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2018/07/31

諸國里人談卷之五 宗語狐

 

    ○宗語狐(そうごぎつね)

 

[やぶちゃん注:本条は特異的に非常に長いので、読み易さを考え、改行と行空けを加えた。本条の挿絵がここにある(①)。なお、吉川弘文館随筆大成版(平成七(一九九五)年五月発行新装版第一刷)は今までも素人の私が見ても、誤判読が多いが、ここもそれで、字を判読して起すのではなく、安易に前後の文脈から勝手に当てている箇所さえあった。「ルビ無しで、しかも、これか。杜撰な翻刻を読まされる読者はたまったもんじゃないな。」と、正直、大真面目に思った。『これでしかも、よくもまあ、偉そうに「日本複写センター委託出版物」とやらの注意書きを掲げられるもんだわい。』としみじみ感じた。そもそも平板な絵画作品などを平板にただ写しただけのものには著作権は生じないというのが文化庁の正式見解であるから、別に当該書の挿絵(かなり綺麗である)をトリミングして貼り付けても問題ないのだが(これについては私は裁判してもよいとさえ思っている)、私は今回、敢えて早稲田大学古典総合データベースのそれにリンクさせた。だからこの義憤はどこかで言おうと思っていた。悪しからず。

 

 京都八十村路通(やそむらろつう)は、芭蕉門人、秀才の俳士也。常に稻荷を信じ、毎月、深草の社(やしろ)に詣でける。

玆(こゝ)に八旬(はちじゆん)に餘る僧の、これも折々參詣せしが、面(おも)を合(あわ[やぶちゃん注:ママ。])する事、たびたび也。

或時、奥院(おくのゐん)へ登りけるに、かの僧に行合(ゆきあひ)たり。路通曰く、

「當社におゐて老僧を見る事、數(かず)あり。定(さだめ)て此御神(みかみ)、御信仰の人にてこそあらめ。」

と訪(と)ひよりけるに、其翁も、

「左にこそ。」

と語り合ふに、飯生三山(いなりさんざん)の事ども、委(くわし[やぶちゃん注:ママ。])く教へられける。

 それより親しくなりて、路通庵へも、折々、訪ひ來れり。

 終に其住所をかたらず。

 名は宗語といへり。

 路通隱士は記錄者にて、古代の事を委〔くは〕しうす。宗語老人に事を問ふに、五百年來の事は今見るがごとくにすゞしく、六、七百年の事は少(すこし)明かならぬ事もありとかや。

 是によつて、路通、益々記錄の事を得たり。

 睦びあふ事、三とせを經たり。 

 

 于ㇾ時(ときに)、宗語の曰く、

「吾、關東に赴く事あり。年來(ねんらい)の餘波(なごり)は、明日、勢夛(せた)のこなた[やぶちゃん注:①には「こなた」無し。]にて別れを留(とゞ)むべし。其所にて互に待合(まちあわ[やぶちゃん注:ママ。])すべし。」

と約しぬ。

 明(あけ)の日、約(やく)の刻限よりは[やぶちゃん注:③は「は」無し。]はやく、路通は勢多に行〔ゆき〕て茶店(さてん)に待(まち)けり。

 また向〔むかひ〕なる茶店(ちやや[やぶちゃん注:先の読みとの違いは①も③もママ。])も一人の隱士、これも、人を待つ風情なり。ほどなく、宗語老人、旅すがたにて來〔きた〕るに、左右より、兩隱士、出むかひ、

「はやくも來り給ひぬ。」

と、三人、打〔うち〕つれ、一間(ひとま)にして餘波(なごり)の酒を汲(くみ)ける。

 時に宗語の曰く、

「年來、兩士の親しみ、わすれがたし。此たび、關東に赴く。老衰たれば、歸京のほどもはかりがたし。今まではつゝみぬれども、早や隱すべきにあらず。吾、元來、人間にあらず、狐なり。年ごろ、稻荷の仕者司(ししやつかさ)をつとめ、今年、仕(つか)へを辭したり。我(わが)古鄕(ふるさと)は江州彥根、馬渕何某(まぶちなにがし)が屋敷に住(ぢう)しぬ。かれこそ我〔わが〕事をよくも知れり。」

など物がたりして、立別(たちわか)れけり。

 兩士は、たゞあきれたるばかりにて、しばらく、言葉もなかりき。

 

 而後〔しかしてのち〕、兩士、語(かたり)あふに、一人の隱士も、路通のしだいに、ことたがはざりける也。かくて兩士、

「すぐに彥根に立越(たちこへ[やぶちゃん注:ママ。])て、今の事をも知らせ、また其やうすをも聞(きく)べし。」

と、それよりすぐに彥根に赴きぬ。 

 

 馬渕は、田地あまた持〔もち〕たる百姓なりける。

 彼(かの)所に至り、京都宗語老僧の言葉によりて尋來(たづねきた)るよし、案内(あない)すれば、亭主、肌足(はだし)にて出〔いで〕むかひ、居士衣(こじゑ[やぶちゃん注:ママ。])の袖をとつて一間〔ひとま〕に請(しやう)じ、

「老僧よりの御使〔みつかひ〕とあれば、さだめて眷屬(けんぞく)にておはしますらん。」

と、火を改めて、せちにもてなしける。

 兩士、

「われわれ、さやうの事にあらず。」

と、京都にてのしだひ[やぶちゃん注:ママ。]、勢夛(せた)のありさま、くはしくかたるに、主(あるじ)、大きに、これを感ず。

「四とせ以前、上京あるよしにて、その後、安否しれざるに、かく、たしかの便(たよ)りをきゝつるものかな。」

と、よろこびあへり。

よつて三日、爰(こゝ)に足をとゞむ。 

 

于ㇾ時(ときに)、主、語つて曰〔いはく〕、

「一子、十二歲の時、いづちへ行〔ゆき〕けるか、その行衞、しれず。親族こぞつて尋ぬれども求め得ず。父母、ふかく悲歎しける。しかるに、百五十日を經て、健(すこやか)にして歸る。人々、驚き、事を問ふに、

『宗語老僧に誘引(いざなはれ)て、普(あまね)く、諸國の神社佛閣・名所旧跡を見𢌞りたり。則〔すなはち〕、老僧、あれにおはするなり。むかへ給へ。』

といふに、一人の老僧、竹笠〔たけがさ〕[やぶちゃん注:竹を網代(あじろ)に編んで作った被り笠。]を持〔もち〕て彳(たゝずみ)たりしを、請じ入れける。老僧にむかひて云〔いはく〕、

『いかなれば我子を迷し給ふ。』

 答(こたへ)て曰、

『吾は、人間にあらず、當(とう)境地(きやうち)の稻荷の社(やしろ)に住む狐也。當年、京都本山の仕者司(ししやつかさ)の番にあたれり。舊地を離(はなれ)るの名殘(なごり)、且は數(す)百年來住所の恩を謝せんがため、今、一子を伴ひ、國々を見せ、その餘力(よりよく)に文(ぶん)を學ばせ、筆跡(ひつせき)を教(おし)ゆ。近々〔ちかぢか〕上京すれば、一生の別れなり。其方一族誰かれ、男女五十餘人、來〔きた〕何日の夜、饗應すべし。暮〔くれ〕ちかきに、皆、此所に集むべし。その時、地内のやしろの前にあかしを立〔たて〕ん。その光りについて來るべし。』

と約して去りぬ。いぶかしながら、其期(そのご)を待つに、件(くだん)のあかし、見えければ、教(おしへ)にしたがひ、十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]あまりも行きたりとおもふに、寺にひとしき菴室(あんしつ)あり。かの老僧、出〔いで〕むかひ、

『約に違はず、よくぞ來られし。』

と斜(なゝめ)ならず喜び、各(おのおの)座鋪(ざしき)に請じける。臺所には數十人、料理・獻立の事ありて、ほどなく膳を持てり。給仕の小姓(こしやう)はなれなれしく、珍饌(ちんせん)美食、數を盡せり。

『吾、魚物(ぎよもつ)を忌めば、饗應、心にまかせず、麁末(そまつ)なれども、ゆるやかにきこしめされよかし。』

となり。于ㇾ時(ときに)、主(あるじ)[やぶちゃん注:沾涼は破綻を生じさせてしまっている。ここは主人馬渕の直接話法であるから、「我・吾」でなくてはおかしい。]、問(とう[やぶちゃん注:ママ。])て云〔いはく〕、

『老僧、尤〔もつとも〕、凡人(ぼんにん)ならねば、神通(じんづう)を以て塩噌(ゑんそ[やぶちゃん注:ママ。])を貯へ給ふ事、自由ならん。他(た)を貪(むさぼ)り掠(かす)めて、此美食を給ふは不快の事にこそあれ。』

答(こたへ)て云〔いはく〕、

『全く人の物を掠取(かすめとる)にあらず。吾に、金銀の貯(たくはへ)、多(おほく)あり。』

と也。

『其金銀も、また、妙術(みやうじゆつ)を以てなるべし。』

『あら、むづかし。申さぬ事ながら、其根〔ね〕を解(とか)ずんば、疑ひ、はれまじ。吾、眷屬族、一千余あり。かれら、市中に出〔いで〕て、賣藥す。その餘慶利分(よけいりぶん)、みな、拙僧にとゞまる。今宵の家具、其外の器物(きぶつ)、右の價(あたひ)を以てとゝのへたり。元より、是、我にあつて益(たつき)なし。追(おつ)て、送るべし。』

となり。

深更に及んで、また以前のごとく、火の光りを先に立〔たて〕て、社(やしろ)の前に歸りたり。

二三日過(すぎ)て、右の器材(きざい)、夜のうちに社の前に積置(つみおき)たりける。」

となり。 

 

路通の直談(ぢきだん)、その詞(ことば)を、その儘(まゝ)にあらはし侍る。

 

[やぶちゃん注:「八十村路通(やそむらろつう)」(慶安二(一六四九)年頃~元文三(一七三八)年頃)は近江蕉門の俳人。齋部(いんべ)路通とも、また、「乞食路通」の蔑称でも知られる。ウィキの「八十村路通」によれば、建部綾足の「蕉門頭陀物語」(寛延四(一七五一刊。古くよりお世話になっている電子テクスト・サイト「Taiju's Notebook」のこちらで原文が読める)に『よれば、芭蕉が草津・守山の辺で出会った乞食が路通である。乞食が和歌を』た『しなむとの話に、芭蕉が一首を求めた。すると、「露と見る浮世の旅のままならばいづこも草の枕ならまし」と『乞食が詠んだ』ので、『芭蕉は大変感心し、俳諧の道を誘い』、『師弟の契りを結び、路通(又は露通)の号を乞食に与えた』。『路通の出自については』「猿蓑逆志抄」(樨柯(さいか)坊空然の手になる「猿蓑」の評釈書)に於いて、『「濃州の産で八十村(やそむら、又ははそむら)氏」、また』「俳道系譜」でも、『「路通、八十村氏、俗称與次衛門、美濃人、大阪に住む」と記されている。また』、「芭蕉句選拾遺」にでは、『路通自ら「忌部(いんべ)伊紀子」』、「海音集」では『「斎部(いんべ)老禿路通」と記している』。『出生地についても、「美濃」から「大阪」、「京」、「筑紫」、「近江大津の人で三井寺に生まれる」と様々な説がある。森川許六の「風俗文選」の「作者列伝」に『記されている通り』、『「路通はもと何れの所の人なるか知らず」』であり、『路通は漂泊者であり、近江の草津・守山辺りで芭蕉と出会ったと多くの書が示めしていることだけが事実と確認できる』とする。『路通は芭蕉との出会いの後』、『江戸深川の採荼庵に芭蕉を訪ねたとされ』、各務支考の「笈日記」によれば元禄元(一六八八)年九月十日、『江戸素堂亭で催された「残菊の宴」、それに続く「十三夜」に宝井其角・服部嵐雪・越智越人等と共に参加していることが、路通が記録された最初の資料とされる。また、句が初めて見えるのは』、元禄二(一六八九)年の「廣野」からであり、翌元禄三年の「いつを昔」にも『句が載っている』とある。元禄二年三月二十七日(グレゴリオ暦一六八九年五月十六日)『芭蕉が河合曾良を伴い』、『「奥の細道」の旅に出ると、路通も漂泊の旅に出』、『近江湖南周辺を彷徨い、越前敦賀に旅より戻った芭蕉を迎え、大垣まで同道したとされる』。『芭蕉が故郷伊賀に帰ると、路通は住吉神社に千句奉納を行い』、『近畿周辺を彷徨った後』、元禄三(一六九〇)年には、『大津に出てきた芭蕉の下で濱田洒堂との唱和を行った』。『その直後、師の辿った細道を自ら踏むため旅立ち、出羽等に足跡を残し、同年』十一月に『江戸に戻ると』、『俳諧勧進を思い立ち』、翌元禄四年五月に「勧進帳」の初巻を『刊行した(初巻のみで終わる)』。「勧進帳」の『内容は選集として一流と言え、同じ』元禄四年の「百人一句」に『江戸にて一家を成せる者として』、『季吟・其角・嵐雪等と共に路通の名があり、俳壇的地位は相応に認められていた』。ただ、「勧進帳」に『おいて「一日曲翠を訪い、役に立たぬことども言いあがりて心細く成行きしに」と言い』、また、元禄四年七月に刊行された「猿蓑」において「いねいねと人に言はれつ年の暮」と『詠むなど、蕉門において疎まれていたことが伺える』。「勧進帳」出版の『前からその年の秋にかけ、路通は芭蕉と京・近江を行き来し』、『寝食を共にしていたところ、向井去来の』「旅寝論」によれば、『「猿蓑撰の頃、越人はじめ諸門人路通が行跡を憎みて、しきりに路通を忌む」、越人は「思うに路通に悪名つけたるは却って貴房(支考)と許六なるべし」と語って』おり、許六は「本朝列伝」に『おいて、路通のことを「その性軽薄不実にして師の命に長く違う」と記している』。元禄六年二月の『芭蕉から曲翠宛の手紙において、路通が還俗したことが記され』、『「以前より見え来ることなれば驚くにたらず」と述べ』、また、「歴代滑稽傳」では『勘当の門人の一人として路通が記されるに到っている。その後、路通は悔い改めるべく』、『三井寺に篭もったとされる』(私の知っている話では、ある時、路通のいる席で紛失があり、それが彼の仕業とされたかと記憶する)。元禄七年十月十二日(一六九四年一一月二十八日)の『芭蕉の臨終に際して、芭蕉は去来に向かい』、『「自分亡き後は彼(路通)を見捨てず、風雅の交わりをせらるるよう、このこと頼み置く」と申し添え』、『破門を解いた』とする。『芭蕉死後、路通は俳諧勧進として加賀方面に旅に出』、また、「芭蕉翁行状記」を撰び。『師の一代記と』十七日以降、七十七日までの『追善句を収め』、元禄八年に出版している。元禄一二(一六九九)年)より『数年、岩城にて内藤露沾の下にて俳諧を行い』、宝永元(一七〇四)年の冬には『京・近江に戻り、晩年享保末年頃大阪に住んでいたと伝えられる』。『路通の死亡日時は元文三年七月十四日(一七三八年八月二十八日)と『言う説があるが、定かではない』。蕉門で私の好きな俳人の一人である。好きな句を掲げておく。

 

 肌のよき石にねむらん花の山

 火桶抱てをとがい臍(ホゾ)をかくしける

 いねいねと人にいはれつ年の暮

 ぼのくぼに厂(かり)落かゝる霜夜かな

 

「深草の社(やしろ)」現在の京都府京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社のこと。

「八旬(はちじゆん)に餘る」八十歳を優に超えた。

「奥院(おくのゐん)」伏見稲荷大社奥宮(奥社)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「飯生三山(いなりさんざん)」次の「稻荷仕者」(本篇の続篇的内容)に『飯生山(いなりやま)といふは、器(うつは)に飯(いゝ[やぶちゃん注:ママ。])を生(もり)たるやうの山、三ツあり、よつて「飯生三山(いなりさんざん)」と称すと也』と説明されているから、稲荷を祀った三つの山の社ではなく、稲荷に供える供物のこと及びその由来といったことを指すのであろう。

「隱士」「いんじ」とも読む。隠者。俗世を離れて静かな生活をしている人。

「すゞしく」記憶に曇りが全くなく、はっきりしていることを言っている。

「勢夛(せた)のこなた」当時、東海道が通った、瀬田川掛かる唯一の橋であった、滋賀県大津市瀬田にある「勢多の唐橋」(ここ(グーグル・マップ・データ))のこちら側(右岸・西詰)。「こなた」はあった方がよりリアルでよい

「はやくも來り給ひぬ」宗語の台詞。

「仕者司(ししやつかさ)」「仕者」は「仕える者」の意であるが、特に神仏に仕える神官や僧侶及びそれらの使者とされる鳥獣を指し、ここはその後者の元締め、統率官の意。

「居士衣(こじゑ)」「こじえ」でよい。隠者や僧侶などが着る衣服の名。居士衣(こじごろも)とも呼ぶ。

「火を改めて」ちゃんとした灯明を新たに点したのである。彼ら二人を宗語の仲間の稲荷神の使者であるお狐さまと誤認し、御神灯のつもりとして畏まって点したのである。

「せちに」頻りに。大切に。

「しだひ」「次第」。

「上京」言わずもがなであるが、ここは京都へのぼることである。

「當(とう)境地(きやうち)」馬渕の所有地であることを言っている。

「京都本山」伏見稲荷。

「住所」「じゆうしよ」でも別に構わぬが、私は「すみどころ」と訓じておく。

「文(ぶん)」文字。

「筆跡(ひつせき)」書道。

「魚物(ぎよもつ)」神の使者であるから、腥さ物はものは禁忌。神仏集合による仏教の殺生禁忌由来。

「塩噌(ゑんそ)」塩と味噌が原義であるが、そこから「日常の食物」の意。「塩酢(えんそ)」とも書く。

「妙術(みやうじゆつ)」妖術。

「あら、むづかし」「ああっ! 何と面倒なことをおっしゃられるか。」。

「申さぬ事ながら」「説明申し上げるつもりはないことながら」。

「其根〔ね〕」その強い猜疑の根っこの部分。

「餘慶利分(よけいりぶん)」神の御加護によって得られた売上金の内の純益の分。

「拙僧にとゞまる」「監督である私の管理費用として貯えられるのです。」。

「元より、是、我にあつて益(たつき)なし」ここは「たつき」(仕事や生計)の意味ではなく、「元より、伏見稲荷の使者として赴任する私にとっては利益から生ずる物に対する欲は全く御座らぬ。」と言っているのではないか? だから「右の價(あたひ)を以てとゝのへ」た「今宵の家具、其外の器物(きぶつ)」等は、私には不要なものであるからして、「追(おつ)て」あなた方に永年の感謝のしるしとしてこれらも総て「送るべし」、と言っているのであろう。

進化論講話 丘淺次郎 附錄 進化論に關する外國書・奥附 / 「進化論講話」やぶちゃん注~完遂

 

     附錄 進化論に關する外國書

 

 外國語で進化論及び遺傳・變異等のことを書いた書物は、今日の所では非常に數が多いが、その中で最も有名なものと、最も讀むに適するもの若干を選み出せば、凡そ次の通りである。

[やぶちゃん注:以下、既に本文に複数回、出て、注を附したものも多いので、作者については既出或いは既注の場合は附さない。但し、最低、刊行年は示した。

 

 1 DARWIN, Origin of Species.ダーウィン著、種の起源)

 

 之は進化論の書物の中で最も有名なもので、今では殆ど總べての西洋語に譯せられてある。已に古い本ではあるが、苛も進化論を學ばうと思ふ人は、是非とも之を讀まなければならぬ。近來安い版が出來て居るから、壹圓位で買へる。

[やぶちゃん注:初版刊行は一八五九年十一月二十四日(安政六年相当)。本書刊行の大正一四(一九二五)年当時の一円は現在の千円強から二千四百円ほどになろう。]

 

 2 DARWIN, Descent of Man.ダーウィン著、人の先祖)

 

 之も前書と同樣で、學者の必ず讀むべき書物である。後半の雌雄淘汰に關しては今日種々の議論もあるが、大體の點は決して誤でなからうと信ずる。また前半は進化論を人間に當て嵌めたもの故、恰も前書の續篇とも見るべきものである。

[やぶちゃん注:一八七一年二月二十四日刊(明治四年相当)。]

 

 3 HUXLEY,Man's Place in Nature.ハックスレー著、自然に於ける人類の位置)

 

 自然に於ける人類の位置を明に述べた三回の講義の筆記で、小さな本であるが、「種の起源」の直ぐ後に出版せられたから、一時は非常に評判の高かつた書である。

[やぶちゃん注:一八六三年刊。]

 

 4 HAECKEL, Natürliche Schöpfungsgeschichte.ヘッケル著、自然創造史)

 

 講義體に書いた解り易い書物で、通俗的の進化論の書物としては、この位全世界に弘まつたものはない。日本語を除いた外は、總べての文明國の國語に飜譯せられ、原書も已に十版以上となつて居る。

[やぶちゃん注:一八六八年刊。]

 

 5 HAECKEL, Anthropogenie.ヘッケル著、人類進化論)

 

 之も講義體に書いたもので、人類の進化と胎内發育とを通俗的に述べてある。前書も本書も最新版は上下二卷となつて、插圖も頗る多い。

[やぶちゃん注:一八七四年刊。]

 

6 WALLACE, Darwinism.ウォレース著、ダーウィン説)

 

 表題は「ダーウィン説」とあるが、中にはダーウィンの考と餘程違つた所がある。それ故次のローマネスの書物などと倂せて讀むが宜しい。この書一册だけを讀んだのではたゞウォレースの説が解るばかりである。

[やぶちゃん注:一八八九年刊。]

 

 7 ROMANES, Darwin and After Darwin. ローマネス著、ダーウィン及びダーウィン以後)

 

 三册になつて居るが、第一册はダーウィンの述べたまゝの進化論を平易に説明し、第二册にはダーウィン以後の學説を批評的に論じてある。進化論の書物を何か一册だけ讀んで見たいといふ人には先づ此の書を勸める。

[やぶちゃん注:一八九二年から一八九七年にかけて刊行。]

 

 8 STERNE, Werden und Vergehen.ステルネ(實名クラウゼ)著、生滅の記)

 

 是はヘッケルの「自然創造史」と同樣に、太古から今日に至るまでの進化の有樣を書いた書であるが、通俗的に書いてあつて面白くて解り易い。

[やぶちゃん注:ドイツの生物学者エルネスト・クラウゼ(Ernst Krause 一八三九年~一九〇三年)。Carus Sterne (カルス・シュテルネ) はペン・ネーム。一八七六年初版で、一九〇七年までに十一版を重ねている。]

 

 9 WEISMANN, Vorträage über die Deszendenzlehre.

     (ヴァイズマン著、進化論講義)

 

 初め二册であったが、新版では一册に改めた。自然淘汰に關する事實が多く揭げてあるが、理論の方面はたゞヴァイズマンだけの説である故、その積りで讀まねばならぬ。また、細胞學上のことも多くある故、その邊は初めて讀む人には了解が困難であるかも知れぬ。

[やぶちゃん注:一九〇二年刊。]

 

 10 PLATE, Selectionsprincip und Problemen der Artbildung.

     (プラーテ著、淘汰説と種の起り)

 

 淘汰説に反對する學説を批評的に論じたもので、眞に公平である如くに感ずる。他の新説を讀むに當って、倂せ讀むには最も適當なものであらう。

[やぶちゃん注:一九一三年刊。]

 

 11 CUÉNOT, La Genèse des Espèces Animales.

     (キュエノー著、動物種屬の起り)

 

 進化論及び近頃の遺傳硏究を短く明瞭に書いた好い書物である。

[やぶちゃん注:フランスの生物学者・遺伝学者ルシエン・クエノ(Lucien Cuénot 一八六六年~一九五一年)。一九二一年刊行。]

 

 12 DELAGE, L'Hérédite et les grands Problèmes de la Biologie générale.

     (ドラージュ著、遺傳と生物學理論の大問題)

 

 議論のすこぶ頗る精密な書物で、各種の遺傳學説を比較し批評してある。二十年許前の出版であるが、今日の雜種硏究のみの遺傳學の書物とは全く趣が違ふから、眼界を廣くするためには頗る有益なものであらう。

[やぶちゃん注:フランスの動物学者・解剖学者イヴ・デラージュ(Yves Delage 一八五四年~一九二〇年)。一八九五年刊。]

 

 13 LOCK, Recent Progress in Study of Variation, Heredity and Evolution.

     (ロック著、變異・遺傳・進化に關する硏究の最近の進步)

 

 表題の通り、近年の進步を知るには適當な書物である。主として雜種に關する硏究が記載してある。出版は今より已に二十年前。

[やぶちゃん注:イギリスの植物学者ロバート・ヒース・ロック(Robert Heath Lock 一八七九年~一九一五年)。一九〇六年刊。]

 

 14 THOMSON, Heredity.トムソン著、遣傳)

 

 遺傳に關する各方面の硏究が悉く書いてある。英書の中では、初めて讀む人に對して、先づ最も適當の書であろう。第二版は十年前に出來た。

[やぶちゃん注:ジョン・アーサー・トムスン(John Arthur Thomson 一八六一年~一九三三年)はスコットランドの生物学者。アバディーン大学博物学教授。科学と宗教の関連性や生物学の普及に務めた。ソフト・コラール(刺胞動物門花虫綱八放サンゴ亜綱ウミトサカ目 Alcyonacea)の専門家でもあった。初版は一九〇七年刊。]

 

 15 BATESON, Mendel's Princeples of Heredity.

     (ベートソン著、メンデルの遺傳法則)

 

 表題の通り近年有名になつたメンデルの遺傳法則を新規の實驗で擴張したもので、この方面の硏究を始めようと思ふ人に取つては最も參考になる書である。

[やぶちゃん注:私が注で述べた(本文には出ない)イギリスの遺伝学者ウィリアム・ベイトソン(William Bateson 一八六一年~一九二六年)。メンデルの法則を英語圏の研究者に広く紹介した人物で、英語で遺伝学を意味する「ジェネティクス:genetics」という語の考案者でもある。但し、彼はダーウィンの自然選択説に反対し、染色体説にさえも晩年までは懐疑的であった。一九一三年刊。]

 

 16 MORGAN, Experimental Zoology.モルガン著、實驗的動物學)

 

 各方面の實驗の結果が書いてあるが、その中には遺傳・雜種等に關することもなかなか多い。兎に角一讀する價値のある書物である。

[やぶちゃん注:トーマス・ハント・モーガン(Thomas Hunt Morgan 一八六六年~一九四五年)はアメリカの遺伝学者。一九〇〇年、メンデルの法則の再発見とともに遺伝学に進み、一九〇七年頃からキイロショウジョウバエを実験材料として研究を行い、染色体が遺伝子の担体であるとする染色体説を実証した。一九一〇年には突然変異体を発見し、以後、精力的に伴性遺伝や遺伝子連鎖などの現象を解明するなど、遺伝学の基礎を確立、本「進化論講話」十三版刊行の八年後の一九三三年には、これらの業績が認められ、ノーベル生理・医学賞を受賞している。本書は確認出来ないが、或いは一九〇三年に発表したEvolution and Adaptation(「進化と適応」)のことか。]

 

 17 GOLDSCHMIDT, Einfürung in die Vererbungswissenschaft.ゴールドシュミット著、遺傳學入門)

 

 近頃數種相續いて出版せられたドイツ語の遺傳學書の中では、是が一番宜しいやうである。新版は今年出版になつた。著者は今年日本へ來て暫く滯在して居た。

[やぶちゃん注:原本は「Vererbungs=Wissenschaft」となっている(「=」以下は改行)が、ネットで調べた形で訂した。フランクフルト生まれのドイツ人で、後にアメリカに渡った遺伝学者リチャード・ベネディクト・ゴールドシュミット(Richard Benedict Goldschmidt 一八七八年~一九五八年)。一九一三年刊か。]

 

 18 DARBISHIRE, Breeding and Mendelian Discovery. ダービシャヤー著、培養とメンデルの發見)

 

 雜種による遺傳硏究の實地の方法を説明し、實物の寫眞を多く入れた書物である。

[やぶちゃん注:イギリスの生物学者・遺伝学者アーサー・デューキンフィールド・ダービシャー(Arthur Dukinfield Darbishire 一八七九年~一九一五年)。遺伝子学説の論客だったらしいが、脳髄膜炎のために若死にしている。一九一一年刊。]

 

 19 HAECKEL, Welträtsel.ヘッケル著、宇宙の謎)

 

 是は前數種の實驗的の書物とは性質が全く違ひ、著者が進化論を基として總べての方面を論じた宇宙觀・人生觀である。出版早々非常に評判の高くなつた書物で、忽ち各國語に飜譯せられ、英譯の如きは、英國純理出版協會から僅に二十五錢位で出して居る。

[やぶちゃん注:一八九九年刊。]

 

 20 HAECKEL, Lebenswunder.ヘッケル著、生命の不思議)

 

 此の書は體裁も内容も前書に似たもので、全く前書の續篇と見做すべきものである。生物學的のことは、此の書の方に却つて多い。之も今では殆ど總べての國語に飜譯せられ、英譯は前書と同じ値で賣つて居る。二册ともに極めて面白い。

[やぶちゃん注:一九〇五年刊。]

 

[やぶちゃん注:以下、奥付。字配は再現していない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像をちらを参照されたい。初版発行の「明治三十七年」は一九〇四年で日露戦争の年であり、本新補十三版発行の「大正十四年」は一九二五年は普通選挙法が成立し、治安維持法が公布され、日本初のラジオ放送が開始された年であった。]

 

明治三十七年一月一日印刷

明治三十七年一月七日發行

大正十四年九月十五日十三版印刷

大正十四年九月十八日十三版發行

 

新補進化論講話 定價金五圓

    著作権所有

 

著作者           丘 淺次郎

 

發行兼  東京市石川區小日向水道町八十四番地

印刷者         株式會社 東京開成館

              社長  西野輝男

 

發行所  東京市石川區小日向水道町八十四番地

            株式會社 東京開成館

       〔振替貯金口座〕東京第參貮貮番

 

販賈所  大阪市東區心齊橋通北久寶寺町角

                  三木佐助

     東京市日本橋區數寄屋町九番地

                  林平次郎

 

進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(五) 五 進化論と宗教 / 「進化論講話」本文~了

 

     五 進化論と宗教

 

 進化論は生物界の一大事實を説くもの故、他の理學上の説と同じく確な證據を擧げてたゞ人間の理會力に訴へるが、宗教の方は單に信仰に基づくものであるから、この二者の範圍は全く相離れて居て、共通の點は少しもない。尤も、宗教に於ても、信仰に達するまでの道筋には多少學問らしい部分の挾まつて居ることはあるが、その終局は所謂信仰であつて、信仰は理會力の外に立つものであるから、宗教を一種の學問と見倣して取扱ふことは素より出來ぬ。されば進化論から宗教を論ずる場合には、たゞ研究或は應用の目的物として批評するばかりである。

 人間は獸類の一種で、猿の如きものから漸々進化して出來たもの故、人間の信ずる宗教も、一定の發達・歷史を有するは勿論のことであるが、之を研究するには、他の學科と同樣に、先づ出來るだけ材料を集め、之を比較して調べなければならぬ。現今行はれて居る宗教の信仰箇條を悉く集めて比べて見ると、極めて簡單なものから隨分複雜なものまで、多くの階級があつて、各人種の知力發達の程度に應じて總べて相異なつて居る。「人間には必ず宗教がなければならぬ、その證據には世界中何處に行つても、宗教を持たぬ人種は決してない」などと論じた人もあつたが、之は研究の行き屆かなかつた誤で、現にセイロン島の一部に生活するヴェッダ人種の如きは、之を特別に調査した學者の報告によると、宗教といふ考の痕跡もないとのことである。これらは現今棲息する人種中の最下等なものであるが、それより稍進んだ野蠻人になると、靈魂とか神とかいふ種類の觀念の始[やぶちゃん注:「はじまり」。]が現れる。自分の力では到底倒すことの出來ぬやうな大木が嵐で倒れるのを見れば、世の中には目に見えぬ力のい或る者が居るとの考を起すことは、知力の幼稚な時代には自然のことで、自分より遙に力のい或る者が居ると信じた以上は、洪水で小屋が流れても、岩が落ちて家が壞れても、皆この或る者がする所行であらうと思つて、之を恐れ、自分の感情に比べて、或はその者の機嫌を取るために面白い踊をして見せたり、或は願事を叶へて貰ふために賄賂として甘い食物や、美しい女を捧げたりするやうになるが、神とか惡魔とかいふ考は恐らく斯くの如くにして生じたものであらう。また一方には、昨日まで生きて敵と擲き[やぶちゃん注:「たたき」。]合うて居た父が、今日は死んで動かなくなつたのを見て、その變化の急劇なのに驚いて居るときに、父の夢でも見れば、肉體だけは死んでも魂だけは尚存在して、目には見えぬが確に我が近くに居るのであらうと考へるのも無理でないから、肉體を離れた靈魂といふ觀念も起り、父の靈魂が殘つて居ると信ずる以上は、我が身の狀態に比べて、食事の時には食物を供へ、敵に勝つた時には之を告げ知らせるといふやうな儀式も自然に生ずるであらう。靈魂といふものが實際あるかないかは孰れとも確な證據のないこと故、我々現今の知力を以ては有るとも斷言の出來ぬ通り、ないといふ斷言も出來ぬが、靈魂といふ考は恐らく斯くの如くにして生じ、その後漸々進化して今日文明國で考へるやうな程度までに達したものであらう。

[やぶちゃん注:「ヴェッダ人種の如きは、之を特別に調査した學者の報告によると、宗教といふ考の痕跡もないとのことである」誤りウィキの「ヴェッダ人」から引く。ヴェッダ人(英語: Vedda)は、『スリランカの山間部で生活している狩猟採集民。正確にはウェッダーと発音する』が、これは他称で、『自称はワンニヤレット』『で「森の民」の意味である』。『人種的にはオーストラロイドやヴェッドイドなどと言われている。身体的特徴としては目が窪んでおり彫りが深く、肌が黒く低身長であり広く高い鼻を持つ。記録は、ロバート・ノックス(Robert Knox)著「セイロン島誌」(An Hiatorical Relation of the Island Celylon in the East Indies:一六八一年)に遡る。人口は一九四六年当時で二千三百四十七人で、バッティカロア・バドゥッラ・アヌラーダプラ・ラトゥナプラの地に『居住していたという記録が残る』が、一九六三年の統計では四百人と『記録されて以後、正式な人口は不明で、シンハラ人との同化が進んだと見られる』。『民族誌としてはSeligman,C.G. and Seligman,B.Z.』のThe Veddas,Cambridge(一九一一年)『があり、ウェッダー像の原型が形造られた。現在の実態については確実な情報は少ない。伝説の中ではヴェッダはさまざまに語られ、儀礼にも登場する。南部の聖地カタラガマ(英語版)の起源伝承では、南インドから来たムルガン神が、ヴェッダに育てられたワッリ・アンマと「七つ峯」で出会って結ばれて結婚したとされる。ムルガン神はヒンドゥー教徒のタミル人の守護神であったが、シンハラ人からはスカンダ・クマーラと同じとみなされるようになり、カタラガマ神と呼ばれて人気がある。カタラガマはイスラーム教徒の信仰も集めており、民族や宗教を越える聖地になっている』。八『月の大祭には』、『多くの法悦の行者が聖地を訪れて』、『火渡りや串刺しの自己供犠によって願ほどきを行う』。『一方、サバラガムワ州にそびえるスリー・パーダは、山頂に聖なる足跡(パーダ)があることで知られる聖地で、仏教、ヒンドゥー教、イスラーム教、キリスト教の共通の巡礼地で、アダムスピークとも呼ばれるが、元々はヴェッダの守護神である山の神のサマン』(英語: Saman)『を祀る山であったと推定されている。古い神像は白象に乗り』、『弓矢を持つ姿で表されている。サバラガムワは「狩猟民」の「土地」の意味であった。古代の歴史書』「マハーワンサ」『によれば、初代の王によって追放された土地の女夜叉のクエーニイとの間に生まれた子供たちが、スリーパーダの山麓に住んだというプリンダー族の話が語られている。その子孫がヴェッダではないかという』。『また、東部のマヒヤンガナ』『は現在でもヴェッダの居住地であるが、山の神のサマン神を祀るデーワーレ(神殿)があり、毎年の大祭にはウエッダが行列の先頭を歩く。伝承や儀礼の根底にある山岳信仰が狩猟民ヴェッダの基層文化である可能性は高い。なお、民族文化のなかで、一切の楽器をもたない稀少な例に属する』とある(下線太字やぶちゃん)。]

 

 以上述べた所は、たゞ宗教の始だけであるが、現今の野蠻人の中には全くこの通りの有樣のものもある。それより漸々人間の知力が進んで來ると、宗教も之に伴うて段々複雜になり、また高尚になり、特別に宗教のみを職業とする僧侶といふやうなものも出來るが、他の人々が世事に追はれて居る間に、僧侶は知力の方を練るから、知力に於ては俗人に優ることになり、終に宗教は有力な一大勢力となつたのであらう。比較解剖學・比較發生學によつて生物進化の有樣が解る如く、また比較言語學によつて言語の進化の模樣が解る如くに、比較宗教學によつて宗教の進化し來つた徑路が多少明に知れるが、宗教進化の大體を知つて後に現今の各宗教を研究すれば、初めてその眞の價値を了解することが出來る。

 尚宗教といふものは現在行はれて居るもので、多數の人間は之によつて支配せられて居る有樣故、人種の維持繁榮を計る點からいうても、決して等閑にすべきものではない。單に理會力の標準から見れば、現在の宗教は總べて迷信であるが、迷信は甚だ有力なもの故、自己の屬する人種の益榮えるやうにするには、この方針に矛盾する迷信を除いて、この方針と一致する迷信を保護することが必要である。人間には筋肉の發達に種々の相違がある通りに、知力の發達にも數等の階段があつて、萬人決して一樣でない。角力取が輕さうに差し上げる石を、我我が容易に持ち得ぬ如く、また我々の用ゐる鐵啞鈴[やぶちゃん注:「てつあれい」。]を幼兒がなかなか動かし得ぬ如く、物の理窟を解する力もその通りで、各人皆その有する知力相應な事柄でなければ了解することは出來ぬ。それ故、理學上の學説の如きは如何に眞理であつても、中以下の知力を具へた人間には到底力に適せぬ故、説いても無益である。ドイツの詩人ゲーテが「學問藝術を修めたものは既に宗教を持つて居る。學問藝術を修めぬ者は別に宗教を持つが善い」というた通り、學問を修めた者には、特に宗教の必要はないが、學問などを修めぬ多數の人間には安心立命のために何か一つの宗教が入用であらう。然るに宗教には、種々性質の異なつたものがあつて、その中には自己の屬する人種の維持・繁榮に適するものと適せぬものとがあるから、宗教の選み方を誤ると、終には人種の滅亡を起すかも知れぬ。人種の維持に必要なことは競爭・進步であるから、生存競爭を厭ふやうな宗教は極めて不適當で、實際さやうな宗教の行はれる人種は日々衰頽に赴かざるを得ない。諸行の無常なのは明白であるが、無常を感じて世を捨てるといふのは大きな間違であらう。樹木を見ても將に枯れようとする枝は、先づ萎れる通り、無常を感じて競爭以外に遁れようとするのは、その人種が將に滅亡に近づかうとする徴候であるから、人種的自殺を望まぬ以上は、斯かる傾のある宗教は、勉めて驅除せねばならぬ。生物は總べて樹枝狀をなして進化して行くもので、自己の屬する人種は生物進化の大樹木の一枝であることが明な上は、生存卽競爭と諦めて勇しく[やぶちゃん注:「いさましく」。]戰うやうに勵ますといふ性質の宗教が最も必要であらう。甚だしい迷信ほど信者の數が多く、今も昔も賣ト者の數に著しい增減のない所を見れば、世の中から迷信を除き去ることは容易ではないが、迷信が避けられぬ以上は、人種維持の目的に適する迷信を保護するの外には道はない。

[やぶちゃん注:『ドイツの詩人ゲーテが「學問藝術を修めたものは既に宗教を持つて居る。學問藝術を修めぬ者は別に宗教を持つが善い」というた』ゲーテの「遺稿詩集」の「温順なクセーニエン」(Zahme Xenien)第九集の一節。]

 

 從來西洋諸國では耶蘇教が行はれ、この世界は神が六日の間に造つたものであるとか、人間は神が自分の姿をモデルにして泥で造り、出來上つた後に鼻の孔から命を吹き込んだとか、アダムの肋骨を一本拔き取つてエバを造つたとか、いふやうなことを代々信じて、人間だけか一種靈妙なものと思つて居た所へ、生物進化論が出て、人間は獸類の一種で、猿と共同な先祖から降つたものであると説いたのであるから、その騷は一通りではなかつた。初めの間は力を盡して進化論を打ち壞さうと掛かつたが、進化論には事實上に確な證據のあること故、素より之に敵することが出來ず、次には宗教と理學との調和などと唱へて、聖書に書いてあることを曲げて、進化論の説く所に合はせやうと勉めたが、之もまた無理なこと故、到底滿足には出來ず、今日では最早如何とも仕樣のないやうになつた。今後は段々教育も進み、學問が普及するに隨つて、進化論の解る人も追々殖えるに違ないから、宗教の方も進化論と矛盾せぬものでなければ、教育ある人々からは信ぜられなくなつてしまふであらう。

 以上は單に執筆の際に胸に浮んだことを斷片的に書き竝べたに過ぎず、これらに就いては考の違ふ人も無論大勢あらうが、傳來の舊思想の大部分が進化論のために絶大な影響を受けて、殆ど根抵から變動するを免れぬことだけは、誰も認めぬ譯には行かぬであらう。今日多數の人々の思想は元自分の力で獨立に考へ出したものではなく、たゞ教へられたまゝを信じて殆んど惰性的に引き續いて居るに過ぎず、隨つて、學者間に如何なる新説が行はれても、そのため容易に變動することはない。然しながら、進化論の如き思想界に大革命を起すべき性質の知識が、幾分か讀書人の社會に普及して、文藝に從事する人々の間に弘まると、直にその作品の上に變化が現れるから、新しい思想が存外速に世間一般に擴がるやうになる。最近四五十年間に、西洋諸國で著された有名な小説や脚本の中には、從來の宗教的信仰や社會の風習を全く無視し、もしくは之に反抗した形跡のあるものが頗る多數を占めて居るが、之は餘程までは進化論の確になつたために、在來の宗教の權威が薄らいだ結果と見倣すことが出來よう。今日の靑年はかやうな本を讀む故、自然と、舊時代の信仰や傳説に對して、無遠慮な批評を試みるやうになるが、昔のまゝの思想を有する老人等から見ると、恰も人類の道德が破壞せられて行くかの如くに思はれ、壓制的に之を止めようとするので、どこにも衝突が起る。この先如何に成り行くかは知らぬが、知識の進步に伴うて、時代の思潮が段々移り行くのは自然の勢であつて、人力を以て之を壓し戾すことは到底不可能であらう。而して斯く新しい思想が文藝の作品の中に盛に姿を現し、ために往々家庭に於ける老若二派の間に風波を生ずることのあるに至つたのも、その原因を探れば、一つは進化論が文藝界に知られて舊思想に動搖を來したにあるを思へば、進化論が文明世界の思想方面に及ぼした影響は、實に豫想外に廣いものといはねばならぬ。

 

新補 進化論講話 終
 
[やぶちゃん注:「新補」は
横書ポイント落ち。]

進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(四) 四 進化論と社會

 

     四 進化論と社會

 

 現今の社會の制度が完全無缺でないことは誰も認めなければならぬが、さて之を如何に改良すべきかといふ問題を議するに當つては、常に進化論を基として、實著[やぶちゃん注:「じつちやく」。「実着」。「着実」に同じい。真面目に落ち着いていること。誠実で浮(うわ)ついたところがないさま。]に考へねば何の益もない。社會改良策が幾通り出ても、悉く癡人夢を説く[やぶちゃん注:おろか者が自分の見た夢の話をする如くに要領を得ない話をすることの喩え。]が如くであるのは、何故かといへば、一は人間とは如何なるものかを十分に考へず、猥に高尚なものと思ひ誤つて居ること、一は競爭は進步の唯一の原因で、苛くも生存して居る間は競爭の避くべからざることに、心附かぬことに基づくやうである。

 異種屬間の競爭の結果は各種屬の榮枯盛衰であつて、同種屬内の競爭の結果はその種屬の進步・改良であることは、前にも説いたが、之を人間に當て嵌めても全くその通りで、異人種間の競爭は各人種の盛衰存亡の原因となり、同人種内の競爭はその人種の進步・改良の原因となる。それ故、數多の人種が相對して生存して居る上は、異人種との競爭が避けられぬのみならず、同人種内の個人間の競爭も廢することは出來ぬ。分布の區域が廣く、個體の數の多い生物種屬は必ず若干の變種に分れ、後には互に相戰ふものであるが、人間は今日丁度その有樣にあるから、異人種が或る方法によつて相戰ふことは止むを得ない。而して人種間の競爭に於ては、進步の遲い人種は到底勝つ見込はないから、孰れの人種も專ら自己の進步・改良を圖らなければならぬが、そのためにはその人種内の個人間競爭が必要である。

 社會の有樣に滿足せず、大革命を起した例は、歷史に幾らもあるが、いつも罪を社會の制度のみに歸し、人間とは如何なるものかといふことを忘れて、たゞ制度さへ改めれば、黃金世界になるものの如くに考へてかゝるから、革命の濟んだ後は、たゞ從來權威を振つて居た人等の落ちぶれたのを見て、暫時僅の愉快を感ずるの外には何の面白いこともなく、世は相變らずが澆季[やぶちゃん注:「げうき(ぎょうき)」「澆」は「軽薄」の、「季」は「末」の意で、道徳が衰えて乱れた世。世の終わり。末世。]で、競爭の劇しいことはやはり昔の通りである。今日社會主義を唱へる人々の中には、往々突飛な改革論を説く者もあるが、若しその通りに改めて見たならば、やはり以上の如き結果を生ずるに違ない。人間は生きて繁殖して行く間は競爭は免れず、競爭があれば生活の苦しさは何時も同じである。

 教育の目的は、自己の屬する人種の維持・繁榮であることは、既に説いた通りであるが、進化論から見れば社會改良もやはり自己の屬する人種の維持・繁榮を目的とすべきものである。世の中には戰爭といふものを全廢したいとか、文明が進めば世界中が一國になつてしまふとかいふやうな考を持つて居る人もあるが、これらは生物學上到底出來ぬことで、利害の相反する團體が竝び存して居る以上は、その間に或る種類の戰爭が起るのは決して避けることは出來ぬ。而して世界中の人間が悉く利害の相反せぬ位置に立つことの出來ぬは素より明瞭である。敵國・外患がなければ國は忽ち亡びるといふ言葉の通り、敵國・外患があるので國といふ團體は漸く纏まつて居るわけ故、若し假に一人種が總べて他の人種に打勝つて全世界を占領したとするとも、場處場處によつて利害の關係が違へば忽ち爭が起つて數箇國に分れてしまふ。僅に一縣内の各地から選ばれた議員等が集まつてさへ、地方的利害の衝突のために劇しい爭が起るのを見れば、全世界が一團となつて戰爭が絶えるといふやうなことの望むべからざるは無論である。

[やぶちゃん注:最後の一文で選挙の例が挙げられてあるが、本書改訂十三版「進化論講話」が刊行された大正一四(一九二五)年は普通選挙法(それまでの納税額による制限選挙から、納税要件が撤廃され、日本国籍を持ち、且つ、内地に居住する満二十五歳以上の全ての成年男子に選挙権が与えられることが規定された)が成立した年である。大正十四年五月五日法律第四十七号で、本書は同年九月十八日発行である。但し、これは、直近の大正三(一九一四)年の増補修正十一版のパートにもある(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像)。]

 

 若干の人種が相對して生存する上は、各人種は勉めて自己の維持・繁榮を圖らねばならぬが、他の人種に敗けぬだけの速力で、進步せなければ、自己の維持・繁榮は望むことは出來ず、速に進步するには個人間の競爭によるの外に道はない。されば現今生存する人間は、敵である人種に亡ぼされぬためには、味方同志の競爭によつて常に進步する覺悟が必要で、味方同志の競爭を厭ふやうなことでは、人種全體の進步が捗らぬ[やぶちゃん注:「はかどらぬ」。]ために、敵である人種に敗けてしまふ。今日の社會の制度には改良を要する點は澤山にあるが、孰れに改めても競爭といふことは到底避けることは出來ぬ。他の人種と交通のない處に閉じ寵つて、一人種だけで生存して居る場合には、劇しい競爭にも及ばぬが、その代り進步が甚だ遲いから、後に至つて他人種に接する場合には、恰もニュージーランド[やぶちゃん注:二重傍線無しはママ。]の鴫駝鳥[やぶちゃん注:「しぎだちやう」。]の如く忽ち亡ぼされてしまふ。世間には、生活の苦は競爭が劇しいのに基づくことで、競爭の劇しいのは人口の增加が原因であるから、子を生む數を制限することが、社會改良上第一に必要であるといふやうな考を持つて居る人もあるが、前に述べた所によると、之は決して得策とはいはれぬ。今日の所で必要なことは、競爭を止めることではなく、寧ろ自然淘汰の妨害となるやうな制度を改めて生存競爭を成るべく公平ならしめることであらう。人種生存の點からいへば、腦力・健康ともに劣等なものを人爲的に生存せしめて、人種全體の負擔を重くするやうな仕組を成るべく減じ、腦力・健康ともに優等なものが孰れの方面にも必ず勝つて働けるやうな制度を成るべく完全にして、個人間の競爭の結果、人種全體が速に進步する方法を取ることが最も必要である。かやうな世の中に生れて來た人間は、たゞ生存卽ち競爭と心得て、力のあらん限り競爭に勝つことを心がけるより外には致し方はない。

[やぶちゃん注:進化論に則れば、この丘先生の言っていることは一応、理路は通っているように見えるが、例えば、今までの先生の理論に従えば、「自然淘汰の妨害となるやうな制度」と客観的に正当に判ずること自身が不可能と言えるのであって、この意見はその一点に於いて無化されると言っておく。

「鴫駝鳥」(しぎだちょう)はニュージーランド固有種(国鳥)で「飛べない鳥」と知られる、鳥綱古顎上目キーウィ目キーウィ科キーウィ属 Apteryx のキーウィ(Kiwi)類の旧和名。複数回既出(例えば。図有り)であるが、再掲しておくと、現在、中国名(漢名)でも同類は「鷸鴕屬」(「鷸」は鴫、「鴕」は「駝鳥」の意)である。現行、分類学上ではキーウィ属で一科一属とするが(五種(内一種に二亜種)。但し、種数をもっと少なくとる説もある)、実は実際にダチョウ目 Struthioniformes やダチョウ目モア科 Dinornithidae に含める説もある。「キーウィー」「キウィ」「キウイ」とも表記し、これは「キーウィー!」と口笛のような声で鳴くことから、ニュージーランドの先住民マオリ族がかく名付けていた名に由来する。お馴染みの果物の「キウイフルーツ」(双子葉植物綱 Magnoliopsidaビワモドキ亜綱 Dilleniidaeツバキ目 Thealesマタタビ科 Actinidiaceaeマタタビ属キウイフルーツ(オニマタタビ・シナサルナシ)Actinidia chinensis は、ニュージーランドからアメリカ合衆国へ輸出されるようになった際にニュージーランドのシンボルであるキーウィに因んで一九五九年に命名されたものである。主に参照したウィキの「キーウィ(鳥)」によれば、本文に出るように、かつては一千万羽ほどいたが、今では三万羽ほどまで減少して危機的な状況で、減衰の理由は、ヒトが食用とした過去があったこと、ヒトが持ち込んだ犬・猫などの哺乳類と共存適応が出来ず、雛を捕食されてしまったからとされている。]

 

 尚人道を唱へ、人權を重んずるとか、人格を尊ぶとかいうて、紙上の空論を基とした誤つた説の出ることが屢ある。例へば死刑を全廢すべしといふ如きは卽ちその類で、人種維持の點から見れば毫も根據のない論であるのみならず、明に有害なものである。雜草をかり取らねば庭園の花が枯れてしまふ通り、有害な分子を除くことは人種の進步・改良にも最も必要なことで、之を廢しては到底改良の實は擧げられぬ。單に人種維持の上からいへば、尚一層死刑を盛にして、再三刑罰を加へても、改心せぬやうな惡人は、容赦なく除いてしまうた方が遙に利益である。

 

進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(三) 三 進化論と教育

 

     三 進化論と教育

 

 教育書を開いて見ると、精神は人間ばかりに存するもの故、教育の出來るのも人間ばかりに限るなどと書いてあるが、之は確に間違で、他の動物の中にも、子を教育する類は幾らもある。而して如何なる動物が子を教育するかと調べると、皆腦髓の梢發達した高等動物で、比較的子を生む數の少い種類に限るやうである。

 動物は何のために子を教育するかといふに、凡そ動物には命の長いものもあれば、短いものもあるが、如何なる種類でも、壽命には必ず一定の制限があるから、種屬の斷絶せぬためには、常に生殖して死亡の損失を補はなければならぬ。而して若し生れた子が皆必ず生存するものと定まつて居たならば、一對の親から一生涯の間に僅に二疋の子が生れただけでも、親の後を繼いで行くことは出來る筈であるが、生存競爭の劇烈な現在の世の中では、生れた子が殘らず生長するといふ望は到底ない。魚類・昆蟲類を始め多くの下等動物では、初めから無數の卵を生むから、そのまゝ打捨てて置いても、その中二疋や三疋は生長し終るまで生存する機會があるが、梢少數の子を生む動物では、單に生んだだけでは、まだ種屬維持の見込が附いたとはいへぬ。必ず之を教育して競爭場裡に出しても、容易に敗ける患[やぶちゃん注:「わづらひ」。]はないといふまでに仕上げなければならぬ。されば教育ということは、生殖作用の追加とも見るべきもので、その目的は生殖作用と同じく、種屬の維持繁榮にあることは、少しも疑を容れぬ。

 以上述べたことは、生物學上明な事實であるが、之を人間の場合に當て嵌めて見てもその通りで、教育書には、教育の目的は完全なる人を造るにあるとか何とか、種々高尚な議論が掲げてあるに拘らず、實際に於ては總べて種屬の維持繁榮を目的として居る。尤も[やぶちゃん注:底本は「最も」であるが、特定的に訂した。]こゝに種屬といふのは動物學上の種屬ではない。人間の造つて居る種々の團體のことで、この團體に幾つもの階段があるから、教育の目的も之を行ふ團體次第で多少異ならざるを得ない。例へば一家でその子弟を教育するのは、現在の一家の主なる人々が死んでも、後に一家を繼續するものを遺すためで、一藩でその子弟を教育するのは、現在の藩士が死んでも、後に之を繼續するための立派なものを遺すためである。また一國がその子弟を教育するのは、現在の國民が死んでも、その後に世界列國の競爭場裡に立ち、立派に一國を維持し且榮えて行くだけのものを遺すためである。完全な人を造るとか、人間本來の能力を發展せしめるとかいふ文句は、如何にも立派に聞えるが、實は極めて漠然たるいひ方で、完全な人とは如何なるものか、人間本來の能力とは何かと押して問へば、その答は決して一樣でなく、その定義を定めるためにまた種々の議論が出て、益實際から遠ざかるやうになる。然るに實際に於ては議論の如何に拘らず、知らず識らず生物學上の規則に隨ひ、こゝに述べた如くに、皆種屬の維持繁榮を目的として居るのである。

 從來の所謂教育學といふものは、哲學などと同樣に、たゞ思考力ばかりに依賴して考へ出したもの故、哲學と同じく、十人寄れば十種の學説が出來、相似た説を持つたものは集まつて學派を造り、互に爭つて孰れが正しいか、分からぬやうであるが、學派が幾つもあつて相爭つて居るやうでは、孰れを取るにしても直に之を應用するのは甚だ不安心なことである。一時はヘルバルトでなければならぬやうにいふたかと思ふと、その次にはまた全く之を捨てて他の新説を取るといふやうな世の有樣を見ると、所謂教育學説といふものを學ぶのは全く無益な骨折で、之を基礎として、その上に論を立てるのは大なる誤謬の原因であると思はざるを得ぬ。生物進化論が確定して、人間の位置の明になつた今日では、單に思考力のみに依賴して考へ出した説は、先ず根據のない空論と見倣すの外はないから、教育學も今後は舊式哲學・形而上學などとは全く緣を斷ち、生物學・社會學等の基礎の上に、實驗的研究法によつて造り改めなければ、到底長く時世に伴うて進步して行くことは出來ぬであらう。

[やぶちゃん注:「ヘルバルト」ドイツの哲学者・心理学者・教育学者であったヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト(Johann Friedrich Herbart 一七七六年~一八四一年)。少なくともドイツ語圏に於いて教育学の古典的人物の一人と見做される人物。家庭教師の教育下に幼少時より哲学への関心を抱く。私塾で自然科学を学び、ギムナジウム在学中に人間の意志の自由に関する論文を書き(一七九〇年)、卒業生代表として「国家において道徳の向上と堕落を招来する一般的原因について」の演説を行う(一七九三年)など、早くから非凡さを発揮した。イエナ大学で法律を学び、そこでフィヒテの哲学に影響を受ける一方、ゲーテ・シラー・ヘルダーの住むワイマールを訪れては、芸術的素養を身につけた。卒業後の三年間、ベルンのシュタイゲル家の家庭教師となったが、グルンドルフにペスタロッチを訪ねたこと(一七九九年)ことなどを契機として、関心が教育学へと向かい、後、ゲッティンゲン大学で教育学・倫理学・哲学を講じ(一八〇二年~一八〇九年)、主著「一般教育学」(一八〇六年)・「一般実践哲学」(一八〇七)を著した。ケーニヒスベルク大学に招かれて名誉あるカントの講座を継承し(一八〇九年)、「心理学教本」・「哲学綱要」を著す一方、教育セミナーや実験学校を付設して、教育実践面にも活躍した。一八三三年、再び、ゲッティンゲン大学に招かれ(一八三七年まで)、教育学体系を基礎づけた「教育学講義綱要」(一八三五年)を著し、教育の目的を倫理学に、方法を心理学に求めて、多面的興味の喚起を唱えた。ツィラー(Tuiskon Ziller 一八一七年~一八八二年)によって五段階に発展させられた教授法とともに明治二十年代(一八八七年~一八九六年)に日本に紹介され、谷本富(とめり 慶応三(一八六七)年~昭和二一(一九四六)年:讃岐国高松生まれ。松山公立病院附属医学所、同人社を卒業後、帝国大学文科大学の選科生となり、哲学全科を修了、さらに特約生教育学科で御雇教師ハウスクネヒトからヘルバルト教育学を学んだ。但し、彼は明治三三(一九〇〇)年から三年間、ヨーロッパに留学し、帰国後、京都帝国大学理工科大学講師に就任、一九〇六年刊の「新教育学講義」は留学の成果であったが、それまでのヘルバルト一辺倒から転じ、新教育を強く提唱している。明治三八(一九〇五)年に文学博士、翌年に京都帝国大学文科大学教授となり、新設の教育学教授法講座を担当、一九一〇年には再び海外に留学している。しかし、大正元(一九一二)年九月、『大阪毎日新聞』紙上で乃木希典の殉死を、その古武士的質祖・純直な性格はいかにも立派なるにも拘わらず、なんとなくわざと飾れるように思われて、心ひそかにこれを快しとしなかった、などと批判したことから、強い非難を浴び、翌年、兼任していた大谷大学・神戸高等商業学校を辞任、さらに同年八月には京都帝国大学総長澤柳政太郎により、谷本を含む七教授が辞表提出を強要されて辞職に追い込まれた。その後は著述家・論客として活動、龍谷大学講師・大阪毎日新聞社顧問を務めた。ここはウィキの「谷本富に拠った)を中心として大きな影響を及ぼした(以上は小学館「日本大百科全書」をベースとした)。]

 

 教育は種屬維持のために必要であるが、人間は種々の團體を造つて生活するもの故、實際教育するに當つては、如何なる團體の維持繁榮を目的とすべきかを明瞭に定めて置かねば功がない。漠然たる文句で教育の目的をいひ表して置くことは、單に理論の場合には差支がないかも知れぬが、教育は一日も休むことの出來ぬ實際の事業故、單に一通りにより意味の取れぬ極めて判然たる目的を常に目の前に定めて置くことが必要である。さて人間の生存競爭の有樣を見るに、團體には大小種々の階級があるが、競爭に於ける最高級の單位は人種といふ團體で、人種と人種との間にはたゞいものが勝ち、弱いものが敗けるといふ外には何の規則もないから、自分の屬する人種が弱くなつては、他に如何に優れた點があつても種屬維持の見込はない。それ故、實際教育するに當つては人種といふ觀念を基として、人種の維持繁榮を目的とせねばならぬ。生物界では分布の廣い生物種屬は必ず若干の變種を生ずるもので、變種は尚一層進めば獨立の種となるもの故、斯かる種屬は初め一種でも後には必ず數種に分れ、互に劇しく競爭して、その中の少數だけが、後世まで子孫を遺すことになるが、人間の如きは最も分布の廣い種屬で、既に多數の人種に分れて居ること故、今後は益人種間の競爭が劇しくなり、適するものは生存し、適せぬものは亡び失せて、終には僅少の人種のみが生き殘つて地球を占領するに違ない。この競爭は今から始まるわけではなく、既に從前から行はれて居たことで、歷史以後に全く死に絶えた人種も幾らもあり、將に死に絶えんとする人種も澤山にある。今日の所で、後世まで子孫を遺す見込のあるものは、ヨーロッパを根據地とする若干の人種とアジヤの東部に住んで居る若干の人種と僅に二組に過ぎぬ。されば如何なる種類の教育でも、常にこれらの事實を忘れず、他の生物の存亡の有樣に鑑み、進化論の説く所に隨つて、專ら自己の屬する人種の維持繁榮を計らねばならぬ。

[やぶちゃん注:丘先生が敢えてロシア(ソヴィエト)とアメリカ合衆国を挙げておられないのがすこぶる面白い。検閲を配慮したか。]

2018/07/30

進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(二) 二 進化論と倫理

 

     二 進化論と倫理

 

 倫理學も從來は人間を一定不變のものと見倣し、且宇宙間に他に類のない一種靈妙なものとして人間のことばかりを論じ來つたが、進化論によつて自然に於ける人類の位置が明になつた以上は、根本からその仕組を改めてかゝらねばならぬ。人間が獸類の一種であつて、猿と共同な先祖から降つたものとすれば、善とか惡とかいふ考も決して最初から存した譯ではなく、他の思想と同樣に漸々の進化によつて生じたものと見倣さねばならぬが、これらの點を詳細に研究するには、先づ世界各處の半開人[やぶちゃん注:「はんかいじん」。文化が未開を越えて、少し開化してきている人集団。]や野蠻人が、如何なることを善と名づけ、如何なることを惡と名づけて居るか、また實際如何なることを爲して居るかを取調べ、尚人間以外の團體生活をする獸類・鳥類が平生なし居ることをも調査し、之を基として論ずることが必要である。人間の身體ばかりを解剖して如何に丁寧に調べても、人間の身體各部の意味が解らず、他の動物と比較して見て、初めてその意味が解る如くに、人間の行爲も之ばかりを調べたのでは、何時まで過ぎても容易に意味の解るものではない。他の團體生活をする動物の行爲に比べて見て、初めてその意味が明に解るものも澤山にあるべき筈である。

 例へば、動物界には人間の外に團體生活を營むものは澤山にあつて、之を竝べて見ると、單獨の生活をなすものから、一時的團體を造るもの、少數の個體が常に集まり生活するものなど、種々の階級を經て、多數の個體が永久の團體を組んで生活するに至るまでの進化の順序を知ることが出來るが、これらの動物の行爲を調ベると、善惡の分れる具合も、多少明に解るやうである。先づ單獨の生活を營む動物の行爲は、善惡を以て評すべき限ではないが、團體を組んで生活するやうになれば、生存競爭の單位は團體であるから、その中の各個體の行爲は全團體に影響を及ぼし、一個體が團體に利益ある所行をなせば、團體内の他の個體は殘らずその恩澤を蒙り、一個體が團體に不利益な所行をなせば、團體内の他の個體は悉く損害を受ける。假に身を斯かる團體内に置いたと想像して見れば、前者の行爲を善と稱し、後者の行爲を惡と名づけるより致し方はない。されば團體生活を營む動物では、一個體の行爲が全團體の滅亡を起す場合が最高度の惡で、身を犧牲に供して全團體の危難を救ふことは善の理想的模範である。

 また數個の團體が對立して互に競爭する場合には、如何なる性質を具へた團體が最も多く勝つ見込を有するかと考へるに、それは無論各個體が全團體のために力を盡し、自己一身の利害を第二段に置くやうな團體である。上下交々[やぶちゃん注:こもごも。]利を征めては[やぶちゃん注:「せめては」ではおかしい。そういう訓はないが(人名の訓ではある)「もとめては」と読んでおく。]、到底敵である團體と相對して存立することは出來ぬから、團體聞の生存競爭に於ても、やはり自然淘汰が行はれ、團體生活に最も適する性質を具へたもののみが長く生存し、各個體には自己の屬する團體のために誠を盡すといふ性質が、益發達するわけになる。蟻・蜜蜂等の如き社會的昆蟲の動作を見れば、このことは最も明白であるが、人間の道德心の如きも或は斯くの如くにして生じ來つたものではなからうか。若しさうとしたならば、善惡といふ考も團體生活とともに起つたもので、世の中から團體生活をする動物を取り去つたならば、たゞ火が燃え、水が流れるといふやうな善でも惡でもないことばかりとなつて、善惡といふ文字の用ゐ處も無くなつてしまふ。

 尚人間には生れながら良心といふものが具はつて、惡事をなした後には心中大いに安んずることが出來ぬものであるが、この良心といふものもやはり團體生活と共に起つたものではなからうか。團體生活を營む動物では、一個體の行爲が全團體の不利益を生じた場合には、他の個體が集まつて之を罰することが常であるが、罪せられることを豫め恐れる心持は、所謂良心といふものと全く同じ性質の如くに思はれる。

 人間の道德心の起源の如きは、大問題であつて、素より一朝一夕に論じ盡せるわけのものではないが、人間が獸類の一種である以上は、之を研究する方法もやはり比較解剖學・比較發生學等と同樣に、先づ事實を集め、次に之に通ずる規則を探り出し、その規則に從つて原因を調べるといふ順序でなければならぬ。この順序によりさへすれば、恰も比較解剖學・比較發生學等によつて、人間の身體の進化し來つた徑路が多少明になつた如くに、人間の道德心の發生の徑路が、幾分か解るやうになるであらう。野蠻人の行爲や諸動物の習性を調ベることは、素より容易ではないが、今より後はこの方法により實驗的に研究して行く外に適當な法はないやうである。

 從來の倫理學は規範學科などと稱して、單に思考力のみに依賴し、高尚な議論ばかりをして居たから、人生と最も直接な關係を有すべき學科でありながら、實際に於ては最も人生と緣の遠い有樣であつたが、規範學科であれば尚更のこと、先づ人間といふものは實際如何なることをして居るか、またその行爲の原因は何であるかを詳しく調べ、之を基として議論を立つべき筈である。されば倫理學は全くその研究の方法を改め、純正學科としては單に實驗・觀察によつて人類の行爲を研究し、之を支配する理法を探り求めることだけを目的とし、更に應用學科として人間の行爲は斯くあるが最も宜しいといふ規範を種々の場合に當て嵌めて、定めることを勉めたれば宜しからう。人間が尚進化の中途にあるものとすれば、萬世不易の善惡の標準といふやうなものは、到底定められぬかも知れず、單に思考力によつて之を求めようとすれば、益空論の範圍に深入[やぶちゃん注:「ふかいり」。]して、現實の世界から遠ざかるばかりである。特に人間には團體に種々の階級があつて、小團體が集まつて、大團體をなして居るから、その中の各個人には、小團體の一員としての資格と、大團體の一員としての資格とがあり、時と場合とに隨ひ或は甲の資格を取り、或は乙の資格を取ることが必要であるから、同一種類の行爲でも、或は善となり或は惡となることもある。例へば病原黴菌といふ人類共同の敵に對する場合には、各個人は人類といふ大團體の一員たる資格であるから、黴菌撲滅上肝要な一大發見をした學者が、直に之を他國の學者に通知することは、全團體の利益となる所行故、先づ善事と見倣さねばならぬが、國と國とが戰爭をする場合には、各個人は國といふ小團體の一員たる資格であるから、兵器改良上肝要な一大發見をした學者が、之を敵國の學者に通知することは、敵の戰鬪力を增さしめる所行故、確に惡事と見倣さねばならぬ。かやうな例を考へれば、幾らでもあるが、これらを見ても、善惡の標準は時と場合とに隨つて改めなければならぬことは、明であるから、倫理學は應用學科として、常に斯かる點を研究すべきものであらう。

 

進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(一) 序・一 進化論と哲學

 

     第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響

 

 前章までに説いた所で、進化論の大意だけは先づ述べ終つたが、進化論を認めると同時に、全く一變せざるを得ぬのは、自然に於ける人類の位置に關する考である。人間は獸類の一種で、猿と共同な先祖から降つたといふことは、單に進化論中の特殊の一例に過ぎぬから、進化論を認めながらこのことだけを認めぬといふ理由は決してない。若しこのことを認めぬならば、進化論全體をも認めることは出來ず、隨つて生物學上の無數の事實と衝突することになる。而して一旦この事を認めて、自然に於ける人類の位置に關する考を一變すれば、從來の考は無論棄てなければならず、且舊思想の上に樹[やぶちゃん注:「た」。]てられた學説は、悉く根抵から造り改めなければならぬことも無論である。

 今日學問の種類は非常に澤山あるが、その中には人間は如何なるものかといふ考に關係のないものもあれば、また殆どこの考を基礎としたものもある。物理學・化學・數學・星學[やぶちゃん注:天文学。]・地質學等の如き純正理學を始めとして、之を應用した工學・農學などでも、人間といふ觀念が如何に變つても直接には何の影響を蒙むることもないが、哲學とか、倫理學とか、教育學とかいふやうな種類の學科は、人間といふ考次第で、全く根本から改めなければならぬかも知れぬ。なぜといふに、これらの學科は進化論の現れぬ前から引續き來つたもので、進化論以前の舊思想に從つて人間といふものの定義を定め、之によつて説を立てて居るのである故、一朝この定義が改まる場合には、その上に築き上げた議論は悉く崩れてしまふからである。

 曾てアメリカの或る雜誌で、十九世紀中に出版になつた書物の中で、人間の思想上に最も著しい影響を及ぼしたのは何であるかといふ問題を出して、世界中の有名な學者から答を求めたことがあつたが、何百通も集まつた答の中に、ダーウィンの「種の起源」を擧げぬものは一つもなかつた。また先年丸善書店で十九世紀中の大著述は何々であるかといふ問題で、我が國の學者から答を求めたことがあつたが、その答の中、やはり「種の起源」が最多數を占めた。斯くの如く、内外共にこの書の尊重せられるのは何故といふに、無論人間といふ考がこの書によつて全く一變し、その結果として殆ど總べての學科に著しい影響を及ぼしたからである。近來出版になつた社會學・倫理學・心理學・哲學等の書物の中には、進化論の影響により大いに改革を試みた形跡の見えるものも既に相應にある所から推せば、尚益變化して行くであらうが、どこでもこれらの學科を專門に修めた人々には、兎角、生物學の素養の極めて不十分な人が多く、そのため進化論が今日既に學問上確定した事實であるに拘らず、之を了解することが出來ず、依然として舊思想を守り、生物學から見れば殆ど前世紀に屬すると思はれる程の誤謬に陷りながら、少しも悟らず、隨つて之を改めもせぬ有樣である。

 進化論と、かやうな學科との關係はなかなか重大なことで、本書の中に之を丁寧に論ずることは出來ぬが、全くこれを略して置くことも甚だ不本意である故、たゞ一つ二つ思ひ浮んだことだけを、この章に述べる。進化論の方が十分に解りさへすれば、こゝに書くことの如きは、必然の結論として生ずべきもので、誰の心中にも自然に浮ぶ筈のことかも知れぬが、凡そ進化論によつて從來の諸學科が如何に根本的に改良せられなければならぬかといふことは、そのため多少明に知れるであらう。

 

     一 進化論と哲學

 

 哲學といふ學問は、その歷史を調べて見ると、極古代に當つては、多少實驗を基としたこともあつたやうであるが、近來では全く實驗と離れて、單に自己の思考力のみに依賴して、一切の疑問を思辨的に解かうと勉める。達磨が九年間壁に向つて考へて居た如く、近頃までの所謂哲學者は、たゞ書物を讀むことと、考へることとによつて、總ての眞理を發見し得るものの如くに思ふて居たが、之には大きな誤謬が基となつて居る。この事は當人も少しも氣が附かぬかも知らぬが、全く人類に關する舊思想に基づくことで、先づ之から改めてかゝらなければ、到底益誤謬に陷ることを免れぬ。

 その誤謬とは人間の思考力を絶對に完全なものの如くに見倣して居ることである。進化論の起らぬ前は、無論このことに就いては疑の起りやうもないわけで、人間は一定不變のものと思つて居る間は、その思考力の進化などに考へ及ぶ緒[やぶちゃん注:「しよ」。]もないから、たゞ考さへすれば如何なる眞理でも觀破することが出來るやうに思つたのも無理はないが、今日生物學上、人間が下等の獸類から漸々進化し來つたことが明になつた以上は、先づこの誤謬から正してかゝらねばならぬ。人間は猿類などと共同な先祖から起つたもの故、その頃まで溯れば今とは大いに違つて腦髓も小く、思考力も甚だ弱かつたに違ない。それより漸々進步して、今日の姿までに達したのである。これから先は如何になり行くか、未來のこと故、素より解らぬが、過去の經歷から推して考へると、尚この後腦髓が益發達して思考力も益進化することは、殆ど疑なからう。若し今後尚進步するものとしたならば、今日の思考力は恰も進步の中段にあるもの故、決して絶對に完全なものとはいはれぬ。されば今日如何に腦漿を搾り、思考力を凝らして考へたことも、尚一層腦髓が發達し、思考力の進步した未來の時世から顧みたとすると、全く誤つて居るかも知れず、その時に考へたことはまた尚一層後の世から見ると、誤であるかも知れぬが、かやうに考へると、今日の腦髓を以て自分の單に考へ出したことを、萬世不變の眞理であると世に披露するやうな大膽なことは到底出來ず、また他人の考へ出したことを萬世不變の眞理であると信ずることも出来ず、總べて何事をも極めて控へ目に信ずるやうになり、その結果甚だしい誤謬に陷ることも斟くなるであらう。

 腦髓が漸々發達して今日の有樣になつたことは、化石學上にも事實の證據があるが、一個人の發生を調べると、全く同樣なことを發見する。最初腦髓の極めて簡單な頃を略して、その次の時代からいへば、先づ胎内四箇月位の時には、大腦の兩半球ともに表面が平滑で、一向、溝の如きものもなく、殆ど兎の腦髓の如くであるが、漸々發達して複雜になり、大腦の表面に種々の裂溝・廻轉等が現れ、八箇月頃には全く猩々と同じ位な度に達する。尚それより少しづゝ發達して、終に生れ出るが、生れてから後に思考力の漸々進步する具合は、誰も幼兒に就いて經驗して知つて居ることであらう。發生學の所で述べて置いた生物發生の原則といふことは、人間の腦髓の發育、思考力の進步等にも實に善く適するやうに思はれるが、之によつて人間の實際進化し來つた徑路を、餘程までは推察することが出來る。

 眼・耳・鼻等の如き感覺器も無論絶對に完全なものではないが、腦髓で考へた理論が、眼・耳等で感ずることと矛盾する場合に、理論の方だけを取つて、感覺の方を顧みぬといふことは穩當でない。今日の人間の生活の有樣を見るに、主として知力の競爭で、眼・耳・鼻等の優劣は殆ど勝敗の標準とはならぬから、一人一人の相違は素よりであるが全體からいへば、知力は益進むばかりで、感覺器の發達は少しも之に伴はぬ。倂しながら知力は如何なる度まで進んで居るかと考へるに、生物の進化は主として自然淘汰に基づくもの故、たゞの競爭場裡に立つことが出來るといふ程度までに進んで居るだけで、決して遙にその以上に出て居るわけはない。されば今日我々の有して居る思考力は、同僚と競爭して甚しく敗れることがないといふ度までに發達して居るだけ故、日常の生活には僅に間に合うて行くが、宇宙の哲理を觀破する道具としては、隨分覺束ないやうに思はれる。

 哲學といふ宇の定義は幾通りあるか知らぬが、簡單にいへば、物を見て考へることであらう。烏を見て單に黑いというて濟ますのは、普通の見方で、何故黑いかと考へるのは哲學的の見方である。つまる所、物の原因に就いて疑を抱くのが、總べての哲學の起りであらうが、この疑を解かうと勉めるに當つて、取る方法に二通りの別がある。一は出來るだけ多く實驗觀察し、出來るだけ多くの正確な事實を集め、之を基として考へる方で、今日純正理學と名づけるものは皆この方法に隨つて研究すべき筈である。他の一は之に反して、眼・耳・鼻・舌等の如き感覺器には全く信用を置かず、たゞ思考力のみに賴つて疑の根元までも解き盡そうと試みるが、從來の所謂哲學といふものは總べてこの方法によつて研究せられて居る。さて人間は尚進化の中段にあるものとすれば、眼・耳・鼻・舌の感覺力も腦髓の思考力も、共に絶對に完全なものでないことは勿論であるが、孰れの方に誤謬に陷る穴が多いかと考へて見るに、眼・耳を以て見聞すること、物指・天秤等を以て測ることなどは、十人で行ふても、百人で行ふても、その結果は略一致して爭の起ることは少いが、日常生活以外の方面に用ゐる思考力の結果は、人一人で大いに異なり、五人集まれば五通りの宇宙觀が出來、十人寄れば十通りの人生觀が出來る。また自分で獨立の説を工夫することの出來ぬ人等は、他人の考へたことに縋り附くの外はないから、こゝに澤山の派が生ずる。若し眞理が幾通りもないものとしたならば、昔から多數に存する哲學派の中で完全に眞理を説いたものは、最も多く見積つてもたゞ一つだけよりないわけで、實際は、恐らく悉く誤謬であると考へざるを得ない。思考力のみに依賴すると、推理の筋の辿りやう次第で、種々の異なつた結論に達し、隨分正反對の結果を得ることもあるから、眞理を求めるために或る學派に歸依し、或は自身で一派を工夫する人は、恰も當りの少い籤を引くのと同樣で、眞理に的中する望は極めて僅である。

 これに比較すれば、感覺力の方が尚餘程確らしい。十人でも百人でも、略同一な結果を得るのであるから、今日の人間の知力の範圍内では、先づこれ以上に確なことを知ることは出來ぬ。人類共通の誤謬があるかも知れぬが、之は何とも論ずべき限でない。されば物の原因を探るに當つても、先づ觀察と實驗とによつて事實を集め、之を基として思考力によつて、その間の關係を考へ、一定の結論を得たれば、更に實驗、觀察によつてその結論が實際の事實と矛盾せぬか否かを確め、確であれば、更に之を基として、その先を考へるといふやうに、常に思考力と感覺力とを倂せ働かせて進むのが、今日の人間のなし得る最も確な方法であらう。尤も、この方法は一段每に實驗・觀察等の如き大きな勞力を要すること故、單に手を束ねて考へるのと違つて、進步は素より多少遲からざるを得ぬ。理科の進步は常にこの方法によるから、速[やぶちゃん注:「すみやか」。]ではないが、比較的に確[やぶちゃん注:「たしか」。]である。理科に於ても、事實の十分に集まらぬ中に、假想説を考へ出して、或る現象の理由を説明しようと勉めて、そのため激しい議論の起ることも常にあるが、研究の結果、事實が漸々解つて來れば、必ず孰れにか決してしまふから、何時までも數多の學派が對立して存するといふやうなことはない。

 この方法は實驗・觀察によつて先づ事實を搜し、之を基として思考するのであるから、從來の單に思考力のみにより空論を戰はして居た紙上哲學に對し、この方法で研究する學科を實驗哲學と名づけるが適當であるが、進化論により人間の位置が明になつた以上は、哲學といふものはこの方面の學科と一致するやうに改めなければならぬ。思考力のみをたゞ一の武器として、臥[やぶちゃん注:「ふし」。]ながら宇宙の眞理を發見しようといふ考は、進化論の教へる所と全く矛盾することである。

 科學に滿足が出來ぬから、哲學に移るといふ人もあるが、物に譬へて見れば、實驗・觀察と思考力とを倂せ用ゐて研究することは、恰も脚を動かして步行するやうなもので、進步は速くはないが、實際身體がそこまで進んで行く。之に反して思考力のみによつて考へることは、恰も夢に千里を走るやうなもので、進步は至極速いやうに感ずるが、實際身體は依然として舊の處に止まつて居る。今日の開化の度まで、人間の進み來つたのは、全く實驗・觀察と思考力とを倂せて用ゐる方法で事物を研究した結果である。思考力のみを用ゐる研究法の結果は、二千年前も今日も餘り著しくは違はぬ。物の理由を探り求めるに當り、實驗・觀察と思考力とを倂せ用ゐることは、大に忍耐と勞力とを要する仕事で、隨つて時も長くかゝるが、その結果は眞であるゆえ、之を應用して誤ることはない。つまり、それだけ人間の隨意にする領分が殖えたやうなもので、生存競爭の武器がそれだけ增したことに當る。知識の光を以て照せば、何事でも解らぬものはないなどと、大聲に演説すれば、そのときだけは説く者も何となく愉快な感じが起つて、意氣が大に昂る[やぶちゃん注:「あがる」。]が、實際を顧みると我々の知識はなかなかさやうなものではなく、僅に闇夜に持つて步く提燈位なもので、たゞ大怪我なしに前へ進み得られるだけに、足元を照すに過ぎない。實驗・觀察と思考力とを倂せ用ゐるのは、この提燈の光力を漸々增加せしめる方法である。今日我々の爲し得る範圍内では、これ以上のことは出來ぬのであるから、不十分な點を忍んで科學に滿足するより外に致し方はない。之に滿足せずして、舊哲學に移るのは、恰も提燈の火が小いからといふて、これを捨て大光明を夢みんと欲して目を閉じるやうなものであらう。

諸國里人談卷之五 橫山狐

 

  ○橫山狐(よこやまのきつね)

伯耆國大山(だいせん)に「橫山狐」といふ、あり。是、則(すなはち)、明神の仕者(ししや)なり。もろもろの願望、此狐を賴みて祈るに成就せずといふ事なし。盗人(ぬすびと)にあひたるもの、此狐を賴み祈れば、卽ち、狐、出〔いで〕て、道しるべして、かの盗(ぞく)が家(いへ)につれ行く事、妙なり。○大山は大智明神也。祭神、大己貴命。神領三千石。坊舎四十二院あり。當山の砂、昼は下(さが)り、夜は升(のぼる)と云〔いへ〕り。

[やぶちゃん注:「橫山狐」ネット上の記載は、悉くが本条に基づくものである。盗賊云々の話は妖狐譚としては特異点と言える。

「大山(だいせん)」は鳥取県(大山町・琴浦町・江府町等)にある標高千七百二十九メートルの成層火山で鳥取県及び中国地方の最高峰。(グーグル・マップ・データ)。ここに出る寺社は西伯(さいはく)郡大山町(だいせんちょう)にある天台宗角磐山(かくばんさん)大山寺(だいせんじ:本尊・地蔵菩薩)と大神山神社(おおがみやまじんじゃ:本社(北麓)鳥取県米子市尾高/奥宮(中腹・標高約九百メートル位置)西伯郡大山町大山)。ウィキの「大神山神社」によれば、本社は大穴牟遅神、奥宮大己貴命を祀るが孰れも大国主神の別名。『当社の奥宮は、大山に登った修験者が』現在の奥宮のある位置に『簡易な遥拝所を設置したのが起源とされている』。『伯耆大山は、平安時代には修験道場として著名な山となっていたが、積雪により』、『祭事に支障が生じるため、麓に冬宮を設置し、冬期はそこで祭事を行うようになった』。『これにより、現在の「奥宮」は「夏宮」と呼ばれるようになった』。『大山は神体山として、大己貴命が鎮まるとされたが、神仏習合が広まると、当社は智明権現と称し、地蔵菩薩を本地仏とするようになった』。『その後、三院にして百八十坊の規模となり、三千人の僧兵を擁するようになった』。「勝見名跡誌」には『伯耆大山の智明大権現と因幡・鷲峰山』(じゅうぼうざん:鳥取県鳥取市鹿野町にある標高九百二十・六メートルの山)『の鷲岸大明神』(「じゅうがんだいみょうじん」と読んでおく)『が仲が悪く』、『戦をしたとの伝承が載っている』(ウィキの「大山の背比べを参照されたい)。元弘三(一三三三)年、『隠岐を脱出した後醍醐天皇が当社で鎌倉幕府打倒の祈願を行った』。明治八(一八七五)年に、かのおぞましき)廃仏毀釈によって大山寺は廃され、『冬宮を本社とし、山腹の智明権現の仏塔を廃し、地蔵菩薩を除いて、奥宮とした』。但し、大山寺は大日堂に本尊を移し、急激に衰退したが、明治三六(一九〇三)年に大山寺の号が復活、大日堂を現在の本堂として再興されてある(寺社位置は上記グーグル・マップ・データで確認出来る)。

「當山の砂、昼は下(さが)り、夜は升(のぼる)と云〔いへ〕り」意味不明。山砂が日夜こうした反復運動を繰り返す摩訶不思議の霊山ということか。ネットでお手軽に現代語訳しているものも、この部分は判らぬものか、カットしている。]

2018/07/29

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(六) 七 猿人の化石 / 第十九章 自然に於ける人類の位置~了

 

     七 猿人の化石

 

 斯くの如く、人間の猿類に屬することは、解剖學上及び發生學上に明であるのみならず、血淸試驗によつて明に證することも出來るが、他の猿類と共に猿類共同の先祖から漸々分岐して生じたものとすれば、その先祖から今日の人間に至るまでの途中のものの化石が、地層の中に少しは殘つて居さうなものである。さて實際さやうなものが發見せられたことがあるか否かと尋ねるに、澤山にはないが、既に種々の階段に屬する化石が見出され、現に處々の博物館に鄭重に保存せられてある。素よりこの種の化石が十分に揃つて人間と猿類との共同の先祖から今日の人間に至るまでの進化の順序を遺憾なく完全に示すといふわけではないが、發見せられた化石は皆人間と猿類の先祖との中間に立つべき性質を具へたものばかり故、全く進化論の豫期する所と一致して居るのである。

 全體動物の死體が化石となつて後世まで殘るのは、餘程都合の好い場合に限ることで、先づ水の底に落ち、細かい泥にでも埋もれなければ、殆ど化石となる機會はないやうである。犬・猫などは昔から何疋棲んで居て、每年何疋づゝ死んだか解らぬが、その化石を見出すことは決してない。人間もその通りで、石器を用ゐて居た時代にも人間は相應に多數に生存して居たであらうが、石斧や石鏃は澤山に出ながら、それを造つた人間の骨の發見せられることは極めて稀である。それ故、今日知られて居る人間の化石は、世界中のものを悉く集めても、その數は決して多くはない。

 今より殆ど五十年ばかり前に、ドイツデュッセルドルフ市の近邊のネアンデルタールといふ處の地層から、一個の人間の頭骨が發見になつたが、その頭骨は餘程今日の人間とは違つて、頭蓋部が小く[やぶちゃん注:「ちいさく」。]、眉の處が著しく突出して居て、全體が大いに猿の頭骨に似て居た。その頃之に就いては種々の議論があつて、或る人は之を人間中の猿に近いものと見倣し、或る人は之を人間と猿との間の子[やぶちゃん注:「あひのこ」。]であらうなどと論じたりしたが、有名な病理學者ウィルヒョウが之は畸形者の頭骨であると斷言したので、一時は誰もその説に服し、この貴重な化石も暫時は學問上大なる價値のないものとして捨て置かれた。

[やぶちゃん注:「今より殆ど五十年ばかり前」ネアンデルタール人(ヒト属ホモ・ネアンデルターレンシスHomo neanderthalensis:命名は一八六四年)の頭骨化石が見つかったのは、一八五六年(本書(新補改版・第十三版)は大正一四(一九二五)年刊であるから、正しくは六十九年前で修正し忘れ)。なお、学術研究の対象とは成らなかったが、それ以前にオランダやジブラルタルの鉱山で断片骨が発見されている)。発掘ではなく、石灰岩採掘作業中に作業員によって掘り出された。

