諸國里人談卷之三 燒山
○燒山(やけやま)
陸奧國南部領八戸にちかし。大畑(おほはた)といふより登る事、三里半也。此山、時として燒(やく)る事あり。よつて、しかいふ。爰(こゝ)に慈覺大師の作る所、一千体の石地藏あり。中尊は長(た)ケ五尺あまり、他(た)は、みな、小佛なるによりて、人、これを取(とり)去りて、僅に殘りけるが、近きころ、圓空と云〔いふ〕僧あつて修補し、今、千体に滿(みち)たり。巓(いたゞき)に「地獄」といふ所あり。「三途川(さんづかは)」・「賽河原(さいのかはら)」、小石を以〔もつて〕塔を作る。「修羅道」は、地の面(おもて)、みな、石にして、凡(およそ)長〔ながさ〕二十五丈、幅、六、七丈。其石に血色(ちいろ)のごとくなるもの、散り染(そま)りたり。「劒(つるぎ)の山」は、石、悉く尖りて、刀鉾(とうほこ)を連(つらね)て比(なら)べたるがごとし。「藍屋(あいや)の地獄」・「酒屋(さかや)、麹屋(こふじや[やぶちゃん注:ママ。])の地獄」といふは、それぞれの色をあらはせり。【玆に「柏葉石」と云〔いふ〕あり。「石の部」に見〔みゆ〕。】
[やぶちゃん注:最後の割注で思い出されるであろう、これは先の「卷之二」の「㊂奇石部」に出た「柏葉石」で、ロケーションもそれと同じ恐山(及び曹洞宗釜臥山恐山菩提寺)である。まず、そちらの注を参照されたい。「慈覺大師」等はダブっては注さない。
いや! しかし、である。それ以前(「この文章に対して大真面目にまともに注する以前」の謂いである)に、この文章は、その全体が沾涼のオリジナルではない。何故なら、とんでもなく(「呆れるほど」の含みを持つ)酷似した先行する文章が存在するからである。
それは、私が水族・虫類・禽類などの電子化注を手掛けている例の、大坂の医師寺島良安が約三十年もの歳月をかけて正徳二(一七一二)年頃(自序が「正徳二年」と記すことからの推測)に完成させ、大坂杏林堂から板行した百科事典「和漢三才図会」(全百五巻八十一冊)の地誌部の巻第六十五「陸奥」の中の、ズバリ、「燒山」である。本「諸国里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、「和漢三才図会」は三十一年も前の出版である。ともかく、その原文を見て戴くに若かず、だ。
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燒山 在南部領【自大畑登三里半許】
此山不時有燒故名之 開基慈覺大師作千体石地
藏中尊長五尺許其他小佛而人取去今僅存
近頃有僧圓空者修補千体像
商賈有竹内與兵衞者用唐銅作彌陀大日藥師三像
安之
頂上有三塗川及塞河原層小石爲塔形又有一百三
[やぶちゃん注:「頂」は原典では「頂」の上に「山」がつく字体。]
十六地獄而名修羅者地靣皆石而凡長二十五六丈
幅五六丈其石靣如血色者散染亦一異也名劔山者
滿山石悉有劔尖而如刀鉾然其余酒造家藍染家麹
造家等之地獄皆現其色狀凡有硫黃山必火煙出温
泉涌故自可謂地獄者有之殊當山與肥前溫泉嶽見
人莫不驚歎【諸地獄詳于山類下】
慈覺護摩執行時無莚席取檞葉敷石上于今其石方
二丈許薄※而幅一寸長二寸半許形如檞葉而有文
[やぶちゃん注:「※」=「耒」+「片」。]
理又當山有異鳥鳴聲如言佛法僧日光及高野亦有
此鳥云云
○やぶちゃんの書き下し文(原典の訓点は完備していないので、一部の送り仮名は私が過去の同書の訓読経験に照らして妥当と推定されるもので補っている。〔 〕は私が同じ観点から補った読みである)
燒山(やけ〔やま〕)
南部領に在り。【大畑より登ること、三里半許り。】
此の山、不時〔ふじ〕に燒くること、有り。故に之れを名づく。
開基慈覺大師、千体の石地藏を作る。中尊、長〔た〕け五尺許り。其他は小佛にして、人、取り去りて、今、僅かに存す。
近頃、僧・圓空といふ者有りて、千体の像を修補す。
商賈〔しやうか〕[やぶちゃん注:商人(あきんど)。]竹の内與兵衞といふ者有り、唐銅(からかね)を用ひて、彌陀・大日・藥師の三像を作り、之れを安(を)く。
頂上に「三塗川(さうづがは)」及び「塞河原(さいの〔かはら〕)」有り。小石を層(かさ)ねて塔の形〔かた〕ちに爲〔な〕す。又、「一百三十六の地獄」有り。「修羅」と名〔なづ〕くる者は、地靣、皆、石にして、凡〔およそ〕長さ二十五、六丈、幅五、六丈。其の石の靣(おもて)、血の色のごとくなる者、散り染(そ)むも亦、一異なり。「劔(つるぎ)山」と名くる者は、滿山の石、悉く、劔-尖(とが)り有りて、刀-鉾(きつさき)のごとく然〔しか〕り。其の余、「酒造家(さかや)」・「藍染家(あをや)」・「麹造家(かうじや)」等の「地獄」、皆、其の色の狀〔かたち〕を現はす。凡そ硫黃〔いわう〕有る山は必ず、火煙、出でて、温泉、涌く。故、自〔おのづか〕ら、「地獄」と謂ひつべき者、之れ、有り。殊に當山と肥前の溫泉嶽(うんぜんのたけ)[やぶちゃん注:長崎の雲仙岳。]、見る人、驚歎せずといふこと莫〔な〕し【諸地獄は山類の下に詳らかなり。】。
