諸國里人談卷之一 大觀音 (奈良長谷観音)
○大觀音
和州泊瀨(はつせ)山長谷寺の本尊は、十一面觀音立像(りうぞう)二丈六尺なり。方八尺の巖石を以〔もつて〕座とす。江州高島郡三尾(みを)山の靈木を以て、法道仙人と比丘道明(どうめい[やぶちゃん注:ママ。])、力を勠(あはせ)て、これを建る。天平五年五月十八日、開眼。同十九年、堂、成就す。其後、數度、炎燒ありといへども、佛、恙なし。或は尊體は燒(やけ)る事ありといへども、御頭(みかしら)は山上に飛去(とびさつ)て燒けず、となり。佛工は𥡴文會(けいぶんかい)、𥡴主勳(けいしゆくん)なり。
開帳は黃金(わうごん)一枚、閉帳、又、黃金一枚也。一七日〔ひとなぬか〕の間、これを開く。尋常(よのつね)の開帳は、帳(ちやう)を下より卷(まく)なり。此(これ)は、上より卷おろし、半身(はんしん)を拜(はいす)。
[やぶちゃん注:本項は、これ以下、鎌倉の長谷寺の長谷観音と、江戸の長谷寺(ちょうこくじ)の十一面観世音菩薩(通称の「麻布大観音」は明治の地区変更以降のもの)が続くが、前の大仏と同様、分離して示す。
本条は現在の奈良県桜井市初瀬(はせ:古くは「はつせ」)にある真言宗豊山(ぶざん)神楽院(かぐらいん)長谷寺の本尊十一面観音の記載。ウィキの「長谷寺」によれば(下線やぶちゃん)、『長谷寺の創建は奈良時代』、八『世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年』(六八六年)、『僧の道明』(どうみょう)が天武天皇のために『初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて』神亀四(七二七)年、『僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない』。承和一四(八四七)年十二月二十一日に定額寺』(じょうがくじ:奈良・平安時代に官許の大寺院や国分寺(尼寺を含む)に次ぐ寺格を有した仏教寺院を指す)『に列せられ』、天安二(八五八)年五月十日に三綱(さんごう:仏教寺院に於いて寺院を管理・運営して僧尼を統括する、上座(じょうざ)・寺主(じしゅ)・都維那(維那)(ついな/いな)の三つの僧職の総称)が『置かれたことが記され』ているから、『長谷寺も』、『この時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている』とある。本堂は、『本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。本堂は奈良時代の創建後、室町時代の』天文五(一五三六)年までに』、計七回、『焼失している』。七『回目の焼失後、本尊十一面観音像は』天正七(一五三八)年に再興。『本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し』、天正十六年に『新しい堂が竣工した。ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後』、『さらに建て替えられたもの』。『現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て』、正保二(一六四五)年から『工事に取り掛かり』、五年後の慶安三(一六五〇)年に落慶したもの。同年六月に『記された棟札によると、大工中井大和守を中心とする大工集団による施工であった。天正再興時の本堂は』元和四(一六一八)年には『雨漏りの生じていたことが記録されているが、わずか数十年後に』、『修理ではなく』、『全面再建とした理由は明らかでなく、背景に何らかの社会的意図があったとの指摘もある』。本尊十一面観音像は、『前述のとおり、天文』七『年に完成しており、慶安』三『年の新本堂建設工事は本尊を原位置から移動せずに行われた。そのため、本堂は内陣の中にさらに内々陣(本尊を安置)がある複雑な構成となっており、内々陣は巨大な厨子の役目をしている』とある。本尊木造十一面観音立像は、神亀年間(七二〇年代)、『近隣の初瀬川に流れ着いた巨大な神木が大いなる祟りを呼び、恐怖した村人の懇願を受けて』、『開祖徳道が祟りの根源である神木を観音菩薩像に作り替え、これを近くの初瀬山に祀ったという長谷寺開山の伝承がある。伝承の真偽はともかく、当初』の『像は「神木」等、何らかのいわれのある木材を用いて刻まれたものと思われる。現在の本尊像は』、『仏像彫刻衰退期の室町時代の作品だが』、十『メートルを超える巨像を破綻なく』、『まとめている。国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものである。本像は通常の十一面観音像と異なり、右手には数珠とともに、地蔵菩薩の持つような錫杖を持ち、方形の磐石の上に立つ姿である(左手には通常の十一面観音像と同じく水瓶を持つ)。伝承によれば、これは地蔵菩薩と同じく、自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされ、他の宗派(真言宗他派も含む)には見られない独特の形式である。この種の錫杖を持った十一面観音を「長谷寺式十一面観音(長谷型観音)」と呼称する』とある。
「二丈六尺」七メートル八十八センチ弱。沾涼にしては珍しく過小に記している。