「ドイツ國デュッセルドルフ市の近邊のネアンデルタール」ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州を流れるライン川支流のデュッセル川(Düssel にある小さな「ネアンデル谷」或いは「ネアンデルタール」(ドイツ語:Neanderthal 又は Neandertal)。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「ウィルヒョウ」ルードルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウ(Rudolf Ludwig Karl Virchow 一八二一年~一九〇二年)はドイツ人医師・病理学者・先史学者・生物学者・政治家。白血病の発見者として知られる。この一八五六年からベルリン大学で病理学教授を務めていた。病理学の世界的権威であった彼は、この頭骨を佝僂(くる)病や痛風によって変形した現代人の老人の骨格と主張した(ウィキの「ネアンデルタール人」に拠る)。]

 

Kagakukotu

 

[人類下顎の化石]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫のものを用いた。これは思うに、若干、上部の形状や歯の残存状況に齟齬があるものの、以下に出るホモ・ハイデルベルゲンシスHomo heidelbergensis の下顎骨化石の杜撰な模写ではなかろうか? ウィキの「ホモ・ハイデルベルゲンシスの下顎骨のレプリカの写真(パブリック・ドメイン)

 

Heidelberger_mensch_replik_rosenste

 

を掲げておく。]

 

Toukotu4

 

[頭骨四個

(右上)オーストラリア野蠻人

(左上)ヨーロッパ人

(右下)猩々

(左下)猿人]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫のものを用いたが、同文庫の振った記号やキャプションは消去してある。「オーストラリア野蠻人」は前に出した現在のアボリジナル・オーストラリアン(Aboriginal Australians)の頭蓋骨であろう(なお、「野蠻人」は差別用語である)。「猿人」はホモ・エレクトスHomo erectus のそれに近いように思われる。]

 

 然るにその後またベルギー國のスパイといふ處から前のと略同樣な頭骨が掘り出され、尚後に至つてクロアチヤ州から之に似た頭骨が八個發見せられ、尚その他にも處々から一つ二つづゝ同樣な古代の人間の骨骼が掘り出された。その中で、先年ドイツハイデルベルヒの附近から發見せられた下顎骨、一昨年英國サセックス州のピルトダウンで掘り出された頭骨・下顎骨などは時代の稍古いために最も有名である。尚十年程前にドイツ領東アフリカで、人間の化石が一個新に發見せられたが、之に關する詳しい報告の出ない中に、戰爭が始まつたから、この人間が如何なる性質のものであるかはまだ確には知ることが出來ぬ。これらを比較して調べて見ると、些細な點では皆違つて居るが、肝要な處はネアンデルタールの頭骨と餘程似たもので、孰れも今日の人間の頭骨とは違ひ、猿の頭に似た點が著しく目に立つた。かやうに遠く相離れた國々から幾つも出て來る所から考へると、決して畸形者の頭骨であるとは思はれぬ。且その時代の地層から發見せられた人間の頭骨が皆かやうなものであるのを見れば、之は確にその頃生活して居た人間の普通の性質を示して居るものと見倣さねばならぬが、斯かる頭骨を具へて居つた以上は、その頃の人間は今日の人間とは餘程違つたもので、頭が小く、眉は突出し、顎も大に[やぶちゃん注:「おほいに」。]發達して、全體の容貌が頗る猿に類して居たに違ない[やぶちゃん注:「ちがひない」。]。生活の有樣がどうであつたかは素より今日からは確に論ぜられぬが、之も今日の人間とは著しく違つて居たらうといふだけは察することが出來る。

[やぶちゃん注:「ベルギー國のスパイといふ處から前のと略〻同樣な頭骨が掘り出され」Spyここ(グーグル・マップ・データ)。ネアンデル谷の発見から三十年後の一八八六年。

「クロアチヤ州」一八九九年当時のオーストリア=ハンガリー帝国(現在のクロアチア共和国)のクラピナ(Krapinaここ(グーグル・マップ・データ))の丘の上から、多数の骨断片(最低で十二人分、数十体ともされる)ネアンデルタール人の骨が発見された。

「先年ドイツ國ハイデルベルヒの附近から發見せられた下顎骨」所謂、ハイデルベルク人(ヒト属ホモ・ハイデルベルゲンシスHomo heidelbergensis:命名は一九〇八年)。一九〇七年にドイツのハイデルベルク近郊のマウアー村(Mauer)で発見された(ここ(グーグル・マップ・データ))。同種と思われる(或いは亜種)の化石はその後、南アフリカ・東アフリカでも発見された。ウィキの「ホモ・ハイデルベルゲンシス」によれば、『ネアンデルタール人と比べても、眼窩上隆起が非常に大きく、前脳部は小さい。このことからネアンデルタール人よりは原始的な種と見なされる』。『下顎骨は非常に大きく頑丈であるが、歯は小型で現生人類よりやや大きい程度で、同時代と思われる北京原人より小さい。そのため』、『この人類は、原人であるのか、原初的な旧人であるのかが議論されたが、巨大な下顎骨の形質や伴出した動物化石との比較などから、時代的に見て原人であろうと考えるのが一般的である』。但し、『現生人類へと繋がる系統とネアンデルタール人との分岐直前』(四十七万~六十六万年前)の時期』或いは『分岐後のホモ・サピエンスへと続く系統側で、ホモ・サピエンスに進化する前段階には旧人段階の「ホモ・ヘルメイ」にまで進化していたことも考えられる』とある。

「一昨年英國サセックス州のピルトダウンで掘り出された頭骨・下顎骨」一九〇九年から一九〇九年にかけて、弁護士でアマチュア考古学者のイギリス人チャールズ・ドーソン(Charles Dawson)によって「発見」された頭頂骨と側頭骨。この当時は類人猿と現生人類のミッシング・リンクを埋める存在として大いに期待されたが、実はオランウータンの下顎骨を素材に巧妙な加工を施した完全な捏造品であった。捏造と断定されたのはずっと後の一九五三年のことであった(本書は大正一四(一九二五)年刊(「一昨年」は書き換え損ない)。というより、丘先生は昭和一九(一九四四)年に亡くなっている)。

「尚十年程前にドイツ領東アフリカで、人間の化石が一個新に發見せられたが、之に關する詳しい報告の出ない中に、戰爭が始まつたから、この人間が如何なる性質のものであるかはまだ確には知ることが出來ぬ」「ドイツ領東アフリカ」は現在のブルンジ・ルワンダ・タンガニーカ(タンザニアの大陸部)の三地域を合わせた、アフリカ西岸ドイツ帝国の植民地。恐らくは、現在のタンザニア北部の「ンゴロンゴロ保護区」にある谷幅数百メートル・崖高凡そ百メートル・全長四十キロメートルにも及ぶ広大なオルドヴァイ(Olduvai)渓谷のことであろう(ここ(グーグル・マップ・データ))。ここからは多くの化石人骨や石器が見つかっているウィキの「オルドヴァイ」にある一九一三年に『ドイツのハンス・レック教授』(Hans Reck 一八八六年~一九三七年:地質学者)『が、現在ではオルドヴァイ人と呼ばれている化石人骨を発見した』というのが丘先生の言うそれであろう(但し、この「オルドヴァイ人」についての記載は不思議なことに殆んど見当たらない。欧文ウィキを見ると、彼はごく古い現生人類の化石と主張したものの、批判された経緯が記されている)。その後、一九五九年には、『イギリスの人類学者ルイス・リーキーとメリー・リーキー』『博士夫妻がアウストラロピテクス・ボイセイ』(パラントロプス属Paranthropus boisei:本種はヒト亜族アウストラロピテクス属Australopithecus に含める説がある)『の化石人骨(完全な頭骨)と最も原始的な石器を世界で初めて同一地点の同一文化層から発見』、『注目を集め』、さらに、その五年後の一九六四年には『同じくルイス・リーキーによってホモ・ハビリス』(ヒト属ホモ・ハビリスHomo habilis)『の化石が発見され、人類進化の研究にとって最重要の遺跡の一つとなった』とあり、化石人類のメッカとも言うべき場所である。『また、多くの石器も発見されており、礫石器を主体としたこの石器文化はオルドヴァイ文化と呼ばれ、約』百八十『万年前までさかのぼるアフリカ最古級の旧石器文化であると考えられている』とある。]

 

 近來最も評判の高い化石は、丁度二十七年前にオランダヂュボアといふ博物學者がジャヴァトリニルで掘り出したものである。そこの第三紀の地層を研究して居る中に、一個の頭骨と脚の骨とを發見したが、その形狀を調べて見ると、丁度人間と猿との中間に位するもので、人間ともいへず、猿ともいへぬから、據なく[やぶちゃん注:「よんどころなく」。]「猿人」といふ意味の新しい屬名を造り、脚の骨から考へると確に直立して步行したらしいからとて、「直立する」といふ種名を附け、この化石に「直立した猿人」といふ學名を與へた。かやうな性質を具へた化石であるから、忽ち學者間に非常な評判となり、その後の萬國動物學會にヂュボアが實物を持ち出して、大勢の批評を求めた所が、之を最も人間に似た猿であらうといふた人が二三人、最も猿に似た人間であらうといふた人が二三人あつた外、その他の人は皆之を人間と猿類との中間に位する種屬の化石であると認めた。斯くの如くそのいうたことには多少の相違はあつたが、畢竟たゞ、他の猿類と人間との境界を便宜上どこに定めようかといふ點に就いて、人々の考が違つただけで、この化石が今日の人間と今日の猿類との中間に位するといふことに就いては、誰も異存はなかつたのである。尤もこの化石を直に人間と猩々との共同の先祖の化石と見倣すことは出來ぬが、兎に角共同の先祖に最も近いものであることだけは、少しも疑がない。

[やぶちゃん注:「丁度二十七年前にオランダのヂュボアといふ博物學者がジャヴァのトリニルで掘り出したものである。そこの第三紀の地層を研究して居る中に、一個の頭骨と脚の骨とを發見した」オランダの解剖学者・人類学者であったマリー・ウジェーヌ・フランシス・トーマス・デュボワ(Marie Eugène François Thomas Dubois 一八五八年~一九四〇年)が一八九一年(本書は大正一四(一九二五)年刊だから「丁度二十七年前」は書き換え損ない)にオランダ領であったインドネシアジャワ島トリニール(Trinil(グーグル・マップ・データ))で発見した化石人類。嘗ては Pithecanthropus erectus(ピテカントロプス・エレクトス)の学名で呼ばれていたが、現在はヒト属に分類され、Homo erectus(ホモ・エレクトス)の亜種 Homo erectus erectus(ホモ・エレクトス・エレクトス)とする。百七十万~百八十万年前頃の棲息と推定される。なお、現在の知見では本種は現生人類の直接の祖先ではないとする意見が支配的である。「第三紀」新生代第三紀は六千四百三十万年前から二百六十万年前までであるから、ここは第四紀(二百五十八万八千年前から現在まで)でないとおかしい。]

 

 また猿類の化石は如何といふに、全體猿類の化石といふものは、人間の化石と同じく、餘り多くは發見せられてないが、その中或るものは確に今日の普通の猿よりは、尚一層人間に似て居る處がある。之は人間と猿類との共同の先祖から遠ざかることがまだ僅であるから、共同の先祖に尚甚だ似て居るので、斯く人間に似た如くに見えるのであらう。

 斯くの如く、人間が猿類と共同な先祖から起つたといふことは、決して單に推理上の結論のみではない。地層の中から出た化石を調べても、確にその證據のあることで、今日では最早疑ふことの出來ぬ事實である。陸上動物の化石の甚だ少いこと、特に人間・猿類の化石の極めて稀であることを考へれば、人間の進化の徑路を示すべき化石の完全に揃つて居ぬことは當然のことで、今まで發見になつた化石が一も進化論の豫期する所と矛盾せぬことだけでも、既にこの論の正しいといふ最も有力な證據と見倣さねばならぬ。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(五) 六 血淸試驗上の證據

 

     六 血淸試驗上の證據

 

 血液は無色透明な血漿と、その中に浮べる無數の血球とから成り立つたものであるが、人間或はその他の獸類から新鮮な血液を取つて、コップにでも入れて、暫時据ゑて置くと、直に膠の如くに凝固する。尚捨て置くとその表面に少し黃色を帶びた透明な水の如きものが滲み出るが、之が卽ち血淸である。初の赤い塊は漸々收縮し、血淸は漸々增して、終には血淸が赤塊を全く浸すやうになつてしまふ。

 さて人間の血液から取つた血淸を、兎などに注射するに、少量なれば兎は之に堪へる。二三日後に再び注射を行ひ、また二三目を經て注射を行ひ、六囘乃至十囘位も斯く注射をした後に、その兎を殺してその新鮮な血液から血淸を取ると、この血淸は普通の兎の血から取つた血淸とは大いに性質が違ふ。ここに述べた如くに特別に造つた血淸を便利のため人兎血淸と名づけるが、之を人間の血から取つた血淸の溶液に混ずると、忽ち劇しい沈澱が出來て濁る。普通の兎の血淸では、このやうなことは決してない。

 馬の血淸を數囘注射した兎の血から、馬兎血淸を取り、牛の血淸を數囘注射した兎から、牛兎血淸を造るといふやうにして、種々の動物の血淸を製し、また種々の動物の血液から單にその血淸を製し、これらの血淸を種々に相混じて、試驗して見ると、馬兎血淸は馬の血淸とでなければ沈澱を生ぜず、牛兎血淸は牛の血淸とでなければ沈澱を生ぜぬこと、全く人兎血淸は人の血淸と混じなければ沈澱を生ぜぬのと同樣である。卽ち甲の動物の血淸を乙の動物に數囘注射した後に、乙の動物から取つた血淸は、たゞ甲の動物種類の血淸と相合[やぶちゃん注:「あひがつ」。]しなければ沈澱を生ぜぬといふ性質を有するのである。

 馬兎血淸は馬以外の動物の血淸と合しては、少しも沈澱が出來ぬが、之には幾らかの例外がある。例へば驢馬の血淸と混ずれば、忽ち沈澱が出來る。驢馬兎血淸を馬の血淸と混じても同樣である。但し馬兎血淸と馬の血淸とを混じ、驢馬兎血淸と驢馬の血淸とを混じたときに比すれば、聊か沈澱の量が少い。豚兎血淸を野猪の血淸に混じても同じく沈澱が出來る。犬兎血淸を狼の血淸に混じてもその通りである。かやうに互に混じて著しい沈澱の出來る動物は、如何なるものかと見ると、孰れも極めて互に相類似し、その間には子[やぶちゃん注:別版や講談社学術文庫では「間(あひ)の子」。]の出來る位のものばかりで、少しでも緣の遠い動物になると、少しもかやうなことはない。

 以上は甚だ面白い現象故、特に之を研究した學者は既に幾人もあるが、その中の一人は動物の血淸を五百種も造り、猿類の血淸だけでも殆ど五十種ばかりも用意して、人兎血淸と混ぜた結果を調べたが、猿類以外の動物と混じては、少しも沈澱は出來ず、また猿類の中でも普通の猿類では或は單に極めて少量の沈澱が生ずるか、或は全く沈澱を生ぜぬが、人猿類の猩々などの血淸に混ずると忽ち著しい沈澱が出來る。この反應から考へて見ると、人間と猩々との類似の度は恰も馬と驢馬と、豚と野猪と、犬と狼と等が相類似する度と同じで、まだ實驗はないが、その間には確に間の子が出來得る位に相近いものである。語を換へれば、人間と猩々とが共同の先祖から相分かれたのは比較的餘程近い頃で、兩方の體質の間にまだ著しい相違が起るまでに至らぬのである。

 先年のドイツ國出版の人種學雜誌に、ストラオホといふ人の猩々兎血淸に關する研究の結果が載せてあつたが、やはり前と同樣である。或る動物園に飼ふてあつた牝の猩々が病死したので、直にその血液を取うて血淸を製し、之を數囘兎に注射して、後にその兎の血液から、猩々兎血淸を取り、種々の動物の血淸に混じて試驗して見た所が、その結果は人兎血淸と殆ど同樣で、人間の血淸に混ずると忽ち著しい沈澱が出來た。たゞ人兎血淸と違ふたのは、他の猿類の血淸に混じても、相應に沈澱が出來たとのことである。他の動物の血淸試驗の結果に照らせば、この事は人と猩々との極めて相近いものであることの證據で、人兎血淸を猩々の血淸に混じても、猩々兎血淸を人間の血淸に混ぜても、必ず沈澱が生じ、他の動物の血淸と混じては沈澱が出來ぬのは、卽ち全動物界中に猩々ほど人に緣の近いものはなく、また人ほど猩々に緣の近いものはないからである。今日の血淸試驗に關する知識を以ては、殆ど試驗管内の反應によつて動物種屬の親類緣の濃淡を目前に示すことが出來るというて宜しい。

[やぶちゃん注:ここに書かれた血清交差実験に始まる系統研究は現在、遺伝子やDNAレベルでの分子系統学によってより精密に分析が行われている。颯田葉子論文霊長類の系統関係と祖先集団の多型(同じ颯田氏のヒト・チンパンジー ・ゴリラの系統関係も有り)斎藤成也論文霊長類のゲノム解読と分子系統(孰れもPDF)等、幾つかの新知見の論文をネット上でも見ることが出来る。

「ストラオホ」不詳。]

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(四) 五 人は猿類に屬すること

 

     五 人は猿類に屬すること

 

 人間は獸類中の有胎盤類に屬することは前にも述べたが、胎盤の形にも種々あつて、人間・猿類などのは蓮の葉の如き圓盤狀であるが、牛・馬では胎盤は帶狀をなして胎兒を取り卷いて居る。また牛・馬の類では胎兒を包む膜と母の子官の壁との結び付き具合が簡單であるから、子官の内面の一部が胎盤の方へ著いて、一緒に出て來ることはない。さて人間は有胎盤類の中で、何の部に屬するかといふに、無論猿類である。猿類の特徴は、齒は門齒・犬齒・臼齒ともに具はつてあること、四肢ともに五本の指を有して、指の先端には扁平なる爪のあること、眼球のある處と顳顬筋[やぶちゃん注:「こめかみすぢ」。]のある處との間には、完全な骨の壁があつて、少しも連絡なきこと、眼は前面へ向ふこと、乳房は胸に一對よりないこと、胎盤の圓盤狀であることなどであるが、この中で人間に適せぬものは一もない。次に人間は猿類中の如何なる組に屬するかといふに、猿類には三つの亞目があつて、第一は左右の鼻の孔の間の距離が少く、上下兩顎ともに門齒が四本、犬齒が二本、臼齒が十本ある狹鼻類、第二は左右の鼻の孔が遠く相隔たつて各側面へ向いて居て、上下兩顎ともに門齒四本、犬齒二本と臼齒十二本とを有する扁鼻類、第三は四肢とも猫の如くに曲つた爪を具へた熊猿[やぶちゃん注:「くまさる」。]類であるが、人間は明に第一の狹鼻類に屬する。狹鼻類は猩々・日本猿を始め總べて東半球に産する猿類を含むもので、扁鼻類と熊猿類とは全く南アメリカの産ばかりであるが、その間には著しい相違がある。齒の形・數・列び方などは、獸類を分類する場合には最も大切なものであるが、人間はこの點に於て猩々・日本猿などと一致し、扁鼻類・熊猿類とは明に異なつて居るから、人間と猿類とを合せて置いて、之を分類するには先づ猩猩・日本猿・人間など一組として一亞目とし、他の亞目と區別せねばならぬ。またこの狹鼻類に屬する猿類と人間とだけを竝べて置いて、更に之を分類すれば、尾もなく、頰の囊もなく、尻胝(しりだこ)もない人猿類と、これらを有する尾長猿類[やぶちゃん注:オナガザル上科 Cercopithecoidea のオナガザル類。旧世界猿の主群。]との二部になるが、日本猿・尾長猿・狒々[やぶちゃん注:「ひひ」。霊長目直鼻猿亜目高等猿下目狭鼻小目オナガザル科オナガザル亜科ヒヒ属 Papio。]の如きは後者に屬し、猩々[やぶちゃん注:「しやうじやう(しょうじょう)」。霊長目ヒト科オランウータン属 Pongo。]・黑猩々[やぶちゃん注:「くろしやうじやう」。ヒト科チンパンジー属チンパンジーPan troglodytes]・人間などだけが前者の中に含まれることになる。されば生物學上から論ずれば、猩々と人間との相違は、猩々と日本猿または猩々との間の相違に比すれば遙に少く、日本猿と人間との間の相違は日本猿とアメリカ猿[やぶちゃん注:丘先生の言う南アメリカ産の「扁鼻類」「熊猿類」。後注参照。]との間の相違に比すれば、尚著しく少い。文明國の高等な人間と猩々と猿とを比べて見ると、ここに述べたことは眞でないやうな感じも起るが、身體の構造からいへば、全くこの通りで、若し最下等の野蠻人を人間の模範に取つたならば、この事は初めから疑も起らぬ。南洋の野蠻國に傳道に行つた宣教師の書いたものにも、文明人とそこの土人と猿とを竝べて分類する場合には、土人と猿とを一組とし、文明人を別に離さざるを得ぬなどと載せてあるが、かやうな野蠻人から最高の文明人までの間には、無數の階段があつて、何處にも判然たる境はないから、人間全體に就いて述べるときには、文明人のみを例に取ることは出來ぬ。

[やぶちゃん注:本章には実は「黑人と猩々」とキャプションした、左右二人の黒人の少年の間にオランウータンのいる絵が載るが、私にはこれは非常に厭な挿絵であり(講談社学術文庫にも載るが、今まで幾つもの挿絵を割愛してきた同書が、何故、これを入れたのか甚だ不審である)、ここは特異的に挿絵を載せないこととする。丘先生の意図は見た目の類似性を以って文明人を区別して認識する誤りを寧ろ示唆するものなのであろうが、これでは挿絵だけが独り歩きをして差別的印象を与えるからである)。その代り、底本の国立国会図書館デジタルコレクションのその挿絵のある当該ページの画像をリンクさせておくに留める。

「人間は猿類中の如何なる組に屬するかといふに、猿類には三つの亞目があつて、第一は左右の鼻の孔の間の距離が少く、上下兩顎ともに門齒が四本、犬齒が二本、臼齒が十本ある狹鼻類、第二は左右の鼻の孔が遠く相隔たつて各〻側面へ向いて居て、上下兩顎ともに門齒四本、犬齒二本と臼齒十二本とを有する扁鼻類、第三は四肢とも猫の如くに曲つた爪を具へた熊猿類である」現行ではヒトは、

真核生物ドメイン Eukaryota 動物界 Animalia真正後生動物亜界 Eumetazoa 新口動物上門 Deuterostomia 脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 四肢動物上綱 Tetrapoda 哺乳綱 Mammalia 真獣下綱 Eutheria 真主齧上目 Euarchontoglires 真主獣大目 Euarchonta 霊長目 Primate 直鼻猿亜目 Haplorrhini 狭鼻下目 Catarrhini ヒト上科 Hominoidea ヒト科 Hominidae ヒト亜科 Homininae ヒト族 Hominini ヒト亜族 Hominina ヒト属 Homo ヒト Homo sapiens Linnaeus, 1758

分類学上の位置である。丘先生は「猿類」を、狹鼻類・扁鼻類・熊猿類に分けておられるが、これらの内の「扁鼻類」「熊猿類」というのは、現在では全く使われていない分類系用語である。「扁鼻類」は現在の広鼻小目 Platyrrhini でよかろうが、「熊猿類」は困った。しかし、「四肢とも猫の如くに曲つた爪を具へた」とあるところから、これは現在の哺乳綱異節上目有毛目ナマケモノ亜目 Folivora ナマケモノ類のことではないだろうか? この時代、怠け者がサルの仲間と思われていた(思われてもやや納得は出来るし、実際にサルの仲間だと思っている人も優位にいるようだ)のだろうかという不審が起こるが、そうでもしないと、ここでの疑問を解消出来ないのである。なお、ウィキの「サルによれば、『以前は主に脳が小型で嗅覚が発達し鼻面の長いキツネザル類・ロリス類・メガネザル類を原猿亜目Prosimii、それ以外の主に脳が大型で視覚が発達し』、『鼻面の短い分類群を真猿亜目Anthropoideaとしてまとめていた』が、『研究の進展により、メガネザルがいわゆる原猿類の他のグループよりも真猿類により近いことが判明した。このことから、現在ではキツネザル類・ロリス類をまとめて「曲鼻猿類(曲鼻猿亜目、曲鼻類、曲鼻亜目)」、メガネザル類を含むその他の霊長類を「直鼻猿類(直鼻猿亜目、直鼻類、直鼻亜目)」と呼び、正式な分類体系では、「原猿類」という名称は用いなくなっている』とある。]

 

 生物界現象の一大歸納的結論である進化論を、人間に當て嵌めて演繹的に論ずれば、人間と猩々とが共同の先祖から二つに分かれたのは、人猿類が尾長猿類から分離したときよりは遙かに後のことで、人猿類と尾長猿類とが分かれたのは、狹鼻類が扁鼻類と相分かれたときよりは、また餘程後のことであると考へねばならぬ。この進化の往路を時の順序に從つていひ換へれば、昔獸類の總先祖が陸上に蔓延り、この子孫が漸々幾組にも分れ、その中の一組は四肢ともに物を握る性を得て森林等の中に住み、果實・小鳥などを食つて生活し、子孫が益緊殖して各地に擴がり、後[やぶちゃん注:「のち」。]交通の路が絶えたためにアメリカに住するものは扁鼻類・熊猿類、東半球に住するものは狹鼻類となつて、三亞目に分れ、東半球に住するものはまた住處・習性等の相違によつて、漸々人猿類と尾長猿類とに分れ、人猿類の先祖から降つた子孫の中、一部は森林の中に住し、前後の肢を以て枝を握つて運動し、終に猩々・黑握々の類として今日まで生存し、他の一部は平原の方へ出で、後足だけで直立して走り廻り、前足は運動には用ゐず、他の働きに用ゐ、前後の足の間に分業が行はれた結果、後足は益走行に適するやうになり、前足は益他の精密な仕事に適するやうになり、そのため經驗も增し、且前から多少あつた言語の基が盛に發達して、眞の言語となり、終に人間となつて、今日地球上到る處に棲息して居るのであらう。

[やぶちゃん注:「人間と猩々とが共同の先祖から二つに分かれたのは、人猿類が尾長猿類から分離したときよりは遙かに後のことで、人猿類と尾長猿類とが分かれたのは、狹鼻類が扁鼻類と相分かれたときよりは、また餘程後のことである」ヒト亜科とオランウータン亜科(「猩々」)の分岐は約千四百万年前と推定されており、狭鼻下目であるそのヒト上科がオナガザル上科から分岐したのは、二千八百万年から二千四百万年前頃、さらにその前段の霊長類真猿下目の狭鼻下目(旧世界ザル)と広鼻下目(新世界ザル)とが分岐したのは三千~四千万年前と言われている。また、ウィキの「ホモサピエンスによれば、『人類が共通の祖先を持つとする仮説は』一八七一年に『チャールズ・ダーウィンが著した』The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex(「人間の由来と性に関連した選択」)の『中で発表された。この説は』、『古い標本に基づいた自然人類学上の証拠と』、『近年のミトコンドリアDNAの研究の進展により』、一九八〇年代『以降に立証された。遺伝的な証拠や化石の証拠によると、非現生人類のホモ・サピエンスは』二十万年前から十万年前に『かけて』、『おもにアフリカで現生人類へ進化したのち』、六『万年前にアフリカを離れ』、『長い歳月を経て』、『世界各地へ広がり、先住のネアンデルタール人やホモ・エレクトスなどの初期人類集団との交代劇を繰り広げた』とある。]

 

 されば、現今生きて居る一種の猿が進化して人間になつたのでは無論ないが、人間と猿とが共同の先祖から分れ降つたといふことは、最早今日は學問上既に確定した事實と見倣して宜しい。而して猿類の中でも猩々・黑猩々などとは比較的近い頃になつて漸く分かれたことも確である。これらのことに就いては、解剖學・發生學・生理學上の證據の外に、尚後に述べるやうな爭はれぬ證據もあつて、如何に疑はうと思つても、理窟上からは到底疑ふことは出來ぬ。

[やぶちゃん注:ヒト族からチンパンジー亜族(「黑猩々」)とヒト亜族とが分岐したのは約七百万年前と推定されている。]

 

 人間は猿類の一種であつて、他の猿等と共同な先祖から降つたといふ考が初めて發表せられたときには、世聞から非常な攻擊を被つた。今日ではこの事は最早確定した事實であるが、尚之を疑つて攻擊する人々が決して少くない。倂しかやうに攻擊の劇しい理由を探ると、決して理會力から起るのではなく、皆感情に基づくやうである。獸類は自分と甚だ似たものであるに拘らず、特に畜生と名づけて常に之を卑み、他人に向つて、獸とか犬・猫とか畜生とかいふのは非常な惡口であると心得て居る所へ、人間は猿類と共同な先祖から降つたといひ聞かされたのであるから、自分の價値を甚だしく下げられた如くに感じ、折角、今まで萬物の靈であつたのを、急に畜生と同等な段まで引き落さうとは、實にけしからぬ説であるとの情[やぶちゃん注:「じやう」。]が基礎となつて、種々の方面から攻擊が起つたのに過ぎぬ。我が先祖は藤原の朝臣某であるとか、我が兄の妻は從何位侯爵某の落胤であるとかいうて、自慢したいのが普通の人情であることを思へば、先祖は獸類で、親類は猿であると聞いて、喜ばぬのも無理ではないが、善く考へて見るに、下等の獸類から起りながら、今日の文明開化の度までに進んだと思へば、尚この後も益進步すべき望があるから、極めて嬉しく感ずべき筈である。若し之に反して完全無缺の神とでもいふべきものから降つた人間が、新聞紙の三面記事に每目無限の材料を供給するやうになつたと考へたならば、この先何處まで墮落するか解らぬとの感じが起つて、甚だ心細くなるわけである。それ故、聊でも理窟を考へる人であれば、感情の點からいふても進化論を嫌ふべき理由は少しもない。

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(三) 四 人は獸類の一種であること

 

     四 人は獸類の一種であること

 

 前の節に述べた通り、人間といふものは、身體の構造・發生等を調べても、精神的動作の方面から論じても、犬・猫の如き普通の獸類と比較して根本的の相違は少しもない。知力・言語だけは著しく進んで居るが、之も單に程度の相違に過ぎぬ。されば犬・猫等を動物界に編入して置く以上は、人間だけを動物界以外に離す理由は少しもない。このことは改めていふまでもないことで、動物學の書物を開いて見れば、必ず人間も動物の一種と見倣して、その中に掲げてあるが、世間にはまだ人間だけを動物界以外の特別のものの如くに考へて居る人も、甚だ多いやうであるから、動物界の中で人間は如何なる部に屬するかを、少し詳細に述べて置く必要がある。

 動物界を大別して、先づ若干の門に分つことは前にもいうたが、その中[やぶちゃん注:「うち」。]脊椎動物門といふのは、身體の中軸に脊椎を具へた動物を總べて含むもので、獸類・鳥類・蛇・蛙から、魚類一切まで皆之に屬する。人間も解剖して見れば、犬・猫とも大同小異で、猿類とは極めて善く似て居るもの故、無論この門の中に編入せなければならぬ。動物界には人間の屬する脊椎動物門の外に、尚七個或は八個の門があるが、これらの門に屬する動物は、人間とは身體の構造が著しく違つて、部分の比較をすることも出來ぬ。昔は動物學者の中にも人間は最も完全な動物である。他の動物は總べて人間の性質をたゞ不完全に具へて居るなどと唱へた人もあつたが、之は素より誤で、生物進化の樹枝狀をなした系圖に照せば、動物の各門は皆幹の根基(ねもと)に近い處から分かれた大枝に當るもの故、門が異なれば進化の方向が全く違つて、決して優劣の比較の出來るものでない。脊椎動物である人間と軟體動物である章魚[やぶちゃん注:「たこ」。]とを比較するのは、恰も弓の名人と油畫の名人との優劣を論ずるやうなもので、雙方全く別な方面に發達して居るのであるから、甲乙の定めやうがない。動物界で人間と多少比較の出來るのは脊椎動物だけで、その他は極めて緣の遠いものばかりであるが、何十萬種もある動物の中で、脊椎動物は僅に三萬にも足らぬ位であるから、種類の數から言へば甚だ少數である。倂し大形の動物は概してこの中にあるから、通常人の知つて居るのは、多くは脊椎動物で、禽獸蟲魚といふ中の禽・獸・魚の全部と蟲の一部とは總べてこの門に屬する。されば今日動物學上知れてある何十萬種の中、大部分は人間とは關係の薄いもので、たゞ脊椎を有する動物だけが人間と同一な大枝から降り、尚その中の或る種類は特に人間と密接した位置を占めて居るわけである。

[やぶちゃん注:「動物界には人間の屬する脊椎動物門の外に、尚七個或は八個の門がある」現行では、ウィキの「動物等によれば、

海綿動物門(約7000種)

平板動物門(平板動物綱平板動物目平板動物科トリコプラックス Trichoplax 属センモウヒラムシ Trichoplax adhaerens 1種のみ。海産。一八八三年発見。12mm ほどのアメーバ状の細胞の塊りで、消化管もない)

刺胞動物門(約7620種)

有櫛動物門(約143種)

直泳動物門(25種:海産の寄生性多細胞動物。0.10.8mm程で円柱状)

二胚動物(菱形動物)門(約110種)

扁形動物門(約20000種)

顎口動物門(約100種:一九五六年発見。海・汽水産で砂中に棲息。体長0.23.5mmで円筒状)

輪形動物門(約3000種)

鉤頭(こうとう)動物門(約1100種:寄生性)

微顎動物門(微顎綱リムノグナシア目リムノグナシア科リムノグナシア属リムノグナシアLimnognathia maerski 1種のみ。一九九四年発見。湧水に棲息し、0.1mm程度。知られている最小の動物の一つ)

腹毛動物門(約450種)

外肛動物門(約4500種)

箒虫動物門(約20種)

腕足動物門(約350種)

紐形動物門(約1200種)

軟体動物門(約93,195種)

星口動物門(約320種)

環形動物門(約16,650種)

内肛動物門(約150種)

有輪動物門(3種以上:一九九五年発見。真有輪綱シンビオン目シンビオン科シンビオン属 Symbion。エビ類に付着寄生)

線形動物門(約15,000種)

類線形動物門(約320種)

動吻動物門(約150種)

胴甲動物門(約23種)

鰓曳動物門(約16種)

緩歩動物門(約800種)

有爪動物門(約160種)

節足動物門(約110万種)

毛顎動物門(約130種)

無腸動物門(約130種)

棘皮動物門(約7000種)

半索動物門(約90種)

脊索動物門(約51,416種)

以上で実に三十四門を数え、分子系統解析によってさらに修正・細分化される可能性が高い

「通常人の知つて居るのは、多くは脊椎動物で、禽獸蟲魚といふ中の禽・獸・魚の全部と蟲の一部とは總べてこの門に屬する」不審に思った方もいるであろうから、注しておくと。この「蟲の一部」の「蟲」は古典的博物学上での広義のそれであって、「昆虫」の意ではない。具体的には両生類・爬虫類、及び、丘先生ならば、脊索動物門 Chordata の原索動物亜門 Urochordata の、頭索動物亜門ナメクジウオ綱ナメクジウオBranchiostoma belcheri などと、尾索動物亜門ホヤ綱ホヤ綱 Ascidiacea のホヤ類なども含んで考えておられるものと思われる。

 

 脊椎動物を、哺乳類・鳥類・爬蟲類・兩棲類・魚類の五綱に別けるが、人間は溫血・胎生で皮膚に毛が生じてあるから、明にその中の哺乳類に屬する。また哺乳類を分けて胎盤の出來る高等の類と、胎盤の出來ない下等の類とにするが、人間はその中の有胎盤類に屬する。胎盤といふのは胎兒を包む膜と母の子宮の壁とが合して出來たもので、母の血液から胎兒の方へ酸素と滋養分とを送る道具であるが、人間の子が産まれた後に臍の緒の先に附いて出て來る蓮の葉の如き形のものが、卽ちこれである。人間と犬・猫との身體構造上極めて相似て居る點は前に述べたが、動物學上哺乳類の特徴と見倣す點で人間に缺けて居るものは一つもない。それ故、人間の哺乳類であることは確であつて、哺乳類である以上は犬・猫等の如き獸類と共同な先祖から分かれ降つたといふこともまた疑ふことは出來ぬ。

[やぶちゃん注:「脊椎動物を、哺乳類・鳥類・爬蟲類・兩棲類・魚類の五綱に別ける」現行、現生の脊椎動物は、

無顎動物亜門(無顎上綱頭甲綱ヤツメウナギ目 Petromyzontiformes のヤツメウナギ類と無顎上綱ヌタウナギ綱ヌタウナギ目ヌタウナギ科 Myxinidae のヌタウナギ類のみ)

魚類亜門

四足動物亜門

に分かれ、魚類亜門は、

軟骨魚綱

硬骨魚綱

に、四足動物亜門は、

両生綱

爬虫綱

哺乳綱

鳥綱

に分かれるから、都合、現在は八綱となる。]

 

 生物學の進んだ結果として、人間が獸類の一種であることを明に知るに至つた有樣は、天文學の進んだ結果として、地球が太陽系統に屬する一の惑星であることを知るに至つたのと極めて善く似て居る。天文學の進まぬ間は、僅に十萬里[やぶちゃん注:三十九万二千七百二十六メートル。地球と月との距離は三十八万四千四百キロメートル。]と隔たらぬ月も、三千七百萬里[やぶちゃん注:一億四千五百三十万八千六百二十キロメートル。地球と太陽との距離は一億四千九百六十万キロメートル。]の距離にある太陽も、また太陽に比して何干萬倍もの距離にある星でも、總べて一所に合せて、その在る處を天と名づけ、之を地と對立せしめ、我が住む地球の動くことは知らずに、日月星辰が廻轉するものと心得て居たが、段々天文學が開けて來るに隨ひ、月は地球の周圍を廻り、地球はまた他の惑星とともに太陽の周圍を廻つて居るもので、天に見える無數の星は、殆ど皆太陽と同じやうな性質のものであることが解り、宇宙に於ける地球の位置が多少明に知れるに至つた。地動説が初めて出た頃には、耶蘇教徒の騷ぎは大變なことで、何とかしてかやうな異端の説の弘まらぬやうにと、出來るだけの手段を盡して、そのため人を殺したことも何人か算へられぬ。倂し眞理を永久壓伏することは到底出來ず、今日では小學校に通ふ子供でも、地球が太陽の周圍を廻ることを知るやうになつた。

[やぶちゃん注:コペルニクスが地動説を唱えたのは一五四三年(本格的に地動説の着想を得たのは一五〇八年から一五一〇年頃と推定されており、一五二九年頃から論考を纏め始めている。但し、その時点では発表する意思はなかったとウィキの「ニコラウス・コペルニクスにはある)、天動説では周転円により説明され、ガリレオに対する異端審問は一六一六年と一六三〇年、ローマ教皇庁並びにカトリックが正式に天動説を放棄して地動説を承認したのは一九九二年。

 自然界に於ける人間の位置に關しても、丁度その通りで、初めは人間を以て一種靈妙な特別のものと考へ、天と地と人とを對等の如くに心得て、之を三才と名づけ、殆ど何の構造もない下等の生物も、人間同樣の構造を具へた猿や猩々も總べて一括して之を地に屬せしめた有樣は、光線が地球まで達するのに一秒半もかゝらぬ月も、八分餘で屆く太陽でも、または何年も何十年もかかる程の距離にある星も、同等に思ふたのと少しも違はぬ。而して生物學の進むに隨つて、先づ人間を動物界に入れて、獸類中の特別な一目と見倣し、次には猿類と同目に編入し、更に進んで人間と東半球の猿類とのみを以て猿類の中に狹鼻類と名づける一亞目を設け、人間は比較的近い頃に猿類の先祖から分かれ降つたものであることを知るに至つて、初めて、自然に於ける人類の位置が明に解つた具合は、また地動説によつて地球の位置が明になつたのと少しも違はぬ。

 凡そ一個の新しい眞理が發見せられる每に、そのため不利益を蒙る位置にある人々が、極力反對するのは當然であるが、たとひ私[やぶちゃん注:「わたくし」。]の心が無くとも、舊い思想に慣れた人は、惰性の結果で之に反對することも多い。ダーウィンが「種の起源」を公にした頃には、宗教家は素より、生物學者の一部からも劇しい攻擊を受けたが、人も猿も犬・猫も共同の先祖から降つたといふ考は、地球の動く動かぬの議論と違ひ、人間に取つて直接の關係のあることで、人類に關する舊思想を基とした學問は、過半はそのため根抵から改めざるを得ぬことになるから、攻擊者の數は頗る多かつた。且進化論は純粹な生物學上の問題で、その根據とする事實は總べて生物學上のもの故、この學の素養のない人には、到底十分に理會も出來ぬため、生物學者間には學問上最早確定した事實と見倣されて居る今日に於ても、進化論はまだ廣く一般に知られるまでには至らぬが、その眞理であることは、地動説と少しも違はぬ故、人智の進むに隨ひ、漸々誰も之を認めるに至るべきことは、今から豫言して置いても間違はない。ガリレイローマ法王の法廷に呼び出され、地動説を取り消しながら、低聲[やぶちゃん注:「ひきごゑ」。]で「それでも動く」というたのが、コベルニクスが天體の運動に就いての論文を公にしてから九十年目であることを思へば、今日既に進化論が學者間だけにでも認められるに至つたのは、甚だ進步が早かつたといふべきであらう。

[やぶちゃん注:「コベルニクスが天體の運動に就いての論文を公にしてから九十年目」ガリレオの二回目の異端審問から溯ること、八十七年前となる。但し、ウィキの「ガリレオガリレイによれば、『有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた』。『その後につぶやいたとされる “E pur si muove”(それでも地球は動く)という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である』とある。]

諸國里人談卷之五 伯藏主

 

   ○伯藏主(はくざうす)

 

江戶小石川傳通院(でんつういん[やぶちゃん注:「いん」はママ。])正譽(しよふよ[やぶちゃん注:ママ。])覺山(かくさん)上人、京都より下向の節、道づれの僧あり。名を伯藏と云〔いへ〕り。則(すなはち)、傳通院の會下(ゑげ)に属(しよく)して學文す。每度の法問に、前日より、その語(ご)を知りて、一度も、おくれをとらず。「いかさま、たゞものにあらず」と、衆僧、希有におもひける。一日(あるひ)、熟睡し、狐の性(しやう)をあらはせり。是を恥(はぢ)てや、それより逐天(ちくてん)してげるが、猶、當山の内にあつて、夜每に所化寮(しよけれう)に徘徊し、外面(そとも)より、法を論じける也。此伯藏の著述の書物、一櫃(ひとひつ)ばかり今にありとぞ。その頃は、人にも貸し、寫させなどしけるが、今見れば、誠の文字にあらずと也。寶永のころまで存命なりし也。今、「伯藏主稻荷」と稱して鎭守とす。元來、此狐は下總國飯沼にありしと也。弘敎寺にも、これにおなじき事ありと云〔いふ〕。

○開山上人、蛙(かはづ)の聲は額文の妨(さまたげ)なり、と封ぜられたり。一山(いつさん)の蛙、今、以て、鳴(なか)ず。

[やぶちゃん注:「伯藏主」狂言「釣狐」の素材となったことで知られる、大阪府堺市堺区にある臨済宗萬年山少林寺の「白蔵主(はくぞうす)」(「伯」とも表記する)の変形異伝であろうが(同妖狐伝承はウィキの「白蔵主を参照されたい。なお、「蔵主」は狭義には禅寺に於いて経蔵を管理する僧職で、因みに「白」は妖狐「白」狐を、「伯」は白蔵主伝承の中で登場人物の「伯」父である僧に白狐が化けることを臭わせるものであろう)、調べてみると、東京都文京区小石川にある浄土宗無量山傳通院(でんづういん:現行では一般に「でんづういん」と読むが、清音で「つう」とも読む。本書は濁音を落とし易い傾向にあるから、沾涼も「づう」と読んでいたかも知れぬ)寿経寺には、まさにこの通りの狐が僧に化けて学んだという「澤蔵司(たくぞうす)」伝承があることが判った(蔵司は蔵主の居室或いは蔵主と同義。この呼称は禅宗以外でも転用された)。但し、「はく」「たく」の音の類似性からも同根異伝であることは間違いない。ウィキの「澤蔵司」によれば、天保四(一八三三)年(後で問題にする)、『江戸にある伝通院の覚山上人が京都から帰る途上、澤蔵司という若い僧と道連れになった。若い僧は自分の連れが伝通院の覚山上人だと知ると、学寮で学びたいと申し出てきた。若い僧の所作からその才を見抜いた覚山上人は入寮を許可し、かくして澤蔵司は学寮で学ぶことになった』。『澤蔵司は入寮すると』、『非凡な才能をあらわし、皆の関心を寄せた。が、あるとき』、『寝ている澤蔵司に狐の尾が出ているのを同僚の僧に見つかってしまい、上人に自分に短い間ではあったが、仏道を学ばせてもらったことを感謝し、学寮を去った』。『その後一年ほどは、近隣の森に住み、夜ごと』、『戸外で仏法を論じていたという』。『澤蔵司は僧であった頃』、『蕎麦を好んで食べていた。澤蔵司がひいきにしていた蕎麦屋では、澤蔵司が現れた日、銭に必ず木の葉が混じるので怪しみ、ある晩』、『店の男は蕎麦を買った澤蔵司をつけて行くと、森の中に蕎麦を包んだ皮が散らばっていたという。また、この出来事から』、『店の男が澤蔵司は狐だと感づき、それが原因で澤蔵司は上人に自分が狐であることを打ち明けたと言う説もある』。『現在でも澤蔵司がひいきにしていた蕎麦屋(稲荷蕎麦萬盛)は残っている』。『澤蔵司が人間に化ける能力を得たのは、太田道灌が千代田城を開く際に掘り出した十一面観音像を手に入れ、それを拝んだためだと言う説もある』とある。まず、現行の位置であるが、現在、傳通院の東に慈眼院(じげんいん)という浄土宗の寺があり、その境内に澤蔵司稲荷がある(ここ(グーグル・マップ・データ)同慈眼院の「澤蔵司稲荷」には公式サイトがあり、慈眼院本堂には澤蔵司尊像が安置されており、境内には霊窟「お穴」まである「境内」でオンライン参拝可能)。その「沿革」によれば、元和六(一六二〇)年、『傳通院中興廓山上人により』、『傳通院山内慈眼院を別当寺としてその境内に祀られた』。『小石川無量山傳通院は中興正譽廓山上人の時、徳川家康公の帰依が篤く、家康公の生母於大の方の追善の為に墓所を建立し菩提寺と定め』、『於大の方のお戒名が傳通院殿』であったことから、『傳通院寿経寺と呼ばれてい』る。傳通院は『関東十八檀林(今で言う全寮制仏教専門学校のような組織)の一つとして浄土宗の教学の根本道場と定められ、境内には多くの坊舎(修学僧の宿舎)が有り多くの修行僧が浄土教の勉学をして』いた。『縁起によると』、元和四戌午(つちのえうま)年(一六一八年)四月のこと、学寮主であった『極山和尚の門を澤蔵司と名乗る一僧が浄土教の修学したいと訪ね』、入門したが、彼は『才識絶倫優秀にして僅か』三『年余りで浄土教の奥義を修得し』、元和六庚申(かのえさる)年五月七日の『夜、方丈廓山和尚と学寮長極山和尚の夢枕に立ち』、『「そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが浄土の法味を受け多年の大望ここに達せり』。『今より元の神に帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし。」』と言い残し、『暁の雲に隠れたと記されてい』るとある(下線太字やぶちゃん。以下同じ。同ページの「文京区教育委員会」の解説板の写真も参照されたい)。『その為、この慈眼院が別当寺となり』、元和六(一六二〇)年、『澤蔵司稲荷が建立され』、『現在に至って』おり、『開創以来、傳通院ならびに地元の鎮守のみならず』、『江戸時代から板橋、練馬方面の農業を営む方々、日本橋、神田方面の商家の方々のご信仰が篤く現在に至っております』と記してある。これを読むと、この寺は傳通院の附属寺院のように思われるであろうが、しかし、「傳通院」公式サイトその他を調べる限りでは、この寺を境内地としておらず、記載も全くない。されば、現在、この慈眼院は傳通院からは独立した寺として存在しているようである。

 なお、同ページでは『稲荷蕎麦「萬盛」の由来』(店名は「まんせい」と読む)として、『澤蔵司が傳通院で修行中、傳通院の門前に蕎麦を商う店が有り、よく蕎麦を食べに行っていたと記されて』おり、『主人も亦』、『よく』、『その徳を慕いて常に供養していたとされ、澤蔵司稲荷尊として祀られてから社前に蕎麦を献じていたと記されてい』る。『江戸中期、後期の縁起、略縁起にも』、『まだ蕎麦の奉納が続いていると記され、明治や昭和初期の記録にも奉納が続いていると書かれて』いるとし、『現在でも』、『その日の初茹で(初釜)のお蕎麦が朱塗りの箱に収められ奉納されており』、『縁起、記録からも判りますが、開創』以来、三百八十有余年、『連綿とお蕎麦の奉納が続いていると言う事にただただ驚きと共に』、『代々続く店主の御信仰、澤蔵司稲荷尊の御利益を拝するのみです』と結んであり、『傳通院前交差点、向かい側の茶色のマンション、コンビニの隣りに「稲荷蕎麦萬盛」は』あるとして、リンクも添えられてある。

 さて、まず、ウィキの記載の時制である天保四(一八三三)年には全く従えない。何故なら、本「諸國里人談」は、その九十年も前の寛保三(一七四三)年の刊行だからである。しかし、「澤蔵司稲荷」公式サイトの元和四(一六一八)年四月の澤蔵司の入寮ならば、本書刊行の百二十五年前となり、全く問題ない(伝承形成には十分な時間である)

「正譽覺山上人」これが胡散臭い。当時の傳通院の上人は「傳通院」公式サイト歴代上人」のリストによれば、第十世涼蓮社(りょうれんじゃ)信誉厳宿(前の第九世源蓮社真誉相閑は天和三(一六八三)年に遷化している。信誉厳宿は貞享四(一六八七)年遷化)で違う。寧ろ、この「覺山(かくざん)」というのは、先に引いた慈眼院の縁起に現われる方丈の廓山(かくざん)と学寮長の極山(ごくざん)との関連の方を強く感じさせる

「會下(ゑげ)」会座(えざ:法会・講説などで参会者が集う場)に集まる門下の意で、特に禅宗や浄土宗などで師の僧の下で修行する所やその集まりを指す語。

「屬(しよく)」所属。

「學文」学問。

「每度の法問に、前日よりその語(ご)を知りて」師が法問で採り挙げて、その意を学僧らに問うところの仏語を、何故か、前日に既に知り得て、しっかりとそれについて経典類を渉猟した上で、法莚に出るのである。「一度も、おくれをとら」ぬは当たり前である。ここにして、摩訶不思議な予知能力を発揮している訳である。

「熟睡し、狐の性(しやう)をあらはせり」ウィキにある通り、尻尾を出してしまったのであろう。

「逐天(ちくてん)」逐電。

「所化寮(しよけれう)」学寮。「所化」は教え導かれて仏法によって救済されるべき衆生や悟りを得る資格を持った者を指す。俗に、一人前でない修行僧をも指す。対語は「能化 (のうけ) 」で、これは学寮の学長である僧をも指す語である。

「誠の文字にあらず」所謂、異界の存在が用いる不可思議な文字で書かれていたということである。しかし、以前には「貸し」出し、それを「寫し」たりした学僧もいたというとなのであるから、嘗てはちゃんと読める普通の文字だったに違いない。時を経て、呪力が消え、文字も妖狐の使う奇怪な文字に変じたということなのであろう。

「寶永」一七〇四年から一七一一年まで。本書刊行の三十余年ほど前。直近の時制で、まさに都市伝説(アーバン・レジェンド)としての体裁を備えている。「つい、こないだまでその狐の僧は生きてたんでごぜえやすぜ! あのでんづ院で!」。

「伯藏主稻荷」既に見た通り、「澤蔵司稻荷」が正しい。

「下總國飯沼」歴史的仮名遣「しもふさのくにいひぬま」。現在の千葉県市原市飯沼(いいぬま:(グーグル・マップ・データ))であるが、私は「下總國」は「下野國」の誤記であろうと思う。次注参照

「弘敎寺にも、これにおなじき事あり」私の譚海 卷之一 下野飯沼弘教寺狸宗因が事を見られたいが、これは、恐らく、現在の茨城県常総の北西部の豊岡町にある浄土宗寿亀山天樹院弘経寺(ぐきょうじ)の誤りと思う((グーグル・マップ・データ))。但し、こちらは狐の化けたのではなく、狸の化けた僧の話で、「宗固狸(そうこたぬき)」の名で知られる。

「開山上人」これは傳通院のことであろうから、浄土宗第七祖聖冏(しょうげい 興国二/暦応四(一三四一)年~応永二七(一四二〇)年)で、号は酉蓮社(ゆうれんじゃ)了誉。ウィキの「聖冏によれば、『常陸国・椎尾氏の出身。同国瓜連常福寺の了実について出家し、同国太田法然寺の蓮勝に師事した。浄土教を中心に天台・密教・禅・倶舎・唯識など広く仏教を修めた。宗徒養成のために伝法の儀式を整備し、五重相伝の法を定めた。神道・儒学・和歌にも精通し』、「古今集序註」「麗気記拾遺抄」を著してもいる。『門弟に聖聡・了知などがおり、第』八『祖となった聖聡とともに、浄土宗鎮西義を教学面から興隆した人物として評価される。また、江戸小石川伝通院を開創したことでも知られる』とある。]

2018/07/28

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(二) 二 人體の生活現象 / 三 精神及び言語

 

     二 人體の生活現象

 

 生れるから死ぬるまでの生活現象を見ても、人間と犬・猫との間には、根本的に違つた點は一つもない。生まれると直に母の乳を飮んで生長し、日々空氣を呼吸し、食物を食ふて生活すること、老年になれば弱つて死んでしまふことなどは、人間でも犬・猫でも、全く同じである。なお詳に調べて呼吸の作用、消化の作用等を比較して見れば、益相似る度が著しくなる。同一の構造を有する器官を以て、同一の作用を行ふて居るのであるから、外界に對する關係は人間も犬・猫も略同樣で、空氣が稀薄になれば、人も犬・猫も共に窒

息し、水中に落ちれば、人も犬・猫も一所に溺れてしまふ。その他、身體に水分が不足すれば渇を覺え、滋養分が不足すれば饑を感じて、水と食物とを得なければ辛抱の出來ぬこと、一定の時期に達すれば、情欲が起つて寢ても起きても忘れられぬことなども、人と犬・猫との間に少しも相違はない。

 生理學は通常醫學の豫備學科としてある故、生理學の目的は、主として人間の生活現象を詳にすることであるが、今日生理學者の研究の材料には、人間よりは猫・兎等の如き獸類の方が遙に多く用ゐられて居る。特に筋肉・神經等の研究には、蛙を用ゐるのが常である。蛙の大腦で試驗したこと、鳩の小腦で研究したことなどを、そのまゝ人間に應用して差支のない所を見れば、人間も、これらの動物も、生活作用の大體に於ては全く相等しいものと見倣さねばならぬ。試に人體生理學と題する書物を開いて見るに、その中に直接に人體に就いて行ふた研究の掲げてあることは、甚だ少く、脈の搏ちやうとか小便の分析とかまたは皮膚の感覺とかいふ位な、身體に傷を附けずに出來る事項ばかりで、その他は總べて犬・猫・兎・モルモットなどに就いて行ふた實驗に基づくことであるが、かやうな生理學書が常に醫學校で用ゐられ、十分に役に立つて居ることは、人間と犬・猫等との間に、生活現象上何の相違の點もない確な證據である。

 また病理學・黴菌學・藥物學等でも、常に犬・猫の如き獸類を用ゐて研究して居るが、その目的とする所は、素より藥物・黴菌等の人間に對する功力を確めるにあるから、若し人間と犬・猫との體質に根本的の相違があるものならば、總べて無益な筈である。然るに實際に於てはかやうな獸類に就いて行つた研究の結果を人間に應用すれば、皆立派に功を奏して、近來はそのため種々の病氣を豫防的に治療することが出來るやうになつたことなどは、確に人間と犬・猫とは體質に於ても決して著しい相違がないといふ證據である。鼠捕り藥を誤つて飮んだために人が死んだこと、人を殺すために盛つた毒藥を犬に食はせたれば、犬が直に死んだといふことなどは、誰も屢聞くことであるが、特に可笑(をか)かしいのは獸類に對する酒精の働である。或る人が猿に酒を飮ませた所が、醉の廻るに隨うて陽氣に浮かれ出した具合から、步行が不確になつて、左右へよろつき、終に倒れて寢てしまつて、翌日は兩手で頭を抑へて頭痛を怺(こら)へて居る所まで、少しも人間と違ふことはなかつた。たゞ違ふのは、この猿はその後如何にしても決して酒を飮まなかつたといふことである。

 

     三 精神及び言語

 

 人間の身體が、犬・猫の如き獸の身體と甚だ似て居ることは、誰の目にも明なこと故、昔から人間と他の獸類との異なる點をいひ表さうと勉めた學者等は、皆據[やぶちゃん注:「よんどころ」。]なく精神的の方面に之を求めた。デカルトなども人間には精神といふものがあるが、他の動物は皆精神のない自働器械に過ぎぬというて居る。またカントの如き

も、或る著書の中に精神を有するのは人間ばかりであると説いた。その後の教育學の書物には「精神といふものは人間に固有なものである。それ故教育の出來るのも人間ばかりに限る」といふやうなことが屢書いてあるが、之は今日の生物學上の知識を以て見れば、確に大間違である。身體に結び付いた精神的作用は誰も常に見て知つて居るが、身體を離れて別に精神といふものが存在するか否かは、我々の經驗し得る事實からは孰れとも斷言の出來ぬことで、有るといふ證據もないが、またないといふ證據も科學的には擧げられぬ。倂し獸類の動作を詳に研究して、之を人間の動作と比較して見ると、孰れの點を捕[やぶちゃん注:ママ。]へても、たゞ程度の相違があるだけで、彼に有つて此にないといふやうな根本的の差を見出すことは決して出來ぬから、若し人間に精神があるならば、他の獸類にも無ければならず、若し他の獸類に精神がないならば、特に人間のみにその存在を認めるといふわけはない。これらの問題に就いては、昔から何千册書物が出來たか知れぬ位で、今日と雖も、尚盛に議論のあること故、こゝに十分に述べることは、素より出來ず、また動物の精神的動作も詳しく書けば極めて面白いことが夥しくあるが、そればかりでも、非常に大きな書物になる位故、次にはたゞ人間の精神的動作の孰れの部を取つても、必ず動物界にそれと同樣なことがあるを示すために、若干の例を選んで掲げるだけに止める。

 精神的作用といへば主として知・情・意であるが、先づ情の方面から檢するに、凡そ愛情の中で夫婦・親子の間ほど切なるものはない。動物の中には犬・猫等の如く少しも夫婦の定まりがなく、隨うて雌雄の間の情が常には極めて冷淡なものもあるが、また一方には生涯夫婦同棲してその間の愛情の甚だ濃(こまや)かなものがある。「カナリヤ」・文鳥のやうな小鳥でも、雌が卵を溫めて居る間は雄が餌を運んで遣つて、實に仲のよいものであるが、鴛鴦[やぶちゃん注:「をしどり(おしどり)」と読んでおく。]の如きはこの點で有名なもので、その他動物園に飼ふてある鳥類の雄が死んだ後に、雌が悲みに堪えず、終に死んでしまふた例も澤山にある。南洋に産する戀愛鳥と名づける鸚哥(いんこ)の一種の如きは、雌雄常に押し合ふ程に密接して、一刻も離れることはない。獸類は概して暫時一夫一婦のもの、または常に一夫多妻のものであるが、一夫一婦の場合には子を養ふ世話は雌のみが引き受け、一夫多妻の場合には雄は常に雌を保護し、他の雄が近づくやうなことでもあれば、劇しく鬪つて之を逐ひ退ける。その代り雌が他の雄を近づけたりすれば、決して承知せず、嚴しく之を罰する。猿の如きは卽ちこの類である。斯くの如く、動物の中には雌雄の關係も樣々で、その間の愛情にも種々の階級があるが、さて人間の方は如何と見るに、やはりその通りで、鴛鴦に劣らぬ程の夫婦も稀にはある代りに、また犬・猫同樣に少しも夫婦の定めのない社會もある。文明國で賣淫婦の澤山に居らぬ處は何處にもないが、彼等と客との關係は犬・猫の場合と異なつた點はない。また一夫一婦は人倫の基というては居るが、現に一夫多妻の公に行はれて居る所が多く、耶蘇教國の西洋でも、生涯眞に一夫一婦で暮す男は甚だ少數なやうである。されば雌雄の關係は人間も他の獸類も少しも相違はないのみならず、その愛情に至つても人間を第一等と見倣すことは出來ぬ。

[やぶちゃん注:「カナリヤ」スズメ目アトリ科カナリア属カナリア Serinus canaria

「文鳥」スズメ目スズメ亜目カエデチョウ科 Padda 属ブンチョウ Padda oryzivora

「鴛鴦」カモ目カモ科オシドリ属オシドリ Aix galericulata

「南洋に産する戀愛鳥と名づける鸚哥(いんこ)の一種」社会性に富み、仲間と非常に強固な絆を結ぶことで知られる、オウム目インコ科インコ亜科 Psittaculini Agapornis属のラブバード類(英語:Lovebird。学名はギリシャ語の「愛」を表わす“Agape”と「鳥」を表わす“Ornis”の合成語)。以下の九種がいる。コザクラインコ Agapornis roseicollis・キエリボタンインコ Agapornis personata・ルリゴシボタンインコ Agapornis fischeri・ボタンインコ Agapornis lilianae・クロボタンインコ Agapornis nigrigenis・カルカヤインコ Agapornis canus・ハツハナインコ Agapornis taranta・コハナインコ Agapornis pullarius・ワカクサインコ Agapornis swindernianus。以上はウィキの「ラブバード」に拠った。]

 

 親が子を愛する情もその通りで、昔から「燒野の雉子(きゞす)、夜の鶴」と諺にもいふ如く、甚だしく子を愛する動物は澤山にある。その中でも獸類の如きは特別で、子を擊たれた親猿の悲みを見かねて、最早一生涯猿は擊つまいと決心した獵師もあるが、鯨のやうな大きな獸でも、捕鯨家の話によれば、子さへ先に殺せば、母親は容易に捕へることが出來るといふ。尚その外に例を擧げると限りはない。尤も蟲類や魚類には卵を生むだけで、後は少しも構はぬものも多いが、一方には子のためには自分の命も惜まぬ程のものもあつて、その間に無數の階級があるから、動物全體を總括しては、孰れともいふことは出來ぬ。人間が子を愛する眞情は、素より極めて深いものには相違ないが、以上の如き例が澤山にある以上は、人間だけが特に優れて子を愛すると斷言するわけには行かぬ。僅二三圓の金で子供を支那人に賣つた者が多勢あることや、娘を娼妓に賣らうとしても承諾せぬから、之を打つたとて警察に引かれた父親のことなどが、絶えず新聞に出るのを見ると、人間の中にも獸類の平均ほどには子の愛情のないものがあるから、この點に就いては、人間と他の獸とを特に區別すべき理由はない。

[やぶちゃん注:「燒野の雉子(きゞす)、夜の鶴」棲んでいる野を焼かれたキジが自分の命にかえてもその子を救おうとし、また、寒い夜に鶴が自分の羽でその子を暖めるところから、「親が子を思う情の深いこと」の譬え。]

 

 愛情に伴うものは嫉妬であるが、之も獸類などには著しい。犬を養つた人は誰も知ることであるが、主人が一疋だけを特に愛すると、他の犬が嫉妬を起すことは常である。特に猿類ではこの念が甚しく、或る船中で一疋の小猿が衆人に愛せられるのを見て、稍大きな猿の方が嫉妬を起し、小猿を海に投げ込んだ話もある。また復讎の念も盛で、或る時インドの動物園に一疋の狒々[やぶちゃん注:「ひひ」。]が飼ふてあつたのを、の士官が常に苦しめたが、或る日、向からその士官の來るのを見て、狒々は急に地面に小便をし、泥をこねて待ち構へ、丁度前に來たときに打ち付けて、その立派な軍服を泥だらけにした話もある。かやうな例は澤山にあるが、その爲すことから考へて見ると、人間と同じ根性を持つて居ることは明に解る。

 尚その他喜・怒・哀・樂の情、死を恐れる情の如きも、人間と他の獸類との間に少しも相違はない。犬・猫の喜び怒ること、また如何なるときに喜ぶか怒るかといふことも誰も知つて居るから、こゝには略するが、動物園に飼ふてあるやうな種々の獸類でも、これらの點は明にその通りで、世話人が深切にすれば喜び、苦しめれば怒る。猿が仲間の死體の周圍に集まつて悲む情でも、犬・猫の兒が戲れ樂む具合なども、人間に見る所と違はぬ。蟻の習性を詳しく調べた人の書いたものに、蟻も時々互に逐ひ廻し合うたりして、恰も人間の子供や犬の兒の如くに戲れることが載せてあるが、丁寧に觀察すれば、稍高等な動物には總べて人間と同樣な情が具はつて居る。

 動物に意の働のあることも明で、犬・猫などにも、一且爲そうと思つたことは、如何なる障害があつても、之を爲し遂げねば承知せぬやうな性質が見える。往來で如何に馬方が鞭で打つても、少しも動かずに馬が立ち止まつて居るのを見掛けることが屢あるが、之もその一例である。而してその情の度が大抵の人間より上に位するものも少くはない。

 好奇心も動物にはある。ダーウィンは或る時ロンドンの動物園に行つて、小さな蛇を一疋紙袋の中に入れて、猿の籠の隅に突き込んで見た所が、忽ちその中の一疋の猿が來て、袋の口を開いて中を覗き、急に叫んで逃げ去つた。猿は生來極めて蛇を恐れるもので、玩弄物の蛇を見せても大騷ぎをする位であるのに拘らず、所謂「恐いもの見たさ」の情に堪え切れず、暫くすると再び來て袋の口を覗いたが、この度は同じ籠の中の他の猿等も皆集まつて來て、恐る恐る熱心に袋の口を覗こうとした。巡査交番所で車夫の叱られて居る周圍に、何の關係もない人等が黑山の如くに集まつて見て居るのも、猿が蛇の袋の周圍に集まつたのも、好奇心の度に至つては、敢えて甲乙はないやうである。

 記憶力の存することも、また一旦忘れたことを思ひ出す順序なども、鳥獸と人間とでは全く同一である。犬・猫・牛・馬に記億力のあることはいふまでもないが、一旦忘れたことでも、思想の聯合によりその緒を捉へれば忽ち全體を思ひ出す具合は、實驗によつて明に證することが出來る。鸚鵡[やぶちゃん注:「おうむ」。]などに歌を教えてあつた場合に、第二句以下を忘れると、鸚鵡は第一句の次に種々の句を繋ぎ試みながら、何囘も繰り返し、適當な句を思い出せば、その先は自然に出る。また鸚鵡が第一句のみを繰り返して第二句を思ひ出そうと考へて居る所へ、側から第二句の最初の一音だけを知らせて遣れば、忽ち全部を思ひ出して、得意になつて之を歌う。これらも人間が物を思ひ出す有樣と少しも違はぬ。

 推理の力に至つては、人間と他の獸類との間に甚だしい相違がある。倂しながら、之も單に程度の問題で、獸類にも多少の推理力のあることは、確であるから、人間はたゞその同じ力が非常に進んで居るといふに過ぎぬ。或る時ロンドンの動物園に飼つてあつた一疋の猿は、猫の子を頻に愛して、常に側に置いて居たが、一度劇しく引つ搔かれた後は猫の足の先を檢査し、齒で爪を嚙み取つて相變らず抱いて居た。この類の例は他にも尚澤山にあるが、獸類の中にも、犬・象・猿などの如くに、この力の多少進んだものもあれば、また極めて痴鈍なものもある如く、人間の方でも、椎理の力の發達の度は實に甚だしい相違があつて、最下等の野蠻人とチンダルスベンサーのやうな學者とを比べると、その間の差は、野蠻人と猩々との相違よりは甚だしいかも知れぬ。數を算へることは、總べての精確な知識の根據となるものであるが、或る動物園に數年飼つてあつた黑猩々[やぶちゃん注:「チンパンジー」の異名。]の牝は、殆ど十位までの數を覺えて區別するやうになつた。之に反してオーストラリヤ邊の野蠻人には三或は四までより知らず、その以上はたゞ澤山といふだけで、少しも勘定する力のない部落もある。これらを比べると、なかなか人間は知力に於て遙に獸類以上であるとばかりはいはれぬ。

[やぶちゃん注:「チンダル」アイルランド出身の物理学者で、登山家としても知られたジョン・ティンダル(John Tyndall 一八二〇年~一八九三年)のことであろうか。チンダル現象(多数の微粒子が不規則に散在している気体や液体に、光を当てた際、透過光と異なる方向からそれを眺めた時、微粒子による散乱のために、その光の通路が明るく濁って見える現象)の発見者として名が知られるその他にも「赤外線放射(温室効果)」・「反磁性体」(磁場をかけた際、物質が磁場の逆向きに磁化され、磁場とその勾配の積に比例する力が、磁石に反発する方向に生ずる磁性のこと。反磁性体自体は自発磁化を持たず、磁場をかけた場合にのみ、反磁性性質が出現する)に関して突出した業績を残している。登山家としてはアルプス山脈五番目の最高峰ヴァイスホルンの初登頂に成功し(一八六一年)、また、マッターホルンの初登頂を競い、一八六二年には山頂から二百三十メートル下の肩にまで達し(但し、初登頂は一八六五年のエドワード・ウィンパーであった)、一八六八年にはマッターホルンの初縦走に成功している。なお、登山の元々の目的は物理学者としてアルプスの氷河を研究することにあった(以上はウィキの「ジョン・ティンダル」に拠る)。

「オーストラリヤ邊の野蠻人」この謂い方自体が極めて差別的であることは批判的に読まねばならない。オーストラリア大陸と周辺島嶼(タスマニア島など。ニューギニアやニュージーランドなどは含まない)の先住民で今まで「アボリジニ(英語:Aborigine)」と呼ばれてきた人々であるが、「アボリジニ」と言う語は差別的な響きが強いことと、言語集団が分かれていたオーストラリア先住民の多様性を配慮して、近年、オーストラリアでは殆んど使われなくなり、代わって現在では「アボリジナル」・「アボリジナル・ピープル」・「アボリジナル・オーストラリアン」(Aboriginal Australians)又は「オーストラリア先住民(Indigenous Australians)という表現が一般化しつつある(以上はウィキの「アボリジニ」に拠った)。]

 

 要するに知・情・意等の精神的作用は、人間以外の獸類にも確に存するもので、人間と他の獸類との相違は單に程度の問題に過ぎぬ。然も情・意の方面に於ては、決して人間を以て第一等と見倣すことの出來ぬ場合が多い。たゞ知力では人間は他の獸類より著しく優れて居る。されば身體の構造では、大腦の頗る發達してあること、精神的作用では、知力の非常に進んであることだけが、人間と他の獸類との相違する點で、文明人と野蠻人との相異なるのもたゞこの點に過ぎぬ。今日人間が他の獸類に打ち勝つて天下を占領して居るのも、文明人が野蠻人を亡ぼして四方へ蔓延るのも、皆知力ばかりによることである。

 「道理を辨へて居るのは、人間ばかりである。他の獸類には道理を辨へて居るものは一種もない。之が人間と他の獸類との異なる點である」などと書いた書物も澤山にあるが、極めて漠然たる説で、若し道理といふ字を卑い[やぶちゃん注:「いやしい」。]意味に取つて、多少理を推すことの出來る力と解釋すれば、人間以外にも之を有するものは幾らもある。また高尚な狹い意味に取ると、人間の中にも之を持たぬものが多數を占めて居るから、之を以て人間と他の獸類との區別の標準と見倣すことは出來ぬ。また「人間ばかりは自己の存在を承知して居るが、他の獸類にはこのことがない」と書いてある書物もあるが、この事も確に證明の出來ぬことで、自分は過去はどこから來て、未來はどこへ行くものであらうかなどと考へることは、他の獸類にはないかも知れぬが、犬や象の如き智慧のある獸が、年寄つてから自分の若い時に經驗したことを思ひ出すことがないとは、なかなか斷言は出來ぬ。動物園の檻の内で猩々が厭世的の顏をして靜坐して居るのを見ると、故郷のことでも考へて居るのではないかと思はざるを得ぬ。之に反して最下等の野蠻人などになると、自己の存在の理由等を考へるものはない。されば自己の存在を知ることの有無を以て、人間と他の獸類との區別の點とすることは出來ぬ。

 道德心に就いてもその通りで、犬が主人のために命を捨てて忠義を盡した話などは幾らもあるが、凡そ團體をなして生活する動物であれば、友の難儀を救ひ、友と樂[やぶちゃん注:「たのしみ」。]を分つといふやうな習性の多少具はつて居ないもの

はない。犬が生理學上の實驗のために生きたまゝで體を切り開かれながら、尚解剖刀を持つて居る主人の手を嘗めたこと、或は犬が主人に財囊[やぶちゃん注:「ざいなう(ざいのう)」。財布。]を或る木の下へ忘れて來たことを知らせるために、尚平氣で先へ進もうとす

る主人の馬の足に嚙み附いたので、主人は犬が發狂したことと思ひ、鐵砲で擊つたのに、犬は據なく痛みを怺へて、前に主人の休んだ木蔭の處まで行き、瀕死の有樣ながら、尚そこにある財囊を護つて居て、主人が之に氣が附き歸つて來たのを見て、一聲鳴いて瞑目したことなどの記事を讀めば、如何なる人でも淚を零さずには居られぬ。人間には素より道德の高いものもあるが、また主人の財産を橫領しようと計畫する連中も決して少くない。特に文明人が野蠻人に對する所置を見ると、殆ど道德の痕跡も見えぬやうなことがある。奴隷採集に南洋に行つた汽船の記事などを見ると、譯の解らぬ黑奴を瞞して[やぶちゃん注:「だまして」。]船に呼び寄せ、腕力で之を擒[やぶちゃん注:「とりこ」。]にして船底の物置に押し込め、少しでも騷げば鐵砲で擊ち殺し、少し重い傷を負うて最早賣れる望のないものは、生きながら海中に投げ捨てたことなどが書いてある。また戰爭のときに逃げ後れた婦人が如何なる目に遇ふかは、文明開化に誇る十九世紀の末年に起つた出來事を見ても明なことで、その殘酷な所行は殆ど述べることも出來ぬ。あそこでは黑奴が極めて殘忍な方法で私刑に處せられたとか、こゝではユダヤ人が何百人虐殺せられたとかいふことが、新聞に絶えぬのを見れば、道德心の有無を以て、人間と他の獸類とを區別することの出來ぬは實に明瞭であらう。

 斯くの如く精神的動作の種々の方面を檢するに、孰れの點に於ても人間と他の獸類との間に根本的の相違はないが、之から考へれば、人間には精神があるが、他の獸類には精神がないといふ如き説は、全く根のないことで、之を基として論じた結論は總べて甚だしい誤でなければならぬ。若し人間に特別な精神があるものとしたならば、犬・猫にもある筈で、若し犬・猫に精神がないものとしたならば、人間だけにその存在を認めなければならぬといふ特別の理由は毫もない。日々人間の爲す所を見たり、新聞に出て來る記事を讀みなどすれば、人間の行爲も他の獸類の行爲も、その原動力は大同小異で、大部分は食欲と色欲とに基づくことが明であるが、たゞ知力發達の度に著しい差があるから、欲を滿足せしめるための手段と方法とは、他の獸類に比すれば無論甚だしく複雜である。

 

 言語を有するのは人間ばかりである。人間の外には言語を有する動物はないとの説もあるが、之また程度の問題である。人間の如くに發達した言語を有するものが、他にないことは明であるが、言語の初步だけを具へた動物は決してないとはいはれぬ。猫や犬でも、喜ぶとき、怒るとき、餌を求めるとき、罪を詫びるときなどの鳴聲が一々違ふことは誰も氣の附くことであるが、野生の獸類には隨分複雜な鳴聲を有して、自分の感情或は外界の出來事を同僚に傳へるものが澤山にある。猿の言語を取調べるために、數年アフリカの森中に留まつた人の報告などを見ると、猿にも一種の言語があつて、人間の言語とは素より比較にならぬが、感情を傳へる叫び聲の外に、普通の需要物品を言ひ表す單語なども相應にあるから、度に於ては非常な相違はあるが、性質は人間の言語と異なつた所はないやうである。ロシア語ではドイツ人のことをニェメツといふが、ニェメツとは啞[やぶちゃん注:「おし」。]といふ意味の文字である。之は恐らくロシア人が國境を越えてドイツ國に行くと、幾らロシア語で話しかけても先方へは通ぜず、また先方のいふことはこちらへは少しも解らぬから、かやうに名づけたのであらうが、今日我々が他の動物には言語がないというて居るのは、殆どこのやうな有樣で、たゞ先方のいふことがこちらに通じないといふに過ぎぬ。

[やぶちゃん注::ロシア語で正式にはドイツ人は“германец”(ゲルマーニェツ)であるが、ここに書かれた通り、蔑称では“немец”(ニェミェーツ)と言う。但し、参照したQ&Aサイトの回答では『ニェミェーツはすでに一般用語のレベルで使われており、公共の場で使っても問題』ないとあるが、はて、語源を知ってしまえば、使いたくはないし、使うべきではない気が私はする。]

 

Sarunokeiko

 

[猿の稽古]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミング補正して使用した。但し、本文には猿(絵のそれはチンパンジーである)の学習訓練に就いては記されていない。]

 

 ドイツエルバーフェルド市のクラルといふ人は、二十年ばかり前から數疋の馬を教育して、文字を覺えさせ、その音を聞き分けるやうに教へ込んだが、馬は人の問に對してよく文宇で答へ、自身のいひたいことも、よく文字で現すことが出來て、算術も加減乘除が間違ひなく出來るやうになつた、その結果を詳しく書いた書物が先年出版せられたが、それからこの方面に注意する人が頗る多くなり、犬で同樣な實驗を試みた人もあり、動物の心理狀態を研究するための新しい學會も創立せられた。初めは大に疑つた人も多かつたが、數名の動物學者が嚴重に調査した結果によると、決して間違ひではなく、確に馬や犬には自身に物の理屈を考へる力があり、習ひ覺えた文字を用ゐてこれを發表するものである。されば今日では最早人間以外にも言語を解し、之を以て談話し得る動物が幾種類もあることは、決して疑ふべからざることとなつた。

[やぶちゃん注:「ドイツ國エルバーフェルド市のクラルといふ人」は「生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 四 智力」に既出(但し、人物は不詳。「エルバーフェルド」は“Elberfeld”で、現在はドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州の合併都市ヴッパータール市(Wuppertal)内の地区名。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、私はそこで数を数える馬(通称「クレバー・ハンス」)については疑義を呈している。]

 

 知力の進步と言語の進化とが相伴ふべきことは明であるが、この二者が相伴つて著しく發達して居ることが、殆ど人間と他の獸類との異なるたゞ一の點で、その他に至つては決して人間のみに特有なものを見出すことは出來ぬ。而して知力・言語に於ても、人間と他の獸類との間の相違は單に程度の問題で、決して根本的性質の相違ではない。素より同じく人間といふ中には、最上等から最下等まで無數の階級があるから、上等の人間を取つて論ずれば、一般の獸類とは總べての點で甚だしく違ふのはいふまでもないが、下等の人間に就いて調べると、知力と言語とを除けば、その他の點に於ては殆ど獸類と甲乙はない。先年或る處に飼ふてある狒々[やぶちゃん注:「ひひ」。]の所行が風俗を壞亂する恐があるといふて、警察署から之に板圍をするやうに飼主に命じたことがあるが、狒々といふ獸が或る所行をすると、人間の風俗がその爲に亂れるといふことは、知力・言語以外に於て如何に人間と他の獸類とが相近いものであるかをあきらか明に示して居る。

 

進化論講話 丘淺次郎 第十九章 自然に於ける人類の位置(一) 序・一 人體の構造及び發生

 

    第十九章 自然に於ける人類の位置

 

 第九章から第十三章までに掲げた如き解剖學上・發生學上・分類學上・分布學上・古生物學上の事實を基として考へれば、生物が長い間に漸々進化して、終に今日見る如きものと成つたことは毫も疑はれぬ。而して數多い生物種屬の中には非常に相似たものもあり、また甚だしく相異なつたものもあつて、之を分類するには、先づ大きな組に分け、その中を更に小さな組に分けて、幾段も分類の階級を造らねばならぬ所から推すと、生物の系續は恰も一大樹木の如きもので、今日存在する各種屬は、皆その末梢に相當するものと考へねばならぬ。隨つて、相似た種屬は比較的近い時代に共同の先祖から分かれ生じたといふことも確である。さて相似た生物種屬は皆共同の先祖から分かれ降つたものであると説けば、それで自然に於ける人類の位置も既に言ひ盡した譯であるが、進化論が世人に注意せられるのも、また進化論が思想界に偉大な影響を及ぼすのも、主としてこの點にあること故、更に詳に之を論ずるの必要がある。

 抑人間とは何であるかの問題は極めて古い問題で、苟も多少哲學的に物を考へる處までに進んだ處ならば、この問題の出ぬことはない。倂しながら之を研究して解釋を與へようとする方法は種々樣々で、隨つてこの問に對する答も古來決して一樣ではなかつた。人間は如何なるものであるかといふことを知るのは、人間に取つては最も肝要なことで、この考の定めやう次第で、總べての思想が變つて來る。世の中には人とは何物かといふやうな問題の存することをも知らずに暮して居る人間が多數を占めて居るが、凡そ人間の爲すこと考えることの中に、人といふ觀念の入らぬものはない位故、若しこの考が誤つて居たならば、その爲すことは總べて誤つたこととならざるを得ぬ。斯く重大な問題故、昔から人を論じた書物は非常に澤山あつて、今日になつても續々出版せられて居るが、之を大別すれば二種類に分けることが出來る。一は獨斷的のもの、一は批評的卽ち科學的のものである。

 從來の書物は孰れも獨斷的のものばかりで、その中に書いてあることは、或は人は萬物の靈であるとか、或は人は神が自分の形に似せて造つたものであるとかいふやうな類に過ぎぬ。このやうなことの載せてある書物の數は隨分多いが、皆單に斷定するか或は之に標註を加へただけのもの故、證明の仕樣もなければ、また否定の仕樣もない。氣に入つた人は之を信ずるが、嫌いな人は之を捨てて置く。つまり理窟で論ずることの出來ぬ信仰の範圍、趣味の範圍に屬するもの故、科學の側からは殆ど批評すべき限でないが、たゞその説く所が科學的研究の結果と相反する場合には、無論誤として之を正さなければならぬ。

 科學的の研究法は全く之とは違ひ、孔子が何といはうが、耶蘇が何といはうが、さやうなことには頓著せず、たゞ出來るだけ廣く事實を集め、之を基として論ずるのである。それ故、この方法によつて得た結論は、單に事實を言ひ表したもので、決して好(す)きであるから信ずるとか、嫌ひであるから信ぜぬとかいふべき性質のものではない。凡そ眞理を求める人で且之を了解するだけの知識のある人であれば、必ず之を認めなければならぬ。總べて科學の目的は眞理を搜し索め、人間のために之を應用することであるが、眞理を探る場合には、全く虛心平氣でなければ、大に誤る恐がある。それ故、人とは何物であるかといふ問題を研究するには、自身が人であることは一切忘れて、恰も他の世界からこの地球に探險旅行に來たやうな心持になり、他の動物と同樣に人間の習性を觀察し、他の動物と同樣に人間の標本を採集して歸つた積りで研究せねばならぬ。研究の結果、發見した眞理を應用して、人間社會に益しようとする段になれば、無論人間の利益のみを常に眼中に置かなければならぬが、初め研究するに當つては、決して人間だけを贔屓(ひいき)してかゝつてはならぬ。少しでも不公平な心があつては、眞理は到底見出せるものではない。

 生物界の事實を廣く集め、生物界の現象を深く觀察し、之を基として科學的に研究した結果は、卽ち進化論であるが、前章に述べた通り、相似た動物種屬は共同の先祖から分かれ降つたといふことは、今日の所、最早確定した事實と見倣さねばならぬ。人間だけを例外として取扱ふべき特別の理由もない故、この通則に照して論ずれば、人は總べての動物の中で牛・馬・犬・猫等の如き獸類に最も善く似て居て、これらと共同な先祖から生じた一種の獸類である。而してその中でも猿類とは特に著しく似て居る點が多いから、比較的近い頃に猿類の先祖から分かれ降つたものである。この事は單に進化論中の特殊の場合に過ぎぬから、進化論が眞である以上は、この事も眞でなければならぬ。進化論は生物界全體に通ずる歸納的結論であるが、人間が猿類から分かれ降つたといふことは、たゞその結論を特殊の例に演繹的に當て嵌めただけに過ぎぬ。

 

     一 人體の構造及び發生

 

Hitotosarunokokaku

 

[人と猿との骨骼]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版を用いた。]

 

 

 人間の身體が大・猫等の身體に極めて似て居るのは實に明なことで、殆ど説明にも及ばぬ程である。先づ外部から順を追うて檢するに、體の全面は皮膚で被はれてあるが、その構造は犬・猫などと殆ど相違はない。人間の皮も鞣(なめ)せばなかなか丈夫なもので、犬・猫の皮と同樣に種々の役に立てることが出來る。人間の革で造つた書物の表紙、椅子の蒲團などを見たことがあるが、他の獸類の革と少しも區別は出來ぬ。表面に生ずる毛髮の多少には相違があるが、之は單に發達の度の相違に過ぎぬから、極めて些細なことである。特に人間の中にも毛の多い種類と毛の少い種類とがあつて、北海道のアイヌ人の如きに至つては、毛が頗る多くて、獸類中の水牛や象などの到底及ぶ所でない。次に皮を剝ぎ去れば、その下には筋肉があるが、之も總べて犬・猫等の筋肉と一々比較して見ることが出來る。一個一個の筋肉片を彼と此と比べて見るに、犬で太い筋肉が人間では細かつたり、猫で細い筋肉が人間で太かつたりする位のことはあるが、同一の筋肉が必ず同一の場所に存して、大體からいへば、數・配列の順序ともに殆ど著しい相違はない。その味の如きも全く他の野獸の如くで、知らずに食へば少しも氣が附かぬ。「一片を大きな葉に包んで、火の中に入れ、暫時の後に取り出して食つたら、全く他の獸肉のロースの如くで、後で人間の肉だと聞いたときは、嘔吐を催したが、知らずに食ふて居る間は、なかなか甘かつた[やぶちゃん注:「うまかつた」。]」とは、南洋の野蠻島に數年間傳道して居た宣教師から聞いた直話である。また、骨骼もその通りで、頭骨・脊骨・肋骨等を初め、四肢の足に至るまで、全く同一の型に隨つて出來て居て、單に少しづゝ長短・大小の相違があるだけに過ぎぬ。最も形狀が相異なるやうに思はれる頭骨でさへ、詳に之を檢して見れば、單に各骨片の發達の度に相違があるだけで、その數も列び方も全く同樣である。昔、何とかして人間と他の獸類との間に身體上の確な相違の點を發見したいと學者が骨を折つた頃に、人間の上顎の骨は左右たゞ二個で成り立つて居るが、獸類では左右の上顎骨の間に尚二個の骨が存する。之が卽ち人間が獸類と異なる所以であるなどと論じた人もあつたが、この二個の間顎骨と名づける骨は、人間にもないことはない。たゞ生長するに隨つて、左の間顎骨は左の上顎骨に、右の間顎骨は右の上顎骨に癒着して、その間の境が消えてしまふだけである。發生の途中を調べさへすれば、人間の上顎にも犬・猫と同樣に二個の間顎骨を明に區別することが出來るが、初めてこの事に注意したのはドイツの詩人ゲーテであつた。

