諸國里人談卷之二 天狗遊石
○天狗遊石(てんぐのあそびいし)
伊賀國岡山に、むかしより、「天狗の遊び石」といひつたへたる石あり。方八尺ばかりにして、上、眞平(まつたひら)に切立〔きりたて〕たるごとくなるが、山の崕岸(がけぎし)にありて突落(つき〔おと〕)さば、おつべかりける場所也。寶永のころ、大守、庿所(びやうしよ)の禮拜石(れいはいせき)に宜(よろし)きとして、𢌞〔めぐ〕りの土を穿(うがち)て、谷へつきおとしければ、何の事なく、落たり。大勢の人夫をして、日每に、これを引〔ひき〕て、上野(うへのゝ)城下の坂口まで一里ばかりの所へ引付〔ひきつけ〕たり。其日、俄(にわか)に大白雨(〔おほ〕ゆふだち)して、雷(いかづち)、地を覆(くつがへ)す。よつて、人夫を引く。夜に入〔いり〕て、益(ますます)、やまず。やうやう、明方に靜(しづま)りける。然(しかる)に件(くだん)の石、夜中(やちう)に、元の山上へ、引戾(〔ひき〕もど)して、あり。依(よつ)て、其事を止(とゞ)む。
[やぶちゃん注:「天狗の遊び石」同名の菓子を現地の「伊賀菓庵山本」が販売しており、そこには『伊賀民話銘菓』と銘打っているので、伝承は残っている。「伊賀國岡山」三重県伊賀市寺田のこの附近(グーグル・マップ・データ)。「岡山口」というバス停や「岡山遊園地」があった。更に調べた結果、やはりここでよかった。個人サイト「View halloo!!」のこちらのページを見られたい。石がこの園地内にあることもここで判った。最初の案内板の写真の右のピークの中腹やや上に「天狗の遊び石」とある。更に解説(案内板の翻刻か)を引かせてもらうと、『その昔、伊賀国の殿様が亡くなった時』(本条は亡くなる前でやや異なる)、『重臣たちは立派なお墓をつくろうと、四方八方を尽して石探しをした。その時、この岡山の石が選ばれたが、多くの人夫を使って運搬の途中、にわかに雷鳴をとどかす大雨が降った。その日はやむなく作業を中止し、翌朝雨がやんだので現地に行ってみると、何と運んできた筈の石が姿を消していた。石はいつの間にか元の岡山へ戻っていたので、これはきっと、普段この石を遊び道具に使っていた天狗が、大雨を降らせて取り返したのだと、里人がうわさをしたそうな』とある。
「寶永」一七〇四年から一七一一年まで。
「大守」伊賀は津藩(つはん)の領有地で、宝永年間の藩主は第四代藤堂高睦(たかちか)と養子の第五代藤堂高敏の孰れかである。
「庿所(びやうしよ)」廟所。
「禮拜石(れいはいせき)」墳墓の手前に敷く石であろう。吉川弘文館随筆大成版はここを『礼許石』と翻刻するが、採らない。
「上野(うへのゝ)城下の坂口」上野城は、現地の西方、現在の三重県伊賀市上野丸之内(上野公園)にあった伊賀上野城。ここ(グーグル・マップ・データ)。]