子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十二年 出遊頻々
出遊頻々
「牡丹句録」を記念として厄月を切抜けた居士は、後半期に至って元気を取戻した。三月、四月と催したきり、また中絶になっていた歌会を七月から毎月開くこととし、その結果を『日本』に発表する。「歌話」を連載する外に「夏の草の花」「病牀瑣事」などの随筆が出る。『ホトトギス』にも従前通りいろいろなものを発表するようになった。
「歌話」を草せんとしてはじめて田安宗武の歌を見、「驚喜雀躍に堪へず」車を駆(か)って神田に虚子氏を訪(と)うたのは八月二十三日であった。この日の事は「ゐざり車」といふ文章に尽されている。飄亭氏に「どうして来た」といわれて、「宗武にうかれて来た」と答えたほどで、動機は正にそこにあったが、一旦外に出るとなると、沿道にあるものを一物も逃さぬように観察する。夜になって帰る車上でも、北方の空に稲妻の閃くのを見て、稲妻十句を考えるという風であった。-年何回という居士の外出は、常人の想像を許さぬ重要なものだったのである。
[やぶちゃん注:「歌話」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから読めるが、田安宗武については、ここから始まる。
「田安宗武」(正徳五(一七一五)年~明和八(一七七一)年)は第八代将軍徳川吉宗の次男で、享保一六(一七三一)年に田安家を興した。国学者であると同時に歌人でもあった。初め荷田在満に学んだが、意見が対立し、後、賀茂真淵の指導を受けた。歌人としては、初め新古今風であったが,真淵の影響で万葉風に染まり、実情・実感に基づいた優れた和歌を多く残した。国学者としての著書は少ないが、安永六(一七七七)年に編纂された遺稿集「玉函叢説」には、表音式の見解が見え、後の上田秋成に大きな影響を与えた。次の段に出る歌集「天降言(あもりごと)」は没年以後に成ったものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]
田安宗武の『天降言(あもりごと)』はいたく居士をよろこばした。勁健(けいけん)にして高華、古雅(こが)にして清新なる特色の外に、一見平凡のような歌を挙げて、その平凡の竟(つい)に平凡ならず、及び易からざることを論じたのは、居士の眼孔の一頭地を抽(ぬ)く所以であろう。「宗武は『萬葉』を學んでその骨髓を得たる者、その歌多くは萬葉調なり。されど『萬葉』を固守して其範圍を脱する能はざりしが如き無能者にはあらず」といい、『万葉』以外に得たるものとして、三句切の多いこと、てには止の多いことを算えている。これなども居士の意見として頗る味うべきものがある。実朝以後において居士の第二に得た歌人は宗武であった。
[やぶちゃん注:以上は「歌話」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)。]
八月二十八日、居士は杖を買い求めて羯南翁の許まで歩いて行ったが、途中で閉口して帰りは人の背に負われて来た。「四年寐て一たびたてば木も草も皆眼の下に花咲きにけり」の歌、「杖によりて立上りけり萩の花」の句はこの際のものであろう。こういうよろこびもまた健康者の想像の外にある。
九月二十八日にはまた遊意動いて「寐ながらに足袋はき帶結び」車で出た。この時は人を訪うのでなしに、根岸の附近を廻って歌を作るのが目的であった。この紀行が「道灌山」一篇となって『日本』に現れた。得るところの歌二十三首、外に俚歌(りか)が一つある。当時茅ヶ崎に病を養いつつあった佐藤玉山(宏)はこれを読んで「四十度の熱を載(の)せつゝ車遣(や)る道灌紀行見るもしづ心無し」の歌を居士の許に寄せ來(きたっ)た。玉山氏は『日本新聞』の一人、専ら外交問題に筆を執った人である。居士は「世も同じ病も同じしかれども我より若き君をあはれむ」の一首を贈って慰めたことがあったが、「道灌山」を読んで「しづ心無し」と気遣った人は、この年十一月十三日、三十歳を一期(いちご)として遂に起たなくなってしまった。
[やぶちゃん注:「道灌山」は「国文学研究資料館」の「電子資料館」にある「近代書誌・近代画像データベース」の山梨大学附属図書館近代文学文庫所蔵の「正岡子規 竹の里歌全集」の画像で読める。随筆というよりも、語りが前書風に長く挟まった歌群と言えるものである。
「佐藤玉山(宏)」詳細事蹟不詳。]
闇汁(やみじる)会とか、柚味噌(ゆみそ)会とかいうものが催されたのもこの秋の事である。ほととぎす発行所即ち虚子氏の許に集った人たちの間に、闇汁の催しが提議されて、各〻買って帰ったものを大鍋で煮て飽食するという事、医者になって帰国する露月氏を送るべく、道灌山に会した時、持寄(もちより)の御馳走の中に柚味噌があったという事、いずれも平凡な事柄に過ぎぬ。局外者から見れば楽屋落になりそうな事実を、「闇汁図解」なるものを作って、座席の模様と鍋に入れた品物を明(あきらか)にしたり、「何ぞ柚味噌と露月と相似るの甚しきや」というよう至とから、送別の辞を繰出したりして、一篇を興味ある読物としたのは慥(たしか)に居士の手腕である。居士の天分の一面は、こういう種類の文章によく発揮されているといっても差支ない。