[やぶちゃん注:ドイツの詩人で作家のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が同時に自然科学者(特に物理学・生物学・地質学)であったことは、知られているとは思われない。ウィキによれば、『ゲーテは学生時代から自然科学研究に興味を持ち続け、文学活動や公務の傍らで人体解剖学、植物学、地質学、光学などの著作・研究を残している』。二十『代のころから骨相学の研究者ヨハン・カスパール・ラヴァーターと親交のあったゲーテは骨学に造詣が深く』、一七八四『年にはそれまでヒトにはないと考えられていた前顎骨がヒトでも胎児の時にあることを発見し』、『比較解剖学に貢献している』。『自然科学についてゲーテの思想を特徴付けているのは原型(Urform)という概念である。ゲーテはまず骨学において、すべての骨格器官の基になっている「元器官」という概念を考え出し、脊椎がこれにあたると考えていた』一七九〇『年に著した「植物変態論」ではこの考えを植物に応用し、すべての植物は唯一つの「原植物」(独:de:Urpflanze)から発展したものと考え、また植物の花を構成する花弁や雄しべ等の各器官は様々な形に変化した「葉」が集合してできた結果であるとした』。『このような考えからゲーテはリンネの分類学を批判し、「形態学(Morphologie)」と名づけた新しい学問を提唱したが、これは進化論の先駆けであるとも言われている』。またゲーテは二十代半ば頃、『ワイマール公国の顧問官としてイルメナウ鉱山を視察したことから鉱山学、地質学を学び、イタリア滞在中を含め』、『生涯にわたって各地の石を蒐集しており、そのコレクションは』実に一万九千点にも『及んでいる。なお』、『針鉄鉱の英名「ゲータイト(goethite)」はゲーテに名にちなむものであり、ゲーテと親交のあった鉱物学者によって』一八〇六』年に名づけられた』。『晩年のゲーテは光学の研究に力を注いだ』。一八一〇『年に発表された『色彩論』は』二十『年をかけた大著である。この書物でゲーテは青と黄をもっとも根源的な色とし、また色彩は光と闇との相互作用によって生まれるものと考えてニュートンのスペクトル分析を批判した。ゲーテの色彩論は発表当時から科学者の間でほとんど省みられることがなかったが、ヘーゲルやシェリングはゲーテの説に賛同している』とある。]

 

 總べて頭骨といふものは、腦髓を保護する頭蓋部と咀嚼を司る顏面部とから成り立つて居るが、この兩部の發達の割合に隨つて、大に面相・容貌が違ふ。普通の獸類では、咀嚼部が發達し、頭蓋部の方が小いから、吻(くちさき)が突出して居るが、人間では腦髓が甚だ大きいから、額が出て顎の方は餘り突出せぬ。顎が發達して居ると容貌が如何にも獸らしく、頭蓋が發達して顎が小い程、容貌が人間らしいが、この比例は獸類の種屬によつて、各相異なり、同じ人間の中でも人種により、或は一人每にも隨分違ふから、單に程度の問題で、決して根本的の相違とはいはれぬ。この相違を數字でいひ表すために、解剖學者は顏面角の度を用ゐるが、顏面角とは通常、鼻の下の一點と耳の孔とを貫く直線と、鼻の下の一點から額の前面へ引いた直線との相交叉する角をいふので、ヨーロッパ人では略八十度、黑奴では七十度、猩々の子供では六十度弱、普通の猿では四十五度位、犬・猫などになると更に一層この角度が鋭い。倂しかやうに種々の相違はあつても、一方から他の方へ階段的に漸々移り行くもの故、特に人間だけをこの列より離して全く別なものと見倣すべき理由は、少しもない。

 

Hitotoennruinonounohikaku

 

[人と猿類の腦の比較

㈠をながざる ㈡てながざる ㈢チンパンジ

㈣しやうじやう ㈤アフリカ土人ブシュマン ㈥ヨーロッパ人]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版を用いたが、記号はオリジナルに附し直してある。]

 

 次に眼・鼻・耳の如き感覺の器官を調べて見るに、眼・耳の構造は人間も犬・猫も殆ど相違はない。鼻に至つては犬・猫の方が遙に人間よりは上等で、香を感ずる粘膜の面積は、人に比すれば何十倍も廣い。また神經系統の中樞なる腦髓を比較して見るに、之も大同小異で、たゞ部分の發達の割合に相違があるだけで、根本的の區別を見出すことは出來ぬ。腦髓は大腦・小腦・延髓等から成り立つて居るが、犬・猫と人間との腦髓の相違は主として大腦の發達の度にある。大腦の發達して居ることは、獸類中で人間が確に一番で、之に近づくものは他に一種もない。この點だけでは人間は實に生物界中第一等に位するものである。倂しながら、この場合に於ても、他の獸類との相違はやはり程度の問題で、他の獸類と同一な仕組に出來て居る大腦が、たゞ一層善く發達して居るといふに過ぎぬ。

 消化・呼吸・排泄等の如き營養の器官は如何と見るに、之また犬・猫などと殆ど同樣で、大體に於ては全く何の相違もないというて宜しい。齒で咀嚼せられ、唾液と混じた食物が、食道を通つて胃に達し、胃と腸とで消化せられ、滋養分が吸收せられること、肋間筋・橫隔膜等の働で肺の中へ空氣を呼吸し、酸素を吸ひ取り、炭酸瓦斯を吐き出すこと、腎臟の中を血液が通過する間に、血液中の老廢物が濾し取られ、小便として體外に排出せられることは、人間でも、猫でも、犬でも少しも違ひはない。

 消化の器官の中でも、齒の形狀、その配列の順序等は、獸類を識別するに當つて最も肝要な點の一として用いられ居るが、人間と犬・猫との齒を比較して見るに、その形狀に門齒・大齒・臼齒等の別あること、門齒が前にあつて、臼齒が奧に位することなども全く同樣で、たゞ些細な所で異なつて居るのみである。齒は食物の種類の異なるに隨つて各動物決して一樣ではないが、それらを竝べ人間の齒をも加へて總べてを比較して見ると、人間だけを特に他の獸類から離すべき理由を發見することは少しも出來ぬ。獸類の中でも東半球の猿類を例に取つて、これと人間とを比較したならば、殆ど少しも相違を見出さぬというて宜しい位である。かやうに身體の各部を順次他の獸類の體部に比較して見ると、大體に於ても、小部分に於ても、互に比べられぬ程に相異なつた部分のないことが明瞭に知れる。

 その他生殖の器官の如きも、比較解剖の書物を見れば明に解る通り、人間も他の獸類も大體に於ては全く同樣の構造を有し、その働に至つて毫も互に相異なる點はない。醫學書を開いて見ると、文句に書くさへ汚らわしいと思はれる所行が、往々或る種類の人間によつて實行せられることが掲げてあるが、これ等も身體の如何なる部分に於ても、人間と他の獸類との間に根本的の相違のない證據である。

 人體の解剖的構造は以上述べた通りであるが、更に微細な組織的構造を調べると、犬・猫との相違は全く無いといふべき程で、犬・猫の骨の薄片と人間の骨の薄片とを顯微鏡の下で取換へて置いても、見る人は少しも氣が附かぬ。その他、筋肉・神經等の纖維でも、或は卵でも、精蟲でも、皆全く同じやうで、到底區別は出來ぬ。極めて丁寧に比較して見れば、少々の相違を發見することは出來るが、その相違は恰も、犬と鼠と、猫と兎となどの間の組織上の相違位で、決して人間だけが他の獸類から遠く離れた特別のものであるといふべき程のものではない。現今解剖學者・組織學者が人體の構造を研究するに當つても、また醫科大學などで醫學生に人體の組織を教へるに當つても、人體の代りに往々犬・猫等を用ゐるは、全く組織學上、人間と犬・猫との間には、殆ど何の相違も見出されぬからである。

 以上は單に生長した人體に就いて論じたのであるが、卵から漸々發生する順序を調べると、また頗る他の獸類と一致したことが多い。牛・豚・兎と人間との胎兒發生の模樣は、既に第十章に略述した通りで、その初期に當つては皆全く同樣で、殆ど區別も出來ず、僅に生長の終りに近づく頃になつて、互の間の相違が現れ、牛は牛、豚は豚、人間は人間と解るやうになる。而してその發生の途中の形狀を檢するに、成人にはない種々の器官が、一度出來て後に再び消えてしまふ。頸の兩側に鰓孔が幾つも出來たり、鰓へ行くべき數對の血管が出來たりすることは、前にも述べたが、これらの點に於ては、犬・猫の胎兒と少しも違はぬ。また生長し終つてからも、身體の各部に不用の器官があるが、之は多くは、犬・猫で實際役に立つて居るもので、人間ではたゞこれらの器官を用ゐる必要がなく、隨つて之を用ゐる力もないといふに過ぎぬ。解剖を調べても、發生を調べても、人間と犬・猫との間の相違は犬・猫と鷄などとの相違に比較しては遙に少いもの故、身體の構造上からいへば、人間だけを他の禽獸蟲魚から離して、その以外の特殊のものと見倣すべき理由は決してない。

[やぶちゃん注:「牛・豚・兎と人間との胎兒發生の模樣は、既に第十章に略述した」特に第十章 發生學上の事實(3) 三 發生の初期に動物の相似ること及び、その次の第十章 發生學上の事實(4) 四 發生の進むに隨ひて相分れることの本文及び図を参照されたい。]

諸國里人談卷之五 源五郞狐【小女郞狐】

 

    ○源五郞狐【小女郞狐】

 

延寶の頃、大和國宇夛(うた)に「源五郞狐」といふあり。常に百姓の家に雇はれて農業をするに、二人三人のわざを勤む。よつて民家(みんおく)これをしたひて招きける。何國(いづち)より來り、いづれへ歸るといふを、しらず。或時、關東の飛脚に賴まれ、片道十餘日の所を、往來、七、八日に歸るより、そのゝち、度々徃來しけるが、小夜(さよの)中山にて、犬のために死せり。首にかけたる文箱(ふばこ)を、その所より大和へ屆けゝるによりて、此事を知れり。又、同じ頃、伊賀國上野の廣禪寺といふ曹洞宗の寺に、「小女郞狐(こぢよらうきつね)」といふあり。源五郞狐が妻なるよし、誰(たれ)いふとなく、いひあへり。常に、十二、三ばかりの小女(しようぢよ)の㒵(かたち)にして、庫裏(くり)にあつて、世事(せじ)を手傳ひ、ある時は野菜を求めに門前に來(きた)る。町の者共、此小女、狐なる事をかねて知る所也。晝中(はくちう)に豆腐などとゝのへ歸るに、童(わらべ)ども、あつまりて、「こぢよろ、こぢよろ」と、はやしけるに、ふり向〔むき〕て莞爾(ほゝゑみ)、あへてとりあへず。かくある事、四、五年を經たり。其後(そののち)、行方(ゆくかた)しらず。

[やぶちゃん注:「莞爾(ほゝゑみ)」これは①のルビ。③では「につこりし」とルビする。

「延寶」一六七三年から一六八一年まで。

「大和國宇夛(うた)」「宇多」であるが、これは奈良県宇陀(うだ)郡。現存(曽爾(そに)村・御杖(みつえ)村)するが、旧郡は二村に現在の宇陀市の大部分を加えた広域。この辺り(グーグル・マップ・データ。宇陀郡の西に斜めに宇陀市は広がる)。

「小夜(さよの)中山」静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)にある峠。標高二百五十二メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「伊賀國上野の廣禪寺といふ曹洞宗の寺」三重県伊賀市上野徳居町に現存。(グーグル・マップ・データ)。先の現宇陀郡辺りから概ね三十キロメートル北に当たる。]

和漢三才圖會第四十二 原禽類 目録・雞(にはとり)(ニワトリ)

  

和漢三才圖會卷第四十二目録

   原禽類 

雞(にはとり)【ゆふ付とり】

矮雞(ちやぼ)

野鷄(きじ)

白雉(しらきし)

山雞(やまとり)

錦雞(きんけい)

吐綬雞(としゆけい)

鶡雞(かつけい)

白鷴(はつかん)

鷓鴣(しやこ)

英雞(えいけい)

竹雞(ちくけい)

鶉(うつら)

鷃(かやくき)

鷚(ひばり) 

白頭翁(せぐろせきれい)

鴿(いへはと)

雀(すゝめ) 【饒奈雀(ニユウナイスヽメ)】

紅雀(へにすゝめ)

突厥雀(たとり)

蒿雀(あをじ)

野鵐(のじこ)

巧婦鳥(みそさゞい)【たくみとり・さゝき】

燕(つばくら) 【つはめ】

土燕(つちつはめ)

伏翼(かうもり)

夜明砂(やめいしや)

鼠(むさゝひ) 【もみ・のふすま】

(かつたん)

五靈脂(ごれいし)

𪇆𪄻(さやつきとり)

 

和漢三才圖會卷第四十二

     攝陽 城醫法橋寺島良安而順

  原禽類

Niwatori

にはとり  鳩七咜【梵書】

      燭夜

【鷄同】

      【和名加介

      又云久太加介

      又云木綿附鳥】

      【俗云庭鳥】

唐音キイ

 

本綱鷄者𥡳也能𥡳時也其大者曰蜀小者曰荊其雛曰

𪇗【比與子】在卦屬巽在星應昴其類甚多大小形色亦異

其鳴也知時刻其棲也知陰晴無外腎而虧小腸

凡人家無故群鷄夜鳴者謂之荒鷄主不祥若黄昏獨啼

者主有天恩謂之盗啼老鷄能人言者牝鷄雄鳴者雄鷄

生卵者竝殺之卽已俚人畜鷄無雄卽以雞卵告竈而伏

出之南人以鷄卵畫黑煮熟驗其黃以卜凶吉雄鷄毛燒

着酒中飮之所求必得古人言鷄能辟邪則鷄亦靈禽也

鷄雖屬木各以色配之故黃雌雞者屬土坤象溫補脾胃

也烏骨鷄者受水木之氣故肝腎血分之病及虛熱者宜

之但觀鷄舌黑者則肉骨俱烏也白雄鷄者得庚金太白

之象故辟邪惡者宜之其他亦准之

古者正旦磔鷄頭【白雄雞良】祭門戸【東門】辟邪鬼葢鷄乃陽之

精雄者陽之体頭者陽之會東門者陽之方以純陽勝純

陰之義也

少兒五歳以下食雞生蚘蟲 雞肉同糯米食生蚘蟲

鷄肉不可合葫蒜芥李食之 雞肉同生葱食成蟲痔

鷄肉同鯉魚食成癰癤

 都にてなれにしものを庭鳥の旅寢の空は戀しかりけり

万葉我がやとのきつにはめなてくたかけのまたきに鳴てせなをやりつる

古今たかみそき夕つけ鳥そ唐衣たつたの山に降りはへてなく

按鷄家家畜之馴於庭因稱庭鳥又稱家鷄以別野鷄

 其種類甚多尋常雞俗呼名小國能鳴告時而丑時始

 鳴者稱一番鳥寅時鳴者稱二番鳥人賞之丑以前鳴

 者爲不祥俗謂之宵鳴所謂荒鷄盗鷄之類矣呼鷄重

 言之聲曰【音祝】俗云止止止

蜀雞【俗云唐丸】 形大而尾短其中有冠如大鋸齒者呼曰大

 鋸初自中華來爲闘雞最強

暹羅雞【之夜無】 形大於蜀雞而尾殊微少大抵高二尺余

 肩張脛大距尖而長身毛多兀而冠小性勁剛能闘雖

 倒不欲逃是初自暹羅來焉

南京雞 初來於中華南京形似和雞而純白有尨毛脚

 蒼黑冠亦黑色也其冠赤者名地南京

矮雞 形小而脚甚矮【詳于後】

 本綱所謂朝鮮長尾鷄【尾長三四尺】南越長鳴鷄【晝夜鳴叫】南海

 石雞【潮至卽鳴】蜀中鶤鷄楚中鷄【竝高三四尺】此等本朝未曾有

雞卵【中有黃肉白汁白者性寒黃者性溫】 筑前豊前多出之而不及於畿

 内之卵味【畏山椒如藏之同噐則卵腐爛】煑之則白汁包黄肉爲塊譬

 之天地兩象殻乃象總廓無星天【如初投熱湯煑之則殼肉不可離】

 凡雞多淫生數子毎日生一卵人潜取之唯遺一卵則

 逐日生卵數不定始終不取則十二而止矣母雞伏卵

 於翅下二十日許而稍溫暖中子欲出吮聲曰啐母雞

 亦啄孚其雛不待哺自啄粟糏謂之有側則不交取避則生卵】

[やぶちゃん注:「」=「𣫠」-「殳」+「鳥」(一字の中の構成要素に「鳥」が二つある)。]

 凡經百八十日始鳴告時未亮亮如人呵坤又可二十

 日聲大定能爲各曷課之聲其鳴也雌先啄叩雄翅令

 知其時則雄發聲蓋此陰陽相待之義乎

 韓詩外傳曰雞有五德頭戴冠【文也】足傅距【武也】敵在前敢

 闘【勇也】見食相呼【仁也】守夜不失時【信也】葛洪云凡古井及五

 月井中有毒不可輙入卽殺人宜先以雞毛試之毛直

 下者無毒回旋者有毒也感應志云五酉日以白雞左

 翅燒灰揚之風立至以黑犬皮毛燒灰揚之風立止也

 相傳如有人溺于池川未尋獲屍骸則乘鷄於板筏泛

 水上鷄能知所在而鳴於是探獲其骸焉

 

 

「和漢三才圖會」卷第四十二

     攝陽 城醫法橋寺島良安而順編

  原禽類

 

にはとり  鳩七咜〔(きゆうしちた)〕【梵書。】

      燭夜〔(しよくや)〕

【「鷄」も同じ。】

      【和名、「加介〔(かけ)〕、

      又、「久゙太加介〔(くだかけ)〕とも

      云ふ。又、「木綿附(ゆふづけ)鳥」

      と云ふ。】

      【俗に「庭鳥」と云ふ。】

唐音キイ

 

「本綱」、鷄は「𥡳」なり。能く時を𥡳(かんが)ふなり。其の大なる者、「蜀」と曰ひ、小なる者、「荊〔(けい)〕」と曰ふ。其の雛を「𪇗(ひよこ)」と曰ふ【「比與子」。】。卦(け)に在りては、「巽〔(そん)〕」に屬し、星に在りては「昴(すばる)」應ず。其の類、甚だ多し。大小・形・色も亦、異なり。其の鳴や、時刻を知り、其の棲(す)むや、陰晴を知る。外腎、無くして小腸を虧(か)く。

凡そ、人家、故無くして、群鷄、夜(よひ)に鳴く者は、之れを「荒鷄〔くわうけい)〕」と謂ひ、不祥を主〔(つかさ)〕どる。若〔(も)〕し、黄昏(ゆふぐれ)に獨り啼く者は、天恩有ることを主どる。之れを「盗啼〔(とうてい)〕」と謂ふ。老鷄、人言〔(じんげん)〕能くする者、牝鷄(めどり)の雄鳴(を〔なき〕)する者、雄鷄(〔を〕どり)の卵(たまご)を生〔(しやう)〕ずる者、竝びに之れを殺すときは、卽ち、已〔(や)〕む。俚人、鷄を畜〔(か)〕ふて、雄、無きとき、卽ち、雞-卵(たまご)を以つて、竈〔(かまど)〕に告げて、伏して、之れを出だす。南人、鷄卵を以つて黑を畫(えが)き、煮熟〔(しやじゆく)〕して其の黃を驗(こゝろ)み、以つて凶吉を卜〔(うらな)〕ふ。雄鷄の毛を燒きて、酒中に着〔(つ)〕けて之れを飮めば、求むる所、必ず、得〔(う)〕。古人の言〔(いは)〕く、「鷄、能く邪を辟〔(さ)〕く」といふときは、則ち、鷄も亦、靈禽なり。鷄、「木」に屬すと雖も、各〔おのおの)〕色を以つて之に配す。故に黃雌雞(あぶらのめどり)は「土」に屬す。坤〔(こん)〕の象〔(かた)〕ち、脾胃を溫補するなり。烏骨鷄〔(うこつけい)〕は「水」・「木」の氣を受くる故に、肝腎・血分〔(けつぶん)〕の病ひ及び虛熱の者、之れに宜〔(よ)〕し。但し、鷄の舌、黑き者を觀る〔は〕、則ち、肉・骨、俱〔(とも)〕に烏(くろ)し。白〔き〕雄鷄は、庚・金・太白の象〔(しるし)〕を得。故に邪惡を辟〔(さ)〕くるは、之れに宜〔(よ)〕し。其の他、亦、之れに准〔(したが)〕ふ。

古(いにし)へには、正旦に鷄の頭〔(かしら)〕を磔(はりつ)け【白〔き〕雄雞、良し。】、門戸に祭り【東門。】邪鬼を辟く。葢し、鷄、乃〔(すなは)ち〕、陽の精、雄は陽の体〔(てい)〕、頭は陽の會〔(くわい)〕、東門は陽の方〔(かた)〕。純陽を以つて純陰に勝つの義なり。

少兒、五歳以下にして雞を食へば、蚘蟲〔(くわいちゆう)〕生ず。

雞肉、糯米〔(もちごめ)〕と同じく食へば、蚘蟲、生ず。

鷄肉、葫蒜〔(にんいく)〕・芥〔(からし)〕・李〔(すもも)〕に合せて之れを食ふべからず。

雞肉、生葱〔(なまねぎ)〕と同じく食へば、蟲痔と成る。

鷄肉、鯉魚〔(こい)〕と同じく食へば、癰癤〔(ようせつ)〕と成る。

 都にてなれにしものを庭鳥の旅寢の空は戀しかりけり

「万葉」

 我がやどのきつにはめなでくだかけのまだきに鳴〔(なき)〕てせなをやりつる

「古今」

 たがみそぎ夕つげ鳥ぞ唐衣たつたの山に降りはへてなく

按ずるに、鷄、家家、之れを畜ひて庭に馴〔(な)〕る。因りて「庭鳥」と稱す。又、「家鷄(かけ)」と稱す。以つて「野鷄〔(やけい/きじ)〕」に別〔(わか)〕つ。其の種類、甚だ多し。尋常(よのつね)の雞、俗に呼びて「小國〔(しやうこく)〕」と名づく。能く鳴きて、時を告げて、丑の時より始めて鳴く者を「一番鳥」と稱す。寅の時、鳴く者を「二番鳥」と稱し、人、之れを賞す。丑より以前に鳴く者を不祥と爲す。俗に之れを「宵鳴〔(よひなき)〕」と謂ひ、所謂、「荒鷄」・「盗鷄」の類ひなり。鷄を呼ぶ重言の聲を「(とゝ)」【音、「祝」。】と曰ひ、俗に「止止止(と〔とと〕)」と云ふ。

蜀雞(とうまる)【俗に「唐丸」と云ふ。】 形、大にして、尾、短し。其の中、冠(さか)、大鋸(だいぎり)の齒(は)の者ごとくなる者、有り。呼んで、「大鋸〔(だいぎり)〕」と曰ふ。初め、中華より來りて闘雞(とりあわせ[やぶちゃん注:ママ。])を爲す。最も強し。

暹羅雞(しやむどり)【「之夜無」。】 形、蜀雞〔(とうまる)〕より大にして、尾、殊に微少なり。大抵、高さ二尺余。肩、張り、脛〔(はぎ)〕、大(ふと)く、距(けづめ)尖りて長く、身の毛、多くは兀(はげ)て、冠(さか)小さし。性、勁剛にして、能く闘(たゝか)ふ。倒〔(たふる)〕と雖も、逃げんと欲せず。是れ、初め、暹羅より來れり。

南京雞(なんきんどり) 初め、中華の南京より來たる。形、和雞(しやうこく)に似て純白。尨毛(むくげ)有り。脚、蒼黑、冠も亦、黑色なり。其の冠〔(さか)〕、赤き者を「地南京」と名づく。

矮雞(ちやぼ) 形、小にして、脚、甚だ矮(ひく)し【後に詳〔(つまびら)〕かにす。】

 

 「本綱」に所謂〔(いはゆ)〕る、朝鮮の「長尾鷄」【尾の長さ、三、四尺。】・南越〔の〕「長鳴鷄〔(ながなきどり)〕」【晝夜、鳴き叫ぶ。】・南海の「石雞〔(せきけい)〕」【潮、至れば、卽ち、鳴く。】・蜀中の「鶤鷄〔(うんけい)〕」・楚中の「鷄〔(さうけい)〕」【竝びに、高さ三、四尺。】、此等は、本朝、未だ曾つて有らず。

雞卵(たまご)【中に、黃肉・白汁、有り。白き者、性、寒。黃の者、性、溫。】 筑前・豊前、多く之れを出だす。而〔れども〕、畿内の卵の味に及ばず【山椒を畏る。如〔(も)〕し之れを同〔じき〕噐〔うつは〕に藏せば、則〔すなはち〕、卵、腐爛す。】。之れを煑るに、則ち、白汁、黄の肉を包む。塊〔(かたまり)〕を爲す。之れを天地の兩象〔りやうしやう〕に譬〔(たと)〕へ、殻は乃〔(すなは)ち〕、總廓無星天に象〔(かた)〕どる【如〔(も)〕し、初めより熱湯に投じて之れを煑れば、則ち、殼・肉、離るべからず。】。

 凡そ、雞は多淫にして、數子を生む。毎日、一卵を生ず。人、潜かに之れを取りて、唯、一卵を遺(のこ)せば、則ち、日を逐(お)ひて卵を生ず。數、定まらず、始終、取らざるときは、則ち、十二にして止む。母雞、卵を翅の下に伏せ、二十日許りにして、稍〔(やや)〕溫-暖(あたゝま)り、中の子、出でんと欲して吮〔(すす)〕る。〔その〕聲を「啐(しゆつ)」と曰ふ。母雞も亦、啄(つゝ)いて、孚(かへ)る。其の雛、哺(くゝめ)を待たず、自〔(みづか)〕ら粟・糏(こゞめ)を啄(ついば)む。之れを「(ひよこ)」と謂ふ【〔母雞、〕〔(ひよこ)〕、側〔(そば)〕に有るときは、則ち、交(つる)まず。、取り避けなば、則ち、卵を生ず。】。凡そ、百八十日を經て、始めて鳴きて時を告ぐ。未だ亮亮〔(りやうりやう)〕ならず。人の呵坤(あくび)するがごとし。又、二十日可(ばか)りにして、聲、大きに定まり、能く「各曷課(こつかつこを[やぶちゃん注:ママ。])」の聲を爲す。其の鳴くや、雌(めどり)、先づ、雄の翅を啄-叩(つゝ)いて、其の時を知らしむるとき、則ち、雄〔(をどり)〕、聲を發す。蓋し、此れ、陰陽相待の義か。

[やぶちゃん注:「」=「𣫠」-「殳」+「鳥」(一字の中の構成要素に「鳥」が二つある)。]

 「韓詩外傳」に曰く、『雞に五德有り。頭に冠(さか)を戴くは【「文」なり】。足に距(けづめ)を傅〔(つ)くる〕は【「武」なり】。敵、前に在りて、敢へて闘ふは【「勇」なり】。食〔(しよく)〕を見ては相ひ呼ばふは【「仁」なり】。夜を守りて時を失はざるは【「信」なり】』〔と〕。葛洪〔(かつこう)〕が云はく、『凡そ、古井(ふるゐ)及び五月〔の〕井中、毒、有り、輙(かるがるし)く入るべからず。卽ち、人を殺す。宜しく、先づ、雞の毛を以つて之れを試すべし。毛、直〔ただち〕に下る者は、毒、無し。回-旋(めぐ)る者は、毒、有るなり。』〔と〕。「感應志」に云はく、『五〔の〕酉〔(とり)〕の日、白雞の左の翅を以つて、灰に燒き之れを揚ぐれば、風、立ちどころに至る。黑犬の皮毛を以つて、灰に燒き、之れを揚ぐれば、風、立どころに止むなり。』〔と〕。相ひ傳ふ、如〔(も)〕し、人、有りて、池川に溺(をぼ[やぶちゃん注:ママ。])れて、未だ屍骸を尋ね獲〔(え)〕ざれば、則ち、鷄を板筏〔(いたいかだ)〕に乘せて水上に泛〔(うか)ぶれば〕、鷄、能く所在を知りて、鳴く。是に於いて、其の骸〔(むくろ)〕を探(さぐ)り獲〔(と)〕る。

[やぶちゃん注:鳥綱キジ目キジ科キジ亜科ヤケイ属セキショクヤケイ亜種ニワトリ Gallus gallus domesticus

𥡳」「稽」と同字。「稽」には「考える」の意がある。時の経過を認識するから鬨を挙げることが出来るのである。

「陰晴を知る」天候を予知する。

「外腎」漢方では「腎」「内腎」・「副腎」・「外腎」の三部に分かたれ、「内腎」・「副腎」は西洋医学の腎臓と副腎を指し、「外腎」は、腎臓及び副腎を除いた泌尿器(膀胱や尿道)と雌雄生殖器を指す。無論、この認識はトンデモないことなるが、鳥類は単一の総排出腔であるから、そうした認知があったとして不思議ではない。

「小腸を虧(か)く」「虧」は「缺」(欠)に同じい。よく判らぬが、漢方医学では六腑の中の「小腸」は五行の「火」を司る機能を持つとされる。さて以下では鷄について五行に当て嵌めた叙述が続くが、そこでは基本、鷄は「木」に当たるとしつつも、色によってエレメントが変わり、「黃雌雞(あぶらのめどり)」は「土」であり、「烏骨鷄〔(うこつけい)〕は「水」・「木」であるとする。さらにまた、「白〔き〕雄鷄は、庚・金・太白の象〔(しるし)〕を得」と「金」が出る。則ち、この叙述を見る限りでは、「鷄」は五行の内の四つのエレメント「木」・「土」・「金」・「水」と親和性があることが記されているから、「火」の臓器である「小腸」はないということになるのかも知れぬ。

「夜(よひ)」「宵」。

「不祥」不吉な前兆。

「天恩有ることを主どる」東洋文庫版注に、「本草綱目」は『版によっては「天恩」が「火患」となっているものがある。「天恩」なら吉兆であろうが、「火患」なら凶兆であろう。意味は全く逆になる』とある。私の見た版では「火患」であり、朝を告げるのが吉兆で、夜は凶兆とくれば、物の怪の跳梁する夜の到来を危ない境界時間である黄昏、逢魔が時に鳴くそれはやはり凶兆(警告としての)であろう。「盗啼〔(とうてい)〕」という名も瑞兆を齎すものへの命名とは私には思われない。但し、後にも和歌に出るように「夕告げ鳥」は鶏のフラットな別名ではある。

「人言〔(じんげん)〕能くする者」人語を巧みに操る鷄。遇いたくない。

「牝鷄(めどり)の雄鳴(を〔なき〕)する者、雄鷄(〔を〕どり)の卵(たまご)を生〔(しやう)〕ずる者」これは鳥類では多種でも見られる化(雄変:ホルモン・バランスの変化によって生じ、のような行動(大きな鬨や求愛行動)を起したり、ニワトリの場合は鶏冠が並みに大きくなる現象)を誤認したものであろう。発生学上、鳥類が性転換することはあり得ない。

「竝びに」一律に。孰れも。

「雄、無きとき、卽ち、雞-卵(たまご)を以つて、竈〔(かまど)〕に告げて、伏して、之れを出だす」これは恐らく、鶏を飼育したものの、雄がいない場合は、彼らが生んだ卵を、竈に持って行き、竈神にその由を告げて、祈った上、雌鶏に「伏」せさせて=抱かせると、必ずや、雛が孵る、と言っているようである(東洋文庫訳もそのように訳している)。但し、雌鶏しかいないのだから、それは無精卵であって、決して孵ることはないのだから、これはあり得ない。こんなことが起こり得るのは、こっそり間男した近所の雄鶏とつるんで出来た有精卵だったんだろうねぇ。

「南人」旧中国の南方の民。

「鷄卵を以つて黑を畫(えが)き、煮熟して其の黃を驗(こゝろ)み、以つて凶吉を卜〔(うらな)〕ふ」「本草綱目」は、

   *

南人、以鷄卵畫墨、煑熟驗其黃、以卜吉凶。

   *

であるから、「黑」は「墨」誤記で、「墨(すみ)を以って占うための記号としての字を殻に画(か)き、それを茹でて、割れて噴出した、或いは割って見た黄身の様態を観察して、吉凶を占った、という意味と思われる。

「黃雌雞(あぶらのめどり)」鶏の一品種らしい。中文サイトのこちらに画像がある。

「脾胃」漢方では広く胃腸、消化器系を指す語。

「烏骨鷄〔(うこつけい)〕」ウィキの「烏骨より引く。『烏骨(黒い骨)という名が示す通り、皮膚、内臓、骨に到るまで黒色である。羽毛は白と黒がある。成鳥でもヒヨコ同様に綿毛になっている』。『足の指が、普通のニワトリと同じ前向き』三『本に加え、後ろ向きの指が普通のニワトリの』一本に対し、二~三本あり、計五~六本あるのも『大きな特徴である。一般的な鳥類は指の数が』四『本であり』、五『本(以上)ある種類は本種のみである』。『一般的なニワトリのみならず、鳥類全般から見ても特異な外見的特徴から、中国では霊鳥として扱われ、不老不死の食材と呼ばれた歴史がある。実際、栄養学的に優れた組成を持ちまた美味であるため、現在でも一般的な鶏肉と比較して高価格で取引されている。また、卵も同様の理由により非常に人気が高く、産卵数も週に』一『個程度と少ないことから、一般的な鶏卵と比較して非常に高価である』。『商用として飼育するほかにも愛玩用として家庭で飼育される事もある。コンテストなども開かれている。手入れ次第では鶏とは思えないほど非常に綺麗な毛並みとなる』。『マルコ=ポーロ著「東方見聞録」にもウコッケイに関する記述が見られる』とある。

「血分」病が血にあるもの、温熱病(急性の熱性疾患)でも最も深いレベルに病いがあること、月経閉止により水気病(水の代謝異常に起因する病気)になること等を指す。

「虛熱」陽気は正常値であるが、陰気が不足しているために発生する熱性症状を指す。

「庚・金・太白の象〔(しるし)〕」東洋文庫注に。『庚は十干の一つ。五行では金、星では太白にあたる』とある。

「蚘蟲〔(くわいちゆう)〕回虫。現行では狭義には線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫目回虫科カイチュウ Ascaris lumbricoides であるが、ここでは広汎なヒト寄生虫の総称。

「蟲痔」不詳。或いは寄生虫が多数寄生して腸を閉塞させて生じた痔か。単なる便秘とも思われない。

「癰癤〔(ようせつ)〕」「癰」は浅く大ききな悪性の腫れ物。「癤」は毛包(毛根の周囲)が細菌に感染し、皮膚の中で膿が溜まって炎症を起こしている毛嚢炎の状態を指す。

「都にてなれにしものを庭鳥の旅寢の空は戀しかりけり」出典不詳。

「我がやどのきつにはめなでくだかけのまだきに鳴〔(なき)〕てせなをやりつる」「万葉」集とするが、「伊勢物語」の誤り。これは第十四段(「姉葉の松」)に出る女の歌、

 夜も明けばきつにはめなで腐家鷄(くたかけ)のまだきに鳴きてせなをやりつる

で、陸奥が舞台で、方言らしく、諸説ある歌として知られる。「腐れにわとり」め未だ明けぬに鳴いて「背な」(愛しい男)を帰してしまったわ! 夜が明けたらあいつを「きつ(水を入れた木桶)に嵌(は)め込んで溺れ殺してやらぬものか!」とも、「狐(きつ)に食(は)ませてやる!」の意とも。初句も異なり、どこからどうして引いたものか? 不審極まりない

「たがみそぎ夕つげ鳥ぞ唐衣たつたの山に降りはへてなく」「古今和歌集」巻第十八「雑歌下」の「よみ人知らず」の一首(九九五番)であるが、「鳥ぞ」は「鳥か」の誤りであり、「降り」の漢字表記は半可通な誤りと思う。

 誰(た)が禊(みそぎ)ゆふつけ鳥か唐衣(からもろも)龍田の山にをりはへて鳴く

技巧臭い頗る厭な歌だが、一応、注しておく。「禊」「ゆふつけ」(後述)「唐衣」及び「龍田」の「たつ」(截つ)や「をり」(織(お)り。「古今和歌集」では「おりはえて」と歴史的仮名遣を誤記している)は縁語であろう。「ゆふつけ鳥」は「木綿(ゆふ)付け鳥」(木綿は楮(こうぞ)の木の皮で作った襷(たすき)で神への奉仕の際に掛ける神聖具であるが、古くは鶏にこの木綿をつけて、都の四境の関所で祓(はらえ)をした)と「夕告げ鳥」(鶏の異名)の掛詞。なお、前者及び後者の鶏は人を隔てる関というアイテムから、通常は男女の関係を邪魔するものとして使用されることが殆んどで、ここも時間の経過を急かすように告げるそれと読んでよかろう。「唐衣」「たつ」の枕詞。「をりはへて」「をる」は「重ねる」の、「はふ」は「延ばす」の意で、「長く続けて」。

「野鷄〔(やけい/きじ)〕」鳥綱キジ目キジ科キジ亜科キジ属キジ Phasianus versicolor。なお、現在は別にニワトリを含むキジ亜科ヤケイ属 Gallus が種群として実際に別に存在するので注意が必要。次の次で独立項「きじ きぎす 野鷄」として出る。

「其の種類、甚だ多し」ウィキの「ニワトリ」によれば、『欧米では、主に卵用や肉用に、産卵性や増体性を特化させて飼育されてきた品種が多い中』、日本では古くから『観賞用に多くのニワトリを飼育し、親しまれてきた。外観の美しさを重視したものでは、尾や蓑の羽毛が長いもの、色彩の豊かなもの、個性的な特徴をもつものを選抜した。さらに、鳴き声にも注目し、美しく鳴くもの、長く鳴くもの、変わった鳴き方をするものを選抜した。そうして作られた品種を日本鶏(にほんけい)と呼ぶ』。世界規模ではニワトリは二百五十品種(より細分化すると、五百品種を上回るとされるものの、素性が不明なものが多く含まれる)程の品種が存在するが、その内、日本鶏は五十品種に上回る、とある。

「小國〔(しやうこく)〕」一般的には「小国鶏」と書いて「しょうこく」と呼ぶことが多く、別に「おぐにどり」と呼ばれることもある。既に昭和一六(一九四一)年に国指定「天然記念物」となっている。主な飼育地は京都府・三重県等。平安初期に中国寧波府昌国(現在の浙江省舟山(しゅうざん)市定海区昌国。ここ(グーグル・マップ・データ))から日本に渡来したことからの命名とされる。闘鶏の一種として古くから飼われ、多くの日本鶏の成立に関わった。体重は二千グラム・千四百五十グラム。鳴き声は長く、時間を正しく知らせたことから「正告」または「正刻」とも呼ばれた。「尾長鶏」は、この品種から改良されたものだと伝えられる(「はてな・キーワード」の「小国鶏」を主に参考にした)。凛々しい姿はサイト「烏骨鶏 にわとりのページ」の「にわとり画像掲示板」のこちらで見られる。

「丑の時」午前一時から午前三時頃。

「寅の時」午前三時から午前五時頃。

「荒鷄」「あらどり」と訓じておく。古い時代に完全に野生化した個体群であろう。

「盗鷄」「ぬすみどり」と訓じておく。比較的近い時期に家畜であったものが脱走し、野生化した個体群であろうか。

「鷄を呼ぶ重言の聲」ニワトリを呼び寄せる時に声がけする連続した同一音のこと。

(とゝ)」現代中国語(zhōu:カタカナ音写:ヂォゥ)でも、擬声擬態語で「鶏を呼ぶ声」とあり、辞書には『喌喌』で『トットッ』と訳がある。

「蜀雞(とうまる)【俗に「唐丸」と云ふ。】」昭和一四(一九三九)年に国指定「天然記念物」となっている。サイト「畜産ZOO鑑」の「長鳴き鶏ってこんなニワトリ!」によれば、新潟県産で、『力強い中高音で謡』い、『謡(うたい)の中間は特に強く張り上げるのが良いとされ、ひらがなの「ろ」を横に見たような謡いかたが良いとされている』。『声の長さ』は八秒から十三秒で、最長記録は約二十三秒(リンク先では、その長鳴きが実際に聴ける。必聴!)。『大型で尾羽も豊富でやや長く、雄大な体形。尾羽は幅が広く、また羽軸が丈夫なため』、『「獅子頭」の髪として使われる』とある。羽は『全身光沢にとんだ緑黒色で、脚も黒く「真黒(ほんぐろ)」とよばれる』。『体重』はで約四キロクラム。『活発で』、『体質も強く』、『寿命が長い。やや警戒心が強いが』、『飼い主には良く慣れる』とある。

「冠(さか)」良安は一貫して「さか」としかルビを振らない。国立国会図書館デジタルコレクションの中外出版社刊の活字版「和漢三才圖會」(明三四(一九〇一)年より翌年にかけて刊行)の「雞」でも『サカ』とする。これは「鶏冠(とさか)」の古語で上代から見られる。「とさか」はニワトリなどのキジ科 Phasianidae の一部の鳥に見られる頭上の肉質の冠状突起で、形状によって「単冠(たんかん)」・「ばら冠」・「豌豆(えんどう)冠」などに区別される。♀♂の識別やディスプレイのための機能を持ち、よりでよく発達しており、発達の程度は性ホルモンの影響を受ける(前に記したの雄変ではのトサカがのように肥大してくる)

「大鋸〔(だいぎり)〕」「とさか」の形状からの鶏自体の名称であろう。

「暹羅雞(しやむどり)【「之夜無」。】」現在の「軍鶏(しゃも)」のことである。「日本農林規格」に於けるニワトリの在来種ともされ、昭和一六(一九四一)年に国指定「天然記念物」。ウィキの「軍鶏によれば、『シャモの名は、当時のタイの旧名・シャムに由来する。日本には江戸時代初期にタイから伝わったとされるが、正確な時期は不明。闘鶏の隆盛とともに各地で飼育され、多様な系統が生み出された。闘鶏は多く賭博の手段とされたため、賭博が禁止されるとともに闘鶏としての飼育は下火になったが、食味に優れるため』、『それ以後も飼育は続けられた。現在は各地で食用として飼育されている(天然記念物でも、飼育や食肉消費は合法)』。『オスは非常に闘争心が強い』。『三枚冠もしくは胡桃冠で首が長く、頑強な体躯を持つ。羽色は赤笹、白、黒等多様。身体の大きさにより大型種、中型種、小型種に分類されるが、系統はさらに細分化される』という。『闘鶏、食肉、鑑賞目的に品種改良が行われてきた。本来が闘鶏であるため』、『オスはケージの中に縄張りをつくり、どちらかが死ぬまで喧嘩をするため、大規模飼育が難しい。食肉用には気性の穏やかな他の品種との交配種も作られ、金八鶏など品種として定着したものも存在する。また海外に輸出され、アメリカにおいてはレッドコーニッシュ種の原種ともなった』。『主な飼育地は、東京都、茨城県、千葉県、青森県、秋田県、高知県など。沖縄方言ではタウチーと呼ぶが、台湾でも同じように呼ばれており、昔から台湾(小琉球)と沖縄(大琉球)の間に交流があったことの裏づけとなっている』。『闘鶏には気性の激しい個体ほど好まれ、闘鶏で負けた鶏や、闘争心に欠けると判定された鶏は、ただちに殺されて軍鶏鍋にされた。そのため、江戸時代から食用としても知られ、江戸末期には軍鶏鍋が流行したとされる。また、戦いのために発達した軍鶏の腿や胸の筋肉には、ブロイラーにはない肉本来のうまみがあり』、『愛好者が多く、他の地鶏に比べて大型であるために肉量が多い。他の地鶏とシャモを掛け合わせた一代雑種の「おとし」、「しゃもおとし」が軍鶏鍋に使われるようになると、鶏肉の代名詞として定着するようになった』とある。私は即座に漱石の「こゝろ」の以下の印象的なシークエンス(リンク先は私のブログ版の公開当時と月日をシンクロさせたもの)『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月17日(金曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十五回の「先生」とKの房州旅のコーダの『我々は眞黑になつて東京へ歸りました。歸つた時は私の氣分が又變つてゐました。人間らしいとか、人間らしくないとかいふ小理窟は殆ど頭の中に殘つてゐませんでした。Kにも宗教家らしい樣子が全く見えなくなりました。恐らく彼の心のどこにも靈がどうの肉がどうのといふ問題は、其時宿つてゐなかつたでせう。二人は異人種のやうな顏をして、忙がしさうに見える東京をぐるぐる眺めました。それから兩國へ來て、暑いのに軍鷄(しやも)を食ひました。Kは其勢(いきほひ)で小石川迄歩いて歸らうと云ふのです。體力から云へばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ應じました』を思い出す。

「兀(はげ)て」「禿」の誤字。「兀」は「高く突き出ているさま」を指す語。

「南京雞(なんんきんどり)」南京軍鶏或いは越後南京軍鶏であろう。小型の軍鶏で、前者については丈は三十センチメートルほどにしかならず、手乗りになるという記載もある。

「和雞(しやうこく)」先の「小國」の当て訓。

「矮雞(ちやぼ)」昭和一六(一九四一)年、国天然記念物に指定。次の独立項で「ちやぼ 矮雞」として出るのでそちらで注する。

「本綱」巻四十八の「禽之二 原禽類」の巻頭の「雞」。

「長尾鷄」高知県原産の尾長鶏国特別天然記念物指定)がいるじゃないかと思った。ウィキの「オナガドリ」を見ると、『オナガドリの始まりは、江戸時代に土佐藩主の山内家が、参勤交代の際に使う飛鳥という槍飾りに用いる長い鶏の尾を農民から集めたことに』始まり、明暦(一六五五年~一六五七年)頃の土佐国大篠村(現在の高知県南国市大篠)で、武市利右衛門がオナガドリの原種白藤種を作り出した』。『伝説では地鶏とキジや山鳥と交配して作ったとされているが、正確な記録は残されていない』とある。本「和漢三才図会」は正徳二(一七一二)年頃(自序クレジット)の完成であるから、既にオナガドリはいたと考えてよい。以下、『土佐には東天紅鶏やチャボを含めて鶏の美しさを競う文化があり、オナガドリもその一環として、昭和初期には高知県内全体で飼育数が』五百『羽以上に増えた。雨戸の戸袋で飼って尾羽の抜けを防ぐ、ドジョウなど動物性蛋白質の餌を与えるといった、尾羽を伸ばすための工夫が凝らされた』。大正一二(一九二三)年に『国の天然記念物に指定されたが、太平洋戦争が始まり、その数は』九『羽まで激減』したため、昭和二七(一九五二)年に『国の特別天然記念物に指定された』。『ニワトリは通常一年に一度羽が生え換わるが、オスのオナガドリは尾羽が生え換わらないため、尾が非常に長くなる。明治時代までは尾の長さは』三メートル『程度であったが』、『大正時代に止箱(とめばこ)と呼ばれる縦長の飼育箱が開発され、尾が損傷しないよう』、『鳥の動きを抑制する飼育法が行われるようになり、尾がさらに長く成長するようになった』。『尾は若いうちは一年に』八十センチメートルから一メートル『程度、成長するが』、『加齢とともに尾の伸びる早さは鈍る。鶏が長生きした場合には尾の長さが』十メートル『以上に達することもあり、最も長いのは』昭和四九(一九七四)年に十三メートル『という記録がある』。『現在では尾がそれほど長くならなくな』『っている』が、『これは近親交配の増加が影響しているとみられ、南国市ではDNA解析を基にした交配で、元の姿を取り戻す保護作戦を始めている』とある。無論、「本草綱目」の「長尾鷄」は全くの別品種である可能性が高いかも知れぬが、まあ、わざわざ「本朝、未だ曾つて有らず」と言うのはおかしいでショウ! 良安先生!

「長鳴鷄〔(ながなきどり)〕」先に掲げた、サイト「畜産ZOO鑑」の「長鳴き鶏ってこんなニワトリ!」には「蜀鷄(トウマル)」の他に、「東天紅鶏(トウテンコウ)」と「声良鶏(コエヨシ)」が挙げられている。少なくとも今は超長鳴きの三種がいますよ! 良安先生!

「南越」中国南部からベトナム北部にかけての地方(嶺南地方)の旧称。

「南海」広東省の沿岸地域ととっておく。

「石雞〔(せきけい)〕」これは現代中国でも「石鷄」を当てるものの、広義に見てもニワトリの類ではない、キジ科イワシャコ属イワシャコ(岩鷓鴣)Alectoris chukar である。同種につてはウィキの「イワシャコ」を参照されたい。但し、本種は中国では殆んどの分布が内陸の丘陵や高地であり(渤海湾湾奧のやや内陸部には分布)、「潮、至れば、卽ち、鳴く」という叙述とは(これが海辺であるとするならば)齟齬する気がするので、「本草綱目」のそれは或いは全くの別種である可能性が高いのではないかと私には思われる。

「蜀中」四川省。

「鶤鷄〔(うんけい)〕」これは現行では先の「蜀雞(とうまる)」の異名である。

「楚中」湖南・湖北地方。

鷄〔(さうけい)〕」不詳。なお、「本草綱目」では「鷄」となっている。

【竝びに、高さ三、四尺。】此等は、

「總廓無星天」不詳。無限の宇宙の外郭のことか。

「吮〔(すす)〕る」「吸う・舐める」の意。殻の内側をそうするということであろう。

「啐(しゆつ)」辞書に「啐啄(そったく)」という語が載り、「そつ」は「啐(さい)」の慣用音。雛が孵(かえ)ろうとする際に雛が内から突(つつ)くのを「啐」、母鳥が外から突くのを「啄」と称するとあって、原義は「禅に於いて師家と修行者との呼吸がぴったり合うこと。機が熟して弟子が悟りを開こうとしている時を指して言う語」とし、そこから、転じて「得難(えがた)い絶好の時機」の意とある。今の安倍政権の政治には「啐啄(そったく)」はなく、あるのはただ「忖度(そんたく)」のみというわけだ。ただ、言っておくが、今現在、「忖度」を悪い意味でしか認識していない国民が、最早、大半なのではないかと思うと悲しい。これは、それほど「忖度」という語が死語になりかかっていたということなのだ。「忖」も「度」もフラットに「はかる」の意であり、「他人の気持ちを推(お)し測ること・推察」というやはりフラットな意味だということをもっと理解しないと、そのうち、「忖度」は悪い用語として「特定の人間の便宜を図る不公平な配慮」という意味に成り下がってしまう! 「良い忖度」と「悪い忖度」という使い分けをするべきである。安倍政権のそれは無論、「最悪不当の差別的忖度」と言うわけだ。

「哺(くゞめ)」動詞「哺(くく)む」(マ行下二段活用・「口の中食べ物を含ませる」の意)の名詞化。

(ひよこ)」(「」=「𣫠」-「殳」+「鳥」(一字の中の構成要素に「鳥」が二つある))雛(ひよこ)。実は東洋文庫訳では字を説明するのに用いた「𣫠」の字で翻刻しているのであるが、私の調べた限りでは、この字は「鳥の卵」の意であって、「雛(ひよこ)」の意味ではないので採らない

「糏(こゞめ)」屑米。米の欠片(かけら)。

「亮亮〔(りやうりやう)〕」ごく明瞭ではっきりしていること。

「呵坤(あくび)」「欠伸」。

「各曷課(こつかつこを[やぶちゃん注:ママ。])」「課」は音「クヮ(カ)」で、現代中国音「」(カタカナ音写:クゥーァ)で異様な感じに見えるが、オノマトペイアとして、れを素直に発音してみると、「コッカッコオ!」で、今の鶏鳴の擬音「コッコッ、コケッコ!」に非常に近いことが判る。

「其の鳴くや、雌(めどり)、先づ、雄の翅を啄-叩(つゝ)いて、其の時を知らしむるとき、則ち、雄〔(をどり)〕、聲を發す。蓋し、此れ、陰陽相待の義か」鶏が鳴く時は、実は、まず、雌鶏(めんどり)が雄鶏(おんどり)の羽を突(つつ)いて、「鬨を挙げる時が来ましたよ」とそれとなく知らせる。すると雄鶏が、やおら鬨の声を発するのである。いや、これはまさに雌雄=陰陽相待(普通は相対する陰陽が時に相い応じて新たな創造的変化の推進を行うこと)の原理に基づくものか。

「韓詩外傳」前漢の韓嬰(かんえい)の撰になる「詩経」の詩句を引いて古事古語を考証した書。説話集に近い。現行本は全十巻。ウィキの「韓詩外によれば、韓嬰は「漢書」の「儒林伝」によれば、『文帝の博士・景帝の常山太傅』を歴任し、『武帝の前で董仲舒と論争をしたが、韓嬰の説くところは明晰であって、董仲舒は論難することができなかったという』碩学である。「詩経」の『学問として、前漢では轅固生の斉詩・申公の魯詩・韓嬰の韓詩の』三『つの説が学官に立てられた。これらを三家詩(さんかし)と呼ぶ。現行の毛詩が古文の説であるのに対し、三家詩は今文に属する』。『韓詩について』は「漢書」の「芸文志」にはそれらの多数の著作が挙げられてあるが、『宋以降』、この「外伝」『以外は滅』んでしまい、三家詩ではこれが『現存する唯一の書物である』とある。同書は直接に「詩経」と『関係する書物ではなく、一般的な事柄や、いろいろな故事を述べた上で、話に関係しそうな』「詩経」の『句を引いたもので』、全部で三百条あまりの『話を載せるが、その中には「詩経」を『引いていないものも』二十八『条あり、脱文かと』も言われる、とある。以下の鶏の五徳は巻二に以下のように出る。良安の割注挿入はよろしくない。

   *

伊尹去夏入殷、田饒去魯適燕、介之推去晉入山。田饒事魯哀公而不見察、田饒謂哀公曰、「臣將去君、黃鵠舉矣。」。哀公曰。「何謂也。」。曰、「君獨不見夫雞乎。首戴冠者、文也。足搏距者、武也。敵在前敢鬥者、勇也。得食相告、仁也。守夜不失時、信也。雞有此五德、君猶日瀹而食之者、何也。則以其所從來者近也。夫黃鵠一舉千里、止君園池、食君魚鱉、啄君黍粱、無此五者、君猶貴之、以其所從來者遠矣。臣將去君、黃鵠舉矣。」。哀公曰、「止。吾將書子言也。」。田饒曰、「臣聞、食其食者、不毀其器、陰其樹者、不折其枝。有臣不用、何書其言。」。遂去、之燕。燕立以爲相、三年、燕政大平、國無盜賊。哀公喟然太息、爲之辟寢三月、減損上服。曰、「不愼其前、而悔其後、何可復得。」。「詩」云、「逝將去汝、適彼樂國、樂國樂國、爰得我直。」。

   *

「文」人倫の道の基本となる学識。

「傅〔(つ)くる〕は」装着しているのは。

「食〔(しよく)〕を見ては相ひ呼ばふは」餌を見つけると、互いに同朋を呼ばうのは。

「夜を守りて時を失はざるは」熟睡することなく、夜を測って、時間をうっかり忘れてしまうことなく(鬨を作る)のは。

「葛洪」(二八三年~三四三年)は西晋・東晋時代の道教研究家。ウィキの「葛洪から引く。『字は稚川で、号は抱朴子、葛仙翁とも呼ばれる。後漢以来の名門の家に生まれたが』、『父が』十三『歳の時になくなると、薪売りなどで生活を立てるようになる』。十六『歳ではじめて』「孝経」「論語」「易経」「詩経」を『読み、その他』、『史書や百家の説を広く読み暗誦するよう心がけた。そのころ』、『神仙思想に興味をもつようになったが、それは従祖(父の従兄弟)の葛仙公とその弟子の鄭隠』(ていいん)『の影響という。鄭隠には弟子入りし、馬迹山中で壇をつくって誓いをたててから』、「太清丹経」「九鼎丹経」「金液丹経」と『経典には書いていない口訣を授けられた』という。二十歳の『時に張昌の乱で江南地方が侵略されようとしたため、葛洪は義軍をおこし』、『その功により』、『伏波将軍に任じられた。襄陽へ行き広州刺史となった嵆含』(けいがん)『に仕え、属官として兵を募集するために広州へ赴き』、『何年か滞在した。南海郡太守だった鮑靚』(ほうせい)『に師事し、その娘と結婚したのもその頃である。鮑靚からは主に尸解法(自分の死体から抜け出して仙人となる方法)を伝えられたと思われる』。三一七『年頃、郷里に帰り』、『神仙思想と煉丹術の理論書である』「抱朴子」を『著した。同じ年に東晋の元帝から関中侯に任命された。晩年になって、丹薬をつくるために、辰砂』(硫化水銀)『の出るベトナム方面に赴任しようとして家族を連れて広東まで行くが、そこで刺史から無理に止められ』、『広東の羅浮山に入って金丹を練ったり』、『著述を続けた。羅浮山で死ぬが、後世の人は尸解したと伝える。著作には「神仙伝」「隠逸伝」「肘後備急方」『など多数がある』。

「凡そ、古井(ふるゐ)及び五月〔の〕井中、毒、有り」酸素欠乏を指している。

「感應志」東洋文庫版の「書名注」に、『晉の』博物学者として知られる『張華の『感応類従志』か。一巻。宋の賛寧にも『感応類従志』一巻がある』とある。調べて見たが、孰れかは判らなかった。

「五〔の〕酉〔(とり)〕の日」元旦から数えて五回目の酉の日の意か。

白雞の左の翅を以つて、灰に燒き之れを揚ぐれば、風、立ちどころに至る。黑犬の皮毛を以つて、灰に燒き、之れを揚ぐれば、風、立どころに止むなり。』〔と〕。相ひ傳ふ、如〔(も)〕し、人、有りて、池川に溺(をぼ[やぶちゃん注:ママ。])れて、未だ屍骸を尋ね獲〔(え)〕ざれば、則ち、鷄を板筏〔(いたいかだ)〕に乘せて水上に泛〔(うか)ぶれば〕、鷄、能く所在を知りて、鳴く。是に於いて、其の骸〔(むくろ)〕を探(さぐ)り獲〔(と)〕る。]

2018/07/27

諸國里人談卷之五 ㊈氣形部 犬生ㇾ人

 

諸國里人談卷之五

 ㊈氣形部(きぎやうのぶ)

    ○犬生ㇾ人(いぬ、ひとにむまる)

和泉國堺の邊、淨土宗の寺に、白犬(しろいぬ)ありける。

二六時中、勤行の時節、堂の緣に來りて平伏する事、年(とし)あり。又、常に、修行者、大路にて念佛すれば、衣の裾にまとはり、おかしげに吠(ほへ[やぶちゃん注:ママ。])ける。

或(ある)師走(〔し〕わす)、餅(もち)を搗(つく)日〔ひ〕、餅をあたへければ、咽(のど)につめて死(しゝ)てけり。

和尚、あはれみて、戒名を授(さづ)け、念頃(ねんごろ)に吊(とむら)ひぬ。

一夜(あるよ)、住僧の夢に、かの犬、來て曰はく、

「念佛の功力(くりき)によつて、人間(じんかん)に生ず。門番人〔もんばんにん〕が妻(さい)にやどる。」

と。

はたして男子を産(うめ)り。

和尚、しかじかの事を親に示して、六、七歳の頃より、出家させけり。

聰明叡智にして、一(いつ)を聞(きゝ)て十を慧(さと)る。よつて、こよなふ大切に養育してけり。

此者、幼少より、餅をきらひて食(しよく)せざりける。

前生(ぜんしやう)の犬なりける事、誰(たれ)いふとなく、新發意(しんぼち)の中にて仇名(あだな)を、

「白犬〔しろいぬ〕」

とよびけるを、やすからず思ひて、十三歳の時、和尚に問(とふ)。

「我を『白犬』といふ事、何ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]かくは侍ふやらん。此事、とゞめて給はれ。」

と云。

「わどの、餅をきらふゆへにこそ左(さ)いふなり。」

「しからば、餅を食(しよく)し侍らば、此難(なん)あるまじきや。」

「いかにもその事なるべし。」

「いざ、食ふべし。」

と、餅の日、膳にむかひけるが、用ある躰(てい)にて座を去りて、行方(ゆきかた)しらずなりぬ。

その所を求むれども、あへてしれざりき。

和尚、

「よしなき事をいひつるものかな。」

と、甚(はなはだ)後悔してげり。

常に手習ふ机のうへに、一首を殘せり。

 何となくわが身のうへはしら雲のたつきもしらぬ山にかくれじ

[やぶちゃん注:部立の「氣形」(きぎょう)とは生き物(動物)の意。なお、本条は物語性が高いので、読み易さを狙って、特異的に改行した。

「何となくわが身のうへはしら雲のたつきもしらぬ山にかくれじ」「うへ(上)」「しら雲」「たつ(立つ氣)」「山」は縁語、「しら雲」は「白雲」に「知ら」(それとなく気づいた)を掛け、「たつき」は「立つ氣」に「方便・活計(たつき)」(「手(た)付(つ)き」の意で、古くは「たづき」、中世以降に「たづき」「たつき」となり、現代では「たつき」)生きてゆくための手掛り・寄る辺)を掛ける。「じ」(①が「じ」で示されてある。③は「し」だが、和歌だから濁点がないのは普通)は打消推量・打消意志の孰れでも「隠れることはないだろう」「隠れまい」と意味の上ではおかしい。牽強付会するなら、こうなった上は(自分の前世が畜生の犬であったことを知ったからには)深山に隠れ住むなどという甘いことはするまい、誰にも逢うことのない別世界へ行く、命を絶つ、とでも解するか。或いは、前世で犬であった「わが身のうへ」は「何となく」私にも知れてしまった、犬畜生であった私は僧として生きてゆく「たつきも」最早、ない、即ち、犬であることを「しらぬ」人は最早いない、それは「かくれじ」、それを隠すことは、最早、出来まい、さればこそ、私はここを去って行く、とでも謂うものか。和歌嫌いの私には、よく判らぬ。]

2018/07/26

明恵上人夢記 77

 

77

一、同十一月八日の夜、夢に云はく、説戒之(の)時、每日、人數(にんず)、倍(ばい)する也。常住之(の)人の外に、客僧、加はると思ふ。又、人、有りて云はく、「然(しか)なり。」と云々。又、溫室(うんじつ)に入りて、數多(あまた)の人數(にんず)と沐浴すと云々。

[やぶちゃん注:承久二(一二二〇)年十一月八日と採る。

「説戒」(せっかい)は受戒(出家や在家の者など、それぞれの立場で守るべき戒を受けること)を求める者に戒律を説くことであるが、特に半月毎に同じ地域の僧を集め、戒本を読み聞かせ、自身を反省させ、罪を告白させる集まりを謂う。布薩(ふさつ)とも呼ぶ。

「客僧」「かくそう・きゃくそう」(現代仮名遣)二様に読める。私は「かくそう」(特に原義はそれがよい)と読みたい口である。原義は「修行や勧進のために旅をしている行脚僧」であるが、他に「余所の寺や在俗の家に客として滞在している僧」を指す。ここは原義に加えて派生の意も含むと採った方が自然な気がする。

「溫室」寺院で湯浴(あ)みをするための建物。湯殿であるが、実用的なそれよりも行の一環として僧に湯浴みをする場所と採った方が、「沐浴」の意とともに私には腑に落ちる。鎌倉時代のそれは、概ね、湯を湛えたものが配置された蒸し風呂形式のもので、湯槽に入る形ではないので注意されたい。]

□やぶちゃん現代語訳

77

 承久二年十一月八日の夜、こんな夢を見た――

 説戒の時、毎日、前の日の倍の人数が、これ、押し寄せて来る。常住の僧の以外に、数多の客僧(かくそう)が、これ加わっていると思われる。また、ある人の側にあって曰く、「その通りである。」と……また、温室(うんじつ)に入っても、そこには、これまた、驚くほど数多(あまた)の人々がいて、彼らとともに、私も沐浴するのであった……

 

明恵上人夢記 76

 

76

一、同十一月七日の夜、夢に、一つの大きなる池、有り。廣博(こうばく)也。上師有りて、樋口の女房に仰せて云はく、「此の池へ躍(をど)るべし。」【水、連(つら)なる時に躍る心地す。】。然るに、此の女房、飛ぶ鳥の如く、橫さまに飛びて、此の池に入る。後に來れる時、其の衣服(えぶく)、濕(うる)はず。上師等(ら)、之を御覽ず。

[やぶちゃん注:承久二(一二二〇)年十一月七日と採る。

「廣博」池が非常に広く大きいのであろうが、本来、この熟語は「知識・学問が多方面に亙っていること」の意である。或いは、この池は正法(しょうぼう)の深遠な「仏智」の池なのかも知れない。但し、エンディングで、入水した「樋口の女房」が、その水に全く濡れそぼっていなかったというシーンが如何なる意味を示しているのかは、全く分らない。しかし、彼女が一滴も濡れていないというコーダが稀有驚愕の霊験的事態である(明恵は勿論、上師にとっても)ことは、確かであるように思われる。因みに、河合隼雄氏は『「ぬれる」という表現は男女の性関係を連想させる』と珍しくフロイト的な分析の可能性を示唆されながらも、『どう解釈するかは難しい』と抑えておられる。

「上師」前例に倣い、母方の叔父で出家当初よりの師である上覚房行慈と採る。当時、生存。

「樋口の女房」底本に『覚厳』(かくごん)法師『の妻か』とある。底本の他注では彼を明恵の庇護者の一人とする。彼は「55」に登場する。

「水、連(つら)なる時に躍る心地す」ここは覚醒時の明恵自身の補注割注であるが、ちょっと意味が採り難い。「私は『池に漣(さざなみ)が連なり立った時こそ、彼女が躍り入ったと判るはずだ』という心持ちでいたことを思い出す。」という夢の中の明恵の意識の流れを覚醒時の明恵が補足細述したものか?

 

□やぶちゃん現代語訳

76

 承久二年十一月七日の夜、こんな夢を見た――

 一つの非常に大きな池がある。対岸がはっきり見えぬほどに広く深いのである。

 上師がおられ、そこにいた樋口の女房に仰せられることには、

「この池へ躍(おど)り入るがよい。」

と。

[明恵注:この時、私は、『池に漣(さざなみ)が連なり立った時こそ、彼女が躍り入った証しである』という、覚醒時の今の私には今一つ、よく意味は解らないのだが、確かに、そういう確信的な心持ちでいたことを、今、思い出す。]

 ところが、この女房は、あたかも飛ぶ鳥のように、美しく横ざまに――さっと――飛んで、この池に――すうっと――波も立てずに入った。

 しばらくした後、彼女が私たちの前に、再び姿を現わし来った時、何と、その衣服は、これ、全く濡れていなかったのである。

 上師らも、これを確かに、ご覧になられたのである。

明恵上人夢記 75

 

75

一、又、此の比(ころ)、夢に、兩人の女房有り。其の形、顏は長く、白き色なり。兩人同意して、上皇に、能々(よくよく)予之(の)御氣色(おんけしき)、吉(よ)かるべき事を申し入(いる)る。之に依りて、御感(ぎよかん)有る由、語らる、と云々。

 又、大きなる土器(かはらけ)の如き星あり。予を護り給ふ由を思ふと云々。

[やぶちゃん注:「此の比」「74」夢が承久二(一二二〇)年(推定比定)十月二十七日で、しかもその前は殆んど日を置かずに夢記述が示されてあって、次の「76」夢が同年(推定比定)十一月七日であるから、十月二十七日前後というよりは、承久二(一二二〇)年十月二十八日から十一月六日までの九日(同年十月は大の月)の間の夢とするのが自然な気がする。但し、二夢連続で記載されているものの、それが連続して見られた夢であったかどうかは、判らない。しかし別な折りの夢であったとしても、同じ条にかく纏めて、「一」の頭を置かなかったということは、この二つの夢が、明恵にとっては、ある種の強い連関(親和性)を持って記憶されていたことを強く示唆するものではあろう。

「女房」後に上皇云々とあるから、後宮の女官である。

「其の形、顏は長く、白き色なり」女性的な観音菩薩の造顔に似ているように思われる。

「上皇」後鳥羽上皇。「承久の乱」の勃発は、この七ヶ月後の承久三(一二二一)年五月十四日のことである。この時期、後鳥羽院と鎌倉幕府の関係は最悪の状態にあった。明恵が朝廷方に強いシンパシーがあり、乱では後鳥羽上皇方の敗兵を匿っており、乱後も、朝廷方についた貴族や武家の子女・未亡人たちを保護するため、承応二(一二二三)年に山城国に比丘尼寺善妙寺(高山寺別院で高山寺の南にあったが、早期に廃絶して現存しない。現在の右京区梅ヶ畑奥殿町内の(グーグル・マップ・データ))を造営したりしていることは言わずもがなである。私の栂尾明恵上人伝記 63 承久の乱への泰時に対する痛烈な批判とそれに対する泰時の弁明の前後なども参照されたい。

「御氣色」表情や態度に現れた心のさまであるが、ここは仏者としての心底(しんてい)と採ってよかろう。「御」は「女房」の明恵への敬意の接頭語なので訳さなかった。

「土器」素焼きの杯(さかずき)と採る。]

□やぶちゃん現代語訳

75

 また、承久二年の十月末から十一月の初めの頃、こんな夢を見た――

 二人の女房がいる。その顔形は、長く、抜けるように白い色をしている。

 その二人が二人ながら同意して、後鳥羽上皇に、よくよく、拙僧の心のさまが、めでたく正法(しょうぼう)に基づいて善(よ)きことを奏上し申し上げた、と語り、これをお聴きになられたによって、上皇さまは大いにご感心遊ばされた由を、私に語って下され……

 

 また、同じ頃、別にこんな夢も見た――

 非常に大きな土器(かわらけ)のような星が中天に輝いているのを見た。

 それを眺めながら、私は、

「ああっ! あの御星(おんほし)は、私をお護り下さっている!』

と思って……

明恵上人夢記 74

 

74

一、同廿七日の夜、前(さき)の如く、一向に三時、坐禪す。上師在りて、予の爲に、不倫の如き僧等(ら)五人、之を殺害(せつがい)す。殺生罪之躰(せつしやうのつみのてい)に非ず、と覺(おぼ)ゆと云々。

[やぶちゃん注:前に徴して承久二(一二二〇)年十月二十七日と採る。「73」の翌日というか、後半の暁方の覚醒夢を見た日の夜である。これもまた、明恵自身の決めた前夜と同じ修行法を繰り返しており、やはり同じく座禅中の覚醒夢であるだけに、「73」と本夢との連関性は、より強いように私には思われる。しかも、

――自分の師が手ずから血に染めて、彼、明恵のために、売僧(まいす)を五人も殺害するのを目撃し、しかも、それを見ている明恵は、その師匠の殺人行為を仏教最大の五悪の筆頭であるはずの「殺生の罪」には当たらぬ正法(しょうぼう)に背かぬ正当な行為であると認識する――

という、一見、驚愕極まりない内容なのである。しかし、これは、見ている明恵が「五人」の破戒僧は実際の僧ではない、反仏教的な何らかのシンボルであることを認識しているということに他ならないと読める。

「上師」前例に倣い、母方の叔父で出家当初よりの師である上覚房行慈と採る。当時、生存。

「不倫」仏者として踏み行うべき道から外れていること。女犯(にょぼん)に限る必然性はこの場合、全くないであろうと私は読む。]

□やぶちゃん現代語訳

74

 承久二年十月二十六日の夜、前夜と同様、只管(ひたすら)に夜を徹して座禅をする。その間に、またしてもこんな覚醒夢を見た――

 上師がおられる。

――その尊(たっと)き上師が 何と!

――他でもない

――私こと、明恵のために

――破戒に等しい行いを成していた僧ら五人を

――これ、殺害なさるのを

――見た。

――しかし、それを目撃しながら、

――私は

『これは殺生の罪に当たるものでは――ない――』

と確かに自覚し、平然としていられた……

 

明恵上人夢記 73

 

73

一、同廿六日の夜、一向に、三時、坐禪す。夢に、一つの大きなる山より、懸樋(かけひ)、通ふ。其の源は遼遠にして、予の頂(いただき)の上に當(あた)る。水、殊に偉大(とほじろし)と云々。又、其の曉、一つの大きなる蟲有り。形、蜈(むかで)の如し。崎山の尼公の手を、させり。十藏房、有りて、之を去らむと欲すれども、能くせず。高辨、之を去らむと欲すれば、逃れて奧へ入らむと欲す。卽ち之を拂ひ去る。

[やぶちゃん注:前に徴して、承久二(一二二〇)年十月二十六日と採る。

「一向に」只管(ひたすら)に。

「三時」は六時〔六分した一昼夜〕を昼三時と夜三時に纏めたもの。晨朝(じんじよう)・日中・日没(にちもつ)を昼三時、初夜・中夜・後夜を夜三時という。則ち、夜を徹して座禅したのである。

「偉大(とほじろし)」底本のルビ。このような形容詞は私は聴いたことがない。非常に強く畏れ多い偉大なる精神のパワーを以って脳天から脳髄及び全身に滲み徹ってくることを謂うか。

「形、蜈(むかで)の如し」形は百足(むかで)に似ているが、百足ではないのである。

「崎山の尼公」底本注に『湯浅宗重女。崎山良貞室』とある。明恵の母の妹の信性尼(伯母とする記載もある)。既注であるが、再掲しておくと、崎山良貞(?~元久元(一二〇四)年)は明恵の養父で、紀州有田川下流域を支配した豪族。明恵の庇護者でもあり、彼の没後、未亡人であった彼女によって、良貞の屋敷が寺として明恵に寄進されてもいる。

「十藏房」「52」夢に既出であるが、不詳。ただ、そこでも記した通り、この少し後に出る、「夢記」の中でも女性性の強く暗示される重要な夢の一つ、通称「善妙の夢」(承久二(一二二〇)年五月二十日の夢。以下で記載時制が逆転している)で唐渡来の香炉を明恵に渡すのがこの十蔵房で、同夢では明恵にある種の開明を示す立場にあるように読めるから、私には弟子とは読めない

「高辨」明恵の法諱。]

□やぶちゃん現代語訳

73

 承久二年十月二十六日の夜、只管、三時通して、座禅した。その最中、こんな覚醒夢を見た――

 一つの大きな山から、長大な筧(かけい)が通っている。

 その筧の源は遙か遠くであって、その下端は私の頭の頂きの上に当たってある。

 そこを流れ下って落ちる水は、これ、殊の外、何か、強く、畏れ多く、偉大な精神の力を以って、私の身内に深く徹して滲み渡ってくることが感じられ……

 

 また、その暁方に、やはりこんな別の覚醒夢を見た――

 一つの異様に大きな虫がいる。形は、蜈蚣(むかで)に似ている。

 崎山の尼君の手を、刺した。

 傍らに十蔵房がいて、これを除き去ろうとしたけれども、上手く出来ない。

 私こと高弁が、これを除き去ろうとすると、その虫は逃げて、奧の方へと逃げ入ろうとする。

 しかし、私は、首尾よく、これを払い去ることに成功する。

明恵上人夢記 72

 

72

一、同廿四五日の比(ころ)、夢に云はく、暑預(やまのいも)・甘葛(あまづら)を持ちて上師に奉る。又、小分(こわけ)に分ちて【茶碗の小器に盛る。】、我が處に置く。義覺房、之を持ちて、散動巡行すと云々。

[やぶちゃん注:「71」からの続きとしてその一週間ほど後の承久二(一二二〇)年十月二十四日或いは翌二十五日に見た夢と採る。内容的に前の「71」との親和性がすこぶる強い印象を受ける。というよりも、「71」夢の続きのような形で、「71」で上師(上覚房行慈)から衆生を済度するせよとして賜った「沙糖」(砂糖)に対するもの(儀礼的返礼ではなく、そうした使命を授けられたことへの明恵の応答(覚悟)の表明)として、「暑預(やまのいも)・甘葛(あまづら)」(後注参照)の献上はあるように読める。

「暑預(やまのいも)」正しくは「薯蕷」で「やまのいも」。古くは「薯蕷」と書いた。単子葉植物綱ヤマノイモ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属ヤマノイモ Dioscorea japonica甘味との親和性があり(多くが苦い野老(ところ)(ヤマノイモ属 Dioscorea のトコロ類)に対したものとして「苦くない」のである)、「71」の「沙糖」との連関が認められる

「甘葛(あまづら)」一般的にはブドウ科 Vitaceae に属する蔓(つる)性植物(ブドウ目ブドウ科ツタ属ツタ Parthenocissus tricuspidata など)のことを指しているとされる一方、甘茶蔓(スミレ目ウリ科アマチャヅル属アマチャヅル Gynostemma pentaphyllumのことを指すという説もある。参照したウィキの「アマヅラによれば、『甘味料のひとつで』、『砂糖が貴重な時代には水飴と並んで重宝された』とし、『縄文時代の貝塚の中から出土されており、この頃から甘味料として利用されたと思われる。安土桃山時代になり』、『砂糖の輸入が活発になると』、『都市部でアマヅラの需要はほぼなくなり、さらに、江戸時代に砂糖の大量供給が実現すると』、『全国的にアマヅラを作るところは少なくなった』。『清少納言は、『枕草子』でかき氷のうえにアマヅラをかけて食べる描写を書いている』(「枕草子」の「物尽くし」の章段の一つ、「あてなるもの」(上品なもの)」の段で「削(けづ)り氷(ひ)にあまづら入れて、新しき金(かな)まりに入れたる」と出る。「金まり」は金属製の御椀)。その蔦(ツタ)の場合の造り方は、『ツタを伐採し、さらに』三十『センチ間隔に切り取』り、その『切り取ったツタの一方に口を当てて息を吹き込み、中の樹液を採取』して、その『樹液を煮詰め』、『水分を飛ばし、粘りのあるシロップ状に』する、とある。まさに「71」の「沙糖」との強力な対応性が認められる

「義覺房」底本の注によれば、明恵歌集に頻出し(彼の歌と思われるものも四首載る)、別に「六因義覺房」とも称し、『伝未詳』であるが、歌の詞書から、『高雄における明恵の同輩』とする。

「散動巡行」不詳。飛び躍るように巡り歩くことか。雀躍歓喜の法悦を示すものか?]

