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2018/06/26

諸國里人談卷之三 雲仙嶽

 

    ○雲仙嶽(うんぜんがたけ)

肥前國高木郡(たかきのこほり)の高山(かうざん)、五十町上に普賢嶽(ふげんがたけ)あり。山、常に燃(もへ[やぶちゃん注:ママ。])て跣(はだし)の者は行(ゆく)事、あたはず。地獄と称する所あり。穴數(あなかず)十ヶ所あり。兩所に並びて高〔たかさ〕、五、六尺、黑煙の涌起(わきおこ)る所、「兄弟の地獄」と云〔いふ〕。「酒屋の地獄」は白濁(しろにごり)て米泔(しろみづ)に似たり。「麹屋の地獄」は黃白(きはく)に、靑き土、涌(わく)。麹の色のごとし。「藍屋の地獄」は靑綠にして、藍におなじ。それぞれの色に隨ひて其名ありける。猛火、盛(さかん)にして、等括・大焦熱とも云べし。其流(ながれ)、稍熱(しやうねつ)にして湯のごとくなるに、小魚、多〔おほく〕あり。これ、以〔もつて〕、奇なりとす。梺(ふもと)に溫泉あり。入湯の人、常に絶えず。○當山の伽藍は、文武帝寶元年中、行基草創の地、日本山大乘院滿明密寺(まんみやうみつじ)と号し、三千八百坊、有〔あり〕。塔十九基ありしとなり。天正年中、耶蘇宗門、盛(さかん)に行(おこなはれ)し。僧俗、邪法に陷(おちいる)時、當寺の僧侶、亦、然り。因(よつ)て、破却せられて正法(しやうほう)に歸せざるもの、皆、此山の地獄に墮入(おち〔いり〕)て、今、礎(いしづへ)或〔あるいは〕石佛のみ、僅(わづか)に殘り、やうやうに一ヶ寺の俤(おもかげ)あり。

[やぶちゃん注:「高木郡」正しくは高来(たかき)郡。現在、雲仙岳(最高峰は平成新山標高千四百八十三メートル)及びその一部である普賢岳(千三百五十九メートル)は長崎県雲仙市小浜町雲仙。(グーグル・マップ・データ)。本書が刊行された寛保三(一七四三)年は鎮静期間であったようだが、ウィキの「雲仙岳によれば、凡そ五十年後の寛政四(一七九二)年末から翌年にかけて活動期となり、普賢岳山頂の地獄跡火口より噴火が始まった。三月には普賢岳北東部に溶岩が流れ出し、全長は二・七キロメートルに達し、四月一日には雲仙岳眉山で発生した山体崩壊とこれによる津波災害(「島原大変肥後迷惑」と呼ばれる)によって、肥前国・肥後国合わせて死者・行方不明者一万五千人という、有史以来、日本最大の火山災害となった。その後も噴火は継続、六、七月になっても、時折、噴煙を吹き上げたという。無論、平成三(一九九一)年六月三日大火砕流の衝撃的映像は私には記憶に鮮明に残る。

「五十町」約五キロ四百五十四メートル。現在、登山が解禁となっている普賢岳の日帰りのモデル・コースで往復の総実動距離は約八キロメートルであるから、この数値はいい加減ではない。

「等括」八大地獄の第一とされる等活地獄。殺生を犯した者が落ちるとされ、獄卒の鉄棒や刀で肉体を寸断されて死ぬが、陰風が吹いてくると、また生き返り、同じ責め苦に遭うとされる。

「大焦熱」八大地獄の第七。五戒を破った者及び浄戒の尼を犯した者が落ちるとされ、炎熱で焼かれ、その苦は他の地獄の十倍とされる。

「稍熱(しやうねつ)」不詳。「稍」には「次第に程度が増すさま・一層」の意があるから、どんどん温度が上ってゆくの意か。或いは「硝熱」で激烈な熱反応を起こすの意か。

「小魚、多〔おほく〕あり」

「梺(ふもと)に溫泉あり」雲仙温泉には、舞岡の時に泊まったねぇ。あの時、早朝の旅館の庭を一緒に散歩して雲仙岳を眺めた、担任だった二人の男女は、その後、結婚をした。懐かしい思い出だなぁ。

