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2018/06/23

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十三年 喀血後の興津移転問題

 

     喀血後の興津移転問題

 

 八月十三日の朝、居士は突然喀血した。二十八年以来の多量の喀血であったので自他共に驚いたが、幸に一回だけで済んだ。帰省中の格堂氏が平賀元義の歌を発見して、居士の許に送り来ったのはこの際の事である。居士は直に端書を出してその歌を集めんことを勧め、「上にして田安宗武下にして平賀元義歌よみ二人」「血をはきし病の床のつれづれに元義の歌よめばうれしも」の二首を書添えた。

[やぶちゃん注:「子規居士」を見ると、二首の歌はひらがながカタカナな書きであるが、読み難く佶屈聱牙な感じになるので、底本のままとした。]

 

 喀血後は疲労甚しく、二十二日夜の『蕪村句集』輪講の際にも、黙聴して時に意見を述べるにとどめたほどであったが、この間(かん)にあって力(つと)めて筆を執ったのは『ホトトギス』九月号の「消息」である。六号活字で雑誌四頁にわたる非常な長文で、喀血の前夜に筆を起し、十七日、二十日、二十一日、二十二日と四度(よたび)稿を継ぎ、最後の一段は口授筆記せしめて漸く完成した。国語伝習所に行われた俳句講習会の事に関し、門下の士の不勉強を警(いまし)めるのが主なる目的であったらしいが、一転して「俳句分類」の事に及んでいる。自分の事業を新聞雑誌に現れた文字だけで測る人には、この三、四年間における事業は年々同一分量を示すもののように思うであろうが、その実自分の事業は三、四年来、病気の進歩と反比例に分量を減じている、それ外面に現れぬ「俳句分類」が著しく分量を減じた故である、この事業は最近三、四年の中に一年一年と怠りがちになり、昨年以来は全く事業中止の有様になっている、というのである。「俳句分類」稿本の嵩(かさ)は、見る者をして瞳目せしめねば止まぬものであるが、大体二十四年から三十二年にわたる、前後九年間の努力に成るものと見ていいのであろう。

 八月の喀血は外面に現れる居士の事業をも減少せしめずには置かなかった。左千夫氏らの首唱にかかる興津移転問題はこの後に起り、居士の病軀を気候の変化の少い、空気のいい海岸の地に移して、来客その他の煩を逃れることにしたらどうかということになった。居士も一度移転断行と決心し、決心した晩は眠らんとしても眠られなかった位で、借りる家までもきまっていた模様であったが、居士の周囲は殆ど皆この移転を危んだ。十月四日夜、『蕪村句集』輪講の席上でこの問題を議したところ、鳴雪翁が正面から反対を唱えた。その結果は激論となって、解決を見なかったが、その後居士も意を翻(ひるがえ)し、興津移転問題は実現に至らなかった。しかし当時の居士を刺激したこと、この問題の如きはなく、誰に宛てた手紙を見ても大概興津の事が記されている。

 九月八日、漱石氏が英国留学のため、横浜から出発した。『ホトトギス』の消息に「小生は一昨々年大患に逢ひし後は洋行の人を送る每に最早再會は出來まじくといつも心細く思ひ候ひしに、其人次第々々に歸り來り再會の喜(よろこび)を得たる事も少からず候。併し漱石氏洋行と聞くや否や、迚も今度はと獨り悲しく相成申候」と見えている。熊本から東上した漱石氏は出発に先って居士の病牀を訪い、久々に会談の機を得たのであった。

[やぶちゃん注:手紙文は「子規居士」で校合した。

「漱石氏が英国留学のため、横浜から出発した」この明治三三(一九〇〇)年五月十二日、漱石は英語教授法取調べを目的とした(英文学研究ではないので注意)文部省第一回給費留学生として満二ヶ年のイギリス留学を命ぜられた(当時の文部省専門学務局長上田万年の計らいであるが、貴族院書記官長であった妻鏡子の父中根重一の陰の力もあったと推定されている)。七月二十日に妻と娘筆とともに熊本を去り、中根家に滞在、子規を訪ねたのは上京早々の七月二十三日の午後四時頃で、その日の午後九時までいた。これから、九月七日の横浜出航前日頃までに、子規から「萩すすき來年あはなさりながら」ほか一句を受け取っている。船は神戸・長崎から、上海や香港などを経て、インド洋・スエズ運河・地中海を通り、ジェノヴァで上陸、アルプス山脈を汽車で抜けてパリへ到り、一ヶ月半余りかかって、十月二十八日午後七時頃、ようやくロンドンに到着している。しかし、漱石は明治三五(一九〇二)年の八月頃から精神変調をきたし、九月に入ると重くなって、九月十二日に受け取った鏡子の手紙の返事で、自ら「近頃神經衰弱」と称し、この時、彼女に送らせていた新聞を九月一杯でやめるように認めているから、この時、帰国を決意しているように感じられる。そうして、実に、この九月の十九日、午後一時、正岡子規は自宅にて死去した。漱石が子規逝去の報知を受けた時の様子は伝えられていないが、彼の精神疾患(現行では一般に強迫神経症と診断するようだが、私は彼の関係妄想の激しさや、後の後遺症としか思われない他虐性の強い反応性激発症状などを見るに、統合失調症であった可能性も濃いように感じている)を増悪させたことは間違いない後、漱石は同年十二月五日にロンドンを日本郵船の「博多丸」で出航、今回はそのまま海上を地中海・スエズ運河経由で、翌明治三六(一九〇三)年二十三日に神戸に上陸している(一時よくなっていた精神状態は船中で再び悪くなったらしい)。以上は集英社「漱石文学全集」別巻の荒正人氏の驚異的な労作「漱石研究年表」によったが、ウィキの「夏目漱石では、その精神変調へと向かう下りを、日本人である自分が『英文学研究』をすること『への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々と』した。明治三四(一九〇一)年になって、『化学者の池田菊苗と』二『か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり』、『研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば』、『下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥り』、明治三五(一九〇二)年九月に『芳賀矢一らが訪れた際に「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出て、そのためか』、『「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる』(実は死んだという誤情報も流れたようである)。『漱石は急遽』、『帰国を命じられ』たが、『帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一が』、偶然、『同乗して』いたことから、『精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという』とある。]

 

 漱石氏出発に関する「消息」の出た『ホトトギス』に居士は「『水滸伝』と『八犬伝』」及「『水滸伝』雑詠」を掲げた。「『水滸伝』と『八犬伝』」は雑誌にして二十六頁を超えているから、居士としては前後にない長篇である。『水滸伝』は居士の愛書の一であったらしく、三十年の大患の際にもこれを読み、この年もまた読み返している。『八犬伝』との比較に筆を起し、居士自身の文章観の上から『水滸伝』の文章の妙を説いたのである。この稿を草するに先(さきだ)ち、愚庵和尚に「病島無聊時々『水滸』を讀む、今や僅々(きんきん)末三、四巻を餘すのみに有之候」ということを申送ったのは、和尚が壮時好んで『水許伝』を読み、殆どその文句を諳記(あんき)していたというような事実を知っているためであろう。

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