□やぶちゃん現代語訳

72

承久二年十月二十四日か、二十五日の頃、こんな夢を見た――

 私は、薯蕷(やまのいも)と甘葛(あまずら)を持って、これらを上師に奉った。

 しかし、上師はそれらをも小分(こわけ)にお分けになられ――それぞれ茶碗のような小さな器にお盛りになられた――、またしても――先の砂糖と同じく――私の所に置かれるのであった。

 同輩の義覺房は、このそれぞれが盛られた器を左右に手に持って、驚くばかりの跳び撥ね方でもって辺りを巡り歩き……

明恵上人夢記 71

 

71

一、同十八日、初夜の行法の時、幷(あは)せて我が事を祈念して、加被(かび)を蒙るを望む。其の道場觀(だうじやうくわん)の時に一つの好相(がうさう)を得たり。上師、忽ちに來りて、筒に沙糖(さたう)を盛り、「汝、八寒八熱の衆生を利せよ。是(これ)故に之を與ふる也」と云々。

[やぶちゃん注:「70」からの続きとして承久二(一二二〇)年十月十八日と採る。本条は、就寝中の夢ではなく、観想行を行っていた最中に見た脳内の幻視映像である。

「初夜の行法」六時(既注)の一つである戌の刻(現在の午後八時頃)に行う勤行のこと。

「加被(かび)」仏・菩薩・神が慈悲の力を加えて衆生を助けて願いをかなえること。「御加護」に同じい。

「道場觀」不動明王を観想するもの。

「好相」「相好(さうがう(そうごう))」に同じい。仏の身体に備わっている三十二の相と八十種の特徴の総称。

「上師」前例に従い、母方の叔父で出家当初よりの師である上覚房行慈と採る。当時、生存。

「筒」丈の低い相応に大きな筒、円筒状の丸い鉢のようなものであろう。

「沙糖」甘露(サンスクリット語アムリタの訳語で「不死」「天酒」とも訳される。インド神話では諸神の常用する飲物で、蜜のように甘く、飲むと不老不死になるというギリシャ神話で神々の飲む不老長寿の赤色の酒「ネクター」のようなもので、「仏教の教法」にも譬える)の判り易いメタファーであろう。

「八寒八熱」八寒地獄(頞部陀(あぶだ)地獄・尼剌部陀(にらぶだ)地獄・頞哳吒(あたた)地獄・臛臛婆(かかば)地獄・虎虎婆(ここば)地獄・嗢鉢羅(うばら)地獄・鉢特摩(はどま)地獄・摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄)と八熱地獄(等活地獄・黒縄・衆合地獄・叫喚地獄・大叫喚地獄・焦熱(炎熱)地獄・大焦熱(大炎熱)地獄・阿鼻(無間(むげん))地獄)。それぞれの責め苦様態等はウィキの「八大地獄を参照されたい。]

□やぶちゃん現代語訳

71

承久二年十月十七月の夜、初夜の行法(ぎょうほう)の際、行法とともに、私の修行僧としての存在の正しい在り方を祈念して、仏の御加護を蒙らんことを望んだ。その後、不動明王を観想する道場観(どうじょうかん)を行っている最中、意識の中で、一つの仏の来臨を感じさせる感覚を得た。それを以下に記す――

 上師が、突如、来られて、筒に砂糖を堆(うずたか)く盛って、それを私に差し出だされ、

「そなた、八寒八熱に堕ちた衆生(しゅじょう)を利益(りやく)せよ。さればこそ、これをそなたに与えるのである。」

と仰せられ……

進化論講話 丘淺次郎 第十八章 反對説の略評(四) 四 遺傳單位不變説 / 第十八章 反對説の略評~了

 

     四 遺傳單位不變説

 

 近頃はまた雜種による遺傳研究の結果として、親から子に遺傳する性質を若干の單位に分けて考へるやうになつたが、かやうな單位を化學的分析に於ける原子に比較し、組み合せ方はどのやうにでも變更が出來るが、單位それ自身は一定不變のものである如くに見倣す人も今はなかなか多い。著者はこの遺傳單位不變の説は誤りであると思ふ。

 メンデルの行つた碗豆の雜種試驗では、豆の色の黃色いことも靑いことも、豆粒の形の圓いことも皺のあることも、一定の規則に從つて遺傳し、第二代目以後には一定の數の割合に分離するから、遺傳の研究上各一個の單位性質と見倣して取扱ふことが出來るが、他の材料に就いて實驗して見ると、かやうに簡單に行かぬ場合が頗る多い。例へば鼠の白い品種と鼠色の品種との間に雜種を造つて見ると、第二代目に白いもの、鼠色のものの外に、黑い子が出來ることがある。かやうな場合には如何に之を解釋するかといふに、先づ次の如くに假定する。卽ち毛の色は一つの遺傳單位によつて生ずるのではなく、二つの遣傳單位が合した結果である。鼠色を現すには、鼠色を出すべき基となる甲單位と、之をしてその色を現さしむべき乙單位とが揃ふことが必要で、黑色を現すには、黑色を出すべき基となる丙單位と、之をしてその色を現さしむべき乙單位とが揃ふことが必要である。乙單位が缺けては、甲單位だけで鼠色を現すことも出來ず、丙單位だけで黑色を現すことも出來ず、孰れも色素のない白色のものとなる。されば白色の鼠は乙單位を含まぬ點に於ては、總べて一致するが、實は二種の別があつて、一は鼠色の單位を隱して含み、一は黑色の單位を隱して含んで居る。今囘の雜種を造るために用ゐた白色の親鼠は、實は色素の現れぬ黑鼠であつた故に、第二代目に至つて、この黑色單位と相手の乙單位とが組み合つて黑色を現したのである。かやうに、たゞ見ては鼠色とか黑色とかいふ單一な性質と思はれるものを雜種研究の結果から推して、二つの單位に分解し、之によつて説明せんと試みるのであるが、斯くすると、各の遺傳單位は甘く[やぶちゃん注:「うまく」。]メンデルの優劣の法則、分離の法則などに當て嵌まり、理論上の數の割合と實驗の結果とが、大概相近い場合も相應に多い。

 また白鼠と鼠色の鼠との間の雜種が、第二代目に至つて鼠色のもの、黑色のもの、鼠色と白と斑のもの、黑と白と斑のもの、全身白色のものなどが生じた場合には、黑色の基となる單位性質、鼠色の基となる單位性質、これ等に實際色を出させる單位性質、斑を生ずる單位性質などが、親鼠の體に備はつて有つたものと假定し、白鼠の方には黑色の單位と、斑を生ずる單位とが含まれてあつたが、色を出させる單位が訣けて居たために白色を呈したのである。雜種の二代目に至つて遺傳單位の樣々の組み合せが出來たから、實際生じた如き五種類の違つた色や模樣のものが現れたのであると説明する。かやうに雜種研究の結果が、簡單な規則に嵌まらぬ場合には、親生物の遺傳する性質を、次第次第に數多くの單位に分け、終にメンデルの分離の法則や獨立遺傳の法則で、目前の現象が説明の出來るまでは止めぬ。それ故研究が進むほど、遺傳單位の數が增し、最も詳しく調べた「きんぎょ草」では、色を出させる單位、色を濃くする單位、斑を生ずる單位、色を隱す單位など、二十二種も單位が有るものと見倣され、尚研究したら四五十までには、增(ふ)えるであらうと論ぜられて居る。遺傳單位なるものは、目で見ることも出來ず、手に觸れることも出來ぬ想像的のものであるが、かやうに雜種研究の結果に基づいて、次第に細かく性質を分解し進む有樣は、複雜な化合物を次第にその原子までに分解する化學の分析法に大に似て居るから、自然に兩者を同樣のものと考へ、雜種による遺傳の研究を遺傳性質の分析法と名づけ、生物の身體を恰も獨立遺傳する單位性質の集合の如くに見倣すに至つた。

[やぶちゃん注:マウスの毛色の遺伝についての現在の遺伝子上の知見は、財団法人環境科学技術研究所公式サイト内マウスの毛色の遺伝から考えてみよう及びラット・コリー氏のブログ「外部動物日誌」のマウスの毛色の遺伝についてがよい。前者ではABCの三座、後者はD座を含めた四座で解説されてあるが、実際にはもっと多くの遺伝子(座)が関連するものの、主要な基本色は三座である。

「きんぎょ草」「金魚草」。シソ目オオバコ科キンギョソウ連キンギョソウ属キンギョソウ Antirrhinum majus。ネット上で最近の植物研究を見ると、本種は花の色変異の遺伝学上の資料だけでなく、突然変異体や花器官の原器形成の研究に用いられている。]

 

 著者は決して、雜種研究によつて生物の遣傳する性質を若干の單位までに分析することに、反對するわけではない。若しも遺傳單位を認めることによつて、遣傳の現象が幾分でも容易に且合理的に説明が出來るならば、之は無論結構なことと思ふ。倂しながら、之より推し進んで、生物體を恰も獨立遣傳する單位性質の塊の如くに見倣すことは、誤りであると考へる。抑生物の身體は種々な部分から成り、樣々な働きをしても、全部揃つて初めて一つの完結した個體をなすもの故、之を幾つかの部分に分けて考へては、最早個體としては消えてしまふ。恰も一枚の煎餅を細かく碎いてしまへば、一枚としての煎餅は無くなり、一個の時計も一つ一つの車輪や螺旋に離してしまへば、時計としての存在を失ふやうなものである。特に生物體の有する種々の性質は確にその生物體に具はつてあるに違ひないが、之か一つ一つに分けて算へ立てるのは、見る人の方で勝手にすること故、見る人の智惠や考へが違へば、區別の仕方もそれぞれ違ひ、粗く少く別ける人もあれば、細かく多く別ける人もあらう。人間自身を例に取つても、幾つの遺傳單位の集まりと見倣すべきかと考へて見たら、肉體的にも精神的にも、性質の數は細かく分ければ分けるほど增えて、幾つに成るか解らぬ。されば化學分析で化合物を元素までに分解するのと、雜種實驗によつて、一見單一に思はれる性質を、若干の遺傳單位に分けるのとは、表面上似た所はあるが、事柄が餘程違ふ故、決して同一視すべきものではない。生物體を正當に了解するには、何處も完全なものとして全體を見ることが必要で、之を勝手に澤山の假想的細部に切り碎き、各部を獨立せるものの如くに見倣し、個體を單に斯かるものの集合として取扱ふのは、理論方面に於て大なる誤を生ずる基である。

 生物體を以て若干の遺傳單位の集まりの如くに見倣す人の中には、遺傳單位なるものは、化學の元素の如くに、一定不變のものであると考へる人が多い。それ等の人の考へによると、遺傳單位は一定不變のものであるが、これが樣々に組み合つて、種々の性質となつて現れるのは、丁度少數の元素が樣々に組み合つて、無數の複雜な化合物が出來るのと同じである。著者は若年の頃、化學の元素さへ一定不變のものであるや否やを疑つたことがあるが、之は別問題として、今日遣傳單位を以て一定不變のものと見倣す議論の根據は何かといふと、一は化學分析との類似で、一は實驗研究の結果である。卽ち幾代か繰り返して實驗を續けても遺傳單位に變化が起らぬから、之か一定不變のものと認めるのであらうが、著者より見れば、之は全く進化論以前の生物學者が、生物各種屬が萬世不變のものである如くに考へたのと同樣な誤りである。昔の學者が生物の親と子と孫との間に著しい變異の起らぬのを見て、生物の各種はいつまで經つても少しも變化せぬものであらうと思つて居た如くに、今日の實驗研究者も幾代かの實驗の結果、各遺傳單位は一定不變のものである如き感じを持つのであらうが、凡そかやうなことを確めるには、極めて長い年月を要するから、實驗の結果だけでは論ぜられぬ。自然科學に於て實驗を重んずべきはいふを待たぬが、人間の行ふ實驗は僅の材料を用ゐ、短い時間に行はれ得べきことだけに限られるから、少しく長い年月を要することは到底實驗では出來ぬ。されば、論より證據といふ諺はあるが、時としては證據よりも論に賴らねばならぬ場合もある。生物の進化、地球の歷史、宇宙の變遷などの如き、極めて長い時の間に起つたことを説明する場合には、たとひ證據となるべき事實は澤山あるとしても、その間を繋ぐのはやはり論である。遺傳單位不變説の如きも、僅に數代に亙る實驗を根據とせず、生物の初めて現れてから、今日に至るまでの長い時聞に當てて考へて見たならば、その不合理なることが明に知れるであらう。若し遺傳單位なるものが昔から今日まで少しも變ぜずして傳はり來つたものとしたならば、今日鼠の毛の黑い色素の基となる單位、その色を現さしめる單位とか、「きんぎょ草」の花に斑を生ずる單位、色を濃からしめる單位などが、皆生物の出來始[やぶちゃん注:「はじめ」。]の時から已に存したものと論じなければならぬが、かやうなことを眞面目に信ずるのは頗る困難である。

[やぶちゃん注:丘先生の「遺伝単位不変説」に対する反駁はすこぶる腑に落ちるものである。現行、分子生物学の席捲によって分類学や遺伝学は激しく変容し、まさにDNARNAはもとより、一部はトランスファーRNAtRNA)やリボソームRNArRNA)の書き込み情報レベルにまで遺伝情報は極小化されているけれども、ウィキの「遺伝子によれば、『分子生物学における最狭義の遺伝子はタンパク質の一次構造に対応する転写産物(mRNA)』『の情報を含む核酸分子上の特定の領域=構造遺伝子(シストロン)』(cistron:遺伝子の機能単位。一本のポリペプチド鎖の一次構造を決定するコードの、転写開始点と転写終結点を持つ部分)『をさす。転写因子結合部位として、転写産物の転写時期と生産量を制御するプロモーターやエンハンサーなどの隣接した転写調節領域を遺伝子に含める場合もある』(引用元ではここに「オペロン」への見よ記載がある。オペロン(Operon)とは一つの形質を発現させる遺伝子或いは構造遺伝子部分Coding regionDNAの塩基配列の中でと非翻訳領域の間にある開始コドンと終止コドンに挟まれたタンパク質に翻訳されるmRNA 或いはその鋳型となるDNA の領域)を指す遺伝子単位であるが、現在はあまり使用されない用語である)。『ちなみに、語感が似る調節遺伝子とは上記の転写因子のタンパク質をコードしたれっきとした構造遺伝子である。しかし、転写産物そのものが機能を持ち、タンパク質に翻訳されない、転移RNAtRNA)やリボソームRNArRNA)、機能性ノンコーディングRNAに対応する遺伝情報が、タンパク質構造遺伝子と同程度の数をもつことが報告され、狭義の遺伝子に含められるようになっている。近年、化学修飾や編集によるDNAのもつ情報の変更が発見されて、DNA上の領域という定義は、古典的な意味での遺伝子の範疇には収まらなくなりつつある』。『古典的な遺伝子の定義は、ゲノムもしくは染色体の特定の位置に占める遺伝の単位(』『遺伝子座)であり、構造は変化しないと考えられていた。しかし突然変異やトランスポゾン(可動性遺伝子)』(transposon:細胞内に於いてゲノム上の位置を転移(transposition)することの出来る塩基配列を指す)『の発見、抗体産生細胞で多種の抗体を作り出すための遺伝子再編成の発見などから、分子生物学的実験対象としての遺伝子の概念はたびたび修正を余儀なくされた。他にも遺伝子増幅、染色体削減といったダイナミックな変化や、二つの遺伝子の転写産物がつなぎあわされるトランススプライシング』(Trans-splicingmRNAの成熟過程で起きるスプライシング(遺伝情報を持たないイントロン(intron)が RNA 分子から除去され、タンパク質合成の情報を持つエクソン(exon)が連結する反応)が、mRNA前駆対の異なる分子種間で起こり、本来コードされていない配列が付加されることを指す語)『のように遺伝子の概念を広げる現象もある』。また、『同じ生物学内でも進化論や集団遺伝学、進化ゲーム理論での議論で用いられる遺伝子という単語は、上記の構造遺伝子やDNA上の領域あるいは遺伝子座とは相当に異なる概念を内包しており、混同してはならない(例:リチャード・ドーキンスの著書表題『The Selfish Gene(利己的な遺伝子)』)。こちらは、自然選択あるいは遺伝的浮動の対象として集団中で世代をまたいで頻度を変化させうる情報単位である。メンデル遺伝的な面をもつもののほか、表現型に算術平均的影響を与える量的形質遺伝子、遺伝情報の突然変異や組み換えに対応する無限対立遺伝子モデルなど、理論的でありながら、即物的な分子生物学の側面を包含した考え方である。これを模倣し、文化進化の文脈で用いられるミーム』(meme:ヒト集団の脳内で伝達・改変が繰り返される情報の内、人類の文化を形成する働きを持つもの。例えば、習慣・技能・物語といった、人々の間で伝達される様々な情報を指す用語。ここはウィキの「ミームを参考にした)『は集団遺伝学における遺伝子のアナロジーである』。『遺伝子という言葉は、「遺伝する因子」としての本来の意味を超えて遺伝子産物の機能までを含んで用いられる場合があり、混乱を誘発している。後者の典型例としては、遺伝しない遺伝子を使った遺伝子治療などがあげられる。さらに遺伝子やDNAという言葉は、科学的・神秘的といったイメージが先行し、一般社会において生物学的定義から離れた用いられ方がされていることが多い。それらの大半は通俗的な遺伝観を言い換えたものに過ぎない。一般雑誌などでは疑似科学的な用法もしばしば見受けられる』とある。]

 

 本書は元來、生物進化の事實とその説明との大要を成るべく通俗的に書くのが主であつたから、從來の版には理論方面の學説は殆ど捨てて置いた。倂し近來は追々遺傳に關する論説が雜誌上にも現れ、また書物にも書かれるやうになつて、その中には本書に述べたことと矛盾する如くに見える所も少からぬから、前以て讀者の疑問に答へるために、この度の新版には、それ等に對する著者の考を一通り略述することとした。已に幾度も述べた通り、これらの問題は今日尚議論の最中であつて、孰れの側からも種々の理窟を持ち出して鬪ふことの出來る點であるから、無論この章に述べただけで、著者の考へがいひ盡してあるわけではないが、餘り詳しく論じては、本書の元來の目的から遠かるから、以上述べただけに止めて置く。

[やぶちゃん注:本書「進化論講話」初版は明治三七(一九〇四)年一月(東京開成館刊)の発行であるが、本テクストは国立国会図書館デジタルコレクションの中の、同じ東京開成館から大正一四(一九二五)年九月に刊行された初版二十一後)、その『新補改版』(正確には第十三版)である。]

2018/07/25

進化論講話 丘淺次郎 第十八章 反對説の略評(三) 三 後天的性質非遺傳説

 

     三 後天的性質非遺傳説

 

 後天的性質は遺傳するといふ説と、遺傳せぬといふ説とが有つて、今日尚議論を鬪わして居ることは、已に前に述べたが、その實際を調べて見ると、事實に關する議論よりも寧ろ文字の解釋に就いての議論と思はれる場合が多い。例へば前章に掲げた種々の例の如きは、著者より見れば、當然後天的性質の遺傳と認めるが、後天的性質は遺傳するものでないと論ずる學者は、斯かる場合を如何に説明するかといふに、略次の如き論法を用ゐる。卽ち高い溫度の所で飼養せられたために、蛾の翅の黑くなつたのは、後天的の性質であるが、その生んだ子を平常の溫度の所で育てても、幾分か翅が黑いのは、決して親の後天的性質が遺傳したわけではない。何故といふに、外界の高い溫度が蛾の身體に影響を及ぼす場合には、翅の色を黑からしむるだけに止まらず、恐らく體の内部にも達して、生殖腺内の生殖細胞にも何等かの變化を起すであらう。さればかやうな親から生れた子が、普通のものに比して幾分か違ふて居るのは、親からその新な性質を遺傳したのではなく、生れぬ前に親と同時に外界から影響を受けた結果である。それ故、これは眞に遺傳と名づくべきものでないと、かやうに論じて居るのである。

 右の如き議論は、先づヴァイズマンの生殖物質繼續説を採り、生物の身體は、生殖物質と身體物質との二つに判然分けられるものと見倣した後に初めて成り立つものである。著者の如きは、身體といへば無論全身を指すものと見倣し、生殖腺をもその中に込めて考へるが、後天的性質の遺傳を否定する論者は、身體の中から生殖細胞だけを除外し、全身から生殖細胞を引き去つた殘りだけを身體と名づけて居るのであるから、已に身體といふ言葉の用ゐ方が違ふ。而して彼等は生殖細胞を除いた殘りの體部だけが、先づ外界からの影響を受けて、一定の變化を起し、次に生殖細胞を通じてこの變化を子に傳へたのでなければ、後天的性質の遺傳とは見倣さぬといふのであるから、何時まで議論しても容易に果(はてし)の附かぬ筈である。

 ヴァイズマンは生物の身體を生殖物質と身體物質とに分け、身體を容器、生殖細胞を内容物の如くに考へたから、身體が一生涯の間に新に獲た性質は如何なるものでも、決して子に傳はることはないと明に斷言した。卽ち重箱の表面に幾ら傷が附いても、内の牡丹餅に何の變化も起らぬのと同じであるやうに見倣して居たのであるが、後に成つて、高溫度で飼育した蝶や蛾の變化が子に傳はるといふ確な實驗の報告を見るに及んで、外界からの影響も身體内の生殖細胞までに達するときは、次の代にも變化が現れるといひ出した。然し之は容器なる身體と内容物なる生殖細胞とが同時に外界からの影響を受けたのであるから、竝行感應とでもいふベきもので、遺傳の範圍には屬せぬと論じて、後天的性質非遺傳説を立て通そうとして居るのである、されば今日の所では、外界から生物體に及ぼす影響はその一代に止まらず、後の代までも繼續することがあるといふ事實は、實驗によつて證據立てられたことで、之に對しては誰も疑を插むことは出來ず、たゞ之を後天的性質の遺傳と名づけるか、竝行感應と名づけるかといふ言葉の上の爭があるに過ぎぬ。而して生物の進化を論ずるに當つては、親が新に獲た性質が、子孫にも引き續き現れるや否やといふ事實上の問題ならば、極めて大切であるが、斯かることが確にあると知れた上は、之を遺傳と名づけようとも、竝行感應と名づけようとも一向構はない。

 後天的性質が子に傳はるというても、無論總べてが傳はるといふわけではない。外界から生物體に及ぼす影響の中には、一局部だけに限られて、他に餘り關係のないものもある。ただ一囘の怪我によつて身體の一部を傷けた場合の如きはその例で、試に鼠の尾を切り捨てても、その他の體部には餘り變化を生ぜぬ。肺にも胃にも、心にも肝にも、大した變動を起さぬ如く、卵巢や睾丸にも恐らく變動は生ぜぬであらうから、尾の無くなつたといふ性質が子に傳はらぬのは寧ろ當然である。この點からいふと、ヴァイズマンが十幾代も續けて鼠の尾を切つても、遂に一疋も尾の短い鼠の子が生れなかつたといふ實驗は、後天的性質の遺傳を否定するためとしては頗る不適當であつた。これに反して、溫度・食物・地味・風土等の變化は、生物體の全部に影響を及ぼすもので、身體の一部なる生殖腺も、そのため幾分かの變化を免れぬであらうから、子孫にもその結果が引き續き現れるであらう。アメリカからドイツヘ移し植ゑた「たうもろこし」が、一代每に變化の進むのは、その一例である。高山の植物を平原に植ゑ、鹹[やぶちゃん注:「しほけ」と訓じておく。]の濃い海から鹹の淡い海へ動物を移しなどすれば、恐らく同樣の結果を生ずるであらう。また後天的性質が遺傳するというても、勿論目立つ程に現れるわけではない。若し著しく現れるものならば、今日これに對して議論などは素よりない筈である。されば、人爲的に生活狀態を著しく變更して實驗して見る場合などの外は、恐らく極めて微に傳はり、多くの代を重ねて初めて明になる位に過ぎぬであらう。尚後天的の性質と先天的の性質との區別の如きも、二三の例だけに就いて考へると、極めて明瞭なやうに思はれるが、あらゆる場合を集めて見ると、到底その間に到然した境界を定めることの出來ぬことが知れるが、これ等に關する議論は略する。

 生物の身體を生殖物質と身體物質との二つに區別する人々が、後天的性質の遺傳を否定する主なる理由は、後天的性質が如何にして身體から生殖細胞に傳はるか、その道筋が考へられぬといふ點にあるが、我々の現今の知識を以て考へられぬからといふて、直にその事の存在を否定し去るのは大なる誤りである。生殖腺と他の體部との間には奇妙な關係があつて、生殖腺に故障が起つたり、なくなつたりすると、全身に種々の變化が現れることは常に人の知る所で、例へば男の子の睾丸を切り取れば、年頃になつても鬚も生えず、聲も變らず、性質までが普通の男とは違つたものになる。牡鹿を去勢すれば、角が生えなくなるが、腹の後端にある生殖腺を除いたために、頭の頂上に角が生えぬことも隨分不思議である。姙婦が子を産むまでは乳が出ぬが、子を産めば直に乳が出るやうになる。雌鷄の生殖器に故障があると、往々雄のやうな羽毛が生じて、雄のやうな擧動をするやうになる。近頃は種々の實驗によつて、生殖腺からは一種の物質を血液中に分泌し、その物が身體の各部に循つて、以上の如き現象が生ずることが推察せられるやうになつたが、それにしてもやはり不思議である。斯くの如く不思議な道筋を通つて、生殖腺から他の體部に著しい影響を及ぼすことを思へば、その反對に、他の體部に變化の生じた場合に、生殖腺内の生殖細胞にその影響が及ぶことも、必ずしも考へられぬこととはいはれぬであらう。實は外界からの影響を蒙つて、生物體に變化が起るといふ場合には、身體の一部なる生殖腺にも同時に幾分かの變化が起るであらうから、初め身體が變化し、次にこれが生殖細胞に移る如くに態々段を別けて考へる必要はないのである。

進化論講話 丘淺次郎 第十八章 反對説の略評(二) 二 生殖物質繼續説

 

    二 生殖物質繼續説

 

 ヴァイズマンの生殖物質繼續説のことは前にも少しく述べたが、ダーウィン以後の遺傳説としては恐らく最も有名なもので、最も多くの學者がその影響を蒙つて居るやうであるから、こゝに更にその要點を摘んで略評を加へ、著者が同説に對する態度を明にして置きたい。

[やぶちゃん注:「第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマン」を参照。]

 

 ヴァイズマンは生物の身體を生殖物質と身體物質との二つから成るものと見倣し、身體物質の方は一代每に新に出來て、壽命が終れば死んでしまふが、生殖物質の方は先祖から子孫まで連綿と引き續くものであると説いて居る。然らば一代每に出來る身體物質は何から生じ、如何にして發育し、終に各種に固有な複雜な構造を有するに至るかとの問に對しては、凡そ次の如くに答へる。抑人間でも犬・猫でも初は母の體内に存する微細な卵から生ずるものであるが、生長した動物の有する總べての身體上の性質を、一個づゝ代表する分子の如きものが、卵の内に最初から存在して居て、胎兒の發生が始まると同時に、この物が次第に相分れて、頭となるべきものは頭となり、足となるべきものは足となり、發生の進むに隨ひ、益細かに相分れて、終には頭の毛となるべきものは頭の毛となり、足の爪となるべきものは足の爪となり、斯くして胎兒の形狀が全く出來上るのである。この分子の如きものは、一個が一性質を代表すること故、その數は何萬も何億もあるわけで、またその大きさは顯微鏡などでは到底見えぬ程の極めて微細なものであるが、この物は各分裂によつて增加する性を具へて居るから、代々二耶分が身體となつても、殘りはそのまゝ生殖細胞として、子孫に傳はつて絶えることはない。一言でいへば、開けば成人の總べての性質を表すべきものが、縮み凝まつて[やぶちゃん注:「こごまつて」と訓じておく。]微細な卵の内に潜んで居るのである。尤も人間の形が顯微鏡的の大きさで卵の内に入つて居るといふわけではない。ただ成人の身體の各部を代表する分子の如きものが、一定の規則に從つて、その内に竝んで居るだけである、卽ち卵の内には頸筋の黑子の色を代表する分子や踵[やぶちゃん注:「かかと」。]の皮の堅さを代表する分子までが、行儀よく竝列して居るわけで、一旦胎兒の發生が始まると、斯かる一組の分子が各二個づゝに分れ、その結果として全く同樣な二つの組が出來、その中の一組はそのまゝ胎兒の生殖器官の中に入つてしまひ、他の一組は前に述べた如くに、漸々相分かれて、胎兒の全身の形を造るのである。

 以上はたゞ卵のみに就いて考へたが、父の體内には卵に相當すべき極めて微細な精蟲と名づける生殖細胞があつて、之も卵と同樣に成人の身體の性質を悉く代表した分子を含んで居るが、生殖作用の際に卵と相合してこれ等の分子を或る割合に混ずるから、生れる子は、父と母との中間の性質を帶び、或る點は父に似、また或る點は母に似るのである。また父にも母にも似ぬやうな性質が現れることのあるのは、その時まで潜んで居た先祖の性質を代表する分子が、或る原因によつて遽に[やぶちゃん注:「にはかに」。]現れ出したのである。つまる所、子の身體に現れる性質は總べで父母の身體内にある卵と精蟲との内に代表者が初から存在して居て、これが如何なる割合に結び附くかは生殖作用の際に定まるわけ故、子が如何なる形に出來るべきかは、生殖作用の行はれるときに既に定まつてしまひ、それから後はたゞ各性質各器官を代表する分子が相分れて、頭は頭、足は足となりさへすれば、子の形は出來上るのである。

 

Hitodenosaisei

[ひとでの再生]

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた。]

 

 以上は素よりヴァイズマンの遺傳説を殘らず述べたわけではない。「生殖物質説」といふ書物一册だけでも六百何十頁もある大きなもの故、なかなか詳しくこゝに紹介することは出來ず、また細胞學・發生學の素養が無ければ解らぬやうなことは一切省いたから、そのためにも餘程略した點がある。倂し眼目とする所を通俗的に述べれば、略以上の如きものであるが、この考を生物學上の實際の現象に當て嵌めて見ると、困難な場合が幾らも生ずる。若しも生物が悉く雌雄兩性による生殖のみをなし、且一度失つた體部を再び生ずる力を持たぬものとすれば、この假説でも差支を生ぜぬが、生物には卵と精蟲とによつて生殖する外に芽生や分裂によつて繁殖するものがあり、また一且失つた體部を忽ち再び生ずる種類も少くない。斯かる場合にもこの説を當て嵌めようとすれば、生殖物質のある區域を極めて弘く擴げねばならず、隨つて生殖物質と身體物質との區別が頗る漠然となつてしまふ。例へば蠑螈[やぶちゃん注:「いもり」。]の如きは、足を切り取つても直にまた新しい足がその跡に生えるが、以上述べた如くに、各器官の各部分を代表する分子が卵の内に初めから存して、發生の際にはただ之が相分かれて足となるべきものが足と成つたとすれば、一旦[やぶちゃん注:底本は「且」であるが、誤植と断じ、特異的に訂した。]出來た足を切り取つた後には、どうして再び足が生ずるかとの問[やぶちゃん注:「とひ」。]が起る。ヴァイズマンは之に答へるために、斯かる場合には足の部分・性質等を代表する分子の塊

は正副二つあつて、正の方はそれぞれに分かれて、脚附・蹠・大趾・小趾などになつてしまふが、副の方はそのまま脚の根元の處に留まつて、足が切られたときに、之を再び造るために待つて居るとの想像説を追加した。スパランザニといふイタリヤ人の實驗によると、蠑螈の足は新しく生じたものをまた切れば、また生えて、六度まで切つたのに、六度とも更に出來たが、ヴァイズマンの説に從へば、足の根元の處には足を造るべき分子の塊が潜んで居て、之が分裂して同樣のものが幾組も出來、一祖足を切られるる度に一組づゝ出て行つて、新しい足を造るのであらう。尚指だけを切れば指だけが再び生じ、腕の所で切れば腕から先が再び生ずる所を見れば、指の根元には指だけを造るべき分子の副の組が潜んで居、背の所には臂より先を造るべき分子の副の組が潜んで居ると論じなければならぬ。植物には隨分一枚の葉、一摘みの芽を切つて植ゑても、一本の完全な植物となつて、花まで咲くものがあることを考へれば、生殖物質は身體の全部に行き渡つて居ると見倣さねば

ならず、動物でも、「ひとで」の腕一本から一疋の完全な「ひとで」が出來、「ひどら蟲」を十に切つた一片からも一疋の完全な「ひどら」が生ずるを見れば、生殖物質は身體の孰れの部にも存在すると考へざるを得ない。我々人間には、腕を切つた後に再び腕が生ずるといふやうな著しい再生の力はないが、皮膚の表面から絶えず垢となつて廢(すた)れ落ちる無數の細胞を補ふために、表皮の内側の細胞が始終盛に分裂し增加して居るのは、やはり一種の再生である。胃や腸の内面の粘膜の細胞も同じやうに常に新陳代謝するであらう。血液中の血球も一定の時間働いた後は老朽して新しい血球に株を讓るであらうが、これ等も皆再生の範圍内に屬する。芽生[やぶちゃん注:所謂、「出芽」。]や分裂による生殖と、高度の再生との間には全く境はないが、高度の再生と低度の再生との間にも無論、境はないから、生物の身體を生殖物質と身體物質との二部に分けようと試みるに當つて、若

しこれ等の點まで考へ及んだならば、到底兩者の境界を定めることは出來なくなるであらう。

[やぶちゃん注:「蠑螈の如きは、足を切り取つても直にまた新しい足がその跡に生える」私は富山県立伏木高等学校在学中、生物部に所属していたが(演劇部とのかけ持ちではあった)、そこでのメインはイモリの再生実験であった。何度も前肢の一方を肩の部分から切除して再生を待った。切断面から肉芽が伸び出し、中にはそれが指状に分岐しかけるところまではいったが、すべては途中で腐って失敗だった。当時の生物の顧問の先生によれば、どんなにエアレーションをして循環させても水槽内に雑菌が多く繁殖していて、そのために感染症を起す結果だと言われた。大学の研究室などなら抗生物質などを水槽に投与するが、そんな金は出せない、と、けんもほろろに言われ、室内でそんなことをするのではなく、もっとフィールド・ワークをしなさいとも言われた。今考えれば、確かにあの頃の私のいた伏木周辺には、まだまだ豊富な自然が残っていたから、その通りであったとしみじみ思うのだ。……ワークするための自然を身近に求めること自体が望めなくなった今では……

「スパランザニ」イタリアのカトリック司祭で博物学者であった、「実験動物学」の祖と呼ばれるラッザロ・スパッランツァーニ(Lazzaro Spallanzani 一七二九年~一七九九年)。ウィキの「ラザロ・スパランツァーニによれば、呼吸・『循環・再生などを実験的に研究し、両生類の人工受精にも成功した。また、微生物の自然発生説を否定したことでも知られ』、さらに、『コウモリは目隠しをしても障害物をよけて飛行できるが、耳もふさいでしまうと飛び立つことすらできないことを実験で確認し、聴覚で周囲を「視て」いるのではないかという仮説を立てている。これが超音波による反響定位であることが実証されるのは、超音波測定装置が発明される』二十『世紀に入ってからである』。『動物の消化のプロセスを解明するために、リンネルの袋に入った食べ物を呑み込み、時間経過後に吐き出すという自己実験を行っている』とある。

「ひどら蟲」刺胞動物門ヒドロ虫綱花クラゲ目ヒドラ科 Hydridae のヒドラ属 Hydra及びエヒドラ(柄ヒドラ)属 Pelmatohydra に属する淡水産の無脊椎動物の総称。強力な再生能力を持つことで知られる。]

 

 生殖物質繼續説を採るか採らぬかは、後天的性質の遺傳を論ずるに當つて大關係のあることで、生物進化に關する理論方面の根本問題である故、次にヴァイズマンの説に對照して著者の考へを述べて置きたい。ヴァイズマンの説によると、生物の身體は生殖物質と身體物質との二部より成り、生殖物質は先祖から子孫へと連綿として繼續するが、身體物質の方は一代每に生殖物質から分かれ生じ、發育して身體となり、一定の壽命の後に亡び失せる。卽ち身體なるものは生殖物質を前の代から受け繼ぎ、次の代へ讓り渡すまでの間、之を預り護るための一時的の容器に過ぎぬ。かやうに身體と生殖物質とを常に別物として考へるのがヴァイズマン説の特色であるが、著者の考へは之と反對である。

 著者の考へによれば、生物の身體を生殖物質と身體物質とに判然分けるのは誤である。この二者は實物に就いて區別の出來ぬ通り、理論上にも判然區別すべき理由はない。卵細胞や精蟲が、新しい一個體を生ずる力を有するに反し、他の體部の細胞にこの力がないのは無論著しい相違ではあるが、之は根本的の相違ではなく、發生に伴ふ分業の結果と見倣すのが至當であらう。生殖細胞には生殖の力はあるが、その代りに營養の働が出來ず、他の身體の細胞は子を産むことは出來ないが、その代りに身體を養ふ役を務め得るのは、恰も胃は消化するが呼吸せず、肺は呼吸するが消化せずといふのと同樣な關係で、孰れもたゞ生活に必要な種々の作用を分擔して居るのである。如何なる生物でも、その發生の初期には特に生殖に與る[やぶちゃん注:「あづかる」。]べき物質と、その他の物質との區別などは決してない。その發育が進むに隨ひ、頭となるべき所、足となるべき所、胃になるべき部、肺になるべき部などの區別が次第に現れるが、それと同樣に、生殖腺となり生殖細胞を生ずべき部分も明に他と區別が出來るやうになる。動物によつては、發生の初期から生殖細胞と他の細胞との區別が明に知れるものもあるが、之は單に分業が早くから現れるといふまでで、脊椎動物の如くに生殖細胞の區別の生ぜぬ類に比して、たゞその時期に早い晩いの差があるに過ぎぬ。元來生殖の働は各個體の營養を務める方とは仕事の性質が違ふから、他に比すれば分業の行はれることが幾分か早いのが常で、單細胞動物の群體の内でも、先づ最初に分業の行はれるのは、營養を司どる個體と生殖を司どる個體との間である。されば、或る動物の發生中に、生殖細胞のみが特に早くから他の細胞と區別が出來るやうになつても別に不思議はない。また、かやうに分業が起つて、身體の構造が複雜になつてからも、全部殘らず集まつて一個體を成して居るのであるから、身體といふ中には無論生殖腺も生殖細胞も含まれて居る譯で、特に之だけを離して別物の如くに取扱ふべき理由はない。

 生物が兩性生殖によつて代を重ねる有樣を見るに、先づ親の身體から精蟲・卵細胞が離れ、この二つが相合して一個の新しい生物體の基となるが、初は恰もアメーバの如き單細胞動物と同樣で、無論生殖細胞・身體細胞の區別はない。次いで少しく發育が進んでも、尚單細胞動物の群體の如くで、總べての細胞は形も相同じく、働きも相均しい。更に發育が進むと、初めて身體各部の間に漸々相違が現れ、生殖腺の出來る場處も次第に明になる。これだけは實物に就いて直に見ることの出來る事實であるから、理論に於てもこの通りに

見倣すのが最も造りごとのない考へ方であらう。されば生活する物質が先祖から子孫へ連綿と繼續して、決して途中に切れ目のないことは明であるが、生物の身體を常に生殖物質と身體物質とに分け、その中の生殖物質だけが繼續するものの如くに見倣すのは、實物で證明することの出來ぬ一種の想像説であるから、之によらねば到底説明のしやうがないといふやうな事實が澤山にない以上は、特に之を採るべき理由はない。また複雜な身體が出來上つてからも、生殖細胞を有する卵巢や睾丸は、肺・胃・肝・心などの他の臟腑と共に、同一の血液、同一の淋巴に養はれ、同一の神經に支配せられ、同一の醗酵素が循つて[やぶちゃん注:「めぐつて」。]來て、全體が寄り合つて一個の完結した個體を成すもの故、生殖細胞と他の體部とを離して全く別物の如くに取扱ひ、後者を容器の如く、前者を内容物の如くに見倣すのは、大なる誤であつて、かやうな考を根據として論を立てては、到底正しい結論に達する望はないやうに思はれる。

[やぶちゃん注:丘先生のヴァイスマンの「生殖質説」への反駁は冷静で整然としていて、腑に落ちる。落ちるが、これらを読みながら、私はしかし、このヴァイスマンの極論すれば「生物個体は生殖細胞の持つ目に見えない生殖質の未来へと伝播して行くための容器である」という考え方は、私はイギリスの進化生物学者・動物行動学者クリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins  一九四一年~)の一九七六年に発表したThe Selfish Gene(「利己的な遺伝子」)を読んだ時の、目から鱗の発想転換の面白さを思い出させるのである。「生物は遺伝子によって利用されれいるヴィークル(vehicle:乗り物)に過ぎない」というあれである。私は個人的にドーキンスの考え方を支持する人間である。セントラル・ドグマを長い生物種の生存のタイム・ラインで考察する時、私はミトコンドリアがそうであった可能性が高いように、DNAは、生物体に寄生し、同化し、その保存と複製を命じ続ける驚くべき生物様システムであるように思われてくるからである。]

 

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(46) 社會組織(Ⅱ)

 

 日本の奴隷制度の起原に關しては、多くの學ぶ可き事が殘つて居る。つぎつぎに移住が行はれた證據があるが、少くとも、極古い日本の移住者の內には、其後に來た侵入者のために、奴隷の狀態に陷れられたのもある。なほ朝鮮人支那人の移住者も隨分澤山にあつて、其の中には、奴隷よりも遙かに惡るい禍を逃れるために自ら進んで奴隷の服役を望んだ者もあつたらしい。併し此の問題は、甚だ曖昧である。【註】吾々は上古にあつては、奴隷に墮とされるといふ事が普通の刑罰であつた事、竝びに負債を拂ふ事の出來ない債務者は債務者の奴隷となる事、又窃盜は被盜難者の奴隷となるやうに判決された事を聞いて居る。言ふまでもなく隷屬の狀態にも、澤山の相違が在つた。奴隷の慘めな部類に屬する者には、家畜に近いものもあつた。併し、農奴の中には、賣買されることが出來ず、或る特殊な仕事以外には使用する事を許されないものもあつた。これ等のものは主人の血旅で、糊口又は安全のために、自ら進んで奴隷狀態に入つたものであるらしい。彼等と主人との關係は、ローマの食客と其の庇護者との關係を想ひ起こさせる。

[やぶちゃん注:「血旅」原文“kin血縁・親族・親類の意)。「血族」の誤植と思われる。]

 

註 六九〇年に、持統天皇の發布した勅令は、父が其子息を奴隷に賣却し得ることを制定してゐる、併し債務者は單に農奴にのみ賣られ得るとされて居る。勅令には恁う書いてある、『一般人民の間に在つて、弟が其兄に依つて、賣られたる場合、その弟は自由の人と一緖に置かれ得る、子が其親に依つて賣られた場合には、その子は奴隷と一緖にされる、債務の利子支拂ひのために、奴隷となつた人々は、自由の人と一緖にされる。それ等の人と奴隷との間に生まれた子は、すべて自由の人と同列にされる』――アストン譯『日本紀』第二卷、四〇二頁 

 

若有百姓弟爲ㇾ兄一ㇾ賣者。從ㇾ良(ヲホミタカラ)。若子爲父母見ㇾ賣者。從ㇾ賤(ヤツコ)。若准(なすらへ)貸倍(カリモノノコ)。沒(イ)レラハㇾ賤者(ヤツコ)。從[やぶちゃん注:原本「徒」。誤植と断じて特異的に訂した。以下の私の注を参照されたい。]良(ヲホミタカラ)。其子雖ㇾ配(タグ)ヘリト奴婢。所ㇾ生亦皆從ㇾ良。

[やぶちゃん注:「日本書紀」の持統五(六九一)年の「三月癸巳」(二十二日)の条を改めて引く。

   *

詔曰。若有百姓弟爲兄見賣者。從良。若子爲父母見賣者。從賤。若准貸倍沒賤者、從良。其子雖配奴婢。所生亦皆從良。

   *

やはり平井呈一氏の訓読文を参考に読み下しておく。

   *

詔(みことのり)して曰はく、「若し、百姓(おほみたから)の弟(おとと)有りて、兄(このかみ)の爲に賣られなば、良(おほみたから)に從へ。若し、子、父母(かぞいろ)の爲に賣られしかば、賤(やつこ)に從へ。若し、貸倍(かりもののこ)に准(なぞら)へて賤(やつこ)に沒(い)れらば、良(おほみたから)に從へ。其の子、奴-婢(やつこ)に配(たぐ)へりと雖(いふと)も、生む所(ところ)は亦、皆、良(おほみたから)に從へ。

   *] 

 

 今日の處では古代の日本社會に於ける自由にされた人と本來の自由人との間に、明確なる差別を立てることは困難である。併し支配階級の下位に屬する自由な人民は、二大區分に分かれてゐたことを吾々は見るのである、則ち國造と伴造(トモツコ)とがそれである。前者は農夫であつて、恐らく極古い蒙古の侵入者の後裔らしく、中央政府とは獨立して自分等獨自の土地を保有することを許されてゐた、彼等は自分の土地を領有して居たのであるが、貴族ではなかつた。伴造は工匠であつて――恐らく其の大部分は朝鮮人若しくは支那人の後裔で――その氏族は百八十もあつた。彼等は世襲の職業に從事し、其氏族は皇族に屬して居て、皇族のためにをの技能を振ふやうにさせられて居た。

[やぶちゃん注:「國造」(くにのみやつこ)は古代大和の王権に服属した地方首長の身分の称。地方統治に当たらせ、大和政権は国造制の下に地方支配体制を固めた。「大化の改新」による国郡制の施行により、その多くは郡司に優先的に登用されたが、一部は律令制下の国造として祭祀を掌り、世襲の職とされた。

「伴造」「大化の改新」前に皇室所有の「部(べ)」、則ち「品部(ともべ)」(忌部(いんべ)・山部・鍛冶部(かじべ)とった特定の物資や労役を世襲的に提供させられた集団。身分は公民であるが,良賤の中間に位置した)・「名代(なしろ)」(皇族の私有部民(べみん)。諸国の国造の民から割いて設け、皇族名を付した)・「子代(こしろ)」(皇室の私有部民。天皇が皇子・皇女のために設けたものらしい)を率い、その職業によって朝廷に奉仕した中央の中下層の豪族。その姓(かばね)は造(みやつこ)・首(おびと)・連(むらじ)が普通であるが、大伴・物部両氏のように大連(おおむらじ)となって朝政を左右する豪族にまで発展したものもある。このような伴造の中で有力なものは令制下にあって、一般貴族に名を連ね、他は令制の下級官人に編成され、律令諸官司の品部・雑戸(ざっこ:律令時代の大蔵省・兵部省造兵司・中務省図書寮などのような特定の省・司・寮に属して手工業などの技術的業務に従事した集団)を率いて朝廷に奉仕するようになった。] 

 本來から云へば、大氏でも小氏でも、みなぞれぞれ自己の領土、主長、從屬、農奴、奴隷を所有してゐた。主長の職は世襲――原始の族長から直系に依つて、父から其の子へ讓られるもの――であつた。大氏族の主長は、それに從屬する小氏族の主長の上に立ち、其の權力は宗敎と武力との兩方に及んだ。但し宗敎と政治とが同一のものと考へられて居たことは、忘れてはならない。

 日本の氏族の全部は、皇別、神別、藩別の三部に分かたれて居た。皇別(『皇室の一門』)は所謂皇族を表はし、日の御神(天照皇大神)の後裔とされて居る。神別(『神の一門』)は日の御神以外の地上と天上との諸〻の神々の後裔とされて居る氏族である。藩別(『外來の一門』)は多數の人民を代表して居る。斯樣な次第であるから、支配階級から見れば、一般人民は本來外國人であると考へられたのである――只だ迎へられて日本人とされて居るものと考へられたに過ぎない。或る學者に依れば、藩別と云ふ言葉は、最初支那人か朝鮮人かの子孫の農奴或は自由にされた人に、與へた名稱であつやのださうである。併し之は證明されたわけではない。只だ祖先の如何に依つて、全社會が三階級に分かれてゐたこと、三階級の中二つは、【註】統治する寡頭政治を作り、又第三階級は則ち『外國』の階級で、國民の大部分――庶人であつた事だけは事實である。

註 フロレンツ博士は、皇別と神別との區別を、二個の武力的支配階級――侵略と移住との二つの相續いた波浪から生じたも――の存在に依るものとして居る。皇別は、神武天皇に從屬して居たもの、神別は、神武天皇の降臨以前に、大和の地に定住して居た遙かに古い征服者のことであると。博士の考へる所に依れば、最初のこれ等の征服者達は、驅逐されなかつたのである。

[やぶちゃん注:「フロレンツ」ドイツの日本学者カール・アドルフ・フローレンツ(Karl Adolf Florenz 一八六五年~一九三九年)。明治二二(一八八九)年に来日し、東京帝国大学でドイツ語・ドイツ文学・比較言語学を講じながら、日本文化を研究、明治三十二年には神代紀の研究によって東京帝大より文学博士号を受けている。他にも「日本書紀」や日本の詩歌・戯曲などを翻訳した。] 

 

 姓階(カスト)――かばね若しくは姓――を以てする區分もあつた。(私は『姓階(カスト)』なる言葉を、フロレンツ博士に從つて用ひる。博士は日本の古代文明硏究者の第一の權威であつて、姓の意義に就いては『姓階』成は『種族』“ Colour ”を意味するサンスクリツトの Varna の意味に等しきものとして居る)日本社會の三大區分に於ける各家族は、孰れかの姓階に屬してゐた、而して各姓階は、最初は或る職業を表はしてゐたものである。姓階は、日本に於ては、何等確たる發達をしなかつたらしく、古い頃から既に、かばねは混和せられる傾向を示して居た。第七世紀の頃に及び、この混和は非常に甚だしくなり、天武天皇は姓の組織を新たにする必要を感じられ、玆にすべての氏族は、再び八個の新しい姓階に組み更へられるに至つた。

[やぶちゃん注:最後のそれは「八色の姓(やくさのかばね)」。天武天皇が天武一三(六八四)年に整理再編した八種の姓。「真人(まひと)」を第一として、以下、「朝臣(あそん)」・「宿禰(すくね)」・「忌寸(いみき)」・「道師(みちのし)」・「臣(おみ)」・「連(むらじ)」・「稲置(いなぎ)」の八姓。「大化の改新」後の政治的変動によって従来の姓の序列に動揺が生じたため、皇室との親疎・政界での地位を規準として、元皇族の姓の「公(きみ)」(「君」)の一部に「真人」を、有力な臣に「朝臣」を、有力な「連」に「宿禰を、有力な帰化姓諸氏や国造諸氏に「忌寸」の姓を授けたもの(「道師」・「稲置」は実例がなく、不明である)。「臣」・「連」はこの新姓授与に漏れた旧来の臣・連であった。]

諸國里人談卷之四 宮城野萩 / 卷之四~了

 

    ○宮城野萩(みやぎのゝはぎ)

奧州宮城野の萩は、木萩(こはぎ)にて灌木のごとく、尋常(よのつね)の草萩とは異に(こと)して、弓などに作る木也。又、「本〔もと〕あら木萩〔こはぎ〕」といふは、梢に靑き枝生(おひ)て、その枝に花さくゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、「本のあらはなる」と云〔いふ〕事也。

 宮城ゝ本あら木萩露おもみ露をまつごと君をこそまて

むかし爲仲といふ人、みちのくの任(にん)なりけるが、任はてゝ登られける時、宮城の萩を長櫃十二合に入〔いれ〕て登りければ、京入(きやういり)の日、二條大路に、人、おほくあつまり、車、あまた、立〔たち〕たると云々。

  國里人談四之終

[やぶちゃん注:ここは「宮城野」の比定地を私の譚海 卷之二 仙臺宮城野萩の事で、まずは参照されたい。そこで私は若林区の北に接する現在の宮城野区の仙台市街の中心にある榴ケ岡(つつじがおか)辺りから東及び南に広がる平野部で、この国分寺周辺域までの内陸平原一帯が原「宮城野」原であると考えてよいとした。また、ここで言う「宮城野」の「萩」は、通常のマメ目マメ科マメ亜科ヌスビトハギ連ハギ亜連ハギ属 Lespedeza である。「宮城野萩」という和名を持ち、宮城県の県花にも指定されている萩の一種、ハギ属ミヤギノハギ Lespedeza thunbergii なる種が存在するが、本種は宮城県に多く自生はするものの、近代になって歌枕の宮城野の萩にちなんで命名されたものであるから、本種に比定することは出来ない。特に本邦に自生するハギ類で我々が普通に「萩」と呼んでいるものはハギ属ヤマハギ亜属(模式種ヤマハギLespedeza bicolor。芽生えの第一節の葉がハギ亜属では互生し、ヤマハギ亜属では対生する違いがある)のものである旨の記載がウィキの「ハギ属」にはある。ここで「木萩」と言っている「灌木」のような、優位に木部の太いものは、マメ科ハギ属キハギ Lespedeza buergeri を指すか。舎」サイト「木のぬくもり 森のぬくもりの「キハギ」を見られたい。沾涼の「本〔もと〕あら木萩〔こはぎ〕」の意味も花の写真で納得出来るし、分布は本州・四国・九州。中国及び朝鮮とあり、写真を見るとシッカリガッチリ「木」してて「弓」にも作れそう!]

諸國里人談卷之四 八橋杜若

 

    〇八橋杜若(やつはしのかきつばた)

三河國碧海郡(へきかいの)八橋山(やつはしさん)無量寺の杜若は、世に聞(きこ)たる名草なり。此杜若は四葩(よひら)にして燈臺の蛛手(くもで)のごとし。「水行(ゆく)川の蛛手」といふは僻(ひが)事也。蛛手は流(ながれ)の事にあらず。花形(くはぎやう)の名なり。

[やぶちゃん注:

「八橋山(やつはしさん)無量寺」誤り。愛知県知立市八橋町寺内にある臨済宗八橋山(やつはしさん)無量壽寺(グーグル・マップ・データ)。寺伝によれば、慶雲元(七〇四)年に慶雲寺として別な場所に創建され、弘仁一二(八二二)年には密円が現在地に移転させて、真言宗無量寿寺として整備したとされる。参照したウィキの「無量寿寺知立市によれば、境内には『在原業平を追って想い叶わずに自殺したとされる小野篁の娘杜若を祀る』「杜若姫供養塔」や『荻生徂徠の弟子が在原業平の逸話を書き付けた』「亀甲碑(八橋古碑)」があるとある。

「杜若」八橋地区は古来から知られるカキツバタ(単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属カキツバタ Iris laevigata)の名勝地で、かの花札の五月の十点札「菖蒲と八ツ橋」(「杜若に八ツ橋」とも)は当地がモデルであり、京銘菓「八ツ橋」は一説には、この八橋に因むとされる、とウィキの「無量寿寺知立市にある。知られた「伊勢物語」第九段を引いておく。

   *

 むかし、男(をこと)ありけり。その男、身を要(えう)なきものに思ひなして、

「京にはあらじ、あづまの方に住むべき國求めに」

とて、行(ゆ)きけり。もとより友とする人ひとりふたりして行(い)きけり。道知れる人もなくて、まどひ行(い)きけり。

 三河の國、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋とはいひける。その澤のほとりの木の蔭に下(お)りゐて、乾飯(かれいひ)食ひけり。その澤に、かきつばた、いとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、

「『かきつばた』といふ五文字(いつもじ)を句の上(かみ)にすゑて、旅の心をよめ。」

と言ひければ、よめる、

 からころも着つつなれにしつましあれば

   はるばる來ぬる旅をしぞ思ふ

とよめりければ、みな人、乾飯の上(うへ)に淚おとして、ほとびにけり。

   *

業平は天長二(八二五)年生まれで元慶四(八八〇)年没であるから、本寺は現在地に既にあったし、東国下りのルート上として問題はないから、このロケーションがこの寺の直近であったと考えることには無理はないと思われる。なお、本「諸國里人談」の刊行(寛保三(一七四三)年)から七十九年後のこととなるが、文化九(一八一二)年に方嚴賣茶(ほうがんばいさ)翁によって無量壽寺の再建が行われた際、同時に「杜若庭園」も完成したとウィキの「無量寿寺知立市にはある。

「四葩(よひら)」四弁。外花被片(前面に垂れ下がった花びら)を指す。

「燈臺の蛛手(くもで)」屋内の照明用の灯台は、平安以降、円型の台に長竿(ながさお)を立てて、その先端に「蜘蛛手」という四方に放射状に広がった小さな木製の支え板をつけて、灯明皿を置くようになった。沾涼の薀蓄はそれなりに成程とは思わせるが、世に聞えた「伊勢物語」の名にし負う「蜘蛛手」が、水の四方への分流を指しているのを当たり前として語らずに、かく知ったようなことを断定して言うのは、イヤな感じの糞俳諧師という感じがしてくるのは私だけか?]

諸國里人談卷之四 妙國寺蘇鉄

 

    ○妙國寺蘇鉄(みやうこくじのそてつ)

泉州堺、妙國寺に、番焦(そてつ)の大樹あり。高〔たかさ〕、一丈三尺、叢生(くさおひ)にして、十三本、周(めぐ)り株、二丈。比類なき名樹也。客殿の筑山(つき〔やま〕)にある故、こなたに格子を付〔つけ〕て、外より見ゆるやうにしけるなり。しかるに、田舍順禮など來りて、何(なに)と心得(こゝろへ[やぶちゃん注:ママ。])けるか。これを拜し、散米散錢を投(なげ)るによりて、近年、格子の際(きは)に賽錢箱を設(もう)く。

[やぶちゃん注:「泉州堺、妙國寺」現在の大阪府堺市堺区材木町にある日蓮宗広普山(こうふさん)妙国寺。ウィキの「妙国寺に「霊木・大蘇鉄の伝説」として、『境内の大蘇鉄は国指定の天然記念物』(大正十三(一九二四)年指定)で、樹齢千百年余と称して『次のような伝説が残っている』とあり、『織田信長は、その権力を以って』、天正七(一五七九)年に『この蘇鉄を安土城に移植させた。あるとき、夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は庭先で妙な声を聞き、森成利』(なりとし:近習として知られる森蘭丸のこと)『に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。この怪しげな声に、信長は激怒し』、『士卒に命じ』、『蘇鉄の切り倒しを命じた。しかし家来が斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな血を吐いて倒れ、さしもの信長もたたりを怖れ』、『即座に妙國寺に返還した。しかし』、『もとの場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。哀れに思った日珖』(にちこう:京の頂妙寺の三世。父は堺の豪商で薬剤商を営んでいた油屋伊達常言(じょうごん))『が蘇生のための法華経一千部を誦したところ、蘇鉄』の霊『が「鉄分のものを与え、仏法の加護で蘇生すれば、報恩のため、男の険難と女の安産を守ろう」と告げた。そこで日珖が早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。寺では御堂を建て、守護神宇賀徳正竜神として祀っている。爾来、これを信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元に埋める姿が絶えない』とある。(同ウィキの写真)。

「番焦(そてつ)」裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta。なお、ソテツは南西諸島で「蘇鉄地獄」と呼ばれた、可食(種子)ながら、処理を誤ると、死に至る有毒植物であるウィキの「ソテツによれば、『日本の南西諸島の島嶼域では、中世から近代まで食用にされてきた。ソテツは、有毒で発癌性物質のアゾキシメタンを含む配糖体であるサイカシン(Cycasin)を、種子を含めて全草に有』する。『サイカシンは、摂取後に人体内でホルムアルデヒドに変化して急性中毒症状を起こす。しかし』、『一方でソテツには澱粉も多く含まれ、幹の皮を剥ぎ、時間をかけて充分に水に晒し、発酵させ、乾燥するなどの処理を経てサイカシンを除去すれば』、『食用が可能になる』。『鹿児島県奄美群島や沖縄県においては、サゴヤシ』(単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科サゴヤシ属サゴヤシ(ホンサゴ)Metroxylon sagu)『のようにソテツの幹から澱粉を取り出して食用する伝統がある』。『また、種子から取った澱粉を加工して蘇鉄餅が作られたり、奄美大島や粟国島では、毒抜き処理と微生物による解毒作用を利用して無毒化された蘇鉄味噌が生産されたりしており、蘇鉄味噌を用いたアンダンスーが作られることもある』。『奄美・沖縄地域では、郷土食以外にも飢饉の際にソテツを救荒食として飢えを凌いだ歴史があったが、正しい加工処理をせずに食べたことで食中毒により死亡する者もいた。大正末期から昭和初期にかけて、干魃や経済不況により』、『重度の貧困と食糧不足に見舞われた沖縄地域は、ソテツ食中毒で死者を出すほどの悲惨な状況にまで陥り、これを指して「ソテツ地獄」と呼ばれるようになった』。『与論島でも、戦後から本土復帰』(昭和二八(一九五三)年)『後の数年間は島民の生活は大変貧しく、ソテツの種子で飢えを凌いでおり、その有り様も「ソテツ地獄」と称された』。『ソテツ澱粉を水に晒す時間が不十分で毒物が残留していたり、長期間にわたる食用で体内に毒素が蓄積されるケースが多く報告されており、例えばグアム島など、ソテツ澱粉を常食している住民がいる地域ではALS/PDC(筋萎縮性側索硬化症/パーキンソン認知症複合、いわゆる牟婁病)と呼ばれる神経難病が見られることがある』。『ソテツは、あくまで他の食料が乏しい時の救飢食として利用されているものであって、素人が安易に試すのは避けるべきとされる。また、同じソテツ属でも revoluta 以外のものは可食性は未確認である』とある。

「一丈三尺」三メートル九十四センチメートル。

「叢生(くさおひ)」草木が群がって生えること。

「二丈」六メートル六センチメートル。

「筑山(つき〔やま〕)」「築山」に同じい。]

諸國里人談卷之四 物見松

 

    ○物見松(ものみのまつ)

美濃國垂井と赤坂の間、靑野原(あをののはら)に「熊坂が物見の松」あり。相傳ふ、むかし、長範(ちやうはん)、此松のうへに潛(ひそま)りて、往來(ゆきゝ)の人をうかゞひけるといへり。熊坂は越後國關川と小田切との間に熊坂村といふあり、此所の出生(しゆつしやう)なりと云。

[やぶちゃん注:「美濃國垂井と赤坂の間、靑野原(あをののはら)」現在の岐阜県不破郡垂井町とその東に接する岐阜県大垣市赤坂町の間、現在の岐阜県大垣市青野附近(グーグル・マップ・データ)。

「熊坂が物見の松」熊坂長範(くまさかちょうはん)は平安後期にいたとされる伝説上の盗賊(但し、初出は室町後期。以下の引用参照)。ウィキの「熊坂長範より引く。『室町時代後期に成立したとされる幸若舞『烏帽子折』、謡曲『烏帽子折』『熊坂』などに初めて登場する。牛若丸(源義経)とともに奥州へ下る金売吉次の荷を狙い、盗賊の集団を率いて美濃青墓宿(または赤坂宿)に襲ったが、かえって牛若丸に討たれたという』。源義経に関わる大盗賊として広く世上に流布し、これにまつわる伝承や遺跡が各地で形成され、後世の文芸作品にも取り入れられた』。『幸若舞『烏帽子折』による、熊坂長範に関わる話の筋は次のようなものである』。『鞍馬寺を出奔し』、『金売吉次の供に身をやつした牛若丸は、近江鏡の宿で烏帽子を買い求め、自ら元服して九郎義経を名乗った。美濃青墓宿の長者の館に着いたとき、父義朝、兄義平・朝長の三人が夢に現れ、吉次の荷を狙う盗賊が青野が原に集結していることを知らされる。このとき、熊坂長範は息子五人を始め、諸国の盗賊大将七十余人、小盗人三百人足らずを集めていた。青墓宿を下見した「やげ下の小六」は義経の戦装束を見て油断ならぬものと知らせるが、長範は常ならぬ胸騒ぎを覚えるものの、自らの武勇を恃んで青墓宿に攻め寄せた。待ちかまえていた義経は長範の振るう八尺五寸の棒を切り落とし、三百七十人の賊のうち八十三人まで切り伏せる。長範は六尺三寸の長刀(薙刀)を振るって激しく打ちかかるが、義経の「霧の法」「小鷹の法」に敗れ、真っ向から二つに打ち割られた』。『謡曲『烏帽子折』『熊坂』は、舞台を美濃赤坂宿とし、義経との立ち回りに細かな違いは有るものの長範に関わる筋立ては同様である』。『牛若丸が奥州へ下るさいに盗賊を討つ、という逸話は』十三『世紀半ばに成立した『平治物語』においてすでに現れている。ここでは、黄瀬川宿(現沼津市)付近で身の丈』六『尺の馬盗人を捕縛し、百姓家に押し入った強盗』六『人を切り伏せている』。『『曽我物語』では、盗賊を討ったのは美濃垂井宿のこととされ』、『室町時代前期に成立したと考えられる『義経記』では、出羽の由利太郎と越後の藤沢入道に率いられた信濃・遠江・駿河・上野の盗賊勢』百『人ほどを鏡の宿において討ったとする』。『熊坂長範の名が現れる幸若舞『烏帽子折』と謡曲『烏帽子折』『熊坂』の先後関係は明かでないが』、『内容から見るといずれも『義経記』、なかでも越後の住人で大薙刀を操る藤沢入道の記述を元に創作された可能性が江戸時代から指摘されている』。『幸若舞『烏帽子折』で自ら語るところによれば、越後との国境にある信濃国水内郡熊坂に生まれた』(現在の長野県上水内郡信濃町熊坂。(グーグル・マップ・データ)南端外の長野県上水内郡信濃町野尻側に彼が根城としたと伝え、その埋蔵金が眠るという長範山(ちょうはんやま)がある)。『もとは仏のような正直者であったが』、七『歳のとき伯父の馬を盗んで市で売った。これが露見しなかった事に味を占め、以来日本国中で盗みを働き、一度も不覚をとらなかったという』。『義経に討たれた時は既に老境(齢六十三)に差し掛かっていたが、棒や薙刀(幸若舞『烏帽子折』・謡曲『熊坂』)、或いは五尺三寸の大太刀(謡曲『烏帽子折』)などを振るう豪傑として、小柄で素早い義経と対照的な描写がされている。謡曲『烏帽子折』では投げ込んだ松明を義経に三つとも消され、縁起が悪いとして一旦は退散を考えるものの、「いや熊坂乃長範が。今夜の夜討を仕損じて。何処に面を向くべきぞ。たゞ攻め入れや若者ども」と叱咤する』。『このような人物像はさらに脚色され、例えば『謡曲拾葉抄』に引く『異本義経記』では張良と樊噲の字を取って熊坂張樊を名乗ったとし』、『『義経地獄破り』においては地獄を攻める義経に伊勢義盛』『の仲介で勘当を許され地獄の釜の蓋を盗み出す』、また、『高野山で発心したさまが『新著聞集』に記されるなど』、『さまざまな伝承が発生し、江戸時代には歌舞伎・浄瑠璃・草双紙などにおいて盗賊・義賊の代名詞として諸作品に登場することとなる。現在この松は垂井町綾戸(あやど)の綾戸古墳((グーグル・マップ・データ))で「長範物見の松」として比定されている。手水舎サイト「川柳&ウォークの「綾戸古墳と長範物見の松がよい。

「越後國關川と小田切との間」「關川」は新潟県妙高市関山の誤りであろう「小田切」は長野県長野市山田中にあるが、飯縄山南麓でかなり離れるので、不審。熊坂を南東に下ると小布施であるから、それと混同したものか?

諸國里人談卷之四 大樹

 

    ○大樹

景行天皇十八年に、筑紫(つくし)の道の後(うしろ)の國に至り給ふ時に、倒れたる木あり。

長〔たけ〕、九百七十丈、百官、その木を蹈(ふみ)て徃來(おうらい)す。

天皇、問(とふ)て云〔いはく〕、

「是、何の木ぞ。」

一(ひとり)の老夫ありて曰(いは)く、

「此樹は櫪(くぬぎ)なり。昔、倒(たをれ[やぶちゃん注:ママ。])ざるのさき、旭(あさひ)の暉(かゝや)くにあたつては、則〔すなはち〕、杵島(きねしま)を隱し、夕日のかゝやくにあたつては阿蘇の山をかくしき。」【「日本紀」。】

○又、云〔いふ〕、昔、近江國栗本郡に大なる柞(はゝそ)の木あり。其圍(めぐ)り、五百尋(ひろ)あり。枝葉(しやう)、繁茂(しげくしげり)て、其木の影、朝(あした)には丹波にさし、夕〔ゆふべ〕には伊勢國にさす。されば滋賀・栗本・甲賀(かうか)三郡(ぐん)に蔭を覆ひ、日影あたらざれば、田畑の作物、熟せず。百姓、これを歎きて、此由を奏す。よつて、掃守宿禰(はきもりのすくね)に命じて、これを伐(きら)しむ。【「後堂」。】

[やぶちゃん注:読み易さを狙って、前半は特異的に改行した。世界樹として洋の東西を問わず、広汎に見られる巨木伝説の一つ。後段部分は「今昔物語集」巻三十一の「近江國栗太郡大柞語第三十七」)近江(あふみ)の國栗太郡(くるもとのこほり)の大柞(おほははそ)の語(こと)第三十七」に、

   *

 今は昔、近江の國栗太の郡に、大きなる柞の樹、生ひたりけり。其の圍(めぐり)五百尋也。然(しか)れば、其の木の高さ、枝を差したる程を思ひ遣るべし。其の影、朝(あした)には丹波の國に差し、夕(ゆふべ)には伊勢の國に差す。霹靂(へきれき)する時にも動(うご)かず、大風(おほかぜ)吹く時にも搖(ゆる)がず。

 而る間、其の國の志賀・栗太・甲賀(かうか)三郡の百姓、此の木の蔭に覆ひて日(ひ)當らざる故に、田畠(でんばく)を作り得る事、無し。此れに依りて、其の郡々(こほりこほり)の百姓等(ら)、天皇(てんわう)に此の由を奏す。天皇、卽ち、掃守(かにもり)の宿禰(すくね)□□等(ら)を遣して、百姓の申すに隨ひて、此の樹を伐り倒(たふ)してけり。然(しか)れば、其の樹伐り倒して後、百姓、田畠を作るに、豐饒(ぶねう)なる事を得たりけり。

 彼(か)の奏したる百姓の子孫、今に其の郡々に有り。

 「昔は此(かか)る大きなる木なむ有ける。此れ希有の事也。」となむ、語り傳へたるとや。

   *

と出る。「五百尋」は、人体尺で、両手を左右に広げ伸ばした長さを「一尋」(凡そ五~六尺)とする。ここは短い五尺をとると、百五十一・五センチメートルとなるから、七百五十七・五メートルとなる。また、「掃守の宿禰」宮内省に属した掃守寮(かにもりのつかさ)の役人。宮中の掃除・鋪設を担当した。古くは「かむもり」と訓じた。「宿禰」は古代の「八色(やくさ)の姓(かばね)」の一つ(第三位)。なお、この近江の巨木伝説は「古事記」の仁徳天皇の条を始めとして、異伝が頗る多い。

「景行天皇十八年に……」「日本書紀」景行天皇十八年[やぶちゃん注:単純西暦換算八八年。]七月甲午[やぶちゃん注:四月。]の条に、

   *

秋七月辛卯朔甲午。到筑紫後國御木。居於高田行宮。時有僵樹。長九百七十丈焉。百寮蹈其樹而往來。時人歌曰、

阿佐志毛能 瀰概能佐烏麼志 魔幣菟耆弥 伊和哆羅秀暮 彌開能佐烏麼志

爰天皇問之曰、「是何樹也。」。有一老夫曰、「是樹者歷木也。嘗未僵之先。當朝日暉、則隱杵嶋山。當夕日暉、亦覆阿蘇山也。」。天皇曰、「是樹者神木。故是國宜號御木國。」。

   *

歌は、

あさしもの みけのさをばし まへつきみ いわたらすも みけのさをばし

(朝霜の御木(みけ)のさ小橋(をばし)群臣(まへつきみ)い渡らすも御木のさ小橋)

「櫪(くぬぎ)」ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima。漢字表記は「櫟」「椚」「橡」「栩」「功刀」等。和名語源説は「国木(くにき)」とも言われる。

「九百七十丈」二千三百九十四メートル。

「杵島(きねしま)」肥前国(佐賀県)にあった杵島郡(きしまぐん)。現在の佐賀県西部武雄市(たけおし)附近一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「近江國栗本郡」旧栗太(くりた)郡。誤りではなく、「和名類聚抄」などでは「栗本郡」とも記されており、当初は「くりもとぐん」と呼ばれていたが、やがて「くりたぐん」と変化した。古代には近江国府が郡内の勢多(瀬田)に置かれた。現在の草津市・栗東市の全域・大津市の一部・守山市の一部に相当する。旧郡域(但し、明治期)は参照したウィキの「栗太郡」を見られたい。

「柞(はゝそ)」小学館「日本大百科全書」によれば(幾つか私が追記した)、コナラ(ブナ目ブナ科コナラ属コナラ Quercus serrata)の古名とも言うが、古くはナラ類(ブナ目ブナ科コナラ属 Quercus に属する前種コナラを含めた、本邦産種であるクヌギ Quercus actissima・ナラガシワ Quercus aliena・ミズナラ Quercus crispula・カシワ Quercus dentata・アベマキ Quercus variabilisの総称ともされる。「万葉集」に「山科の石田(いはた)の小野(をの)の柞原(ははそはら)見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ」(巻第九・藤原宇合(うまかい)・一七三〇番)と詠まれ、のちにこの「石田(いしだ)のははそ原」は歌枕となり、また「ははそ葉の」は「母」の枕詞となった。「古今和歌集」では、とくに「佐保山」の景物として類型化し、「秋霧は今朝はな立ちそ佐保山の柞(ははそ)の紅葉(もみぢ)よそにても見む」(前書「是貞のみこの家の歌合のうた」・よみ人しらず・巻第五 秋歌下)などと詠まれた。「源氏物語」の「少女(をとめ)」の帖では、六条院の冬の町の御殿に植えられた様子が描かれ、「更級日記」には「ははその森」という紅葉の名所が挙げられてある。

「後堂」不詳。識者の御教授を乞う。]

諸國里人談卷之四 伐ㇾ櫻

 

    ○伐ㇾ櫻(さくらをきる)

京都東福寺の兆殿司(てうでんす)は名画なり。

將軍義持公、愛し給ひ、時々招かれけるが、一日(あるひ)、兆の志(こゝろざし)を謂(いは)しめ、

「望む所あらば、則〔すなはち〕、達(たつ)せん。」

と也。

明兆(めいてう)の曰(いはく)、

「財貨・官爵(くわんしやく)、元より、望(のぞみ)なし。一衣一鉢(いちゑいつはつ)、吾におゐて、足(た)れり。しかれども、今一〔ひとつ〕の願ひあり。近來頃(ちかきころ)、東福寺の衆僧、好(このん)で櫻樹(さくら)を栽(うゆ[やぶちゃん注:ママ。])る事をなす。後世に至らば、精舎(しやうじや)變じて遊園の地場(ちじやう)とならん。これ、予が歎く所なり。ねがはくば、命(めい)を奉りて、これを伐らん。」

と也。

義持公、大きに感じ給ひ、その請(こう)所にまかせて、則(すなはち)、伐らしむ。

今に至〔いたつ〕て、寺中に、櫻、なし。

[やぶちゃん注:読み易さを狙って、特異的に改行を施した。

「兆殿司(てうでんす)は名画なり」「画」(略字は①③とも)は「畫師」(「ゑし」と訓じたい。「畫工」はイヤ)或いは「画僧」の脱字であろう。室町前・中期の臨済宗の画僧吉山明兆(きつさんみんちょう 正平七/文和元(一三五二)年~永享三(一四三一)年))の通称。ウィキの「吉山明兆によれば、『淡路国津名郡物部庄(現:兵庫県洲本市物部)出身。西来寺(現:兵庫県洲本市塩屋』二『丁目)で出家後、臨済宗安国寺(現:兵庫県南あわじ市八木大久保)に入り、東福寺永明門派大道一以の門下で画法を学んだ。その後、大道一以に付き従い』、『東福寺に入る。周囲からは禅僧として高位の位を望まれたが、画を好む明兆はこれを拒絶して、初の寺院専属の画家として大成した。作風は、北宋の李竜眠や元代の仏画を下敷きにしつつ、輪郭線の形態の面白さを強調し、後の日本絵画史に大きな影響を与えた。第』四『代将軍・足利義持』(元中三/至徳三(一三八六)年~応永三五(一四二八)年/在任:応永元(一三九四)年~応永三〇(一四二三)年)。父の義満死後、勢力を盛り返す守護大名の中にあって調整役として機敏に立ち回った将軍で、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げた。彼の将軍在職二十八年は歴代室町将軍中最長。ここはウィキの「足利義持に拠った)『からもその画法を愛されている。僧としての位は終生、仏殿の管理を務める殿主(でんす)の位にあったので、兆殿主と称された』。『東福寺には、『聖一国師像』や『四十八祖像』、『寒山拾得図』、『十六羅漢図』、『大涅槃図』など、多くの著名作品がある。東福寺の仏画工房は以前から影響力を持っていたが、明兆以後は東福寺系以外の寺院からも注文が来るようになり、禅宗系仏画の中心的存在となった。工房は明兆没後も弟子達によって受け継がれ、明兆画風も他派の寺院にも広まって、室町時代の仏画の大きな流れとなって』いった、とある。

「今に至て、寺中に、櫻、なし」事実、現在の東福寺には殆んど桜の木はないそうであるが(この明兆の一件を契機としてと伝わる)、但し、ネット情報によれば、一箇所だけ、光明院にはあるそうである。但し、(グーグル・マップ・データ)は東福寺南三門外直近の境外塔頭である。]

諸國里人談卷之四 一夜杦

 

    〇一夜杦(ひとよすぎ)

同國同郡院内より五里がほど南に「杦の宮」といふあり。三輪明神の社(やしろ)あり。此所の杦、一夜(ひとよ)、降(ふ)りくだりたり、といひつたへ、凡(およそ)一万本ほどの杦、梢、切(きり)そろへたるがごとくにして、少(すこし)の高下(こうげ)なし。尤(もつとも)、他木(たぼく)なし。ふしぎの林なり。

[やぶちゃん注:「同國同郡院内より五里がほど南「杦の宮」といふあり。三輪明神の社(やしろ)あり」三輪明神の社これは現在の秋田県雄勝(おがち)郡羽後町(うごまち)杉宮(すぎのみや)にある三輪神社(ここ(グーグル・マップ・データ))であるが、「南」は距離から見ても、現在の秋田県湯沢市上院内附近を起点としていると考えられ、地図を見て戴けば判る通り、「北」の誤りである。個人ブログ「宿ろ」の「三輪神社(秋田県羽後町杉宮)によれば、社伝によれば、養老二(七一八)年、『行基が当地を巡錫の折、杉の木の下で霊告を受けて草庵を営み、大和国一宮「大神神社」を勧請したのが創始とされる。また、「雄勝城」建設のために大和朝廷から派遣された官人が、故国を懐かしんで勧請したともいう。現在では見る影も無いが、かつては地名の通り豊かな杉林があり、大和国から一夜にして飛んで来た、との伝承がある。「大神神社」には本殿が無く、「三輪山」そのものを神体山としているが、当神社では杉林を神体としたのかもしれない。当然ながら、祭神は(「大神神社」と同じ)大物主大神。平泉藤原氏の崇敬を受けて藤原秀衡』『の祈願所となり、現本殿は秀衡が造営したものと伝えられるが』、『確証はない。当神社境内に三輪神社(中央)、須賀神社(向かって右)、八幡神社(向かって左)の』三『社の社殿が並んでいるが、建築様式などからみて、「三輪神社」本殿は室町時代、「須賀神社」本殿は桃山時代の建立と推定され、国指定重要文化財に指定されている(「八幡神社」本殿は羽後町指定文化財)』とある(下線太字やぶちゃん)。]

諸國里人談卷之四 小町芍藥

 

    ○小町芍藥(こまちしやくやく)

出羽國雄勝(おかち)郡院内、湯沢といふ驛(むまやぢ)は、秋田より會津への往還也。此宿の間、小町村といふあり。むかし、此所は出羽(でわの[やぶちゃん注:ママ。])郡司好實(よしざね)の住居地なるよし、小町村は小の小町の出生の所也といへり。小町の宮(しや)あり。その流れといひつたへて、さもとらしき百姓あり。むかしより、此家は女子ばかり生じて男子を生ぜず。代々(よ〔よ〕)、聟をとつて相續する事、今以、かはらず。又、田畑の畔(あぜ)に、芍藥、九十九株あり。小町の植(うへ[やぶちゃん注:ママ。])られし其種(たね)といひつたへたり。此芍藥を、わけて他(た)にうゆるに、そだゝず。そのまゝ枯(かる)る也。花の盛のころ、子供・わらんべにても、此花を折れば、そのまゝ祟りありて、大熱(だいねつ)などする也。よつて、垣をきびしくかこみ置(おく)也。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

私云〔わたくしにいふ〕、

九十九といふ事を小町の事にいふは、深草の少將、もゝ夜通ひし事より、世にいひつたへたり。又、「もゝとせにひとゝせたらぬつくもがみ」の哥は、うたひ物には小町の事のやうにいへども、「伊勢物語」には、かつて、小町の事にはあらず。此所の芍藥、九十九株にさだまる事はいぶかしき事也。かの少將の緣によりて、九十九かぶ、のこる事か。外に仔細あるにや、しらず。

[やぶちゃん注:「伊勢物語」は①は「伊物」。③を採用した。

「出羽國雄勝(おかち)郡院内、湯沢」「小町村」「小町の宮(しや)」現在の秋田県湯沢市秋田県湯沢市小野小町(おのこまち)にある小町堂。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「出羽(でわの)郡司好實(よしざね)」ウィキの「小野小町」によれば(下線太字やぶちゃん)、『小野小町の詳しい系譜は不明である』(生没年も未詳である)『彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い』。『系図集『尊卑分脈』によれば』、『小野篁の息子である出羽郡司小野良真の娘とされている。しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。加えて、数々の資料や諸説から』、『小町の生没年は』天長二(八二五)年頃~昌泰三(九〇〇)年の『頃と想定されるが、小野篁の生没年』(延暦二一(八〇二)年~仁寿二(八五三)年)を『考えると』、『篁の孫とするには年代が合わない。ほかに、小野篁自身の娘』、『あるいは小野滝雄』なる人物の娘『とする説もある』。『血縁者として『古今和歌集』には「小町姉(こまちがあね)」、『後撰和歌集』には「小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが』、『存在が疑わしい。さらには、仁明天皇の更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。このため、架空説も伝えられている』。『また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる(ほぼ同年代の人物に「三条町(紀静子)」「三国町(仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する)。前述の小町姉が実在するという前提で、姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、妹である小町は「年若い方の“町”」という意味で「小野小町」と名付けられたという説もある』。『生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府を城輪柵(山形県酒田市)に移しており、その周辺とも考えられる。この他にも京都市山科区とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説』、『熊本県熊本市北区植木町小野とする説』、『神奈川県厚木市小野とする説』『など、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。東北地方に伝わるものはおそらく『古今和歌集』の歌人目録中の「出羽郡司娘」という記述によると思われるが、それも小野小町の神秘性を高めるために当時の日本の最果ての地の生まれという設定にしたと考えられてもいて、この伝説の裏付けにはなりにくい。ただ、小野氏には陸奥国にゆかりのある人物が多く、小町の祖父』ともされる『小野篁は青年時代に父の小野岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたと言われる。また、小野篁のいとこである小野春風は若い頃辺境の地に暮らしていたことから、夷語にも通じていたという』。『前述の秋田県湯沢市小野で過ごしたという説の他、京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年』、『この地で過ごしたとの説がある。ここにある随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている』。『小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。平安時代位までは貴族も風葬が一般的であり(皇族等は別として)、墓自体がない可能性も示唆される』。『秋田県湯沢市小野には二ツ森という深草少将と小野小町の墳墓がある。なお、近隣には、小野小町の母のお墓とされる姥子石など、小野小町ゆかりの史跡が多数存在している』とある。その他の伝承はリンク先を見られたい。

「さもとらし」如何にももっともらしく由緒ありげだ。然るべき様子である。

「芍藥、九十九株あり」深草少将は、ウィキの「深草少将」によれば、『室町時代に世阿弥ら能作者が創作した、小野小町にまつわる「百夜通い」の伝説に登場する人物。深草の里の欣浄寺(京都市伏見区)に屋敷があったともされる』。『欣浄寺の池の横には「少将の通い道」とよばれるものがあり、訴訟を持っている者がここを通るとかなわないと言われる。その他、小野小町供養塔と並んで深草少将供養塔がある。また、随心院(京都市山科区)には、深草少将等が書いた手紙を埋めたとされる「文塚」等がある。小野小町を愛したといわれ、小町が私の元へ百日間通い続けたら結婚しようと言い、九十九夜通ったが、雪の降る日で、雪に埋まり凍死したとも言われている』とあるように、まさに小町伝説の産んだ架空の人物である可能性が濃厚な男である。サイト「京都通百科事典」の「百夜通い伝説」には幾つもの同伝説のヴァージョンが記されているが、その中に――小野小町は、深草少将が毎日運んできた九十九本の芍薬を植え続けてきたが、百日目の夜、秋雨が降り続く中、途中の森子川にかかった柴で編まれた橋で、百本目の芍薬を持った深草少将が橋ごと流されてしまう。小野小町は、月夜に船を漕ぎ出し、深草少将の遺骸を探し、岩屋堂の麓にあった向野寺に安置して、芍薬一本一本に九十九首の歌を詠じ、「法実経の花」と称した。その後、小野小町は、岩屋堂に住み、香をたきながら自像をきざみ、九十二才で亡くなった。――という話を載せるが、この話の森子川や岩屋堂は、既にしてこの生地の一つとされる秋田県湯沢市小野なのである。「秋田県あきた未来創造部地域の元気創造課活力ある集落づくり支援室」の作るサイト「ああきた元気ムラ!」の「小町の伝説(1)小町の誕生」や、「小町の伝説(2)深草少将の百夜通い」及び「小町の伝説(3)小町の晩年」を参照されたい。また、強力な個人サイト「小野小町」「岩屋堂」や同サイトのその他の湯沢市小野地区の「小町堂(芍薬塚)」「桐善寺(長鮮寺跡)」(深草少将が仮住まいしたとされる)・「二ツ森」(小野小町と深草少将の墳墓の地とされる場所)等(トップページ下方)も必見である。

「もゝとせにひとゝせたらぬつくもがみ」「伊勢物語」第六十三段に出る、

 百年(ももとせ)に一年(ひととせ)たらぬつくも髮われを戀ふらしおもかげに見ゆ

である。「つくも髮」は諸説あるものの、「九十九髮」で「百」に一画足りぬ「白」で白髪の意と解される。在原業平は小野小町と同時代人ではあるが、沾涼の附記する通り、この章段の相手の大年増の女性は小町ではなく、全く関係はない

「うたひ物には小町の事のやうにいへども」観阿弥が謡曲「卒塔婆小町(そとばこまち)」で「百夜通い」伝説に引っ掛け、この歌の上句を、老残の小町の告白(深草の少将の霊が彼女に憑依する直前)の、地歌に、

〽百歳(モモトセ)に 一歳(ヒトトセ)足らぬつくも髮(ガミ) かかる思ひはありあけの 影(カゲ)恥づかしきわが身かな

と使っている。

2018/07/24

諸國里人談卷之四 遊行柳

 

    ○遊行柳(ゆぎやうやなぎ)

下野國芦野(あしの)にあり【奧州の界〔さかひ〕。】。柳のもとに、淸潔の淸水(しみづ)、流れたり。傍(かたはら)に社(やしろ)あり。「溫泉(ゆぜん)大明神」と号(がうす)。

 道のべの淸水流るゝ柳陰しばしとてこそ立とまりけれ

                  西行

此歌よりの名木也。然れば「西行柳」といふべかりけるを、うたひ物に、柳の精靈(せいれい)、遊行上人に逢(あひ)たると云〔いふ〕附會の説より「遊行柳」と云。

[やぶちゃん注:本条の挿絵がここに載る(①)。但し、キャプション(上部欄外左)は「道邊の柳」(「邊」は「連」のようにも見えなくもないが、以下の西行の歌から「邊」で採る)。これは私としてはまず、私の今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅14 遊行柳 田一枚植ゑて立ち去る柳かなを読んで戴きたく思う。

「下野國芦野(あしの)」現在の栃木県那須郡那須町芦野。「遊行柳」は現在、国指定の「おくのほそ道の風景地」の名勝の一つとなっている。(グーグル・マップ・データ)。流石に、これについてのネット記載は有象無象あるが、私はmaki kenサイト「BeNasu那須高原の歩き方の「おくのほそ道 田の畦に立つ芦野 遊行柳が写真も豊富でお薦めである。

「溫泉(ゆぜん)大明神」(原本は「ゆせん」)近くには芦野温泉もあるが、こう称するのは殺生石のそばにある温泉(ゆぜん)神社である。「遊行柳」からは北西十九キロメートル弱であるが、いわば那須一帯の温泉の総元締め的存在であり、「遊行柳」の近くには温泉神社の相殿八幡宮(現在、温泉神社)がある。(グーグル・マップ・データ)。

「道のべの淸水流るゝ柳陰しばしとてこそ立とまりけれ」西行の名吟とされ、「新古今和歌集」の「巻第三 夏歌」に載る(二六二番)が、「けれ」は「つれ」の誤り

   題しらず

 道の邊(べ)に淸水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちどまりつれ

「西行法師家集」では初句を「道の邊の」である。また、この歌は「山家集」には見えない。なお、「新古今和歌集」のそれは二首で後に(二六三番)、

 よられつる野もせの草のかげろひて涼しくくもる夕立の空

とある。

「うたひ物」謡曲「遊行柳」世阿弥の名作「西行桜」に対抗して、晩年の観世信光が書いた複式夢幻能。初演は永正一一(一五一四)年。西行の掲げた「道のべに」の和歌を骨子として、歌に詠まれた老いた柳の精が閑寂な風情をみせる高度な能。奥州に至った遊行上人(ワキ)(時宗の総本山である清浄光寺(遊行寺)の歴代住職の称。これを一遍上人と比定断定する記載をネット上には見かけるが、それは全くの誤りである。冒頭のワキの「名ノリ」に『われ一遍上人の教へを受け』とあるからである)の前に、老人(前シテ)が現れて、先代の遊行上人の通った古道に案内し、西行の歌に名高い朽木(くちき)の柳という名木を教え、上人から十念を授かると柳のあたりに姿を消す(中入)。里人(間(あい)狂言)が出て、上人に柳の物語をして退く。上人の念仏のなかに、柳の精(後シテ)が白髪の老翁の姿で現れ、和漢の柳の故事を物語り、報謝の舞を舞って消える(以上は概ね小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

諸國里人談卷之四 西行桜

 

    ○西行桜

山城國嵯峨法輪寺の南に桜元菴(さくらもとのあん)といふあり。西行上人の菴室(あんじつ)の舊地なり。此所に大なる桜一樹あり。これを「西行ざくら」といふ。また「西行田(だ)」といふあり。西行の田園(でんゑん)なりと。

○憲淸(のりきよ)、入道して圓位(ゑんゐ)と號(がうす)。後に西行と改め、國々を遊び𢌞(めぐ)りて、名所古蹟の地にして和歌を詠じ、これをたのしむ。

關東に趣(おもむ)くの時、家僕(かぼく)も発心して相從ふ。名を西住(さいぢう[やぶちゃん注:①③ともにママ。「さいぢゆう」が正しい。])といへり。

遠江國天竜川の渡りにて、船に乘(のり)けるに、乘る人、夛〔おほく〕して、舩、危(あやふ)し。

「僧達は下りて跡の舩に乘(のる)べし。」

と云り。

「便船(びんせん)は旅僧の常也。」

といひて、退(しりぞ)かず。

一人の船長(ふなをさ)、大〔おほい〕に怒りて、

「憎き法師のいひ事かな。」

と、西行の頭(かしら)を打(うつ)に、血、流れたり。

西行、憤る事さらになくして、舩より去る。

西住、これを見て、患悲(うれへかな)しみ、船長と爭ひに及(およば)んずる時、西行、これを制し、

「余、都をいづるより、兼而(かねて)、斯(かく)のごとくなる事を知る。何ぞこれを愁(うれへ)ん。此〔この〕すゑ、若箇(いかばかり)かあるべし。汝は伴ふべからず。」

とて、西住を古鄕(ふるさと)へ歸し、それより、独(ひとり)、行脚す。

                 西行

 いひたてゝ恨はいかにつらからん思へばうしや人のこゝろの

[やぶちゃん注:本条の挿絵がここに載る(①)。本条は物語調であるので、読み易さを狙って、特異的に改行を施した。

「西行桜」現行では西行ゆかりの寺とされて「花の寺」の通称でも知られる、京都府京都市西京区大原野南春日町にある小塩山(おしおざん)大原院(だいげんいん)勝持寺(しょうじじ)に(ここ(グーグル・マップ・データ))三代目が鐘楼堂の脇に咲くとするが、以下で沾涼が言う場所とは全く異なる。本寺は西行が出家した寺とし、「西行桜」も西行お手植えの桜とする。なお、「西行櫻」の名は、西行と桜の精の問答を核とした世阿弥の同名の複式夢幻能としても知られる。

「山城國嵯峨法輪寺」現在の京都市西京区嵐山虚空蔵山町、桂川の渡月橋右岸直近にある真言宗智福山法輪寺(ここ(グーグル・マップ・データ))。先の勝持寺は、この寺の南南西五キロメートル半も離れた位置にある。

「桜元菴(さくらもとのあん)」西行庵跡と伝えるものとしては、右京区嵯峨二尊院内(ここ(グーグル・マップ・データ。桂川左岸、法輪寺の北北西一・五キロメートル)。二尊院を入ってすぐの左手に「西行法師庵の跡」という石碑が建つ。私は行ったことがないので、ネット上の画像で確認した。

「西行田(だ)」「西行の田園(でんゑん)」現行では残らない。西行に与えられた扶持米分の田地ということか。

「憲淸(のりきよ)、入道して圓位(ゑんゐ)と號(がうす)。後に西行と改め……」西行の俗名は佐藤義清(のりきよ(憲清・則清・範清とも表記) 元永元(一一一八)年~文治六年二月一六日(一一九〇年三月三十一日)。ウィキの「西行」より引いておく。勅撰集では「詞花和歌集に初出(一首)。「千載和歌集」に十八首、「新古今和歌集」に九十四首(これは同歌集の入撰数の第一位である)をはじめとして、二十一代集に計二百六十五首が入撰している。家集に「山家集」・「山家心中集」(自撰)・「聞書集」がある。『秀郷流武家藤原氏の出自で、藤原秀郷の』九世の『孫。佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった』。十六歳頃より『徳大寺家に仕え、この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる』。保延元(一一三五)年、十八歳で『左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ』、同三(一一三七)年に『鳥羽院の北面武士としても奉仕していたことが記録に残る。和歌と故実に通じた人物として知られていたが』、保延六(一一四〇)年、二十三歳で』突如、出家(理由不詳)、『円位を名のり、後に西行とも称した』。『出家後は心のおもむくまま』、『諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、多くの和歌を残した』。『出家直後は鞍馬山などの京都北麓に隠棲し』、天養元(一一四四)年頃には『奥羽地方へ旅行し』、久安四(一一四九)年前後に『高野山(和歌山県高野町)に入』っている。その後、仁安三(一一六八)年には中国・四国への行脚に出、この時、『讃岐国の善通寺(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。讃岐国では旧主・崇徳院の白峰陵を訪ねてその霊を慰めたと伝えられ』、これは後代、上田秋成の「雨月物語」巻頭を飾る名篇「白峰」で怪談に『仕立てられている。なお、この旅では弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである』。『後に高野山に戻るが』、治承元(一一七七)年には『伊勢国二見浦に移った。文治二(一一八六)年、『東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため』、二『度目の奥州下りを行い、この途次に鎌倉で源頼朝に面会し、歌道や武道の話をしたことが』「吾妻鏡」に記されてある(ここは私の「北條九代記 西行法師談話」を是非、読まれたい。そこの私の注には「吾妻鏡」と当該部も引いてある)。『伊勢国に数年住まったあと、河内国の弘川寺(大阪府南河内郡河南町)に庵居し』、『この地で入寂した。享年』七十三。かつて「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」と『詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時』、『名声を博した』。「後鳥羽院御口伝」に『「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とあるごとく、藤原俊成とともに新古今の新風形成に大きな影響を与えた歌人であった。歌風は率直質実を旨としながら、つよい情感をてらうことなく表現するもので、季の歌はもちろんだが』、『恋歌や雑歌に優れていた。院政前期から流行しはじめた隠逸趣味』・『隠棲趣味の和歌を完成させ、研ぎすまされた寂寥、閑寂の美をそこに盛ることで、中世的叙情を準備した面でも功績は大きい。また俗語や歌語ならざる語を歌の中に取り入れるなどの自由な詠み口もその特色で、当時の俗謡や小唄の影響を受けているのではないかという説もある。後鳥羽院が西行をことに好んだのは、こうした平俗にして気品すこぶる高く、閑寂にして艶っぽい歌風が、彼自身の作風と共通するゆえであったのかもしれない』。『和歌に関する若年時の事跡はほとんど伝わらないが、崇徳院歌壇にあって藤原俊成と交を結び、一方で俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたであろうことはほぼ間違いないと思われる。出家後は山居や旅行のために歌壇とは一定の距離があったようだが』、文治三(一一八七)年に自歌合』(じかあわせ:自作の和歌を左右に分けて組み合わせ、他人又は自分が判詞をつけて歌合形式に纏めたものを指す)『「御裳濯河歌合」』(みもすそがわうたあわせ:西行が自作から七十二首を選び、左方を「山家客人」、右方を「野径亭主」と成して、三十六番の歌合として構成、藤原俊成に判を依頼したもので、伊勢内宮に奉納された。後に出る同じく西行の自歌合「宮河歌合」(定家判)と一体のものであるが、後世の自歌合の最初とされている。自選歌を通して西行の和歌評価基準を知ることが出来、俊成の率直な判詞とともに貴重な資料とされる。ここは平凡社「世界大百科事典」に拠った)『を成して俊成の判を請い、またさらに自歌合』「宮河歌合」』(みやがわうたあわせ)『を作って、当時いまだ一介の新進歌人に過ぎなかった藤原定家に判を請うたことは特筆に価する(この二つの歌合はそれぞれ伊勢神宮の内宮と外宮に奉納された)』。『しばしば西行は「歌壇の外にあっていかなる流派にも属さず、しきたりや伝統から離れて、みずからの個性を貫いた歌人」として見られがちであるが、これはあきらかに誤った西行観であることは強調されねばならない。あくまで西行は院政期の実験的な新風歌人として登場し、藤原俊成とともに』「千載和歌集」の『主調となるべき風を完成させ、そこからさらに新古今へとつながる流れを生み出した歌壇の中心人物であった』。『後世に与えた影響はきわめて大きい。後鳥羽院をはじめとして、宗祇・芭蕉にいたるまでその流れは尽きない。特に室町時代以降、単に歌人としてのみではなく、旅のなかにある人間として、あるいは歌と仏道という二つの道を歩んだ人間としての西行が尊崇されていたことは注意が必要である。宗祇・芭蕉にとっての西行は、あくまでこうした全人的な存在であって、歌人としての一面をのみ切取ったものではなかったし』、西行に仮託した偽書である説話集「撰集抄」や、伝記「西行物語」(鎌倉時代成立・作者未詳)を『はじめとする「いかにも西行らしい」説話や伝説が生まれていった所以もまたここに存する』とある。

「家僕(かぼく)も発心して相從ふ。名を西住(さいぢう)といへり」西住なる僧について考証したものは意外に少ない。そんな中で山村孝一氏の論文「西住と西行」は真っ向からそれに向かったもので必見である。西住はここに書かれているような佐藤義清の「家僕」だったのではなく、山村氏の考証によれば、まず、「1.西住の伝について」では、諸資料から、①『西住は俗名、源季正(政)で、在俗時右(左)兵衛尉であった』こと、②『醍醐寺理性院流祖賢覚より付法を受け、その法脈に連なる真言宗系の僧であった』ことが明らかとなり、さらに、続く「2.新資料について」では、「中右記」の大治四(一一二九)年十月二十三日の条に着目され、『この日の記事は、鳥羽上皇と待賢門院との間の五宮本仁親王(後の覚性法親王)の侍所政所始めのことである。この中の侍所十人の名前の六番目に「右兵衛尉源季政」という人物が見られる。私は、ここに出てくる「右兵衛尉源季政」こそ西行の同行』(どうぎょう)『であった西住の在俗時代の姿であると考えたい』とされ、①『彼は大治四年十月二十三日には右兵衛尉であり、本仁親王(後の覚性法親王)の侍所に仕えていた』人物であり、②『西行よりも年上』の、③『徳大寺家とは関係の深い侍ではないか』と推察されておられる。次の「3.西住の出家時期について」では、結論として『私は西住出家時期を保延六年頃、覚性法親王、西行などとかわらない頃と推定したい。また、初期の彼の出家後の形態は、西行、寂然などのように遁世を遂げたわけではなく、寂超や俊成のように都に留まり半僧半俗のような生活を送ったものと考えたい』とされ、「4.西住と西行の関係について」では、西行の四国行脚の際も落ち合ってともに行っていたことが示され、諸歌を掲げられて考証の上、そこには『西行の西住への愛情であり慕情である』ものが横溢しており、『それも両者の年齢差から考えてみて、弟が兄を慕うような感情ではなかっただろうか。また、そのような感覚で見た時、西住の死の折に見せた西行の異常なまでのうろたえぶりや、落胆の程が初めて理解できるのではないだろうか』と述べておられる。「5.西住の死について」は終章であるが、上記の部分も含め、山村孝一氏の論文「西住と西行」で、じっくりと全文を読まれたい。なお、他に、察侃青(サイハイセイ)氏の論文「『西行物語』の方法――東海道を歩む西行――」PDF)が、後の「西行物語」を考証した論文として優れているが、それを読むと、この「天竜の渡し」の事件伝承はかなり異なったヴァージョンや展開が存在するらしいことが判る。察氏は、『天竜の渡りで武士に鞭で頭を打ち割られた事件は、物語の中の最もドラマチックなエピソードということになろう』。『西行は、同行の入道と共に天竜の渡りで、大勢の人が乗った船に便乗した際、乗り合わせた武士に船を降りろと命じられたものの、渡船場の習いと思い、降りようとしなかった。すると、武士に鞭で頭を叩き割られ』、『血が流れるという惨事となった。同行の入道が見て悲しむ様子に、西行は修行の真義を教訓し、同行を拒否し』、『入道と別れて一人で旅を続けた』としつつ、『以降、略本系『西行物語』には次の独自な挿話が描かれている』として以下の久保家本「西行物語」の一節を引いておられる(引用を参考に、恣意的に漢字を正字化して示した)。

   *

只獨り、嵐の風身にしみて、うき事いとゞ大井河、しかひの波をわけ、淚も露もおきまがふ、墨染の袖しぼりもあへず行程に、するがの國、阿部の宿と云ふ所に付きて、あばれたる御堂に立寄り、やすみて居たりけるに、何となく後ろ戸の方を見やりたりけるに、ふるき檜笠のかけられたるを、あやしと見に、すぎにし春の比、都にて、たがひに、先立ゝば、還來穢國、最初引攝の契をむすびし同行の、東の方へ修行に出し時、あながちに別れを悲みしかば、此を形見にとて、我不愛身命、但惜無上道と書きたりしが、笠はありながら、主は見えざりければ、おくれ先立ならひ、はやもとのしづくと成りにけるやらんと、哀れに覺へて、淚をおへて、宿の者に問ひければ、京より、此春、修行者のくだりでありしが、此御堂にて、いたはりをして失せ侍りしを、犬の喰ひみだして侍りき。かばねは近きあたりに侍るらんと言ひければ、尋ぬるに、見えざりければ、

 笠はありその身のいかに成ぬらんあはれはかなき雨のしたかな

   *

創作性が強いとは言え、この展開は怖ろしいまでに凄絶で、しかも妙に生血のリアリズムある。西行の頭から流れる血筋に比ではない。しかも、『かつては阿仏尼筆と伝えられていた静嘉堂文庫本『西行物語』では、西行の阿部で発見した笠は、「同行西住」の形見としている。次に掲げるのはそれである』として、静嘉堂文庫本「西行物語」の当該部が示される(同前の仕儀を行った)。

   *

阿部の宿といふところに付きて、あれたる御堂に休みけるに、

 我不愛身命但惜無上道

と書たりし笠あり。見れば同行西住が笠也。笠はあれども、主は見えざりければ、あたりの人にとふ。答へて、この春、修行者のくだりでありしが、この御堂にて、いたはりをして失せ侍べりしを、犬の喰いみだして侍りき。かばねは近きあたりに侍べらんと言へば、尋ぬるに見えず。

 かさはありその身はいかになりぬらんあわれはかなきあめのしたかな

   *

察氏は『『西行物語』諸本において、これは唯一笠の持ち主の名が記されている伝本である。その上、西行家集『山家集』にもしばしば登場し、歴史上の西行の生涯の友であるとされている西住と明記している。本来、該当する描写は物語の展開を左右するほどの改編となろうが、『大般若経』の紙背を用いての書写のため紙数の制限を受けており、「省筆甚しく、改寵されている疑い」があり』、『「前半の西住出家に付けあわすべく、あえてその最期を同行客死の話に求めようとした意図が明らか」であると、多くの先行研究は指摘している』。『しかしながら、本文批判はしかるべきであっても、説話が流布する際には、それと全く関わらない形で伝承されていくこともある』とされ、続く「三.阿部における西行西住伝承」の冒頭で、『現在、静岡県藤枝市岡部町にある小さな丘・岩鼻山の頂に西行笠懸松と西住法師墓が存している』と始めて、西住についての考証に入って行くのである。この論文も必見である。

「僧達は下りて跡の舩に乘(のる)べし」例えば、吉川英治の「新・平家物語」の「歌法師」の章の冒頭ではこのエピソードを膨らましているが、そこでは西行と西住は舟に先に乗っており、舟は出ようとしている。そこに乱暴な三人の地侍が強引に乗り込もうとして(そこでは船頭は逆に彼らの乗船を渋る)、西行らを「乞食坊主」と呼び、下船を命ずるのである。

「便船(びんせん)は旅僧の常也。」通常の渡し舟に乗るは行脚の僧の当然の権利である。しかもちゃんと順に待って乗ったのであろうから、考えてみれば、ごく当たり前の理路整然としたものなのであると思われる。しかし、ここは理不尽を言うのを舟の安全性をよく知っている船頭の一人としてしまった点、沾涼がこう船頭が言った状況(舟の定員だけでなく、川の状態)を仔細に語っていない点、さらに、そうしたシチュエーション描写が削がれた中にあっては、この西行の台詞が、僧としては、聊か、不遜に聴こえてしまう点で失敗していると私は思う。

「余、都をいづるより、兼而(かねて)、斯(かく)のごとくなる事を知る。何ぞこれを愁(うれへ)ん。此〔この〕すゑ、若箇(いかばかり)かあるべし。汝は伴ふべからず」――私は、都を出でて、遙かな行脚の旅に赴くその初めから、予ねてより、このようなこと【これは、西住が船長(ふなおさ)の非道を見て彼と騒諍に及ぼうとしたことを指す。】〉になることが判っていたのだ。出家遁世した者が、どうしてこのようなこと【これも、西行が非道にも頭を打ち割られて怪我をしたことを契機として、西住がそれを激しく悲しみ、遂には義憤を発して船長と争おうとしたことを指す。】にあたら下らぬ愁いを起してなるものか! これから先、かくの如き(「若箇」)ことが何度起こる(「若箇」)ことであろうか思いやられることじゃ。それを思えばこそ、そなたを伴って行脚することは出来ぬ!――

「いひたてゝ恨はいかにつらからん思へばうしや人のこゝろの」「山家集」の「下 雑」の「恋百首」の一首(一三二九番)で「夫木和歌抄」(三十六)にも載る、

 言ひ立てて恨みば如何につらからむ思へば憂しや人のこころは

である。]

2018/07/23

諸國里人談卷之四 八幡木

 

    〇八幡木(〔はち〕まんき)

土佐國野根山(のね〔やま〕)街道の傍(かたはら)に檜の株あり。徑(わたり)一丈五尺に餘る。莚(むしろ)八疊を敷(しく)。梺(ふもと)の奈半利(なはり)村の八幡の社は、他の木を混(まじへ)ず、此一樹を以〔もつて〕、棰(たるき)・屋根板まで、悉(ことごとく)、成就す。よつて、俗にこれを「八幡木(はちまんき)」と呼(よん)で、周りに注連(しめ)を引て崇(あが)む。社(やしろ)は、方、四、五間ばかり有り。今に存

[やぶちゃん注:「土佐國野根山(のね〔やま〕)街道」ウィキの「野根山街道」によれば、『高知県東部の奈半利町』(なはりちょう)『と東洋町を結んでいる尾根伝いの街道で』、奈良時代の養老年間(七一七年~七二四年)に『整備された官道で、奈良と土佐国府を結ぶ街道「南海道」の一部である。高知県安芸郡奈半利町と東洋町野根を尾根伝いに結ぶ行程約』三十六キロメートル、高低差約千メートルの街道は、古くは「土佐日記」の『著者紀貫之の入国の道として、また、藩政時代には参勤交代の通行路として使用された。現在は「四国のみち」環境省ルート』の自然歩道『として整備されている』とある。尾根ルート(グーグル・マップ・データ)である。高知県公式サイト内の「野根山街道がよい。但し、その詳細な案内を見ても、どうもこの霊木の「檜の株」はない。しかし、謂われを持つ「栂」の株や、巨木であった「宿屋杉」(胸高での周囲が十六・六メートル、高さ三十二メートル、樹齢千年以上だったという。昭和九(一九三三)年の室戸台風で倒壊した。巨大な株が現地に保存されてある)というのがあるから、探せば、この杉の株もあるのではないか、という気がしてくる。

「徑(わたり)一丈五尺に餘る」直径四メートル五十五センチメートル越え。

「莚(むしろ)八疊を敷(しく)」根の周囲は優に八畳分はあるということ。

「奈半利(なはり)村の八幡の社」不詳。奈半利町内には国土地理院を見ると、七つの神社が確認出来る(グーグル・マップ・データでは、名前はおろか、神社マークさえも示されない。なんじゃこりゃ? って感じ)。奈半利駅の直近の奈半利小学校の東北近くに「八幡様」という場所をナビゲーション・サイトでは見出せるが、神社はない。近くに多気(だけ)坂本神社があるが、八幡神は祭神でない。「社は、方、四、五間」(七メートル二十八センチメートルから九メートル九センチメートル)とあるから、当時は、それなりの建物であったことが判る。或いは、明治以降に合祀統合されてしまったものか。識者の御教授を乞う。

「棰(たるき)」垂木に同じい。]

諸國里人談卷之四 臥龍梅

 

    ○臥龍梅(ぐはりうばい)

武藏國葛飾郡龜戸(かめと)村にあり。「梅屋敷」と称す。実(じつ)に、木つきは、龍の蟠(わだかま)れるがごとく、その枝の末(すへ[やぶちゃん注:ママ。])、地中に入〔いり〕て幹(みき)と成(なり)、枝と成りて、這(はひ)わたる事、十余丈、小朶(こえだ)は左右に流れて、梢、高からず。花の盛(さかり)は芬々として四方(よも)に薰(くん)ず。葉は、大なる桃のごとし。味(あぢは)ひ、至(いたつ)て酸(す)し。毎とし、遊觀(ゆうくわん)の人、詩歌・連俳、紙筆、これがために尊(たつと)く、車馬に疊(かさな)る。

[やぶちゃん注これも既に私は「耳囊 之四 龜戸村道心者身の上の事、及び柴田宵曲 俳諧博物誌(6) 龍 二で考証している。それを援用すると、この「梅屋敷」は現在の江東区亀戸(かめいど)の(グーグル・マップ・データ)で、元は浅草(本所埋堀とも)の伊勢屋彦右衛門の別荘であった。上記リンク先の通り、現在は建物も梅も全く存在せず、「梅屋敷跡」として位置だけが確認出来るに過ぎぬが、ここの絵は実は多くの方が見たことがあるのである。そう! かのゴッホも惚れ込んだ、あの歌川広重の「名所江戸百景」の中の有名な一枚――その画題はまさに「亀戸梅屋鋪」――はここで描かれたものだったのである! 英文ウィキPlum Park in Kameidoのパブリック・ドメイン画像を挿入しちゃおっと!