「方八尺」約二メートル四十二センチ四方。
「江州高島郡三尾(みを)山」「長谷寺」公式サイトに、朱鳥元年(六八六)年、『道明上人は、天武天皇の銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置、のち』、神亀四(七二七)年『徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に近江高島から流れ出でた霊木を使い、十一面観世音菩薩を』造ったとある。近江高島は現在の滋賀県高島市。ここ(グーグル・マップ・データ)。「高島郡三尾(みを)山」は不詳。現在、そのような名の山はない。但し、地名としてなら、滋賀県高島市安曇川町三尾里がある。但し、ここ(グーグル・マップ・データ)は琵琶湖中部西岸の平地であって山はない。この伝承には高島と長谷寺を結びつける、聴く者誰もが腑に落ちる何かが伝承の中にあったのではなかろうか? 私のような馬鹿には、でないと、長谷寺からこんなに離れた高島を登場させる意図が、まるで分らぬのである(後に引くように、これは「長谷寺縁起文」などに出る伝承らしい)。
「法道仙人」個人サイト「内丹園」のこちらによれば、『播磨の法華山一乗寺から、丹波篠山の五台山東窟寺に至る地域に、その開基が法道仙人と伝えられる寺院が多数存在する。
修験道本山派の伽耶院(旧名・大谿寺)も』、皇極天皇四・大化元(六四五)年の『伝・法道仙人開基であ』り、『この年、法道仙人は耶馬溪・羅漢寺の地』も『訪れ、さらに播磨・伽耶院の前身である勅願寺を創建したとされ』、六四九年には『播磨・法華山一乗寺を創建したとされる』とある。『仏教は』この六四五年の『大化改新で、大和政権によって正式に受容されることになり、
その時期に法道仙人の旧跡に仏教寺院が次々に創建されたのであろう。しかしながら、それまでは播磨や丹波で、仏教はさほど定着していなかったはずである』。『法道仙人は、中国の道教にまつわる牛頭天王(武塔天神)と共に渡来したとされる』。『「仙人」と呼ばれることからも、本来は仏教僧ではなく、山岳で修行する道教の道士であったと考えられ』、『渡来時期は』六『世紀に遡る可能性がある』。『伝説では、法道仙人は天竺から紫雲に乗って飛来したとい』われるとあるから、そうした妖術をも駆使出来る渡来した道士、或いは、後の修験道のルーツとなるような山岳信仰系の行者で、そうした人物から教えを受けた者のようにも思われる。
「比丘道明(どうめい)」(どうみょう 生没年不詳)のルビは③も①も「どうめい」。「朝日日本歴史人物事典」の記載を引く。八世紀に生存した奈良弘福寺(川原寺)の僧侶で、奈良長谷寺の開祖。俗姓は六人部(むとべ/むとりべ)氏。伝説的な僧侶であるが、確実な史料として長谷寺所蔵の千仏多宝塔銅板の銘文に、道明が天武天皇のため豊山(初瀬)の地に多宝塔を敬造した、とある。但し、その時期については諸説がある。また、「日本三代実録」の貞観一八(八七六)年五月二十八日の条に『大和国長谷山寺。これ、長朗の先祖川原寺修行法師位道明、宝亀年中(七七〇年~七八〇年)、その同類を率いて国家の奉為建立するところなり」とみえる。道明の活動時期についても諸説あるが、八世紀初頭から後半頃とされる。「長谷寺縁起文」などによると、道明は沙弥徳道らを率いて、近江国(滋賀県)高嶋郡白蓮華谷にあった霊木を用いて十一面観音像を造立し、長谷寺を創建したと伝える。開眼供養には行基が関与したともいわれているが、疑わしい。創建時期は確定し難いが七二〇年代とされる、とある。
「勠(あはせ)て」勠(音「リク」)は「分散した力を一つに合わせる」(他に「殺戮」と同じく「ばらばらに切り殺す」の意もある)。
「天平五年五月十八日、開眼」七三三年。次の「同十九年」(七四七年)もそうだが、以上で見た辞書類や「長谷寺」公式サイトにも出現しないクレジット(しかも月日までしっかり記してある)で、沾涼が一体、何に拠ったのかもよく判らない、不審なものである。識者の御教授を乞う。
「𥡴文會(けいぶんかい)」(生没年未詳:「けいもんえ」とも)は奈良時代の仏師。神亀四(七二七)年に供養が行われた大和長谷寺の十一面観音像をここに出る稽主勲とともにつくったとされる(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
「𥡴主勳(けいしゆくん)」(生没年未詳)も奈良時代の仏師。一説に前の文会とは兄弟・父子の関係などとする。長谷寺以外にも法隆寺などの古刹本尊造立の伝承が多い人物で、長く実在が疑われていたが、名前からも唐から招聘された技術者集団と思われ、近年の研究では、その技術が飛騨匠らに継承された可能性が指摘されている。
「開帳は黃金(わうごん)一枚、閉帳、又、黃金一枚也」要は開帳に金一両、閉帳に金一両、結局、本尊を拝むには都合二両掛かるということであろう。或いは、以下に示される特殊な拝礼方法、開帳される期間が始まり(これが「開帳」)、それを拝観しようとする時には、実は簾が半分巻き下ろされて(「閉帳」して)下半身のみを拝むことから、特異な拝礼法にことよせて、暴利(江戸中期の二両は二十万円ぐらいの価値はあった)を貪っていたものかも知れない。]
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