子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲 明治三十二年 ガラス障子の出現 / 明治三十二年~了
ガラス障子の出現
この年後半における新な出来事の中に居士の画がある。居士が画を好むの性は少時からで、明治十一年(十二歳)の時模写した「画道独稽古」なるものが現存しており、「わが幼時の美感」の中にも、「十二、三の頃友に畫を習ふ者あり、羨しくて母に請ひたれど、畫など習はずもありなんとて許されず。其友の來る每に畫をかゝせて僅に慰めたり」ということが見えている。画に対する居士考(かんがえ)は、『ホトトギス』に出た「画」という文章にほぼ尽されているが、これには洋画家である不折、為山両氏の影響が大分あるらしい。この年三月、居士は「病牀譫語(びょうしょうせんご)」の中で「文學者とならんか、畫工とならんか、我は畫工を擇ばん。文學は文字に緣あるがために時に無風流の議論を爲す。議論は一時を快にすといへども、退(しりぞ)いて靜かに思へば畢竟兒戲のみ。繪畫は議論を爲す能はず。怒れば則ち畫き、喜べば則ち畫き、悲めば則ち畫き、平ならざれば則ち畫く。樂、默々の中にあり。唯我畫に拙(つたな)く、畫工たる能はざるを憾(うら)む。若し自ら樂まんとならば畫の拙なるを憂へず。口を糊(のり)する能はず」といい、また「我、畫を學ばんか、形體を摸するを要せず、輪郭を正すを要せず、只靑を塗り紅を抹(まつ)し黃を點すれば則ち足る」ともいった。この時は直に実行に移す考があったかどうかわからぬが、秋になって図らずも丹青(たんせい)を弄(ろう)する機会が到来した。
[やぶちゃん注:「明治十一年(十二歳)」数え。明治十一年は一八七八年。
「両道独稽古」葛飾北斎の「畫道獨稽古」(文化一二(一八一五)年作)一冊(画文三十五枚七十頁から成る)。これを友人から借りて模写していることが、橋本直(すなお)氏のサイト「俳句の創作と研究のホームページ」の「正岡子規と絵」に記載されてある。
「わが幼時の美感」「吾幼時の美感」が正しい。『ホトゝギス』第二巻第三号(明治三一(一八九八)年十二月十日発行)掲載。国立国会図書館デジタルコレクションの「子規遺稿 第二編 子規小品文集」の画像でここから正字正仮名が読める(これで校合した)。「青空文庫」のこちらでも、新字旧仮名であるが、読める。
「病牀譫語」『日本附録週報』に明治三二(一八九九)年三月十三日から四月二十四日まで五回に亙って連載。「青空文庫」のこちらで新字旧仮名で読める。校合は「子規居士」に拠った。
「丹青(たんせい)を弄(ろう)する」絵の具の「丹青」(赤と青)、或いは、そこから派生した「絵の具で描くこと」の意。]
居士がはじめて写生を試みたのは秋海棠であった。絵具は不折氏から貰ったのがあったので、机の上に活けてある秋海棠をいきなり写生したのである。その結果は「葉の色などには最も窮したが、始めて繪具を使つたのが嬉しいので、其繪を默語先生や不折君に見せると非常にほめられた。此大きな葉の色が面白い、なんていふので、窮した處までほめられるやうな譯で僕は嬉しくてたまらん」ということになり、爾後しばしば画筆を執るようになった。文学以外の楽(たのしみ)が一つ加わったわけである。
[やぶちゃん注:出典は「画」(『ホトトギス』第三巻第五号。明治三三(一九〇〇)年三月十日発行。「青空文庫」のこちらで新字旧仮名で読める)。「子規居士」で校合した。
「居士がはじめて写生を試みたのは秋海棠であった」★この時のものではない★が、国立国会図書館デジタルコレクションの「草花帖」の画像で、三年後の死の年、明治三五(一九〇二)年八月一日に描いた秋海棠の絵が見られる。以下に参考図としてトリミングして掲げておく。
「默語先生」「黙語」は洋画家浅井忠(ちゅう 安政三(一八五六)年~明治四〇(一九〇七)年)の号。既出既注であるが再掲しておく。江戸生まれ。父は佐倉藩士。明治八(一八七五)年に国沢新九郎に師事し、翌年、工部美術学校に入学、お雇い外国人でイタリアの画家アントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi 一八一八年~一八八二年)に師事、明治二二(一八八九)年、日本初の洋画団体「明治美術会」を創立し、明治三一(一八九八)年には東京美術学校教授に就任した。明治三三(一九〇〇)年からフランスに二年間、留学。帰国後、京都高等工芸学校教授に就任して「関西美術院」を創立した。渡欧後は印象派の画風を取り入れ、また、水彩画にも多くの佳作を残した。門下に安井曾太郎・梅原龍三郎らがいる。]
十一月二十二日、虚子、四方太、青々三氏と共に「ふき膾(なます)」を食い、五目ならべなどを闘わした時、皆で「根岸草廬(そうろ)記事」を書く議が起った。四方太氏の文章がはじめて無条件で居士の鑑査を通過したのはこの時である。居士の書いた記事の中に、障子をあけては庭の雞頭(けいとう)を見る、雞頭の傍に赤い小菊のある小景を、画にして置きたいと思っているうちに、霜に打たれたかして見苦しい残骸になってしまった、ということがある。この頃まで病室の南側は障子で、庭を見るにしても、上野の山を望むにしても、一々障子をあけてもらわなければならなかったが、十二月十日頃に至り、ここにガラス障子を取付けることになって、病牀生活に一大変化を生じた。ガラス障子というものが極めて普通になった今日、殊に立って歩ける健康者の立場から、この時の居士のよろこびを想像することは困難であろう。この新な設備は直に句に入り、やがて歌にもなったが、最も委しいのは三十三年一月の『ホトトギス』に出た「新年雑記」である。「ガラス障子にしたのは寒氣を防ぐためが第一で、第二には居ながら外の景色を見るためであつた。果してあたゝかい。果して見える」とあって、病状から見える風物を列挙した末、「これ等はガラス障子につきて略〻豫想した事であったが、其外に予想しない第三の利益があつた。それは日光を浴びる事である」といっている。昼近い冬の日が六畳の部屋の奥までさし込む中に横わっていると、暖いばかりでなしに非常に愉快な気持になる。ガラス障子の出来上った翌日の如きは、自分でガラスを拭いて見たり、菅笠を被って机に向い、昼のうちに原稿を書くほど、居士は新なよろこびに充ちていた。「こんな譯ならば二、三年も前にやつたらよかつたと存候。併シ何事も時機が來ねば出來ぬ事と相見え候」と漱石氏宛の手紙に記れている。
[やぶちゃん注:校合は「子規居士」に拠った。
「ふき膾(なます)」は普通の「膾」のことで「羹(あつもの)に懲りて膾を吹く」の諺に引っ掛けたに過ぎないであろう。]
この年の蕪村忌は会者四十六人、空前の盛況を示した。「風呂吹の一きれづつや四十人」という句はこの際のものである。蕪村忌の翌日には湯婆(たんぽ)を抱えて不折氏の画室新築開(びらき)に列席するなど、押詰(おしつま)るまで相当多事であった。
『俳人蕪村』『俳諧三佳書』が「俳諧叢書」として刊行されたのも、この年十二月の出来事である。
[やぶちゃん注:「蕪村忌」既出既注であるが、再掲しておく。与謝蕪村は享保元(一七一六)年生まれで、旧暦天明三年十二月二十五日(グレゴリオ暦一七八四年一月十七日)に亡くなっている(享年六十九)。]