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2018/06/28

譚海 卷之二 淺野家士大石内藏助等四十七士人墓所の事 附京墨染遊女屋伊賀屋の事

 

淺野家士大石内藏助等四十七士人墓所の事 附京墨染遊女屋伊賀屋の事

○淺野家四十七人の墓所は江戸芝泉岳寺にあり。此外に三箇所有、京都・播州・江州となり。京都は山科郡瑞光院と云(いふ)地中に有、是は往昔淺野家の先祖の母弟(ははのおとと)此寺の住持になられし緣あるゆゑ、四十七人諸家へ御預けの節、瑞光院の當住四十七人の命乞(いのちごひ)のため江戸へ御願に下り候て、諸家の宅へも伺候し、大石内藏助等に對面を遂(とげ)たる時、いづれも後生菩提を弔ひくれ候樣に住持へたのみ、鬢の毛を贈りたるを持歸り、墳墓に築(きづき)たるものと云、瑞光院は禪宗也。又播州なるは赤穗に有、これは淺野内匠頭殿現在の時、海鹽の利を命ぜられ、今に依賴して煮鹽をもちて産業となせるゆゑ、その民は舊主の德を思ふて、江戸泉岳寺のごとくその地に墳墓をたて、四十七人の墓をも模し造るとぞ。又江州なるは大石村と云所に有。此村に大石氏菩提所の寺ある故、其寺に四十七人の墳墓を建(たて)たる也。赤穗・大石村二箇所の經營は、江戸にあるよりは模造も大なる墓也とぞ。又京都伏見墨染の遊女屋伊賀屋と云者の所は、往時四十七人浪人の間、時々遊興せし茶屋なり。其後年月をへて墨染の繁華零落し遊女廢しぬれば、此伊賀屋生産のなきまゝ、大石初め諸士の書殘したる眞蹟を所持せしゆゑ、それを屛風に仕立披露せしまゝ、好事のもの聞(きき)つたへ、伊賀屋處(いがやがところ)へ向行(むきゆき)て酒肴を求め、その次(ついで)に此屛風等を所望し、一見する事になりて、今は是をもちて産業の助(たすけ)とする事に成(なり)たり。四十七人の書籍・詩歌・俳諧の發句等多く有、江戸へも持來りて見し事也。

[やぶちゃん注:「淺野家四十七人の墓所は江戸芝泉岳寺にあり」実際には同墓所には四十八人の墓がある。四十七士が討ち入り(元禄十五年十二月十四日(一七〇三年一月三十日)寅の刻(午前四時過ぎ))から引き揚げる最中、寺坂吉右衛門信行が行方をくらませ(理由不明)、その後、寺坂は姫路藩士となり、討入から四十五年後の延享四(一七四七)年十月六日に亡くなった後、泉岳寺に埋葬された(「譚海」の内容は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の間の奇聞奇譚)。また、もう一人は「松の廊下」の刃傷事件(発生:元禄十四年三月十四日(一七〇一年四月二十一日)巳の下刻(午前十一時半過ぎ)を赤穂に急報した萱野三平重実の墓で、萱野は父と意見がぶつかり、討ち入りに参加出来なったことから、元禄十五年一月十四日浅野内匠頭の月命日を一期と決して自刃して果てた。その後、その志に鑑み、彼等とともに埋葬されたのであった。

「瑞光院」京都市山科区安朱堂ノ後町(あんしゅどうのうしろちょう)に現存する臨済宗紫雲山瑞光院。浅野長矩公の墓(大石良雄建立)と赤穂義士四十六人(寺坂信行の分がないのであろう)の遺髪埋葬の塔を中心とした廟所がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「地中」「寺中」の誤記ではあるまいか?

「播州なるは赤穗に有」現在の兵庫県赤穂市加里屋にある曹洞宗台雲山(たいうんざん)花岳寺(かがくじ)。赤穂藩主の菩提寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「江州なるは大石村と云所に有」現在の滋賀県大津市大石東にある浄土宗明見山浄土寺のことであるが、「四十七人の墳墓」は、ない。大石家の菩提寺で、大石家歴代の墓とともに四十七士の位牌はあるここ(グーグル・マップ・データ)。従って、「赤穗・大石村二箇所の經營は、江戸にあるよりは模造も大なる墓也とぞ」というのは不審。なお、浄土真宗大谷派宗玄寺の公式サイト「宗玄寺エンタープライズ」の「忠臣蔵にゆかりの地」のページによれば、他に義士一党の墓(供養塔)とされるものは、

・山形県金山町の清竜廃寺跡に出羽新庄城主戸沢家二代上総介が建立した浪士らの供養塔と伝えるものが廃寺跡山中に四十六基。

・京都府京都市上京区の妙蓮寺に片岡源五右衛門の妻が建立したもの。

・兵庫県社町の観音寺(家原浅野家の香華寺)。

・和歌山県高野町の金剛峰寺奥の院に大石内蔵助の依頼で遠林寺の僧祐海と同行した近松勘六・早水藤左衛門によって建てられた浅野内匠頭の供養墓の他、大石頼母助と四十七士供養墓。

などがある。また、サイト「大阪再発見!」の「赤穂義士の墓」によれば、墓ではないが、

・大阪市天王寺区六万体町にある曹洞宗万松山吉祥寺

は(寛永七(一六三〇)年創建)、『創建当時の住職縦鎌師が赤穂藩主浅野主匠頭長矩』『と親しい間柄で、この寺は大坂における浅野家の菩提寺であった。長矩候は参勤交代の折には必ずこの寺院に立寄ったと』されることから、『義士討ち入りの翌年』二『月、大石内蔵助をはじめとする』四十六士が切腹した後、『足軽の寺坂吉右衛門が四十六『士の遺髪、遺爪、鎖かたびら等に銀』十『両を添えて』、『義士の冥福を祈る碑を建ててくれるよう』、『吉祥寺に依頼したもので、浅野本家広島藩の意向もあり、江戸や赤穂よりも先がけ』て、元文四(一七三九)年に『建立されたという』。しかし、昭和二〇(一九四五)年三月の『大阪大空襲で』、『堂宇をはじめ』、『長矩候揮毫の扁額や義士の遺品など』、『全て』が『灰燼に帰し、残るのは墓石のみ』となったとある。現在、墓に浅野内匠頭長矩候の五輪塔、その『右隣に大石内蔵助の墓、左側』に『大石主税の墓があ』って、『更にその周囲を』四十四『士の』戒名『と行年を刻んだ玉垣が取り囲んでいる』とある。寺坂の逸話として、ここに記しておきたい。

「京都伏見墨染の遊女屋伊賀屋と云者の所は、往時四十七人浪人の間、時々遊興せし茶屋なり……」「京都伏見墨染」は現在の京都市伏見区深草墨染町((グーグル・マップ・データ)。京都と伏見を往来する商人や伏見から山科を経て東海道を往還する旅人などで賑わい、江戸中期には墨染寺の門前に芝居小屋や遊里が出来て栄えたが、明治以後、衰退した)であるが、この話は不詳識者の御教授を乞う。]

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