子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十五年 「病牀苦語」
「病牀苦語」
居士の「麻痺剤服用日記」は六月二十日からはじまっているが、「これより以前は記さず」とあるから、何時頃から麻痔剤を服用しはじめたものかわからない。その前三月十日から十二日まで記した日記にも已に麻痺剤の事は見えており、二月十五日大原恒徳氏宛の手紙にも「私近來病勢進步每日麻醉劑を用ゐ居候へどもなほ苦痛凌ぎきれず昨今煩悶に煩悶を重ね居候」とあるのを見ると、それ以前からあったことは慥である。一月の容体不穏の時に用いた頓服なるものも、あるいは麻痺剤であったのかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「大原恒徳」既出既注。松山在の正岡子規の叔父。]
四月及五月の『ホトトギス』に掲げた「病牀苦語」は、毎日二、三服の麻痺剤を飲んで、漸(ようよ)う暫時の麻痺的愉快を取っている間に、心に浮ぶところを述べたものである。例の秩序なしだと断ってあるけれども、秩序のないことは決してない。病牀における出来事と、居士の心の間題とが綯(な)い交ぜになって、比較的長い章を成している。
[やぶちゃん注:「病牀苦語」は『ホトトギス』明治三五(一九〇二)年四月二十日及び五月二十日発行号に掲載された。新字新仮名であるが、「青空文庫」のこちらで読める。]
「病牀苦語」は先ず肉体の苦痛からはじまる。最初のうちは客の前を憚り、親しい友達の前と知らぬ人の前とでは、多少の差別をしていたようなことも、苦痛が募るに従ってそういう遠慮をする余地がなくなって来る。「野心、氣取り、虛飾、空威張、凡そ是等のものは色氣と共に地を拂ってしまった。昔自ら悟ったと思うて居たなどは甚だ愚の極であつたといふことがわかつた。今迄悟りと思ふて居たことが悟りでなかつたといふことを知つただけが、寧ろ悟りに近づいた方かも知れん。さう思ふて見ると悟りと氣取りと感違へして居る人が世の中にも澤山ある。そいつ等を皆病氣に罹らせて、自分のやうに朝晚地獄の責苦にかけてやつたならば、いづれ皆尻尾を出して逃出す連中に相違ない。兎に角自分は餘りの苦みに天地も忘れ、人間も忘れ、野心も色氣も忘れてしまふて、もとの生れたまゝの裸體にかへりかけたのである」といっている。居士の煩悶は死を恐れるがためではない。むしろ苦痛の甚しいために早く死ねばいいと思う方が多くなっているにかかわらず、宗教家らしい方面の人からは、精神安慰法――死を恐れしめない方法を教えてくれる。「その好意は謝するに餘りあるけれども、見當が違つた注意であるから何にもならぬ」というのである。しかも裸体にかえりかけた居士は、直にそのあとへ左の如く附加えることを忘れていない。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前の部分もこの後も「子規居士」で校合した。]
併しかくいへばとて自分は全く死を恐れなくなつたといふわけではない。少し苦痛があるとどうか早く死にたいと思ふけれど、その苦痛が少し減じると最早死にたくも何にもない。大概覺悟はして居るけれど、それでも平和な時間が少し餘計つゞいた時に、不圖死といふことを思ひ出すと、常人と同じやうに厭な心持になる。人間は實に現金なものであるといふことを今更に知ることが出來る。
「病牀苦語」の中には庭に据えた大鳥籠の歴史があり、草花を写生して一々それに歌を讃する記事もある。大鳥籠の最初の周旋者たる浅井黙語氏が、二、三ヵ月のうちに西洋から帰って来ると聞いて、「あるいは面會が出來るであらうと樂しんで居る。默語氏が一昨年出立の前に、秋草の水畫[やぶちゃん注:「みづゑ」と読んでいよう。水彩画。]の額を一面餞別に持て來てこまごまと別れを敍した時には、自分は再度黙語氏に逢ふ事が出來るとは夢にも思はなかつたのである」という一節も、垂死の居士の言として人に迫るものがあるが、それとはまた違った意味で看過しがたいのは家族に関する章である。碧梧桐氏一家の人々が赤羽へ土筆取(つくしとり)に行くに当り、「妹も一所に行くことになつた時には余迄嬉しい心持がした」といい、令妹が帰って来て愉快そうに土筆取の話をするのを聞いて「余は更に嬉しく感じた」とあるのがその一、母堂が碧梧桐氏一家の人と向嶋の花見に行き、「夕刻には恙なく歸られたので、余は嬉しくて堪らなかつた」とあるのがその二である。「内の者の遊山も二年越しに出來たので、余に取つても病苦の中のせめてもの慰みであった。彼等の樂しみは卽ち余の樂みである」と居士は云う。
[やぶちゃん注:「浅井黙語」既出既注の浅井忠は正岡子規の生前に帰国しているので、逢えたはずであるが、幾つか調べてみたが、今のところ、彼が子規を訪れた記事を見出せない。]
家を出でて土筆摘むのも何年目
病牀を三里離れて土筆取
たらちねの花見の留守や時計見る
などの句が惻々(そくそく)[やぶちゃん注:しみじみと身に沁みて感じること。]として人を動かすのも、この居士のよろこびを直に伝えているためであろう。
「病牀苦語」は最後に碧、虚両氏と俳句を談ずることが書いてある。その中に「吾々の俳句の標準は年月を經るに從つて愈〻一致する點もあるが、又愈〻遠ざかつて行く點もある。寧ろ其一致して行く處は今日迄に略〻[やぶちゃん注:「ほぼ」。]一致してしまふて、今日以後はだんだんに遠ざかつて行く方の傾向が多いのではあるまいかと思はれる」といい、「芭蕉の弟子に芭蕉のやうな人が無く、其角の弟子に其角のやうな人が出ないばかりでなく、殆ど凡ての俳人は殆ど皆一人一人に違つて居る。それが必然であるのみならず、其違つて居る處が今日の吾々から見ても面白いと思ふのである」というあたりは、晩年の居士の言として頗る傾聴に値する。我見に執するとか、強いて羈絆(きはん)を加えようとかいう痕迹は毫も見えぬ。各人をして各人の賦性(ふせい)のままに、自由に驥足(きそく)を伸(のば)さしめようとするところに、汪洋(おうよう)たる居士の気魄を感ずることが出来る。
[やぶちゃん注:「羈絆(きはん)」「羈」も「絆」も牛馬を繋ぎ止めるものを指す。行動する者を掣肘(せいちゅう)する事柄。制約・規制・束縛のこと。
「賦性(ふせい)」天賦の質。生まれつきの性質。天性。
「驥足(きそく)を伸(のば)さしめ」むというのは、優秀な素質を持っている者がその才能を存分に現わすことが出来るようにしてやることを言う。「驥」は駿馬(しゅんめ)のこと。名馬は大道を疾駆して初めて、その脚力を存分に発揮することが出来るという譬えで、「三国志」の「蜀書龐統(ほうとう)傳」に基づく。
「汪洋(おうよう)」ゆったりとして広大なさま。]