諸國里人談卷之一 善光寺如來
○善光寺如來
信州水内(みのち)郡芋井鄕(いもゐのがう)善光寺の本尊は、欽明天皇十三年、百濟國より渡り來るいへども[やぶちゃん注:ママ。「來る」と「いへども」の脱字であろう。]、いまだ信ぜず。推古天皇十年、草創して、伊奈郡【同國也。】宇沼(うぬま)村に寺を建(たつ)ル。其後、皇極天皇元年に、佛勅によつて水内郡に建立し給ふ。本願主は、本多善光。よつて寺號とす。
凡(およそ)、世に靈社靈佛多しといへども、他國遠境より信を發(おこ)して、態(わざわざ)に參詣するは、伊勢兩宮と當本尊のみなり。每日、旭(あさひ)の時と、日中に、兩度、御帳(みてう)を揭ぐ。時に大念佛す。參詣の輩(ともがら)、此時節にあふ事を矩模(きぼ)とせり。日每(ごと)に百人二百人の參詣、御堂に滿(みて)り。其地の人は稀にして、皆、旅人なり。かぞへがたき靈驗の中に、ちかきをいはゞ、享保年中、江戸深川の人、目を病(やみ)て盲(しい)たり。此本尊に祈誓して、四十八度、步みを運ぶ。願の發(おこ)す半過(なかばすぎ)て[やぶちゃん注:ママ。「發(おこ)」してより「半過(なかばすぎ)て」の謂い。]、兩眼、あきらかに開けたり。その持(もつ)所の杖、件(くだん)の趣意を記して繪馬にし、御堂に揭置(かゝげ〔おき〕)たり。每月參詣すれば、徃還(わうくわん)・驛(むまやぢ)の者、悉(ことごとく)、其人を知(しる)。
諸國諸佛の靈驗多しといへども、事繁しげ)ければ、省ㇾ之(〔これを〕はぶく)。
[やぶちゃん注:本条は③に誤写ががあって、冒頭部分の一部が脱文しているため、①を底本に③と校合して翻刻した。本条は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とする、現在の長野県長野市元善町(もとよしちょう)にある定額山(じょうがくざん)善光寺(ぜんこうじ)。本寺は、近世以来、無宗派の単立寺院で、天台宗の大勧進と浄土宗の大本願が管理してきている。住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。ウィキの「善光寺」によれば、『善光寺聖の勧進や出開帳などによって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。今日では御開帳が行われる丑年と未年に、より多くの参拝者が訪れる』とあり、絶対秘仏とされる本尊は当寺の住職ですら見ることは出来ないとされており、数えで七年に一度の「本尊開帳」というのも、身代わりの前立本尊(レプリカ)によるものである。ここに書かれている毎日の開帳というのは、『朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に』、『金色に彩られた瑠璃壇の戸張が上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる』とあるのを指している。
本尊だけでなく、善光寺の歴史も不確かで、白雉五(六五四)年より『絶対秘仏とされている善光寺の本尊、「善光寺式阿弥陀三尊」は、天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済の聖王(聖明王)を経て、献呈されたか、難波の津に漂着されたものとされる。日本に来るも廃仏派の物部氏によって捨てられる(一説に和光寺)が、本田善光に拾われ、小山善光寺から信濃の元善光寺に、次いで現在地に遷座したと伝えられる。創建時期は不明だが、近江国周辺で見られる湖東式軒丸瓦が発掘されている』。『通説(公式HP)では、善光寺の由来は本田善光であり、本田善光が善光寺如来を信濃国に持ってきたとされているが、扶桑略記では或記(引用した)として、「秦巨勢大夫」とあり、伊呂波字類抄では「信濃国人若麻續東人」と相違がある』。『また、『四天王寺秘訣』には光坐寺や本善寺、『古今目録抄(太子伝)』には阿弥陀院、百済寺と多くある』。