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2018/06/28

譚海 卷之二 大坂東照宮御再興の事

 

大坂東照宮御再興の事

○大坂天滿宮境内に東照宮の御社ありしを、安永八年再興あり。修復料壹萬八千兩を大坂町中へ割付(わりつけ)御取立(おとりたて)あり、別當より奉納金の請取書を出し納(おさめ)けるとぞ。其經營もとありし地面より八尺高く築立(つきたて)、僧房等美麗に出來(しゆつたい)せり。別當の庭に松柏數十本あり、根へ土をかくれば枯るゆゑ、大木の根をば石にて穴に築立、石の外を八尺土を置(おき)候由、仍(よつ)て大木も甚(はなはだ)低く見え、甚をかしき庭の樣子に成(なり)たり。猶又出火等の節(せつ)神輿をのけ候御旅所(おたびしよ)生玉(いくたま)に建立(このりふ)あり、同じく美麗に出來せり。此奉納金の鳴(なり)やうやう謐(しづま)りたる所、又々大坂町中濱地御用有ㇾ之間(これあるあひだ)、御取上なされ候よし、もし又入用の者は買上(かひあげ)候金子(きんす)指出(さしいだし)候樣に被仰付(おほせつけられ)候。濱地と申(まうす)はみなみな河岸付(づかしき)の居宅に向ひたる地面にて、土藏建置(たておき)し所なれば、無ㇾ據(よんどころなく)入用(いりよう)の地面なれば、人々買上金(かひあげきん)指出候。右買上金御定(おさだめ)は、居宅の地の沽券直段(こけんねだん)に二割引に被仰付坪割にて御取立被ㇾ成(なられ)候、右上納金指出高(さしだしだか)三十壹萬四千兩と申(まうす)事也。但(ただし)東照宮御社は往時松平下總守殿京都所司代御勤(おつとめ)の時、大坂天滿(てんま)に其藏屋敷ありしを、御願(ごぐわん)ありて初(はじめ)て御社建立ありしと也。

[やぶちゃん注:「大坂川崎東照宮東照宮」江戸時代から明治初期にかけて現在の大阪市北区にあった川崎東照宮。ウィキの「川崎東照宮」によれば、東照大権現徳川家康を祀る東照宮の一社であったが、幕府崩壊と明治維新により廃絶した。『かつての境内には現在造幣局と大阪市立滝川小学校が建ち、滝川小学校正門横には川崎東照宮跡の石碑がある』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)にあった。『川崎東照宮は家康一周忌の』元和三(一六一七)年四月十七日、『当時大阪藩主であった松平忠明(家康の外孫)により』、『天満本願寺(別名: 川崎本願寺)の跡地(織田有楽斎の別荘跡地でもあった』『)付近に建立されたが、その背景には大坂の庶民の間にあった豊臣家への思慕の念を払拭する狙いがあったとみられている』。『祭神は東照大権現(徳川家康)ということで、その本地仏は家康自身が信仰していた所縁の厄除薬師如来坐像』であった。『別当寺として神護山建国寺が置かれ、例祭の「権現祭」には』四月十七日『(家康の命日)と』九月十七日『が定められた』。その内、四月十七日の『祭は家康の命日ということもあり、普段は高い塀で囲まれ』、『門を閉ざしていた境内が』、『開放され』、『一般町人にも家康肖像の拝観が許され、一説には約』十『万人もの参拝者が訪れる「浪花随一の紋日」として大坂市中随一の賑わいを見せた』とされ、また、『春・秋両祭の前々日である』十五日からの五日間は『幕命により』、『大坂の各町では家々の軒先に提灯が掲げられ』、『その様は大坂の春と秋の風物詩でもあった』という。『しかし一方で、同社は』、『大坂町人の一部から「胡乱」』(うろん)『(胡散臭い)と思われていたらしいことも記録に残されている』。『川崎東照宮は』天保八(一八三七)年二月十九日(グレゴリオ暦三月二十五日)に起こった「大塩平八郎の乱」で『社殿を焼失し、後に再興したが、幕末の戊辰戦争時には長州藩の陣が置かれ、明治維新により』、『反徳川と豊臣再興の気風が興る中、敷地が造幣寮(現・造幣局)に充てられることとなり』、明治六(一八七三)年、『廃絶した』。但し、この時、『東光院(萩の寺)に本地仏である厄除薬師如来坐像を遷座し、現在は三十三観音堂の本尊となって』おり、『川崎東照宮の本地堂「瑠璃殿」も移築され』、『東光院の東照閣仏舎利殿(あごなし地蔵堂)となっている』。『その他に、東照宮の石灯籠・鳳輦庫が大阪天満宮に移されている』。『なお、「権現祭」は東照宮の廃絶後も天満六組の応援を受けて』、明治四〇(一九〇七)年まで『続き、その後は東光院の「萩まつり道了祭」に受け継がれている』とある。

