諸國里人談卷之二 石寶殿
○石寶殿(いしのほうでん)
播磨國印南(いなみ)郡生石子(おしこ)の御社(みやしろ)あり。【姫路と加古との間の山也。】。今、傾きて、半(なかば)、土に埋(うづ)めり。大サ、二丈六尺あり。さらに人力(にんりき)のなす所にあらず。俗ニ云、「むかし、八百万(よろづ)の神たち、あつまり給ひて造り給ふ。」と也。
大なむちすくな彥名(ひこな)のおはします
しづの岩屋は幾世へぬらん 生石村主(ヲフノスグリ)
生石子(おしこ)明神は祭(まつる)大己貴命、少彥名命也。
寬文のころ、十二歲ばかりの女、此所に來りて、哥をよむ。
たまに來てまたこん事のかたければ
名殘おしこの石のみやしろ
[やぶちゃん注:ブラウザの不具合を考え、和歌は上句・下句を分離し、「生石村主」の位置は、引き上げてある。
「播磨國印南(いなみ)郡生石子(おしこ)の御社」兵庫県高砂市阿弥陀町生石の宝殿山山腹にある生石神社(おうしこじんじゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「生石神社」によれば、「石の宝殿」と『呼ばれる巨大な石造物を神体としており、宮城県鹽竈神社の塩竈、鹿児島県霧島神宮の天逆鉾とともに「日本三奇」の一つとされている』。当該神体は横(正面幅)六・五メートル、高さ五・六メートル、奥行五・六メートルの方体(但し、後部に向かって四つ(最後の突出部を除く)の人工の有意な切り込みが行われてあり、特に後部の二箇所は有意に台形(後ろ方向を上辺として)を成していることが、当神社が出している石製の御守りに添えられた御神体の絵からも判る)で、後面に幅二・五メートル、高さ二・九メートル、奥行(方体からの後部への突出長であろう)一・九メートルの上辺の短い台形をした突出部を有した、推定重量四百五十トン以上もの(数値は次の次にリンクさせた「ニホンタビ」のものを採用した。同リンク先には御守りの写真もある)『巨大な石造物』で、『水面に浮かんでいるように見えることから「浮石」とも呼ばれる』(事実は、後のリンク先の画像で判るが、この巨石の基部は中心位置まで周囲を掘り削り込んであって、恰もそこで切り離す直前のような状態で(しかし、岩石塊の切出しにこのような面倒な手法は用いないであろう)、そのまま残されてあるもので、さらに巨岩のある場所の周囲をさらに有意に掘り下げてあり、そこに水が溜まっているために、当該巨石本体の基部が現認出来ぬようになっている結果、恰も水面から離れて巨岩が浮いているような不思議な印象を与えるのである。実際、画像で削り残してある基盤との接合部が見える写真は、やっと『神戸新聞』公式サイト内の二〇一五年六月二十三日附記事「【高砂市】生石神社の浮き石周辺で水抜き」で氏子の方々がこの池水を清掃するために水抜きをした際(同年六月二十一日)の取材写真で辛うじて見ることが出来たほどである。これ(拡大写真))。『誰が何の目的でどのように作ったかはわかっていない』。『山形県にも同名の「生石神社」があり、当社の分社と伝えられている』(後述)。『「生石」の読みは本来「おうしこ」であるが、「おおしこ」・「おいしこ」と誤表記・誤読されている場合もある』。『大穴牟遅命、少毘古那命を主祭神とし、大国主大神、生石子大神、粟嶋大神、高御位大神を配祀する』。『社伝では、崇神天皇の時代、国内に疫病が流行していたとき、石の宝殿に鎮まる二神が崇神天皇の夢に表れ、「吾らを祀れば天下は泰平になる」と告げたことから、現在地に生石神社が創建されたとしている』。『石の宝殿について『播磨国風土記』の大国里の条には「原の南に作り石がある。家のような形をし、長さ二丈、広さ一丈五尺、高さも同様で、名前を大石と言う。伝承では、聖徳太子の時代に物部守屋が作った石とされている。」という意味の記述がある。聖徳太子が摂政であった時代には物部守屋はすでに死亡しており、矛盾をはらむ記述ではあるが』、八『世紀初期には』六~七『世紀頃に人の手で造られたと考えられていたことになる。風土記が一般に流布されたのは江戸時代後期からであり、それまでの石の宝殿に関する文献で風土記の内容を継承したものは見られない。