「文武帝宝元年中」「宝元」は「大寶」の誤り。「宝元」なんて年号は本邦にはない。七〇一年~七〇四年。

「日本山大乘院滿明密寺(まんみやうみつじ)」ウィキの「一乗院雲仙市によれば、大宝元(七〇一)年二月十五日、現在の雲仙の地に文武天皇勅願により温泉山満明寺が開山、同年十一月二日、最初の寺院「大日如来院」が建立され、開基は行基菩薩とあり、『最盛期は瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊を有していた』とある。その後、何度か、火災や兵乱による焼失や再建を経たが、寛永一四(一六三七)年の「島原の乱」によって『堂字すべてを焼失』、三年後の寛永十七年に『島原藩主となった高力忠房(摂津守)公の命を受け、遠州浜松鴨江寺より招聘された当山中興弘宥和尚が、「温泉山満明寺一乗院」として復興』、延宝八(一六八〇)年七月には、『松平忠房』『が島原藩主となり』、『正式に「温泉山一乗院」として認可され』、『松平家の家紋である「重ね扇」から扇を一枚取った「一重扇の丸に横一」の寺紋を賜』り(紋としては珍しい十本骨の扇)、『正式に島原藩の祈願所とな』っている。ところが、明治二(一八六九)年、『神仏分離令により』、『当山鎮守四面宮』(しめんぐう/しめみや)『を分離、筑紫国魂神社と』され、廃仏毀釈の嵐の中、『温泉(うんぜん)より南串山』(みなみくしやま)『の歓喜庵(現、一乗院)に本坊を移転』した。『これにより』、『温泉山一乗院本坊は、現在の南串山に定まり、雲仙は飛地境内となり』、『一乗院釈迦堂として法灯を灯すことにな』ったが、昭和五五(一九八〇)年には『雲仙飛地境内の一乗院釈迦堂は新たな宗教法人「雲仙山満明寺」として独立し、一乗院の法類寺院とな』ったことから、『大宝元年行基菩薩開山以来、温泉山(うんぜんざん)と記されてきた霊峰雲仙の称号は雲仙の地を離れ、南串山の温泉山一乗院の山号としてのみ、その名を残す』とある。一乗院は現在の長崎県雲仙市南串山町丙にある。調べてみると、筑紫国魂神社はその後、温泉(うんぜん)神社と名を変えて、現在の長崎県雲仙市小浜町雲仙の湯町にあることが判った。則ち、周辺(グーグル・マップ・データ)の広大な一帯が旧温泉山満明寺であったということになる。

「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年)。グレゴリオ暦は一五八二年十月十五日から

「耶蘇宗門、盛(さかん)に行(おこなはれ)し。僧俗、邪法に陷(おちいる)時、當寺の僧侶、亦、然り。因(よつ)て、破却せられて正法(しやうほう)に歸せざるもの、皆、此山の地獄に墮入(おち〔いり〕)て」これは雲仙のこの「地獄」で行われたおぞましい切支丹弾圧の一件と、この寺の往古の俤のない縮小を絡ませた、単なる風聞伝承ではあるまいか。事実、そのような同寺の改宗僧が他出したという事実があろうとは、ちょっと思えないからである(そういう事実があるとするならば、是非、御教授あられたい)。ここで行われた切支丹迫害や処刑については、江島達也氏のブログ「アトリエ隼 仕事日記」のかえって日本人への親近感を高めることとなった雲仙地獄でのキリシタン迫害を参照されたいが、そこには、こ『の仏教的にいかにも地獄のイメージと重なるこの場所が、キリシタンの弾圧あるいは大虐殺に使われた最初が、あの「島原の乱」の元凶とも言える悪政者、島原領主・松倉重政の発案によるもので』あったとあり、寛永四(一六二七)年二月二十八日、『パウロ内堀作右衛門ら』十六『人(女、子どもを含む)のキリシタンがここに連れてこられ、裸にされた上』、『首に縄を巻かれて引きずられ、硫黄のたぎる中に投げ込まれて殺され』、同じ年の五月十七日にも『ヨハネ松竹庄三郎ら』十『人がここ雲仙地獄で殺され』たとある。因みに、『その後も』、『残忍な領主や奉行が』、『楽しむかのように続けた雲仙地獄でのキリシタン拷問及び惨殺は当時のヨーロッパにおいて衝撃を持って伝えられて』おり、一六六九年(寛文九年相当)に『アムステルダムで発行されたモンタヌスの「日本誌」に掲載された「雲仙地獄の殉教」図は有名になり』、一六九一年(元禄四年相当)に『パリで再版されたほか』、一七〇五年(宝永二年相当)には『ロンドンで英語版』が、一七二二年(享保七年相当)には『ベネチアでイタリア語版』、一七三七年(元文二年相当)にはアウグスブルグでドイツ語版』、一七四九年(寛延二年相当。既に第九代将軍徳川家重の治世である)に『リスボンでポルトガル語版が出版され、広くヨーロッパ中に知られることとな』ったとある。そうして実は、『当時の為政者の残虐極まりない行いはともかく、ヨーロッパの人たちが関心を寄せたのは、拷問を受け続けたキリシタン達が、命を奪われてもなお信仰を捨てず、むしろよりいっそう強くしたという、その精神性に対してであり、そのことが日本人への親近感を』逆に『高めさせたと』されている、というのである。リンク先には雲仙の「地獄」の写真もある。必見。

「一ヶ寺」先に挙げた旧地にあった一乗院。]

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