慈覺、護摩執行〔しふぎやう〕の時、莚席(えんせき)無し。檞-葉(かしは)を取りて、石の上に敷く。今に、其の石、方二丈許り、薄く※[やぶちゃん注:「※」=「耒」+「片」。](へ)げて、幅一寸、長さ二寸半許り、形、檞〔かしは〕の葉のごとくにして文理〔もんり〕[やぶちゃん注:筋目。]有り。又、當山に異鳥有り。鳴く聲、「佛法僧」と言ふがごとし。日光及び高野にも亦、此の鳥、有ると云云(うんぬん)。
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どうであろう? これは正直、参考にしたという程度では、最早、ない。現代なら、良安から著作権侵害を訴えられるレベルである。しかも、これによって、先の「柏葉石」も結局、この「和漢三才図会」の記載の最後をお手軽に切り取って離して貼り付けたとしか言いようがない。引用元を示していればよかったものを、これははっきり言ってひどい(江戸の考証随筆ではちゃんと引用元の書名を記している筆者は実は結構いるのだ。江戸時代だからと言って好意的に甘く見るのはだめ!)。ひど過ぎる。あきまへんて! 沾涼はん!!!
「大畑」青森県むつ市大畑町(おおはたまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「中尊は長(た)ケ五尺あまり」慈覚大師円仁は夢告によって恐山に来たって六尺三寸の地蔵菩薩を刻んだとされるが、それは現存しないようである。
「圓空」(寛永九(一六三二)年~元禄八(一六九五)年)江戸初期の僧侶で、私の偏愛する名仏師である。小学館「日本大百科全書」から引く。美濃国『竹ヶ鼻(岐阜県羽島市上中島町)に生まれた。若くして仏門に入り、天台僧として修験道』『を学んだともいうが、一宗一派にとらわれぬ自由な信仰の持ち主であったらしい。つねに諸国遍歴の旅を続け、その足跡は、北は北海道から、西は四国、中国にもわたっており、ほとんど日本全土に及んだかと思われる』元禄八年、『故郷美濃へ帰り、自ら中興した弥勒寺』近辺で同年七月十五日、六十四歳で没した。断食の上、土中に穴を掘って入り、即身成仏したと伝えられる。『彼をとくに有名にしたのはその造像で、一生に』十二『万体造像を発願したが、現在までに二千数百体が発見されている。大は名古屋荒子観音寺の』三・五『メートル余の仁王像、小は』二~三『センチメートルの木端(こっぱ)仏まで種々に及び、像種もさまざまである。丸木を四分、八分した楔(くさび)形の、荒く鑿(のみ)を入れただけの材からつくりあげることが多く、原材における制約をそのままに利用し、また鑿の痕(あと)をそのままに残すというように、大胆直截(ちょくせつ)な輪郭や線条で構成された彫像をつくりあげた。一見稚拙なようだが、当時のまったく形式化した作風の職業仏師たちの作に比し、熱烈な信仰の所産だけに、新鮮な魅力を備えており、激しく心を打つものがあって、現代にも通ずる素朴な美と力強さが認められる』。
ちょっと脱線して円空について語りたい。
彼の人生は必ずしも明らかでない。ただ、私は七歳で長良川の洪水によって母を失ったその心傷が、彼に仏体十二万彫琢の発願をさせたのだと深く信ずるものである。円空の彫った一部の女性的な仏体の表情やそのフォルムは明らかに慈母のイメージである。
なお、彼が一所に永くは定住した痕跡がないのは、行脚修行以外に何か別な理由があったのではないかということも、彼に関心を持った学生の時以来、ずっと私の考えてきたことであった。
例えば、まさにこの青森まで来た円空は、弘前藩から退去命令を受ける(これは、幕府の宗教政策によって寺を持たない僧侶の布教活動が禁止されていたから、と羽葉茶々氏のブログ「今日は何の日?徒然日記」の「多くの仏像を残した修業僧・円空」にはあるが、これは追放根拠としては私には承服出来ない)。これについては、滝尻善英氏の論文「下北半島における円空仏と円空の足跡」(PDFでダウン・ロード可能)によると、現存する「弘前藩庁日記」の寛文六年正月二十九日(一六六六年三月四日の条に(漢字を恣意的に正字化した)、『圓空と申僧壱人長町ニ罷有候處ニ御國ニ指置申間敷由被仰出候ニ付而其段申渡候所今廿六日ニ罷出、靑森へ罷越、松前ヘ參由』とあるものの、この追放と言うべき理由について滝尻氏も『その理由は記されていない』、『国に指し置きまじ由』『ということから』見て『尋常ではなかった』理由であったといった旨、言い添えられておられる。但し、その後で弘前藩の修験が当山派であったのに対し、円空は白山の本山派であり、円空が藩内で行った加持祈禱などがそうした地元の修験者に嫌われて讒言された可能性を示唆してはいる。