『万葉集』巻三、生石村主真人の歌にある志都乃石室は石の宝殿のことであるとも言われるが』、『定かではない』。『石の宝殿は』八『世紀以前からあったことになるが、生石神社は『延喜式神名帳』や国史に掲載されておらず、『播磨国内神名帳』の「生石大神」が文献上の初見であるとされる。『峯相記』では生石神社・高御位神社の解説で「天人が石で社を作ろうとしたが、夜明けまでに押し起こすことができずに帰っていった」という内容が記されており、この時期には石の宝殿は人の手によるものではないとする伝承が生まれている』。『『播州石宝殿略縁起』では「神代の昔、大穴牟遅と少毘古那が国土経営のため』、『出雲からこの地に至り、石の宮殿を造営しようとして一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を作ったが、当地の阿賀の神の反乱を受け、それを鎮圧する間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった。二神は、宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った」となり、『峯相記』より具体的な神格が与えられている』。『成務天皇』十一『年、羽後国飽海郡平田村生石(現山形県酒田市大字生石)に当社の分社が作られた』とある。奇体なものであるから、多くの方の記載や写真がネット上にはあるが、旅行・観光サイト「ニホンタビ」の「水に浮かぶ巨石の神秘!高砂・生石神社で謎に包まれた石の宝殿を探る旅」がよかろうかと思う。また、「おのえ椅子製作所」のブログの「石の宝殿 生石神社」には(こちらも写真豊富)、生石神社の関係者の談として、この石の伝承が記されてあり、その話は先のウィキの記載と同じく、『その昔』、この神社は『すぐ前まで海だったらしく』、第十代『崇神天皇の時代に、疫病が流行し、それを鎮めるために石の宮殿を作』り始めた。後ろの尖った部分が屋根『で、あとは立てれば完成という時に、神吉城あたりに阿賀神の勢力の反乱に会い、人命優先で、逃げるように指示したと』あるのだが、その後に、『この』背後の突出した「屋根」の『中に鯉がいるらしく』、その『鯉と』『金魚の一匹がいつもついて泳いでるらしく』、それは『龍神』であり、それが見られる人は『龍に呼ばれて』い『るそうで、良いらしい』というスピリッチャルな話が載せられている。私は信じないが、悪い話ではない。
「二丈六尺」七メートル八十八センチ弱。現在、先のデータで奥行を突出部まで含めると、七メートル五十センチとなり、写真を見ると、突出部の先は欠けているようにも見えることから、この数値は奥行きを指していると考えていいように思われる。
「生石村主(ヲフノスグリ)」「大なむちすくな彦名(ひこな)のおはしますしづの岩屋は幾世へぬらん」は「万葉集」巻第三の「雜歌」に載る一首(三五五番)、
生石村主眞人(あふしのすぐりまひと)の歌一首
大汝(おほなむち)少彦名(すくなひこな)のいましけむ
志都(しつ)の石室(いはや)は幾世經(へ)にけむ
である。「村主」(清音「すくり」とも)は日本古代の渡来系氏族の姓(かばね)の一つで、「村主」に与えられた「すくり」とは古代朝鮮語の「郷・村」を意味する「足流(スクル)」という語に由来する。五世紀以降、主として朝鮮百済から渡来した技術者集団である漢人(あやひと)を、各国内の村に配置した際、各集団を統率した渡来人の長を「村主」と呼称したものらしい。やがて、姓制が確立すると、称号である「村主」も姓の一つとなり、また、後には氏名ともなった。村主の姓を称する氏族には「高向(たかむく)村主」・「西波多(かわちのはた)村主」・「平方村主」などがおり、仁徳天皇の時代に、百済などから村落の人たちが集団で日本に渡来したという伝承を持ち、孰れも、後に「坂上氏」となる「東漢(やまとのあや)氏」の統轄下に、各種の技術者集団の統率者の役割を果たしていたらしい、と平凡社「世界大百科事典」にある。
「寬文」一六六一年~一六七三年。]
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