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2018/06/12

北條九代記 卷第十二 先帝配流 付 赤坂城軍

 

      ○先帝配流 付 赤坂城軍

 

正慶(しやうきやう)元年三月、常盤駿河守範貞、六波羅の職を辭して鎌倉に皈る。北條越後守仲時、同左近將監時益(ときます)、兩六波羅に補せられて、上洛す。仲時は北の方、時益は南の方にあり、同月、高時入道の使者長井〔の〕高冬、上洛し、兩六波羅と相談して、先帝後醍醐をば、隱岐國へながし奉り、一宮尊良親王は、土佐國に配流す。大塔宮は遁出(のがれい)でて、此彼(こゝかしこ)に隱れ給ひ、尊雲門主を還俗(げんぞく)して、名を護良(もりなが)と改め、吉野の奧に籠り給ふ。同四月に楠正成、又、赤坂の城を攻取(せめと)りて、湯淺權正(ごんのかみ)を追落(おひおと)し、楠が家人を入置(いれお)きたり。去ぬる比、先帝、笠置の城に籠り給ひし時、兩六波羅の軍勢七萬五千餘騎にて攻めけれども、城、くして、物の數ともせず。鎌倉へ告げて、勢を請ひけり。相摸入道[やぶちゃん注:北条高時。]、大に驚き、一門[やぶちゃん注:北条一門。]、他家宗徒(たけむねと)[やぶちゃん注:他の有力御家人の一族。]の大名六十三人を催し[やぶちゃん注:召喚して。]、二十萬七千六百餘騎を差上(さしのぼ)す所に、陶山(すやま)、小見山が夜討(ようち)して、笠置は落城せし事を、鎌倉勢、路次にて聞きたり。遙々と東國より上りたる大勢、殘多(のこりおおほ)く思ひて、楠正成が楯籠(たてこも)りし赤坂の城へ向ひけり。彼(かの)城は方、一、二町には過ぐべからず。其間に櫓(やぐら)、二、三十、搔双(かきなら)べたり。東國㔟、侮りて、四方より同時に押詰(おしつめ)ければ、案に相違して、寄手の討たる〻事、數知らず。寄手、厭(あぐ)みて、術(てだて)を替へて攻めかゝれば、城中、工(たくみ)を替へて防ぎけり。東國勢、三千萬騎、僅に城兵、四、五百人に防がれて、今は爲すべき樣(やう)なく、陣々(ぢんぢん)に櫓を搔き、逆茂木(さかもぎ)を引きて、軍(いくさ)を止(やめ)て、遠攻(とほぜ)めにぞしたりける。暫時の構(かまへ)、兵粮、少(すくな)し。二十日餘に、城中、只、四、五日の食あり。正成、諸卒に向ひて云ひけるは、「度々敵に勝つといへども、大勢なれば、討たれても、物の數ともせず。城中、食、盡きて、援兵、なし。天下の草創、一端にして止むべきや。謀(はかりごと)を好みて敵を惱ますは、勇士の爲(す)る所なり。暫く此城を開退(あけの)きて、東國㔟を歸し、又、打出でて襲(おびやか)し、軍勢、上らば、又、深山に引籠(ひきこも)り、四、五度も東國㔟を惱(なやま)したらんには、必ず退屈せざるべきや。是(これ)、身を全くして敵を討つの謀なり」とて、雨風の吹洒(ふきそゝ)ぐ夜を待ち得て、城兵、四、五人づつ、閑(しづか)に寄手の役所[やぶちゃん注:敵(幕府軍)の陣営。]の前を忍びて越出(こえい)馨でたり。正成も長崎が役所の後(うしろ)を通り、虎口に死を遁(のが)れて、金剛山(こんがうせん)の奧へぞ落集(おちあつま)りける。 その跡に、城に火を掛けたり。寄手、これを見て、「城は落ちたるぞや」とて、勝鬨(かちどき)を作りて、驅込(かけこみ)みつ〻、同士討(どしうち)して死するも多かりけり。燒靜(やけしづ)まりて後に見れば、正成、自害して燒けれる躰(てい)に作置(つくりお)きたり。寄手の軍兵等(ら)、是を見て、『楠正成は自害したり』と思ひて、「萬歳(まんざい)」を唱へながら、憐む者も多かりけり。

