諸國里人談卷之二 隱水石
○隱水石(かくれみづのいし)
紀伊國那智山、阿彌陀寺の門前に、高〔たかさ〕七尺の大岩に、穴あり。潮(うしほ)の滿干(みちひ)にしたがひ、此穴の水、增減す。
妙法山阿彌陀寺といふ。唐の惠杲(ゑかう)和尚・弘法の像あり。大師自作也。俗に「女人の高野」といふは此所なり。
[やぶちゃん注:「紀伊國那智山、阿彌陀寺」は、現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある真言宗妙法山阿彌陀寺のことと思われるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、この石も今に伝わらぬものか、調べても、出てこない。また、以下の記載の内の、「唐の惠杲(ゑかう)和尚」「の像」なるものも、現在の同寺にはない模様である。「阿彌陀寺」公式サイトを見ても、「唐の惠杲(ゑかう)和尚」という僧のことは出ず、代わりに、唐僧蓮寂の話が載る。その「熊野妙法山 阿彌陀寺とは?」によれば、今から約千三百年前、大宝三(七〇三)年のこと、唐の『天台山の蓮寂上人というお坊様が日本に渡って来られ、この熊野にたどり着きました。上人は四方を見渡せるこのお山の頂上がとても気に入って、ここで修行をすることになったのです。妙法蓮華経というお経を写経して山頂に埋め、立っている木をそのまま彫ってお釈迦様の仏像を安置しました。その時からこのお山は、お経の名前をとって妙法山と呼ばれるようになりました』。『その後、空海上人(弘法大師)が高野山を開かれる前の年』弘仁六(八一五)年に、この『妙法山で修行をして、西方に有るという阿彌陀如来の極楽浄土への入り口として』、『山腹にお堂を建て』、『阿彌陀如来をご本尊としたため、阿彌陀寺と名づけられたのです』。蓮寂『上人は「妙法蓮華経」というありがたいお経をひたすら唱えることで、自分や世の中の人の罪が許されるという教えを信じ、そのために一生懸命に修行を続けている行者でした』。『熊野に入り』、『那智の大滝の前に立った上人は、その雄大さと神聖さに心を打たれ、「この熊野の地で修行をしたい。きっとこの大滝の奥にはそのための場所があるはずだ」と強く思いました。心を決めた上人は木々が暗くうっそうと茂った山に』、独り『分け入り、奥に奥にと登っていきました』。『登り始めて』一『時間余り過ぎたころ、木々の間から』、『ふいにまぶしい陽の光が差してきました。その光に導かれるように、まるで崖のように反り立った数十メートルの山肌をよじ登ると、そこには今までの暗く深い山とはまるで別の世界が開けていました。頂上は周りになにも視界をさえぎるものがない』十メートル『四方ほどの平地になっており、真正面からふりそそぐお日様の下に』、『水平線が半円を描いたように広がり、眼下には熊野の海が陽光を反射してきらきらと輝いています。振り向けば背後に熊野の山々が連なり、はるか遠くには富士山が見えていました』。『上人は思わず声をあげました』。『「まさしくここは十方浄土。見渡す限り極楽浄土のようだ』。『こここそが求めた場所だ』」と、『上人はこの頂上で修行することを決意しました。それから毎日、那智の大滝で身を清めては』、『この頂上に登り、そこで妙法蓮華経を書き写しました。経文一字を書く度に仏様に三礼(立ち上がったり、座ったりを三回繰り返す作法)するという大変な修行です。来る日も来る日も写経を続け、数年の歳月をかけてようやく妙法蓮華経は完成しました。上人は完成した妙法蓮華経を頂上に埋め、山の中に立っていた木を彫ってお釈迦様の像を作り、その上に立てました。その時からこの山は妙法山と呼ばれるようになったのです』。『今も妙法山の頂上には、奥の院浄土堂という小さなお堂にそのお釈迦様をおまつりしています』とあって、蓮寂の像は記されていない。公式サイト及び同寺のウィキを見ても、弘法大師像一体はあるものの(弘法大師四十二歳の時の姿と伝えられる等身大の坐像であるが(ここで修行をしたという先の記載の年齢と一致はする)、自刻とは記されていない)、他にそれらしい像は現行では安置されていない。頗る不審である。因みに、「惠杲」という僧名は中国や本邦の古文献に出ることは出るが、私にはその事蹟は判らぬ。識者の御教授を乞うものである。因みに、この阿彌陀寺は海岸線から四・七キロメートルも離れており、寺は標高七百四十九メートルの妙法山の中腹にある。その門前にあった石の穴の中の水が、潮の干満によって増減するというのは、奇瑞としか言いようがない。
「七尺」二メートル十二センチ。]