子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十三年 歌の写生的連作
歌の写生的連作
俳句の会は月二回ときまっていたが、歌の方はそうでなくなった。殊に四月以来『万葉集』輪講が企られるようになってからは、輪講に集った顔触だけで必ず歌を作ることになり、歌会は期せずして月二回になった。五月二十日の如きは、『万葉集』輪講のあとで「舟中作」十首を作ったところ、夜に入って俄に雨となったため、左千夫、茂春(もしゅん)、格堂、一五坊(いちごぼう)の諸氏は遂に子規庵に一泊した。翌日払暁、庭前を眺めて先ず雨中即景の歌を作り、更に興に乗じて煙十首を作った。従来短歌に限られていた歌会の作品が、長歌、旋頭歌に及んだのはこの時である。
五月二十朝雨中庭前の松を見て作る
松の葉の細き葉每に置く露の千露(ちつゆ)もゆらに玉もこぼれず
松の葉の葉每に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く
綠立つ小松が枝にふる雨の雫こぼれて下草に落つ
松の葉の葉さきを細み置く露のたまりもあへず白玉散るも
靑松の橫はふ枝にふる雨に露の白玉ぬかぬ葉もなし
もろ繁る松葉の針のとがり葉のとがりし處白玉結ぶ
玉松の松の葉每に置く露のまねくこぼれて雨ふりしきる
庭中(にはなか)の松の葉におく白露の今か落ちんと見れども落ちず
若松の立枝(たちゑ)はひ枝(ゑ)の枝(ゑだ)每の葉每に置ける露のしげけく
松の葉の葉なみにぬける白露はあこが腕輪の玉にかも似る
この一連の歌は雨中庭前の風物の中で、その低い若松に注意を集中し、その松の中でも雨の雫が松の葉に玉を結ぶという一点に観察を注いだもので、そこに著しい特色がある。こういう観察の微細にわたったものは、居士の歌に見当らぬのみならず、在来の歌人の窺い知らぬ世界であった。
[やぶちゃん注:歌は「子規居士」で校訂した。後も同じ。
「茂春(もしゅん)」日本画家で歌人の桃澤如水(ももざわにょすい 明治六(一八七三)年~明治三九(一九〇六)年)。本名は桃澤重治(しげはる)で、画名を如水又は桃画史(とうがし)、歌名を茂春(もしゅん)と称した。ウィキの「桃澤如水」によれば、先『祖に江戸時代中期の歌人である桃澤夢宅がいる』とし、『長野県伊那郡本郷村で、桃澤匡尊の次男として生まれ』、『桃澤家は古くから代々庄屋(名主)を務めており、何人も歌人を産んだ名家であった』とある。明治二一(一八八八)年、十五歳で『飯田の岡庭塾で、英語や漢籍、数学などを学んだ。ここで菱田春草と出会い、自分も画家になろうとするも、経済的な理由で上京の許しが出なかった』。しかし、二年後の明治二十三年四月、十七歳の時、上野で行われていた第三回『内国勧業博覧会を見ると偽って上京、そのまま橋本雅邦に師事し、同年』八『月東京美術学校(現東京芸術大学)絵画科に入学し、校長岡倉天心をはじめ雅邦の指導をうけた。同じクラスに結城素明、鋳金科に転科した香取秀真がい』た。一方、在学中には、『神田の夜学校大八洲学会に通い、国文学者黒川真頼について国文や和歌を学んだ。旧知の春草とは、夏休みに天竜川の船下りなどを共にした。在学中、短歌や雅楽、篆刻や剣舞、更に芝の白山道場で南隠禅師について禅を学んで居士号を得るなど』、『学業を殆ど放棄していたため、通常』五『年で卒業するところを』七『年かかって明治三〇(一八九七)年七月に、『ようやく美術学校を卒業した』。『如水は、また』、『早くより和歌に親しみ』、『多くの詠草がある。正岡子規に直接教えをうけ、伊藤左千夫、長塚節らと共に活躍した。子規没後、病の療養のため』、『三重県津市に移り、そこで一身田の真宗高田派総本山専修寺附属の教師兼舎監となって国文学を教えた。その間、曾我蕭白を研究し、伊勢地方に遺る蕭白の作品とその製作過程における逸話を収集して「日本美術」誌に論文を発表している。蕭白が語られる時、伊勢地方での作品は必ず言及されるが、如水の論文は伊勢地方と蕭白との関係を調査した最初の文献として高い評価を受けている』。しかし、『次第に病が悪化し』、『三重県桑名病院にて長逝した。享年』三十三。