[やぶちゃん注:標題の後半「赤坂城軍」は「あかさかのじやう、いくさ」とルビする(「赤坂城」は本文と私の注を参照のこと)。湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、ここは「太平記」巻四の掉尾「備後三郎高德〔の〕事 付(つけたり) 呉越軍(ご・ゑつ、いくさの)事」(前章から使用)に続いて、巻五の掉尾(六項目)である「大塔宮熊野落事〔をほたうのみやくまのをちのこと)」及び、巻六の二項目の「楠出張天王寺事 付 隅田高橋幷宇都宮事」(楠、天王寺に出張(でば)りの事 付 隅田・高橋幷(ならびに宇都宮(うつのみやが)事)をメインで使用している。

「正慶(しやうきやう)元年三月」「元德」二(一三三〇)年「十二」月の誤り。後の「北條越後守仲時」の注の下線太字部を参照。

「常盤駿河守範貞」北条範貞。既出既注

「北條越後守仲時」(徳治元(一三〇六)年~元弘三/正慶二年五月九日(一三三三年六月二十一日)は鎌倉幕府最後の六波羅探題北方。ウィキの「北条仲時」より引く。『普恩寺流で第』十三『代執権である北条基時』(非得宗。当時、実権は既に内管領長崎高資に握られていた)『の子。普恩寺仲時(ふおんじなかとき)とも呼ばれる』。元徳二(一三三〇)年十一月、『鎌倉を発って上洛』し、十二月二十七日、『六波羅探題北方となる』。『元弘の乱で、大仏貞直、金沢貞冬ら関東からの軍勢と協力し』、『挙兵して笠置山(京都府相楽郡笠置町)に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流』し、『さらに護良親王や楠木正成らの追討・鎮圧を担当』している。元弘三/正慶二(一三三三)年五月、『後醍醐天皇の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻め』『落とされると』、五月七日、『六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国(滋賀県)で野伏に襲われ』、『時益は討死し、仲時は』その後、『同国番場峠(滋賀県米原市)で再び』、『野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ』てしまい、『やむなく』、『番場の蓮華寺に至り』(滋賀県米原市番場にある現在の浄土宗(昭和一八(一九四三)年までは時宗大本山であったが、仲時一党が自刃した当時は現在と同じ浄土宗)八葉山(はちようさん)蓮華寺。ここ(グーグル・マップ・データ))、『天皇と上皇の玉輦』(ぎょくれん)『を移した後』、『本堂前で一族』四百三十二人と『共に自刃した』。享年二十八歳(『天皇と上皇は道誉に保護されて京都へ戻された』)。

「同左近將監時益(ときます)」北条時益(?~元弘三/正慶二(一三三三)年)は鎌倉幕府最後の六波羅探題南方。「北條越後守仲時」の注を参照されたい。但し、彼の南方着任は、先立つ、元徳二(一三三〇)年七月二十日で、八月二十六日に上洛している。

「同月、高時入道の使者長井高冬、上洛し」「同月」は正慶元(一三三二)年三月の大きな誤り。「長井高冬」(正和三(一三一四)年~貞和三(一三四七)年)は鎌倉末から南北朝時代の武将で、大江姓長井氏嫡流当主。通称は右馬助。参照したウィキの「長井挙冬」(これで「たかふゆ」と読む。「高冬」という表記は以下を参照)によれば、『鎌倉時代当時の史料や古文書から、当初は長井高冬(読み同じ)と名乗っていたことが判明しており』(下線太字やぶちゃん)、『「高」の字は執権・得宗の北条高時より偏諱を受けたものとされている』。『嘉暦年間に長井宗秀』『の遺跡を継ぐ形で、美濃国茜部荘正地頭となっており』、『長井氏惣領として活動していたことが窺える』。「元弘の乱」の勃発に『伴い、その沙汰のために太田時連とともに東使として上洛し』ているが、『鎌倉幕府が滅ぶと、高時からの偏諱を棄て』、『挙冬と改名』し、『後醍醐天皇によって始められた建武の新政では訴訟機関として設置された雑訴決断所の構成員となった。しかし、その後は建武政権に反旗を翻した足利尊氏に従い』、翌延元元/建武三(一三三四)年に、『同じ大江一族で後醍醐天皇に従っていた毛利貞親・親衡父子が尊氏の武家政権に対抗して挙兵した後には、尊氏の命により』、『貞親の身を預かっている』とある。彼の死後、『挙冬の系統は』『氏元(うじもと)・氏広(うじひろ)・兼広(かねひろ)と続き、その偏諱から察するに、長井広秀(ひろひで)の系統(武蔵長井氏)同様、鎌倉公方足利氏の支配下となったものとみられる』とする。

