甲子夜話卷之四 31 正月の門松、所々殊る事
4-31 正月の門松、所々殊る事
正月門松を設ること諸家一樣ならず。通例は年越より七草の日迄なるが、十五日迄置く家もあり。筑前の福岡候支侯、肥前の佐嘉侯、對馬の宗氏、予が家も同じ。南部盛岡侯、岩城氏【出羽の龜田】なども同じ。又宗氏は門内に松飾あるが、玄關の方を正面に向けて立、松を用る所椿を用ゆ。予が家は椎の枝と竹とを立て、松を用ひず。是は吉例の譯あること也。又平戸城下の町家には戶每に十五日迄飾を置なり。又大城の御門松も世上とは異るように覺ゆ。今は忘れたり。安藤侯の門松は故事あつて、官より立らると云。此餘聞及ぶには、姫路侯の家中に、もと最上侯に仕たる本城氏は、松は常の如く拵て、表へ不ㇾ立、裏に臥して置く計なり。これは昔、門松を拵たる計にて戰に出、勝利を得たる古例と云ふ。又同家中に、もと名波家に仕たる力丸氏の門松は、一方計に立てゝ、左右には不ㇾ設。就ては上の橫竹なければ、付る飾も無し。是も半ば拵かけ、戰に出でゝ勝利の佳例と云。又直參衆の曽根内匠は竹を切らず、中より下の枝を去り、長きまゝにて立てゝ、末葉をつくる。横に結ぶ竹もこれに同じ【小川町に居と云】。又佐竹侯には門松なし。是も何か困厄の後、勝利の例と云。御旗本衆の岡田氏も門松なし。其故事は未だ聞ず。これは織田家家老の家なれば、古きわけもあるなるべし。又聞く。新吉原町の娼家にては、門松を内を正面に立ると云。是は客の不ㇾ出といふ云表兆なりと。又予が若年の時、上野廣小路の一方は、大抵買女家にて、所謂私窩なり。此戸外にも皆内向きに立たり。其前道は登山の閣老、參政、大目附、御目付など往還あるに、私窠の業を押晴て目立つやうにせしはいかなることにや。その邊寬政中より業を改めて、尋常の商家となれり。
■やぶちゃんの呟き
「殊る」「ことなる」。
「福岡候支侯」この当時存在した福岡藩支藩は秋月藩。
「佐嘉侯」「さが」。佐賀藩主家鍋島氏。
「對馬の宗氏」対馬府中藩藩主家宗(そう)氏。
「是は吉例の譯あること」後に出るような、過去の招福の特異な出来事或いは伝家の伝承に由来するものであるという謂い。
「大城」「だいじやう」か。本城の謂いであろう。
「安藤侯の門松は故事あつて、官より立らると云」旧陸奥国の菊多郡から楢葉郡まで(現在の福島県浜通り南部)を治めた磐城平(いわきたいら)藩藩主家安藤氏。これは後の「甲子夜話卷之七」の「安藤家門松の事」で個別に語られている。フライングして本文を示す。特異的に読みを歴史的仮名遣で推定で振った。
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7-18 安藤家門松の事
前に安藤侯の門松は、故事あつて官より立ラルゝことを云へり。後此ことを聞くに、或年の除夕(ぢよせき)[やぶちゃん注:大晦日。]に、神君安藤の先某(さきのなにがし)と棊を對し、屢々負たまひ、又一局を命ぜらる。某曰、今宵は歳盡なり。小臣明旦の門松を設けんとす。冀くは暇を給はらんと。神君曰、門松は吏を遣(やり)て立(たつ)べし。掛念(けねん)すること勿れ、因て又一局を對せられて、神君遂に勝を得玉(えたまひ)しと。自ㇾ是(これより)して依ㇾ例(れいによりて)官吏來(きたり)て門松を立つとなり。又今安藤侯の門松を立(たつ)るとき、御徒士目附其餘の小吏來(きた)るに、其勞を謝するに、古例のまゝなりとて、銅の間鍋(かんなべ)[やぶちゃん注:燗鍋。「ちろり」のようなものであろう。]にて酒を出(いだ)し、肴は燒味噌一種なり。これ當年質素の風想ひ料(はか)るべし。
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ここに出る「先某」は、夢見る獏(バク)氏のブログ「気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録」の『「背中合わせ飾り」(門松④ 江戸の祭礼歳事)」』によれば(前の磐城平藩藩主家安藤氏の情報もここに拠る)、安藤重信(弘治三(一五五七)年~元和七(一六二一)年:三河出身。徳川家康・秀忠に仕え、「小牧・長久手の戦い」・「関ケ原の戦い」・「大坂の陣」で功を立てた名将。この間、慶長一六(一六一一)年には老中となっている)とある。以下、先に出た対馬藩宗家のそれは「松飾り」ではなく、「椿飾り」と呼ばれたこと、『しかも、門内に玄関を向いて立て』、『これは往来を背中にしているため』、「背中合わせの松飾り」と呼ばれたとある。この筆者『鳥越の平戸藩松浦家では椎の木の枝と竹を立てたため、「椎の木飾り」と』呼んだともある(引用元は三田村鳶魚「江戸の春秋」の「お大名の松飾り」)。