 

De_pruimenboomgaard_te_kameidorijk

 

「十余丈」十丈は約三十メートル三十センチメートル。

「芬々」(ふんぷん)は匂いの強いさま。

「毎とし」毎年。

「詩歌・連俳」を成さんとする有象無象の連中が雲霞の如く押し寄せては観梅し、その創作のために膨大な「紙筆」が費やされ、そのために「紙筆」の供給が枯渇して高値となってしまい(「尊(たつと)く」を私はその意で採る)、さらにまた高値で売らんかなという金の亡者のような商人(あきんど)が眼ん玉の飛び出るような値段を張り込んだ「紙筆」を「車馬に疊(かさな)る」ほど牽いてやって来る――という意味で私は全体を読んだ。大方の御叱正を俟つ。]

諸國里人談卷之四 大竹

 

    ○大竹

駿河國府中の寺に、元祿年中の頃、一夜(あるよ)の中、庭に假山(つきやま)のごとくに、地、凸(たかく)になりたり。「あやし」と見るに、一兩日たちて、笋(たかんな)、生出(ひいで)たり。近隣に、藪、なし。異(こと)なるに、日を追(おつ)て成長し、竹になりたる所、目通りにて、凡(およそ)三尺周(まは)りあり。「未聞(みぶん)の事なり」と、諸人(しよにん)、見物す。一年(あるとし)、御番衆(ごばんしゆ)、見物に來り、座興のやうに所望ありしに、住僧の云〔いはく〕、「所詮、此竹ありて、人、かしまし。幸に、まいらせん」と無下に伐(きり)たり。人々、これを配分して、おもひおもひの器物(きぶつ)に拵(こしら)へけり。丸盆・たばこ盆・樽などにして珍とす。或人、飯注子(めしつぎ)にして江戸へ持來(もちきた)り、土産などにせしよし也。其器(き)を當(まさ)に見たる人の談(ものがたり)也。其大〔おほい〕さ、徑(わたり)、八、九寸ありし、となり。

[やぶちゃん注:「駿河國府中」所謂、駿府。現在の静岡市葵区の静岡駅周辺の中心市街地一帯。

「元祿」一六八八年から一七〇四年まで。

「假山(つきやま)」「築山」に同じい。

「笋(たかんな)」=「筍」。竹の子。

「目通り」成人男子が起立した際の目の高さに相当する位置の植物(通常は木本類。タケ(被子植物門単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科タケ連 Bambusea)が草本か木本かは意見が分かれる)の幹の太さを指す語。

「三尺周(まは)り」円周で約九十一センチメートル。これだと、直径は約二十九センチメートルになるから、竹としては明らかに異様に太い。最後に「おはち」に加工したものの直径が「八、九寸」(二十四~二十七センチメートル)とするのともほぼ一致するから、異常な太さの巨大竹であったことになる。本邦産のタケ類の最大種は、中国原産のマダケ属モウソウチク(孟宗竹)Phyllostachys heterocycla f. pubescens で、高さ二十五メートル、直径八センチメートルから二十センチメートルで、最大個体では直径が二十五センチメートルに達すると、サイト「三河の植物観察」の孟宗竹ページにはある。但し、そのページには孟宗竹の伝来を十八世紀前半(薩摩藩に渡来)とするので、孟宗竹ではないことになってしまうのは、ちょっと残念。

「御番衆」駿府在番であろう。ウィキの「駿府城駿府在番・勤番によれば、『駿府城には、定置の駿府城代・駿府定番を補強する軍事力として駿府在番が置かれた。江戸時代初期には、幕府の直属兵力である大番』(おおばん)『が駿府城に派遣されていたが』、寛永一六(一六三九)年には『大番に代わって将軍直属の書院番がこれに任じられるようになった。その後』、約百五十年間に亙って、『駿府在番は駿府における主要な軍事力として重きをなすとともに、合力米の市中換金などを通じて駿府城下の経済にも大きな影響を与えたとされる』(後、寛政二(一七九〇)年には、この『書院番による駿府在番が廃止され、以降は常駐の駿府勤番組頭・駿府勤番が置かれて幕末まで続いた』とある)。

「座興のやうに所望ありしに」調子に乗って、この竹が欲しいと言ったところが。

「無下に」(「てっきり渋って断わるかと思っていたところが、豈に謀らんや」のニュアンスで)冷淡にも。そっけなく。あっさりと。

「飯注子(めしつぎ)」炊き上がった飯を移し入れる飯櫃(めしびつ)。おはち。]

諸國里人談卷之四 観音寺笹

 

   ○観音寺笹(くわんのんじのさゝ)

三河國保飯(ほいの)郡、小松原観音寺の本尊は馬頭観音にて、行基菩薩の作也。毎年二月初午に此山に入て、參詣の人、隈笹(くまざゝ)を得て歸る也。馬の煩(わづらへ)る時、御影(みゑい[やぶちゃん注:ママ。])を厩(むまや)に呈し、この笹を飼(か)ふに、忽(たちまち)、癒(いゆ)る事、奇なり。又、南海を渡る舩、此堂の前を過(すぐ)る時、帆を下(さげ)ざれば、敢(あへ[やぶちゃん注:ママ。])て、難あり。よつて、もろ船、ともに帆を下(さげ)る也。

[やぶちゃん注:後半の帆云々は寺の前を畏れ多く通る船として敬意を表するということであろう。帆前船は或いはそれで動けなくなることもあろうはずであるが、そこは馬頭観音の法力によって順調に渡れるとならば、誰もが素直に敬虔に帆を下ろしたということであろうか。

「三河國保飯(ほいの)郡」三河国(愛知県)「寶飯郡」の誤りであろう。但し「寶飯」も誤認で、本来は「寶飫(ほお)」であった。

「小松原観音寺」現在の愛知県豊橋市小松原町坪尻(渥美半島の根の東岸。遠州灘の沿岸)にある臨済宗小松原山東観音寺(とうかんのんじ)。本尊は馬頭観音菩薩。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「東観音寺」によれば、寺伝では天平五(七三三)年に『行基によって開かれたとされる。かつては真言宗の寺院であったが、その後』、『現在の臨済宗に改められたという。江戸時代に入ると徳川家から寺領を寄せられ、江戸時代には多くの末寺を有していた』。正徳六(一七一六)年に『現在地に移されたという』とあるが、本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、ロケーションに問題はない。]

諸國里人談卷之四 印杦

 

    ○印杦(しるしのすぎ)

和州三輪に印杦といふあり。相傳ふ、伊勢國奄藝(あきの)郡の獵人(かりうど)、異(ことなる)女に逢(あひ)て一子を儲(まう)く。後、母子ともに行方(ゆきかた)しらず。

 戀しくは尋ても見よわが宿は三輪の山もと杦たてる門〔かど〕

此哥を殘せり。夫(をつと)、神木のもとにこれを尋求(たづねもと)めて、三人、同じく、神となる。當社の祭に勢州奄藝郡(あきのこほり)の人、來て、これを行ふは此謂(いゝ[やぶちゃん注:ママ。])なりと云り。又、「日本紀」・「舊事記」等の説あり。

[やぶちゃん注:現在の奈良県桜井市三輪の大神(おおみわ)神社にある、三輪の大神の示現(=「印」)した杉(「杦」は「杉」の行書体から作られた俗字)、「神の坐(ま)す杉」とされてきた杉(但し、当初は神杉として信仰されていた境内地の七本の杉のことを指していたらしい)。現在は杉も根本だけが覆屋の下に残っている。神社」公式サイト内グーグル・マップ・データ杉」コンテンツ写真を見られたい。

「伊勢國奄藝(あきの)郡」「奄藝」「安藝(安芸)」であるが、ここの郡名は「あけ」と読むのが正しい。郡域はウィキの「安芸郡(三重県)の地図で確認されたいが、現在の津市の一部(河芸町各町・大里各町・高野尾町・安濃町各町・美里町各町)と亀山市の一部(楠平尾町・関町萩原・関町福徳)である。

「戀しくば尋ても見よわが宿は三輪の山もと杦たてる門」この歌、「古今和歌集」の「巻第十八 雑歌下」に「よみ人しらず」で載る一首(九八二番)、

 わが庵(いほ)は三輪の山もと戀しくは訪(とぶら)ひ來ませ杉たてる門(かど)

の異形。岩波新古典文学大系の注によれば、この歌は『中世には三輪明神の歌とされた古今伝授秘伝歌』であり、『もとは三輪の巫女(みこ)に関する歌謡』であったか、とする。

『「日本紀」・「舊事記」等の説あり』「舊事記」は「くじき」と読み、「先代舊事本紀」のこと。全十巻。天地開闢から推古天皇までの歴史を記述する。序文には聖徳太子・蘇我馬子らが著したとするが、偽書で、大同年間(八〇六年~八一〇年)以後(九〇四年~九〇六年以前)に成立したと考えられている。但し、この「説」というのは三輪山伝説のことを指しているのであろうが、具体的に「日本書紀」及び「先代旧事本紀」のどこのどういう内容を指しているのかは私にはよく判らない。]

諸國里人談卷之四 靑葉楓

 

    ○靑葉楓(あをばのかいで[やぶちゃん注:①。ママ。])

武藏國金澤稱名寺の堂、ひがしに一木の楓あり。

               藤原爲相卿

 いかにして此一もとのしぐれけん山にさきたる庭のもみぢば

此哥よりこのかた、紅葉(こうやう)せずと也。金澤に八木(はちぼく)の名樹あり。

所謂(いはゆる) 西湖(さいこの)梅 黑梅 櫻梅 文殊梅 普賢象(ふげんぞう)桜 蛇混(だこん)柏 一松 靑葉楓等(とう)也。

[やぶちゃん注:これは私は既に新編鎌倉志卷之八の「稱名寺」(その原資料とも言うべき水戸黄門の日記(実は「黄門さま」は生涯にたった一度だけしか旅していない。その稀有の旅日記である)鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」称名寺(ブログ版)もリンクさせておく)及び鎌倉攬勝考卷之十一附錄の「六浦」の「八木【靑葉楓・西湖の梅・櫻梅・文殊梅・普賢象梅、是は稱名寺境内にあり。黑梅今は絶たり。蛇混柏、瀨戸の神社に有。外に雀ケ崎の孤松、是を八木といふ。】」(西湘桜・桜梅・普賢象桜・青葉楓の挿絵が有る)、さらにはブログの「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅳ)等でテツテ的に注釈している。ここに追記することは最早ない。それらをご覧あれ。なお、私が訳した冷泉(藤原)為相(れいぜいためすけ 弘長三(一二六三)年~嘉暦三(一三二八)年:公卿で歌人。藤原為家三男、母は阿仏尼。冷泉家祖。正二位・権中納言。家領の相続を廻って異母兄二条為氏と争そい、しばしば鎌倉へ出向き、関東歌壇の指導者として重きをなした。通称は藤谷(ふじがやつ)中納言)の当該和歌の訳を掲げておく。

……どうしたらこの一木(いちぼく)にだけ、それを紅葉させる時雨が降るなどということがあり得よう……そんなことはあり得べきもないはず……しかし事実、周囲の山々の木々に先だって確かにこの庭の一木だけが紅いに染まっていることよ……

と詠んだら、彼の疑義に観応した楓がこれ以降、厳冬になっても青葉のままであったという奇瑞である。以下の「八木」についても、主に新編鎌倉志卷之八に於いて、可能な限り、植物学的な考証と、現存・非存の確認もしてあるので、興味のある方はそちらを参照されたい。但し、私の注全体はかなりの分量があるので、まともに読むと、相応の時間がかかることは覚悟されたい。]

諸國里人談卷之四 無ㇾ澁榧

 

    ○無ㇾ澁榧(しぶなしかや)

甲斐國二の宮の社地に大木の榧あり。澁は皮のうらに付〔つき〕て仁(たね)に澁なく、至つて白し。此種を他に栽(うゆ[やぶちゃん注:ママ。])るに生ぜずと也。

[やぶちゃん注:「榧」裸子植物門マツ綱マツ目イチイ(一位/櫟)科カヤ属カヤ Torreya nuciferaウィキの「カヤによれば、『種子は食用となる。そのままではヤニ臭く』、『アクが強いので』、『数日間』、『アク抜きしたのち』、『煎るか、土に埋め、皮を腐らせてから』、『蒸して食べる。あるいは、灰を入れた湯でゆでるなどしてアク抜き』し、その後、『乾燥させ、殻つきのまま煎るか』、『ローストしたのち』、『殻と薄皮を取り除いて食すか』、『殻を取り除いた実を電子レンジで数分間加熱し、薄皮をこそいで実を食す方法もある。果実から取られる油は食用、灯火用に使われるほか、将棋盤の製作過程で塗り込まれる。将棋盤のメンテナンス用品としても使用される。また、山梨県では郷土の食品として、実を粒のまま飴にねりこみ、板状に固めた「かやあめ」として、縁日などで販売される。また、カヤの種子は榧実(ひじつ)として漢方に用いられるほか、炒ったものを数十粒食べると』、『サナダムシの駆除に有効であるといわれる』とある。

「甲斐國二の宮の社地」現在の山梨県笛吹市御坂町二之宮にある美和神社は史料としては、「日本三代実録」貞観五(八六三)年六月八日の条に初見するが、そこには『同日に美和神社は従五位に叙せられ、一条天皇から二宮の号を与えられたと』あるとする(ウィキの「美和神社より引用)。]

諸國里人談卷之四 枝分桃

 

    ○枝分桃(ゑだわけもゝ)

安藝國新庄村と佐東(さとう)村の界(さかい)に大木の桃、一樹あり。南は新庄、北は佐東なり。此桃、佐東のかたへさしたる枝の桃は苦く、新庄のかたへさしたる枝は甘美なり。土人(ところのひと)の云〔いはく〕、「むかし、弘法大師、佐東にて桃を乞(こひ)給ふに、『此桃は甚(はなはだ)苦し。人のくらふにはあらず』と云〔いへ〕り。新庄にて乞給へば、『甘美なり』とてまいらせける、となり。故に一木に甘苦の味ひあり」とぞ。

[やぶちゃん注:弘法大師伝承にしては、これ、ショボい。佐東の側の桃を甘く変じせしめてこそ、でっしょうが!? この話、本邦の植物病理学の開拓者である白井光太郎(みつたろう)の名著「植物妖異考」(大正三(一九一四)年甲寅(こういん)叢書刊行所刊)の「上」に、本「諸國里人談」の本条を引いた上で優れた植物学的考証を添えて考証が載る(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のと次のページで視認出来る)。必見! そこで白井氏は桃の木の寿命から考えると、原木の実存はあり得ないとしつつも、『已ニ幾十代ヲ經タル子孫ナルコト疑ナシ、其子孫ニ代々斯ノ如キ特種ヲ遺傳セリトセバ、珍ラシキ樹ト云フベシ』と述べ、そうした遺伝でないとするなら、方向の違いによって甘苦が生ずるのは、日射量の違いによって、北の枝は温度不足のために充分な成熟が行われなかったことがまず考えられ、また、『寄生菌ノ爲ニ犯サレタルガ爲ニ苦味ヲ生スルコトモアラン』とされ、そうでなかったとしても、『接木』(つぎき)『ニヨリ一本ニ甘苦ノ果實ヲ生セシムルコト容易ナリ、其他ニハ芽ノ變性ニ由ル所謂枝變リナルモノト考フルヲ得ベシ、桃ニ就テノ記錄ハ見ザレドモ、柿ニ就テハ』「柿品」という書に記事があるとしてさらに続けて解説しておられる。白井先生の怪奇談を聴き捨てにしない、真摯な科学的考察に脱帽!!!

「安藝國新庄村と佐東(さとう)村の界(さかい)」広島県広島市西区新庄町と広島市安佐南区の間と思われる。中央附近(グーグル・マップ・データ)。]

諸國里人談卷之四 錢掛松

 

    ○錢掛松(ぜにかけまつ)

勢州窪田と椋本(むくもと)の間、豐國野(とよくの)にあり。相傳ふ、むかし、參宮する人、此埜〔の〕の長きに倦(あき)て、「此松原は行程(みちのり)何(なに)ほど、ある」と、とふ。里人、たはむれて、「十日行〔ゆく〕、豐國野、七日行、長野の松原」といふに茫然(あきれ)て、一貫文の錢(ぜに)を此松がえ[やぶちゃん注:ママ。]にかけて、玆(こゝ)より、大神宮を拜(おがみ)て、國へ歸りける。他(た)の人、彼(かの)錢を見るに、蛇の蟠(わだかま)りたるやうにおもひて、あへて取(とる)人、なし。彼(かの)もの、故鄕へ歸りて後、あざむかれたる事をきゝて、口おしく[やぶちゃん注:ママ。]思ひ、又、參宮してこれを見れば、かけたる錢、そのまゝにして、ありける。これによつて此名ありと云〔いへ〕り。

[やぶちゃん注:本件は柴田宵曲「續妖異博物館」の「巖窟の寶」や、同「續妖異博物館 錢と蛇」で詳細を考証済みなので、そちらを参照されたい。そちらの方が怪奇談性がよく出ているのに対し、沾涼の叙述はここでは擬似笑談奇談に終っていて、ショボい。

「豐久野」現在の三重県津市芸濃町椋本豊久野(とよくの)。ここ(グーグル・マップ・データ)。伊勢神宮までは直線で四十八キロメートルほど。

「長野の松原」これは嘘の距離を誇大に表現するためのもので、地名ではないように思われる。

「一貫文」一貫文は千文で、江戸初期から中期にかけての金一両(四千文)は十万円相当とされるので、二万五千円に相当(但し、幕末にかけては激しいインフレに見舞われ、一貫文は七千円程度まで下落した。以上はネットのQ&Aサイトの回答に拠った)。]

諸國里人談卷之四 唐崎松

 

    ○唐崎松(からさきのまつ)

近江國志賀郡(しがのこほり)唐崎の松は一莖一葉(いつきやういちやう)也。名高き名木にて世に知る所なり。後水尾院、此所の名所をよませ給ふ。

 鏡山人のしかからさき見えて我身のうへをかえりみづ海

志賀浦は三井寺と坂本の間也。唐崎花園里(はなぞのゝさと)も相列(あいつらな[やぶちゃん注:ママ。])る。

[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では和歌の三句目の「見えて」の右に『(マヽ)』と注記がある。現在の滋賀県大津市大津市唐崎にある唐崎神社((グーグル・マップ・データ)。北北西約二・七キロメートルの位置にある大津市坂本の日吉(ひえ/現行は「ひよし」だが本来は「ひえ」が正しい読み)大社の摂社)の境内にある。万葉以来の歌枕。ウィキの「唐崎神社によれば、同神社は本社日吉大社の社伝によれば、舒明天皇六(六三三)年に琴御館宇志丸宿禰(ことのみたちうしまろ)がこの地に居住し、『「唐崎」と名附けたといい』、本唐崎神社の『祭神』(現行では「女別当命(わけすきひめのみこと)」とする)は、『その宇志丸宿禰の妻とされる。当社は』持統天皇一一(六九七)年に『創建されたと伝えられ、かつては「女別当社」と呼ばれ、婦人病に霊験ありとして広く信仰を集めた』。『境内には、宇志丸宿禰が植えたのに始まるとされる「唐崎の松」がある。境内から琵琶湖を背景に唐崎の松を描いた歌川広重の「唐崎の夜雨」で知られており、近江八景に選ばれている。宇志丸宿禰が植えた初代の松は』天正九(一五八一)年の大風で倒れ、十年後の天正十九年に当時の大津城主新庄直頼の弟であった新庄直忠が二代目の松を植えた。その二代目は大正一〇(一九二一)年に枯れ、現在のものは三代目である、とある(その三代目も老成して内部が空洞化し、次世代の植栽育成も行われていることが報道記事で判る)。唐崎神社」公式サイトに詳しい解説があり、歌川広重の「唐崎夜雨図」や明治・大正期の二代目の写真が添えられてある。それによれば、『桃山時代の著書で当時の古伝承をまとめた『日吉社神道秘密記』によ』れば、舒明天皇五年頃、『琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)が唐崎に居住し、庭前に松を植え“軒端(のきば)の松”と名付けたことに始ま』るとし、『日吉大社西本宮のご鎮座伝承では、童の姿に身をやつした大神様が船に乗ったまま松の梢(こずえ)に上がるという神業を示されたことから』、『特に神聖視されるようにな』ったとし、古くは『中世の山王(さんのう)曼荼羅(まんだら)』にも描かれているとあり、『石川県の兼六園にも二代目の実生があり』、『「唐崎松」として』現存するとある。グーグル画像検索「唐崎松」をリンクさせておく。

「一莖一葉(いつきやういちやう)」読みはママ(③)。①は「葉(よう)」と振る。歴史的仮名遣は「葉(えふ)」が正しい。一つの小さな枝茎に複葉はしないことを言う。

「後水尾院」(文禄五(一五九六)年~延宝八(一六八〇)年/在位:慶長一六(一六一一)年~寛永六(一六二九)年)。在位中は秀忠・家光の治世。元和元(一六一五)年の「禁中並公家諸法度」の制定や所司代などを通じての朝廷干渉に加え、幕府の法が天皇の勅許に優越することを見せつけた「紫衣事件」、前例を無視した春日局の無位無官での拝謁強行などによって幕府への不満が爆発し、寛永六年に唐突に譲位し、以降、明正・後光明・後西・霊元の四代に亙って院政を行った。学問・詩歌に深い造詣を示し、「伊勢物語御抄」などを著し、古今伝授を受けている。叙景歌にも優れ、歌集に「鷗巣集」がある。修学院離宮のを造営でも知られる。

「鏡山人のしかからさき見えて我身のうへをかえりみづ海」この歌、不詳。識者の御教授を乞う。少なくとも知られた唐崎を詠んだ歌ではないらしく、どこにも出てこない。従って正規表現の原歌に当たれないので、冒頭に記した吉川弘文館随筆大成版のママ注記の意味も不明である。後水尾の事蹟からは歌の持つ茫漠感は何となく理解は出来るが。「鏡山」は琵琶湖の南東岸やや奥の、野洲市と蒲生郡竜王町鏡に跨る標高三百八十四メートルの山。(グーグル・マップ・データ)。新羅国の天日槍皇子が丹後の出石へ行く時に宝物の鏡を山中に埋めたという伝説から、名が付いたとされ、古くからの歌枕として知られる。

「唐崎花園里(はなぞのゝさと)」不詳。]

2018/07/22

進化論講話 丘淺次郎 第十八章 反對説の略評(一) 序・一 自然淘汰無能説

 

    第十八章 反對説の略評

 

 既に第十五章に於て述べた通り、ダーウィン以後の進化論者には、互に相反する極端説を唱へるものがあつて、一方では、生物の進化は主として後天的性質の遺傳によることで、自然淘汰の如きは殆ど何の役にも立たぬと論じ、また他の一方では、生物の進化は全く自然淘汰のみに依ることで、後天的性質は決して子に傳はらぬと論じて居るが、著者はその孰れをも採らず、自然淘汰と後天的性質の遺傳とを共に生物進化の原因と考える。卽ち自然淘汰の功力を認める點では、ヴァイズマン等に一致して、新ラマルク派には反對し、後天的性質の遺傳を否定せぬ點では、新ラマルク派と一致して、ヴァイズマン等に反對するのであるから、今こゝに反對説の略評を試みるに當つては、恰も兩刀づかひの武藝者の如くに、兩面に敵を控へて戰はねばならぬ。尤も兩面ともに、その主要なる部分に對しては賛成するのであるから、寧ろ兩面に味方を持つといふ方が適當かも知れぬが、自然淘汰の功力を疑ふ議論と、後天的性質の遺傳を否定する議論とは、孰れも推理の上に不十分な點があると考へざるを得ぬから、次に順を追うて、この二點に就き著者の説の大要を摘んで述べて見よう。

[やぶちゃん注:「ヴァイズマン」複数回既出既注

「新ラマルク派」ネオ・ラマルキズム(Neo-Lamarckism)。ウィキの「ネオ・ラマルキズム」を主として以下に記す。「第二章 進化論の歷史(2) 二 ラマルク(動物哲學)」に紹介したラマルクの説と『同様の進化観は古くから存在していたが、その主張を明確に整理したのがジャン=バティスト・ラマルクであった。以降、ラマルクのものと解釈されるようになった彼が説明した進化論は「用不用説」と呼ばれている。生物がよく使用する器官は発達し、使わない器官は退化するという用不用の考えと、それによって個々の個体が得た形質(獲得形質)がその子孫に遺伝するという「獲得形質の遺伝」を』二『本柱としている。また、彼は、生物の進化は、その生物の求める方向へ進むものと考え、生物の主体的な進化を認めた。彼の説明は観念的であり、生物の進化と言う概念を広く認めさせることができなかったが、彼がまとめた「内在する進化傾向」や「個体の主体性」はその後現在に至るまで特に非生物学者から人気がある』『という』。『チャールズ・ダーウィンの自然選択説が』一八五九年に『発表されると、生物の進化と言う概念は大論争の後に広く認められた。しかし自然選択説が受け入れられるには長い時間がかかった。彼の説は、「同種内の個体変異が生存と繁殖成功率の差(自然選択)をもたらし、その差が進化の方向を決める」というものである。後に遺伝の法則が発見され、個体変異の選択だけではその範囲を超える進化は起こり得ないことが明らかになった。しかし直後に発見された突然変異を導入することでこの難点は避けられる。こうして、彼の元の説の難点を補正した説は次第に「総合説」、「ネオダーウィニズム」と呼ばれるようになり、現在に至っている』。『現代的な自然選択説では「個体変異から特定個体が選ばれる過程はごく機械的であり、個体変異の発生も機械的なもの」と考えて』おり、『「突然変異は全くの偶然に左右されるもの」と考えられている。つまり、「その過程に生物の意思や主体性が発揮される必要はない」と考えているのである』。『しかし、たとえば一般の人間にチョウの擬態などを見せれば、「どうやってこんなに自分の姿を他人に似せたのだろうか」といった感想がでることがある。この直感的な疑問は古くからあり、現在でも同様の感想をもつ専門家もいる。古生物の進化の系列や、野外における個々の生物の見事な適応を研究するうち、「これらを説明するためには、生物自身がそのような方向性を持っていると考えざるを得ない」とする専門家も現れた。彼らが好んだ説が生物に内在的な進化の方向を認める定向進化説である』。『また、たとえば「鳥の飛行能力などは、複数の形質がそろわなければ、そのような能力獲得が難しい」と言われることもある。そのような立場を取る人によれば「ダーウィンの説明では、この問題への解答は困難である」と見なす。中間型の機能も、「生物自身がそのような方向性を何らかの形で持っている」とする』(注『ネオ・ラマルキズムを採用しない立場では、一般的には前適応』preadaptation:生物進化に於いて、ある環境に適応して器官や行動などの形質が発達するに当たって、それまで他の機能を持っていた形質が転用された時、この転用の過程や転用された元の機能を指す。既注。本文の次の「自然淘汰無能説」で丘先生が指摘される『作用の轉換』はそれである)『や自然選択の累積効果、共進化』(Co-evolution:一つの生物学的要因の変化が引き金となって別のそれに関連する生物学的要因が変化すること。例えば、『ある鳥が上手く飛べなくても、対抗者も上手く飛べなければ』、『生存と繁殖には問題がない』といったものを指す)『などで説明される』。)『ダーウィニズムが進化論において主流の地位を占めた後でも、獲得形質の遺伝を証明しようとする実験が何度か行われている。特に有名なのは、オーストリアのパウル・カンメラーによるサンバガエル』『の実験である』(本文で既出既注。『彼は両生類の飼育に天才的な才能を持っていた』(注『マダラサンショウウオでも同様の実験を行っていた』(これも本文で既出既注『と伝えられ、陸で交接を行い足に卵をつけて孵化まで保護するサンバガエルを、水中で交接・産卵させることに成功した。水中で交接するカエルには雄の前足親指の瘤があって、これは水中で雌を捕まえるときに滑り止めの効果があると見られる。本来この瘤はサンバガエルには存在しないのだが、カンメラーはサンバガエルを』三『世代にわたって水中産卵させたところ』、二『代目でわずかに』、三『代目ではっきりとこの瘤が発現したと発表した。つまり、水中で交接することでこの形質が獲得されたというのである。ところが』、『公表された標本を他の研究者が検証してみたところ、この瘤はインクを注入されたものであることが発覚。実験自体が悪質な捏造であると判断され、カンメラーは自殺した』(注『但し、公表された標本は実験中のものとは明らかに異なり、確かに瘤はできていたとの実験の途中経過を見た人による証言もある。或いは共同研究者によって何等かの理由ですり替えられたというのであるが、疑惑を持たれた研究者が(標本の検証以前に)既に亡くなっていたことから、真偽のほどは分からない。アーサー・ケストラーの言う』よう『に検証した側が捏造に関わっていたという見方もある』。この捏造事件は私の過去の注でも二度既注しているので参照されたい)。『その後、サンバガエルの水中飼育に成功した例は存在しない』。『カンメラーと同じ頃、ソビエト連邦では』果樹の新種改良を数多く手がけ、居地を冠して「コズロフの魔術師」と呼ばれた生物学者イヴァン・ヴラジーミロヴィッチ・ミチューリン(ロシア語:Ива́н Влади́мирович Мичу́ринIvan Vladimirovich Michurin 一八五五年~一九三五年)『によって獲得形質の遺伝が力説され』(注『春化処理によるヤロビ農法の提唱者であり、春化処理による種の性質の獲得に基づく進化論を主唱した』)、『生物学界に一定の支持を得ていた。その中の一人である』ウクライナ生まれのソ連の生物学者トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコ(ウクライナ語:Трохи́м Дени́сович Ли́сенко/ロシア語:Трофим Денисович Лысенко/ラテン文字転写:Trofim Denysovych Lysenko 一八九八年~一九七六年)『はミチューリンの理論を発展させ、これを獲得形質と判断し』、『独自の進化論を述べた。しかし、これには現象そのものの理解に問題があり、現在ではこれを支持するものはいない』(彼は社会主義理論を生物学に牽強付会させ、メンデル遺伝や遺伝子概念を否定するばかりか、自然選択をも否定することでダーウィン進化論から逸脱してしまったスターリンの幇間的似非科学者であり、彼に反対したために粛清された科学者は三千人を越えるとされる)。二〇〇〇年頃までの『分子遺伝学では、専ら「遺伝における情報の流れはDNAを翻訳して形質が発現する」とされ、「一方通行である」とされていた。この説、仮説を』「セントラル・ドグマ」(central dogma:遺伝情報は「DNA →(転写)→ mRNA →(翻訳)タンパク質」の順に伝達されるという分子生物学の規定の基底概念。一九五三年にDNAの二重螺旋構造を発見したフランシス・クリック(Francis Crick 一九一六年~二〇〇四年)が一九五八年に提唱した)『という。この仮説の枠内においては「個体が獲得した形質がDNAに情報として書き戻されることはあり得ない」とされる。つまり「獲得形質の遺伝は認められない」とする。この仮説は原則的には現在も広く認められているところである。ただし、この説は、すでに若干の例外となる現象、すなわち細胞レベルでの「遺伝子の後天的修飾」が知られるようにはなってきており、セントラル』・『ドグマが過大視されすぎたとして、それを修正するための研究が進行中である。このような研究は「エピジェネティックス」』(epigeneticsDNA塩基配列の変化を伴わない、細胞分裂後も継承される遺伝子発現或いは細胞表現型の変化を研究する学問領域の意。既注済み)『と呼ばれており、各国で盛んに研究が行われており、後天的修飾の起きる範囲は一体どの程度なのか(どの程度にとどまるのか)、その仕組みはどうなっているのか、といったことが日々解き明かされようとしてはいる』。『「進化に関して、生物の側に何等かの主体的な方向づけができるはずだ」との説も繰り返し唱えられている。たとえば』、『複数の古生物学者によって展開された定向進化説は、生物の中に、何かの形で進化を方向づける仕組みがあることを想定している。その点でこの説はラマルクの流れを汲むものといってよい。今西錦司の』「棲み分け理論」『説にも、これに似た部分がある』。現在も、『生物体にはもともと備わっている何らかの』『進化の原動力』が存在すると主張する学者は事実、有意にいる。]

 

    一 自然淘汰無能説

 

 生物進化の事實に對しては、最初激しく反對説が出たが、後には漸々減じて、今日では殆ど全く無くなつた。然も反對者の多數は門外漢であつた故、學問上有力な反對説は終に一度も無かつたやうな有樣で、現今では何れの國でも普通の學識のある人は皆之を認めるに至つたが、ダーウィンの唱へ出した自然淘汰の説は之とは大に趣が違ひ、最初は生物學者の仲間に甚だしく之を尊重する人が多かつたが、次第にその功力を疑ふ人などが出來て、近來に及んで却つて反對者の數が增したやうな傾がある。然も反對者は悉く生物學者であるから、一應尤に聞えるやうな議論も決して少くない。素よりその中には單に誤解に基づくもの或は文字の解釋の相違によるものなどもあるが、これらを除いても尚澤山の議論がある。こゝにそれを一々掲げて評する譯には行かぬが、總括してその主要な點を言へば、凡そ次の三つ位に約める[やぶちゃん注:「つづめる」。]ことが出來よう。

 先づ第一には如何なる器官の形狀・構造でも、極めて僅少な相違位では、生存競爭上勝敗の定まる標準とはならぬ。それ故自然淘汰の結果として、或る點の僅に勝つたものが生き殘り、僅に劣つたものが死に絶えるとは信ぜられぬ。例へばこゝに二疋の蝙蝠があると想像して見るに、翼の長さに一分[やぶちゃん注:三ミリメートル。]位の長短の相違があつた所が、翼の長い方が必ず適者で、短い方が必ず不適者であるとは、日々の經驗上信ずることは出來ぬ。されば自然淘汰によつて生物の種屬が漸々進化するといふ説は、實際には適せぬ場合が甚だ多いとの論である。之はミヴァートネゲリスペンサーなどの論じた所で、一應正當な議論であるが、之に對する著者の考は既に第十四章に述べて置いた通りで、一疋と一疋とを捕へて比較すれば、如何にもこの説の如く翼の長い蝙蝠が敗けて、翼の短い方が勝つことも往々あるが、蝙蝠の翼が今日程に發達してなかつた時代の有樣を想像して見るに、若し翼が僅でも長くて、飛翔が僅でも速なものが、翼の稍短い、飛翔の力の稍弱いものに比較して、統計上聊[やぶちゃん注:「いささか」。]でも勝つ機會が多くあるやうならば、長い間には漸々翼の長いもののみが生存することになり、その結果として種屬が進化して行くべき筈である。かやうなことは一個一個の場合に就いて觀察する

ことは出來ぬが、全體を見れば決して疑へぬ事實で、人間社會を見ても之と同樣な現象は幾らもある。凡そ統計上の規則といふものは、たゞ全體を通ずれば正しいが、一個一個の場合には當ることもあれば、當らぬこともあつて、一部分だけを見たのでは、到底全體に關する大きな規則は發見することは出來ぬ。生存競爭の結果、適者だけが生き殘り、代々自然の淘汰が行はれるから、生物種屬は漸々進化する筈であるといふダーウィンの説は、略斯かる統計上の規則とも見倣すべきもので、一種屬の生物個體の間に現れる多くの變化の中から、生存競爭上聊でも都合のよい變化が統計上勝を占めるといふ大勢だけをいひ表したものに過ぎぬ。それ故、この點は實際觀察した事實を基としたものでは無く、單に理窟上から推し考へた論であるが、たゞ考へて見ても最も眞らしいのみならず、斯く假定すれば、生態學の範圍内にある無數の事實を容易に説明することが出來る所から推せば、先づ之を正當な斷定と見倣して置くより外はない。特に今日自然淘汰説に反對する人は幾らもあるが、生物各種に固有な攻擊・防禦の器官、外界の變動に應ずべき性質などは如何にして生じたものであるかといふ問題に對し、自然淘汰説に代つて説明を與ふべき適當な假説を考へ出した人は一人もない有樣故、たとひ多少の不明の點があつたとしても、今日既に之を全然打棄ててしまふのは、兎に角、尚甚だ早まり過ぎたことといはねばならぬ。

[やぶちゃん注:「蝙蝠」脊椎動物亜門哺乳綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目 Chiroptera のコウモリ類。

「ミヴァート」ダーウィンの進化論とカトリック教義を調和させようとして双方から批判されたイギリスの生物学者セント・ジョージ・ジャクソン・マィヴァート(St. George Jackson Mivart 一八二七年~一九〇〇年)。彼は「ダーウィンのブルドッグ」ハクスリー(Thomas Henry Huxley 一八二五年~一八九五年)ともかつては親しかった。また、この人は知られた猫についての格言“We cannot, without becoming cats, perfectly understand the cat mind.”でも知られる。

「ネゲリ」スイスの植物学者カール・ヴィルヘルム・フォン・ネーゲリ(Karl Wilhelm von Nägeli 一八一七年~一八九一年)。一八四二年に細胞分裂を始めて観察・報告した人物とされ、また、後に染色体と呼ばれることになる構造を発見した。しかし、メンデルのエンドウを用いた実験に批判的だったことでもよく知られる。

「スペンサー」著名なイギリスの社会学者ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年)。彼は〈社会進化論〉(theory of sociocultural evolution)を唱え、現今、ダーウィンの進化論の説明に出現するポピュラーな用語としての「進化」(evolution)及び「適者生存」(survival of the fittest)という聴き慣れた言葉は実はスペンサーが賦与した意味や造語であった。一方でスペンサーは実はラマルキズムを高く評価しており、獲得形質の遺伝の重要性をも評価していたとされている。]

 

 次にまた孰れの器官でも、一定の度までに發達し、一定の大きさ、形狀を具へるに至らなければ、その器官固有の作用を營むことが出來ず、隨つて生存競爭上、何の役にも立たぬ。例へば前の蝙蝠の例に就いていうても、翼といふものは、空中に身體を支へるに足るだけの大きさに發達するまでは、飛翔の器官としては全く役に立たぬ。他の器官とても皆斯くの如くで、一定の度まで發達した後でなければ用をなさぬが、何の役をも務めぬ器官が少し位大きくても小くても、生存競爭に於ける勝敗がそれによつて定まるわけでないから、自然淘汰によつてその器官が發達し、大きくなる見込はない理窟であるとの反對説がある。之も一應尤に聞える議論であるが、生物界には作用の轉換といふことがあり、また生長の聯關などといふこともあるから、これらの働によつても隨分斯かることが出來ぬとも限らぬ。

 作用の轉換といふのは、生物の習性の變化した結果、今まで或る役を務めて居た器官が漸々他の役を務めるやうに移り換ることであるが、凡そ如何なる器官でも、一定の役目を務めるには、それを務めるに足るだけの構造を具へなければならぬことは無論のことで、例へば手が手として働くには、必ずそのために一定の形狀・構造を具へて居なければならぬ。外の物に就いていうてもその通りで、團扇は風を生ずるためには扁平でなければならず、摺粉木(すりこぎ)は味噌を摺るには棒狀でなければならぬ。然るに一定の形狀・構造を具へて居る以上は、これらの物をその元來の目的以外に用ゐることも出來る。卽ち摺粉木を單に一種の棒として、味噌を摺るより外の目的に用ゐることも出來れば、人間の手を單に一定の形狀を有する肢として、水中游泳の道具に用ゐることも出來る如く、凡そ如何なる器官も、その固有の作用の外に、その形狀・構造等に基づく所の副貳的[やぶちゃん注:「ふくじてき」。「副貳」の原義は本来は「正本に対するその写本」を指すが、ここは「二次的」「副次的」の意でよい。]の作用を務めることも出來るもの故、生物の習性が變ずる場合には、或る器官は今まで務めて居た固有の作用をやめて、今までは副貳的であつた方の作用を、今から後は主として務めるやうになる。例へば陸上を走る獸類の子孫でも、水邊に出て魚を捕へて食ふやうになれば、生存競爭上、巧に游ぎ得るものが勝を占めるわけ故、代々この標準によつて淘汰が行はれ、初め走るのに適して居た足も、途中から役目が變じ、漸々水中游泳に適する形狀・構造を具へるやうになつてしまふ。河獺・臘虎(らつこ)・膃肭臍(をつとせい)・海豹(あざらし)・鯨等を順に竝べて置いて、その足を比較して見れば、實際各この通りの徑路を歷て變化し來つたものと信ぜざるを得ぬが、斯くの如き作用の轉換が屢あれば、自然淘汰によつて既に或る方面に一定の度まで發達した器官をそのまゝ取つて材料とし、更に自然淘汰によつて之を他の方面へ向つて發達せしめ、その形狀・構造等を造り改めることも出來るわけ故、こゝに掲げた反對説の功力は餘程まで消えてしまふ。蝙蝠の翼の如きも、空中を自由に飛翔するためには、一定の度までに發達した後でなければ用をなさぬが、たゞ樹の枝から枝へ飛び移るといふだけには、翼の形が十分具はらずとも、相應の役に立つ。また樹の枝に登るだけならば、少しも膜の必要はない。それ故、初め單に樹の枝に登つただけの動物も、若し後に至つて枝から枝へ飛び移る習慣が生じたならば、少しでも表面の廣い四肢を具へたものが勝を占め、自然淘汰の結果、指の間の膜が漸々發達し、膜の發達が一定の度まで進めば、空中を多少飛ぶことも出來るやうになり、飛ぶことが出來るやうになれば、その中で最も巧に飛ぶものが生存競爭に勝を占めるやうになるから、また自然淘汰の結果、益飛翔に適する構造を具へたものが出來て、初め簡單な前足も終には全く翼の形を呈するに至るべき筈で、説明上特別の困難を感ずる點は少しもないやうである。

[やぶちゃん注:「河獺」脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱ローラシア獣上目食肉(ネコ)目イヌ亜目クマ下目イタチ上科イタチ科カワウソ亜科 Lutrinae

「臘虎(らつこ)」イタチ科カワウソ亜科ラッコ属ラッコ Enhydra lutris。現生種は一属一種。

「膃肭臍(をつとせい)」哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目クマ下目(鰭脚類)アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae

「海豹(あざらし)」クマ下目(鰭脚類)アザラシ科 Phocidae

「鯨」ローラシア獣上目鯨偶蹄目鯨反芻亜目クジラ目 Cetacea。]

 

 生長の聯關といふのは、前にも一度述べた通り、一の器官が一定の方向に發達すれば、或る他の器官が之と聯關して或る他の方向へ發達することで、何故かやうな現象が起るかは、今日の所、一々十分には解らぬが、若干の事實は經驗上確に知れて居る。元來生物の體は、若干の器官に分けて論ずることは出來るが、總べてが集まつて働くので、初めて生活し得る次第故、各個の器官が他に無關係に獨立に變化することの出來ぬのは、無論のことである。それ故、若し一の器官が自然淘汰によつて發達したならば、之と聯關して生存競爭上に餘り必要のない或る器官が發達し、終には生存競爭上一定の價値を有し得る度までに生長することも最も有り得べきことと思はれる。而して、一且生存競爭上に威る役に立つやうになつた上は、その器官の優劣は最早勝敗の定まる一標準となるkら、自然淘汰によつて益進步することは素より疑がない。

 尚次の如き反對説もある。「自然淘汰説では生存競爭の結果、常に適者が生き殘るといふが、この適者というものは如何にして出來るか。生物に變異性のあることは誰も認めるが、偶然に生ずる變異の中に、何時も外界に丁度適するやうな變異があるといふことは甚だ受取り難いことである。丁度必要な折に丁度都合のよい變異が何時も現れるといふことは、たゞ偶然起る變異ばかりでは到底出來ることでない。之には何かその外に原因がなければならぬ」との論であるが、或る人はこれは生物自身が生れながら持つて居る所の「益完全の域に進む」といふ性質に基づくことであらうなどと唱へた。この流儀の考は、ダーウィン以後に幾度も繰り返して種々の學者によつて發表せられたが、之はたゞ事實を言ひ表すだけで、少しも説明にはならぬ。生物は總べて進化するものであるが、その原因は生物に固有な進化性に存するのであるというた所で、その進化性といふものが如何なるものか解らぬ以上は、説明としては何の役にも立たぬ。その上、地質時代の時の長さを考へて見れば、生物の一代每に現れる變異が、如何に少くとも、終には積つて著しい變化を起すべきわけ故、ダーウィンの自然淘汰の説だけで説明には十分であつて、他にかやうな假説を設ける必要は少しもない。

 要するに著しい變異の間に自然淘汰の行はるべきことは、實驗によつても證明の出來る確な事實であつて、之に對しては反對すべき餘地はない。或る人が、綠色の「かまきり」と枯草色の「かまきり」とを多數に集め、之を細い毛で一疋づゝ緣葉や枯葉の上に繋いで留まらせて置き、鳥の來て喰ふのを待ち、後に喰い[やぶちゃん注:ママ。]殘されたものを勘定して見た所が、自身と色の違ふ所に留まらされたものは悉く鳥に喰はれて一疋も殘らなかつたが、自身と同じ色の所に置かれたものは大部分喰ひ殘されてあつた。之は僅に一例であるが、かやうなことは無論到る所にある。されば、自然淘汰の働きに就いて疑のあるのは、生存競爭の際に、極めて僅の變異の間にも、自然淘汰が行はれるや否やといふ點であるが、之は前にも述べた通り、一個一個を取つて見れば決してそのために勝敗が定まるとは思はれぬ。倂しながら一種内の變異は必ずしも極めて僅かなものばかりとは限らず、相似たものの間の相違は僅かであつても、極端と極端とを比べると、その間には著しい相違があるのが常である。それ故、全部を假に二組に分けて競爭をさせたとすれば、僅でも生存に都合のよい變異を多く含む組の方が、統計上に勝を占めることは餘程眞らしい。生物界に於ける生存競爭の結果などを論ずるに當つては、常に全部を見渡し、全體の形勢を考へることが必要で、之を忘れると兎角誤つた結論に陷り易いやうである。

 右の外、近年の實驗研究の中には、一見して淘汰の功力を疑はしめるものがあるから、念のため附け加へて置くが、それはヨハンセンの唱へ出した純系内に於ける淘汰無功の説である。純系といふのは、一本の植物を基とし、決して他の植物から花粉を受けることなしに生じた子孫をいふ。卽ち他の血統が混じ入ることのないやうにして、代々繁殖せしめた子孫の系統を指すのであるが、ヨハンセンの實驗によると、かやうな純系内では、如何に淘汰を行つても、その結果は少しも現れぬとのことである。例へば、純系内では代々豆の粒の最も大なるものを選んで蒔いて見ても、別に段々豆の粒の大きなものが生ずるに至らず、その平均の大きさは何時までも舊のまゝである。之を見ると、淘汰は全く何の役にも立たぬ如くに考へられるが、實際の自然界には、純系なるものは決してない。植物でさへ人が態々造らなければ純系は容易に得られるものでなく、雌雄の別のある動物には純系なるものは恐らく全くないであらうから、生物界に行はれる自然淘汰の結果は、決して純系内に於ける實驗を基として論ずべきわけのものではない。その上、雌のみで代々子を生む動物に就いて行つた實驗の結果によると、純系内に於ても、ヨハンセンがいふやうに、淘汰が眞に無功であるや否や、まだ頗る疑はしいやうである。

[やぶちゃん注:「ヨハンセン」デンマークの植物学者で遺伝学者のウィルヘルム・ルドゥウィッグ・ヨハンセン(Wilhelm Ludvig Johannsen 一八五七年~一九二七年)。ここに書かれている通り。生物の集団が純系になってしまうと、ダーウィンの選択説が成立しなくなるという「純系説」の提唱者として知られる。ウィキの「ウィルヘルム・ヨハンセンによれば、『現在の視点では、豆の重さの違いは環境によるもので、環境の影響による差は次代には伝えられないと考えられているので、当然の結果であるが、当時は連続変異に働く、淘汰の有効性に疑問を深めるような役割を果たした』。『遺伝学の用語、phenotype genotypeを論文』『の中で初めて用いた。この論文は改定され』、『ドイツ語に訳されて』『発刊され、遺伝学の基礎的なテキストとなった』とある。]

諸國里人談卷之四 八重桜

 

    〇八重桜

南都東圓堂の前に美なる八重ざくらあり。一條院の御時、上東門院、此さくらを棭庭(ゑきてい[やぶちゃん注:ママ。])に移し栽(うへ[やぶちゃん注:ママ。])給はんとて、興福寺の別當に命じ給ふ。則(すなはち)、命に應ず。しかるに、衆徒等(ら)、是をいかり、「此桜は我寺(わがてら)の靈木也。何ぞ他に出(いだ)さんや」と、諍論(じやうろん)、とゞまらず。后(きさき)、この事をきこしめされ、「誠に奈良法師は心なきもの」とおもひしに、「花を愛するこゝろざし、風流の桑門」と感じ給ひ、「今より、此桜を呼んで『我桜(わがさくら)』と稱(なのる)べし。且、後世(こうせい)に至るまで、他(た)にうつす事、あるべからず」と、伊賀國予野(よの)の庄を附せられ、年毎(としごと)の花の時、墻(かき)を𢌞(まは)して此花を守らしむ。これによつて予野村を花墻(はなかきの)庄と號しける。其後(そのゝち)に此さくらを平安城にうつし栽(うへ)られけると也。

[やぶちゃん注:「南都東圓堂」桜とともに現存しない。後白河天皇の母待賢門院藤原璋子(康和三(一一〇一)年~久安元(一一四五)年)の発願で建立され、室町時代末に焼失した興福寺東円堂。現在の奈良市登大路町の中央附近推定で(グーグル・マップ・データ)、発掘調査奈良新聞記事(二〇一二年八月一日附)に「南都名所図会」に描かれた東円堂跡と八重桜の挿絵が載る(残念ながら画像は小さい)。記事によれば、東円堂は十二『世紀前半の平安時代に建立され、興福寺の記録によると、南円堂と同じ不空羂索観音像や地蔵菩薩像が安置された』。『室町時代に焼失後は再建されず』、延宝三(一六七五)年『の「南都名所集」には、縁に石をふいた八角形の基壇が描かれて』おり、寛政三(一七九一)年の『「大和名所図会」でも土壇や礎石が残り、前にあった「奈良八重桜」と並んで観光の名所だった』ことが判る。『東円堂前の八重桜は鎌倉時代の説話集に登場するなど有名で、名所図会などにも基壇跡とセットで描かれている』とある。個人ブログ内科医Randykumaのココロの旅・・八重桜に、『奈良の都の八重桜』『として初めて記録に登場するのは』、嘉承元(一一〇六)年と三十四年後の保延六(一一四〇)年に『大江親通』(平安後期の学者(大学寮の学生(がくしょう)で仏教の信仰に厚く、天竺・中国・日本の舎利の霊感に関する文献を集めて「駄都抄」全三十巻を著わし、晩年に出家した)『が南都を巡礼したときの記録「七大寺巡礼私記」』で、『奈良の都の八重桜は、興福寺の東円堂(奈良師範学校の跡、現在の県庁東側の駐車場)にあって、その桜は、他の桜が全て咲き終わり、散ってしまってから咲く、遅咲きの桜であると書かれてい』るとあり、さらに「古花 八重桜」の題で、本話とやや異なる(時代と人物)内容が記されてある。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部に句読点を入れ(一部は空欄と取り換え)、行間は詰めた。]

奈良時代、第45代聖武天皇が三笠(御蓋山:現在の若草山)の奥「鶯ノ滝」に行幸されました。

谷間に美しい八重桜が咲いているのを御覧になり、宮廷にお帰りになって光明皇后にお話になりました。

皇后は大層お喜びになり、その一枝なんとしても見たい、と御所望になられました。

臣下たちは気を利かせて、その桜を根こそぎ掘り取って、宮廷に移植してお見せになったそうです。

以来、春ごとに宮廷で八重桜は楽しまれておりました。

1678年:延宝6年 大久保秀典・林伊祐らが書いた「奈良名所八重桜」に掲載】

ところが、孝謙天皇(聖武天皇の皇女)の頃、権勢を誇っていた興福寺の僧たちはこの名桜を宮廷に置くことを喜ばず、興福寺の東円堂の前(現在奈良教育大学)に移し、興福寺の名桜として誇っていたということでございます。

そして、都が平安京に遷ったころ。

66代一条天皇の御世です。藤原道長の娘で、紫式部らの女房にかしづかれていた一条天皇の中宮・彰子さまが、興福寺の境内に植わっていた八重桜の噂を聞きました。

なんとしても見たい・・

彰子さまは、宮中の庭へ植え替え様として、貰い受けるために興福寺に使いをやり、荷車で運び出そうとしたその時! 興福寺の僧が追って来て

「命にかけてもその桜、京へは渡せぬ」

彰子さまは、哀しくも断念し、それから毎年、花の頃に「花の守り」を遣わされます。

今でも伊賀上野には「花垣の庄」と呼ばれる花守の子孫が御在住で、「奈良の八重桜」を霊木として守っておられます。

   《引用終了》

本条の短縮版より遙かに上手い。加えて、本条に出る一条天皇も出るので、続く話も引用させて戴く。処理は同前であるが、冒頭と掉尾の和歌は失礼乍ら、表記の一部が誤っていることから、別に原出典と思われる「伊勢大輔集」をもととして恣意的に正字化し、表示法も変えて二首とも引用部の外に出させて貰った。

 

 いにしへの奈良の都の八重櫻

     今日九重に匂ひぬるかな

           伊勢大輔(「伊勢大輔集」)

 

   《引用開始》

彰子さまの御尽力からか、一条天皇の御世に、この奈良の八重桜は、一枝ずつ献上される慣例となり、その年の花の受取役(若い女房です。名前からは男性のように聞こえてしまいますが)伊勢大輔が詠んだうたであります。(「詞花集」から「小倉百人一首」第61番)

この歌の「九重」は、桜の花びらが八重、九重と重なっている様と、禁中(宮中、九重)の事にかけられています。

1127年(大治2年)の「金葉集」・1144年(天養元年)の「詞花集」・「伊勢大輔集」、1156年(保元年間)「袋草紙」、院政末期の「古本説話集」等にも語り継がれています。

『八重桜の美しさと、歌の見事さに宮廷人の皆が感嘆した』と長い間語り継がれてきた歌は、現代に生きる僕にも確かに時代を超えて、まざまざとその情景を思い浮かべることができるものです。

[やぶちゃん注:中略。]

奈良の僧都から八重桜が宮廷に献上された時、使者から桜を受け取り、御前に捧げるお取り次ぎは元々中宮彰子に仕える紫式部の役目でしたが、古参女房の紫式部が意地悪をして、桜を受け取る時に歌を詠まなければならないお取り次ぎを、伊勢大輔にさせて恥をかかせようとしたとの逸話があったようです。

しかし紫式部らの予想は外れます。

歌詠みの家柄、家門の名誉に恥じぬ 見事な歌を若く女らしい良く透き通る声で詠み、皆の賞賛を浴びました。

中宮彰子さまも喜ばれて、次の歌をお返しになりました。

   《引用終了》

 

 九重に匂ふを見れば櫻狩り

    重ねて來たる春かとぞ思ふ

                中宮彰子

 

「一條院の御時」一条天皇の在位は寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年。

「上東門院」藤原彰子(永延二(九八八)年~承保元(一〇七四)年)。

「棭庭(ゑきてい)」元来は宮殿の脇(「棭」はその意)の殿舎であるが、ここはその位置の配された皇妃・宮女の住まう後宮のことを指す。

「伊賀國予野(よの)の庄」現在の三重県伊賀市予野。(グーグル・マップ・データ)。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 嗽金鳥(そうきんちょう)(空想上の鳥)/第四十一 水禽類~完遂

Soukintyou

そう きんちやう

嗽金鳥

 

スヱキンニヤウ

 

三才圖會云此鳥出昆明國形如雀色黃常翺翔於海上

魏明帝時獻之飼以眞珠及龜腦常吐金屑如粟宮人争

以鳥所吐金爲釵珥謂之辟寒金以鳥性畏寒也

 

 

そう きんちやう

嗽金鳥

 

スヱツキンニヤウ

 

「三才圖會」云はく、此の鳥、昆明國に出づ。形、雀のごとく、色、黃にして、常に海上を翺〔(と)び〕翔〔(かけ)〕る。魏の明帝の時、之れを獻ずる。飼ふに、眞珠(かいのたま)及び龜の腦を以つてす。常に金の屑(すりくづ)の粟〔(あわ)〕のごとくなるものを吐く。宮人、争ひて、鳥の吐く所の金を以つて、釵(かんざし)・珥(みゝかね)に爲〔(つく)〕る。之れを「辟寒金〔(ひかんきん)〕」と謂ふ。鳥の性〔(しやう)〕、寒を畏〔(おそ)〕るを以てなり。

[やぶちゃん注:これが「水禽類」の掉尾である。しかし、ここにきて、良安は何故、こんな如何にもあり得ない金を吐く想像上の幻鳥をここに配したのだろう? 相応する本邦の実在する鳥も浮かばない。ともかくも注しておくと、「和漢三才図会」の「九十」に、

   *

  嗽金鳥

「雜爼」、嗽金鳥、出昆明國。形如雀。色黃。常翺翔於海上。魏明帝時、其國來獻此鳥、飼以眞珠及龜腦。常吐金屑如粟。宮人華爭以鳥所吐金爲釵珥。謂之辟寒金以鳥性畏寒也。

   *

とある。また、杤尾武氏の論文「『山海経』の図像学序説 ――異鳥の同定――」(PDF)の「㈡『太平御覧』『古今図書集成』の異鳥名目について」の中に、「山海経」に載らない同書の異鳥として、五十三の番号を附して同「集成」本の「嗽金鳥」の内容を掲げてある。

   《引用開始》[やぶちゃん注:一部に字空けを施した。]

嗽金鳥は金を吐(は)くという鳥、『拾遺記』に、「嗽金鳥 魏の明帝即位二年、霊禽之園を起す、遠方の国献ずる所の異鳥・珍獣、皆此の園に畜(たくわ)へるなり。昆明国、嗽金鳥を貢ずる人云ふ。其の地 燃洲を去ること九千里、此の鳥を出す。形 雀の如くして色黄なり。羽毛柔密、常に海上を翺翔(かうしやう)す。蘿(あみど)る者、之を得て以て至祥となす云々。』 ◦魏の明帝二年(二二八) ◦霊禽園は魏のすぐれて珍しい鳥を集めた園。 昆明国は『拾遺記』(晋の王嘉の撰)によれば建寧州の地、今の雲南省昆明県の地。 ◦翺翔は鳥が高く飛ぶさま。

   《引用終了》

とある。

「昆明國」現在の雲南省省都である昆明市一帯。ここ(グーグル・マップ・データ)。言わずと知れた、完全な内陸の山岳地帯(昆明市は盆地にある)であるから、「海上」というのは、同地にある巨大な湖「滇池(てんち)」(別名「昆明池」)(或いはその周辺の湖沼)でなくてはならない。

「珥(みゝかね)」耳飾り。イヤリングの類い。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷸(しぎ)

Sigi

しぎ     【音壟】 田鳥

【音述】

       【訓之木】

ジツ

 

本綱鴫【肉甘溫】鶉鵪類也如鶉色蒼嘴長く在田野間作鷸鷸

聲將雨則啼故知天文者冠鷸【戰国策云鷸蚌相持者卽此鳥也】三才圖

會云鷸如燕紺色知天將雨舞知風則啼

△按鷸俗用鴫字蓋以田鳥二字所製乎其種類甚多【有四

 十八品云】皆飛鳴于田澤夜更鳴翅爲閑寂之趣歌人賞詠

 之稱鷸羽搔

古今曉のしきのはねかき百羽かき君かこぬよは我そ數かく

保登鷸 大似鶉而長嘴長黑色脚亦長黃色頭背灰色

 白彪斑翎灰黑胸腹白尾黃赤有黑紋其肥大握手而

 有餘可三指者最賞之其味不減于鳬

胸黑鷸 頭背翅尾黑而有黃斑胸灰黑而有黑斑腹白

 觜短於保登脛長於保登俱蒼黑色肉味亞保登

眞鷸【一名觜長】 似保登而小但脚與觜長爲異

黍鴫【一名目大】 頭背翅灰色黃斑眼大外有白圈觜短而觜

 共灰黑色

黃脚鷸【一名頸珠】 頭背胸翅皆灰白帶淺青腹白色頸卷白

 輪故名頸珠鷸觜黑脛深黃色故名黃脚鷸

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京女鷸 頭白而灰斑色眼傍有黑條觜根有白圓文觜

 黑大頸後胸間有白條成列背上翅間帶赤色翎羽黑

 腹白尾亦白而有黑文脚赤而掌有黑斑

――――――――――――――――――――――

羽斑鷸 頭頸赤色眼四邊白如弦月紋胸前有二黑條

 夾白條背黑有白紋如鱗形翎羽黑有黃圓星紋尾淺

 紫有黃圓紋腹白觜脛緑色

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杓鷸 大如鳧頭背灰白而有黑斑腹灰白尾有淺黑紋

 成列畧似鷹尾脛掌純黑其觜蒼黑而最長末反曲向

 上如匙杓形故名其大者號大杓小者號加祢久伊

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山鷸【一名姥鷸】 大於杓鷸而頭頸胸背灰紫色有黑斑翅尾

 亦同色而有黑纖紋腹赤黑斑似雌雉之色觜長而黑

 脛灰色常在山田溪澗故名山鷸

其余有登宇祢木雀鷸草鷸等數品不盡述

 

 

しぎ     【音、「壟〔(ロウ)〕」。】 田鳥

【音、「述」。】

       【「之木(しぎ)」と訓ず。】

ジツ

 

「本綱」、鴫【肉、甘、溫。】鶉鵪〔(ふなしうづら)〕の類ひなり。鶉〔(うづら)〕のごとくにして、色、蒼。嘴、長く、田野の間に在り。「鷸鷸(イツイツ)」の聲を作〔(な)〕す。將に雨(あめふ)らんと〔するに〕、則ち、啼く。故に天文を知る者は鷸を冠(かんむ)りにす。【「戰國策」に云ふ、「鷸と蚌と相ひ持す」といふは、卽ち、此の鳥なり。】「三才圖會」に云はく、『鷸、燕のごとく、紺色。天、將に雨らんとするを知りて舞ひ、風を知りて、則ち、啼く。』と。

△按ずるに、鷸、俗に「鴫」の字を用ふ。蓋し、「田」・「鳥」の二字を以つて製する所か。其の種類、甚だ多し【四十八品有りと云ふ。】皆、田澤に飛び鳴く。夜更(〔よ〕ふけ)て、翅を鳴らして、閑寂の趣を爲す。歌人、之れを賞詠して「鷸の羽搔(はねかき)」と稱す。

「古今」曉のしぎのはねがき百羽〔(ももは)〕がき君かがこぬよは我ぞ數〔(かず)〕かく

保登鷸(ぼと〔しぎ〕) 大いさ、鶉〔(うづら)〕に似て長し。嘴、長く、黑色。脚も亦、長く、黃色。頭・背、灰色。白き彪斑〔(とらふ)〕〔の〕翎〔(かざきり)〕、灰黑。胸・腹、白く、尾、黃赤、黑き紋、有り。其れ、肥え大(ふと)り、手に握りて餘ること有ること〔あり〕。三つ指可(ばか)りの者、最も之れを賞す。其の味、鳬〔(かも)〕減(おと)らず。

胸黑鷸(むなぐろ〔しぎ〕) 頭・背・翅・尾、黑くして黃斑有り。胸、灰黑にして黑斑有り。腹、白。觜、「保登」より短く、脛は「保登」より長く、俱に蒼黑色。肉味、「保登」に亞〔(つ)〕ぐ。

眞鷸(ましぎ)【一名、「觜長〔(はしなが)〕」。】 「保登」に似て小さく、但し、脚と觜と長きを異と爲す。

黍鴫(きび〔しぎ〕)【一名、「目大〔(めだい)〕」。】 頭・背・翅、灰色、黃斑。眼、大にして、外に白き圈〔(けん)〕有り。觜、短く、觜共〔(とも)〕、灰黑色。

黃脚鷸(きあしの〔しぎ〕)【一名、「頸珠〔(くびたま)〕」。】 頭・背・胸・翅、皆、灰白、淺き青を帶ぶ。腹、白色。頸、白き輪を卷く。故に「頸珠鷸」と名づく。觜、黑。脛、深黃色。故に「黃脚鷸」と名づく。

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京女鷸〔(きようぢよしぎ)〕 頭、白くして灰斑色。眼、傍らに黑條有り。觜の根に白き圓文(まる〔もん〕)有り。觜、黑く、大きく、頸の後・胸の間に白條有り。列を成す。背の上・翅の間に赤色を帶ぶ。翎羽〔(かざきりばね)〕黑く、腹白く、尾も亦、白くして黑文有り。脚、赤くして、掌に黑斑有り。

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羽斑鷸(〔は〕まだら〔しぎ)〕 頭・頸、赤色。眼の四邊白くして、弦月(ゆみはり〔づき)〕の紋のごとし。胸の前、二つの黑條有り、白條を夾〔(はさ)〕み、背、黑くして白紋有り、鱗の形のごとし。翎羽〔(かざきりばね)〕黑く、黃圓星紋、有り。尾、淺紫、黃圓紋有り。腹白く、觜・脛、緑色。

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杓鷸(しやく〔しぎ〕) 大いさ、鳧〔(かも)〕のごとし。頭・背、灰白にして、黑斑有り。腹、灰白。尾、淺黑の紋、有り、列を成し、畧〔(ほぼ)〕鷹の尾に似る。脛・掌、純黑。其の觜、蒼黑にして最も長く、末、反(そ)り曲りて、上に向ひ、匙杓〔(ひしやく)〕の形のごとし。故に名づく。其の大なる者を「大杓」と號(な)づく。小き者を「加祢久伊〔(かねくい)〕」と號づく。

――――――――――――――――――――――

山鷸【一名、「姥鷸〔(うばしぎ)〕」。】 「杓鷸」より大にして、頭・頸・胸・背、灰紫色、黑斑有り。翅・尾も亦、同色にして黑き纖(ほそ)き紋有り。腹、赤黑き斑にして、雌雉(めきじ)の色に似たり。觜、長くして、黑。脛、灰色。常に山田〔の〕溪澗に在り。故に「山鷸」と名づく。

其の余、「登宇祢木〔(とうねき)〕」・「雀鷸〔(すずめしぎ)〕」・「草鷸〔(くさしぎ)〕」等の數品有り、述べ盡せず。

[やぶちゃん注:狭義には鳥綱チドリ目シギ亜目シギ科 Scolopacidae のシギ類であるが、他にチドリ目シギ亜目タマシギ科 Rostratulidae・チドリ亜目セイタカシギ科 Recurvirostridae などの体型がシギ類に似、「~シギ」と名づけるもの(但し、後者は狭義のシギ類ととは近縁ではない)を含んでおり、この良安の記載もそれらを含んでいると考えるのが自然である。模式種はシギ科ヤマシギ属 Scolopax で、本邦にも棲息(北海道で夏鳥、本州中部以北(中部・東北地方)と伊豆諸島で留鳥、西日本では冬鳥)するヤマシギ Scolopax rusticola が含まれ、これは最後に良安が挙げる「山鷸」と一先ず考えてよかろう(後注参照)。

「鶉鵪〔(ふなしうづら)〕」ここは東洋文庫訳のルビを参考にした。フナシウズラは鳥綱チドリ目ミフウズラ(三斑鶉)科ミフウズラ属ミフウズラ Turnix suscitator の旧名。中国南部から台湾・東南アジア・インドに分布し、本邦には南西諸島に留鳥として分布するのみ。なお、次注の真正の「ウヅラ」類とは全くの別種であるので注意されたい。

「鶉〔(うづら)〕」ウズラ類はキジ目キジ科ウズラ属Coturnix

「鷸鷸(イツイツ)」オノマトペイア。

「天文を知る者」天文を掌る学者。中国では暦や占術に於いて天体観測は不可欠であり、そうした唐の天司台や明・清の司天監などの官公庁が置かれていたから、そうした人々が「鷸」を象った「冠り」を被っていたのであろう。

『「戰國策」に云ふ、「鷸と蚌と相ひ持す」といふは、卽ち、此の鳥なり』「蚌」(私は「戦国策」(前漢・劉向撰)のそれは、話柄上の諸点(分布・形状・大きさ・重量・ロケーション)から斧足綱イシガイ目イシガイ科ドブガイ属ドブガイ Sinanodonta woodiana に比定してよいと考えている。言わずもがな、漢文の授業でやった「戦国策」の「燕策」の通称「漁夫之利」である。「持す」というのは「峙(じ)す」の誤りだろう(対立する者同志が、睨み合ったまま凝っと動かずにいることの意の「対峙」の「峙」)。懐かしいから、いっちょ、やらかすか!