『また、天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡家隣接寺院、水内郡は金刺舎人)の』一『つという指摘がある』。天平勝宝八(七五六)年、『唐の玄宗皇帝は楊貴妃の菩提を弔うため日本に使節を送り、信濃の善光寺に自筆の大般若経を奉納させたという伝承が残る』。『善光寺縁起は、扶桑略記で記されているのを始めに、時代を経るごとに追記や改変がされて』おり、『院政期に書かれたとされる『伊呂波字類抄』にその引用があり、その記述には日本の仏教公伝の旧説とされる』五五二年から丁度、五十年後の推古天皇一〇(六〇二)年に『若麻績東人』(わかをみのあずまびと)『(本田善光)が仏像を入手して信濃に持ち帰り、更に』百六十六年を経た神護景雲二(七六八)年に『至ったことが記されている』。この『『伊呂波字類抄』が参照した原典は』同神護景雲二年に『書かれた善光寺の「古縁起」であったと見られている。田島公は推古天皇の時代、信濃国の大部分はヤマト王権(大和朝廷)の支配下にあって他の東国諸国とともに貢納を行っていたと推定されること(「東国の調」)』、この七六八年前後には『称徳天皇・道鏡の下で仏教振興政策が取られており、既存寺院の把握も行われていたことから、本田善光の説話は全くの創作ではなく』、七六八年に『作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと』もされる。『善光寺のものと確証が得られている訳ではないが』、『境内の遺跡から古代寺院の古瓦が出土しており』、九『世紀の物と鑑定されている』とある。
「欽明天皇十三年」五五二年。本尊伝来として「善光寺縁起」にあり。
「推古天皇十年」六〇二年。本田善光が信濃に持ち帰った年として、前に出した「伊呂波字類抄」にあり。
「伊奈郡【同國也。】宇沼(うぬま)村」伊奈郡宇沼村麻績の里とする。現在の東筑摩郡麻績村(おみむら)か(善光寺の南西約二十三キロメートル)。ここ(グーグル・マップ・データ)。しかし、ここは少なくとも近世の旧伊奈郡域ではない(同郡の北方)。
「皇極天皇元年」六四二年。勅願により伽藍が造営されて本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられた年として「善光寺縁起」にあり。
「本多善光」(ほんだよしみつ 生没年未詳)善光寺の名の由来となったとする飛鳥時代の人物。ウィキの「本多善光」によれば、推古天皇八~十年に『大和の京に上る。その際の難波堀江で、厄落としとして打ち捨てられた尊仏を発見し、安置したい旨を願い出て勅許を蒙り、尊仏を伊奈郡若麻績里の自宅に移して拝』していたが、皇極天皇三(六四四)年(「善光寺縁起」とは二年のズレがある)、『善光寺の所在地となる同国水内郡芋井郷に尊仏を奉り、寺院建立の勅を蒙りて伽藍を建立。科野国(信濃国)伊那郡若麻績里に住んだことから、伊呂波字類抄では若麻績東人(わかをみのあずまこ)とも称される』。以下、「略縁起」の項に、欽明天皇一三(五五二)年(一説に宣化天皇三(五三八)年とも)、『百済(朝鮮半島南西部)の聖王(聖明王)が献上した天竺の月蓋長者造仏の阿弥陀如来像が、疫病流行のために物部氏によって難波の堀江(現在の大阪とも奈良県明日香村とも)に捨てられた』。その後、推古天皇八(六〇〇)年、『上洛していた本田善光がそこを通りかかると』、『その阿弥陀如来像(のちに長野市善光寺の古来から絶対秘仏として伝わる本尊となる)が水中から出現して背に乗った』。『信濃国に戻り』、『家に安置し、その後』、『阿弥陀如来の霊告で、信濃国水内郡芋井郷(現在の長野市)に移座し、如来堂を建立して祀ったという』とある。
「矩模(きぼ)」不詳。「本来の基本」或いは「切願の核心」の謂いか。
「ちかきをいはゞ」本書の刊行は寛保三(一七四三)年。
「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。
「驛(むまやぢ)」ママ。読みの意味は不詳。「馬屋路」か。]