「拵て」「こしらへて」。
「計」「ばかり」。
「門松を拵たる計にて」立てる暇もなく、門の内側、家「裏」(いえうち:本文「裏」は「うら」ではなく「うち」と訓じていよう)に地面に横にして置いたまま「戰」(いくさ)「に出」(い)でたところが「勝利を得た」、その「古」吉「例」に基づく仕儀だというである。
「名波家」上野国那波郡(現在の群馬県伊勢崎市及び佐波郡玉村町)に拠った戦国時代の那波氏のことか。
「不ㇾ設」「まふけず」。
「上の橫竹なければ」意味不明。一本だけ竹を立てるだけで、左右の横に竹を添えないということと採っておく。
「内匠」「たくみ」。
「困厄」難儀。
「新吉原町の娼家にては、門松を内を正面に立ると云。是は客の不ㇾ出といふ云表兆なりと」(「不ㇾ出」は「いでず」だが、「表兆」は読みが判らん。「へうてう」か? 客へ示す予祝(自身の商売繁盛)の呪(まじな)いの意ではあろう)内を正面に立」(たつ)「る」というのは、廓内の往来方向ではなく、見世の入口の左右で廓内へ向けて逆向きに立てるということであろう。門松は「入口」であるから、福たる客には「出口」はない、客が出て行かない、繁盛する、という類感呪術的手法である。前に出した「気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録」の『「背中合わせ飾り」(門松④ 江戸の祭礼歳事)」』には、これも「背中合わせの松飾り」の一例として書かれてあり、『三田村鳶魚は、お大名の松飾りの説明の中で吉原の門松も背中合わせに飾ると書いてい』るとし、『吉原では、松飾りを見世の方に向け』て立てた、『向こう側の店でも同じように立てるので、道の真ん中に背中合わせの形で立てられ』たあり、『そのため、「背中合わせの松飾り」と呼ばれ』たとする。『門松は、店先に相対するように』二~三間(三・六四~五・四五メートル)『離して立てた』とされ、『有名な清元の「北州(ほくしゅう)」に』は(大田蜀山人作詞という)し、
霞のえもん坂 えもんつくろう初買(がひ)の
袂(たもと)ゆたかに大門の
花の江戸町京町や
背中合はせの松飾り
とあるとあって、『このように門松が立てられてのは、お客さまが外に出ないようにというまじないだったよう』だとする(ここに「甲子夜話」の本条のことも記してある)。また、『この「背中合わせの松飾り」を詠んだ川柳が残されてい』るとして、
門松を吉原ばかり向こふに見
松飾り後ろを向ける別世界
と掲げられてある。
「買女家」「ばいぢよや(ばいじょや)」で、非公認の売春宿のことであろう。
「私窩」「しくわ(しか)」。「私窩子(しくわし(しかし))」で「淫売婦・売春婦」のことであるから、ここはその棲み家で同前。後の「私窠(しくわ(しか))」も同じい。
「登山」私は差別化するために「とうさん」と読む。登城(とじょう)のこと。
「閣老」幕府老中の異称。
「參政」各大名の家老の異称。
「業」「わざ」。幕府が禁じている私娼の商売。
「押晴て」「おしはれて」か。「おし」は強意の接頭語、「晴れて」は、正月の特殊な「ハレ」の時の儀式とは言え、非公認の犯罪である売春宿がかくも幕閣や御家人の眼に平然と立ち並んで「目立つやうに」あるのは如何なものか、と過去の静山は感じたと言うのである。
「邊」「あたり」。
「寬政」一七八九年から一八〇一年。静山は宝暦一〇(一七六〇)年生まれで、安永四(一七七五)年二月十六日に祖父松浦誠信(さねのぶ)の隠居により、満十五歳で家督を相続している。寛政の前の天明は一七八一年から一七八九年まで、その前の安永は一七七二年から一七八九年までだから、静山の曖昧宿の不快な記憶は安永後期から天明の初め頃であろうか。
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