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2018/06/17

諸國里人談卷之二 河童歌

 

     ○河童歌(かはらうのうた)

肥前國諫早(いさはや)の邊〔あたり〕に、河童(かはらう)、おほくありて、人を、とる。

 ひやうすへに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原

此哥を書(かき)て、海河(かいか)に流せば、害をなさず、と也。「ひやうすへ」は兵揃(ひやうすへ)にて、所の名也。此村に天滿宮のやしろあり。よつて、「すがはら」といふなるべし。○又、長崎の近きに澁江文太夫といふ者、河童(かはらう)を避(さく)る符(ふ)を出〔いだ〕。此符を懷中すれば、あへて害をなさず、と云〔いふ〕。或時、長崎の番士、海上に石を投(なげ)て、其遠近(ゑんきん)をあらそひ、賄(うけもの)して遊ぶ事、はやる。一夜(あるよ)、澁江が軒(のき)に來りて曰(いはく)、「此ほど、我(わが)栖(すみか)に、日每〔ひごと〕、石を投〔なげ〕ておどろかす。是(この)事、とゞまらずんば、災(わざはひ)をなすべし」となり。澁江、驚き、これを示す。人、皆、奇なりとす。

[やぶちゃん注:崎の河童とキャプションする本条の挿絵がある(①)。ここは何より、私の根岸耳囊 卷之七 川狩の難を遁るゝ歌の事」の私の注を是非、参照されたい。本条も電子化しているし、類話も掲げてあるからである。

「ひやうすへに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原」一部では菅原道真の作と伝承される。この歌、意味が採れないのであるが、まずはこれは河童封じの呪文・呪歌であるからして、そもそもが意味が採れるような代物では呪力が知れるというもの、といなしておく。と言っても、実は前のリンク先で類型の呪歌を幾つか拾ってあるのでそれを示すと、まず「耳囊」のそれは(写本二種で微妙に異なるので二つ並べる)、

 ひふすべに飼置(かひおき)せしをわするゝな川立(かはだち)おとこうぢはすがわら

 ひよふすべよ約束せしを忘るゝな川だち男うぢはすがわら

で、「物類称呼」(俳人越谷吾山編になる方言辞典。安永四(一七七五)年刊)に、九州で川下りをする際に唱えるものとしてものは、

 古(いにしへ)の約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原

である。佐藤中陵の随筆「中陵漫録」(佐藤中陵は江戸中後期の本草家で、宝暦一二(一七六二)年生まれで嘉永元(一八四八)年没。後年、水戸藩に仕え、江戸奥方番などを経て、弘道館本草教授となった)の「河太郎の歌」(リンク先に本文も電子化してある)、のそれは、

 ひやうすへに川たちせしを忘れなよ川たち男我も菅原

で完全に本条の歌と一致する。「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であり、リンク先の本文を読んで貰えば判るが、佐藤は恐らく、本書を元にこの歌を記したのだと思われる。さて、この一連の歌の意味であるが、まず、菅原は当然、菅原道真で、大宰府周辺現地での道真には河童伝承が纏わる。彼が治水事業で河童を使役したとか、九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真が河童を助け、その礼に河童たちは道真の一族には害を与えない約束をかわしたという伝承があり、これらの歌もそれを受けたものであって、「川立ち男」というのは、水中でも陸と同じように立つ男、泳ぎの上手な男の意で、河童も勝てない水練の達人菅原道真(とその子孫)の謂いである。則ち、これらの歌は「ひょうすべ(河童)たちよ! 古えの誓いを忘れてはおるまいな?! 水練の手練れ男は、誰もが、菅原道真の子孫なのだ! 私もだ! 恐れ入れ!」といった意味合いを含ませた呪歌・呪文なのである(詳しくはリンク先の私の注(引用)を読まれたい)。

『「ひやうすへ」は兵揃(ひやうすへ)にて、所の名也。此村に天滿宮のやしろあり』柳田國男は「山島民譚集(一)」の「河童駒引」の「ヒヨウスヘ」で「笈埃(きゅうあい)随筆」(江戸中期の旅行家百井塘雨(ももいとうう ?~寛政六(一七九四年)の紀行随筆)から引いて(巻之一の「水虎」)、『肥前諫早(イサハヤ)在ノ兵揃(ヒヤフスヘ)村天滿宮ノ神官渋江久太夫ノ家ノ歷史トシテ此話』(本条に書かれた内容)『ヲ傳ヘタリ』と記しながら、その直後に、『自分ノ知ル限リニ於テハ、肥前ニハ兵揃(ヒヤウスヘ)ト云フ村ノ名無シ。恐ラクハ亦傳聞ノ誤ナラン』とし、『大宰府天滿宮ノ末社ノ一ニ、「ヒヤウスベ」ノ宮アリ』として例の歌二種を掲げた上、『之ヲ以テ見レバ、「ヒヤウスヘ」本來河童ノコトニハ非ズシテ、化物退治ヲ以テ專門トシタル神ナリシカト思ハル』と述べているのである(太字やぶちゃん)。或いは、ここでの沾涼の謂いが、或いは、この誤伝の元凶であったものかも知れぬ

「賄(うけもの)」ここは金を出し合って、それをかけ物とすることか。

『澁江が軒(のき)に來りて曰(いはく)、「此ほど、我(わが)栖(すみか)に、日每〔ひごと〕、石を投〔なげ〕ておどろかす。是(この)事、とゞまらずんば、災(わざはひ)をなすべし」となり。澁江、驚き、これを示す。人、皆、奇なりとす』これ、よく考えてみると、おかしい。河童は呪符を発行(販売)する超苦手な渋江のところ行くまでもなく、投石遊びをする連中の所に出て、脅した方が、遙かにまどろっこしくなく、効果的であろうと思われる。寧ろ、これによって大衆が渋江に対して、彼の河童に対する霊験的抗力を再度、知らしめることとなり、またまた呪符が飛ぶように売れたに相違なく、私はこれは、真正の怪異譚ではなく、そうした見え透いた渋江の一芝居の擬似怪談のように思われるのである。]

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