「安永八年」一七七九年。因みに、当時の大坂城代(大阪城はこの川崎東照宮の大川を挟んだ南東直近である)は常陸笠間藩主牧野貞長である。

「別當」前注にある通り、神護山建国寺。同社廃絶とともに廃寺。

「生玉」現在の大阪府大阪市天王寺区生玉町にある生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)。(グーグル・マップ・データ)。

「此奉納金の鳴やうやう謐りたる所」この奉納金問題がやっと収まったかと思った頃。

「濱地御用」川沿いの土地を当時の大阪では「濱地」と呼んだ。曾根崎新地のひろ氏のサイト「大塩の乱資料館」にある幸田成友著「江戸と大阪によれば、この「濱地」『に建てた納屋を住居地』、『即ち』、『火焚所とすることは厳禁であつた。宝暦七年』()『から浜地冥加銀を納めしめた。総額銀三百六貫目余で、その徴収及び上納は惣年寄の手で取扱つた。浜側に作る納屋は必ず足駄作(ヅクリ)といつて下を囲ふことを許さない。これも河水をさへぎらぬやう』、『との工夫から出てゐる。乞食を追払ふのは火の用心のためであ』った、とある。同ページを見ると、大阪での川筋に関する取り締り事項は「川筋掟」として、微に入り細に入って存在したことが判る。下水道の定期的な浚渫義務に始まり、『塵芥を棄てるものあらば』、『町中に過銭を課する、川筋沿岸に畠を作り又は家を建てゝ商売を営んではならぬ、橋上より塵芥を投ずる者あらば、橋詰両町で捕縛の上、出訴せよと』あり、「川筋掟」の第九条には、『「浜側町境の外、納屋境に垣を結んで岸岐』(がんぎ:河又は海沿いの岸の形式の一つで、石造りで階段状のもの。江戸時代の荷揚げ場の最も普通の形式である)『水際に至らしめ、水汲場に猥』(みだり)『に板を渡し、また流垂形に作物を為すべからず」といひ、第十條に「浜側納屋下を囲ひ、或は非人小屋を掛けて火を焚くあり、速に取払ひ、非人を放逐せよ」とある』とあるのである。この「濱地御用」というのも、そうした幕府(京都所司代・大阪城代)からの河川整備計画の一環の接収であったのであろう。

「沽券」土地や家などを売り渡す際に交わした証文。売り渡し証文。

「松平下總守殿京都所司代御勤の時、大坂天滿(てんま)に其藏屋敷ありしを、御願(ごぐわん)ありて初(はじめ)て御社建立ありし」先のウィキの記載からみると、これは松平忠明(ただあきら 天正一一(一五八三)年~寛永二一(一六四四)年)のことを指すと思われる。但し、彼は「下總守」ではあったが、「京都所司代」になったことはない。川崎東照宮建立の元和三(一六一七)年四月十七日、当時の京都所司代は板倉勝重(天文一四(一五四五)年~寛永元(一六二四)年)で、彼は伊賀守である。京都所司代の一覧を見ても、松平姓の下総守は見当たらない。また、松平忠明なら、天満の関わりも深いことが判る。ウィキの「松平忠明を参照されたい。]

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