   *

 趙且伐燕。

 蘇代爲燕謂惠王曰、

「今日臣來過易水。蚌方出曝。而鷸啄其肉。蚌合而箝其喙。鷸曰、

『今日不雨、明日不雨、卽有死蚌。』

蚌亦謂鷸曰、

『今日不出、明日不出、卽有死鷸。』

兩者不肯相舍。漁者得而幷擒之。今趙且伐燕。燕趙久相支、以敝大衆。臣恐秦之爲漁父也。願王之熟計之也。」

惠王曰、「善。」乃止。

   *

 趙(てふ)且(まさ)に燕を伐(う)たんとす。

蘇代、燕の爲に惠王に謂いて曰く、

「今日、臣來たり、易水を過ぐ。蚌(ぼう)方(まさ)に出でて曝(さら)す。而(しか)して、鷸(いつ)、其の肉を啄(ついば)む。蚌、合(がつ)して其の喙(くちばし)を箝(はさ)む。鷸、曰く、

『今日、雨ふらず、明日、雨ふらずんば、卽ち、死蚌(しぼう)有らん。』

と。蚌も亦た、鷸に謂ひて曰く、

『今日、出ださず、明日も出ださずんば、卽ち、死鷸(しいつ)有らん。』

と。兩者、相舍(あひす)つるを肯(がへん)ぜず。漁者(ぎよしや)、得て之れを幷(あは)せ擒(とら)ふ。

 今、趙、且に燕を伐たんとす。燕・趙、久しく相支へて、以つて大衆を敝(つか)れしめば、臣、秦の漁父と爲(な)らんことを恐るるなり。願はくは、王、之れを熟計せよ。」

と。

惠王曰く、

「善(よ)し。」

と。

 乃ち、止(や)む。

   *

「四十八品有りと云ふ」ウィキの「シギ科」によれば、同科(真正のシギ類)だけで世界で五亜科十六属九十六種いるとある。

「鷸の羽搔(はねかき)」厳密には鴫が羽虫を取るために何度も頻りに嘴で羽を扱(しご)くことを指し、そこから転じて「数が多いことの譬え」として和歌に詠み込まれたのである。ただ、鴫自体が古来、好んで詠み込まれた鳥ではあった。例えば、本文の挙げる一首の他にも、「万葉集」の巻第十九の、大伴家持が越中国府(私が中高時代を送った富山県高岡市伏木)で天平勝宝二(七五〇)年三月一日夜に詠んだと思われる(前二首がそのクレジットの暮れ)一首(四一四一)、

   飜(と)び翔(かけ)る鴫を見て作れる歌一首

 春まけてもの悲しきにさ夜更けて羽振(はぶ)き鳴く鴫誰(た)が田にか住む

の他、「古今和歌六帖」の「六鳥」の、

 曉に羽搔く鴫の打ちしきりいくよか君に戀わたるらむ

や、「三夕(さんせき)の歌」の一つ、西行の名吟(「新古今和歌集」「四 秋」)で私の偏愛する、

 心なき身にもあはれはしられけり鴫たつ澤の秋の夕暮れ

などが知られる。因みに西行の歌の鴫については、松沢千鶴氏の「図鑑.net モバイルブログ」の「西行【さいぎょう】の歌ったシギは、どの種?」で、種々の条件の篩(ふるい)にかけ、『有力候補の一種が、アオアシシギです。すんなりした姿をしています。青灰色の、細かい羽の模様が、日本人好みだと思います。哀調を帯びた鳴き声も、点数が高いですね』とされ、一方、『淡水というのを』厳しく『重視すれば、クサシギかも知れません。クサシギは、広い浜辺に出たがりません。シギには、珍しいことです。しかも、単独でいることが、多いです』と比定されておられる。前者はシギ科クサシギ属アオアシシギ Tringa nebularia で、木村光彦氏の動画You Tubeで鳴き声が聴ける。これは鳴き声としては如何にも趣きがある(但し、西行の歌に鳴き声があるかどうか。私は微妙に留保はする。鴫は和歌の伝統上ではその羽音が主調であり、それの飛び立つシンプルな音に秋を感じているからである)。後者はシギ科クサシギ属クサシギ Tringa ochropus である。なお、「しぎ」という和名も、羽ばたきが賑やかなことから、その「騒がし」「さわぎ」からの転訛を語源とする説もある

「曉のしぎのはねがき百羽〔(ももは)〕がき君か來ぬ夜は我ぞ數〔(かず)〕かく」「古今和歌集」巻第十五の「恋歌五」の「よみ人知らず」の一首(七六一番)、

 曉のしぎの羽(はね)搔(が)き百羽(ももは)搔き君が來ぬよは我ぞ數書く

である。「數書く」というのは、数を数えて一定数ごとに目印とする線を引くことを指す。歎きの仕草というが、これは恐らく、本来は数を数えてそれが一定数に達すると、物事が叶うとする呪的儀式の名残ではないかと私は察する(偶然以外に叶うことはないから歎きと直結する)。六十を越えた私の中にもそうした無意識の呪的傾向が確かにあるからである。

「保登鷸(ぼと〔しぎ〕)」私はこれをタシギ属タシギ Gallinago gallinago と採りたい個人サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の「タシギ」のページに、本邦では奈良時代からずっと種類を区別せずに、シギ類全般を「シギ」の名で呼んでいたが、江戸中期頃から「ヤマシギ」と区別して「タシギ」と呼ばれたとあり、『タシギとヤマシギは区別されず』、『「ボトシギ」とも呼ばれた』とあり、後に「ヤマシギ」が出る関係上、こちらを「タシギ」としたいからである。まず、asitano_kaze氏のブログ「身近な自然を撮る」の「タシギ(田鷸)とヤマシギ(山鷸) 隠れ蓑」のページを見て戴くと、何よりもヤマシギはタシギよりも一回り大きいことが判る(見分けにくいともあるが、タシギは二十六センチメートルであるのに対し、ヤマシギは三十四センチメートルとある)。その上で以下の良安の叙述を順に大きさを考えながら読んでゆくと、最後の「山鷸」は明らかに有意に大きい(鴨ほどの大きさである杓鷸より大きいとある)ことが判るのである。さればこそ私はかく同定するのである。なお、「ボトシギ」の「ボト」は鳥体が太っていて、ころんとしていることを意味すると、ある記載にはあった。「ぼっとり」「ぼってり」は確かに今も使うし、本文にもわざわざ「肥え大(ふと)り、手に握りて餘ること有ること〔あり〕」なんて書いているし、確かにころんとしてはいるよなぁ。

「三つ指可(ばか)りの者、最も之れを賞す」「三つ指可り」は体幹部をぎゅっと握った時に、三つ指で押さえられるほどの太さを言うか。「賞す」は「賞味する」で、「最も美味いものとする」の意。

「鳬〔(かも)〕」既出既注であるが、再掲しておく。カモ目カモ科の鳥類のうち、雁(これも通称総称で、カモ目カモ科ガン亜科 Anserinaeのマガモ属 Anas よりも大型で、カモ科 Anserinae 亜科に属するハクチョウ類よりも小さいものを指す)に比べて体が小さく、首があまり長くなく、冬羽(繁殖羽)はで色彩が異なるものを指す総称語。但し、これはカルガモ(マガモ属カルガモ Anas zonorhyncha)のように雌雄で殆んど差がないものもいるので決定的な弁別属性とは言えない。

「胸黑鷸(むなぐろ〔しぎ〕)」ネット上の諸記載を見ると「ムナグロ」を狭義のシギ類ではないチドリ目タマシギ科タマシギ属タマシギ Rostratula benghalensis の異名に挙げてあるものが多いのであるが、良安の記載では、後に出る「羽斑鷸」の記載の方が遙かにタマシギらしいので、ここは同じく狭義のシギではない、チドリ目チドリ亜目チドリ科ムナグロ属ムナグロ Pluvialis fulva と比定しておく

「眞鷸(ましぎ)【一名、「觜長〔(はしなが)〕」。】」不詳。脚と嘴が長いとする点で。狭義のシギ類ではない、チドリ目セイタカシギ科セイタカシギ属セイタカシギ Himantopus himantopus を考えたが、現代日本での正式な定着の観察(旅鳥・留鳥・稀れに迷鳥。一九七五年に愛知県の干拓地で初めて国内での繁殖が確認されている。これはウィキの「セイタカシギ」に拠った)がごく近年であり、違うように思われる。

「黍鴫(きび〔しぎ〕)【一名、「目大〔(めだい)〕」。】」これも狭義のシギ類ではない、チドリ目チドリ科チドリ属メダイチドリ Charadrius mongolus である。サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の「ダイチドリ(チドリ目チドリ科)目大千鳥」がよい。本種は前頭部から眉斑・側頸、さらに胸部にかけて橙赤褐色を呈し、これが目立つ。「黍」はまさにそれが、黍の熟した穂の色と似ているからであろう。

「觜、短く、觜共〔(とも)〕、灰黑色」ママ。良安の今まで書き方から考えると、後ろは「脚」の誤記ではないかと思われる。東洋文庫版訳も『(脛?)』と割注する。

「黃脚鷸(きあしの〔しぎ〕)【一名、「頸珠〔(くびたま)〕」。】」シギ科キアシシギ属キアシシギ Tringa brevipes

「京女鷸〔(きようぢよしぎ)〕」シギ科 Arenaria 属キョウジョシギ Arenaria interpres。ウィキの「キョウジョシギ」によれば、『和名は、よく目立つまだら模様を京都の女性の着物にたとえてつけられたもの。一方、英名の「Ruddy Turnstone」は、くちばしで石をひっくり返して餌を探す習性にちなんでいる』。『ユーラシア大陸北部、北アメリカ北部のツンドラ地帯で繁殖し、冬季は南アジア、南アメリカ、アフリカ、オーストラリアなどに渡り、越冬』し、『日本では、旅鳥として春と秋の渡りの時に多数飛来する。南西諸島では越冬するものもいる』。体長約二十四センチメートル。『「シギ」といっても』、『くちばしと足が短くずんぐりとした体形で、チドリ類のような外見をしている。このため、以前はチドリ科に分類されていたこともあった。足は橙色で腹が白く、胸と顔に黒い模様がある。夏羽では背中側が茶色と黒のまだら模様で、頭に白い部分が現れる。冬羽は頭と背中が茶色で、鱗のような模様になる』。『非繁殖期は干潟、岩礁、水田などに生息する。数十羽の群れを形成する。水辺の小石や海藻、木片などをくちばしでひっくり返しながら』、『餌を探す習性があり、短くて丈夫なくちばしはこの時に役立つ。小さな昆虫やゴカイ、甲殻類などを捕食するが、動物の死骸や生ゴミも食べる』。『ツンドラ地帯の地上に営巣し』三~四『個の卵を産む。子育てはオスとメスが協力しておこなう』とある。

「羽斑鷸(〔は〕まだら〔しぎ)〕」狭義のシギ類ではない、チドリ目タマシギ科タマシギ属タマシギ Rostratula benghalensis の異名。やはり、サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の「タマシギ(チドリ目タマシギ科)玉鷸」を見られたい。そこに『江戸時代には「ハマダラシギ」「ハマハシギ」「ハマダラ」などと記されている』とあり、また、良安の「眼の四邊白くして、弦月(ゆみはり〔づき)〕の紋のごとし」が決定打であることがそこにある生体写真ではっきりと判る。

「杓鷸(しやく〔しぎ〕)」シギ科ダイシャクシギ(大杓鷸)属 Numenius のダイシャクシギ類「大杓」はダイシャクシギ Numenius arquata(サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の同種のページを参照)、「小き者」「加祢久伊〔(かねくい)〕」はコシャクシギNumenius minutus である(「加祢久伊〔(かねくい)〕」の異名の意は不詳)。サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の同種のページを参照されたいが、そこに、『奈良時代から種類を区別せず』、シギ類は一括して『「シギ」の名で知られていたが、平安時代からシャクシギ類を総じて「サクナギ」、室町時代から「シャクナギ」と呼ぶ。江戸時代前期になって他のシャクシギと区別して「コシャク」「コシャクシギ」と呼ばれた。異名』に『「カネクイ」』があるとある。因みに、サイト「馬見丘陵公園の野鳥」によれば、ダイシャクシギ属には、しっかり、チュウシャクシギ Numenius phaeopus という種もおり(同サイトの同種のページは)、他にホウロクシギ(焙烙鷸)Numenius madagascariensis という種もいるとある。しかも同サイトのホウロクシギページによれば、『ダイシャクシギと似ているので』、『古くから一緒にして「ダイシャクシギ」と呼ばれていたと思われ、江戸時代後期に区別して「ホウロクシギ」と呼ばれるようになった』とあるから、ここに挙げておく必要がある。なお、この種の和名は『腹部の灰黄褐色の色彩が焙烙(素焼きの土鍋)に似る』ことによる、とある。

「匙杓〔(ひしやく)〕」「柄杓」に同じい。ダイシャクシギ属の中でも代表種であるダイシャクシギは嘴が有意に長く、しかも著しく下へ湾曲している。上記リンク先の写真で確認されたい。

「山鷸【一名、「姥鷸〔(うばしぎ)〕」。】」冒頭に掲げた通り、シギ科ヤマシギ属ヤマシギ Scolopax rusticola に同定する。シギの代表種であるので、ウィキの「ヤマシギから引いておく。『夏にユーラシア大陸の中緯度地域で繁殖し、冬季はヨーロッパやアフリカの地中海沿岸やインド、東南アジアなどに渡って越冬する』。『日本では北海道で夏鳥、本州中部以北(中部・東北地方)と伊豆諸島で留鳥、西日本では冬鳥である』。『体長は約』三十五センチメートル『でハト程度である。くちばしは長くてまっすぐしていて、他の鳥類と比べると目が頭の中心より後方上部に寄っている。このため、両眼を合わせた視野は、ほぼ』三百六十『度をカバーしている。首と尾は短く、足も他のシギにくらべて短い』。『林、草地、農耕地、湿地などに生息する。水辺にもいるが、他のシギと異なり主な生息地は森林の中である。からだの羽毛は灰色、黒、赤褐色などの細かいまだらもようで、じっとしていれば見つけにくく、さらに夜行性でもありなかなか人目につきにくい』。『食性は動物食。土にくちばしを差しこんで、地中のミミズなどの小動物を捕食する』。『林の中の地上に営巣し、通常』四『卵を産む。雌だけが抱卵し、抱卵日数は』二十~二十四日。『ヤマシギは狩猟鳥に指定されており、狩猟の対象種である。また食用としても好まれる。しかし、地域によっては、ヤマシギが希少種となっているところもあり、狩猟鳥指定には批判的な声もあ』って、現在、『京都府ではヤマシギは捕獲禁止の条例が制定され』、『他の県でも狩猟者へヤマシギの狩猟の自粛を呼びかけている自治体もある』。海外では、『フランスでは希少価値の高いジビエとして人気が高かったが、あまりの希少さゆえ』、『乱獲が祟り、禁猟となっている。そのため』、『イギリスなどから輸入している。ちなみに内臓が特に珍重され、付けたまま料理するのが定番である』。『なお、アメリカン・コッカー・スパニエルは、ヤマシギの狩りを行としていた犬がルーツである』とある。

「姥鷸〔(うばしぎ)〕」ヤマシギの異名としているが、現在、別種としてシギ科オバシギ属オバシギ Calidris tenuirostris がいるので挙げておかねばならない。ウィキの「オバシギによれば、『シベリア北東部で繁殖し、冬季はインド、東南アジア、オーストラリアに渡り越冬する』。『日本では、旅鳥として春と秋の渡りの時に全国各地で普通に見られる』。全長は二十八センチメートルで、『夏羽は頭部から胸にかけて黒い斑が密にあり、脇にも黒褐色の斑がある。背から上面は黒褐色で白い羽縁があるが、肩羽に赤褐色の斑がある。腰は白い。腹は白く黒斑がある。冬羽では、体上面が灰色っぽくなる。雌雄同色である。嘴は黒く、頭部の長さより長い』。『非繁殖期には、干潟や河口、海岸、川岸、海岸近くの水田などに生息する。数羽から数十羽の群れで生活している。繁殖期はツンドラや荒れた草原などに生息する』。『砂泥地で、貝類や甲殻類、昆虫類などを捕食する。特に貝類を好んで食べる。また、植物の種子を食べることもある』。『繁殖期は』五月下旬から七月で、『苔の生えた地上に営巣し』、通常、四『卵を産む。雌は産卵後暫くすると巣から離れ、それ以降は雄が抱卵、育雛をする』。『「ケッケッ」「キュ キュ」などと鳴く』とある。

「登宇祢木〔(とうねき)〕」チドリ目シギ科オバシギ属にトウネン(当年)Calidris ruficollis という種と推定する。ウィキの「トウネンによれば、『全長はスズメとほぼ同じ』十四~十五センチメートルで、翼開長は約二十九センチメートルと、『シギ科の鳥の中では小型の一種で、くちばしと足も短い。和名も「今年生まれたもの」という意味で、今年生まれた赤子のごとくからだが小さいことに由来している』とある。但し、これが「とうねき」であるかどうかは判らぬ。しかし、サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の同種のページには、『江戸時代になって』総称の「シギ」から『区別され』、『「トウネゴ」「トウネゴシギ」「トウネギシギ」の名で呼ばれる。異名』は他に『「コシギ」「カネタタキ」』があるとあり、この「トウネゴシギ」と「トウネギシギ」は「トウネキ」(良安はルビの濁音を落とす傾向にあるので)「トウネギ」と酷似するから、本種と同定してよい。

「雀鷸〔(すずめしぎ)〕」不詳。識者の御教授を乞う。

「草鷸〔(くさしぎ)〕」先に西行の歌の鴫の同定候補に出た、シギ科クサシギ属クサシギ Tringa ochropus。]

 

2018/07/21

明恵上人夢記 68・69・70

 

68・69・70

一、同十月三日の夜、夢に云はく、木像の不空羂索(ふくけんざく)觀音は卽ち變じて生身(しやうじん)と爲り、小卷の大般若を賜はる。法の如く頭上に戴き、淚を流して喜悦すと云々。

一、同【正月】

一、同十月十七月の夜、夢に云はく、生身の釋迦一丈六尺許りの身に見參に入ると云々。上師、又、房(ばう)之(の)傍(かたはら)に在りと云々。

一、同夜、夢に、數輩(すはい)の同行(どうぎやう)とともに一處に行き、一身に覺えずして谷を下(くだ)る。上らむと欲すれども攀(よ)づることを得ず。うつぎの如き木に上らむと欲すれども、木弱くして能くせず。一人の無根の大童(おほわらは)有り。無根の大童、上より躍り下りて、具して上らむと欲すれども、我、之を受けず。此の下の道へ出でて、平地より登らむと欲して、卽ち、行く。漸(やうや)く、人家の下の如きに行き出でたる心地す。覺むるに、卽ち、宿物(よるのもの)を蒙れる夢の中に覺むる所也。

[やぶちゃん注:またしても、間に「一、同【正月】」(「正月」の意味は不詳。当初、閏月に対する「正月」かと思ったが、承久二年には閏月はない。或いは、ここで明恵は九ヶ月も前の同年正月に見た夢を、仮初、思い出したのかも知れぬ。しかし、しれが確かな夢記述、覚醒時の自分の意識が介在して変更していないという確証に疑問があって、結局、記述しなかったのかも知れない。私自身、そうした形で過去に見た夢を記載するのを止めた経験が何度もあるからである)という夢記述なしの条が挟まるので、以上を纏めて示した。しかし、最初の夢と「十月十七日」のそれは、仏菩薩が「生身」で現前するという点で強い親和性が認められるし、最後の夢は「十月十七日」と同夜(前後は判らぬ。例えば、私が明恵なら、釈迦の生身の夢を後に見たとしても、先にそれを記録するであろうからである)に見た夢であるから、併置するのが自然である。

「同十月三日」前条からの続きとして「67」と同じ承久二(一二二〇)年と採る。

「不空羂索(ふくけんざく)觀音」濁音は底本のルビである。現行では「ふくうけんさく」「ふくうけんじゃく」である(私は清音を好む)。三昧耶形(さんまやぎょう:密教に於いて仏を表わす象徴物を指す)は羂索(狩猟用の投げ繩或いは両端に金具を付けた捕縛繩)・開蓮華。尊名の「不空」とは「むなしからず」で「心念不空の捕縛索条をもってあらゆる衆生を洩れなく救済する観音」の意である。

「大般若」玄奘訳の「大般若波羅蜜多經」のこと。全六百巻。別々に成立した般若経典類(「仁王経」と「般若心経」を除く)を集大成したもの。空の思想を説き、真実の智慧(般若)を明らかにしているものとされる。

「一丈六尺」約四メートル八十五センチメートル。

「上師」既注通り、母方の叔父で出家当初よりの師である上覚房行慈ととっておく。嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂しているから、この頃はまだ生きていたと思われる。

「一身に覺えずして」自分自身でそうしようと思っているわけではない(意識していない)のにも拘わらず、何故か判らないが。

「うつぎ」ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata。山野の路傍や崖などの日当たりの良い場所に植生する。

「無根の大童(おほわらは)」「無根」は当初、髪を結っていないことかと考えたが、それでは「大童」と屋上屋であるから、ここは大きな裸の男子の童子であるが、男根がない(私が見た複数の菩薩像では内側に螺旋状に貫入しているのであって、去勢ではない)の意と採る。大方の御叱正を俟つ。されば、私はこれを仏・菩薩・明王などの眷属の童子と読むのである。

「宿物(よるのもの)を蒙れる夢」よく判らぬ。「宿物(よるのもの)」を旅宿・夜具の意と解するならば、旅の中にあって夜となってしまって宿屋も仮寝する臥所さえも得られない折りに、図らずも、暖かい寝床と夜具を得たような心持ちの夢という譬えであろうか?]

□やぶちゃん現代語訳

68

承久二年十月三日の夜、こんな夢を見た――

 木像の不空羂索觀音(ふくうけんさくかんのん)が、即座に、変じて生身(しょうじん)の御姿となられ、小さな巻物になった「大般若経」を私に賜はられた。

 私はそれを定法(じょうほう)の通りに頭上に戴き、涙を流して喜悦した。……

 

同(正月。)の夢[やぶちゃん注:以下、空白。]

 

69

承久二年十月十七月の夜、こんな夢を見た――

 生身(しょうじん)の釈迦であらせられる。その丈(たけ)は一丈六尺ほどもあられ、その身を確かに私めが見申し上げるという光栄を得、御釈迦様のおられるその僧房に入って行く……。

……我が上師もまた、その房の傍らに在られるのが見えた。……

 

70

前の夢を見たのと同じ夜、別に、こんな夢も見ていた――

 何人かの同行僧とともに、とある高い山に行った。

 自分自身、何故か判らないままに、私は谷をいっさんに下っているのであった。

 かくあればこそ、その目的が判らぬ故に、不思議に思って、

『ここは、不随意の下山に反して、登ろう!』

と欲したのであったが、いっこう、攀(よ)じ登ることが出来ない。

『よし! ここにある空木(うつぎ)のような木にとり着いて上ろう!』

と欲したのであったが、その木は軟弱で、私の身を支え得ずして、やはり攀じ登ることが出来ないのであった。

 すると、遙か頭上の崖の上に、一人の男根のない、髪を結わずざんばらにした童子がいるのが見えた。

 その無根の大童は、

「ずん!」

と、上より躍り下ってきて、私の体を支え、ともにそこを上らんとする仕草をしたのだけれども、私は、これを断った。

『この私のいる場所の、さらに下の方に道がある。よし! そこを下って、全くの平地に徹底して下(くだ)り、改めて自身の力だけで、一から登ろう!』

と欲して、直ちに彼方の下方へと行った。

 暫くすると、やっとのことで、人家の下のような至って平たい場所に行き出(い)でたという気持ちがした。

   *

というところで、夢から醒めた。

 さても、その覚醒した瞬間、私は「夜の物(よるのもの)」を予期せず受け取ったような心持ち――旅中にあって夜となり、宿屋も仮寝する臥所さえも得られぬ折り、思いもしない、暖かい寝床と夜具を魔法のように得たような心持ち――の夢の内から、目覚めたような気持ちがしたのである。

 

諸國里人談卷之四 十六桜

 

    ○十六桜(いざよひざくら)

伊与國和氣(わけ)山越村(〔やま〕こし〔むら〕)了恩寺の林の中に一木のさくらあり。毎年正月十六日に、花、咲(さく)。よつて此名あり。むかし、當寺の住僧、実(み)より此櫻をうへて[やぶちゃん注:ママ。]、「我子桜(わがこざくら)」と寵愛せり。老衰に及(およん)で病(やまひ)に臥す。「ことし、此はなを見るまでは、存命(ながらふ)べからず」と、木にむかひて餘浪(なごり)をおしみければ、その翌(あくるひ)、花、咲亂(さきみだ)れたり。これ、正月十六日也。それよりして、此日、花咲(さく)と也。

[やぶちゃん注:この「十六桜」、小泉八雲(当時はまだLafcadio Hearn)の「怪談」(KWAIDAN Stories and Studies of Strange Things)に「十六櫻(じゅうろくざくら)」(JIU-ROKU-ZAKURA:標題添え句「Uso no yona,—Jiu-roku-zakura Sakini keri!」(「/」は改行)で「噓のような十六櫻咲きにけり」)として載り(題名及び以下の引用は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和二五(一九五〇)年小峰書店刊の山宮允訳「耳なし芳一」のここを用いた)、その冒頭も『伊豫國和気[やぶちゃん注:ママ。]郡に「十六桜(ざくら)」という、たいへん有名なさくらの古木があります。十六櫻というわけは、每年正月十六日――それもその日にだけ――花が咲くからです。それで――さくらは春の時候になるのを待って。花が咲き出すならわしですが――この木が花を持つのは大寒の季節なのです。しかし十六櫻は、その木のもっていない――さもなければ、少なくとも本来その木のもっていなかった――生命(いのち)によって花を咲かせるのです。その木の中にはひとりの男の、魂魄(たましい)が宿っているのです。』という序で始まるので、本条とロケーションが完全に一致する(但し、展開は小泉八雲によって豊かに膨らませてあるのであって、最後に主人公(老武士)は桜に寿命を与えるために切腹するのである!)全話は小林幸治訳のサイト「怪談 妖しい物の話と研究」(原文も有る、素敵なサイト)こちらを読まれたいが、なお、小泉八雲のこの話は講談社学術文庫版小泉八雲(平川祐弘編)「怪談・奇談」の「解説」によれば、「文藝倶楽部」(表記ママ)第七巻第三号(明治三四(一九〇一)年二月発行)の「諸国奇談」六篇の一つである淡水生なる作者の「十六櫻 愛媛」を原拠としているとするのであるが、そのロケーションは伊予国温泉郡(おんせんごほり)山越村竜穏寺(りゅうおんじ)(同書「原拠」を参考とした)となっていて、「和気」ではない(八雲は寺名を記していない)。布村(ぬのむら)弘氏の「解説」では『地名を「伊予の国和気郡」としたのは、』「怪談」の前話である『「乳母桜」で、同じ伊予の温泉郡とあったことからの反復を避けるためだろう』としておられるが、それはおかしい。小泉八雲は本「諸國里人談」或いは類伝記載を見たからこそ、「Wakégōri」としたのである。以下の注も参照されたい。

「伊与國和氣(わけ)山越(こし)村了恩寺」「和氣」は旧郡名で「わけ」と読む。現在の愛媛県松山市山越はここ(グーグル・マップ・データ)であるが、「了恩寺」という寺は周辺にも見当たらない。廃寺となったか。因みに、「データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム」のこちらの「名木伝説」は、本条の話を枕に、本書より後の「翁草」(神沢杜口貞幹著になる随筆。全二百巻。寛政三(一七九一)年成立)の「四」の「巻三十九」に「伊予国の十六日桜の事」として同様のことが記載されているとあった。同箇所を国立国会図書館デジタルコレクションの画像(ここ)から起こす。

   *

     伊豫國の十六櫻の事

伊豫國和氣山越了恩寺の林中に一本の櫻あり。正月十六日に花咲くなり。故に十六櫻といへりと。

   *

しかし、これはどうも本「諸國里人談」の本条の受け売りとしか見えず、他の追加情報もない。因みに上記リンク先では、その後に橘南谿の紀行「西遊記」(寛政七年から同十年にかけて刊行)の続編巻一の「扶桑木」の条を紹介し(同書は私も所持しているので改めて確認した)、そこに出る「伊与の国の沙門明月」(南谿に黒檀に木理(きめ)があるような扶桑木の木片というものを見せて呉れた僧)というのは『松山の円光寺(現松山市湊町四丁目)の住職』であるとしている。しかし、これは「扶桑木」の話であって桜ではなく、場所的にも寺蹟を調べても、この円光寺が了恩寺であるわけでもないようだ。翻って、先の講談社学術文庫版が原拠とする「文藝倶楽部」に出る「竜穏寺(りゅうおんじ)」はどうかというと、これは「龍穏寺(りょうおんじ)」として現在の山越地区の東隣りの松山市御幸あることが判った。(サイト「葬儀本com.」の「龍穏寺」のページだが、宗派等の詳細はない。単立寺院である)。位置的は問題ないと思われ、しかも「龍穩寺(りようおんじ)」は「了恩寺(りようおんじ)」と同音であるから、ここで間違いないであろう。この検証だけで一時間もかかってしまったが、最後にかなりすっきりした。]

甲子夜話卷之四 37 明安の頃風俗陵遲の事 / 甲子夜話卷之四~完遂

 

4-37 明安の頃風俗陵遲の事 

明安頃は風俗陵遲極りたる中に、又思ひよらぬことこそありける。是は享保中の遺老尚ありし故とぞ。畫工の狩野榮川、殊の外田沼氏の心に叶ひ、醫院の列にさへ陛りしが、年始に御流れ時服賜はるとき、醫師衆は無紋の服に白を重ねて下さる古例なり。是流品の外なりとして、御紋は下されぬ界限の古法、元日の御式にのみ殘れり。田沼氏榮川を贔屓の餘り、總醫官へ賜る品を御紋服にせんとて、同朋頭をして納戸頭を諷せしめ、納戸頭の意を以て、御紋服にはからふようにとし成たり。そのとき納戸頭勤めし某、承服せず。此局創りしより定れる例を破ることは、得こそ致すまじ。てさあらんに於ては、書付を以て下知せらるべし。老職の屹と下知せらるることならば、是乃上の令なれば、其時は畏り奉らんと、手堅く申張りしかば、其事沙汰無くなりしとなり。その頃田沼氏の權勢中外を傾し中に、某獨り屈せず。我守る所の官局の法を張りしは、信にけなげなることなり。又上州絹運上の一件より、土民服せず。徒黨を結び、都下へ訴に及ばんとす。其數百千に至り、中々代官等の手に合はず。既に訴人ども鋤鍬鎌など携へ出立する由の注進、所々より櫛の齒を引が如し。そのこと司農府より申出て、政府にも評議區々なりしが、遂に先手頭の鐵炮組を、淺草御門に出張せしめらるゝことに定り、政府より命を傳られしとき、先手頭の筆頭にてありし老人伺出けるは、訴の百姓ども御門外まで來り候はゞ、組の者をして利解を説聞せ、もしそれを承引なく、て御門内へ亂入するの勢あらば、御道具【御預り鐵砲等のこと】を以て打ひしぎ候半と申ければ、政府の面々、それほどには及ぶまじとの旨なりしかば、然らば此御用は御免を蒙るべし。參遠以來我々が先役ども、討死せし跡は兎も角も、左なくして御紋付御道具の前に、敵を通したる事は一度も無候と言切りければ、政府の衆中あきれて其事は止み、御徒目付を淺草御門に泊番申渡したりとなん。幸に訴人をなだむるものありて、出に及ばず無事になりぬ。柔懦の極りし世なりしが、此事傳へ聞しもの、流石は御譜第御旗本衆の氣概よと感心しつゝ、それに付ても、御徒目付の泊りは何事ぞ迚、政府の措置を笑はぬものはなかりけり。總て此頃は、世態人情なり下りたる極なりし中に、又如ㇾ此こともありしは、陰窮りたる時に陽を生じ、否極りし後は泰に至るの兆朕なる歟。幾程も無くして、寛政維新の御代に移り、衆賢彙進の盛時となりにき。

■やぶちゃんの呟き

これを以って「甲子夜話卷四」は終わっている。

「明安」明和・安永。一七六四年から一七八一年まで。徳川家治の治世。所謂、田沼時代。

「陵遲」(りようち(りょうち))の原義は「丘陵が次第に低くなること」であるが、転じて、「盛んであった物事が徐々に衰えてゆくこと」から「道義が薄れていくこと」の意となった。

「是は享保中の遺老尚ありし故とぞ」これは享保年間(一七一六年から一七三六年)の節を重んじた御大(おんたい)の方々がまだ存命であられたからであるとのこと。

「狩野榮川」(かのうえいせん 享保一五(一七三〇)年~寛政二(一七九〇)年)江戸中期の画家。狩野栄川古信の長男。狩野受川の養子となったが、養父の早世により、二歳で木挽町狩野家を継いだ。江戸城や御所の障壁画・朝鮮贈呈屏風などの制作に携わり、法印となった。将軍徳川吉宗や家治の厚遇を受け、奥絵師の中で木挽町狩野家の地位を最上位にまで押し上げた人物。

「醫院の列」中世・近世以降、僧侶に準じて儒者・仏師・絵師・連歌師・医師などに僧位と同じ法印・法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)の三階位が与えられたことを指す。ただ、ここではこれ以外に「總醫官」とも言っているとこから、医官としてそれらを授与される者が圧倒的に多かったと考えてよかろう。実際、私が諸本で見かけるのは殆んど医師である。

「陛りし」「のぼりし」。本寺の原義は土で出来た階(きざはし)で、屋外にあって館に導く階段である。

「年始」「御流れ時服」「おながれじふく」。江戸幕府で年始に大名・旗本などに対して、下賜された衣料。綿入れの小袖が与えられた。現在、目上の人から貰う使い古しの品や不用品を「御下がり」というのと原義は同じ。

「流品の外なりとして」意味不明。最低限の衣料の資とせよとして戴くのが「御流れ品」の主意であるから、紋付の小袖など贅沢の極みで、慮外の品であるという意味か。識者の御教授を乞う。

「界限の古法」厳しい制限(限界)を定めた神君家康公以来の古式ということか。

「總」「すべて」。

「同朋頭」(どうぼうがしら)若年寄に属し、同朋(将軍に近侍して雑務や諸芸能を掌った僧体の者。若年寄支配で大名の案内・着替えなどの雑事を勤めた)及び表坊主・奥坊主の監督を掌った。

「納戸頭」(なんどがしら)。将軍の居所である中奥に勤務した中奥番士の一つで、将軍の手許にある金銀・衣服・調度の出納を掌り、大名旗本が献上した金銀・衣服、将軍の下賜下贈する金銀衣類一切を取り扱った。定員二名で元方(収蔵買入)と払方(下贈品)に別れていたから、ここは後者。

「諷せしめ」それとなく仄めかして伝えさせ。自分はあくまで関与していないという現在のもり・かけ・スパ汚れの安倍政権みたような、流石に陰で私腹を肥やした意次ならではの仕儀である。

「はからふ」処理する。

「し成たり」「しなしたり」。

「某」「なにがし」。静山殿、こここそ実名を明記して、永くその賄賂権勢意次に正面切って物申した御仁の心意気を伝え残すべきで御座った。

「此局」納戸方(なんどがた)。

「創りしより」「はじまりしより」。

「定れる」「さだまれる」。

「得こそ致すまじ」「得」は不可能の副詞「え」。それに打消意志の「まじ」を呼応させたところに、強烈な拒否感がよく評言されている。

て」「しひて」。

「書付」幕府内に於いて上役(特に将軍・老中・若年寄など)から下された命令書。老中御書付が一般的。平凡社「世界大百科事典」によれば、老中御書付は奉書紙を横半截した切紙の形で、伝達内容のみが記され、差出人や宛所の記載も省略されており(宛所の必要なものは文書の袖に記された),老中よりの口頭伝達を文字化した覚書としての性格を持っていた、とある。

「屹と」「きつと」。副詞。オノマトペイア「きと」の促音添加。「屹度」「急度」は当て字。確かに・必ず・間違いなく(~する・~である)。

「是乃」「これ、すなはち」。

「上」「かみ」。

「畏り」「かしこまり」。

「手堅く申張りしかば」「てがたくまうしはりしかば」。非常にきっぱりと(拒絶の意を)言い張りつつ申し上げたために。

「中外を傾し中に」「うちそとをかたむけしなかに」。幕府内外を問わず、意次の権勢に誰もが節操なく傾き靡いていた中にあって。

「信に」「まことに」。

「上州絹運上の一件」「絹一揆(きぬいっき)」或いは「絹運上騒動(きぬうんじょうそうどう)」とも称した、田沼時代の天明元(一七八一)年に上野国西部一帯から展開された絹市に対する課税反対を求める一揆。参照したウィキの「絹一揆」から引く。江戸『中期、上野国や武蔵国の農村では、養蚕業が盛んになり、生糸や絹織物が生産されるようになり、各地に絹市と呼ばれる市場が形成され、江戸や京都などの問屋から原料や商品の買い付けに訪れる買付人が増加していた。江戸幕府では元禄元年』(一六九八年)『と宝暦元年』(一七五九年)『に上野・武蔵の絹に対して課税を行う計画が立てられたが、この時は桐生などの絹織物生産地の反対があって中止された。ところが天明元年』(一七八一年)『になって地元の有力者である小幡(現在の甘楽町)の新井吉十郎他』二『名が他の賛同者の名簿とともに上野・武蔵の』四十七ヶ『所の絹市に対して』十ヶ『所の反物并絹糸貫目改所』(かんめあらためじょ:ここで製品・原料の量・質を検査し、買人から「改(あらた)め料」を徴収した)『を設置する申請が江戸幕府に出された。有力者たちは改所に関与して』、『絹の販売を独占しようと図り、一方田沼意次を中心とする江戸幕府首脳も米に依存した財政に対する限界から代わりの財源を求めており、絹製品の品質向上と運上に代わる改料確保につながるこの計画を許可したのである。そこで、幕府は現地に対して改所設置と』、反一疋に対して銀二分五厘、糸百目につき銀一分、真綿一貫目につき銀五分の『改料を買取人から徴収することが伝えられると、現地の農民はこれに強く反発した。しかも同様に反発した買取人たちも買取を拒否したために絹市が事実上停止してしまったのである。これに激怒した上野の人々は対策を講じ始めた。桐生などの上野国東部の人々は幕府に訴願を行って取消を求めようとした。だが、西部の人々は今回の改所設置の背景に西部の地主や商人達が』関わっていた『ことを知り』、『激昂』、『西部の人々は』八月二日の『上州藤岡での寄合をきっかけに一揆として蜂起』、八日に神流川(かんながわ)に『集まった人々は当初』、『江戸を目指すことも検討したものの、協議の結果、改所構想の申請者を追及する方針に変更した』。八月九日、『小幡の新井吉十郎の屋敷が打ち壊され、続いて他の申請者やそれに賛同した地主や商人の屋敷が打ち壊されただけではなく、七日市藩陣屋も攻撃され、更に一揆は今回の申請に許可を出した老中松平輝高が藩主を務める高崎藩に向かってなだれ込んだ。これに驚いた幕府は』八月十六日に『改所中止を決定して翌日には現地にも伝えられたが、この報が広まる直前の』八月十八日には『高崎城を包囲した一揆軍と高崎藩兵が衝突した。だが、直後に双方に改所中止が伝わったために一揆は解散したのである』とある。本条のこの部分は、この天明元(一七八一)年の八月二日の蜂起辺りから、八月九日の七日市藩陣屋への攻撃、八月十八日の老中松平輝高が藩主であった高崎藩への侵攻・衝突の期間の幕府内の混乱を描いていると考えてよかろう。

「櫛の齒を引が如し」「くしのはをひくがごとし」。櫛の歯は一つ一つを小さな鋸で挽(ひ)いて作ったところから、物事が絶え間なく続くことの譬え。

「司農府」幕府内の農政を掌る部局らしい。

「區々」「まちまち」。異なった意見がさまざまに出ること。

「淺草御門」江戸城外堀の神田川で最も隅田川寄り(神田川が隅田川に注ぐ手前)の番所、浅草見附があった枡形の浅草橋見附門。見附門にある橋は浅草寺に通じることから「浅草橋御門」「浅草口」とも呼ばれ、平時から警護人を置き、浅草観音や奥州方への街道を往来する人々を監視した。ここ(グーグル・マップ・データ。但し、正確にはここに神田川対岸位置と思う)。

「定り」「さだまり」。

「伺出けるは」「うかがひいでけるは」。

利解」「理解」。

「説聞せ」「とききかせ」。

「候半」「さふらはん」。

「無候」「なくさふらふ」。

御徒目付」「おかちめつけ」。目付の指揮のもとに江戸城内の宿直・大名登城の監察・幕府諸役人の執務内偵等に従事した。徒目付(かちめつけ)・徒横目(かちよこめ)とも呼ぶ。

「泊番」「とまりばん」。宿直。

柔懦」「じうだ(じゅうだ)」。気が弱く意気地のないこと。「柔弱」の同じい。

「極り」「きはまり」。

「迚」「とて」。

「政府の措置を笑はぬものはなかりけり」いやいや、激甚災害の真っ最中に宴会を開いて記念写真を撮る輩に比べたら、遙かにマシで御座るよ、静山殿。

「世態」「せたい」「せいたい」孰れにも読む。世の中のありさま。世情。

「極」「きはみ」。

「如ㇾ此」「かくのごとき」。

「否極りし後は泰に至る」「易経」の言葉。「乾坤」「泰否」は宇宙のエネルギの相反的状態とその消長を前後対で著わしたもので、「泰否」は「泰」が生命の活動の隆盛を、「否」はその停滞・減衰を指す。それぞれの状態の極限は反対の状態を逆に生み出し、それによって宇宙というエネルギ体は永続するといった意味であろう。

「兆朕」「てうちん(ちょうちん)」。この「朕」は「兆」に同じ意で、これで「きさし・徴候」の意。

寛政維新の御代」田沼意次が失脚し(天明六(一七八六)年。八月二十七日、老中辞任)、翌年松平定信が老中就き、その在任中の天明七(一七八七)年から寛政五(一七九三)年の主導で行われた「寛政の改革」時代。

「彙進」(いしん)は元は同類の者が朝廷に進み出ること。そこから、類を以って集まることの意となり、ここは賢人たちが陸続と幕府に集まって来たことを指す。

2018/07/20

譚海 卷之二 攝州摩耶山燒亡の事 / 譚海 卷之二~完遂

 

攝州摩耶山燒亡の事

○天明元年攝州摩耶山上の堂塔燒亡せり。そののちひひといふもの出(いで)て人をとりくふとて、參詣登山する人なしとぞ。

[やぶちゃん注:これを以って「譚海 卷之二」は終わっている。

「天明元年」一七八一年。

「攝州摩耶山上の堂塔」兵庫県神戸市灘区摩耶山町にある真言宗佛母摩耶山(ぶつもまやさん)忉利天上寺(とうりてんじょうじ)。摩耶夫人(釈迦の生母)を本尊とする日本唯一の寺。(グーグル・マップ・データ)。

「ひひ」「狒々」。しかし、ここに妖怪のそれが蔓延ったというのは不詳。識者の御教授を乞う。]

譚海 卷之二 丹後由良港さかさ沓の事

 

 

丹後由良港さかさ沓の事

 

○丹後の由良の湊にさかさ沓(くつ)と云(いふ)故事有。「つし王丸(わうまる)」といふ冠者(かじや)三莊太夫(さんしやうだいふ)が許(もと)をにげて京へ登る時に、雪中に沓を跡になしはきてにげたる故、雪につける足跡奧の方へ行(ゆき)けるやうに見えしかば、追手の者奧のかたをとめて求めし故、のがれて京へ入(いる)事をえたりといふ。

 

[やぶちゃん注:「物語要素事典」の「靴(履・沓・鞋)」に、柴田宵曲の「奇談異聞辞典」に「逆沓(さかぐつ)」として、『丹後の由良の湊に「逆沓」という故事がある。つし王丸が、三荘太夫の許(もと)から脱出して京へ上る時、沓を前後逆にはいて、雪中を逃げた。そのため、雪についた足跡は奥丹後へ向かうように見え、追手は奥丹後方面を捜したので、つし王丸は無事に京へ入ることができた』(これは本篇を現代語訳したもの)とある。

「丹後の由良の湊」現在の京都府宮津市由良。(グーグル・マップ・データ)。

「つし王丸(わうまる)」「厨子王(づしわう)」のこと。山椒太夫(こちらは歴史的仮名遣「さんせうだいふ」)説話の彼である。

「とめて」「留めて」か。「心に留めて・注意して」か。]

譚海 卷之二 京師竹の皮駕籠舁の事

 

京師竹の皮駕籠舁の事

○京都にては竹の子の皮をすてず、日にほしてこまかに引さき、薪にまぜて用(もちふ)る也。又四方の山に風を隔(へだつ)るゆへ、京都は雨(あめ)竪(たて)に降る也。駕籠かくものも傘をさしてかごをかく也。

[やぶちゃん注:駕籠舁(か)きは普通は雨でも邪魔になるので傘はささない。しぶかないから、舁き棒に直角にきつく結わえておけば、こと足り、濡れずに済むということだろうか。]

譚海 卷之二 明智日向守墓幷石川五右衞門の手のかたの事

 

明智日向守墓幷石川五右衞門の手のかたの事

○京都三條通白川橋の出(で)はづれ、九町といふ所に弓屋と云(いふ)茶屋有。その裏に古き墳墓あり、是(これ)明智日向守の墓也とぞ。又山崎(やまざき)寶寺(たからでら)の門のはしらに人の手の跡あり。是は盜人石川五右衞門なる者の手のかた也といへり。

[やぶちゃん注:前者は明智光秀の首塚と伝えられる、現在の京都府京都市東山区梅宮町(ここ(グーグル・マップ・データ))にあるもの。但し、実際の首塚は粟田口附近にあったもので、ここは移転した供養地に過ぎない。

「山崎寶寺」京都府乙訓郡大山崎町(おおやまざきちょう)にある真言宗天王山又は銭原山(古くは「補陀洛山」と称した)宝積寺(ほうしゃくじ)。(グーグル・マップ・データ)。『聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があ』る、とウィキの「宝積寺にあった。この寺の「石川五右衞門なる者の手のかた」は現存しない模様。南西ごく直近にある大阪府三島郡島本町((グーグル・マップ・データ))にある水無瀬神宮神門にならば、「石川五右衛門の手形」が現存するから、これの誤伝かも知れぬ。ブログ「計画的日常譚」の「石川五右衛門の手形が! 水無瀬神宮に写真有り。どどんぱ氏によれば、『この神社に祀られた名刀を盗もうとしていた石川五右衛門が結局盗むことができず、手形だけを残して立ち去った』とある。]

譚海 卷之二 作州朝鮮人子孫ある事

 

作州朝鮮人子孫ある事

○美作國に朝鮮人の子孫の家三軒有(あり)。是は豐臣太閤朝鮮征伐の時とりこにして來たる子孫、をのづから彼國に住居して世家(せいか)に成(なり)たる也。此三軒のものをば、今に其所(そのところ)のもの唐人と呼(よばは)るよし。

[やぶちゃん注:「美作國」現在の岡山県東北部の津山市を中心とした一帯。(グーグル・マップ・データ)。

「世家」ある種の公的特権を持って世襲した家柄。

「唐人」読み不詳。「からびと」か「とうじん」か。]

譚海 卷之二 肥後國めもら主膳殿事

 

肥後國めもら主膳殿事

○肥後の圖にも米良(めら)主膳と稱するもの、一村の主人にて、近來まで年貢等も不持出(さしいださず)、深山中(しんざんちう)の一村に居たるものなり。五千石の知行に被仰付(おのせつけられ)、今は交代寄合(こうたいよりあひ)に入置(いれおか)れしと也。古來よりの所帶高(しよたいだか)いか程(ほど)といふ事を知らず、五千石は當時の御定高(ごじやうだか)也とぞ。

[やぶちゃん注:標題の「めもら」はママ。底本の竹内利美氏の注に、『肥後ではなく日向の米良氏。宮崎県米良谷』(米良村は(グーグル・マップ・データ))『は椎葉谷』(椎葉村は米良村の北に接する、(グーグル・マップ・データ))『とならび称される山の里で、一種の隠里であった。無年貢で、後にその主は五千石の交代寄合』(江戸幕府の職名で、一万石以下三千石以上の非職の旗本で幕府と特殊な関係にあった家系の者に限られた。老中支配で、身分格式は譜代大名に準じ、領地に常住したが、隔年に参勤交代した。凡そ三十余家があった)『になったという』とある。平凡社「世界大百科事典」の「米良荘」によれば、宮崎県中部を東流する一ッ瀬川の上流一帯を指す地域名で米良山地ともいう。行政的には西都市東米良地区と児湯(こゆ)郡西米良村に属する。山地は中生代の四万十(しまんと)層群に属する粘板岩と砂岩を主体にした九州山地を一ッ瀬川の本・支流が浸食したもので、高い所で標高千メートル内外であるが、谷の傾斜が急で、古くから、北方の椎葉とともに平野部から隔絶した地域として隠田集落的性格を持ち、独特の民俗を有した。古い時代の歴史は不詳ながら、十五世紀初め、肥後の菊池氏が後醍醐天皇の子孫を奉じてこの地に入山し,米良氏と改姓して支配したと言われている、とある。

「米良(めら)主膳」彼と相良藩との関係については、熊木大学寿PDF)の「3)研究成果」の「A)藩政期の支配関係」と「B)藩政期米良の社会経済構造」がよい。事実どうであったかは別として、米良氏自身は菊池氏の子孫であると信じていたらしく、『米良主膳則重の墓には、氏は菊池としるしている。米良氏は米良の山地によって明治の初めまでよく家運を支え、幕末には山中から勤王運動にのりだし』たと、宮本常一(つねいち)の「山に生きる人びと」(未來社『日本民衆史』二・昭和三九(一九六四)年刊)にはある。]

譚海 卷之二 紀州熊野鈴木三郎子孫の事

 

紀州熊野鈴木三郎子孫の事

○紀州熊野那智邊に鈴木三郞と稱する鄕士あり。則(すなはち)源九郞義經の家臣の末孫也。これも一村主人と尊(たつと)み、紀州御入國の時も立(たち)ながら式臺(しきだい)する程の事にて、一向年貢も指出(さしだ)す事なく、今に所住するとぞ。

[やぶちゃん注:「鈴木三郎」源義経に従い、源平合戦(治承・寿永の乱)の諸戦で活躍したが、衣川館で義経と最期をともにしたとされる武将鈴木重家(久寿三(一一五六)年~文治五(一一八九)年)。ウィキの「鈴木重家によれば、『紀州熊野の名門・藤白鈴木氏の当主であ』った彼は、『平治の乱で源義朝方について戦死した鈴木重倫の子。弟に弓の名手と伝わる亀井重清がいる』。「義経記」には『義経に最期まで従った主従のひとりとして登場するほか』、「源平盛衰記」でも『義経郎党として名が見られる。熊野に住していた源行家との関係から義経に従ったともいわれる』。『重家は、熊野往還の際に鈴木屋敷に滞在した幼少時代の源義経と交流があり』、「続風土記」の『「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると弟の重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で義兄弟の契りを交わしたとされる。その後、重家は義経が頼朝の軍に合流する際に請われて付き従ったとされ』、「治承・寿永の乱」では『義経に従って一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどで軍功を立てて武名を馳せ、壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献した。また、重家は義経から久国の太刀を賜ったとされる(穂積姓鈴木系譜)。平家滅亡後は源頼朝から甲斐国に領地を一所与えられて安泰を得ていた』。『しかし、後に義経が頼朝と対立して奥州に逃れた際、義経のことが気にかかり、所領を捨て長年連れ添った妻子も熊野に残して、腹巻(鎧の一種)だけを持って弟の亀井重清、叔父の鈴木重善とともに奥州行きを決意』、文治五(一一八九)年、『奥州に向かった。その奥州下りの途中』では、一度、幕府方に『捕らえられて、頼朝の前に引かれた』。その『時には、頼朝に堂々と義経のぬれぎぬを弁明し』、『功を論じた』。『重家の妻・小森御前は、重家が奥州に向かう際は子を身ごもっていたために紀伊国に残されたが、夫を慕い』、『わずかな家来を連れて後を追った。しかし、平泉に向かう途中に志津川(現在の宮城県南三陸町)の地で夫が戦死したことを聞かされ、乳母とともに八幡川に身を投げて自害したとされる。その最期を哀れんだ村人たちが同地に祠を建てたと伝わり、現在でも小森御前社として祀られている』。「義経記」に『よると、義経主従が奥州高館の衣川館で藤原泰衡の討手の軍勢を待ちうけながら開いた宴のさなか、重家は馬の足を踏み外して痛めながらも熊野より到着し、源義経より佐藤兄弟(佐藤継信・佐藤忠信)の残した鎧を賜った』としている。文治五(一一八九)年閏四月三十日、泰衡は五百騎の『兵をもって、武蔵坊弁慶、重家、重清らわずか』十『数騎の義経主従を襲撃した(衣川の戦い)。弁慶が「はやせよ、殿ばら。東夷の奴ばらに我らが優美の道を思い知らそう」というと、すぐに重家・重清兄弟が鼓と笛ではやしたて、弁慶はうたいながら』、『舞った。その後、重家、重清、弁慶は馬を並べて太刀を抜き、大声で喚きながら馬を駆けたために敵は秋風が木の葉を散らすように元の陣に逃げていったといわれる』。『重家は、逃げていく泰衡の郎党・照井太郎に、敵に背を見せて逃げずに止まるよう声をかけ、戻ってきた照井太郎を斬り負かして右肩を斬りつけ、照井太郎を引き下がらせた。重家はその他にも左手に』二『騎、右手に』三『騎を斬り倒し』、七、八人に『手傷を負わせたところで』、『自分も深傷を受け、「亀井六郎犬死にするな、重家は今はかうぞ」を最後の言葉に太刀で自らの腹を掻き切って自害したと伝わる』。享年三十三歳、『重清も「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年』二十三、『弓矢の手並日来人に知られたれども、東の方の奴ばらは未だ知らじ。初めて物見せん」と言いながら大勢の中に割って入り、兄の後を追って自害し果てた』。『重家の次男・重次の直系は藤白鈴木氏として続いた。この一族からは雑賀党鈴木氏や、江梨鈴木氏などが出て各地で栄え、系譜は現在に続いている。伊予土居氏の祖・土居清行は重家の長男とされ、河野氏に預けられて土居氏を称したと伝わる。重家の子のひとりとされる鈴木小太郎重染は、父の仇を討つため』、『故郷の紀伊国から陸奥国に入り、奥州江刺に到って義経・重家の追福のため』、『鈴木山重染寺を建てたと云われる』。但し、『重家は衣川館で自害せずに現在の秋田県羽後町に落ち延びたという伝承もある。その子孫とされる鈴木氏の住宅「鈴木家住宅」は国の重要文化財に指定されて』おり、また『他に、平泉を脱した後、義経の命により』、『岩手県宮古市にある横山八幡宮の宮司として残ったと記す古文書もある』とある。

「紀州御入國の時も立ながら式臺する程の事にて」徳川家康の十男徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年)が駿河国駿府藩から紀伊国和歌山藩藩主となって入国した折り(元和五(一六一九)年))のことか。「立ながら式臺する」屋敷の玄関に設けられた板敷きの部分に立ちながらに礼したということか。

「一向年貢も指出す事なく、今に所住するとぞ」こんなことが許されていたとは、ちょっと信じ難いのだが?]

譚海 卷之二 元文年中武州秩父領山中隱里發見の事


元文年中武州秩父領山中隱里發見の事

○元文年中田中久五郞殿秩父領御代官の時、大雨の後山中より古き椀(わん)の類(たぐゐ)多く流れ出(いで)しまゝ、此奧に人家有(あり)やと尋(たづね)られしに、未だ存(ぞん)ぜず候由申せども、不審に思はれ、手代兩人に申付(まうしつけ)、獵師五人鐡炮を持(もた)せ、鍋釜飯料(めしりやう)等迄用意し出(いだ)し候處、其夜は山中に寄宿し、明朝又々山ふかく分入(わけいり)たるに、豁然(かつぜん)たる一大村(いちだいそん)に至り、所のものに此村の主(あるじ)はいづくぞと尋ければ、向ひの門(もん)有(ある)家當所の殿さまに御座候と申候まゝ、卽刻歸り右の次第申候まゝ、久五郞殿江戶へ御伺(おんうかがひ)申上(まうしあげ)られ候處、猶又とくと穿鑿致候樣に仰付(おほせつけ)られ、久五郞殿人數(にんず)千人斗(ばか)り召(めし)つれ罷越(まかりこし)、例の如く山中に一宿し、翌朝右の村に至り、直(ただち)にさきの殿さまといへる家へ案内をこひ、主人に對面し、是までいづかたへみつぎ物差上(さしあげ)候や、此度(このたび)上意にて御尋被ㇾ成(おたづねなられ)候由申候時、只今迄一向何(いづ)かたへも貢物(みつぎもの)差出候事無ㇾ之(これなく)候が、年々貢物差上度(たき)心願(しんぐはん)有ㇾ之候へども、今まで幸便(こうびん)なくもだし罷在(まかりあり)候、難ㇾ有(ありがたき)事也とて御請申(おんうけまうし)ければ、則(すなはち)上(かみ)より竿(さお)を御入被ㇾ成(おいれなられ)、地面御吟味の所、大がい五千石程の地也(なり)、書上(かきあげ)には千石と申上候事也。武州といへども山中なれば此比(このころ)まではかく知れざる隱里(かくれざと)もありけり、珍しき事也とぞ。

[やぶちゃん注:「元文」一七三六年から一七四一年まで。徳川吉宗の治世。

「田中久五郞」不詳。

「幸便」そこへ行く、又はそこへ何かを届けるのに好都合な機会。

「竿」検地の測定に用いる竿。]

譚海 卷之二 遠州見附冷酒淸兵衞事

 

遠州見附冷酒淸兵衞事

○遠州見付宿に植村淸兵衞と云(いふ)もの有。一名は冷酒淸兵衞と號する由、此由來は東照宮御敗軍の時、此者の先祖に酒御乞(おこひ)被ㇾ成(なられ)、あたゝめて參らせよとありしを、かやうの牽迫(ひつぱく)成(なる)際にてはあたゝめずと召せとて冷酒のまゝまゐらせしより此號有。今も二三年に壹度づつ江戸へ罷出(まかりいで)、御老中𢌞(ごらうちうまは)り致し、御禮申上候由、此(この)供(とも)の人足は片桐家より仕(し)たて出(いだ)す事、古例ある事なるよしいへり。

[やぶちゃん注:享和三(一八〇三)年成立の「遠江古蹟圖會」の「冷酒之由緒」に(国立国会図書館デジタルコレクションのから。但し、リンク先は写本)、『慶長年中、關ヶ原戦の砌り、神君御通行有ㇾ之(これある)節(せつ)、見附宿の側松原に出(いで)て酒賣者有(ある)折節、冬御陣なれば、軍卒も寒空(さむそら)を凌ぎて右の酒店(しゆてん)にて八文酒を飮(のみ)をる』。『家康公も酒店御立寄』になられ、家康に冷酒を勧めたことから、帰陣の後、帯刀御免となり、植村清兵衛と名乗り、毎年正月、江戸へ年頭の御礼に出るとあり、穴が一つある「アケヅノ箱」を伝来、家が没落に及ぶならば大公儀へ持出すべしとの墨付を添えているといったことが絵入りで書かれてある。

「遠州見付宿」現在の静岡県磐田市中心部。中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「東照宮御敗軍」前の話では「関ヶ原の戦い」への出陣の途中とするが、中遠広域事務組合公式サイトし」十二冷酒清兵衛(ひやざけせいべえ)(磐田市)では、『家康をねらっていた武田方の武士に追われて、命か』ら『がら見付宿まで逃げて来ました。清兵衛は、家康を何とか追っ手から守らなければと、見付宿のあちこちに火を放ち、敵が街の中に入れないようにしました』(この清兵衛訪問は二度目)。『武田方は三本松(富士見町)まで追ってきましたが、既に見付宿は火の海になって通れません。南を回れば水田で遠く、北は山道で追うこともできず、立ち往生していました。この間に、家康は、清兵衛の案内で、橋羽(浜松市中野町)の妙音寺まで逃げ、その夜は一泊し、翌日、無事、浜松城へ帰ることができました』とある。菊蔵ブログ菊蔵の旅と歴史ブログの「徳川家康四百回忌・遠州の家康伝説 二十二話には「遠江古蹟圖會」と同じく関ヶ原出陣とした話とこれを併載してあるのでそちらも参照されたい。この実話伝には幾つかのヴァージョンがあるらしい。

「牽迫」「逼迫」。

「片桐家」豊臣家の家老で豊臣秀頼の傅役を務めたが、家康に協力的な立場をとり、方広寺鐘銘事件の際に大坂城を退出し、徳川方に転じた片桐且元から始まる片桐家(且元直系は明暦元(一六五五)年に無嗣断絶で絶えたが、大和小泉藩藩主となった弟片桐貞隆の家系が明治まで大名として存続している)。]

譚海 卷之二 江戸深川にて川太郎を捕へし事

 

江戸深川にて川太郎を捕へし事

○安永中江戸深川入船町にて、ある男水をあびたるに、川太郞其人をとらんとせしを、此男剛力なるものにて、川太郞を取すくめ陸(おか)へ引上(ひきあげ)、三十三間堂の前にて打殺(うちころ)さんとせしを、人々詫言(わびごと)して川太郞證文を出(いだ)しゆるしやりたり。已來此邊にて都(すべ)て河太郞人をとる間數(まじき)由、其證文は河太郞の手判を墨にておしたるもの也とぞ。

[やぶちゃん注:「安永」一七七二年~一七八一年。

「江戸深川入船町」現在の東京都中央区入船。旧京橋区の京橋地域内。(グーグル・マップ・データ)。ああ、その頃には、まだ、江戸に河童が生き生きと生きて居たんだなぁ。

「川太郎」河童の異名。

「三十三間堂」江戸三十三間堂。江戸時代、江戸の富岡八幡宮の東側(現在の江東区富岡二丁目附近。(グーグル・マップ・データ))にあった仏堂で本尊は千手観音であった。現在の入船町とは隅田川挟んで東へ二キロメートルほど行った位置であるが、隅田川の中で格闘して東へ流れて行って、ここで陸へ上がったものと思えば、不審なロケーションではない。ウィキの「江戸三十三間堂によれば、『京都東山の三十三間堂(蓮華王院)での通し矢の流行をうけて』、寛永一九(一六四二)年に『弓師備後という者が幕府より』、『浅草の土地を拝領し、京都三十三間堂を模した堂を建立したのに始まる』。翌寛永二十年四月の『落成では、将軍徳川家光の命により』、『旗本吉田久馬助重信(日置流印西派吉田重氏の嫡子)が射初め(いぞめ)を行った』。その後、元禄一一(一六九八)年の『勅額火事により焼失したが』、三年後の元禄十四年に『富岡八幡宮の東側』『に再建された。しかし』、明治五(一八七二)年、悪名高き神仏分離と廃仏毀釈によって、『廃されて堂宇は破却された』。『京都の通し矢同様、距離(全堂・半堂など)、時間(一昼夜・日中)、矢数(無制限・千射・百射)の異なる種目があり流行した。記録達成者は「江戸一」を称した』とあり、寧ろ、剛腕の主人公が河童を平伏させ、詫び請文を書かせるに相応しいロケーションと言うべきであろう。]

譚海 卷之二 安永九年房州へ南京の舶漂着の事

 

安永九年房州へ南京の舶漂着の事

○安永九年四月、房州南浦へ漂着船あり、南京の人也。船の長さ廿八間有、朱欄金碧(しゆらんきんぺき)の飾(かざり)等所々損じたれ共(ども)美麗也とぞ。船中の人七十八人あり。船は大なるものゆゑ、其まゝ浦に差置(さしおき)、船中の人は殘らず相州浦賀へ御引取被ㇾ成(なられ)、御扶持米下され、程なく歸國被仰付(ほせつけられ)、船は其浦にて燒捨(やきすて)られたりとぞ。大岡兵庫頭殿領分の海邊也。

[やぶちゃん注:「安永九年」一七八〇年。

「四月、房州南浦へ漂着船あり、南京の人也」「南浦」は地名ではなく、「南の浦邊」の意であろう。私は「みなみのうら」と訓じておきたい。「館山市立博物館」公式サイト内の「南京船房州沖漂着一件」に、

   《引用開始》

 安永9年(1780年)4月末、房州千倉浦(南房総市)へ中国の交易船「元順号」が漂流、座礁するという事故がありました。外国船漂流者の扱いには規則が多いなか、近隣の村人たちは大暴風にもかかわらず、乗員78人全員を救助します。当初は、漂着地域の領主であった岩槻藩が対応にあたり、やがて幕府代官に引き継がれました。海岸には竹矢来の囲いを設けて、全員を仮小屋三棟へ囲い込み、その周囲には役人が詰める番所が設置され、人足が詰める番屋も置かれました。

 北は安馬谷・白子から南は白浜(共に南房総市)までの村々21か村では、米などの食料や竹木・縄・俵などの資料を提供し、炊出しや小屋番などの人足を出して世話をしています。やがてその範囲は広がり、犬石村や中里村(館山市)などでも人足を出すようになりました。72日に館山から海路で長崎へ向かい、帰国するまでのあいだ、61日間の滞在でした。

 この一件についての記録は多く残されており、房総各地でも、船主沈敬贍{ちんけいせん}の書を所蔵するお宅が館山市内にあるほか、館山にいた当時の絵師勝山調{かつさんちょう}のように乗員が落していったカルタを手に入れ、元順号の絵を描き残した人物もいるなど、大勢の見物人がいたようです。江戸から近いこともあってこの事故への関心は高かったようです。

   《引用終了》

とあり、検索を掛けると、ここに記された通り、「安永九年安房千倉漂着南京船元順號資料」とする出版物もあることが確認出来る。また、「船の科学館」のこちらで、「安永九年 房州朝夷浦漂着南京船図」とする絵図を見ることが出来、そこで漂着船のクリアーな絵とともに、詳細データが墨書されているのも見られる。確かに「美麗」である(必見)。

「船の長さ廿八間」五十メートル九十センチメートル。前注リンク先の絵図では「舩長九丈二尺」(二十七メートル八十七センチメートル弱。幅)とあり、えらく短いのは不審。絵図の方の数値が信憑性が高いと思われる

「大岡兵庫頭」武蔵国岩槻藩(武蔵国埼玉郡、現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田にあった藩)第二代藩主大岡忠喜(ただよし 元文二(一七三七)年~文化三(一八〇六)年)。ウィキの「大岡忠喜に、この時、『岩槻藩の飛び地である安房国朝夷郡に清国の商船が漂流すると、郡奉行であった藩士の児玉南柯を派遣して対応している』とある。]

譚海 卷之二 同國本土寺竹田萬千代母堂墓の事

 

同國本土寺竹田萬千代母堂墓の事

○同國平塚と云(いふ)所に本土寺(ほんどじ)といふ日蓮宗有(あり)。寺格その宗門の上席也。日藏上人所持有(あり)し高祖のまんだら有、比類なきもの也とぞ。此寺に數百年に及ぶ古松あり。竹田萬千代母堂の墳墓なるを、戰國已來知る人なかりしに、水戸光圀卿往來ありし時此松を賞し給ひ、植直(うゑなほ)し然(しかる)べしとて掘返(ほりかへ)したるに、其下に石廓(せきかく)有、因(より)て右の墳墓なる事相知(あひし)れ、光圀卿碑文を製し給ひ、松下に安置あり。其石正面には秋山夫人墓とありて、殘り三面に碑文有、母堂は秋山氏也とぞ。

[やぶちゃん注:「同國本土寺」前条を受けて、「下總國」で、現在の千葉県松戸市平賀にある日蓮宗長谷山本土寺(ほんどじ)。ウィキの「本土寺」によれば、『池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺とともに「朗門の三長三本」(さんちょうさんぼん)(新潟県三条市の長久山本成寺を含めて四長四本ということもある)と称されている。「朗門」とは日蓮の弟子日朗の門流という意味であり、「三長三本」とは、上記』三『か寺の山号寺号にいずれも「長」「本」の字が含まれることによる』。『本土寺過去帳は、歴史を語る重要な資料である』。『本土寺は元々』、『日朗・日像ら日蓮門人を輩出した平賀忠晴の屋敷跡と伝えられ、後に日蓮の支援者であった千葉氏家臣曽谷教信が法華堂を建立したとされている。後に日朗が本土寺として開堂供養した(実質的な開山は、日朗門人の日伝であったとする説もある』)。「平賀本土寺史要」によると、文永六(一二六九)年、『日蓮に帰依した蔭山土佐守が「小金の狩野の松原」の地に法華堂を建てたのが本土寺の起源という』。建治三(一二七七)年、『曽谷教信(胤直)が平賀郷鼻輪に法華堂を移し、日蓮の弟子日朗が開堂供養した。日蓮の直弟子である日朗、その異母弟にあたる日像(四条門流の祖)、日輪(池上本門寺』三『世)は平賀氏の出身で、平賀郷はこれら日蓮宗の祖師ゆかりの地であった』。延慶二(一三〇九)年、『曽谷教信の娘・芝崎(千葉胤貞の妻)より、土地の寄進を受け、寺が整備された。芝崎夫人は夫の胤貞の死後、出家し、日貞尼とも称される』。延文三(一三五八)年、『台風により、本堂が倒壊するが、その後再建された』。九世日意及び十世日瑞は『火災で焼失した本堂再建のための勧進事業をきっかけに布教を行い、地元の高城氏やその同族の原氏の支援を受けて寺を整備した』。『高城氏が小田原征伐で改易されると、徳川家康の』五『男で甲斐の穴山武田氏を継承した武田信吉が母の秋山夫人(家康の側室、於都摩)とともに小金城に封じられたが、間もなく』、天正一九(一五九一)年に『夫人が亡くなったため、十五世日悟がこれを厚く葬り、家康も朱印地』十『石を与えた』(下線太字やぶちゃん。以下同じ)。『本土寺は元々』、『不受不施派』(日蓮宗徒以外からの布施やそれへの法施を拒絶する日蓮宗のファンダメンタルな一派で江戸時代を通じて弾圧対象となった)『の影響が強く』、寛永七(一六三〇)年の身池対論でも十八世日弘が『参加している。ところが、江戸幕府が不受不施派弾圧の方針を取ったために、日弘は伊豆に流され、続いて』二十一『世日述も伊予国に配流された。その結果』、寛文五(一六六五)年に、『受不施派の久遠寺の支配下に組み込まれることになった』。『その後』、『派遣された』二十二『世日令の元で受不施派寺院としての改革が行われた。日令の』時代の貞享元(一六八四)年に『前述の秋山夫人の甥にあたる徳川光圀の申し出により』、『秋山夫人の墓が本堂脇に移されて参道の整備と寺領』二十『石』六『斗の寄進が行われている』。『その後』、享保二〇(一七三五)年から安政二(一八五五)年にかけて、『江戸浅草にあった末寺の本法寺での』五『度にわたる出開帳によって、寺の名は江戸でも知られるようにな』り、安政三(一八五六)年には末寺四院六坊七十五寺を数えた、とある。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る内容であるから、まさに最後に記されているような、本寺の再勃興期前期に当たる

「日藏上人」誕生寺貫首九世日蔵上人(永正三(一五〇六)年入寂。「十世」ともするが、誕生寺」公式サイトの考証に従った)。

「高祖のまんだら」日蓮直筆の曼荼羅本尊(「南無妙法蓮華経」を中央に配した文字曼荼羅。軸装)。現存し、本邦の日蓮のそれでは三番目に大きいものとされる。シティ、企画展「本土寺と戦国の社会」についてPDF)で画像が見られる。

「數百年に及ぶ古松あり」本土公式サイトを見る限り、現存しない模様。

「竹田萬千代」前に出た通り、徳川家康五男武田(松平)信吉(のぶよし 天正一一(一五八三)年~慶長八(一六〇三)年)。ウィキの「武田信吉によれば、『幼名は福松丸』、また『武田万千代丸。正しくは松平信吉であるが、同名の松平信吉がいるため、区別するため武田信吉と呼ばれる』。浜松生まれ。『母は甲斐武田氏家臣・秋山虎泰の娘・於都摩(下山殿・妙真院)。穴山信嘉(信邦、信君の弟)の妻であったとの説もある。一説には家康が側室に武田の血族を求めていたため、表向きは武田信玄の末娘として、信君の養女となり、家康に輿入れしたともいう』。天正一〇(一五八二)年三月の『織田・徳川連合軍の甲州征伐に際して、甲斐河内領主の穴山信君(梅雪)は織田・徳川方に臣従する。同年』六『月の本能寺の変に際して信君は上方で横死し、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱では穴山衆は家康に帰属した。穴山氏は信君と正室・見性院の子である勝千代(武田信治)が当主となるが』、天正一五(一五八七)年に十六歳で『死去したため、穴山武田氏は断絶』した。『信君は織田・徳川方に臣従する際に、武田家臣・秋山氏の娘である於都摩の方(下山殿)を養女として家康に差し出しており、於都摩の方は家康の側室となる。家康と於都摩の方の間には五男・福松丸(万千代丸)が生まれる。万千代は見性院が後見人となり、武田氏の名跡を継承させ、甲斐河内領のほか、江尻領・駿河山西・河東須津を支配させ、元服して武田七郎信吉と名乗らせた。ただし、家康が駿府城に移ったことで駿河国が徳川氏の本国となり、その関係で信吉の武田氏継承時に江尻領などは没収されたとする説もある』。天正一八(一五九〇)年二月から七月の『小田原征伐後、同年には家康の関東移封に従って下総国小金城』三『万石へ移る。信吉は松平姓に復し、松平信吉と改名する。豊臣秀吉の正室・高台院の甥である木下勝俊の娘を娶ったため、家康から秀吉への配慮もあり、信吉に領地を増やした』。翌天正十九年、『母が死去したため、見性院が信吉の養母となった』。文禄二(一五九三)年には下総国佐倉城十万石を与えられ、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では『江戸城西ノ丸にあって留守居役を務め』ている。慶長七年、『先の合戦で西軍に属した疑いをもたれた佐竹氏に替わり、その領地であった常陸国水戸』二十五『万石に封ぜられ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興した』が、『生来病弱であったらしく』、慶長八年に二一歳で夭折した。『死因は湿瘡(痒みなどが激しく長く続くと死にいたる病)』とされる。『子女もいなかったので、これにより』、『武田氏は再び断絶した。なお、信吉に女子があるとの説があるが、もう一人の松平(藤井)信吉との混同の可能性が高い』。『水戸藩は異母弟の頼将(のちの頼宣)が入り、頼将が駿府に移封の後は、同じく異母弟の頼房が入部し、水戸徳川家の祖となる。信吉の家臣の多くは水戸家に仕えることになる。墓所は茨城県那珂市瓜連にある常福寺。法名は浄巌院殿英誉善香崇厳。後に甥にあたる徳川光圀により、瑞龍山に葬られた』とある。

「母堂」(永禄七(一五六四)年?~天正十九年十月六日(一五九一年十一月二十一日))は以上に出る徳川家康側室「秋山夫人」で、通称「下山殿(しもやまどの)」。ウィキの「下山殿によれば、『名は都摩、津摩。秋山夫人とも称される』。『父は武田一門で家臣の秋山越前守』で、彼は江戸後期の「甲斐国志」に於いては『名を「虎康」としている』。「甲陽軍鑑」に『よれば、越前守は御一門衆・武田龍芳の家臣であったという。後に同族の穴山信君の養女となる。下山殿の由来は信君が甲斐国河内領の下山(身延町下山)に本拠である下山館を持っていたためであると考えられている』。天正一〇(一五八二)年、『穴山信君が織田氏に臣従した際に、織田氏と同盟関係にある三河国の徳川家康の側室とな』り、翌年、『家康の五男・万千代(武田信吉)を出産する。信吉は前の主君・武田信玄の娘で養父の正室である見性院の養子とした。良雲院と家康の間に生まれた家康三女の振姫の母も下山殿とする説もある』。『下総国小金にて死去。享年』二十八歳『(諸説あり)。戒名は長慶院殿天誉寿清大姉』。『同国平賀(現・千葉県松戸市平賀)の本土寺に葬られ』たとある

。因みに、脚注に「徳川幕府家譜」では『「武田信玄の六女」とする説を採り上げている』ともある。]

譚海 卷之二 下總國小金領四乳の女の事

 

下總國小金領四乳の女の事

○下總國小金(こがね)領後平井(うしろひらゐ)と云(いふ)所に四乳の女有(あり)、百姓半平といふものの妻にて、音聲ことに大きく四鄰(しりん)へひびくほどに聞えたり。其兩乳は平人(へいじん)の如く付て、今一つのちぶさは其そばに小(ちいさ)くならびて付(つき)て有、双々橫に付て四つながら乳汁出るといへり。

[やぶちゃん注:副乳(ふくにゅう)である。ウィキの「副乳によれば、『乳腺堤(脇の下、通常の乳頭、股を通るライン)にある乳房。女性の』五%、『男性の』二%『が副乳を持つといわれている。副乳は乳である故に稀に母乳が出る事例もある』。『そもそも一般的に人間の乳房の数は』一『対(左右に』一『つずつ)とされているが、複数対の乳房を有する哺乳類もおり、さらには個体によってその対数が異なるケースも存在する。元来』、『哺乳類では乳房は前足の腋の下から後ろ足の間、恥骨に続く弓状の線(乳腺堤と呼ばれる)上に形成される位置があり、この線上のどの対が発達するかは動物の種によって決まっている。しかし、それ以外の部分も乳房に発達する要素は持っているのであるから、決してそれほど異常な現象ではない』。『目立たないため』、『ほくろ等と認識されることも多い。上記の線上に対になったほくろがある場合、これを疑ってもよい。脇の下近くに出る例が多いようである。女性が妊娠時に脇の下に違和感を覚え、その存在に初めて気が付くことがしばしばある。退化した乳房であるため、外から見て分かる乳首を備えることは少ない。まれに少し発達して膨らみを生じる例もあ』り、『また、乳が出る例もある』。「五雑俎」と『いう中国の書には、周の文王には』四『つの乳があったとする説を載せている。また』、十七『世紀のイングランドで魔女狩りを推進していたマシュー・ホプキンスは副乳を魔女の証としてあげていたと言う』とある。私の中学・高校時代の同級生の男子は右脇の下の普通の乳と同一の高さの箇所にはっきりとした小さな乳首を持っているのを、体育の時間の着替えの際に実際に見せて呉れ、「医者からおっぱいが三つあると言われた」と言っていた。

「下總國小金領後平井」現在の千葉県流山市後平井(うしろひらい)。(グーグル・マップ・データ)。

「四乳」「しちち」と読んおく。

「双々」「さうさう(そうそう)」と読んでおく。それぞれ両方とも。]

譚海 卷之二 阿蘭陀通事西長十郞事

阿蘭陀通事西長十郞事

○紅毛(こうもう)通事に西長十郞と云(いふ)者あり。野州栃木領の者成(なり)しが、放蕩にて產を破り長崎まで浪牢(らうらう)せしが、生質(きしつ)器用成(なる)ものにて、阿蘭陀の言語をよくし、後々をらんだ通事西某といふものの弟子と成(なり)て、其氏(うじ)を名乘(なのる)ほどの者に成(なり)、通詞(つうじ)役の末席にも缺(かか)ざるほどの者にて有(あり)。每年おらんだ人江戶へ御禮(おんれい)に來(きた)る時は、長十郞も度々(たびたび)同行し、をらんだ人逗留の内に栃木へも立越(たちこし)、妻子にも年々對面せしと也。或年をらんだ人長崎の御暇(おいとま)相濟(あひすみ)出立(しゆつたつ)のせつ、いつも通詞の人計(ばかり)は船中まで送り行(ゆき)て、酒宴を催し別(わかれ)を敍する事なれば、例の如く諸通詞の者送り行(ゆき)、三里計(ばかり)沖に有(ある)をらんだ船まで行(ゆき)て、酒を酌(くみ)かはしたるに、おらんだ人殊の外悅び、年々各方(おのおのがた)の御引𢌞しにて御用無ㇾ滯(とどこほりなく)相勤め忝(かたじけなく)、此御禮には何にても御望(おのぞみ)の物本國より仕送(しおく)り遣(つかは)すべき由を申(まうし)けるに、みなみな種々の物を賴み遣しける中に、此長十郞戲(たはむれ)に申けるは、われら外に願ひはなけれども、御存じの如く、二三年に一度づつは江戶へ御同道し、逗留の内に在所へも罷越候(まかりこしさふらふ)て、妻子の安否をも問(とひ)侍りしが、我ら事(こと)近年間違(まちがひ)候て六年ほど江戶へ參らず、在所の安否もしれかね候、此(これ)のみ心にかゝり候、是(これ)を知(しり)たき外(ほか)願(ねがひ)はなく候と申ける時、をらんだ人聞(きき)て其安否をしられん事はいと安き事なれども、構(かまへ)て他言(たごん)ありてはならぬ事也といひければ、長十郞此安否しられ申(まうす)事ならば、如何樣(いかやう)の誓言(せいごん)にても立申(たてまうす)べしとて申(まうす)にまかせてちかひをたてける時、和蘭陀人さらばこゝは各方(おのおのがた)のみにて、隔心(へだてごころ)なき事なれば苦しからずとて、やがて大きなる瀨戶物の鉢をとりよせ、其内へ水をたゝへ、長十郞に申けるは、此内を目(ま)たゝきせず能(よく)見すまし居(を)らるべし、在所の安否おのづから知られ侍るべしといひければ、長十郞不思議に思ひながら鉢の内をみつめ居(をり)たれば、水中に栃木道中の景色出來(いでき)、再々(さいさい)其道を行(ゆく)に村舍(そんしや)林木(りんぼく)まで悉く見へければ、餘念なく面白く見入(みいり)たるに、終(つひ)に道中をへて我(わが)在所の門(かど)に至りぬ。門(かど)普請(ふしん)有(あり)て入(いり)がたき樣子なれば、我(わが)家(いへ)の垣の外に木のありたるに上(のぼ)りて、家の内を見入(みいり)たれば、女房縫針(ぬひばり)に精を入(いれ)てうつむき居(ゐ)たり。我(わが)方(かた)をみむくかと見とれて居(ゐ)たるに、漸(やや)半時斗(ばか)り過(すぎ)てぬひものを止(や)め、ふと我(わが)顏を見合(みあは)せたれば、うれしく物いはんとするに、女房も驚き詞(ことば)を出(いだ)さんとする時、此阿蘭陀人そのまゝ手を鉢の内へ入(いれ)、くるくると水をかきまはしたれば、在所の景もうせ、長十郞も正氣付(しやうきづ)たるやうにて首(かうべ)をあげ、扨(さて)も扨も今少し殘念なる事也(なり)、妻に逢(あひ)てものをいはんとせしに、水をかき𢌞し失はれし事、千萬(せんばん)殘(なご)り多き事也(なり)と申せしかば、其(その)事也(なり)、今そこにて詞(ことば)をかはさるれば、兩人の内に壹人(いちにん)命(いのち)をたもつ事あたはず、さるによりて詞をかはさんとせらるゝを見てとり、うしなひ進(しん)じたる也(なり)といへり。是(これ)紅毛人(こうもうじん)いか成(なる)術をもちて如ㇾ此(かくのごとき)事をなすや、今に怪(あやし)みにたへざる事也。後年(こうねん)長十郞江戶へ來りし序(ついで)、在所へ越(こし)右(みぎ)物語りをせしかば、女房申けるは、成程其の月日在所へをはして垣の外に居(ゐ)給ふをみて、詞をかけんとせしが、俄(にはか)に夕立(ゆうだち)降出(ふりいで)て見うしなひ侍りしといひけるよし、不思議成(な)る物語也(なり)。

[やぶちゃん注:これは以前、柴田宵曲 妖異博物館 「飯綱の法」の注で電子化している。宵曲のそれは幻術系統の話柄群をコンパクトに纏めたものなので、未読の方は参照されたい。

「我ら事近年間違候て」「間違」は職務上のミスのことか。刑事罰に処するほどのものではないが、御用に関わる有意に問題のある大失態であったことから、江戸への出張が六年も留め置かれたものか。

「隔心(へだてごころ)なき事なれば苦しからず」幻術(恐らくはかなり高度な催眠術)を用いた場合、それが上役である長崎奉行らに知れれば、バテレンが悪魔の術を用いるのを容認するどころか、こちらから望んだということが知れて、通事らは勿論、このオランダ人の所属する組織が日本との関係を絶たれることになる。「通事らの中にそうした告げ口をして、上役の覚え目出度きを求めるような卑怯な心の持ち主はいないことは私(このオランダ人)もよく承知していますから、よろしい! やって進ぜましょう!」の意。

「門普請有て」玄関の門の修理が行われていて。

「うしなひ進じたる也」(孰れかのお命に係わるものなればこそ)術で見えていたものを即座に消失させ申したのである。]

譚海 卷之二 蒔繪師筆の事

 

蒔繪師筆の事

○蒔繪師の用(もちひ)る漆筆は人髮也。但(ただし)關西の人の毛髮を用ゆ。關西の人の髮は細くして腰つよし。關東の人の髮は毛太くして腰よはき故(ゆゑ)用がたしとぞ。

[やぶちゃん注:「蒔繪」漆工芸の装飾法の一種。加飾しようとする面に漆で文様を描き、その上に金・銀・錫の粉末や色粉を蒔いて固めたもの。通常、漆地の上に施すが、木地その他にも応用される。奈良時代の末金鏤(まっきんる)は蒔絵の原初的な形と考えられているが、「まきゑ」の名が記録に現われ、作品としても残っているのは平安以後である。特に平安中期以降に貴族の間で流行し、寺院建築・家具調度・文房具などの装飾に応用されたが、時代が下るにつれ、武家や庶民の間にも広く愛用されるようになった。蒔絵の技法は工程上から研出(とぎだし)蒔絵・平蒔絵,・蒔絵の三種に大別され、粉の種類により、消粉(けしふん)蒔絵・平極(ひらぎめ)蒔絵・丸粉蒔絵(本蒔絵)の区別もある。また、文様以外の地に粉を蒔く塵地(平塵)・平目地・梨地・沃懸地(いかけじ)などの技法や、螺鈿・象眼(ぞうがん)・平文(ひょうもん)・彩漆(いろうるし)なども併用され、複雑な装飾文様が作られる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。]

譚海 卷之二 風顚といふ玉の事

風顚といふ玉の事

○風顚(ふうてん)と云(いふ)もの、蠻物(ばんぶつ)にて海鶴の胸骨也(なり)とぞ。下野(しもつけ)の秋谷其(その)印籠(いんろう)の緒(を)しめにせしをみしに、色はうすき黃にして、先にて一點まろき痕(あと)有(あり)。此まろき點至(いたつ)て赤く見(みゆる)事也(なり)。その餘はめだつ色にあらず。こはくよりは色淺く、少し黑色を得たり。

[やぶちゃん注:「風顚」不詳。叙述からは何かが封入されてしまった琥珀のように思われる。江戸時代から近代までは「瘋癲」で精神疾患や異常性格を意味したから、同じニュアンス、見かけない偏奇なものの謂いであろう(琥珀の中には希少なタイプのものは幾らもある)。「フーテンの寅」の定職に就かない流浪者の謂いは現代のものと思われるので、ここにはその意味はない。

「蠻物」南蛮渡来の品。

「海鶴」こういう漢名・和名の鶴及び鳥はいない。海を渡る鶴か。だったら、如何にも蓬莱山に渡りをする神仙の乗り物っぽく、風狂人が好んで騙されそうな代物とは思われる。

「下野(しもつけ)の秋谷」不詳。

「印籠」腰に下げる長円筒形の三重乃至は五重の携帯用の小匣(こばこ)。元は室町時代に印・印肉を入れていた容器であったが、江戸時代には薬を入れるようになった。表面に漆を塗り、蒔絵・螺鈿・堆朱(ついしゅ:朱漆を何回も塗り重ね、厚い層を作り、そこに文様を彫刻したもの。中国で剔紅(てきこう)と称して特に宋代以降に盛行、本邦には鎌倉時代に伝来して室町以降に国産での制作が始まったとされる)などの細工を施し、緒には緒締め・根付が附属する。]

2018/07/19

譚海 卷之二 おらんだ蟲めがねの事

 

おらんだ蟲めがねの事

○此比(このごろ)おらんだの蟲めがねをみたる人の語りしは、微妙の類(たぐひ)甚(はなはだ)分明にみゆる事奇妙なること也。蠅の背には總身に小蟲取つきてあり。つらかまちはゑぞ錦の如くうつくしきもの也。又あぶは殊におそろしきよし、上下の齒くひちがひて牙(きば)白く生ひて、口のあたりすべて螺毛(らもう)有(あり)、鼻上より尾に至るまで紫の筋一すぢ通りてあり、形の色は殘らずすゞ竹に鼠色也。又のみも恐しき形也。しらみはひらめの魚の如く也。酢を一滴落して目鏡(めがね)にて見たるに、酢の色ことごとく蟲にてうごめきいたるとぞ。物にかびの生(はえ)たるをみたるに、殘らず小き松茸也(なり)、亭々(ていてい)として高低をなして生(お)たりといへり。

[やぶちゃん注:明らかに、ただの虫眼鏡ではなく、相応な拡大率を持った顕微鏡であることが判る。ここまで来ると実体顕微鏡レベルのものでもなく、本格的なそれのように思われる。

「微妙」ここは「微細」の意。それも裸眼は勿論、所謂、虫眼鏡(ただの拡大鏡)でも見られない程度の微小である。

「蠅の背には總身に小蟲取つきてあり」これは寄生虫ではなく、蠅の体表を覆っている、微細な毛を誤認したものであろう。

「つらかまち」「輔」或いは「面框」などと書く。原義は頭部の上下の顎の骨・頰骨を指すが、そこから転じて「顔つき・面構(つらがま)え」の意となった。

「ゑぞ錦」「蝦夷錦」。「山丹服(さんたんふく)」とも呼ぶ。ウィキの「蝦夷錦によれば、『江戸時代にアイヌ民族が沿海州の民族との交易で入手した、雲竜(うんりゅう)などを織り出した中国産絹や清朝官服のことである』。『かつて、アイヌは北方のツングース系民族とも交流があり、彼らと山丹交易と呼ばれる交易を行っていた。ツングース系民族は大陸の中華王朝と交流があったため、中華王朝の物産がツングース民族を介してアイヌにも伝わった。その代表的な例が、蝦夷錦である』。『江戸時代、アイヌは松前藩の半支配下に置かれ、不平等な交易をさせられた。その交易の中で、中華王朝の清からツングース民族を介してアイヌにもたらされた満州風の錦の衣服が、松前藩にも伝わった。当時の参勤交代の際、松前藩主がその満州風の錦を着て将軍に謁見したところ、将軍は華美なその錦を大いに気に入った。以降、松前藩は錦を幕府に献上するようになった』。『その際、松前藩はこれが清からもたらされたものだということを知っていたが、それを隠して蝦夷錦と呼び、錦の輸入を独占した』。私も北海道の博物館で現物を見たが、非常に美しいものである。

「あぶ」「虻」。

「すゞ竹」「篶竹」。ここは篠竹と同じであろう。ここは色で薄くくすんだ緑色か。

「のみ」「蚤」。

「しらみ」「虱」。

「ひらめ」「鮃」。非常に腑に落ちる。

「酢を一滴落して目鏡(めがね)にて見たるに、酢の色ことごとく蟲にてうごめきいたるとぞ」これは酢ではなく、戸外の水溜りの一滴であろう。話し相手に「酢」と言えば、気持ち悪がるのを目当てにやらかしたのに違いない。

「かび」「黴」。

「小き松茸」これも腑に落ちる。

「亭々」樹木などが高く真っ直ぐに聳えているさま。同前。]

諸國里人談卷之四 不断櫻

 

    ○不断櫻(ふだんざくら)

伊勢國白子(しろこ)の寺家村(じけむら)觀音寺の堂の前に一木の櫻あり。四時(しいじ)に、花、開(さけ)けり。盛りの花のごとくにはあらず、葉がくれに、五、七輪の花、常に絶(たへ[やぶちゃん注:ママ。])ず。當寺は子安(こやすの)觀音と稱して、靈験、世に知る所なり。此御影(みゑい[やぶちゃん注:ママ。])を産所に安置すれば、必(かならず)、安産ならしむ。此寺家村一鄕は、孕(はらめ)る女、五月帶(いわたおび)をせざる事、むかしより今もつて、かはらず。

[やぶちゃん注:現在の三重県鈴鹿市寺家にある真言宗白子山(しろこざん)観音寺。(グーグル・マップ・データ)。本尊は白衣観世音菩薩。ウィキの「観音寺鈴鹿市寺家によれば、『聖武天皇の勅により、藤原不比等が建立したとされ』、天平勝宝三(七五一)年に道證上人が開山したとされる実に千二百五十年以上『続く寺院で、寺伝によると、本尊の白衣観世音菩薩が、当寺の東側にある鼓ヶ浦の海中より、鼓に乗って現れたといわれ、安産、子孫長久を守り、子安観音として、現在まで人々の信仰を集めている』。『称徳、正親町、後花園各天皇の絵画や、徳川御三家の安産祈願文等を所蔵している』。『天平宝字年中』(七五七年~七六五年)、『落雷で焼失した伽藍跡に、芽生えたといわれる不断櫻が』、一年中、『葉や花を咲かせて』おり、これは「白子不断櫻」として大正一二(一九二三)年に『国指定の天然記念物に指定され』た。一『年中花が咲いている不思議な桜として、江戸時代から有名で』、「伊勢参宮名所図会」(作者未詳・寛政九(一七九七)年刊)にも『紹介されている。真夏以外花を見ることができるが、満開状態ではなく、梢のあちこちに花が見られるものであり、葉の一部は真冬でも枝に残っている。花は白色、一重の五弁で、花の中央部が赤味を帯びている』とある。真冬にも開花することから、観音様の力が宿った霊木として信仰されてもきたという。また、この葉から同地方の伝統産業である「伊勢型紙」の模様が生まれたとされている。辞書には、四季を問わずに五弁の白い花をつけるサトザクラの一種(サトザクラはボタンザクラとも称し、バラ亜綱バラ目バラ科モモ亜科スモモ(サクラ)属サクラ亜属オオシマザクラPrunus lannesiana var.speciosa を主とし、これにサクラ属ヤマザクラ Cerasus jamasakura やサクラ属オオヤマザクラ Cerasus sargentii などが交雑したものなどから改良選出された、園芸品種の総称名)とある。画像はかなりあるが、伊勢型紙専門店おおすぎ公式サイト不断桜」をリンクさせておく。

「五月帶(いわたおび)」妊婦の妊娠五ヶ月目にあたる戌の日に安産を祈願して腹帯(はらおび)を巻く儀式「帯祝い(おびいわい)」のこと。この帯は「岩田帯」と呼ばれる。これをしないのは、既にこの観音の御加護があることを表明するものであろう。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(45) 社會組織(Ⅰ)

 

 社會組織

 

 故フイスク敎授は、其の著『世界論槪說』の中で、支那、古代埃及、古代アツシリアのそれのやうな社會に就いて、頗る興味深い敍述を試みてゐる。曰く『これ等の諸〻の社會が現代ヨオロツパの國家の姿に似てゐたことは、丁度石炭時代の沙羅木(ツタイフアアン)が現今の外方生樹(エキゾゼナス)の風態をしてゐたのと同一である、と私は考へるのであるが――かく言ふ場合、私は單に類推以上の事を語り、發達の徑路に關する限りに於ては、實際の同一關係を述べて居るのである』と。此の說が支那に關して、眞實であるとすれば、等しく日本にあてはめても眞實である。古代日本の社會の組織構成は、家族の組織構成――原始時代に於ける族長的家族の擴大されたものに外ならない。現代西歐の社會も、すべて族長的の狀態から發展し來たつたものである。ギリシヤ、ロオマ古い文化も、より小さい規模の上にではあるが、これと同樣にして建立されたものであつた。併しヨオロツパに於ける族長的家族は、既に數千年以前に、崩壞し去つて居た、氏族(gens)と種族(curia)とは分散し消滅して居た、本來分かれて居た諸階級は、融合するに至り、到る處、社會の全改造が徐に行はれ、その結果制的協同に代つて、任意的協同が行はれて來た。產業を主とする型の社會が發展して、國家的宗敎が古代の狹い一地の祭祀に取つて代つた。併し日本の社會は、現代に至る迄、一つの疑集した國體とはならず、氏族的狀態以上には發達しなかつた。日本の社會は、宗敎上にも行政上にも他と關係を持たない、幾多の氏族團體或は部族團體の團結の緩い集團たるに止まつてゐた。而して此大集團は、任意的協同に依らず制に依つて纏められて居たのであつた。明治時代に至るまで、又幾年か其後に及んでさへも、中央政府の强壓力が薄弱の徴候を見せた際には、社會は分裂して切れ切れに分散する傾向を示して居た。吾々は此の社會を、封建制度と呼んでも良からうと思ふ、併しそれは沙羅木が樹木に似て居るといふ意味に於てのみ、ヨオロツパの封建制度に似てゐると云へるのである。