「一五坊(いちごぼう)」新免一五坊(しんめんいちごぼう 明治一二(一八七九)年~昭和一六(一九四一)年)は教師で俳人。ウィキの「新免一五坊」によれば、『本名は睦之助。後に藤木姓を名乗る』。『岡山県出身。小石川哲学館を卒業』。明治三一(一八九八)年の『夏、一五坊は根岸(東京都台東区根岸)の子規庵を訪れ正岡子規の門人となり、句会や歌会に参加する。一五坊と同じ哲学館出身の子規門人として真言宗僧の和田性海(不可徳)がいる』。『一五坊は』、明治三十二年・明治三十三年の『正岡子規・伊藤左千夫の一五坊宛書簡の宛名に拠れば、東京日本橋数寄屋町(中央区日本橋)の長井医院に住』んでおり、『根岸派の新進歌人として活躍』、明治三十二年十月の『菊十句会では子規から幹事を任されて』おり、翌明治三十三年一月七日の『一月短歌会にも参加』している。『一五坊は幕末期の歌人・平賀元義の和歌が万葉調であることを、同郷の赤城格堂を通じて子規に伝え』、『このことは、子規の『墨汁一滴』において大きく取り上げられ』ることとなった(同作の「二月十四日」から「二月二十六日」部分。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本』初出切り貼り帖の画像のここから読める)。明治三四(一九〇一)年に『山梨県南都留郡明日見村(富士吉田市明日見)の永嶋医院に居住し、医学を学ぶ。この頃に父親を亡くしている。その後同郡谷村町(都留市谷村)へ移り、山梨において俳句会を指導する。山梨県は伊藤左千夫が長野県諏訪、静岡県沼津を並び活動の拠点とした地で、主に「馬酔木(あしび)」「アカネ」「アララギ」などの同人活動に加わった地元歌人が中心として活動を行った。一五坊は左千夫よりも入門が早く、また左千夫と面識のあった人物として』、『山梨における活動を主導した。山梨転居後も子規との交流も続き』、明治三五(一九〇二)年には『病床の子規に谷村のヤマメを届けており、子規は』「病牀六尺」の「九十九」(八月十九日)の中で、
一、やまめ(川魚)三尾は甲州の一五坊より
なまよみの、かひのやまめは、ぬばたまの、夜ぶりのあみに、三つ入りぬ、その三つみなを、わにおくりこし
と長歌でもって謝意を表している(国立国会図書館デジタルコレクションの『日本』初出切り貼り帖(前のものとは別物(但し、作成者同一人と思われる)なので注意されたい)の画像のここをから読める)。視認子規はこの一ヶ月後、九月十九日に逝去した。『一五坊はその後』、『山梨を離れ、故郷岡山へ戻』って『結婚し、教員とな』った、とある。]
この歌と相俟って注意すべきものは左の一連の作である。
六月七日夜病牀卽事
ほとゝぎす鳴くに首あげガラス戸の外面(とのも)を見ればよき月夜なり
ガラス戸の外に据ゑたる鳥籠のブリキの屋根に月うつる見ゆ
ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ
ガラス戸の外の月夜をながむれどラムプの影のうつりて見えず
紙をもてラムプおほへばガラス戸の外の月夜のあきらけく見ゆ
淺き夜の月影淸み森をなす杉の木末の高き低き見ゆ
夜の床に寐ながら見ゆるガラス戸の外あきらかに月更けわたる
小庇(こびさし)にかくれて月の見えざるを一目を見んとゐざれど見えず
照る月の位置かはりけん鳥籠の屋根に映りし影なくなりぬ
月照す上野の森を見つゝあれば家ゆるがして汽車往き返る
ほととぎすの声が聞えたので、首を上げてガラス戸の外を眺めることにはじまる月夜の風物の観察が、遺憾なくこの一連に収められている。ラムプの光がうつるため、ガラス戸の外が見えないので、紙でラムプを蔽うと、はじめて月下の物象が明(あきらか)に眼に入るという変化も面白いが、最初は見えていた月が何時の間にか庇に隠れてしまって、病牀で身をいざらせても眼に入らなくなり、鳥籠の屋根に映っていた月影もなくなったという時間的推移の窺われるのは更に面白い。われわれはこの一連の歌を読むことによって、その夜の病牀の空気を如実に感じ得るのである。文学における写生の主張が歌の上に現れたのは、固(もと)よりこれらの歌にはじまるわけではないが、十首をつらねて或(ある)場合の空気を髣髴するという行き方は、この辺に至って十分成功の域に達したもののように思われる。