「尊雲門主」大塔宮護良親王は六歳の頃に「尊雲法親王」として天台宗三門跡の一つであった梶井門跡三千院に入院(彼が「大塔宮」と呼ばれたのは東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと見られることによる)、正中二(一三二五)年(満十七歳)に門跡を継承し、門主となっていた(前に述べた通り、それ以後、嘉暦二(一三二七)年十二月から元徳元(一三二九)年二月迄、及び、その後の同年十二月から元徳二(一三三〇)年四月迄の二度に亙っては天台座主ともなっている)。

「同四月に楠正成、又、赤坂の城を攻取(せめと)りて、湯淺權正(ごんのかみ)を追落(おひおと)し、楠が家人を入置(いれお)きたり」前のクレジットが誤りなので、ここも無効であるが、前の内容の翌月である事実は正しい正慶元(一三三二)年四月。「湯淺權正」は湯浅宗藤(ゆあさむねふじ 生没年不詳)で鎌倉末期から南北朝時代の武士。ウィキの「湯浅宗藤」によれば、『紀伊国阿氐河荘(阿瀬川荘とも書く)を本領としたので、阿氐河孫六』(あてかわまごろく)『と称した。法名は定仏。父は湯浅宗国(宗親の子)』。元弘元(一三三一)年十月、『幕命により』、『楠木正成の拠る赤坂城を攻略し、その功により』、『地頭職を与えられ、赤坂城の守備を命じられた』。しかし、この正成の赤坂城奪還に『敗れ、湯浅党とともに降伏』、『以降は正成に従い、摂津、河内方面で幕府軍と戦』った。建武元(一三三四)年九月、『神護寺領紀伊国河上荘預所方雑掌職に補任され』、興国元/暦応三(一三四〇)年四月、『脇屋義助に従って四国に渡』っている。正平六/観応二(一三五一)年二月の『後村上天皇の摂津住吉社行幸に』は供奉している、とある。「楠が家人を入置(いれお)きたり」増淵勝一氏の訳の割注では、この家人を『平野将監入道』と割注する。これは武士で悪党の平野重吉(しげよし ?~元弘三/正慶二(一三三三)年)で、。ウィキの「平野重吉によれば、『「太平記」では平野将監と表記され』、「江戸譜平野氏系図」に『よると名は重吉とされ、父は平野重紀、母は八尾別当の娘とされる』。『持明院統に仕える西園寺公宗の家人であるが、同時に大覚寺統に縁のある僧とも繋がりがある』とし、元徳二(一三三〇)年九月、『この僧の仲介で、悪党の東大寺領長洲荘狼藉中止の要請を受けた際に、多額の金銭を要求し、断られると自らも大和や河内、摂津の約』四十『人の悪党による狼藉へ加わっ』ている(「東大寺宝珠院文書」)。『時期は不明であるが、元弘の乱で、倒幕を目指す後醍醐天皇に呼応し』、元弘二/正慶元(一三三二)年十一月に『二度目の挙兵をした楠木正成の支配下に入っており、千早城の戦いでは上赤坂城の城将(副将は楠木正季)として鎌倉幕府の軍勢と戦った』。「太平記」巻六「赤坂合戰事 付 人見本間拔懸事」に『よると、幕府方に城の水源を絶たれ』、翌元弘三/正慶二年閏二月、『幕府方大将北条治時に助命や本領安堵を約され』て『降伏するも、破棄され』、『軍奉行長崎高貞から六波羅探題へ引き渡され、京都の六条河原で処刑された』とある。

「去ぬる比、先帝、笠置の城に籠り給ひし時」元弘元(一三三一)年九月。参照。

「陶山(すやま)、小見山が夜討(ようち)して」同じく本文と私の注を参照のこと。

「路次」向かう途中の意。

「殘多(のこりおおほ)く思ひて」気抜けしてしまい、戦意の向けようを考えて。

「方、一、二町には過ぐべからず」百九~二百十八メートルほどしかない。

「搔双(かきなら)べたり」建て並べて置いている。

「逆茂木(さかもぎ)」通常は古代から中世にかけての山寨・城郭の防御施設の一種で、敵の侵入や行動を阻害するために、茨の木の塊りや先端を鋭く尖らせた木の枝などを、敵陣方向に向けて高く並べ、それを連続的に結び合わせた柵。逆虎落(さかもがり)・鹿砦(ろくさい)・鹿角砦(ろっかくさい)などとも称した。