 

[やぶちゃん注:「故フイスク教授」「其の著『世界論槪說』」アメリカの歴史家・哲学者であったジョン・フィスク(John Fiske 一八四二年~一九〇一年)は一八六五年にハーバード大学法学部を卒業後、ボストンで弁護士を開業したが、スペンサーの社会進化論に刺激を受け、一八七三年から翌年にかけてヨーロッパを訪問し、ダーウィン・スペンサーらに会った。帰国したその一八七四年に、ここに出る“ Outlines of Cosmic Philosophy (「宇宙哲学概説」)を刊行し、進化論哲学をアメリカに伝えた。一八八〇年以降の彼の関心はアメリカ合衆国史に移り、進化論の立場から、それを解釈した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)

「石炭時代」原文“Carboniferous period”(以下同じ)。石炭紀。古生代後半で、デボン紀の後、ペルム紀の前の時代。三億五千九百二十万年前から二億九千九百万年前までの時期。陸上ではシダ植物が発達し、昆虫や両生類が栄えた。

「沙羅木(ツタイフアアン)」“a tree fern”。「ツリー・フアァン」。木生羊歯(シダ)植物。

「外方生樹(エキゾゼナス)」“the exogenous trees”。「エクサァジネス・ツリー」。外生性植物。根、或いは、根のみではなく、植物体の茎や、そこからの分枝相当部分の、表皮、及び、その下層組織で細胞分裂をして、地上部の植物体の表面が盛り上がることで形成される植物群。ここは、現生に至る広汎な草本・木本類を指すと考えてよかろう。石炭紀の木生シダ類は代表的なリンボク(レピドデンドロン:ヒカゲノカズラ植物門 Lycopodiophyta (現生シダ類は現在、シダ植物門 Pteridophyta と本門を含める)ミズニラ(水韮)綱リンボク(鱗木)目リンボク科リンボク属 Lepidodendron)は木本様草体で樹高は四十メートル、幹は直径二メートルに達し、湿地帯に群生して大森林を形成した。] 

 

 先づ第一に、古代の日本社會の性質を、簡單に考へて見よう。其の起原となる單位は一家ではなくて、族長的家族である――換言すれば、それは同族(ゼンス)[やぶちゃん注:前に出た“gens”。]卽ち氏族(クラン)[やぶちゃん注:前に出た“clan”。]と云ふもので、同じ祖先から血統を引いて居るか若しくは共通の祖先崇拜――氏神の祭祀に依つて宗敎的に結び合つて居る幾百は幾千の人々の團體である。既に前に言つた通り、この種の族長的家族には二の階級がある、大氏卽ち大氏族、小氏卽ち小氏族と云ふのである。小氏は大氏から一分派したもので、前者は後者に從屬する。又それ故、小氏を結合した大氏の一團は、大略、ロオマの種族(キユリヤ)[やぶちゃん注:“curia”。「民団」などと訳す。]とか或はギリシヤの種族(フラトリ)[やぶちゃん注:“phratry”。「胞族」などと訳す。]に比べることが能きる[やぶちゃん注:「できる」。]。農奴或は奴隷の大集團は、諸〻の大氏に附屬して居たらしい。そしてこれ等奴隷の數は、極古い時期にあつてすら、氏族そのものの人數よりも多かつたらしい。これ等從屬の階級に與へられたいろいろな名は、服役の階級とその種類とを示してゐる。場所或は一地方に所屬することを示す品部(トモベ)、家族に所屬することを示す家部(ヤカベ)、圍ひ地或は領土に所屬することを示す民部(カキベ)等があるが、それよりももつと一般的なものは『民』[やぶちゃん注:tami”。「たみ」。]と云ふのである。之は昔の意義からすれば『寄食者』の意であろが、現今では英語の Folk  の意味に用ひられて居る。……人民の大多數が、服役の狀態に在り、從つて服役にもいろいろな種類のあった事は疑を容れない。スペンサア氏は、奴隷制度と農奴制度と云ふ言葉の差異を、通常それに伴なつて居る意味から、大體に區別することは、決して容易な事ではない事を指摘して居る[やぶちゃん注:底本では「指」は脱字。この原文の動詞部分は“pointed out”。平井呈一氏の訳も同じ。]。蓋し特に社會の初期の狀態に在つては、從屬階級の實狀は、特權と立法との事實に依るのではなくて、主人の性格と社會の發達の實狀とに依るのである。日本に於ける初期の制度を述べるに際しても、この差別を立てることに頗る困難である。吾々は古代の從屬階級の狀態に關して、今尙ほ知る所甚少いのである。が、併し當時に在つては實際只だ二個の大階級――多數の段階に分かたれて居た支配者の寡頭政治と、これ亦多數の段階に分かたれて居た從屬的人民と――が存在して居たと斷言して可い[やぶちゃん注:「よい」。]と考へる。奴隷は、顏其の他身體の或る部分に、彼等の所有者を示す記號を、文身[やぶちゃん注:「いれずみ」。]してゐた。近年に至る迄、この文身の制度は、薩摩地方に殘つてゐるらしい――其處では、記號は主として、手の上に施され、其の他多くの地方では、下層階級の人達は、一般に其の顏面に文身を施されて居たのである。古代にあつては、奴隷は家畜の如く賣買され、或は其所有主に依つて貢物として献納されたのであつた――この習慣は、古代の記錄の內にたえず記されてあつた。奴隷の團結は認許されなかつた、これはロオマ人の間に行はれ connubium と contuberniun との區別を想ひ起こさせる[やぶちゃん注:「connubium」平井呈一氏は後に丸括弧で『既婚者』、同じく「contuberniun」の後に『奴隷の既婚者』とする。]、【註】奴隷なる母と自由の人たる父との間に出來た兒達は、矢張り奴隷となされた。第七世紀に至り、私人の奴隷は國家の財產であると宣告され、當時の大多數の奴隷――殆ど全部――否、恐らくは全部――が解放された、が、其の全部は工匠か若しくは有益なる職業に從事して居た者であつた。次第に自由に解放された一大階級が出來て來たが、併し現代に至る迄、一般人民の大多數は、農奴に近き狀態に置かれてあつたらしい。大多數の者は確に姓を持つてゐなかつた、之は以前奴隷の境遇に在つた證據と考へられるのである。眞の奴隷は、其所有主の姓名を以て登錄され、少くとも上古にあつては、自分自身の祭祀を持つてゐなかつたらしい。明治時代以前にあつては、貴族、武士、醫者、敎師――恐らく二三の例外はこの外にあつたらしいが――のみが、姓名を名のることを許された。此の問題に關するなほ一つの奇妙なる事は、故シモンズ博士に依つて示されたものであるが、博士は隷屬階級の頭髮の蓄へ方を述べてゐるのである。足利將軍時代(紀元一三三四年)に至るまで、貴族、武士、神官、醫者を除いて、凡ての階級は、頭髮の大部分を剃り落して丁髷[やぶちゃん注:「ちよんまげ(ちょんまげ)」。]を着けたが、この頭髮の恰好を奴頭[やぶちゃん注:“yakko-atama”「やつこあたま(やっこあたま)」。]或は奴隷頭[やぶちゃん注:“dorei-atama”「どれいあたま」。]と呼んでゐる――この言葉は卽ち『奴隷の頭』の意味で、此習俗の隷屬時代に發生したことを示してゐる。

[やぶちゃん注:「足利將軍時代(紀元一三三四年)に至るまで」ママ。原文も“Up to the time the time of the Ashikaga shogunate (1334 a.d.)”である。まあ、南北朝から室町に含めるのは、大観として目を瞑るとして、後の「に至るまで」(原文は確かにそうであるが)は如何にもヘンである。平井呈一氏は『になると』と訳しておられる。]

 

註 六四五年代に、この問題に關して光德天皇は、次に揭げる如き勅令を發布した。――

『男子及び婦人に關する法律は次の如し、自由人たる父母の間に生まれたる兒は、其父に屬せしむ、自由人の父が、奴隷なる婦人を娶りて儲けたる兒は、其母に屬せしむ、自由人の婦人が、奴隷なる男子に嫁して儲けたる兒は、其父に屬せしむ。若しその二人が、二家の奴隷たらば、其兒は其母に屬せしむ。寺院の奴隷に生まれたる兒は、自由人に對する規則に從はしむ。その他奴隷となりたる者に在りては、奴隷に關する規則に從つて、取扱はる可きものなり』――アストン譯『日本紀』第二卷、二〇二頁

又男女之法者。良男(ヲホミタカラヲノコ)良女共所ㇾ生子(ウメラム)。配(ツ)ケヨ其父(カフ)。若良男娶(マ)ヒテㇾ婢(メノヤツコ)所生。配其母。若良女嫁(トツ)ギテ奴(ヲノヤツコ)所生子。配其父。若兩奴婢所ㇾ生子。配其母。若寺仕丁(ツカヘ)之子者。如良人(オホミタカラ)。若別奴婢者。如。――『日本書紀』孝德天皇紀。

[やぶちゃん注:「娶(マ)ヒテ」の箇所は印刷が悪く、よく判らぬ。「マクヒテ」(枕ふ:共寝する。結婚する)の脱字か。「日本書紀」の孝徳天皇大化元(六四五)年「八月庚子」の条を改めて示す。

   *

又男女之法者。良男良女共所生子配其父。若良男娶婢所生子配其母。若良女嫁奴所生子配其父。若兩家奴婢所生子配其母。若寺家仕丁之子者。如良人法。若別入奴婢法。如奴婢法。今克見人爲制之始。

   *

平井呈一氏が訓読して引いておられるのを参考に(一部、歴史的仮名遣におかしなところがあるので、そこは従っていない)、以下に私の訓読文を示す。

   *

又、男女(をのこめのこ)の法(のり)は、良男(おほみたからのをのこ)・良女(おほみたからのめのこ)、共(とも)に生めらむ子は、其の父(かぞ)に配(つ)けよ。若し、良男、婢(めのみやつこ)を娶(めと)りて生めらむ子は、其の母に配けよ。若し、良女、奴(をのやつこ)に嫁(とつ)ぎて生めらむ子は、其の父に配けよ。若し、兩(ふた)つの家(いへ)の奴-婢(やつこ)の生めらむ子は、其の母に配けよ。若し、寺-家(てら)の仕丁(つかへのよぼろ)[やぶちゃん注:全国の農民から五十戸に二人の割合で選抜され、中央官庁他で、三年間、雑役に従事した者。]の子は、良人(おほみたから)の法(のり)のごとくせよ。若し、別(こと)奴婢(やつこ)に入れらば、奴婢の法(のり)のごとくせよ。今、克(よ)く、人に制(のり)を爲(つく)るの始(はじめ)を見(しめ)す、と。

   *]

「神國日本」に出る『マハアヤアナ哲學概論』(黒田真洞著)判明

T氏の御教授により小泉八雲「神國日本」に出る『マハアヤアナ哲學概論』(黒田真洞著)が判明した。注に追記したので、過去記事の「大乘佛教」(Ⅱ)及び(Ⅲ)を再見されたい。

2018/07/18

「マハアヤアナ哲學概論」とその作者について情報提供により判明

いつもお世話になっているT氏の情報提供で、小泉八雲の「神國日本」に出る、不明としていた「マハアヤアナ哲學概論」とその著者が判明した。軽々に出来ぬ仕儀なので、明日、追記をすることとした。心からT氏に感謝申し上げる。

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 スズメダイ (イシダイの若年個体か)

 

Suzumedai

 

スヾメダイ

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。本図は本巻子本の中でも最小クラスの図で、縦幅は巻子の貼り付け範囲の四分の一しかない。

 さて、キャプションであるが、当初、ぱっと見で「ハヾメダイ」に見えたのだが、どうも聴き慣れない。ネットでクマノミ類を「ハバメダイの仲間」と言っている記事を見つけたが、こりゃ、どう見てもスズメダイのミス・タイプだ(クマノミ亜科クマノミ属 Amphiprion はスズキ目スズメダイ科)。そこで画像を最大に拡大して調べてみた。最初の一字を「ス」と判読したいのだが、肝心の上部と上部中央が完全に虫喰いにあっていて困ったしかし、栗本丹洲の場合、本巻子本の別の箇所の「ハ」の第一画(左払い)を見ると、孰れも一様に、まず、右方向に筆をごく僅かに落として引いた後、さっと短く払っていることが現認出来た。ところが、本字の左払いはそうした動きが見られず、非常にしなやかな曲線を描いて左に長く払われてあることが判った。また、同様に調べてみると、彼の「ス」にも、やはり特色があり、第二画の右払いを第一画から有意に離して打ち、間が有意に空いていることも判った。されば、これは「ハ」ではなく「ス」であると私は断じ、これを「スヾメダイ」と判読した。

 しかし、問題は同定である。図が小さいのは、魚体も小さいと考えてよい。如何にもくすんだ色合いで黒っぽく見え、横縞がはっきり判る。名称のスズメダイは種としており、スズキ目スズキ亜目スズメダイ科スズメダイ亜科スズメダイ属スズメダイ Chromis notatus notatus であるが、黑っぽいのは合致するものの、このような有意な縞はないし、側扁するものの、この図よりももっとふっくらとしていて全体が丸みを帯びていて、どうもピンとこない。縦縞で頭に浮かんだのは、

スズキ目スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus の幼魚・若年個体

である。黒白のくっきりとした模様を思い浮かべる方も多かろうが、個体差・年齢差があって、必ずしも、くっきりラインを示さないものも実際に結構いる。WEB図鑑」の「イシダイ」個体を見られたい。]

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(44) 大乘佛敎(Ⅲ) / 大乘佛敎~了


 佛敎の說に從へば、佛陀の外に實在するものなく、其の他の一切のものは業に過ぎぬ。一個の生命、一個の自我あるのみ、人間の個性、及び人格と云ふも、必竟自我の現象に他ならぬ。物質は業であり、精神も業である――卽ち吾人の知る精神はさうである。業報はその像を現はす時、集合の一體と質とを表はし、その無形の名のを現はす時、性格と傾向とを表はす。本源的實體――一元論者の『分かつ可からざる
原質(プロタイル)』に相應するもの――は五個の要素から成り立つて居り、此の要素は、神祕的に五體の佛陀に合致せしめられ、それが又一體の佛陀の五相に過ぎないとされて居る。此の本源の實體に關する思想は、當然宇宙を感性あるものと見る思想とに關係を持つて居る。物質は又生きてゐるのである。

[やぶちゃん注:『分かつ可からざる(プロタイル)原質』「プロタイル」は「分かつ可からざる」に振られたように見えるルビであるが、原文では(左の「242」ページの中央やや下)、“protyle”であり、これは、化学用語で「(仮想された原始物質としての)原質」の意味であるから、「分かつ可からざる原質」全体に振られるべきルビであるので、敢えて位置を変えた。

 さてドイツの一元論者にとつても亦、物質は生命あるものである。ヘッケルは、「微分子と雖も感覺と意志の元始的なる形をもつて居る――更に適切に云へば、感情aesthesis)と向き方(tropesisとをもつて居るものである――卽ち、尤も單純なる類の遍在的心靈をもつて居る。』 と云ふ確信の基礎を、細胞生理學の現象の上に置く事を主張して居る。次にヘッケルの『宇宙の謎』から、ヴオグトや其他の人々に依つて主張される、實體の一元論的思想を語る章句を引用して掲げて見よう――

[やぶちゃん注:「ヘッケルの『宇宙の謎』」ヘッケル晩年の自然哲学の代表作“ Die Welträtse (一八八九年刊)。今年に入って、栗原古城訳版(大正六(一九一七)年刊・PDF縦書版)がサイト「科学図書館」で公開されており、全文が読める。それで示すと、以下の引用は「第十二章 本質の法則」の「本質に関する凝集的の解釈」(208ページ)の一節である。

「感情(aesthesis)」音写すると「アスティセス」。「刺激に対する直接的で基本的な認知」の意。

「向き方(tropesis)」「トロピィセス」。「傾向・動向」の意。

「ヴオグト」ヨハン・グスタフ・フォークト(Johann Gustav Vogt 一八四三年~一九二〇年)はイタリアのフィレンツェ生まれの博物学者。先の『宇宙の謎』の訳本の引用部分の次の段落で、実は以下の説が、ヘッケルのものというより、ヘッケルが賛同するフォークトの説であることが判る。引用しておく。

   *

 J・G・フォークト(J. G. Vogt)が説いた此学説に対しては、私はこれ以上精細に此処(ここ)に述べることが出来ぬ。されば尚お詳細のことを知り度(た)い読者は、 前述のフォークト(Vogt)の著述の第二巻の方に、 此難しい理論が通俗に解説してあるから、直接それに付いて見られんことを希望する。私はフォークト(Vogt)の此説について、其可否を明言し得る程、物理学や数学の造詣が無いけれども、自然の一致を確信せる生物学者としての立場から云えば、今日の物理学に於て一般に採用されている振動説よりも、此凝集説の方が、より多く信用出来るように思われるのである。フォークト(Vogtが此密集の順序を説くのには、普通の運動の現象と矛盾したところがあった為めに、或は誤解を生ずる虞(おそれ)があるかも知れぬ。併(しか)しながら彼は振動運動と云うことを、物理学者の言うような意味に於て説いたのであると云うことは、是非とも記憶して置かねばならない。彼の凝集の仮説は、矢張(やは)り振動の仮説のように、本質の運動と云うような意味なのである。唯此両個の仮説に於て相違する点は、運動の種類及び其運動的要素に対する関係に存する。されば此凝集説と衝突するのは、決して振動説全部ではないが、併(しか)し其の重要なる部分なのである。

   *

 なお、底本は引用の後に改行して、すぐ本文が続くが、一行空けた。 

 

 『實體に關する二個の基本的形態、秤量し得べき物質とエエテルとは、決して死滅するものでなく、單に外來的力に依つてのみ動かされて居る、併しそれ等は(當然、最小の程度に於てではあるが)感覺と意志とを附與されて居るのである、それ等は凝縮の傾向と、緊張の嫌惡を體驗する、卽ちそれ等は前者を求め、後者と抗爭する』

 シユナイダアの說いた極めて有り得べき假定說――感性は一種の結合の形成と共に始まるといふ事――感情は、恰も有機體が無機體から展開し來る如くに、無感情より展開し來るものであるといふ說は、昔の鍊金術師の夢想の復活よりもたよりないものである。併し斯樣な一元的思想は、物質を觀ずるに、完うされたる業とする佛敎の敎と、驚くなかり合一するのである。それ故にこれ等兩思想は、此處に竝べて論ずる價値があるのである。佛敎の考察に依れば、一切の物質は有情である――有情卽ち感性は事情に從つて變化する、日本の佛教の經文は『岩や石たりとも、佛陀を禮拜することが能きる[やぶちゃん注:「できる」。]』と敎へる。ヘツケル敎授一派のドイツの一元論者に依れば、微分子の特性と親和性とは。感情と向き方、卽ち『尤も單鈍なる心靈』を表はして居る、佛敎に於ては、これ等の性質は業から生まれる――卽ち、これ等の性質は、[やぶちゃん注:ここは、底本では、空白であるが、特異的に読点を打った。]先在の狀態から生まれた傾向を表はすものである。此の兩假定說は非常に近似してゐるやうに見える。併し西歐の一元論と東洋の一元論との間には、非常に重大なる相違がある。西歐の一元論は、微分子の性質を、單に遺傳の一種さ無限の過去を通じて作用し來たつた偶然の影響の下に、發展したる固執力强き傾向――に歸して居る。東洋の一元論は、微分子の歷史を以て、純なる道德であると云つて居る! 佛敎に從へば、一切の物質は、其の固有の傾向に依り、苦樂、善惡の方に向ふ有情の綜合である。『マハアヤアナ哲學槪論』の著者は恁う云つて居る。『不鈍の行爲は不純の土地を生み、純なる行動は、宇宙の各方面に、純なる土地をもたらす』と。換言すれば、道德的行爲の力に依つて完成されたる物質は、遂に幸多き世界を建設するに至る、これと反對に、不純なる行爲の力によつて、形成されたる物質は、不幸な世界を作るに至るといふのである。一切の實體は、一切の精神の如く、その業を有つて居る。遊星は、人間の如く、行爲と思考との創造力に依り形成せられる。而して各微分子は、その內に潜んで居る道德的若しくは不道德的なる傾向に從ひ、晩かれ早かれ、其の行く可き場所に落ち着くのである。人間の行爲思想の善惡は、ただにその來世に影響を及ぼすのみならず、無數の幾萬年の周紀の後、再び住まなければならない世界の性質に何等かの影響を與へるのである。勿論、此の壯大な思想は 現代の進化哲學中には、何等これに近似するものを有つては居ない。スペンサア氏の立場は、よく知られてゐるが、私は佛敎思想と科學思想との對照を强く示すために、氏の言葉を引用しなければならない、――

[やぶちゃん注:「シユナイダア」不詳。ドイツの進化論的心理学者ゲオルグ・ハインリヒ・シュナイダー(Georg Heinrich Schneider  一七四一年~一八〇一年)か?

「『マハアヤアナ哲學槪論』の著者」既出で既注の通り、著者も書誌も不詳。改めて、識者の御教授を乞うておく。【2018年7月19日:追記】既にに追加注した通り、何時も種々私の電子テクスト注の疑問や誤謬について情報や補正指摘を頂戴しているT氏の御教授により、これは浄土宗の僧で、仏教学者であった黒田真洞(くろだしんとう 安政二(一八五五)年~大正五(一九一六)年)が明治二六(一八九三)年九月に「シカゴ万国博覧会」の一部として開かれた「万国宗教会議」で配布したOutlines of The Mabâyâna as Taught by Buddha(「大乗仏教大意」)であることが判明した(詳しくは注追記を必ず参照されたい)。ここの小泉八雲の引用原文は、

   *

bring forth the Pure Lands of all the quarters of the universe ;  while impure deeds produce the Impure Lands.

   *

で、T氏の御教授によって、これは“ Outlines of The Mabâyâna as Taught by Buddha の、

CHAPTER IV.  Pure and impure causes and conditions.

からの省略引用であることが判明した。原文は、

   *

Pure actions bring forth the Pure Lands of all the quarters of the universe (lands produced by the pure mind)  and the sages of “Triyâna”; while impure deeds produce the Impure Lands everywhere (lands produced by impure mind)  and good or bad results. Where there are actions there are corresponding results ;  and as the varieties of actions are innumerable, so are the fruits infinite.

   *

である。日本語は「四 緣」のこちらを参照されたい(国立国会図書館デジタルコレクション)。最後に再び、御教授戴いたT氏に謝意を表するものである。]

 

 『吾人は、星雲の凝縮に關しての倫理も、恆星の運動に關しての倫理も、將又遊星の進化に關しての倫理も有つては居ない、かくの如き考へは無機體とは無關係のものである。又有機體を見ても、倫理が植物の生命の現象に何等關係のある事を認めない、よし生存競爭に於ける成功と失敗とに至らしめるものとして、それを植物の優秀なるものと劣等なるものとに歸しはするが、吾々は決してそれを、賞又は非難の點とはしない。倫理の問題が生ずるのは、動物界に有情が發生してのことである』――『倫理の原則』第二卷三二六頁

 

 これに反して、佛敎は、スペンサア氏の言葉を藉りて言へば、『星雲凝縮の倫理』とでも言つて然るべきものを、事實敎へる、――よし佛敎の星學では、『星雲凝縮』と云ふ言葉の科學的意味は少しも知らなかつたのでありはするが。勿論、この假說は、證明反證共に遠く人智の及ばざるものである。併しそれは宇宙の純なる道德的秩序を闡明し、人間行爲の瑣事にも、殆ど無限の結果を關係させてゐるのが面白い。古代の佛敎の形而上學者が、近代化學の眞實を知つてゐたならば、彼等は驚く程巧みに、その敎義を化學的事實の解釋說明に應用したことであつたらうと思ふ。彼等は、微分子の活動の說明にも、分子の親和の說明にも、エエテル震動の說明にも、業の理論をひつさげて、頗る面白く恐怖すべきほどに、これを用ひたであらう……。此處に暗示の世界が在る――最も不思議な暗示の――蓋し何人でも新宗敎を作る試驗を、敢てなし得る人若しくは爲さんと欲する人、或は少くとも無限の世界に於ける道德的秩序といふ考へに基礎を置いた鍊金術の廣大なる新體系を作らんとする人に取つては、これは暗示の世界である。

 併し大乘佛敎に於ける業の形而上學は、微分子の結合に關する鍊金術上の假說よりも、更に理解し難いものを多くもつて居る。通俗佛敎の敎へるところに依れば、再生の敎義は至極簡單である――輪𢌞と同意味で、人は過去に於て、既に何百萬遍も生まれて居たのであり、同樣に未來にも亦、多分何百萬遍となく再生するであらう――再生する度每の境遇は一つに過去の行ひにかかつてゐる。一般人の考へる所に依れば、此の世に肉體を消して、尙ほ若干期間滯留して後、靈魂は次に生まれる場所へと導かれる。人々は勿論心靈を信じて居るのである。併し大乘佛敎の教義は輪𢌞を否定したり、心靈の存在を否定したり、人格を否定したりして、如上の事は全然その內に見當たらない。再生すべき自我もなければ、輪𢌞もない――併しそれにも拘らず再生はある! 苦しみ若しくは喜ぶ眞の『我』はない――しかも受けるべき新たなる苦しみ、得らるべき新たなる幸福はある! 吾々が自我――個性的意識――と呼ぶ名のは、肉體の死と共に分散する、併し生存中に形戌せられた業は、新しい肉體及び新しい意識の組織完成を行ふ。若し生存中に苦しいことがあれば、それは前世の行ひの報いである――併し前世の行爲の實行者は、現世の我と同一人ではない。然らば、他人の過失に對して現世の我は責任をもつのであるか?

 佛敎の形而上學者は、恁う答へる『そは君の疑問の形式が間違つて居る。君は個性の存在を假定して居るが――個性といふものはないからである。君の問ふやうな「現世の我」と云ふ如きそんな個人は、實は無いのである。苦難と云ふは、事實先在した或る一個の存在か、または多くの存在が犯した罪の結果である、併し個性が無いのであるから、他人の行爲に對する責任はない筈である。轉變無常の生の連鎖の中で、嘗て昔の「我」と現在の「我」とは、行爲と思想とによつて創造されたる一時的の總和を表はして居るのである。そして苦痛は質から生まれ出る事情としての總體に屬するものである』と。此の答へは、全く漠然としてゐる、眞の理論を知らうと思へば、非常に困難な事であるが、個性の槪念を排除しなければならない。連續的に生まれ代るといふことは、普通の意味に於ける輪𢌞を意味しない、それは只だ業の自己傳播を意味するのみである。若し生物學上の言葉を藉りるならば――靈の發芽とでも云ふものに依つて、或る狀態の恆久に積み重ねられると云ふことを意味する。佛敎的の說明に、併しこれを譬へれば、一個のラムプの心から他のラムプの心へと燃え移つて行く炎の如きものである。かくして一百のラムプは一個の炎に依つて點される。そしてその間の炎はみな異つて居る、しかも其の本源は同一の炎である。各轉變無常の生命の空虛な炎の中に、只だ一つの實體の部分のみが包藏されてゐるのである。併しそれは輪𢌞する心靈ではない。生誕の度每に顏を出すのは、業――性質或は境遇――のみである。

 如何にしてかかる敎義が、少しでも道德上の影響を起こし得るかとは、當然發生すべき疑問である。未來が私の業に依つて、形成せられるとして、その未來は決して私の現在の自我とは同一ではないとすれば――また未來の意識が私の業に依つて展開されるとして、その未來が本質的に私とは別の意識であるとすれば、――どうして私は未だ生まれざる人間の苦痛を、考慮するやうに感じられ得よう。佛敎徒は答へて言ふ。『君の疑問は今度も亦間違つてゐる。此の敎義を理解しようといふには、君は個性の槪念を脫却しなければならぬ。そして個人を考へずに、感情と意識とのつぎつぎの各狀態は、互に其の次の發芽の原となり、生存の鎖は相互に結合されて居る――其狀態を考へなければならぬ。』 と……。私は今一つの說明を試みる事にする。一切の人間は、吾々が此の言葉を解する限りでは、絶えず變化して行くものである。肉體の各構造は、不斷の消粍と修理とを受けて居る。從つて此の瞬間の君の身體は、其の本質に於て、君の十年以前の身體とは同一でない。生理上から云つて、君は同一人ではないのである、それにも拘らず、君は同じ苦痛を嘗め、同じ快樂を味ひ、同一條件に依つて、其の力を制限されて居るのである。君の體內で、如何なる分解、如何なる改造が、其の組織の上に行はれようとも、君は十年以前の特性と等しき、肉體上竝びに精神上の特性を持つてゐるのである。君の腦細胞は、分解されたり、改造されたりして居る。が、しかも尙ほ君は同一情緖を經驗し、同一の追憶を囘想し、同一の思想を思惟する。到る處で、新鮮な實體は、換へられたもとの實體の性質と傾向とをとつて居る。かくの如か事情の固執してつき纏つて行くのが業に似てゐる。總體は變化しても、傾向の傳達は殘つて居る。――

 以上佛敎の形而上學の奇異なる世界を除いた、二三の瞥見はこれだけで十分であらう、大乘佛敎(多く論議されて、しかも理解さるれこと少き涅槃の敎義はこの內にある)が抽象的思念を作る事の殆ど出來ない幾百萬人の宗敎――宗敎的進化の比較的初期に於ける民衆の宗敎となり得なかつた事を、聰明なる諸君に納得せしめるに十分であつたらうと私は信じる。それは全然人々に理解されなかつた。又今日でも尙ほ人々に、敎へられては居ない。それは形而上學者の宗敎であり、學者の宗敎であり、哲學的に訓練されたる或る種の人々にとつてさへも、了解するに困難なる宗敎であるがために、それが全然否定の宗敎であると誤解されたのも無理のない事である。讀者諸君は今や個性ある神、靈魂の不滅、死後に於ける個性の存續等を否定するからと云つて、其の人を――特にその人が東洋人であつた場合――無宗敎の人と呼ぶのは當を得た事でないといふ事を了知し得たであらう。宇宙の道德的秩序、未來に對する現在の倫理的責任、一々の思想と行爲との無量の結果、惡の究極の絕滅、無限の記憶と無窮の幻想との境界に到達する力、等を信仰する日本の學者は、偏執か無智なる者の外、これを呼んで無神論者とか唯物論者とかと云ふ事はできない。日本の宗敎と、吾々西洋の宗敎との差異は、思想の象徴と樣式とに關する限り、如何に深大であるにしても。兩者が到達する道德的結論は、殆ど同一なるものである。

[やぶちゃん注:この最終章は、特異的に、小泉八雲の謂わんとする核心を理解するのに――私は――甚だ難渋した。部分的には、よく判らない箇所を無意識に判ったと思い込んでいる可能性もある。向後も、この章は――私にとって――聊か難物――であり続けるであろう。]

諸國里人談卷之四 ㊇生植部 曽根松

 

   ㊇生植部(せいちよくのぶ)

    ○曽根松(そねのまつ)

播磨國印南郡(いなみのこほり)曽根村にあり。天滿宮の神木也。相傳ふ、菅公(かんこう)、筑紫(つくし)へ赴き給ふ時、此地に寓(ぐう)し給ひ、此所に小松を植られ、邪正榮枯(じやしやうゑいこ[やぶちゃん注:ママ。])を誓ひ給ふとなり。其松、枝葉(しやう)さかえて、今、扶桑一の名木となる。

 高一丈三尺

 周(まは)一丈八尺

 乾(いぬい[やぶちゃん注:ママ。])より巽(うしとら[やぶちゃん注:ママ。])へ指(さし) 七丈

 艮(たつみ[やぶちゃん注:ママ。])より坤(ひつじさる)へ徑(わた) 十一丈

 這(はふ)枝毎に杖にす。其數、百五十八本。

[やぶちゃん注:後半部分は原典では全体が一字下げで概ね一字分空欄を挟んで連続しているが、ブラウザの不具合を考えて、各条で改行して一字下げて示した。また、パート標題は①の巻頭にあるルビを採用した。③には「うへほくのぶ」(判読に自信はない)というようなわけの判らぬルビがあるが、採らない。意味は「植物の部」の意でよい。現在の兵庫県高砂市曽根にある曽根天満宮にあった菅原道真の手植えとされる霊松「曽根の松」。ウィキの「曽根天満宮によれば、同天満宮の創建年代は不詳であるが、社伝では延喜元(九〇一)年、『菅原道真が大宰府に左遷される途上に伊保の港からここに上陸し、「我に罪なくば栄えよ」と松を手植えしたとされ、後に播磨国に流罪となった子の菅原淳茂が創建したものと伝えられている』とある。「曽根の松」の初代は寛政一〇(一七九八)年)『に枯死したとされ』、一七〇〇『年代初期に地元の庄屋が作らせた』約十分の一の『模型が保存されており、往時の様子を知ることができる。天明年間に手植えの松から実生した二代目の松は』、大正一三(一九二四)年に『国の天然記念物に指定されたが』、昭和二七(一九五二)年に枯死し、『現在は五代目である。枯死した松の幹が霊松殿に保存されている』とある。本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、未だ初代(と伝えるもの)が現存していたことになる。

「邪正榮枯」前の引用にある通り、「我に邪(よこしま)なるものありとせば、枯れよ。我、正しきとならば、栄えよ」という起誓を言っている。

「高サ一丈三尺」高さ、約三メートル九十四センチメートル。

「周(まは)リ一丈八尺」松の廻り、約四メートル八十八センチメートル。これは根回りであろう。

「乾(いぬい[やぶちゃん注:ママ。])より巽(うしとら[やぶちゃん注:ママ。])へ指(さし)テ 七丈」「乾」(いぬゐ)は北西、「巽」は「たつみ」で南西(漢字を正しいと採る)で、「七丈」は約二十一メートル二十一センチメートル。

「艮(たつみ[やぶちゃん注:ママ。])より坤(ひつじさる)へ徑(わた)リ 十一丈」同前で北東から南西に向けて三十三メートル三十三センチメートル。

「這(はふ)枝毎に杖にす」これは匍匐する枝を支えるために、枝ごとに支えの「杖」=支柱を小まめに配したことを指すのであろう。名所図会等の古い絵図をみると、事実、そうした支えの柱が何本も立てられているのが判る。]

諸國里人談卷之四 龍穴

 

    ○龍穴

 

信州安曇郡(あづみこほり)の山中、嶋々(しましま)といふ里の山岸(〔やま〕ぎし)、水神の社(やしろ)の下に、大きなる穴あり。其裾(すそ)を梓川【善光寺の犀川の水上也。】と云〔いふ〕大河流れたり。此川、水、派(わかれ)て、此穴に入〔いり〕、水末(みづすへ[やぶちゃん注:ママ。])、いづこといふ事を、しらず。

里俗に云(いふ)、「近世、强勢(がふせい)のものあつて、『その奧をはかり見ん』と、炬火(たいまつ)を以て水の涸(かれ)たる時、此穴に入〔いり〕て、凡(およそ)三町ばかりも行〔ゆき〕たるに、しきりに腥(なまぎさ)き風、ふき來て、松明(たいまつ)を消したり。何となく怖しかりければ、逃(にぐ)る心にして立歸(〔たち〕かへ)りける、となり。

[やぶちゃん注:「信州安曇郡の山中、嶋々といふ里」現在の長野県松本市安曇島々(あづみしましま)。(グーグル・マップ・データ)。上高地への入口。

「水神の社の下に、大きなる穴あり」同地区にある、島々神社であろう(前のグーグル・マップ・データを参照)。個人ブログ「乗鞍高原カフェ&バー スプリングバンクの日記「島々神社」の歴史探索ツアーに、この神社は『信仰の山だった「乗鞍岳」にある古の「龍神伝説」の一部分だとか』伝えられ、『乗鞍岳には龍が住んでいて、頭は乗鞍岳の権現池、心臓は乗鞍高原の御池の社(やしろ)、胴体がこの松本平周辺、そして』『尻尾が諏訪神社にあるらしい』とあり、明白に龍神=水神信仰とリンクしている伝承があるからである。現在の同神社下に「大きなる穴」があるかどうかは不明であるが、この一帯は北アルプスの地下水によって生じた冷風が、ガラ場の地下を通って、地上に出る「風穴」が多く存在しているから、その一つを指しているのかも知れない。

「三町」約三百二十七メートル。]

諸國里人談卷之四 龍池

 

    ○龍池(りうち)

相州江之嶋窟(いはや)のひがしの方に、穴あり。海際(うみぎは)なるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、打浪、くだんの穴に入〔いり〕て、その水、戾らず。此所、弁天出現の所と云〔いへ〕。○此島の磯に「福石(ふくいし)」といふあり。此石の前にて錢(ぜに)あるひは貝類を拾へば、かならず、福(さひはひ)をうると云〔いふ〕。又、傍(かたはら)に「蛙石(かへるいし)」あり。形、相似〔あひに〕たり。

[やぶちゃん注:私の新編鎌倉志卷之六の掉尾の「江島」(えのしま)の本文及び私の注を参照されたい。私の撮った写真もある。同じく私の鎌倉攬勝考卷之十一附錄の冒頭も参考になろう。それら以上に私は言い添えることはない。]

諸國里人談卷之四 櫻が池

 

     ○櫻が池

備後(びんごの)阿闍梨皇圓は源空上人の師にて、比叡山にありて、その頃の明匠、一山の雄才なりける。皇圓曰、「長壽は蛇身にしかず。吾、蛇身となりて彌勒の出世を待(まつ)べし。遠州『櫻が池』はその深き事をきく。これに住(すま)ん」と、臨終の時、此池の水を掬(きく)す。其時、池水、大きに騷ぐ。皇圓入寂と同時なりとぞ。今に至(いたつ)て閑夜には、鈴(れい)の音、池の邊(ほとり)にきこゆると云〔いへ〕り。此池は遠江國笠原庄櫻村に男池(おいけ)・女池(めいけ)とて、方五町ばかりの池、二つあり。「櫻が池」と云。池の社(やしろ)は牛頭(ごづ)天王なり。每年八月彼岸の中日午の刻に、半切桶(はんきりおけ)に赤飯を盛りて、水鍊(すいれん)の達者なるもの、これを押行(おしゆく)。池の眞中(まんなか)とおもふ所にて、押(おし)はなし、其身は向ふの岸に游ぎつく也。于ㇾ時(ときに)、池水、渦卷(うづまき)て、その飯器(はんき)、水底(みづそこ)に沈むなり。此飯器は、その數、定(さだま)らず。願望にしたがひ、三ツ、七ツ、或は五ツ、年々に增減ありける。

[やぶちゃん注:「備後(びんごの)阿闍梨皇圓は源空上人の師」「備後」は「肥後」の誤り。「源空上人」は法然のこと。皇円(承保五(一〇七四)年?~嘉応元(一一六九)年六月十三日(ユリウス暦一一六九年七月九日))ウィキの「皇円」から引く。平安『後期の天台宗の僧侶』。『熊本県玉名の出身で肥後阿闍梨とも呼ばれ、浄土宗の開祖法然の師でもある。王朝も末期に成立した、編年綱目の体裁を採る国史略のうち』、『「扶桑略記」を撰した(ほかに「日本紀略」「帝王編年記」)。弥勒菩薩が未来にこの世に出現して衆生を救うまで、自分が修行をして衆生を救おうと、静岡県桜ヶ池に龍身入定したと伝えられる。湖畔の池宮神社では秋の彼岸の中日に池の中に赤飯を奉納する「お櫃納め」の行事が営なまれる。また』、『皇円を本尊として祀る熊本県玉名市の蓮華院誕生寺では、皇円大菩薩ないし皇円上人と尊称されて人々の信仰をあつめている。浄土宗の僧で、多念義』(終生念仏を続けることによって極楽往生出来るとするもの。「一念義」の対概念)『を主張した隆寛は甥である』。『関白藤原道兼の玄孫(孫の孫)で、豊前守藤原重兼の子として肥後国玉名荘(現熊本県玉名市築地(ついじ))に生まれた。兄は少納言藤原資隆』。『母親は玉名の豪族大野氏の娘とも推測されるが不明。幼くして比叡山に登り椙生(すぎう)流の皇覚のもとで出家得度し』て『顕教を修め、さらに密教を成円に学んだとされ』、『二人の名前からそれぞれ一字を取り』、『皇円と称したとされる。比叡山の功徳院に住み、その広い学徳により』、『肥後阿闍梨(あじゃり)と尊称された。浄土宗の開祖である法然は、皇円の下で学んだが』、後に離れている。『皇円は史才のある学僧でもあり、「扶桑略記」(扶桑は日本の異称)を撰している』。「扶桑略記」は『日本最初の編年体の歴史書としてよく知られ、神武天皇から堀河天皇までを、主に日本への仏教伝来や発展史、神社寺院の縁起に着目して記述した貴重なものである』。『皇円の事績に関する同時代の直接の記録はほとんどなく、鎌倉時代末期に編まれた法然に関する「拾遺古徳伝」や「法然上人絵伝」に頼らざるを得ない。それらによると』、嘉応元(一一六九)年六月十三日に、『遠州桜ケ池に大蛇の身を受けて入定したとされる。平安末期に盛んとなった弥勒下生信仰つまり弥勒菩薩が釈迦入滅後』五十六億七千万年後に『この世界に現われて三度説法をして衆生を救済するという信仰のために、そのときまで菩薩行をして衆生を救うという願いを立てたものと思われる。遠州桜ケ池は静岡県御前崎市浜岡に現存する直径約』二百メートル余りの『堰き止め湖で、湖畔には瀬織津比詳命(せおりつひめのみこと)を祭神として祀る池宮神社(御前崎市佐倉5162)があり』(グーグル・マップ・データ))、『桜ヶ池主神として皇円阿闍梨大龍神をも祀っている』。約十キロメートル『離れた応声教院(静岡県御前崎市中内田915)には、大蛇のウロコと称されるものが祀られている』((グーグル・マップ・データ))。『皇円の生地である熊本県玉名市築地には、恵空(えくう)による官立ではない私建立の寺院として、鎌倉時代に高原山蓮華院浄光寺が建立されたが』、『戦国時代に焼失。その後江戸、明治、大正と約』三百五十『年を経る間に、伽藍は朽ち果て山野となり、築地、南大門の地名や』二『基の五輪の塔など』、『わずかを残すのみとなってしまった』。昭和四(一九二九)年十二月のこと、『当時荒尾市在住の祈祷師であった川原是信が、荒ぶる地霊を治めるよう』、『築地の村人に請われてこの地に来た。寺伝によると、是信がここの草堂で経を唱えていると、突然皇円から「我は今より』七百六十『年前、遠州桜ケ池に龍身入定せし皇円なり。今心願成就せるをもって、汝にその功徳を授く。よって今から衆生済度と蓮華院の再興をはかれ。」との霊告を受けたとされる』。『是信はこれにより、ますますその霊能を高め、衆生済度に努め、同時にまた寺院の再興をはかった。再興なった寺院は本尊を皇円大菩薩とし、寺名は皇円誕生の地であることから蓮華院誕生寺とされた。現在、住職は川原是信から三代目となり、蓮華院誕生寺は奈良西大寺を本山とする真言律宗の別格本山として、本堂、五重塔、多宝塔、南大門、庫裏などの伽藍を整え、また築地より北方』四キロメートル『の小岱山中には奥之院を構えるに至っている』という。最後は、ふ~ん、という感じだね。別にウィキの「御前崎市によれば、『敏達天皇の御世に瀬織津姫が池に出現された。それが縁起で池宮神社が創建された。桜の名所で』、『ほとりには竜神を祀る池宮神社がある』。『南方以外を丘陵の原生林に囲まれており、およそ』二『万年前に風や波により運ばれてきた砂が溜まり』、『せき止められて出来上がったと考えられている。面積はおよそ』二万平方メートルで、『深さは具体的な数値は定かではなく、後述する竜神伝説から底無しと言われている』。皇円が『自ら桜ヶ池の底に沈んで竜神(大蛇)となった』と伝えられ、『以降、秋の彼岸の中日には赤飯を詰めたお櫃を池に沈めて竜神に供える奇祭「お櫃納め」が行われている。数日後には空になったお櫃が浮いてくると言われ、遠州七不思議のひとつになっている』。『桜ヶ池に沈めたお櫃が、同じく竜神伝説の残る長野県の諏訪湖に浮いたことがあるとされ、諏訪湖と地底でつながっているという言い伝えがある。これに関連して、静岡県浜松市の池の平では』七『年周期で池(幻の池)が湧くという不可思議な現象が起こるが、これは桜ヶ池の竜神が諏訪湖に赴く際に休息するためであるという言い伝えがある』とある。現在の「桜ヶ池」はここ(グーグル・マップ・データ)。

「男池女池」個人ブログ「富士おさんぽ見聞録桜ヶ池によれば、『往古は男池と女池の』一『対だったが、ひとつは枯れてしまった。現存する池がどちらなのかは諸説あり判然しない』とされ、十八世紀に編纂された「遠江国風土記伝」に『は「女池周凡九百歩、深不可知、南方有堤、池中鯉鮒蓮生」と記し、女池=桜ヶ池と紹介している』とある。本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年の刊行であるから、十八世紀前半までは二つの池があったものか。

「方五町」約五百四十六メートル四方。この数値と謂い方からみると、現在の「桜ヶ池」は男池と女池が通じて一つの池になったものか。

「半切桶(はんきりおけ)」普通の桶を半分に切った形に似ていることから「半切」などと呼ばれる、有意に平たい桶のこと。

「水鍊」「水練」に同じい。]

進化論講話 丘淺次郎 第十七章 變異性の研究(六) 六 住所の廣さによる變異 / 第十七章 變異性の研究~了

 

     六 住所の廣さによる變異

Monoaragai

[ものあらひ貝]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版のものを用いた。]

 

 如何なる理由によるか、少しも解らぬが、多くの動物は實際その身體の大きさが、住處の廣さに比例し、同一種の魚でも、廣い所では大きく生長し、狹い所では如何に餌が十分にあつても、一定の大きさまでにより生長せぬ。こゝに圖を掲げたのは、淡水に産する「ものあらひ貝」といふ貝であるが、斯く大きさの違ふのは、同一の親から生れた卵塊を四組に別ち、各大きさの異なつた器に入れて飼養した結果である。餌は孰れにも十分に與へたのであるから、大小の相違のあるのは、決して養分の不足などより起つたわけでない。全くたゞ容器の大きさの同じからざるより直接に影響を受けた結果と考へねばならぬ。これはセンベルといふ動物學者が、先年態々行ふた實驗であるが、實際ヨーロッパの或る小さな池では、鱒が十分生長せぬから、一定の大きさに達すると、之を他の大きな湖に移して生長させ、然る後に之を漁する所がある。かやうなことは少しく注意して見ると、外國の例などを擧げるに及ばず、我が國にも幾らもある。鮎などでも大きな川に産するものに比べると、小さな川で取れるものは常に小い[やぶちゃん注:「ちいさい」。]。川の幅が、たとひ二倍あつても、半分であつても、鮎の身體の大さに比すれば、孰れでも遙かに大きなもので、鮎の生活上廣いとか狹いとかいふことは、到底感ずることはないであらうに、斯く産物の大きさに著しい相違の起るのは何故であるか、今日の所では、その理由が全く解らぬが、人間などでも丈の高い人と低い人とを比べると、單に身長に差がある外に、體の諸部の間の割合にも著しい相違があるから、魚類や貝類でも、大小の違ふものは、恐らく頭・腹・尾等の割合いも異なるであらう。隨つて素性を知らぬ分類家に見せたら、或はそれぞれ種屬の別なものと見倣すことがないとも限らぬ。

[やぶちゃん注:「ものあらひ貝」物洗貝でモノアラガイのこと。本邦産種ならば、腹足綱直腹足亜綱異鰓上目有肺目基眼亜目モノアラガイ上科モノアラガイ科モノアラガイ属イグチモノアラガイ亜種モノアラガイ Radix auricularia japonica であるが、これがヨーロッパでの実験例(次注参照)であったとするならば、全体が長卵型を成すこと、殻口が縦に有意に大きくて殻高の約半分を占めることなどの特徴から見て、モノアラガイ科 Lymnaea 属コシダカヒメモノアラガイ Lymnaea truncatula ではないかと推測する(なお、本種はそもそもが標準個体が非常に小さい。殻高五ミリメートル、殻幅二ミリメートル前後である。本邦でも各地に棲息するが、外来種である可能性が濃厚である。また、本種はモノアラガイ科 Austropeplea 属ヒメモノアラガイ Austropeplea ollula と同様、ヒトに感染する肝蛭(カンテツ:二生亜綱棘口吸虫目棘口吸虫亜目棘口吸虫上科蛭状吸虫(カンテツ)科蛭状吸虫亜科カンテツ属 Fasciola。カンテツ(肝蛭)とは厳密には Fasciola hepatica のことを指すが、巨大肝蛭 Fasciola gigantica、日本産肝蛭 Fasciola sp. を含め、総てを「肝蛭」と称することが多い)の中間宿主であるから、扱いには注意が必要である)。

「センベル」ドイツの動物学者で探検家カール・ゴットフリート・センペル(Karl Gottfried Semper 一八三二 年~一八九三年)か。一八六八年にヴュルツブルク大学の動物学及び比較解剖学教授となっている。

「鱒」ヨーロッパで「マス」と言った場合は概ね、河川型(fario)及び降湖型(lacustris)である、条鰭綱サケ目サケ科タイセイヨウサケ属ブラウントラウト(Brown troutSalmo trutta を指す(同一種であるが、降海型(trutta)は「Sea trout」と呼んで区別する)。但し、ウィキの「ブラウントラウトによれば、『産卵のために川を遡るグループと遡らないグループは、同じ川に住むものであっても遺伝的に異なることが知られている。 但し、他の地域に移植した場合、河川型(fario)も降海型(trutta)になる可能性がある』とし、また、『ブラウントラウトは標準的なサイズの魚で、ある地域では20kg以上になり、また小さな川では1kg程度以下のものもある』とあって、本記載を裏付けている。なお、本種は外来種として本邦に侵入している。

「鮎」キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis。]

 

 以上の如き事實を態々こゝに掲げたのは、動植物と外界との間には密接な關係があるが、之に關する我々の知識は、現今尚極めて不十分なことを示すためである。餌を十分に與へて、他に何も生長を妨げるものがないやうに十分に注意して養つても、小さな器に入れてある「ものあらひ貝」は、大きな器で飼ふたものに比べると、十分の一にも足らぬ大きさまでより生長せぬを見ても察せられる通り、外界からは我々の思ひ及ばぬやうな方面に於て、動植物の身體に直接の影響を加へることのあるもので、既にダーウィンも注意した如く、獅子・虎の類は動物園に飼はれて居ながら盛に繁殖するが、同じく猛獸の中の熊は、如何に滋養分を十分に與へても滅多に子を産まぬ。また鷲・鷹の類は、人に飼はれて隨分達者に長生きをするが、雌雄揃つて居ても決して卵を産んだ例がないといふことなども、今日の所、一向その理由の解らぬ事實である。斯くの如くまだ解らぬことばかりで滿たされてある時代には、先づ實驗によつてなるべく多くの事實を確めることが最も必要であるが、已に本章に述べた如き種々の面白き實驗的研究もあるから、今後は年々新しい事實が發見になつて、生物の變異性と進化との關係も追々明瞭に成るであらう。 

 尚附け加へていうて置くべきことは、外界から動植物の身體に及ぼす影響の結果が、幾分なりとも子孫に傳はるとすれば、たとひ世の中に自然淘汰といふことがないとしても、生物各種が漸々變化すべきであることである[やぶちゃん注:この「べき」は当然の意。]。特に分布の區域が擴がつて、從來の産地から氣候・風土の異なつた所へ移るもののある場合には、自然に原種とは違つた種類とならざるを得ない。例へば前に例に擧げた、蛾の類でも、溫帶から熱帶へ移住すれば、翅の色なども漸々變化し、終には原種とは全く異なつた一變種となるであらう。實際に於ては自然界に生存競爭の絶えるときは訣してなく、隨つて自然淘汰は如何なる場合にも働いて居るであらうが、外界から生物體に及ぼす影響には、敵味方の差別はないから、勝つたものにも敗けたものにも、その結果は現れ、若しこれが幾分かなりとも子に傳はるとすれば、代の重なるに隨ひ少しづゝ著しくならざるを得ない。而して土地が違へば、溫度のみならず、食物・濕氣・土壤の成分、その他總べての點に幾分かの相違があるであらうから、たとひ同一種の生物でも、違つた土地に棲むものが、外界から幾分か違つた影響を受け、たとひ同一の標準で淘汰せられたとしても、その子孫は漸々互に少しづゝ相異なるを免れぬであらう。彼のダーウィンが特に注意したガラパゴスの列島で、鳥類の各種に島每に僅づゝ違つた變種のある如きも、或は斯かる原因から生じたものではなからうか。

2018/07/17

進化論講話 丘淺次郎 第十七章 變異性の研究(五) 五 特殊なる習性の變異

 

     五 特殊なる習性の變異

 

Sanbagaeru

[産婆蛙]

[やぶちゃん注:講談社学術文庫版を用いた。後の「黑山椒魚」も同じ。]

 

 次に圖に示したのは、ヨーロッパの南部に普通に産する産婆蛙と名づける奇妙な習性のある蛙であるが、之に就いてもヴィーンの生物學試驗所で極めて面白い實驗を行つた。元來この蛙は産卵の際に、雄は雌を背の上から抱いて、雌が産卵すれば、直に之を自身の腿の邊に卷き附ける。卵は恰も蟇の卵の如くに寒天樣の物に包まれ、紐の如き形をなして生れ出るが、その際雄は幾分か之を雌の體より引き出して助けるから、それで産婆蛙といふ名が附けられたのである。さてかやうに卵の紐を腿に卷き附けた雄は、雌の體を離れ、石の下や草の蔭などに隱れて、暫くは出て來ず、卵が梢々發育して蝌斗[やぶちゃん注:「おたまじやくし(おたまじゃくし)」。蝌蚪。]の形になつて、將に水中に泳ぎ出でんとする頃になると初めて匍ひ出して、近所の池か沼に入り、子供を悉く水中に泳ぎ出さしめて、この時漸く身輕になるのである。かやうな他に類のない一種特別の習性を有するものであるが、カンメレルはこの蛙を飼養する場處の溫度を高めて、日本の土用の日中よりも尚暑い程にして置いた所が、以上の習性に大變化が生じた。卽ち蛙は暑さに堪へ兼ねて、大抵水の中に居て、産卵も水の中でするやうになつたが、さて、水中では、卵を包む寒天樣の物が水を吸つて、ぬらぬらになり、如何に雄が卵を自身の腿に卷き附けようとしても、滑つて到底粘著せぬ。それ故止むを得ず卵は水中に産れたまゝとなり、初から水中で發育し、蝌斗は早くから水中へ泳ぎ出すやうになる。次にかやうに初から水中で發育した蛙の生長したものを、普通の溫度の所で飼ふて置いて、如何に産卵するかを試した所が、面白いことには、やはり親と同じく水中で産卵した。それのみならず、この卵から發生した孫蛙までも、生長後同じく水中へ産卵した。卽ち親蛙は人爲的に高い溫度の所で養はれ、止むを得ず從來の習性を改めて、水中に卵を産むといふ新な性質を獲たのであるが、その子の代には、以上の性質が親から傳はつて、生れながらこの性質を有し、普通の溫度の所で飼ふて置いても、自ら水中に産卵するやうになり、且孫の代までもこの新な性質が續いたのである。

[やぶちゃん注:両生綱無尾目ミミナシガエル科サンバガエル属サンバガエル Alytes obstetricans。外観はヒキガエルに似ているが、遙かに小型で四~六センチメートルにしかならない。耳腺がなく、瞳孔は縦長の菱形で夜行性の特徴を示す。春から初夏にかけての繁殖期に、は雌の腹部を刺激して産卵を促し、産み出された紐状の卵塊を自分の後肢に巻きつけ、約 五十日間に亙って運んで歩く。孵化が近づくと、は水中に入り、オタマジャクシを解放する。ヨーロッパ西部~中部に分布する。

「ヴィーンの生物學試驗所」既出既注

「カンメレル」既出既注。なお、リンク先にも記したが、彼、カンメラーはこのサンバガエルを使った実験を通して、獲得形質の遺伝を主張したのであるが、データ捏造の疑いをかけられた直後にピストル自殺(一九二六年)をしている(但し、自殺の理由は不明である)。それは前にリンクさせたサイト「研究倫理(ネカト)」のこちらで考証されており、他にもくる天氏のブログ「水のよう・・」の『形質は「獲得」されたのか』でも考察されている(それによれば、『カンメラーの死から数年を経てソ連で彼をモデルに「サラマンドラ」という映画が作られ』ているともある。これはСаламандра(ソ連・ドイツ合作。一九二八年公開。監督Георгий Гребнер(グレゴリイ・ロシャル)・Анатолий Луначарский(アナトリイ・ルナチャルスキイ)である。ロシア語同作ウィキと、英語ウィキをリンクさせておく。また、今回、別にブログ・サイトサイエンスあれこれサンバガエルの謎が解けた?を発見、これは哲学者アーサー・ケストラ「サンバガエルの謎」(原題:The Case of the Midwife Toad)によって一九七二年に書かれた科学史本(日本語訳は再刊本が岩波現代文庫で二〇〇二年刊)のレビューなのだが、同書は、『サンバガエルを使った実験を通して、獲得形質の遺伝を主張したオーストリアの生物学者パウル・カンメラーが、データー捏造の疑いをかけられ、最終的には自殺にまで追いこめられた様子を、権威主義的な当時の科学界を批判する立場から書かれた意欲作で』あるとあり(一部のリンクを引用元を参照に附した)。

   《引用開始》

獲得形質の遺伝というのは、生きている間に、その環境の中で生き抜くために必要とされ、発達した身体の器官やその特長(獲得形質)が、次世代へと遺伝することにより、生物は進化するのだという主張です。カンメラーは、陸生のサンバガエルを無理やり水中で飼育すると、大半の次世代は生き残れないが、わずかに生き残った次世代は、水中生活に適応し、それはさらに次の世代にも伝わり、何世代か後には、水生のカエルの特徴であり、水中での交尾の際の滑り止めの役割を果たす、前足のこぶまで出現したと主張しました。

一方で、正統的なダーウィン説では、あらゆる形質の変化は、あくまでもランダムな遺伝子の突然変異により規定されていて、その環境の中で不利ではなかった形質をもつ個体のみが、次世代に子孫を残せるので、結果的にその形質は遺伝すると主張します。言い換えれば、いくら頑張って、その環境に適応できるように形質を変えることができても、それが遺伝子によってあらかじめ決められていない形質だった場合、それは一代限りの形質であり、次世代へと遺伝することはないというわけです。遺伝子が形質を変化させると主張するダーウィン派にとって、形質が遺伝子を変化させると主張するカンメラーはどうしても受け入れがたい存在でした。そこで、ダーウィン派の学者たちは、カンメラーの実験はでっち上げだという決定的な証拠を入手したと公表したのです。前足のこぶは、インクを注入して作られた偽者だと・・・。著者であるアーサー・ケストラは、これは、権威を守ろうとしたダーウィン派による陰謀だとしていますが、真偽のほどは、もちろん現在も分かっていません。

前置きが長くなってしまいましたが、ある程度生物学をかじったことのある方なら、獲得形質の遺伝は、生物のメカニズム的にありえないと、正しく理解されていると思うのですが、面白いことに、一見獲得形質が遺伝したかのようにみえる現象というのは、数多く報告されています。そのひとつがエピジェネティックス変異[やぶちゃん注:epigenetics とは、一般的には「DNA塩基配列の変化を伴わない細胞分裂後も継承される遺伝子発現あるいは細胞表現型の変化を研究する学問領域」を指す語。]です。これは、遺伝子自体は変異していなくても、その遺伝子をON/OFFさせることができるメカニズムのことで、一見その遺伝子が変異したかのようにみえます。エピジェネティックス変異は、生育環境の影響を受け、世代を通して遺伝することが知られています。これが、獲得形質の遺伝とは言えないのは、エピジェネティックな制御を受けるかどうかは、環境が規定するが、その制御を受けられる遺伝子かどうかは、最初から遺伝情報として決まっているという点で、厳密には獲得した形質が遺伝するわけではないからです。

カンメラーの事件から80年以上たった現代において、当時知られていなかった、そしてダーウィン説とも矛盾しない、このエピジェネティックス変異によって、サンバガエルの謎が解明できるのではないかという提案が、The journal of experimental zoology誌に掲載されました(無料で全文PDFのダウンロード可能)。つまり、カンメラーの報告は、獲得形質の遺伝を証明するものではなかったが、れっきとしたエピジェネティックス変異の報告だった可能性があるというものです。ただし、この論文で触れているのは、可能性の提案であり、実際にカンメラーの実験を追試したわけではありません。どれだけ苦労しても、自分が第一発見者でなければ、何も報われない科学界において、卓越した技量と忍耐を要するカンメラーの実験を追試しようと思う科学者がいるとは思えないので、汚名回復できないカンメラーは少しかわいそうな気がしますね。

   《引用終了》

と述べておられる。この本、是非とも読みたくなった!]

 

Kurosansyouuo

 [黑山椒魚]

 

 斑紋性山椒魚のことは前にも述べたが、ヨーロッパには尚一種普通の山椒魚がある。之は山間の溪流に住み、全身暗黑色である故、黑山椒魚と名づける。この二種は習性にも著しく異なつた所があり、斑紋性の方は數十疋の小さな蝌斗を水中に産み落し、その蝌斗は暫時水中に生活したる後、體形を變じ、親と同じ姿となつて陸上に出るのであるが、黑山椒魚の方は、每囘たゞ二疋の完全に發育した大形の子を直に陸上に産む。尤も黑山椒魚でも、親の胎内には初め澤山の子が出來るが、その中二つだけが發育して大きくなり、他のものは漸々溶解して二疋を生長せしめるための養分となつてしまふのである。之は恐らく高山では溫い季節が短く、その間も水が頗る冷たいから、普通の蠑螈[やぶちゃん注:「ゐもり(いもり)」。]・山椒魚の如くに水中に産卵したり、幼兒を水中に産んだりしては、到底子が發育することが出來ぬ所から、自然にかやうな習性が生じたものと見える。カンメレルはかやうな考から、試に斑紋性山椒魚を水のない溫度の低い處で飼つて置いた所が、止むを得ず子を成るべく長く胎内に留まらしめ、發育の進んだものを陸上に産み落し、その數も漸々減じて後には每囘僅に二疋の大きな子を産むやうになつて、全く黑山椒魚と同樣な習性を獲るに至つた。之と反對に、黑山椒魚の方は溫度を高めて、止むを得ず水中に入らしめ、水中で産卵するやうにいて育てたら、漸々發育の不十分な小さな幼兒を數多く産み落す習性が生じた。而して面白いことには、陸上に胎生する習性を獲た斑紋性山椒魚の産んだ子が生長してから、之を普通の處で養うても、餘程發育の進んだ大きな子を數少く産み、その一部は陸上に産み落した。之も親が新に獲た性質が子に遺傳した一例と見倣すべきものであらう。

[やぶちゃん注:「黑山椒魚」これはイタリア北東部のアルプス高地とオーストリア及びスイスに跨るアルプス山脈とそれに続くジナルアルプス山脈にのみ棲息する両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ科サンショウウオ科アルプスサンショウウオ Salamandra atra で、基亜種 Salamandra atra atra頭部から背中が黄色みを帯びたSalamandra atra auroraeaurorae はイタリア北東部のある地域にのみ棲息)がいる。全長十四センチメートルで黒色を呈し、先に出た「斑紋山椒魚」=ファイアサラマンダー Salamandra salamandraよりも細身で、全身が黒色を呈する。棲息分布は高地に行くに従って、ファイアーサラマンダーに取って代わる、と個人サイト「両生類AMPHIBIANS) びっきぃ  やまどじょうの「アルプスサラマンダー」(Alpine Salamanderページにある。]

 

Yanaginohanisuwotukuruga 

[柳の葉に巢を造る蛾]

 

 習性の變異に關する他の例か一二擧げて見るに、米國のシュレーデルといふ人が、一種の小形の蛾について行つた面白い實驗がある。この蛾は柳の葉に巢を造るが、初め口から絲を出し、之を用ゐて葉の先端を裏の方へ曲げ、次に兩側の孔を塞いで、その内に閉ぢこもるのが常である。シュレーデルは試に柳の葉の先端を悉く橫に切り落して、その枝にこの蛾を飼つて巢を造らせた所が、蛾は常の如くに葉の先端を裏に曲げようとしても先端の部がない故、止むを得ず流儀を變へて、葉の兩側の緣を縱に卷いて巢を造つた。かやうに新工夫の巢を造つた蛾の生んだ子を育てて、再び先端を切り捨てた葉を與へて、同じやうな巢を造らせ、その産んだ子、卽ち最初に試驗したものから算へて三代目の子に至つて、再び完全な葉を與へて、如何なる巢を造るかと試した所が、一部のものは昔からの習性に戾つて先祖と同樣な巢を造つたが、他のものは一二代前に止むを得ず造つたのと同じやうに、葉の側緣を内に卷いた巢を造つた。

[やぶちゃん注:「柳の葉に巢を造る蛾」図の形状と、柳の葉に巢を作る(幼虫がヤナギ類を摂餌する)という観点から調べてみると、ヒゲナガキバガ科ヒロバヒゲナガキバガ亜科 Scythropiodes 属或いはその近縁種辺りか?

「シュレーデル」不詳。]

 

 またシュレーデルは滑な葉を有する柳に著いて、その葉を食する一種の小さな甲蟲の幼蟲を取つて、之を毛の生えた葉を有する別種の柳に移した所が、幼蟲は頭で毛を分けながら、その葉を食して無事に成長したので、滑葉の柳と毛葉の柳との枝を竝べて、孰れへでも勝手に産卵させた所、約三分の二は滑葉の方へ、約三分の一は毛葉の方へ産み附けた。一體ならば、全部滑葉の方ばかりに産卵して、毛葉の方へは一つも卵を産み附けぬのがこの蟲の性質である。幼時より毛葉の方で飼養せられたから、習性に變異が起つて、斯く一部のものは毛葉の方へ産卵するやうに成つたのである。次に之から孵化した幼蟲をまた毛葉の方で飼育し、前と同樣の方法で産卵せしめたら、このたびは半數以上は毛葉の方に産んだ。更に同樣の試驗を續けた所が、三代目には五分の四以上が毛葉の方に産卵し、四代目になつては悉く毛葉の方に産卵して、祖先からの食物なる滑葉の柳の方には一つも産卵するものがなくなつた。之も一代每に少しづゝ後天的の性質が子に傳はり、代を重ねるに隨つて、その結果が著しくなつたと考へるのが至當であらう。

譚海 卷之二 平賀源内ヱレキテルを造る事

 

平賀源内ヱレキテルを造る事

○平賀源内と云(いふ)儒者讚州の人也、本草物産等に志(こころざし)有(あり)。石わたと云ものを取出(とりいだ)し、それにて火浣布(くわかんふ)を織らせ、淸朝へもわたしたり。人形上るりの文句をも工(たくみ)に作り、神靈矢口の渡など云(いふ)もの其(その)作にて、殊の外江戸にて行(おこなは)れ、操座(あやつりざ)の者(もの)活計(たづき)に誇(ほこり)たる事也。日時計・蟲めがねなど、おらんだの製を考へ作り出し、その巧(たくみ)彼(かの)邦の者と彷彿(はうふつ)たり。一とせヱレキテルセイルランといふ器(き)おらんだよりわたりたるに、源内工風(くふう)をこらし、其製にならひて造り出し、上の御覺(おんおぼえ)にも入(いり)、一時權門諸侯に傳翫(でんがん)し、奇特成(きとくなる)事にもてはやされたり。其事にたのみし鍛冶(たんや)又是を拵(こしら)ひ出(いだ)したるを、源内と公事(くじ)になり、終(つひ)に鍛冶屋入牢して獄中に死たり。此ヱレキテルといふ物は、一つの方(かた)なる箱の内に、水火の具をもうけ、箱の上に立たる木二本有(あり)、其木に金線(きんせん)にてよりたる繩をかけ、病者あれば其病者に此繩をもたしめ置(おき)、扨(さて)箱のかたはらにあやつり置(おき)たるふいごの木の如くなる物を、くるくる數度まはす時は、箱の内鳴動す。病人不快成(なる)所・頭痛或はすねなど痛む所へ、銅にて拵(こしらへ)たるくだをあつれば、そのくだより火の光(ひかり)針(はり)の樣に出(いで)て、不快立處(たちどころ)に治する樣にせし具なり。是(これ)病人體中(たいちう)の陽火を發(おこ)して、病氣を治する器なり。腰痛・步行疲勞などを治する事神(しん)の如し。加樣に奇工(きこう)に心をくだき、聰明なる男成(なり)しかども、いかゞ致せしにや亂心して、御勘定奉行松平伊豆守殿用人某、無二の知友なれば來りしを刄傷(にんじやう)し、幷(ならび)に商家米屋久左衞門悴久五郞と云(いふ)者同席に在(あり)しを切害(せつがい)いたし、卽刻源内入牢に及び、終に牢中にて病死せり、惜(をしむ)べき事也。是(これ)安永八年十月の事也、此日去年かぢや牢内にて死せし日にあたれりとぞ。

[やぶちゃん注:「平賀源内」(享保一三(一七二八)年頃~安永八(一七七九)年)は本草学者・戯作者・科学者・鉱山技師で本邦の博物学者の草分けと言ってよい人物である。讃岐志度浦(香川県さぬき市)生まれ。幼名は四万吉(よもきち)。伝次郎・嘉次郎とも称し、名は国倫(くにとも)または国棟(くにむね)。源内又は元内は通称。戯作者としては風来山人・天竺浪人・悟道軒・桑津貧楽など、浄瑠璃作家としては福内鬼外を用いている。父は高松藩の蔵番白石茂左衛門良房で、兄は夭折し、父の死で家を継ぎ、姓を平賀と改めた(平賀は祖先の旧姓とされる)。藩主松平頼恭(よりたか)に見出され、長崎に遊学、藩の薬園の仕事にも携わるようになったが、宝暦四(一七五四)年、突如、藩の役目を辞し、妹婿に家を譲り、江戸に出、本草学者田村藍水に師事、また、林家に入塾、本格的に本草学を学んだ。宝暦七(一七五七)年、田村藍水とともに江戸・本郷湯島で物産会を開き、以後、六年間に物産会を五回開催、とくに宝暦十二年閏四月に行った物産会では全国三十余国から千三百余点に上る展示物を集め、盛況であった。源内はこの物産会の出品物のなかから重要なもの三百六十種を選んで分類・解説して「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」(全六巻)を翌年に出版している。このなかには、藍水の朝鮮人参栽培法や、「天工開物」(明末に宋応星によって書かれた産業技術書)からとった甘蔗搾りの図、また蘭書から模写したサフランの図などの新しい知識も載せている。これらの活躍により、源内は新進の本草学者・物産学者として評価され、殖産興業・蘭癖の時流にのって多彩な活躍をすることとなった。明和元(一七六四)年には、秩父山中で発見した石綿を用いて、国産の火浣布(不燃布)を製作した(この火浣布について同年「火浣布説」を書き、翌年には「火浣布略説」を出版している。本文の「石わたと云ものを取出し」とはその事実(発見と採掘)を指している)。また、平線儀(水準儀)・タルモメイトル(温度計)などの理化学機器の製作で人々の目を惹き、紀伊・伊豆・秩父などに於ける薬物採集や鉱物などの物産調査などを精力的にこなし、幕府や高松藩の殖産策に尽力した。一方、当時、新興の談義本の世界に進み、「風流志道軒伝」(全五巻)・「根南志具佐(ねなしぐさ)(前編)」(全五巻)などを書いて、当時の澱んだ封建社会を風刺し、新作浄瑠璃「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」(吉田冠子・玉泉堂・吉田二一との合作)は明和七(一七七〇)年に上演され、好評を博した。これらの文中には本草学・物産学・医学的な知識に加え、オランダ趣味などを採り入れて新しさを狙っている。前後して幕府老中田沼意次の知遇を得、二度目の長崎遊学を果たし、殖産興業(彼のいう「国益」)のための陶器や織物の考案、鉱山関係の事業と、一層、活動の場を広げていった。交友も中川淳庵・桂川甫三(ほさん)・森島中良ら蘭学系学者や、後藤梨春(りしゅん)・平秩東作(へつつとうさく)・大田蜀山人(南畝)らの学者・文人等、多方面に亙った。また、秋田支藩角館(かくのだて)の小田野直武に洋画法を教授し、秋田蘭画誕生のきっかけを与えた。しかし、安永三(一七七四)年、秩父鉱山の経営に失敗、苦境に陥ってしまう。その二年後の安永五年には、かつて長崎で入手した「エレキテル」(摩擦式起電機)の修理に成功、模造品も製作し、一時、評判となって、これを「硝子を以つて天火を呼び、病を治す」医療用具として大名富豪の前で実験し喧伝したものの、期待した後援者は得られず、生活も荒(すさ)み、「放屁論」をはじめとする『風流六部集』では「憤激(ヂレ)と自棄(ワザクレ)ないまぜの文章」で世間を揶揄した。失意のうちに、安永八(一七七九)年十一月のこと、人を殺傷して入牢(じゅろう)、十二月十八日に獄中で破傷風のために世を去ったとされる(以上は概ね小学館「日本大百科全書」に拠った)ウィキの「平賀源内」によれば、捕縛の一件は、彼は『大名屋敷の修理を請け負っ』ていたが、ある夜、『酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いし』、その場にいた『大工の棟梁』二『人を殺傷したため』とされる。『獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされて』おり、『杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった』という。但し、『晩年については諸説あり』、実は『逃げ延び』、或いは秘密裏に釈放され、『書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれもいまだにはっきりとはしていない』といった内容が記されてある。

「火浣布」は石綿糸(せきめんし)で織った不燃性の布のこと。煤(すす)や垢などの汚れも火の中に投入して焼けば、布は燃えず、汚れだけが落ちるところから、「火で浣(すす)ぐ(=濯ぐ)」という意で、この名がある。石綿布とも称し、アスベストの一種。耐熱性耐火性に優れており、高熱作業や汽缶などの保温用に使われた。中国では古くからこの製法が知られていることを青木昆陽が指摘している。日本では、この平賀源内が中川淳庵らとともに製作したものが国産第一号とされる。現在は肺線維症・肺癌・悪性中皮腫の原因物質として使用が禁止されている。理科実験の五徳の石綿が懐かしい。但し、古くから存在は知られており、ここにある通り、中国南部の火山に住むとされた想像上の動物である「火鼠」の毛で織り、汚れたら、火に投げ入れれば、汚れが燃え落ち、本体は焼けることがないと伝えられた織物として「竹取物語」にも「火鼠(ひねずみ)の皮衣(かはごろも)」として、右大臣あべのみむらじへ出される難題として登場し、中国人のイカサマ商人「わうけい」を介して入手するも、かくや姫が火の中へくべさせると「めらめらと」美事に焼けてしまう、という滑稽はご存じの通りである。

「淸朝へもわたしたり」これはまさに逆輸入のハシリでもあると言うべきか。

「人形上るり」「人形淨瑠璃」の当て字。

「工」「巧み」。台詞の巧妙さ。

「操座(あやつりざ)」人形浄瑠璃の一座。

「活計(たづき)に誇(ほこり)たる」評判をとって興行が大成功を修め、それを大いに自慢、喧伝した。

「日時計」印刷された紙にに季節に合わせた短冊状の紙製の紙縒(こよ)りを立て、それを太陽に向け、その影の先端の長さの時刻の数字を読みとるタイプは江戸後期には一般化していたらしいが(サイト「TIMEKEEPER 古時計どっとコム」の1. 紙日時計 江戸時代参照。これ、アナログさ加減が凄くいい。何となく欲しくなる)、源内のは、そんなもんじゃなかろう。二〇一四INAXライブミュージアム企画展手のひらの太陽「時を知る、位置を知る、姿を残す」道具『ひさご型根付日時計』という真鍮製の江戸時代の国産携帯用機械的な日時計の写真が載り、そこには伝平賀源内考案てあるもん! これだわ!

「蟲めがね」これは恐らく、次に本書の載る「おらんだ蟲めがねの事」の条を読む限り、所謂、天眼鏡なんぞではなく、実体顕微鏡クラスのものと考えられる。但し、源内手製ではなく、後のエレキテルのように、オランダ人の持ち込んだ顕微鏡の壊れたものを修理したものかと思われる。「日本顕微鏡工業会」公式サイト内の「7-1 江戸・明治時代の顕微鏡」に、『日本における最初の光学機器は、1551(天文20)年宣教師ザビエル F. Xavier らが周防(山口)の国主・大内義隆に贈った眼鏡とされています。また望遠鏡もその発明からわずか5年後の1613年にはイギリス人により日本へもたらされ、徳川家康に献上されました。望遠鏡は遠眼鏡(とおめがね)として江戸中期には日本でも作られるようになり、軍事や測量、天体観測のほか景色を眺める目的で、幕府・大名だけでなく庶民の間にも広まっていきました』。『一方、顕微鏡が初めて日本に輸入されたのは、望遠鏡よりずっと遅く、オランダの貿易商により1750年頃』(寛延三年)『とされています。1765年』(明和二年)『に後藤梨春が著した「紅毛談(おらんだばなし)」には「虫目がね」として顕微鏡が紹介されています。1781(天明元)年には日本最初の木製顕微鏡が大阪で作られました』とあり、国産顕微鏡が出来た時には源内は没しているが、顕微鏡を紹介した後藤梨春は源内の仲間だからである。

「おらんだの製を考へ作り出し」オランダ渡りの技術を真似て諸機器を器用に手作りし。

「巧(たくみ)」機械工学的技術の才能。

「ヱレキテルセイルラン」オランダ語(元はラテン語)の“elektriciteit”(「電気」「電流」の意)の訛り。源内は「ゐれきせゑりていと」(ヰレキセヱリテイト)と表記している。ネイティヴの発音を聴くと「エレクトリシタィ」と聴こえる。ウィキの「エレキテル」によれば、『オランダで発明され、宮廷での見世物や』静電気を利用した怪しげな医療器具『として用いられていた。日本へは江戸時代に持ち込まれ』(太字下線やぶちゃん)、宝暦元(一七五一)年頃、『オランダ人が幕府に献上したとの文献がある。後の』明和二(一七六五)年に『後藤利春の『紅毛談(おらんだばなし)』で紹介され、それを読んだ平賀源内が長崎滞在中の』明和七(一七七〇)年に『破損したエレキテルを古道具屋あるいはオランダ通詞の西善三郎から入手し、工人の弥七らとともに』、安永五(一七七六)年に『江戸深川で模造製作に成功した』。『構造は外部は木製の箱型、または白木作り。内部にライデン瓶(蓄電瓶)があり、外付けのハンドルを回すと』、『内部でガラスが摩擦され、発生した電気が銅線へ伝わって放電する』。『源内は電気の発生する原理を』、『陰陽論や仏教の火一元論などで説明しており、電磁気学に関する体系的知識は持っていなかったとされ、アメリカの科学者フランクリンが行った実験の情報が伝わっていたとも考えられている。日本でも見世物や医療器具として利用されたが、主に好奇による注目であった。また、寛政の改革による贅沢の禁止や出版統制などにより、電気に関する科学的理解・研究は後の開国以降や明治期まで停滞することとなった』。『源内製造とされるエレキテルが現存しており、うち』一『台が「エレキテル(平賀家伝来)」として』一九九七年に『国の重要文化財(歴史資料)に指定された。これは現在、東京都墨田区の郵政博物館に収蔵されている。他に平賀源内先生遺品館(香川県さぬき市)にも蓄電瓶がない』一『台が現存している』とある。

「傳翫(でんがん)」広く知られ、面白がられることであろう。

「奇特」特別に優れていると評価されること。

「たのみし」「恃みし」。技術を勝って信頼していた。

「鍛冶(たんや)」鍛冶屋。

「又是を拵(こしら)ひ出(いだ)したるを」源内と一緒に製作したその構造や技術を盗んで真似て「エレキテル」と同様な摩擦式静電気発生装置を造り出したのを。

「公事(くじ)」裁判。今で言うところの著作権・パテント絡みの民事裁判相当。

「水火の具」不詳であるが、後で淙庵は「箱の上に立たる」「其木に線(きんせん)にてよりたる繩をかけ」とあり、さらに「病者あれば其病者に此繩をもたしめ置(おき)」というのはその人間は地面()に立っているか座っているか寝ているわけで、先のウィキの「エレキテル」に『源内は電気の発生する原理を』『陰陽論』で説明・理解していたらしい、という意見やを見るに、これは思うに、淙庵自身も「木・・土・金・の陰陽五行説の相生(そうじょう:互いに他のものを生み出す関係。木が火を、火が土を、土が金を、金が水を、水が木を生むとする(反対語は相克(そうこく)で、木は土に、土は水に、水は火に、火は金に、金は木にそれぞれ勝つ)機序によって強力な電気(静電気)が発生すると考えているのではなかろうか?

「扨(さて)箱のかたはらにあやつり置(おき)たるふいごの木の如くなる物を、くるくる數度まはす時は、箱の内鳴動す」前半は横の回転式ハンドルを指す。You Tube バリアフリー2015国際ロボット平賀源内 「エレキテル」のレプリカ(使用資材は同じではないが、内部構造がよく判る)をご覧あれ。

「病人體中(たいちう)の陽火を發して」陰気に支配されている病者の体内に潜在している陽気を電気的現象として外部から起動させることで治療すると考えたものであろう。

「御勘定奉行松平伊豆守殿」不審。この時期に松平姓で伊豆守の勘定奉行はいない。以下の殺害事件も地位や人物が知られているものとは異なり、輪をかけて不審。ウィキの「平賀源内」には彼に殺された大工の名を『秋田屋九五郎』とするのが『商家米屋久左衞門悴久五郞』の名と一致しているのも、なんだかなぁ、である。同ウィキにはまた、『男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。晩年の殺傷事件も男色に関するものが起因していたともされる』とあり、商家米屋久左衞門悴久五郞は、そっちの方面か? などとかんぐったりしてしまう。

「此日去年かぢや牢内にて死せし日にあたれりとぞ」淙庵の聴き書きなのだが、話者は明らかに怪奇談(因果応報譚)を狙っていること、疑いない。]

甲子夜話卷之四 36 寶曆に林氏自火のときの落首

 

4-36 寶曆に林氏自火のときの落首

寶曆の頃、林大學頭【諱、信充】宅より失火し、折節西北風強かりしかば大火となり、築地邊まで延燒せしことあり。其時の落書に、

 大學が孟子わけなき火を出して

      論語同斷珍事中庸

[やぶちゃん注:よりもちょっと前の話であるが、その頃は下賤の庶民でさえも、これだけの洒落を言える知識があったという、対称的な話柄として面白い。静山もそれを狙って敢えてここに配しているのである。

「寶曆」一七五一年から一七六四年。

「林大學頭【諱、信充】」林家四代林榴岡(りゅうこう 天和元(一六八一)年~宝暦八(一七五八)年)。

「孟子わけなき」「申し譯なき」の語呂合わせ。以下同じ。

「論語同斷」「言語道斷」のそれ。

「珍事中庸」「珍事中夭」(「中夭」は災難のことで「思い掛けない災難」の意)のそれ。]

甲子夜話卷之四 35 五六十年、舉世文盲なりしと云事

 

4-35 五六十年、舉世文盲なりしと云事

或人云。世の中の移り替るは、思の外の事あるものなり。此五六十年前、擧世の文盲になりしは、前にも後にも類無きことなりとなり。中村深藏【諱、明遠。號、蘭林】、寶曆頃の奧儒者たりしとき、誰一人敬禮するものもなく、當直に出れば、若き小納戸衆など、孔子の奧方御容儀は美なりしや醜なりしやなど問て、嘲弄しけるとぞ。餘りに甚しきことならずや。明安の頃、節儉の政令嚴刻なりしとき、其旨を希ひし作事奉行より、昌平の聖堂は第一無用の長物なれば、取崩し然るべしと建言せしを、國用掌れる老職、水野羽州聞屆て、既に高聽に達せんとて、御用取次衆へ申けるに、取次衆、聖堂と云もの何なることを知らず。奧右筆組頭大前孫兵衞に、聖堂に安置あるは神か佛かと尋しかば、大前、たしか本尊は孔子とか云ことに候と答ければ、取次衆、其孔子と云は何なりやと又尋ければ、大前、論語とか申書物に出候人と承り候と答けるに、取次衆打うなづきて、鳴呼それにて分りたり、道理で聖堂崩しの沙汰を聞て、林大學が、唐へ聞へても御外聞がわるゐと申たりと聞及びぬ。さらば先暫見合せ置方なるべしとて、高聽に達せず。其こと止しとなり。かゝる時節もあればあるものかと、驚入たることなり。

■やぶちゃんの呟き

これは確かに頗る驚くべき文盲不学の為体(ていたらく)である。私もオロロイた!

「舉世」「きよせい(きょせい)」。世を挙げて総て。世間全体。

「中村深藏【諱、明遠。號、蘭林】」(元禄一〇(一六九七)年~宝暦一一(一七六一)年)は江戸中期の儒者。江戸出身。深蔵は通称。本名は藤原明遠。父は幕府医官中村玄悦。父に医学を学び、室鳩巣に儒学を学んだ。初め、父を継いで玄春という医官であったが、儒者にならんとする思いが強く、数年の間は許されなかたったが、延享四(一七四七)年、西の丸奥医から晴れて奥儒者に転じ、深蔵と改め、将軍徳川家重に近侍した。室鳩巣に師事したが、朱子学墨守に固執せず、考証を重んじ、他学派の説も学んで、稲葉迂斎門下ともなった。寛延元(一七四八)年には朝鮮通信使と筆談で朱子学について議論している。「学山録」「読詩要領」「孟子考証」「学規口解」「通書解翼義」「読詩要領」「大学衍義考証」など多数の著作がある(以上は上谷桜池氏管理のサイト「谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー」のこちら(彼の墓)の解説に拠った)。

「寶曆」一七五一年から一七六四年まで(但し、中村は上記通り、一七六一年没であるからそこまで)。徳川家重及び徳川家治の治世。

「小納戸」「こなんど」。若年寄支配で、将軍に近侍して理髪・膳番・庭方・馬方などの雑務を担当した。

「明安」明和・安永。一七六四年から一七八一年まで。徳川家治の治世。但し、この時期は田沼時代で「節儉の政令嚴刻なりしとき」というのとは、齟齬する。

「水野羽州」旗本で後に大名となった、老中で三河大浜藩主・駿河沼津藩初代藩主、沼津藩水野家第八代の水野忠友(享保一六(一七三一)年~享和二(一八〇二)年)であろあう。彼は明和六(一七六九)年に出羽守に遷任している。彼が老中格に異動するのは天明元(一七八一)年九月十八日であるが、この年は四月二日に安永十年から改元しているから、辛うじて齟齬しないと言える。

「聞屆て」「ききとどけて」。

「御用取次」御側御用取次(おそばごようとりつぎ)。将軍が日常生活する中奥の長官で、将軍と老中を取り次ぐ役職。第八代将軍吉宗が側用人を廃止した代わりに、紀伊藩時代からの家臣有馬氏倫(うじのり)と加納久通を大名に取り立てて任命したことが始まり。その後は、旗本役である側衆の中から二~三人が命ぜられるようになり、側用人復活以降も置かれた(御側御用取次でない側衆は平御側(ひらおそば)と称した)。老中は将軍に直接物を言うことも出来たが、平常は御側御用取次を介したので、単なる連絡役以上の権力を持つようになった。老中の申し出であっても、内容によっては将軍に取り次げないと撥ねつけたともされ、江戸城内では、老中・若年寄と同様、坊主が先導して「シーシー」と制止の声を出して歩いた。そのため、御側御用取次から大名に取り立てられて若年寄になったが、まるで左遷されたようだったと述懐する者もいたという(イミダス時代劇用語指南に拠る)。

「奧右筆組頭」「奧右筆」は若年寄の支配で、将軍自身が発給する文書の作成などを担当し、概ね、江戸城本丸の御用部屋に詰めた。ウィキの「によれば、従来の書記担当官である右筆は「表右筆」と呼ばれた。奥右筆はこの頃は十七名程度おり、表右筆(三十名前後、後に八十名前後)の中から奥右筆に転じる事例が増え、後にはこの表右筆から奥右筆へと昇格するようになった。『享保年間の制によれば、右筆の長である組頭の禄高を比較すると、表右筆組頭が役高』三百石で役料百五十俵で『あったのに対して、奥右筆組頭は役高』四百石で役料二百俵』と歴然とした差があった。また、『一般の右筆においても表右筆が』百五十『俵の蔵米の給与であったのに対し、奥右筆は』二百『石高の領地の知行だった』。『奥右筆はまた、幕府の機密文書の管理や作成なども行う役職で、その地位こそ低かったものの、実際は幕府の数多い役職の中でも特に重要な役職だった。現在で言うところの政策秘書に近い存在といえる』。但し、『奥右筆の中には幕閣(大老や老中)が集う会議で意見を述べることが許されていた者もいた』。『というのは、諸大名が将軍をはじめとする幕府の各所に書状を差し出すときには、必ず』、『事前に奥右筆によってその内容が確認されることが常となっていた。つまり、奥右筆の手加減次第で、その書状が将軍などに行き届くかどうかが決められるほどの役職だったのである。また、幕閣より将軍に上げられた政策上の問題について、将軍の命令によって調査・報告を行う職務も与えられていた。その報告によって幕府の政策が変更されたり、特定の大名に対して財政あるいは人的な負担を求められる事態も起こりえたのである』。『このため、諸大名は奥右筆の存在を恐れたともいう』とある。

「大前孫兵衞」不詳ながら、第五代将軍綱吉に仕えた同名の人物がいるから、その末裔か。

「論語とか申書物に出候人」「ろんごとかまうすしょもつにいでさふらふひと」。ブットだね!

