諸國里人談卷之二 星糞
○星糞(ほしくそ)
信濃國岩村田の邊〔あたり〕に「星糞」といふ石あり。春、田耕(たがや)すころ、土中より、掘出(ほり〔いだ〕)す也。色、うす鼡(ねずみ)にして、性(しやう)は水晶石に似たり。大きなるは稀也。燧石(ひうちいし)の欠(かけ)たる程の石角(いしかど)だちたる也。此地は、他所(たしよ)より、流星(りうせい)、多き所なり。すぐれて流星あるとしは、此石もまた、おほし。これを「星糞」といふ。
[やぶちゃん注:「信濃國岩村田」現在の長野県佐久市岩村田(いわむらだ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
さて、前の「月糞」で引いた天中原長常南山(中野得信)編「山家鳥虫歌」の私の翻刻を再掲する(「黑き燒石の如くもの」は頭注に従い、訂した)。
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美濃國、心やはらかにしてよき風なり。此の國、月吉村といふ所に長さ、一、二寸ばかりある、薄白き寶貝(ほらかひ)の如き、「月糞」といふ石あり。同所、村田の邊に「星糞」と云ふものあり。上天の星は末代かはらず、「流星」は、地中より出づる陽氣にて空へあがり、「冷際」と云ふ大寒の所あるにあたり、すれて光を發し、落つるものを「流星」と名づけいふなり。土中の陽なるゆゑ、土氣を含み、のぼる。大なる「流星」は地まで、火光、とゞく。ともし火のしんあるが如く、陽は發し、土氣はかたまりて、黑き燒石の如きもの、地へ落つる。これを「星糞」といふなれば、岩村に限りてあるとは、いぶかし。
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ここでは「同所」となっていて、それだと、「美濃國」の「村田」という場所になるが、最後のところで「岩村」とあるから、ここは「岩」の脱字で「岩村田」という地名か、「岩村〔の〕田(た)の邊(あたり)」、或いは「村田」自身が「岩村」の誤りとも読める。しかし、まず、現在の岐阜県内には「岩村田」という地名はない。「村田」というありそうな地名もちょっと見つからない。但し、「岩村」ならば、岐阜県恵那市岩村町がある(ここ(グーグル・マップ・データ)。私の注の最後に関わるので太字とした)。しかし、何より、沾涼ははっきりと「信濃國岩村田」と記している訳で、まずはそれで考証するのがここは筋である。前条で引かせて戴いた「山家鳥虫歌」を素材としたMineralhunter氏のサイト「Mineralhunters」内の『「山家鳥虫歌」にみる石と鉱物』でも、実は同じように、この記載にとまどっておられ、「月糞」の考証の後で(一部の空欄や記号を詰めたり、変えたり、させて貰った)、
《引用開始》
しからば、『星糞』とは何だろう。「山家鳥虫歌」には、『同所岩村田の辺……』[やぶちゃん注:これはサイト主が底本とした岩波文庫による補正と思われる。]に産する、とある。『同所』は、前文を受け、美濃の国(現岐阜県)を指すはずだが、岐阜県には岩村田という地名を見いだせない。
逆に、『星糞』、という地名を探すと、長野県の長和町に「星糞峠」なる地名があり、佐久市岩村田のすぐ近くだ。[やぶちゃん注:ここ(国土地理院地図)。「星糞峠黒曜石原産地遺跡」がある。但し、岩村田からは南西に二十七キロメートルは離れているので、失礼乍ら、現在の感覚では「すぐ近く」とは言い難い。]
星糞峠近くにある、「黒耀石体験ミュージアム」のHPを閲覧すると、「星糞という言葉」の記事が載っている。「人の手が加わって割れた黒耀石のかけらは、光をあびてキラキラと輝く。この黒く半透明の輝く石を、いつの頃からか、人は『星糞』という素朴な名前で呼び親しんできた」、とある。
同時に、「江戸時代の会津藩の古文書の中に、黒耀石を方言で『星糞』とも呼んでいるという情報が寄せられた」、ともある。
つまり、『星糞』とは、古代人が石器の材料として黒曜石を掘り出したり、加工したときに生まれた剥片を指しているようだ。
《引用終了》
私も「黒耀石体験ミュージアム」を覗いてみた(アラビア数字を漢数字に代えた)。
《引用開始》
星のようにキラキラと輝く美しい黒耀石。鷹山にある黒耀石の原産地を、いつの頃からか、人々は星糞峠と呼ぶようになりました。
割れ口が鋭く加工しやすい黒耀石は、およそ三万年もの間、石器の材料として利用されてきました。産地の限られる貴重な黒耀石をもとめて、この鷹山の地にはたくさんの人々が集まり、星糞峠からそのふもとの一帯には、黒耀石の流通に関係した、大きな遺跡がいくつも残されています。全国各地へと、遠い道のりを持ち運ばれていった黒耀石。
この地は、まさに、その「ふるさと」なのです。
[やぶちゃん注:小見出しを省略した。]
およそ八十七万年前の噴火でできた星糞峠の黒耀石。旧石器時代には、そのふもとに石器工場のような遺跡が、縄文時代には、峠の付近で黒耀石を掘り出した鉱山のような大規模な遺跡が残されました。
《引用終了》
とある。以上から、この「星糞」とは黒曜石、それも沾涼が「大きなるは稀也。燧石(ひうちいし)の欠(かけ)たる程の石角(いしかど)だちたる」ものであると言っていることから、縄文以降、人々によって鏃や石器に加工された遺物としてのそれらであったことが判明するのである。私は小さな頃、父に連れられて、練馬の大泉学園の川添いの寺院の墓地の裏手の丘陵や(幼稚園時)、今居る近くの戸塚小雀の浄水場近くの休耕畑から(小学生低学年時)、驚くほど多量の黒曜石の鏃を発掘した経験がある(前者のある場所は、地面を蔽ってしまうほどに露出していた)。かつての古代人の住居であった田圃から鏃が出てきて、何ら不思議はないのである。
但し、最後に一言言っておくと、先に示した岐阜県恵那市岩村町の北近くには、縄文期の阿曽田遺跡(リンク先はサイト「遺跡ウォーカー」。地図有り)が存在し、黒曜石の石鏃等が出土している。ここから信濃へ抜ける中山道沿道にはこうした古代人の集落が多数あったに相違ない(それは多くはこの星糞峠付近から供給されていたものではあろう)から、「山家鳥虫歌」の「岩村」の記載を安易に「岩村田」として解決するのは、ちょっと留保したい気持ちにはなるのである。]
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