「遠攻(とほぜ)め」遠巻きにしておいて持久戦(後に出る「兵糧攻め」)に持ち込んだことを指す。

「天下の草創、一端にして止むべきや」反語。天下を引っ繰り返して大変革をせんとするこの気運、こんなどうということはない一場面で已んでしまいなどということはあり得ぬ!

「身を全くして」一つしかない命を全うして(捨てることなく)。

「長崎」増淵氏の訳の割注に『紫郎左衛門』の『尉泰光』とある。ウィキの「長崎泰光から引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。長崎泰光(生没年未詳)は鎌倉後期の武士で、』『内管領を輩出した長崎氏の一族で、得宗被官(御内人)として北条貞時・高時に仕えた』。『「系図纂要」の長崎氏系図によれば、長崎光綱の弟・長崎高泰の子であるが、同系図の信憑性は決して高くなく、確証はない』。『「泰光」という実名は「御的日記」(内閣文庫所蔵)と「太平記」で確認ができる。後者は軍記物語という性格上、創作の可能性もあり得るため、これだけで直ちに泰光の存在を認めることは難しいが、一次史料と言える前者でも徳治元年(一三〇六年)正月に幕府弓始射手を勤めた人物として「長崎孫四郎泰光」の名が見られるので、実在が認められるとともに』、『通称が「孫四郎」であったことが分かる。すると、延慶二年(一三〇九年)正月二十一日の北条高時の元服に際し』、『「なかさきのまこ四郎さゑもん」(長崎孫四郎左衛門)が馬を献上しているが、これも泰光に比定される。尚、通称の変化から』、『恐らく』、『この間に左衛門尉に任官した可能性が高い』『「太平記」では「長崎四郎左衛門泰光」と表記している箇所がある一方で、別の箇所で登場する「長崎孫四郎左衛門」については実名を明記していないので、同じく四郎左衛門(尉)の通称を持つ長崎高貞と混同されがちだが、前述の史料から』、『いずれも泰光を指すと考えられる。前者は泰光が南条次郎左衛門宗直とともに上洛し、日野資朝・日野俊基を捕縛したと伝えるものだが、実際には正中元年(一三二四年)九月の出来事(いわゆる正中の変)で、東使として派遣されたのも』、『別の人物であり、この両名は元徳三年/元弘元年(一三三一年)五月五日』(「元弘の変」の時)『に上洛して』、『俊基と僧の文観・円観を捕縛した人物を挙げたものである。後者は元弘三年/正慶二年(一三三三年)、長崎孫四郎左衛門(泰光)が長崎高重とともに、桜田貞国を大将とする幕府軍に属し』、『新田義貞率いる軍勢と戦った、久米川の戦いの様子を伝える記事であり、鎌倉幕府滅亡の頃までの存命が確認される。尚、「梅松論」によれば、同年の段階で上野国守護代に在任していたという』。『建武二年(一三三五年)九月、朝廷は北条氏一門の旧領であった安楽村・原御厨等を伊勢神宮領とする太政官符を発給しているが、その中に泰光の領地であった伊勢国大連名芝田郷・深瀬村が含まれていることから、幕府滅亡後まもなくして』、『泰光の領地は収公されたことになる。幕府滅亡に殉じた(一三三三~一三三五年の間に死去した)可能性は高いが、死の詳細については不明である』とある。

「金剛山(こんがうせん)」現在の奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境目にある山、或いはそこを含めた金剛山地を指す。嘗ては「高間山」「高天山(たかまやま)」「葛城嶺(かづらきのみね)」と称された、金剛山地の主峰。標高千百二十五メートル。最高地点は葛木岳。現在は御所市の葛木神社の本殿の裏で、神域とされ立入れない(ここはウィキの金剛山(金剛山地)に拠った)。(グーグル・マップ・データ)。地図を御覧になると判る通り、正成の詰め城として知られる千早城は、この金剛山(こんごうさん:現行は普通、かく呼ぶ)の西にある一支脈の先端直近に築かれた山城である。]

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