[やぶちゃん注:「闇汁図解」は正字正仮名の「闇汁圖解」を「青空文庫」のこちらで読める。無論、図も画像で添えられてある。]
「小園の記」の系統に属する文章は、その後居士によってしばしば試みられ、「夏の夜の音」などの如く聴覚のみを働かした文章も現れたが、この年十月の『ホトトギス』に出た「飯待つ間」に至って、写生文の新な地歩はほぼ定(さだま)る観があった。朝飯を食わぬ居士が病牀に頰杖をついて、飯の出来るのを待ちながらぼんやり庭を眺めている。その間の見聞を記したもので、極めて短い文章ではあるが、「カツと疊の上に日がさした。飯が來た」という結末に至るまで、殆ど一点の隙もない。猫をつかまえていじめる子供の声の前後二度垣の外に聞えるのが、文章の山になっている。こういう家常茶飯事を捉えて、自由な、清新な、しかも完成した一篇としたものは、居士以前の文章には見当らない。居士としても「飯待つ間」あたりからはじまるもののように思われる。
[やぶちゃん注:「国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで正字正仮名本文が読めるが、「青空文庫」のこちら(本文は新字新仮名)では、後の『ホトトギス』第三巻第一号(明治三二(一八九九)年十月十日発行)に載った「猫の写生画」の子規自筆の絵とその原稿が見られる。]
居士が『ホトトギス』に期待した文芸のうち、新体詩が先ずその影を消し、和歌も居士によって僅に存続する形であったが、この方は次第に『日本』に移り、居士の事業の両輪である『日本』と『ホトトギス』とが自ら分野を異(こと)にするようになった。ただ自然に芽を出した写生文だけは、『ホトトギス』を地盤として成長の勢を示し、碧、虚両氏の外に四方太(しほうだ)氏の文章が現れる。新に東上して『ホトトギス』の編輯に従事した青々(せいせい)氏も書くという風で、漸く賑になって来た。写生文の歴史を顧る者は三十二年というものを注意する必要がある。
[やぶちゃん注:「阪本四方太」(明治六(一八七三)年~大正六(一九一七)年)は鳥取県出身の俳人。既出既注であるが再掲しておく。本名は「よもた」と読む。東京帝大助手を経、助教授兼司書官ともなった。正岡子規の門人となり、『ホトトギス』で活躍した。
「松瀬青々」(まつせせいせい 明治二(一八六九)年~昭和一二(一九三七)年)は大阪市出身の俳人。ウィキの「松瀬青々」によれば、『倦鳥』を創刊・主宰。『関西俳壇でホトトギス派の俳人として重きをなした。本名・弥三郎』。『大阪市東区大川町に長男として生まれる。家業は薪炭商。北浜上等小学校卒業の頃より』、『小原竹香に詩文を、福田直之進に漢学を学び』、二十『歳を過ぎてより』、『池田蘆州に漢学を学』んだ。明治二八(一八九五)年、『第一銀行大阪支店に入行。同僚と句作を試み、また蓼生園(たでふのその)中村良顯に和歌を学び』、『邦武と号した』。二年後、松山発行の『ほととぎす』第四号にて『虚子選に入選。初号は無心。また』、新聞『日本』や青年雑誌『文庫』にも『孤雲の号で投句。後者の選で高浜虚子は「投句六十、悉く之を採るも可」と賞賛』している。明治三一(一八九八)年、『青々に改号。同年に結婚。また』、『正岡子規の「明治三十一年の俳句界」(『ホトトギス』』一『月号)にて「大阪に青々あり」と賞賛を受ける』。七月、『銀行を退社し』、九月に『上京、「ホトトギス」の編集係に就』いていた。明治三三(一九〇〇)年、『ホトトギスを退社、大阪に戻り大阪朝日新聞社に入社。会計部に務めながら』、『俳句欄選者を担当する』。翌年には『寶船』を『創刊・主宰』し、明治三七(一九〇四)年に句集「妻木冬之部」を刊行。これは存命中に刊行されたものとしては最古の個人句集である』。明治四四(一九一一)年一月、『寶船』に『河東碧梧桐の新傾向俳句に対する批判を掲載』している。翌年、『大阪朝日新聞社を退社し』、『編集部嘱託とな』った。大正四(一九一五)年十一月、『寶船』を改題して『倦鳥』とした。大正一四(一九二五)年六月には『倦鳥』を『林表』に改題した上、『経営を井上麦秋に託し、これとは別に青々の個人誌として』また別な『倦鳥』を創刊するも、大正一五(一九二六)年一月には、両者を合併して『倦鳥』に戻している。『代表句に「雨雲のよせつゝ凄き火串かな」「日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり」などがある。初期には与謝蕪村に傾倒して天明調の句を詠み子規に賞賛されたが、のちには芭蕉に傾倒し』、『その研究に努めた。古季語、難季語を意欲的に詠んだ点も特筆される』。『古典によく通じ、しばしば漢詩や古典の気に入った詩句に思いを寄せることで句を作り』、『これを「字がらみ作句法」と称した』。『漢籍から「春泥」「薄暑」』『といった季語を使用し』、『定着させた。また』、『独自の俳画を切り開き』、『しばしば』その『個展を開いて』もいる、とある。]
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