諸國里人談卷之三 淺間
○淺間
信州淺間嶽は佐久郡(さくのこほり)也。頂(いたゞき)、常に燃(もゆ)る。往昔(そのかみ)、大きに燒(やけ)たる時、吹出(ふきいだ)したる石也とて、輕井澤・沓掛(くつかけ)の間の曠原(くはうげん)に、燒石(やけいし)、限りなくありける。每年四月八日潔齊して登山(とうさん)するなり。人、皆、竹の筒に水を貯へ、草鞋を浸(ひた)して、火氣を防ぐ便(たより)とす。麓より四里半登るといへども、佐久郡は、多く、淺間山の内なり。上州より碓氷峠まで、自然(じねん)、上(あが)りにして、凡(およそ)四里ほど登る也。峠より輕井澤へは半里くだる也。是によつて考ふれば、上州地〔じやうしうぢ〕よりは、巓(いたゞき)まで、凡〔およそ〕八里の高山なり。富士は登る事、九里也。さのみかはらず。
[やぶちゃん注:二文目に現われる「頂」は原典では「頂」の上全体に(やまかんむり)が附された字体であるが、表記出来ないので、これに代えた。浅間山(あさまやま)は、現在の長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある成層火山で標高は二千五百六十八メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在でも活発な活火山で、今二〇一八年現在、火口周辺規制(噴火警戒レベル2)で山頂と火口付近は入山禁止である。
「每年四月八日」は①・②に拠った。③では「四月四日」なのであるが、調べてみると、古来の浅間山の「山開き」の日は「卯月八日」と称し、旧暦四月八日と決まっていたからである(例えば寺子屋サロン氏のブログ「”現在・過去・未来” 歴史の日暦」の「浅間山大噴火」を見られたい。なお、そこにも少し記されてあるが、本書刊行(寛保三(一七四三)年)から四十年後の「天明の大噴火」の最大の噴火は天明三年七月八日(一七八三年八月五日)で、山開きの翌日であった(実際にはその二日前の七月六日から噴火活動は続いてはいた)。溶岩流出・火山灰噴石降下・火砕流・土石流が発生、それらによって吾妻川が閉塞、直に決壊し、大洪水を引き起こし、被害は利根川にまで及んだ。この時の犠牲者は千六百二十四人(内、上野国一帯だけで千四百人以上)・流失家屋
千百五十一戸・焼失家屋五十一戸・倒壊家屋百三十戸余りであった(以上はウィキの「浅間山」に拠った)。
「沓掛」浅間山の南東麓の軽井沢町にある旧宿場町。東方に碓氷峠を控え、軽井沢・追分とともに中山道の浅間三宿として知られた。現在の長野県中軽井沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。]