「『万葉集』輪講」は輪講そのままの筆記でなしに、別に居士の「『万葉集』を読む」となって『日本』に現れた。「文字語句の解釋は諸書にくはしければここにいはず。唯我思ふ所をいささか述べて教を乞はんとす」という態度を以てこれに臨んだので、学者的講説を離れ、どこまでも歌として見る。解釈者の側から見る歌でなしに、歌を詠む者の側から歌を見るということが大きな特色をなしている。「『万葉集』輪講」は九月まで引続き行われたが、「『万葉集』を読む」は前後四回『日本』に掲げられたに過ぎなかった。『歌よみに与ふる書』を提(ひっさげ)て起ってから三年目で、漸く著手した『万葉集』の細評が、欝幾何(いくばく)も進行せずに了ったのは、居士のみならず、歌界としても遺憾であったといわなければならぬ。
[やぶちゃん注:「『万葉集』を読む」は国立国会図書館デジタルコレクションのアルスの「竹里歌話 正岡子規歌論集」のこちらから読める。]
「『万葉集』を読む」と前後して「短歌二句切(ぎり)の一種」「竹里歌話」など、歌に関する文章が『日本』に発表された。『日本』以外にも『心の華』『大帝国』『国力』などの如く、居士及(および)短歌会の人々の作品を載せる雑誌の出来たことも、何となく居士の身辺を賑(にぎやか)にした。前年あたりから地方に俳句雑誌の簇出(ぞくしゅつ)[やぶちゃん注:これは慣用読みで「そうしゆつ」が本当は正しい。「むらがり出ること」の意。]する傾向があり、居士も交渉がないではなかったけれども、新(あらた)に勃興せんとする過程にあっただけ、歌の方が活気に充ちていた。短歌会の顔触はそう増加したわけでもなかったが、長塚節(ながつかたかし)、安江秋水(やすえしゅうすい)、森田義郎(もりたぎろう)諸氏の如く、有力青年歌人の相次いで投じ来ったのも、活気を加えた所以であったろう。
[やぶちゃん注:「長塚節」(明治一二(一八七九)年~大正四(一九一五)年)は余りにも知られた歌人で小説家なれば、生年月日だけを示す(一応、ウィキの「長塚節」をリンクさせておく)。
「安江秋水」既出既注であるが、再掲しておく。生没年は確認出来なかった。歌人で『馬酔木』創刊時の編集同人であることのみ判った。
「森田義郎」(明治一一(一八七八)年~昭和一五(一九四〇)年)は歌人で国粋主義者。愛媛生まれ。本名は義良。国学院大学卒。明治三三(一九〇〇)年、根岸短歌会に参加し、『馬酔木』の創刊にも関わったが、意見の対立により、離脱。従来から関係していた『心の花』に移った。後、右翼の政治運動に加わり、日本主義歌人として活動した。万葉振りの作風で、論客としても知られた。著書に「短歌小梯」(国立国会図書館デジタルコレクションの画像で読める)など。]
六月三日に岡麓(おかふもと)氏のところに園遊歌会があり、これに赴いたのが居士最後の外出であった。即事十首の代りに成った「歌玉(うただま)」の歌は、前の松の露やガラス戸の月夜とは全く異った種類のものであるが、一方に偏せざる居士の歌の世界を窺う上から看過すべからざるものであろう。「歌玉」の中に詠み込まれた歌人は、秀真、左千夫、格堂、巴子(はし)、麓、茂春、節、一五坊、不可得、潮音(ちょうおん)、三子(さんし)の十一人であるが、来会者は以上にとどまらなかったことと思われる。
[やぶちゃん注:「歌玉」の子規の詠草は「国文学研究資料館」の「近代書誌・近代画像データベース」内の「山梨大学附属図書館・近代文学文庫所蔵」の正岡子規「竹の里歌全集」のこちらで読める。
「巴子(はし)」西田巴子(生没年不詳)子規門下。
「不可得」既出既注の兵庫県出身の真言宗の僧和田性海(しょうかい 明治一二(一八七九)年~昭和三七(一九六二)年)の雅号。
「潮音(ちょうおん)」柘植潮音(明治一〇(一八七七)年~?(確認出来なかったが、研究者がいるので不明ではあるまい))東京生まれ(元大垣藩主戸田氏共邸で生まれた。父が氏共の家令(執事)であったため)。名は惟一。明治二九(一八九六)年、第一高等学校に入学、句作を始める。この前年、明治三十二年に初めて子規庵を訪れて、入門、句会・短歌会に参加し、交遊を深めた。明治三四(一九〇一)年、故山大垣へ戻り、俳人として活躍。子規亡き後も、河東碧梧桐・長塚節・伊藤左千夫ら子規の門人であった人々が潮音を訪ねてきた、と『文教のまち 大垣』(平成二九(二〇一七)年八・九月号/PDF)にある。
「三子」不詳。]