ところが、それでおとなしく南に戻るわけでなく、逆に、上記の通り、当時は松前藩があった渡島半島一帯のごく一部以外は一般人の渡航が許されていなかった蝦夷地に(先の羽葉茶々氏のブログに拠る)アウトローに渡っているその強烈なパワーは、どこか、日常からことさらに離れようとする強い意志を感じてきたのである。それは仏教的厭離穢土などの末香臭い教説などとはまた別なものとして、である。なお、あまり知られていないが、或いは、円空は当時、業病として忌み嫌われ、不当に差別されていた(現在も実は変わらない)ハンセン病患者だったのではないかという説をかつて読み、私は個人的には非常に腑に落ちたものがあったことを言い添えておく。
支線を辿り過ぎた。本線に帰って、恐山の円空に話を戻す。
先に示した滝尻善英氏の論文「下北半島における円空仏と円空の足跡」では、まさに「和漢三才図会」の私が電子化した箇所の頭から商人竹内のところまでが現代語で紹介され、その後に、むつ市大畑の在地資料「原始漫筆風土年表(げんしまんぴつふどねんぴょう)」(文化一〇(一八一三)年癸酉三月八日の条にも(漢字を恣意的に正字化し、一部のルビを排除した)、
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『寛文六年』(一六六六年)『圓空渡海有て円仁』(慈覚大師)『作物の損せし木像を模して九体を刻み安置』……『堂宇に多くの作佛は、實は圓空の作ならんか。鉈削りやうにて、わきて殊勝に』
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とあると記された後、『円空は海を渡って北海道有珠山の善光寺に寄宿した。そこで慈覚大師円仁の作仏したという仏像が破損していたことから、この仏像に似せて』九『体の仏像を彫ったという。その後、恐山にやって来た。地蔵堂に安置されている仏像は円空の作で、筆者村林源助は「わきて(とりわけ)殊勝(優れている)」と絶賛している』。『そして、円空来村の約』百『年後に下北を巡った紀行家菅江真澄は』紀行「牧の冬枯」の寛政四(一七九二)年『霜月朔日の条で』(同じく漢字を正字化した)、
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そもそも此のみやまは慈覺圓仁大師のひらき給ひて、本尊の地藏ぼさち』(菩薩)『を作給ひ、一字一石のほくゑ』(法華)『經をかいて、つか』(塚)『にこ』(込)『め給ひ』、『として今に在り。はた』、『惠心』[やぶちゃん注:平安中期の天台僧で浄土教の基本仏典「往生要集」の作者源信(げんしん)。]『の佛も、なかごろの圓空のつくりたるぶち』(佛)『ぼさち』(菩薩)『もある也』
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『と記している』とされる。その後、滝尻氏は、かつて、円空は『下北半島には立ち寄って』おらず、『円空は津軽から北海道に渡り、そのまま秋田経由で帰っており』、『下北地方には立ち寄っていない』、『いま確認されている円空仏は江戸時代の海運によって運ばれて来た』ものであって、『現在、下北に現存する古文書は偽書で、それを菅江真澄らは円空が来村したものと信じて疑わず、来村したの』だ、と『考えたこともあったが、これだけ地方文書が残っていれば、下北地方を巡錫したことは確かである。円空の足取りを探る記録はこれだけで、あとは残された仏像から知るより術(すべ)はない』と述べておられる。
この滝尻氏の叙述からみて、残念ながら、現在の恐山には少なくとも円空が「修補し」た「千体」仏というのは残っていないものと思われる。
但し、恐山菩提寺の院代(住職代理)の方のブログ「恐山あれこれ日記」の「恐山の円空仏」に、『恐山の開山堂に奉安してある円空和尚の作になる観音像』が写真附きで掲げられており(右側は拡大出来ない)、『左が十一面観音、右は腰掛けて片足を上げている、観音像ではあまり多くない半跏思惟像で』、『恐山のものは、研究では初期に属するとされ、鉈で叩き割って作ったのかいう感さえある後期の作品にくらべれば、仕上げは丁寧』であるとある。私は十七年前に恐山に行っているのであるが、哀しいことに、これを見た記憶がない。見なかったようである。
「長〔ながさ〕二十五丈、幅、六、七丈」長さ七十五メートル七十五センチ、幅十八強から二十一メートル二十一センチ。]
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