足利方の旗幟を鮮明にしていたため、帰るに帰れずにいたのではないかと想像される。こうした事情からこれ以後の公綱の消息はほとんど分からなくなってしまう』とある。是非、リンク先の元を読まれんことを!

「『庖(くりや)に肥えたる肉あり、廐(うまや)に肥えたる馬あり、民に飢(うえ)たる色あり、野に餓莩(がへう)あり。これ、獸(けもの)を率(ひき)ゐて、人を食(はま)しむるに異ならず』と、孟子の云ひし」「餓莩(がへう)」は既注既出。現代仮名遣では「がひょう」。「莩」は、これだけでも「飢え死に」の意。以上は、「孟子」の巻之一の「梁惠王章句上」の四章に出る。

   *

梁惠王曰、寡人願安承教、孟子對曰、殺人以梃與刄、有以異乎、曰、無以異也、以刄與政、有以異乎、曰、無以異也、曰、庖有肥肉、廏有肥馬、民有飢色、野有餓莩、此率獸而食人也、獸相食、且人惡之、爲民父母行政、不免於率獸而食人、惡在其爲民父母也、仲尼曰、始作俑者、其無後乎、爲其象人而用之也、如之何其使斯民飢而死也。

   *

 梁の惠王、曰はく、

「寡人、願わくは安んじて敎へを承(う)けん。」

と。

 孟子、對えて曰はく、

「人を殺すに梃(つゑ)[やぶちゃん注:棍棒。]と刄(けん)とを以つてするは、以つて、異なること、有りや。」

と。

 曰く、

「以つて、異なること無し。」

と。

「刃と政(まつりごと)とを以つてするは、以つて、異なること、有りや。」

と。

 曰く、

「以つて、異なること無し。」

と。

 曰く、

「庖(くりや)に肥肉有り、厩に肥馬有り、民に飢色有り、野に餓莩(がへう)有り。此れ、獸(けもの)を率(ひき)ゐて、人を食(は)ましむるなり。厚く、民を斂(れん)して、以つて、禽獸を養ひて、民を飢えさせ、以つて死なせしむるは、則ち、獸を驅(か)つて人を食ましむるに異なること無し。獸、相食むすら、且つ、人、之れを惡(にく)む。民の父母と爲(な)りて、政を行ひ、獸を率ゐて、人を食ましむることを免れずんば、惡在(いかん)ぞ、其れ、民の父母爲(た)らんや。仲尼[やぶちゃん注:孔子。]曰はく、『始めて俑(よう)を作る者は、其れ、後(のち)、無からんか。」と。其の人に象(かたど)りて之れを用ひしが爲(ため)なり。之れ、如何(いかん)ぞ、斯(そ)の民をして、飢えて死なしめんとは。」

と。

   *

孔子の「俑」の部分であるが、この「俑」は、かの「兵馬俑」のそれと同じで、埋葬に従がわせるために拵えた木製の人形(ひとがた)を指す。孔子はこの習慣の中に、本来の殉死させたい願望を鋭く嗅ぎ取って、これを人間の尊厳に対する侮辱として憎んだのである。

「高資が一族兵衞尉高賴」(生没年不詳)は長崎高資の父長崎円喜(高綱)の弟。貞時・高時時代の御内人で、兄・高綱の補佐役として幕府奉行人を歴任した。「保暦間記」によれば、高時に甥に当たる高資の暗殺を命ぜられたが、失敗し、流罪となった。]

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