「鳴呼」「ああ」!

「聖堂崩し」聖堂廃止。

「林大學」当時の大学頭は林家第五代林鳳谷(ほうこく 享保六(一七二一)年~安永二(一七七四)年)。

「唐」「もろこし」と訓じておく。

「わるゐ」ママ。

「先暫」「まづ、しばし」。

「見合せ置方」「みあはせおきかた」で一語か。ペンディングする対象。

「止し」「やみし」。

「驚入」「おどろきいり」。

明恵上人夢記 67

 

67

一、同廿四日の夜、夢に云はく、解脱の御房、來り給ふ。予、行水の爲に御湯帷(おんゆかたびら)を借り奉る。心に無禮(むらい)の思ひを作(な)す。卽ち、申し請ひて、御形見に擬(なずら)へむと欲す。時に、一つの作りたる蓮花を與へ、又、紙の裹物(つつみもの)を賜はる。此の蓮花は邪輪の如し。心に思はく、先日、又、賜はりきと思ふ。

[やぶちゃん注:「同廿四日」前条からの続きとして、「66」の四日後の承久二(一二二〇)年九月二十四日と採る。

「解脱の御房」底本注によれば、既に七年前に没している法相宗の僧貞慶(じょうけい 久寿二(一一五五)年~建暦三(一二一三)年)である。ウィキの「貞慶によれば、『祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲。号は解脱房。釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩、春日明神を深く信仰し、戒律の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たした。その一方で朝廷の信任も厚く、勧進僧と力を合わせ、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献した。勅謚号は解脱上人。笠置寺上人とよばれた。興福寺の衆徒が法然らの提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に奏上した『興福寺奏状』の起草者としても知られる』。『祖父信西は』「保元の乱」(一一五六年)の『功により』、『一時権勢を得たが』、「平治の乱」(一一五九年)では『自害させられ、また父藤原貞憲も土佐に配流された』。『生家が没落した幼い貞慶は望まずして、興福寺に入り』、十一『歳で出家叔父覚憲に師事して法相・律を学んだ』。寿永元(一一八二)年、『維摩会竪義(ゆいまえりゅうぎ)を遂行し、御斎会・季御読経などの大法会に奉仕し、学僧として期待されたが、僧の堕落を嫌って』建久四(一一九三)年、『以前から弥勒信仰を媒介として信仰を寄せていた笠置寺に隠遁した。それ以後般若台や十三重塔を建立して笠置寺の寺観を整備する一方、龍香会を創始し』、『弥勒講式を作るなど』、『弥勒信仰をいっそう深めていった』。元久二(一二〇五)年『には『興福寺奏状』を起草し、法然の専修念仏を批判し、その停止を求めた。しかし、法然に師事したのが』(『その時は既に亡くなっていたが』)『貞慶の叔父(父貞憲の弟)の円照(遊蓮房)であった』ともある。承元二(一二〇八)年、『海住山寺に移り』、『観音信仰にも関心を寄せた』。彼の没後の建長五(一二五三)年に『書かれた「三輪上人行状記」に、三輪上人(慶円)は、惣持寺の本尊・快慶作』の『薬師如来の開眼導師を解脱上人貞慶に依頼され』て『行ったとあるように』、『慶円三輪上人とは無二の親友であった』とある(下線太字やぶちゃん)。明恵が法然が没する建暦二(一二一二)年に法然批判の書「摧邪輪(ざいじゃりん)」を著し、翌年にも「摧邪輪荘厳記」を著して追加批判をさえしていること、明恵が建久元(一一九〇)年に法然が「選択本願念仏集」を著わすまでは、四十歳も年上の法然を非常に高く評価し、尊敬もしていた事実と強い親和性を持つ人物であると言える。なお、明恵の歌に、

   解脱上人の御許へ、花嚴善知識の曼荼羅、

   かきて送りたてまつり給ひけるついでに

 善知識かきたてまつるしるしには 解脱の門に入らむとぞ思ふ

という一首がある。底本注によれば、「花嚴善知識の曼荼羅」とは、「華厳経入法界品」に『説く、善財童子の求法を描いた曼荼羅』とある。

「行水」これは禊(みそぎ)を暗示させるものであろう。

「湯帷(ゆかたびら)」「湯帷子」。平安以後の上層階級で入浴時又は入浴後に着た麻の単 (ひとえ)麻や木綿でしつらえた。ここは入浴(禊)の際のそれであろう。

「無禮(むらい)の思ひ」湯帷子を借りたことを無礼なことであったとする、明恵の内心忸怩たる思いを指すと採る。

「申し請ひて、御形見に擬(なずら)へむと欲す」懇請した湯帷子が貰えたのか、貰えなかったのかは書かれていない。無論、貰えたのであろうが、寧ろ、夢の中では、その湯帷子が「作り物の蓮華」及び「裹物」に変ずるのだとした方が私は「夢」らしいという気がする。

「此の蓮花は邪輪の如し」「邪輪」は「よこしまな誤った法説」の意であり、前に「一つの作りたる蓮華」とあるから、これは「作り物」「紛い物」の偽の「蓮華」で、法然の専修念仏の虚説をシンボライズする黒アイテムであろうか? 則ち、ここで貞慶がその似非物の蓮華を明恵に与えるのは、専修念仏への論難を明恵が正当に受け継ぐことの象徴であり、「裹物」は正法(しょうぼう)の白アイテムであろうように私には見える。]

□やぶちゃん現代語訳

67

承久二年九月二十四日の夜、こんな夢を見た――

 解脱の御房が私のもとへと来られた。

 私は、その時、禊(みそぎ)の行水をしようとしたが、自分の湯帷子(ゆかたびら)が何故か手元になかったため、解脱上人さまの御湯帷子を、乞うて、借り申し上げた。が、しかし、そのことについて、内心、無礼な気が強くしてならなかった。

 そこで、言上申し上げて、強いて請うて、その御湯帷子を上人さまの御形見に擬(なぞら)えて、頂戴したい旨、強く望んだのであった。

 すると、その時、上人さまは、一つの、如何にも作りものであることが判然としたちゃちな蓮花を私に与え、また、紙で包んだ「ある物」を賜はられた。

 この蓮花はまさに邪輪――邪法――そのもののようなものなのであった。

 私はその時、心の中で、確かに、思ったのだ。

『先日もまた、これを私は、上人さまから、確かに、賜はったのであったなあ。』

と。

 

諸國里人談卷之四 高野の毒水

 

    ○高野の毒水(こうやのどくすい)

紀州高野山上に「玉川」と云〔いふ〕あり。此水に毒あり。傍(かたはら)に碑を立

               弘法大師

 わすれても汲やしつらん旅人の高野の奧の玉川の水

[やぶちゃん注:伝承では、高野山奥の院に向かう川(御殿川(おどがわ)の支流。(グーグル・マップ・データ))は上流には毒虫が多いため、水が毒化するからとされてきたが、聖カタリナ大学玉井建三教授二〇〇四年十二月二十二日の亜細亜大学アジア研究所第5回研究会の記録「玉川の文化環境 六ヶ所ある玉川を中心にして」によれば、古来の名数六玉川の内、『高野玉川だけは他の』五『つの清流とは異なり、辰砂(赤色硫化水銀)』(HgS)『が採れる毒水の流れる川である。高野山の開祖弘法大師が水銀の製法を中国からもたらし、辰砂を産する高野山を丹生族(にうぞく)からゆずりうけたのもアマルガムを作る水銀が目的ではなかったか。弘法大師が四国に足跡を多く残しているのも、中央構造線上に辰砂が多く産するからではないか。愛媛県の玉川町の鈍川(にぶかわ)も丹生川がなまったものと考えられる』。『先生は実際に辰砂とベンガラ(酸化鉄)のサンプルを持参された。色は鈍い赤茶色であるが、辰砂の比重はベンガラの』二『倍はあろうか』、『ズッシリと重い』とある。検索をかけたが、この石碑は現存しないか?

「わすれても汲やしつらん旅人の高野の奧の玉川の水」「風雅和歌集」(南北朝時代の勅撰和歌集(勅撰集第十七番目)。全二十巻。正平三/貞和四(一三四八)年頃完成)の「巻大十六の「雜歌 中」に弘法大師作として載る一首(一七七八番)、

   高野の奥の院へ參る道に、玉川といふ

   河の水上(みなかみ)に毒蟲の多かり

   ければ、此の流れを吞むまじきよしを

   しめしおきて後、詠み侍りける

 わすれても汲みやしつらん旅人の高野のおくの玉川の水

であるが、完全な偽作。Q&Aサイトの回答に、目から鱗の解説が載るので引用させて戴く。『空海の時代の和歌のスタイルではない。その上、二句のところ、後の世代の人に警告を発する意味なのだから、「くみやせむ」(汲んでしまうだろうか)と言うべきであるのに、(和歌の文字数の関係で)そうは言いにくいので、「しつらむ」と言ったのであろうが、この言葉は適切でない。「しつらむ」は「汲んだのだろうか」と過去を振り返る言い方だからである。どうして「くみやしぬべき」(汲んだりすることがあるべきだろうか、あってはならない)などと詠まなかったのだろうか。一般に、「べき」「べし」と言うべきことを知らないで、当然「べき」「べし」を使うべきところを「らむ」と言うのは、後世の人がよくやることである。この歌は風雅集に掲載されていて、その詞書に「(高野の奥の院へまゐる道に、玉川といふ河の水上に毒虫おほかりければ)此流を飲まじきよしをしめしおきて後よみ侍りける」とあるのは、「しつらむ」という言葉がおかしいから、無理矢理(この歌の意味が通じるように読み手を)助けようとして、このように書いてあるのに違いないけれども、この歌の本来の意味は、警告を発して後に詠んだということではない。この歌の詠み手が言いたかったのは「これから後、もしかしたら汲んでしまうだろうか」という意味だったのだ』。]

諸國里人談卷之四 有馬毒水

 

    ○有馬毒水(ありまのどくすい)

湯本の南五町ばかりに池あり。此水、毒あり。印(しるし)の卒都婆あり。誤(あやまつ)てこれを飮めば、卽死す。鳥・虫、此水に觸(ふれ)れば、又、死す。よつて「鳥の地獄」・「虫の地獄」と云。すべて、此谷を「地獄谷」といふ也。

[やぶちゃん注:「有馬温泉観光協会」前条で掲げた公式サイト内の有馬温泉マップ&周辺案内地獄によれば、『瑞宝寺公園から鼓ヶ滝に向かう道路の左側の見過ごしそうなところにあります。愛宕山のふもとではかつて』三『つの穴から温泉が湧き』、『炭酸ガスが発生していました。これに近づいた鳥や虫が死んだため、いつしか土地の人々は鳥地獄、虫地獄、炭酸地獄と呼んでいました』。『今は石の標識だけが残っています』とあり(地図と石の標識の写真有り)、「湯本の南五町」(約五百四十五メートル強)ほどにあった「池」は消失したことが判る。また、鳥や虫が死ぬのは、お定まりの火山性ガスで硫化水素ではなく、多量の二酸化炭素による窒息死であるらしいことが判る。]

諸國里人談卷之四 皷瀧【蛛滝 有明櫻 屏風岩 高塚淸水】

 

    ○皷瀧(つゞみのたき)【蛛滝 有明櫻 屏風岩 高塚淸水】

攝津國有馬郡湯本の南八町ばかりにあり。水の落(おつ)る音、皷の聲(こへ[やぶちゃん注:ママ。])に似たり。よつて此名あり。それより八町山奧に「蛛滝(くもたき)」といふあり。蛛の網をはりたるごとくに、四方へちりて落(おつ)る也。「皷の瀧」の傍(かたはら)に「有明櫻」と云〔いふ〕名木あり。○「屏風岩(びようふういわ[やぶちゃん注:ママ。])」。「四十八瀨川」の内にあり。弘法大師六字の名号を書(かき)給ふ。雨降りて濕(うるほひ)せば、今以〔いまもつて〕見ゆるなり【高〔たけ〕五丈斗〔ばかり〕の大石也。】。○「高塚(こうづか)の淸水(しみづ)」と云〔いふ〕冷水あり。秀吉公、有馬入湯の時、茶の湯の水とす。

[やぶちゃん注:「皷瀧」有馬温泉温泉街から南南西へ直線で八百八十メートル圏内(「南八町」(八百七十三メートル))の位置にある。(グーグル・マップ・データ)。「有馬温泉観光協会」公式サイト内の有馬温泉マップ&周辺案内鼓ヶ滝公園によれば、『うっそうとした木々の間から、ポン!ポン!と鼓を打つかのような軽やかな落水の響きが滝壷から聞こえていたことに由来する名称です。六甲山の清らかな水がとうとうと流れ落ち、森林浴に最適です。初夏の夕暮れには蛍があたり一面をとびかうなか、涼やかなカジカの鳴き声が聞こえます』とあり、同ページに「有明櫻」の写真も載る

『それより八町山奧に「蛛滝(くもたき)」といふあり』鼓ヶ滝の上流域には「蛛滝」は見出せない。しかし、グーグル・マップ・データで見ると、当該距離の附近には多数の砂防ダムが形成されている(。或いはこれがその名残なのかも知れぬ)から、或いは滝は消滅してしまったのかも知れない。但し、その直近の上流部分には「滑滝」・「白石滝」・「七曲滝」・「蟇滝」がある。「蟇」がありゃ「蜘蛛」もあろうと思われる。

「屏風岩」不詳。「四十八瀨川」(現在の大多田川。後注参照)の川中に存在し、「弘法大師」が「六字の名号」(「南無阿彌陀佛」であろう)を書いたもので、今でも「雨降りて濕(うるほひ)せば」見える、高さ「五丈斗」(十五メートル強)の「大石」という条件を満たすものは蓬莱峡の小屏風岩や大屏風岩であろうか。但し、調べると後者の高さは四十~五十メートルもある(前者はその半分とあるから、或いは小屏風岩のことを指すか?)し、今は弘法大師の話も見当たらず、専らロック・クライミングの記事ばかりだから、ここじゃあないのか? 識者の御教授を乞う。

「四十八瀨川」当時、有馬温泉に向かう一般的なルートは、生瀬(なまぜ:現在の兵庫県西宮市生瀬町(なまぜちょう))の宿から有馬街道を辿るのが一つであった。有馬温泉の土産物店「吉高屋」店主kamejirusi氏のブログ江戸時代の有馬温泉へ『いらっしゃ~い!』①記事によれば(古書・古地図の画像多く、必見)、『山崎(大山崎町)、芥川(高槻市)、郡山(茨木市)、瀬川(箕面市)、池田、米谷(宝塚市)を経て、武庫川を渡船し生瀬(なまぜ)宿に至りました。)、翌朝』、『大多田川の河原から”四十八瀬”を遡り、「座頭谷」(昔、盲人が湯治の為有馬へ行く途中迷い込み餓死したという伝説があり、今でもバス停の名前になっています。)などの難所を経て』、『やっと舟坂の休み所(現西宮市山口町船坂)に到着。暫く休憩した後、再度河原等を伝って、午後になって遂に有馬にたどり着きました』(下線太字やぶちゃん)とあり、「四十八瀬飛越の図」も示されている。則ち、「四十八瀬」とは有馬街道に併走する武庫川の支流大多田川を何度も渡渉しなければならないことを指していることが判る。実際、グーグル・マップ・データ(例えば)を見ると、この大多田川は現在、多数の砂防堤が設置されており、かなりの暴れ川であったことが判るのである。kamejirusi氏も続けて、『生瀬から有馬に至るこのルートは湯山道(生瀬街道)と呼ばれ、滑稽本』「滑稽有馬紀行」(文政一〇(一八二七)年刊。文・挿絵ともに浮世絵師福智白瑛(狂歌名・大根土成)作。木版墨摺三冊。滑稽本の体裁で有馬温泉を案内した手引書とkamejirusi氏の先行文にある)『でも紹介されていますが、面白いのは生瀬で間違って土橋を渡ってまっすぐ行くと丹波、播州に通じる道で、有馬へ行く湯山道(生瀬街道)は左側の大多田川の河原に下りて”四十八瀬”の道無き道を岩から岩に飛び移りながら行かないと行けなかった点で、しかも暴れ川だった』ため、『大水の度に微妙にコースが変わったそうです。(生瀬から有馬までは』二里(約八キロメートル)で、『『滑稽有馬紀行』では主人公の太郎助と才六は道を間違えて土橋を渡ってしまい、とんでもなく時間をロスしたり、四十八瀬ではずぶ濡れに成り』、『裸になりながら』、『船坂に到着するというお定まりのボケをかまします』とあるのである。

『「高塚(こうづか)の淸水(しみづ)」と云〔いふ〕冷水あり。秀吉公、有馬入湯の時、茶の湯の水とす』個人サイト「NATURAL HIGH FREAKSで、「鼓ヶ滝」の上流に現存(二〇〇二年に再発見)することが判った(地図有り)。但し、写真を見る限りでは管理が悪く、かなり荒れている。]

2018/07/16

諸國里人談卷之四 裏見滝

 

    ○裏見滝(うらみのたき)

下野國日光山に四十八瀧あり。「裏見の瀧」は大石、山の崖(はな)に出〔いで〕て岩窟あり。高〔たかさ〕一丈あまり、深さ二丈ばかり。三途川の媼(うば)とて老女の石像あり。これより瀧の本(もと)に出〔いで〕て、瀧の裏を見る。高二丈ばかり、上に石像の不動明王あり。これを見る者、恐怖して敬せずといふ事、なし。不淨の人、玆(こゝ)に至れば、天狗のために命(めい)を失ふ、と云〔いへ〕り。

[やぶちゃん注:ウィキの「四十八によれば、「日光四十八滝」は栃木県日光市内の「華厳の滝」・「霧降の滝」・「竜頭の滝」・「湯滝」・「裏見滝」・「初音滝」・「寂光滝・「白糸滝」・「丁字滝」・「玉簾の滝」・「マックラ滝」などが知られるところで、『日光市一体の滝の総称』であり、『日光七十二滝とも呼ばれる』とあり、『実際に四十八滝存在するといわれる』ものの、『含まれる滝は諸説あり』、確かでないとする。中でも「華厳の滝」と「霧降の滝」『は日本の滝百選、華厳の滝は日本三名瀑』(後の二つは和歌山県那智勝浦町の「那智の滝」と、茨城県大子町(だいごまち)の「袋田の滝」)の一つであるとある。この「裏見滝(うらみのたき)」は栃木県日光市丹勢町にあり、現行の落差は十九メートル、滝幅二メートルである。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「裏見の滝によれば、『滝の裏には』寛永元(一六二四)年に『出羽三山から迎えられたという不動明王像が現在もある。松尾芭蕉は』元禄二(一六八九)年に『裏見滝を訪れ、滝に関する記述と俳句を奥の細道に残している』。但し、明治三五(一九〇二)年に『滝上部の岩が崩壊し』、『裏から見ることができなくなった』とある。

「岩窟」「高〔たかさ〕一丈あまり、深さ二丈ばかり」岩窟の高さは三メートル余で、穴の深さは六メートルほど。

「三途川の媼(うば)とて老女」三途川の渡し賃六文銭を持たずにやって来た亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼である奪衣婆(だつえば)。ウィキの「奪衣婆によれば、江戸『末期には民間信仰の対象とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立された。民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の百日咳に効き目があるといわれた』とある。]

諸國里人談卷之四 津志瀧

 

   ○津志瀧(つしだき)

安藝國山縣(やまがた)郡津志瀧の上に霊験の觀音あり。瀧の下に「潛石(くゞりいし)」とて、さし出〔いで〕たる石あり。瀧水、これにあたつて漲(みなぎ)り、浪を飛(とば)するに、參詣の人、傍(かたはら)に立(たつ)て、「滝水、とゞめ給へ」と喚(よばは)つて念ずれば、しばらくがほど、水、一滴も落(おち)ず。その間に、石の下を潛(くゞ)り、走り通るなり。是、大慈大悲の佛力(ぶつりき)奇なりといふべし。「念彼(ねんぴ)」の段に「波浪不能投(はらうふのうもつ)」とあるは、則(すなはち)、是なり。

[やぶちゃん注:「安藝國山縣(やまがた)郡津志瀧」これは現在の広島県山県郡北広島町中原龍頭山(りゅうずやま)のことではなかろうか? (グーグル・マップ・データ)。北広島町都志見(つしみ)の北境界外直近がピークである。滝は同山の南東麓のNAVITIME)に「津志瀧」ではないが、「駒ヶ滝」(名馬「摺墨」と「生喰(いけづき)」が育った地と伝承することに由来)という江戸時代から知られた名瀑があり、いろいろ調べてみると(ハイカーや登山サイトで複数確認)、この滝の背後には弘法大師所縁の洞窟があるとし、そこに(「津志瀧の上」ではないが)観音像があって、現在も滝を潜って参拝することまで突き止めたので、沾涼が言っているのはこの滝と考えてよいであろう。この話、柳田國男「一目小僧その他」の「隱れ里」に『廣島縣山縣郡都志見の龍水山に、駒ケ瀧一名觀音瀧と稱して高さ十二丈幅三丈の大瀧あり、其後は岩窟で觀音の石像が安置してあつた。始め瀑布の前に立つ時は水散じて雨の如く、近づくことは出來ぬが、暫くして風立ち水簾轉ずれは、隨意に奧に入り佛を拜し得る、之を山靈の所爲として居たさうである』と出る。柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一〇を読まれたい。

『「念彼(ねんぴ)」の段』「観音経」の冒頭で掲げる「法華経」の「観世音菩薩普門品」の「偈)」の一節、「或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼觀音力 波浪不能没(わくひょうるーこーかい りゅうぎょーしょーきーなん ねんぴーかんのんりき はーろうふーのうもつ)」を指す。――或いは大海原に漂い流され、龍や異魚や数多の鬼神の難に遭遇しようとも、かの観音の広大無辺の慈悲の力を念ずれば、大波浪といえども沈めることは出来ぬ。――の意。]

諸國里人談卷之四 嶋遊

 

    ○嶋遊(しまのあそび)

西國の海上に、𢌞船(くわいせん)、「夜沖掛(〔よ〕おきがゝり)」とて、沖中に碇(いかり)をおろして泊る事あり。深更におよんで、間近きに、一の嶋、出來〔しゆつらい〕して、樹木・民屋、立(たち)つらなり、行(ゆき)かふ人、あまたにして、商人(あきびと)の物賣〔ものうる〕躰(てい)など、髣髴と見ゆる。「いつの間にかは、磯ちかきに舩や寄(よせ)けん」とうたがふに、明(あく)れば、嶋はなく、渺々たる海原也。たゞ夢に見たるがごとし。これを「嶋の遊び」といへり。此事、多くはなし。稀の事也。案(あんず)るに蜃氣樓の類ひなるべし。

[やぶちゃん注:挿絵有り(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースのの画像)。これこそ「蜃気楼」の別称にして、私の好きな語「海市(かいし)」そのものと言える。優れた蜃気楼考証サイト「小樽蜃気楼(高島おばけの不思議)」の「特異な名称」に本「島遊び」も挙げられてある。私はそこに挙げられてある古代ケルト人の「ファタ・モルガナ」(Fata Morgana:これ自体はイタリア語。アーサー王伝説の中で、魔術師で王の義姉モルガン・ル・フェ(Morgan le Fay)に由来し、fairy Morgan の意。イタリアのメッシーナ海峡(Strait of Messina)の蜃気楼がモルガンの魔術によって作られるという言い伝えがあったことによる)も好きな語だ。ファタ・モルガナは完全に絶望した人間にのみ見えるとも言われる海の蜃気楼なのである。]

諸國里人談卷之四 浮嶋

 

    ○浮嶋(うきしま)

出羽國最上郡羽黑山の梺(ふもと)、佐澤(ささは)に「大沼」といふあり。これに大小六十六の浮嶋あり。徑(わたり)、三、四尺より、一丈二、三尺に至る。をのをの國々の名ありといへども、分明ならず。勝れて大き成(なる)嶋を「奧州嶋」といふのみなり。池の眞中に、動かざる小〔ちさ〕き島に、葭(よし)・芦(あし)、生(おひ)たり。これを「芦原嶋」と号(なづけ)けたる也。六十余の嶋々、常は汀(みぎは)に片寄り、地に副(そひ)てあり。皆、松柏(しやうはく)茂り、桃・櫻・藤・山吹など生ひたり。春・夏・秋かけて日每に浮(うか)み旋(めぐ)る。風にしたがひて行、また、風に向(むかひ)て行〔ゆく〕もあり。時として、二十島、三十島も、うかみ巡(めぐ)る也。春夏、花の盛(さかり)は、藤・山吹・つゝじ・さつきの、水に映じて、風景、斜(なゝめ)ならず。この嶋々、汀(みぎは)にある時、出〔いで〕んづる嶋は、震(ゆる)ぎ動き出〔いで〕て、出〔いで〕ざる嶋を押隔(おしへだて)て出〔いづ〕る事、尤(もつとも)、奇也。祈願の人あつて、その志(こゝろざす)所の嶋をさして、旋行(せんかう)を考ヘ、吉凶を占ふ事、あり。

[やぶちゃん注:これは「羽黑山の梺」でもないし(羽黒山からは南南東四十三キロメートルも離れる)、「佐澤」という地名でもないのだが、どう考えても、卷之一 芝祭で推定比定した山形県西村山郡朝日町の浮島で知られる「大沼」以外には私にはやはり考えられない(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「三、四尺」九十一センチメートルから一メートル二十一センチメートル。

「一丈二、三尺」三メートル六十四センチメートルから三メートル九十四センチメートル。

「その志(こゝろざす)所の嶋をさして、旋行(せんかう)を考ヘ、吉凶を占ふ事」私は占うための特定を浮島を決め、事前に、その島がどの方向にどういう風に池の中を旋回し移動するかを本人が予測して予め決めて記しておき、実際にほぼその通りに移動すれば、祈願は成就するといった占い法ではないかと思う。漠然と、ただ島を決めて、漫然と動くの待って、その航跡を以って祈願成就を占うというのでは、自分(或いは占卜者が別にいるのかも知れぬが)の都合のよいように占いを読み解いてしまって、占いにならんように私は思うからである。]

諸國里人談卷之四 念佛池

 

    ○念佛池(ねんぶついけ)

美濃國谷汲(たにぐみ)と坂下(さかのした)との間に小〔ちさ〕き池あり。渡せる橋を「念佛橋」といふ。池の中に石塔あり。誰人(たれ〔ひと〕)の立〔たて〕たるといふをしらず。往來(ゆきゝ)の人、橋のうへにして、石塔にむかひ、念佛すれば、水面(すいえん)、玉のごとく、「沸々(ぶつぶつ)」と涌(わく)がごとくに泡だちて、鳴(なる)也。しづかに念佛すれば、しづかに泡立(あはだち)、責念佛(せめねんぶつ)を申せば、聲に應じて、その泡、多く立(たつ)なり。よつて「念佛池」といふ也。

[やぶちゃん注:「美濃國谷汲(たにぐみ)と坂下(さかのした)との間」鬼丸鬼丸のブログ根陣屋跡揖斐川町) 「巡拝」の記事によって現存することが視認出来たのであるが、場所が判らない。グーグル・ストリートビューでここと思しいところをうろつくうち、遂に発見した! (グーグル・マップ・データ)! 鬼丸氏の説明板(揖斐川町商工会谷汲支部)の写真から電子化する。傍点「●」は太字とした。

   *

 念仏池(揖斐川町谷汲名礼)

花山天皇が西国三十三番を巡礼せられた時、谷汲山に詣られ帰り道で当所に休んで念仏を唱えられていると、その地から水が湧きでてきました。

そして法皇の念仏に仏・仏を和しました。この故事により念仏池と呼びその中に地蔵様を祀る、お堂を造りました。現在も地域住民は毎年八月地蔵様のお祭りを行っています。

渇水時もこの池の水は満々と堪えられていて[やぶちゃん注:「堪」は「湛」の誤字であろう。]農業用水に利用されています。

   *

地名「名礼」は「なれ」と読む。

「責念仏」鉦を鳴らしながら高い声で急調子に唱える念仏。「せめねぶつ」とも呼ぶ。]

諸國里人談卷之四 入梅井

 

    ○入梅井(つゆのゐ)

攝津國矢田郡(やたのこほり)丹生庄(にふのしやう)原野村、栗花落(つゆり)左衞門がやしきの内に井あり。徑(わた)り三尺、深さ一尺ばかり、凹める所、常は、水、なし。入梅(つゆ)に入〔いり〕て、水、涌(わき)いづる也。入梅は立春の後(のち)、凡(よそ)百三十五日にあたる。此(この)候(こう)、柘榴花(ざくろのはな)、はじめて開き、栗花(くりのはな)、徐(ゆくゆく)落(おつ)。「本草」、梅黃(ばいわう)の説を以〔もつて〕、「入梅(つゆ)」の字を用(もちゆ)る也。此〔この〕左衞門、始祖は眞勝(まかつ)といふ。橫佩右大臣(よこはぎうだいじん)の聟(むこ)にて、累代久しき家也。豐成卿(ちょなりきやう)の娘白玉姫は、中將姫の妹(いもと)なり。中夏のころ、此地におゐて[やぶちゃん注:ママ。]薨ず。遺骸(ゆいがい)を納(おさむ)る所に祠(ほこら)をたてゝ、辨財天に祭る也。其地について、水、涌出(ゆうしゆつ)し、今に中夏の候をしらしむると云〔いへ〕り。

[やぶちゃん注:「攝津國矢田郡(やたのこほり)丹生庄(にふのしやう)原野村」「矢田郡」は「矢田部」の誤り(「八田部」「八部」等とも書く)。現在の神戸市北区山田町原野で、同地区の札場(ふだば)に「栗--落(つゆ)の井」として現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。「兵庫県立歴史博物館ネットミュージアム ひょうご歴史ステーション」内の「ひょうご伝説紀行 ―語り継がれる村・人・習俗―」の「栗花落の井」に掲げられた現地の掲示画像(神戸市北区役所及び山田民俗文化保存会のもの)を以下に電子化する(和歌の部分は行間を詰めた)。

   *

     「栗花落(つゆ)の井」伝説

 丹生山田の住人、矢田部郡司(やたべこおりのつかさ)の山田左衛門尉真勝(さえもんのじょうさねかつ)は、淳仁(じゅんにん)天皇に仕えていたが、左大臣藤原豊成の次女白瀧姫を見初め、やみ難い恋慕の情に苦しんだ。真勝の素朴で真面目な人柄に感心された天皇は自ら仲立をして夫婦にされたので、真勝は喜んで姫を山田へ連れ帰ったという。才色優れた白瀧姫と真勝との幸福な生活は、結婚三年にして男の子一人を残して姫は亡くなってしまった[やぶちゃん注:文章の呼応がおかしいが、ママ。]。真勝はその邸内に弁財天の社を建て姫を祀った。毎年五月、栗の花が落ちる頃、社の前の池に清水が湧き出て、旱天(ひでり)でも水の絶えることがなかったという。それにより姓を「栗花落(つゆ)」と改め、池を「栗花落(つゆ)の井」と名付けたという。

 

  真勝から白瀧姫へ送った恋歌

『水無月の 稲葉の末もこかるるに

          山田に落ちよ白瀧の水』

  白瀧姫から真勝へ送った恋歌

『雲たにも かからぬ峰の白瀧を

     さのみな恋そ 山田をの子よ』

  *

リンク先の解説には、『長方形の石組みがある井戸は、さほどの深さもない。しかし毎年梅雨のころになると必ず清水がわき出し、どんな日照りでも秋までかれることがないというのは、不思議な話である。この井戸は、主人公である山田左衛門尉真勝(やまださえもんのじょうさねかつ)の子孫(栗花落氏)によって整備され、今も大切に祭られているというから、子孫にとっても地元の人々にとっても、まさしく伝説が生きている場所である』。『栗花落の井にわく水は、水路をめぐり、あたりの田を潤してきた。「白滝姫」という美しい名とともに、伝説は里人の間で息づいてきたのだろう』とある。「淳仁天皇」(淡路廃帝:あわじはいたい:敵対した女帝孝謙天皇(淳仁天皇の後に重祚して称徳天皇)により長く天皇の一人と認められなかった。彼は彼女に殺されたと推定されている)の在位は天平宝字二(七五八)年から天平宝字八(七六四)年。「左大臣藤原豊成」(大宝四(七〇四)年~天平神護元(七六六)年)は藤原鎌足の曾孫。最終官位は右大臣従一位。彼の娘中将姫(天平一九(七四七)年~宝亀六(七七五)年)は長谷観音のお告げで奈良当麻寺(たいまでら)にある「当麻曼荼羅」を織ったとされる伝説的女性。なお、この「栗花落の井」はさらに調べてみると、現在は「原野厳島神社」となっていて、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を主祭神とし、配祀神を白瀧姫としている。兵庫県神社庁公式サイト内同神社を参照されると、解説は勿論、祭祀堂の写真が先のリンク先と同一建物であることが判る。

「本草」「本草綱目」の「巻之五 水部」の「梅雨水」に、

   *

發明藏器曰江淮以南、地氣卑濕、五月上旬連下旬尤甚【「月令」。】。土潤溽暑、是五月中氣。過此節以後、皆須曝書畫。梅雨沾衣、便腐黑。浣垢如灰汁、有異他水。但以梅葉湯洗之乃脱、餘並不。時珍曰梅雨或作霉雨、言其沾衣及物、皆生黑霉也。芒種後逢壬爲入梅、小暑後逢壬爲出梅。又以三月爲迎梅雨、五月爲送梅雨。此皆濕熱之氣、郁遏熏蒸、釀爲霏雨。人受其氣則生病、物受其氣則生霉、故此水不可造酒醋。其土潤溽暑、乃六月中氣、陳氏之誤矣。

   *

そこで時珍は「芒種」後の最初の壬の日(グレゴリオ暦六月十日頃)が梅雨入りであり、「小暑」後の最初の壬の日(七月十二日頃)が梅雨明けであるとしている。今年(二〇一八年)は驚くべきことに六月末に梅雨明けしてしまった。最早、人間だけでなく、季節も狂い始めている。「梅黃の説」とは「梅の実が黄ばむ頃に梅雨が始まるという説」の意。]

進化論講話 丘淺次郎 第十七章 變異性の研究(四) 四 周圍の色による變異

 

      四 周圍の色による變異

 

Firesaramandora

[斑紋性山椒魚]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた。以下も同じ。]

 

Hanmonseisansyouuoheni

[山椒魚の變異

(右から)

黑い土の上で養つたものとその子

黃色の土の上で養つたものとその子]

 

 ヨーロッパに普通な山椒魚の一種に、黃と黑との鮮明な斑を有するものがある。大きさは我が國の「いもり」よりは稍大きく、常に陸上に棲んで胎生する。昔から火事を消す不思議な力があると云い傳へられたために、俗語では「火の山椒魚」といひ、また學名は漢語に譯すれば、斑紋性山椒魚となる。先年或る大學の教授が洋行の歸りに持つて來たとて、二三の新聞紙上に煩悶性山椒魚[やぶちゃん注:ママ。]と書かれたのは之であつた。さて、この動物に就いてカンメレルの行ふた頗る面白い實驗がある。普通には體の表面の黑い所と黃色い所とが約半分づゝ位であるが、幼い時から之を眞黑の土の上で養つて置くと、生長するに隨つて、黑い部分が段々增し、黃色い所が次第に減じて、終には普通のものに比して著しく黑色の勝つたものに成る。また之に反して、幼い時から黃色い土の上に飼つて置くと、黑い所が段々減じて著しく黃色の勝つたものに成つてしまふ。もと同一のものを、一方は黑い土の上に、一方は黃色い土の上に飼ふたために、かやうな相違が生じたのであるから、これは外界からの影響を受けて後天的に現れた變異であるが、更に之を繁殖せしめて、第二代目には如何なるものが出來るかと實驗して見た所が、黃色くなつた親から生れた子を、黃色い土の所で育てたら、生長するに隨つて益[やぶちゃん注:「ますます」。踊り字はない。]黃色が增し、終には黑い所は殆どなくなつて、略全身黃色いものが出來た。若し人爲的に黃色に仕立てた親の性質が全く子に傳はらぬものとすれば、子の代に成つても、やはり親と同一の出發點から、變化し始めねばならぬ故、一代の間に外界から同一の影響を受けて、親と同じ程度までに黃色くなることは當然であるが、親よりも一層黃色の進んだものと成るべき理窟はない。かやうに子の方が親よりも一層黃色になつたのは、如何に考へても親の黃色い性質が幾分か子に傳はり、その上に子が更に親と同樣の變化をしたから、兩方が積み重なつて生じた結果と見倣すの外はないであらう。

[やぶちゃん注:底本は改行となっているが、次の一字下げがない。下げておいた。

「斑紋性山椒魚」田原真人サイト「エピジェネティクス進化論の「ポール・カンメラー(Paul Kanmererによれば、この実験で用いられたのは『サラマンドラ・マキュロサ・フォルマ・ティピカ』とある。Salamandra maculosa forma tipica と思われるが、Salamandra maculos は両生綱有尾目イモリ亜目イモリ科サラマンドラ属ファイアサラマンダー Salamandra salamandra のシノニムであり、海外サイトでは、Salamandra tipica と記載するものもある。田原氏の解説には、『変種サラマンドラ・マキュロサ・フォルマ・ティピカは、黒地に不規則な黄色の斑点がある』。『カンメラーが、この種の一群は黒土の上で育て、一群は黄土の上で育てたところ』、六『年目に完全な成熟期に達したときに、体色が適応的に変化した』。『カンメラーは、さらに、黒土に体色を適応させた親から生まれた子を黒土の上で育てた。その結果、子供は、背中の正午線に沿って一列に並ぶ黄色の斑点を持って生まれ、この斑点は次第に小さくなって消失した』。『また、一方で、黄色に体色を適応させた親から生まれた子を黄土の上で育てた。その結果、子供は、対称的に』二『列に並ぶ黄色の斑点を持って生まれ、その斑点が二本の幅の広い黄色の縞になった。そして』、三『代目になると「一様にカナリア色」になった』とある。広義の「ファイアサラマンダー(火蜥蜴)」については、ウィキの「ァイアサラマンダー」を参照されたい。

「昔から火事を消す不思議な力があると云い傳へられた」株式会社タンタカの作成になる不思議のチカラの「火の精霊サラマンダー。古代ギリシャから伝わる精霊によれば、

   《引用開始》[やぶちゃん注:見出しの画像記号を「*」に代えた。]

16世紀のヨーロッパで、火、水、空気(風)、土の「四大元素」を司る「四大精霊」がいると提唱したのは、錬金術師で医師、化学者で神秘思想家のパラケルススという人でした。

この四大精霊のうち、火の精霊は「サラマンダー」という名前で呼ばれています。

サラマンダーとは何なのでしょうか。じつは現実のサラマンダーとは、実際に地球上に生息する両生類のうち有尾類の生物のことなのです。

*サラマンダーはサンショウウオ?

日本では、この生き物のサラマンダーを「サンショウウオ」とすることが多いようですが、実際にはイモリの仲間も区別しないでサラマンダーと呼ばれるのだそうで、“火蜥蜴”と称される「ファイアーサラマンダー」は体長15cmから25cmくらいのイモリ科の生物です。

それではこの生き物のサラマンダーが、どうして火の精霊になったのでしょうか。

*火のドラゴン・サラマンダー

古代ギリシャでは、サラマンダーは小型のドラゴンに近い爬虫類であると考えられていました。ドラゴン(龍)は洋の東西を問わず、火や風、水など四大元素を操る存在なのですが、口から火を吐くドラゴンといったように、火とは特に関係性が近かったのかも知れません。

特にサラマンダーは火の中でも生きることができるとされ、古代ギリシャ人やその哲学と魔術的思想を受け継いだヨーロッパの錬金術師たちは、サラマンダーを火の元素とイコールに考えるようになりました。

一方で北の古代ヨーロッパ、ケルト人やチュートン人、デーン人の伝承に登場する火を吐くドラゴン「ファイアー・ドレイク」も、溶岩やマグマの中を泳ぐことができ、火の精霊と同一視されていたそうですから、古代世界では火の元素の象徴であるドラゴンが、やがて実在するサラマンダーという生き物を象徴的に捉えていったのかも知れません。

*サラマンダーは火を操る存在??

先ほどご紹介した実際にヨーロッパに生息するファイアーサラマンダーは、決して火の中でも平然と活動できるというわけではなく、また黒と黄色の皮膚の身体が火のように真っ赤になるというわけでもありません。

なぜこういう名前がついたのかというと、ファイアーサラマンダーは中が空洞になった樹木の丸太の中で冬眠するという習性があり、人間がその丸太を焚き火などで火にくべるとファイアーサラマンダーが慌てて這い出し、その様子がまるで火の中から出て来たように見えたからだということです。

後にパラケルススは、サラマンダーを含めた四大精霊はそれぞれ人間の姿に似ていて、話し方や振る舞いも人間に近いとしています。しかしそれよりも遥か古代のギリシャでは、例えば哲学者のアリストテレスがサラマンダーとは「火の中でも燃えない動物」であり「火の中を歩いて、火を消す」とも言っていて、火を怖れる古代世界の人びとにとってサラマンダーは火を操る存在と認識していたのでした。

   《引用終了》

とあることで、この「火を消す」という奇怪な伝承の意味が判る。なお、ファイアサラマンダーは有毒な液体を噴射することでも知られるウィキの「ァイアサラマンダー」によれば、『後頭部の両側と、背中の正中線にそって』二『列に並んで』、『顆粒状の毒腺がある。ファイアサラマンダーの毒腺の大きさは有尾類中最大であ』り、『オスはメスよりやや体が小さく、特に繁殖期では総排泄孔がより膨れている』。『有尾類の多くが外敵からの防御のため』に『皮膚から有毒あるいは刺激性の分泌物を出す。これの毒は表皮につく雑菌や寄生虫を防ぐ役にも立っているらしい。ファイアサラマンダーの場合は サマンダリン』(SamandarinC19H31NO2)・SamandaridinC21H31NO)・SamanderonC22H31NO2)と複数種存在する)『というアルカロイド系の神経毒を持つ。これは全ての脊椎動物に対して有効な、過呼吸を伴う筋肉の痙攣と高血圧をもたらす毒物である』。『毒腺は後頭部の両側にある耳腺と背部の正中線に沿った部分に集中している。ファイアサラマンダーの毒腺は骨格筋に囲まれており、その力で乳白色の毒液を高速』(秒速三メートル)『で正確に相手を狙って噴射することができる。ここから発射する毒液が炎のように見えた為、ファイアーサラマンダーと呼ばれるようになったとも考えられている。このような技のため、ファイアサラマンダーは他種と比べて』、『ごく少量の毒で身を守ることができるようだ。有尾類の毒はコレステロール派生物であり、生産に大量のエネルギーを要し、エネルギー貯蔵の役割も果たしているという説もある』とある。

「カンメレル」ウィーン生まれの世界的に知られた遺伝学者で、獲得形質の遺伝を主張したラマルク説の支持者であったパウル・カンメラー(Paul Kammerer 一八八〇年~一九二六年)。冒頭既出既注。]

 

 以上の如き實驗は、今日の所まだ數多くはないが、たとひ少數なりともかやうな確な實驗がある以上は、親が一生涯の間に外界からの影響を蒙つて新に獲た性質は、少くも、或る場合には子に傳はるものと斷定しなければならぬ。

進化論講話 丘淺次郎 第十七章 變異性の研究(三) 三 注射による變異

 

     三 注射による變異

 

[やぶちゃん注:この「三 注射による變異」というおどろおどろしい題名の条は、少なくとも、国立国会図書館デジタルコレクションの「進化論講話」の六種の版(国立国会図書館デジタルコレクションの「進化論講話」検索結果)の中で、底本とした東京開成館から大正一四(一九二五)年九月に刊行された『新補改版』(正確には第十三版)にのみ独立項として存在し、それ以前の諸版には影も形もないから、本第十三版(個人サイト「科学図書館」にある第十二版(PDF)にも存在しない)で新たに起されて挿入されたものであることが判る。所持する講談社文庫版は底本書誌を明記しないが、「はしがき」が大正三(一九一四)年十月をクレジットするので、同大正三年十一月開成館発行の修正十一版 進化論講話」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの同書)を底本としていることが判るが、そこには当然の如く、この条はまるまる存在しない。縦覧してみると、明治四二(一九〇九)年刊の(開成館新世紀叢書)の「第十五章 外界より動植物に及ぼす直接の影響」の中の「四 其結果の遺傳すること」の一節(国立国会図書館デジタルコレクションの当該書の当該ページ)に、

   *

又之少し種類の違ふ例は、アブリン・リチンなどといふ劇しい毒藥を普通の鼠に食はせれば、直に死んで仕舞ふが、エーリッヒといふ醫學者の實驗によれば、始め極少量を與へて、漸々其量を增して行くと、終には此毒に感ぜぬ性質が生じ、其所謂免疫性が子に傳はるとのことである。

   *

(「アブリン」abrinC12H14N2O2。毒性タンパク質(有毒アルブミン)で経口致死量は三マイクログラムとされる。「リチン」トウゴマ(ヒマ)の種子から抽出される強毒性タンパク質リシン(Ricin)のことであろう。「エーリッヒ」可能性としてはドイツの細菌学者・生化学者で血液学・免疫学・化学療法の基礎を築いたパウル・エールリヒ(Paul Ehrlich 一八五四年~一九一五年)が挙げられる)とあるのが、唯一、親和性のある話題叙述(免疫系の毒物馴化とその耐性性の遺伝)となっているばかりである。種々の事実から考えると、私はこの第十三版以降には本書の大きな改版はなされていないのではないかとも思われる。後に出た昭和四三(一九六八)年有精堂刊の「丘浅次郎著作集」(全五巻)でどの版が選ばれたか、通常なら最終版のはずだが(やや疑問もある)、であれば、「丘浅次郎著作集」の「進化論講話」には本条があるはずである。いつか図書館で確認してみたい。ともかくも、この条は特異点で、丘淺次郎「進化論講話」あることは疑いない。以下、お読みになれば判る通り、人工的な実験によって異物を注入することによって、現在で言う抗原抗体反応を惹起させ、そこから得た抗原抗体反応を持った血清を妊娠中のに与えると、奇形児が生まれるという、当時としてはショッキングな内容である。これは初学者向けの内容としては、かなりエグい内容ではあるにしても、しかし、カットされる(第十三版以降があったとして、カットされていないのかも知れぬ)決定打とは私には思われない。これは抗原抗体反応と免疫系の機序の初期研究には不可欠だったと私は思うからである(以下の実験は血清内の特定の成分物質が催奇形を促し、それが遺伝するとする内容である)。私は寧ろ、私がオリジナルに現代文の授業で行った、クローン羊ドリーのおぞましさ(実験内容というよりも巨乳女優からの命名のそれ)や、ヌード・マウスの背中にヒトの耳を発生させて悦に入っている現代の生物学者の方が、遙かにマッドでオゾマシいと考える人間である。

 

 食物や溫度の變化によつて、動物の身體に一定の變異が現れる通りに、人工的に藥物を注射することによつても變異を生ぜしめることが出來る。之に就いて最近アメリカガイヤーの行つた甚だ面白い實驗がある。總べて動物の身體には外から入り來つた有害物に對して身を護るための不思議な力があつて、そのために常に害を免れて居る。例へば、少量の毒が入つて來ると血液の中に抗毒素と名づける物質が生じて、その毒の働に反抗して之を打ち消してしまふ。病原バクテリヤなどが入り込んだ場合にも之と同樣で、血液中に種々の成分が生じて、或はバクテリヤの繁殖を止め、或はその生じた毒素を中和し、或は白血球をしてバクテリヤを容易に喰はしめなどして、その害を受けずに濟むことが多い。今日傅染病の治療や豫防に用ゐる血淸やワクチンは皆この理を應用したものに過ぎぬ。ガイヤーの行つた實驗も同じく、この理窟に基づいたもので、その大略を述べれば次の如くである。

[やぶちゃん注:「ガイヤー」不詳。識者の御教授を乞う。

「バクテリヤ」バクテリア=真正細菌=細菌(ラテン語:bacterium/複数形:bacteria)は「sn-グリセロール3-リン酸の脂肪酸エステルより構成される細胞膜を持つ原核生物」と定義される。「古細菌」ドメイン及び「真核生物」ドメインとともに全生物界を三分する。参照したウィキの「真正細菌によれば、『真核生物と比較した場合、構造は非常に単純である。しかしながら、はるかに多様な代謝系や栄養要求性を示し、生息環境も生物圏と考えられる全ての環境に広がっている。その生物量は膨大である。腸内細菌や発酵細菌、あるいは病原細菌として人との関わりも深い。語源はギリシャ語の「小さな杖」』『に由来』する。]

 

 先づ或る動物、例へば鷄の眼球を取り出し、その内の水晶體だけを磨り潰してどろどろの液體とする。水晶體といふのは眼球の内にあつて、強く光線を屈折する小さな玉である。生(なま)のときは勿論無色透明であるが、煮れば白色不透明となる。煮肴の眼球を箸でつゝくと、白い球形の玉が出て来るが、それは魚の眼の内の水晶體である。水晶體が曇れば白内障と名づける盲目になる。かやうに大切な器官であるが、之を磨り潰したものを兎の體内に注射すると、兎の血液の中に一種の成分が生じて、水晶體なるものに反抗する性質を帶びて来る。この性質は、かやうな兎の血液から製した血淸の中に當然移つて行く。さて、この血清を更に兎に注射して見るに生長し終つた兎であれば、そのために何の變化ち起らぬが、妊娠中の牝兎に注射すると胎内の子兎の發育が、その影響を蒙つて、眼球が完全に出來上らず、或は水晶體がなかつたり、または眼球全體が甚だ小さかつたりなどして恰も盲目のものが出來る。ガイヤーは、この實驗を多數の兎に施して見たが、たゞ眼球の發生の不完全である程度に種々の差がゐつただけで、いつも略同樣の結果を得た。これから推して考へると母の身體に外界から何らかの物質が入り來ると、胎内の子が、その影響を蒙つて定規の發生を遂げず、普通とは異なつた形に出來上つて生れ出るといふことは、他の場合にも往々あり得べきことと考へられる。

 以上の如き變化は、子兎が生れる前に起つたものではあるが、哺乳類の胎兒は腹の内に居る間も已に一疋の動物であつて、たゞそこに場處を借りて居るだけ故、決して、先天的の變化ではない。動物の一生涯は卵から始まるから、若しも卵のときから已に、發生後或る變化を現すべき性質を持つて居たのならば、これは眞に先天的の變化であるが、妊娠の途中に起つた事件のために、胎内の子に變化が生じた場合には、之は勿論子の一生涯の間に新に獲た性質といはねばならぬ。なぜといふに、母の胎内に留まつて居る期間も實は子の一生涯の中に含まれて居るからである。

 こゝに面白いことは、かやうな變化が更に子に遺傳することでゐる。ガイヤーは以上の實驗によつて得た眼球の不完全な子兎を飼つて置いて、生長させ繁殖させた所が、このたびは別に母親に注射などをせずとも、先天的に眼球の不完全な子兎が生れた。この實驗は近年行はれた遺傳に關する種々の實驗の中でも理論上最も重大な價値を有するものと思はれるから、特にこゝに書き加へて置く次第である。

2018/07/15

諸國里人談卷之四 掘兼井

 

     ○掘兼井(ほりかねのゐ)

武藏國入間郡(いるまのこほり)掘金(ほりかね)村小高き山に、淺間宮の梺(ふもと)に、すこし窪める所、「掘兼の井」の蹟(あと)なり。方六尺ばかりの石を窠(くは)して井桁(いげた)とし、半(なかば)は埋(うづ)みて苔むしたり。傍(かたはら)に碑(ひ)あり。近きころ、川越のものゝふのこれを建(たて)し也。【川越より二里、未申の方。】

「千載」                俊成

 むさし㙒〔の〕のほりかねの井もあるものをうれしく水に近づきにけり

[やぶちゃん注:ここに碑の図が入る(①②③総て同位置)。例外的に基礎底本の③にもあり、①よりも遙かに見易いので、ここはそれをリンクさせておく。これである。以下、図の碑文を以下に電子化しておく。碑面に彫られた通りに改行してある。但し、四行目(字下げの行。碑本文への後注である)は現存する当該の石碑の写真(「地盤環境エンジニアリング株式会社」の作成になる「58.掘兼の井戸が物語るもの(1)」PDF)。これには続きの「59」(「(2)」)及び「60」「(補輯)」がある。孰れもPDF)を見るに、「以」の字が脱字していることが判ったので、特異的に補填しておいた

   *

此凹形之地所謂掘兼井之蹟也恐久而

遂失其處因以石井欄置坳中削碑而建

其傍以備後監

 里語掘而難得水故云尓以兼通難未知只從俗耳

寶永戊子年三月朔

   *

なお、碑の左側面に碑文ではなく、碑の高さが、

   高五尺二寸

と記されてある。メートル換算すると、一メートル五十七センチメートル五ミリメートルほど。]

此あたりに「掘兼井」と稱する所、夛(おほ)し。此外を「淺間掘兼」といふ也。是より五六町南に、方二十間ばかり、から堀(ほり)のごとく窪める所、これも其井の跡也と云。又、乙女新田(おとめしんでん)或は入曽里(いりそのさと)にもあり。惣(そう)じて此所、土地高くして、水を得がたし。よつて「掘かねたる」といふ里語(りご)によつて、眞跡(しんせき)を迷(まよわ[やぶちゃん注:ママ。])したる也。掘金の名水なれば、掘金井といふを、「兼」の字を書(かく)より、まことの所を失(うしなへ)るなり。

[やぶちゃん注:以下、原典は全部文が続いているが、ここから物語仕立てになるので、特異的に改行を加えた。]

○享保九辰の夏、三緣山増上寺の塔中(たつちう)淸光院・昌泉院の退院、むさし野に優遊(ゆうゆ)し、「掘かねの井」を溫(たづぬ)るに、本所(ほんじよ)、しれがたく、まよふ折から、飛脚などゝおぼしき男、文箱(ふばこ)を杖にむすびてかつぎたるが、

「をのをのは、いかなる所を求め給ふ。」

「掘かねの井をこそ。」

といふ。

「それは、此あたりにあらず。」

と、道しるべして、此所に來り、

「是こそ實迹(じつせき)の地なり。此井につきて、物がたりあり。

――むかし、川越の城主より、鎌倉殿へ鯉を獻ず。使(つかひ)の者、此井にて水をそゝぐに、あやまつて此井に落しぬ。その時、かの者、行(ゆく)こと、あたはずして、川越に歸りて、しだいをいふに、『憎きものゝわざかな』と誅せられたり。その時、かの者、

 武藏野のほりかねの井の井の底にわれぞこひするこいぞ一かけ

と詠じて、むなしくなりたり。――

御僧達、逆緣(ぎやくゑん)ながら、吊(とむら)ひ給へ。」

といふに、兩僧、暫く、經念佛してげり。

傍(かたはら)の菴室より、老僧、いでゝ、

「我、久しく所に住めども、かゝる事をきかず。今、物語ありしは、いかなる人。」

といふ。

兩僧、

「たゞ道ゆく人にてありける。」

と、かの者を尋るに、其行方(ゆくかた)をしらず。

「かの奴(やつこ)が亡霊ならん。」

と。

歸府(きふ)の後、演譽白隨(ゑんよはくずい)大僧正にこの事を申〔まうさ〕ば、則(すなはち)、戒名を授玉(さづけたま)ひ、吊(とむら)ひありける。

昌泉院に石塔を立(たて)られ、奴(やつこ)が墓とて、今、あり。

去(さり)し申〔まうす〕は、その年より十七年にあたるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、年忌の吊ひありける也。

[やぶちゃん注:現実にある井戸に、碑の図を添えて考証した上で、それに纏わる怪談を徐ろに附した沾涼渾身の条である。リアリズムからホラーへ、而して鎮魂で大団円を配したところ、実に上手い。さて、碑の現存するこの「掘金の井」は、現在の狭山市大字にある堀金神社境内に「堀金の井」として埼玉県指定文化財に指定されてある(但し、現在、水はない)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「狭山市」公式サイト内の「堀兼之井」によれば、直径七・二メートル、深さ一・九メートルの『井戸の中央には石組の井桁』があるが、『現在は大部分が埋まっており、その姿がかつてどのようであったかは不明で』、『この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる「ほりかねの井」の一つと考えられて』おり、『これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができ』るとする。『井戸のかたわらに』二『基の石碑があ』る『が、左奥にあるの』が、まさに沾涼が記した宝永五戊子(ぼし)(一七〇八)年三月に『川越藩主の秋元喬知(あきもとたかとも)が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたもので』、『そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在をこの凹(おう)形の地としたこと、堀兼は掘り難がたかったという意味であることなどが刻まれてい』る。『しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳』(土地の者の言い伝えや認識)『にしたがったまでで、確信に基づくものではないともあ』る。『手前にある石碑は』、天保一三(一八四二)年に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明(きよはらのぶあき)の漢詩が刻まれてい』る。但し、『都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すの』かと言われると、疑問はあるといった旨が附せられ、『神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われ』はするものの、『このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようで、江戸後期に』編纂された「新編武蔵風土記稿」を『見ても「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは定めがたいとあ』る。『堀兼之井が後世の文人にもてはやされるようになったのは』、まさに秋元喬知が宝永五年にこの『石碑を建ててから以後のことと考えられ』るとしている。

「淺間宮」同じく「狭山市」公式サイト内の「堀兼神社」によれば、『社伝によれば、日本武尊が東国平定の際、当地において水がなく、苦しむ住民を見て、水を得ようと富獄(富士山のこと)を遥拝』『し、井戸を掘らせ、水を得ることができたため、浅間社を祭った、と創祀を伝えてい』るとあり、本殿は有意に高い位置にあることがリンク先の写真から判るので、「の梺(ふもと)に、すこし窪める所」は現在のロケーションにも一致する。

「窠(くは)して」窪み或いは穴をあけて。

「近きころ、川越のものゝふのこれを建(たて)し」「川越のものゝふ(武士)」は先の川越藩主秋元喬知で、彼がこれを建立したのが宝永五(一七〇八)年三月一日、本「諸國里人談」刊行は寛保三(一七四三)年だから、三十五年前、まあ、「近き頃」で問題あるまい。

「川越より二里、未申の方」川越市中心部から約八キロ、北北西であるから、問題ない。

「むさし㙒のほりかねの井もあるものをうれしく水に近づきにけり」「千載和歌集」の「巻第十九 釈教部」にある皇太后宮大夫藤原俊成の一首(一二四一番)、

   法師品(ほつしほん)、

   漸見濕土泥(ぜんけんしつどでい)

   決定知近水(けつじやうちごんすい)

   の心をよみ侍りける

 武藏野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近づきにける

前書(ブラウザの不具合を考えて、短く改行して示した)の「法師品」は「法華経第十品」のこと。「漸見濕土泥(ぜんけんしつどでい) 決定知近水(けつじやうちごんすい)」とは「ようやく湿った泥土を見て、確かに水はもう近いということを知る」の意。ありがたい「法華経」の教えを読み聴くことで、仏だけが持つ広大無辺な真実智に近づくことの喜悦を比喩した歌であることを示す。

 なお、ここは東国の見もしない田舎にも拘わらず、古くから知られ、歌枕としてもよく詠まれている。まず、超ベストセラー、清少納言「枕草子」の「井戸尽くし」の章段(一六三段)で冒頭に掲げられている。

   *

井は、ほりかねの井。玉の井。走り井は逢坂なるがをかしき。山の井、さしも淺きためしになり始めけむ。飛鳥井(あすかゐ)は、「御水(みもひ)も寒し」とほめたるこそ、をかしけれ。千貫(せんくわん)の井。少將の井。桜井。后町(きさきまち)の井。

   *

私は井戸フリークではないので、注は附さない。他に、歌枕として詠まれた例を示す。

   *

 いかでもと思ふ心は堀兼の井よりも猶ぞ深さまされる 伊勢(「伊勢集」)

 あさからず思へばこそはほのめかせ堀兼の井のつつましき身を 俊賴(「俊賴集」)

 くみてしる人もありなむ自づから堀兼の井のそこのこころを 西行(「山家集」)

 いまやわれ淺き心をわすれみすいつ堀兼の井筒になるらむ 慈円(「拾玉集」)

 むさしなる堀兼の井の底をあさみ思ふ心を何にたとへむ 詠み人知らず(「古今和歌六帖」)

   *   *   *   *

 以下、挿絵の碑文、

「此凹形之地所謂掘兼井之蹟也恐久而遂失其處因以石井欄置坳中削碑而建其傍以備後監

  里語掘而難得水故云尓以兼通難未知只從俗耳

 寶永戊子年三月朔」

我流で訓読する。

   *   *   *

 此の凹形(おうけい)の地、所謂(いはゆる)「掘兼の井」の蹟なり。恐らくは久しくては、遂に其の處を失(しつ)せんとす。因つて、石の井欄(せいらん)を以つて坳(くぼち)が中に置き、碑を削りて其の傍らに建てて、以つて後監(こうかん)に備ふ。

  里語の「掘」とは、水の得難き故に、尓(しか)云ひ、「兼」は通し難きを以つてす。未だ知らず、只だ、俗耳(ぞくじ)に從(よ)るのみ。

 寶永戊子(つちのえね)年三月朔(つひたち)

   *   *

「後監に備ふ」後世の検証・考察の縁(よすが)とする。

   *

『此あたりに「掘兼井」と稱する所、夛(おほ)し。此外を「淺間掘兼」といふ也。是より五六町南に、方二十間ばかりから堀(おり)のごとく窪める所、これも其井の跡也と云。又、乙女新田(おとめしんでん)或は入曽里(いりそのさと)にもあり』これは、この堀金神社のもの以外の有象無象の「掘兼の井」と称するものは、この本家本元(かどうかは実は不明なのであるが)以外は総称して「淺間掘兼」の井戸と言っているということらしい。先の「地盤環境エンジニアリング株式会社」の作成になる「58.掘兼の井戸が物語るもの(1)」にも、この古書(書誌を記さず)によれば、この地には「掘兼の井」以外に「七曲の井」(リンク先の後半部に掲げられているので位置その他はそちらを参照されたい)の他、「比丘尼の井」という『古井の跡が北入曽村に三箇所あって何れも掘兼』の『井と唱え』ているとし、『また他に『今伝うるは、当郡はもとより、他の郡にも掘兼の井跡と称する井あまたありて、何れを実跡とも定めがたし』ともある。このように掘兼井にはなお考証の余地がありそうである』と記した上、加えて注では、『ネット上の検索によれば鎌倉街道沿いの狭山市掘兼2332には八軒家之井』(長径十六・五センチメートル/短径十四・五センチメートル/深さ三メートル)『もあり、掘られた時期は特定されていないが、掘兼井と同一の性格・構造を有する井戸と見られている。さらに狭山市堀兼・入曽地区には江戸時代にこのような井戸が計』十四(堀兼に七箇所、堀兼新田に二箇所、北入曽に三箇所、南入曽に二箇所)『あったと伝わっている』とある。本文に「是より五六町南に、方二十間ばかり、から堀(ほり)のごとく窪める所、これも其井の跡也と云」とあるが、現在の堀兼神社から南へ五百四十六~六百五十四メートルというと、まさに埼玉県狭山市堀兼2332附近ここになるのである。以下、「乙女新田」は不詳、「入曽里(いりそのさと)」は堀兼神社の西南直近地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、ウィキの「まいまいず井戸」には、『まいまいず井戸とはかつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種である。東京都多摩北部地域から埼玉県西部に多く見られ、同様の構造を持つ井戸は伊豆諸島や群馬県の大間々扇状地などにも存在した』とし、『地表面をすり鉢状に掘り下げてあり、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造である。すり鉢の内壁に当たる部分には螺旋状の小径が設けられており、利用者はここを通って地表面から底部の垂直の井戸に向かう』とあって、本「堀兼之井」や「七曲井」を始めとして、幾つもの井戸が写真附きで解説されている。ウィキペディアを馬鹿にする安物のインク臭のする諸君は、是非、一見あれ。

「享保九辰」一七二四年。

「三緣山増上寺」現在の東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗のあの増上寺のこと。

「淸光院」現存するとする記載もあるが、どうもないようである(明治三〇(一八九七)年には現存していた)。廃院されたのか、宗旨変えをした(或いはして移った)か、よく判らぬ。

「昌泉院」廃院して現存せず。

「退院」隠居。二人ということであろう。

「優遊(ゆうゆ)」のんびりと心のままにするさま。

「溫(たづぬ)る」「温故知新」で知られる通り、「温」には「尋ねる・復習する」の意がある。

「道しるべ」道案内。

「鎌倉殿」室町時代の鎌倉公方もいるいにはいるが、ここはまさに鎌倉街上道(かみのみち)沿いであり、鎌倉時代に溯る設定と読むべきである。

「武藏野のほりかねの井の井の底にわれぞこひするこいぞ一かけ」下句の意味が私にはよく採れない。「こひ」は「戀」或いは命「乞ひ」と「鯉」を掛けているか? 「一かけ」の「かけ」は「一影」(さっと落ちていったその鯉の姿)に飛脚としての「一驅(か)け」を掛けているか? などとは思うが、全体の意味が腑に落ちない。識者の御教授を乞う。

「逆緣(ぎやくゑん)」、仏の教えを素直に信じていなかった下賤の者、そのような救い難い人を指す。ここはその飛脚のこと。

「奴(やつこ)」「あやつ・あいつ」。他称(卑称・軽蔑、或いは、親しみを持っての)の人称代名詞。

「歸府(きふ)」江戸へ帰ること。

「演譽白隨(ゑんよはくずい)大僧正」三十八代増上寺法主(ほっす)。

うさ〕ば、則(すなはち)、戒名を授玉(さづけたま)ひ、吊(とむら)ひありける。

昌泉院に石塔を立(たて)られ、奴(やつこ)が墓とて、今、あり。

「去(さり)し申〔まうす〕は」「つい先年と申しますは」の意で採っておく。次注参照。

「その年より十七年にあたるゆへ、年忌の吊ひありける也」数えであるから、十六年目の十七回忌法要である。一般に現行では、ここまで年忌法要を行い、ここから先は二十三回忌(二十二年目)、二十七回忌(二十六年目)のスパンを空けた法要を行った後、さらに間を置いて三十三回忌(三十二年目)や五十回忌(四十九年目)で「弔い上げ」とする場合が多く見られる。享保九(一七二四)年から十六年後は元文五(一七四〇)年に当る。本書は寛保三(一七四三)年刊であるから、記載内容時制はその前年以前、則ち、寛保二(一七四二)年以前と読めるから、前の私の「つい先年と申しますは」という解釈がぴったりくることが判って戴けることと思う。]

諸國里人談卷之四 油泉

 

    ○油泉(あぶらのいづみ)

美濃國谷汲(たにぐみ)の開基豐然(ほうねん)上人、延曆年中草創の時、その地を平均(ならす)所に、一つの巖(いはほ)を鑿(ほり)ければ、石中(せきちう)より、油、滴出(わき〔いで)〕たり。豐然、誓(ちかひ)て曰〔いはく〕、「我、此地におゐて、大悲の像を安置して、もし、廣く利益(りやく)せば、願はくは、此油、ますます夛(おほ)からんものなり」といひおはると、則(すなはち)、油、涌(わき)いづる事、泉のごとし。豐然、大によろこび、十一面觀音を安ぜられける。其長(たけ)五尺の像なり。其後、延喜の帝(みかど)、その瑞應をきこしめされ、額を「華嚴寺」と賜ふ。其油、漸(やうや)く微(すこ)しきなれども、尊前(そんぜん)の常燈(じやうとう)を燈(とも)すほどは、今〔いま〕以〔もつて〕、あり。

[やぶちゃん注:現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町(いびがわちょう)谷汲徳積(たにぐみとくづみ)にある天台宗谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)の縁起。(グーグル・マップ・データ)。公式サイトに、『寺の草創は桓武天皇』『の延暦』一七(七九八) 年で『開祖は豊然上人、本願は大口大領』。『奥州会津の出身の大領はつねづねより』、『十一面観世音の尊像を建立したいと強く願っており、奥州の文殊堂に参篭して一心に有縁の霊木が得られるようにと誓願を立て、七日間の苦行の末、満願(七日目)の明け方に十四』、『五の童子(文殊大士と呼ばれる)の御告げにより』、『霊木を手に入れる事が出来』、それ『を手に入れた大領は都に上り、やっとの思いで尊像を完成させ』、『京の都から観音像を奥州へ運んでいこうとすると、観音像は近くにあった藤蔓を切って御杖にして、御笠を被り、わらじを履いて自ら歩き出し』たが、『途中、美濃国赤坂(現:岐阜県大垣市赤坂)にさしかかった時、観音像は立ち止まり』、『「遠く奥州の地には行かない。我、これより北五里の山中に結縁の地があり、其処にて衆生を済度せん」『と述べられ、奥州とは異なる北に向かって歩き出し』たという。『そうしてしばらくした後、谷汲の地に辿り着いた時、観音像は歩みを止め、突然重くなって一歩も動かなくなったので、大領はこの地こそが結縁の地だろうと思い、この山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊然上人という聖(ひじり)が』そこに『住んでいたので、大領は上人と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉』った。『すると』、『堂近くの岩穴より』、『油が滾々と湧き出し尽きることが無いので、それより後は燈明に困ることが無かったとい』うと記す。ウィキの「華厳寺によれば、延暦二〇(八〇一)年には、『桓武天皇の勅願寺となり』、延喜一七(九一七)年には醍醐天皇(本文の「延喜の帝」)が、『「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を下賜』され、天慶七(九四四)年には、『朱雀天皇が鎮護国家の道場として当寺を勅願所に定め、仏具・福田として一万五千石を与えたという。「谷汲山」という山号については、寺付近の谷から油が湧き出し、仏前の灯明用の油が汲めども尽きなかったことに由来する』とあり、朝廷の深い信仰のあった寺であることが判る。また、『本堂本尊の十一面観音立像は、厳重な秘仏で、写真も公表されておらず、制作年代、構造等の詳細は不明である』が、『一木造、像高』二メートル十五センチメートル七ミリメートルで、『衣文や目鼻立ちのなど彫り方が荒々しいが、作風は古風で、平安』前期、九~十世紀に『さかのぼる作と推定され』ているとある。断層帯の石油層か? 現在は湧出していない模様である。]

諸國里人談卷之四 油が池

 

    ○油が池(あぶらがいけ)

越後國村上の近所の山中、黑川村【高田領也。】に、方十間余の池あり。水上に、油。浮ぶ。土人、芦(あし)を束(つかね)て水をかき搜(さが)して穗(ほ)をしぼれば、油、したゝる。それを煑かへして、灯の油とす。其匂ひ、臭(くさ)し。よつて「臭水油(くさうづのあぶら)」と云。○「天智帝御宇、自越州可ㇾ代油薪之水土。」とあるは、則(すなはち)、是也。又、薪(たきゞ)にかはる土(つち)あり。方一尺ばかり、平(ひら)の瓦(かはら)程に切(きり)、日にほしかためて薪とす。【或人、越後にて此土を得て、出羽へ立越〔たちこえ〕へけるが、出羽にて、これを燒〔やけ〕ば、燃〔もえ〕ざりし、となり。】○又、土中より掘出(ほりいだ)す薪(たきゞ)は、伊賀近江にもあり。石にあらず、土にあらず、木の朽(くち)たるやうのもの也。二、三尺ほどにして掘出し、數日(すじつ)乾し、水氣(すいき)なくなる時、焚(たく)也。上品(〔じやう〕ほん)の炭(すみ)より堅し。是を「ウニ」と云。

[やぶちゃん注:漢文部分は、原典の返り点ではそのまま正常に読むことが出来ない。ここは特異的に吉川弘文館随筆大成版にある甲乙点を挿入した

「越後國村上の近所の山中、黑川村」現在の新潟県内には複数の「黒田」地区が存在するが、恐らくここに示されたものは(「高田領也」が不審であるが)そのほかの要件を総て満たす、現在の新潟県胎内市下館(旧黒川村)にある、国指定史跡「奥山荘城館遺跡・臭水油坪跡」の後者と推定する。ここ(グーグル・マップ・データ)。地図を拡大すると、この地区には日本最古の油田跡である「シンクルトン記念公園」が併設されていることが判るが、新潟県公式観光情報サイト「にいがた観光ナビ」の「シンクルトン記念公園」の解説に、『自然に湧出した原油を、天智天皇(西暦』六四八『年)に献上したといわれている油つぼと』、『横たて穴の油井戸が当時のまま保存されており、日本最古の油田とされている』。『明治』六(一八七三)年、イギリス人『医師シンクルトンが来村し、採油法を指導したことから』、『公園が命名されている』とあり、その「シンクルトン記念館」では『日本最古の石油史資料、採油資料展示。ハイビジョンで旧黒川村(胎内市)の歴史や文化、胎内の大自然を紹介している』とあるからである(太字下線やぶちゃん)。リンク先の三枚目の写真が、この「油が池」であろう。さらに四枚目の写真を見られたい。まさに稲穂のようなもので採取した石油を扱いて桶に絞っている画像が見られるのだ! 最後にやっぱり「高田藩領也」というのが気になって仕方がない。飛び地領としても余りに離れ過ぎており、しかも資料を見てもここに高田藩の重要な飛び地領があったことを探し得ない。というより実はここはまさに黒川藩の藩領であったのだ。ウィキの「黒川藩」によれば、『越後国蒲原郡黒川(現在の新潟県胎内市黒川)に黒川陣屋を構え』、『付近を領有した藩』で、第五代将軍『徳川綱吉のもとで活躍した有名な側用人・柳沢吉保の長男・柳沢吉里が』、享保九(一七二四)年三月十一日、『甲府藩から大和郡山藩に移封された後の同年』閏四月二十八日に吉保四男である柳沢経隆が一万石を『与えられて立藩したのが始まりである。初代藩主・経隆は藩の支配体制を固めるため、同年』十月に三十四条に『及ぶ法度を制定した。ところが経隆は在職』一年あまり後の享保十年八月二十三日に死去してしまい、『そのため、跡を継いだ柳沢里済が経隆の遺志を受け継いで藩の基盤固めを行なったが、同年のうちに百姓の大友村惣左衛門らが江戸に税金・川下げ運賃御免などを求めて出訴、さらには年貢未納までもが相次ぐという非常事態が起こった。これに対し』、『里済は百姓を徹底して力で処罰し』た。享保十五年には『宿場人馬の制度を整備して藩の支配制度を定めた』。『ところで、黒川藩の財政基盤は』一『万石であったが、藩領は山地が多かったために新田開発が不可能であり、実質的な石高は』一『万石を切っていたとも言われている。おまけに歴代藩主のほとんどは江戸に定府していたために出費がかさんでいた。そのため、厳しい年貢増徴は勿論のこと、本家の郡山藩から借金してやり繰りする有様であった。しかし財政は悪化』の一途を辿り、天保一四(一八四三)年には五千両余りの『借金を抱えていたと言われている』とある。どこにもこの一角が高田藩領に分地されたことは書かれていない。識者の御教授を乞う。

「方十間余」十八メートル強四方。

「煑かへして」ゆっくりと温めて水分を蒸発させるのであろう

「臭水油(くさうづのあぶら)」石油。私の、文化九(一八一二)年刊橘崑崙随筆集「北越奇談 巻之二 古(いにしへ)の七奇(しちき)」に、「燃水(もゆるみづ)」が出る。そこでは冒頭にここに記す「人皇三十九代天智帝七年戊辰(つちのえたつ)」(ユリウス暦六六八年)の石油献上記録も、よりしっかりと記載されてあり、本文では遙かに詳しく述べられてあるので、必ず見られたい。但し、そちらの注でも不審を示したが、この記録は「北越奇談」では「日本書紀」とするのであるが、私の所持するものでは、それを確認出来ないのである。なお、リンク先には「燃水」の産地の一つとして「黑川館村(くろかはたてむら)」が挙げられてある。

「天智帝御宇、自越州可ㇾ代油薪之水土。」私の推定訓読を示しておく。

 天智帝の御宇に、越州より、油(あぶら)・薪(たきぎ)に代はるべきの水土(すいど)を獻(たてまつ)る。

この場合の「油」は菜種油等の植物性精油。

「薪(たきゞ)にかはる土(つち)」先の「北越奇談 巻之二 古(いにしへ)の七奇(しちき)」に、「燃土(もゆるつち)」として「燃水」(石油)の前に詳述されている。そこで私は以下のように注した。

   *

 この「燃土」は、永らく、「石炭」或いは「泥炭」とされてきたが(私は本文の叙述から今日まで何の疑問もなしに「石油」が染み込んだ腐葉土のようなもの思い込んでいたのだが)、近年の研究では、これは実は天然アスファルトnatural asphalt:土瀝青(どれきせい)。原油に含まれる炭化水素類の中で最も重質のもので、ここは地表面まで滲出した原油が、長い年月をかけて軽質分を失い、それが風雨に晒され、酸化されて出来た天然のそれ)であるとされている。既に縄文後期後半から晩期にかけて、日本海側の現在の秋田県・山形県・新潟県などで天然アスファルトは産出され、発見されており、縄文人はこれを熱して、後の項に出る石鏃(せきぞく:石製の鏃(やじり))や骨銛(こつせん:動物の骨(ほね)で出来た銛(もり))などの漁具の接着や破損した土器・土偶の補修などに利用していたのであった。

   *

私と同じように安易に思い込んで読み棄ててしまう諸君もいると思うので、敢えて太字で示した。

「出羽にて、これを燒〔やけ〕ば、燃〔もえ〕ざりし」理由不明。思うに、当地での燃える土の産出をアピールするための作話ではなかろうか。

「土中より掘出(ほりいだ)す薪(たきゞ)は、伊賀近江にもあり」これは石炭(ここの場合は以下に見るように亜炭(lignite)である。石炭の中でも炭化度の低いものを指す。石炭よりも水分・酸素の含有量が多く、炭素含有量が少ないので発熱量は低い)であるから、科学的には「燃える土」(天然アスファルト)とは異物。サイトさんち 〜工芸と探訪~」ら(伊賀焼土鍋ついページ)に、『三重県伊賀の土は、はるか』四百『万年前の琵琶湖の湖底に堆積してできた土です。太古の樹木が石炭化して生まれる亜炭(アタン)などを含み、火に強く細かな穴(気孔)がたくさんあるのが特徴です。火にかけると』、『気孔が熱を蓄えて中の食材をじっくりと温め、火から降ろしても保温性が高いのだそう。まさに土鍋にうってつけなのですね』とあるので、「伊賀」だけでなく、沾涼の「近江」もカバー出来る内容となっていると私は思う。特に亜炭の内でも木質亜炭は木理(きめ)を有し、灰分が少ないものの、採掘後、放置して乾燥すると、板状に湾曲して剥離してしったり、小片に破砕し易いと「ブリタニカ国際大百科事典」にはあるので、まさに沾涼の「石にあらず、土にあらず、木の朽(くち)たるやうのもの」と謂いに適合すると私は感ずる。

「二、三尺ほどにして」地表から六十一~九十一センチメートルほどの位置から。

『是を「ウニ」と云』この「ウニ」とは棘皮動物のそれと同じく「雲丹」と漢字表記をするようであるが、伊賀・伊勢・尾張地方での亜炭・泥炭等の品質の低い石炭の古称で、伊賀山中では古山(ふるやま)で採掘されていた。松尾芭蕉の、

 香にゝほへうにほる岡の梅のはな

の「うに」はまさにそれを詠んだものである。私の「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 香にゝほへうにほる岡の梅のはな 芭蕉を参照されたい。]

2018/07/14

和漢三才圖會第四十一 水禽類 都鳥 (ユリカモメ/ミヤコドリ)

 

Miyakodori

 

みやことり 正字名義未詳

都鳥

     【訓美也古止里】

 

△按都鳥大如鸕鷀白色唯嘴與脚正赤關東多有之畿

 内未有之人亦不食之有業平視都鳥於隅田川之語

 著聞集云【建長六年十二月】有獻都鳥於京師者因叡覽宮女

 有歌    すみた川すむとしききし都鳥けふは雲井の上に見る哉

 

 

みやこどり 正字・名義、未だ詳かならず。

都鳥

     【訓、「美也古止里」。】

 

△按ずるに、都鳥、大いさ、鸕鷀〔(みそさざい)〕のごとし。白色。唯、嘴と脚と正赤。關東に多く之れ有り。畿内に〔は〕未だ之れ有らず。人、亦、之れを食はず。業平(なりひら)、都鳥を隅田川に視るの語〔(かたり)〕有り。「著聞集」に云はく、『【建長六年十二月。】都鳥を京師〔(けいし)〕に獻〔(たてま)〕つる者、有り、因りて叡覽したまふ。〔そのをりの〕宮女〔が〕歌、有り。

 すみだ川すむとしききし都鳥けふは雲井の上に見る哉

[やぶちゃん注:これは体は「白色」であるが、嘴(くちばし)と後脚のみが正しく赤い鳥であるから、

鳥綱チドリ目カモメ科カモメ属ユリカモメ(百合鷗)Larus ridibundus

である。ウィキの「ユリカモメ」によれば、『ユーラシア大陸北部やイギリス、アイスランドなどで繁殖し、冬は南下しヨーロッパ、アフリカ、インド、東南アジアへ渡りをおこない越冬する。北アメリカ東海岸に渡るものもいる』。『日本では冬鳥として、北海道から南西諸島まで広く渡来し、小型のカモメ類の大半が本種である。ただし、北海道では厳冬期にはほとんど見られなくなる。主に、全国の海岸や河川、沼地などに普通に渡来する』。『全長は約』四十センチメートル、翼開長は約九十三センチメートル。『足とくちばしは赤色。夏羽は頭部が黒褐色になる(英名:Black-headed Gull)。冬羽は頭部が白く、目の後ろに黒い斑点があるのが特徴。ズグロカモメ』(カモメ科 Chroicocephalus 属ズグロカモメ Chroicocephalus saundersi)『と似ているが、ズグロカモメのくちばしは黒色で本種よりずっと短い等の違いで識別できる』。『海岸、内陸の湖沼や河川に比較的大規模な群を作』って『生活する。大きな河川では河口から』十キロメートル『以上も遡る。夜は海に戻り、沖合のいかだなどを塒』(ねぐら)『とする』。現在は普通に『京都市の鴨川でも多くの個体が観察される。鴨川のものは比叡山上空を通過し、琵琶湖で夜を過ごす。基本的にはカモメ科と同じく魚や甲殻類、オキアミを食べるが、カモメ科としては珍しく様々な環境に対応できるので雑食性で、近くに水草が生えている河川や池では昆虫や雑草の種子などを食べ、港では不要な捨てられた魚を食べ、時には人の食べ物や売られている魚を横取りすることも少なくない。その他に市街地や農村では人のゴミをあさるので同じく餌場にいるカラスなどの他の鳥と取り合いなどの喧嘩をすることもある。昼間は常に餌場近くにおり、夜間はこれとは異なる海上や湖で過ごす』。『栃木県では』一九七四『年以降、本種の記録が著しく増加している。宇都宮市と真岡市鬼怒川の記録によると、渡来時期は主に』四月と十から十一月にかけて『であり、渡りのときには内陸部を通過しているものと思われる』。『夏に繁殖するため、日本では基本的に営巣しない』。『日本の古典文学に登場する「都鳥」は、現在の和名が』、後に掲げる『ミヤコドリ(Haematopus ostralegus)である鳥ではなく、ユリカモメを指すとする説が有力である』。その根拠がまさに良安が挙げる「伊勢物語」第九段(通称「東下り」)の章段の知られた末尾の部分である(引用は私が独自に行った)。

   *

 なほ行き行きて、武藏の國と下(し)つ總(ふさ)の國との中に、いと大きなる河あり。それを「隅田河」といふ。その河のほとりにむれゐて、

「思ひやれば、限りなく遠くも來にけるかな。」

とわびあへるに、渡守(わたしもり)、

「はや舟に乗れ、日も暮れぬ。」

と言ふに、乘りて渡らむとするに、みな人、ものわびしくて、京に思ふ人、なきにしもあらず。

 さるをりしも、白き鳥の、嘴(はし)と脚(あし)と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ、魚(いを)を食(く)ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人、見知らず。渡守に問ひければ、

「これなむ都鳥(みやこどり)。」

と言ふを聞きて、

  名にし負はばいざこと問はむ都鳥

    わが思ふ人はありやなしやと

とよめりければ、舟、こぞりて、泣きにけり。

   *

『このように、「都鳥」は「隅田川にいる鳥で、体が白く、嘴と脚が赤い、シギ程度の大きさ、魚を食べる水鳥」とされているが、この条件に当てはまる鳥としてはユリカモメが最も近い。そのため、「都鳥=ユリカモメ」と推定されている。なお、ミヤコドリは嘴と脚が赤いものの』、『体色は黒(腹部を除く)であり、英語名(Oystercatcher)の通り、食性はカキなどの貝類を食べる。このように』、『両者は異なる』。『なお、現在の京都ではユリカモメは鴨川などで普通に見られるありふれた鳥であるが、鴨川に姿を見せるようになったのは』一九七四年のことであ』って、『それ以前は「京には見えぬ鳥」であった』とガッツリ書かれてある(太字下線やぶちゃん)。さればこそ、比較対照出来るように、チドリ目ミヤコドリ科ミヤコドリ属ミヤコドリ亜種ミヤコドリ Haematopus ostralegus osculans ウィキの「ミヤコドリ」にから引いておく。体長は四十五センチメートルほどで、『ハトより少し大きい。くちばしと足は長くて赤い。からだの上面は黒く、胸から腹、翼に白い部分がある』。『北欧、中央アジア、沿海州、カムチャツカ半島などで繁殖し、西欧、アフリカ西岸、中東、中国南部、日本にかけての海岸で越冬する。かつて日本では旅鳥または冬鳥として主に九州に渡来していたが、近年は東京湾でも定期的に観察されるようになった。海岸で小さな群れを作ってすごすことが多い』。『英名の「Oystercatcherとは、カキなどの二枚貝を食べる習性に由来している。くちばしは上下に平たくて先が鋭く、わずかに口を開けた二枚貝に素早くくちばしを差し込み、貝柱を切断して殻を開け、中身を食べる。ほかにカニやゴカイなども食べる』。なお、『カモメ科の「ユリカモメ」のことを古代・中世に「ミヤコドリ」と呼んでいたという説がある(古今和歌集に登場する都鳥など』)とあるが、現行、あらゆる古典教材及び参考書は、少なくとも「伊勢物語」のこのシークエンスの「みやこどり」は「ユリカモメ」と断定同定しているしかし私に言わせれば、この「ミヤコドリ」の解説は正当なのであって、例えば、最古の歌例で「万葉集」の唯一の「みやこどり」の詠草、巻第二十の大伴家持の一首(四四六二番)、

 舟競(ふないは)ふ堀江の川の水際に來居(きゐ)つつ鳴くは都鳥かも

を見ると、これは絶対にユリカモメであって、ミヤコドリではないとは鳥類学者でも断言出来ないと私は思う。寧ろ、この二種に江戸以前の日本人は「都鳥」の名を与えていたのだと考える方が自然である。されば参考書等がイラストや写真で一律に「ユリカモメ」を掲げて「都鳥」と断ずることには私は大いに問題があると考えている。二十年以上前、古文の参考書の「みやこどり」の絵が実際の「ミヤコドリ」になっている(詳細を思い出せないが多分そうだろう)のを間違いだと指摘して新聞にまで載った女子生徒の手柄話があったが、私はその時も、はなはだ違和感を感じたのを思い出すのである。

「鸕鷀〔(みそさざい)〕」スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes

『「著聞集」に云はく……」「古今著聞集」の「卷第二十 魚蟲禽獸」にある追加捕入の一条、「或殿上人右府生秦賴方(はたのやすかた)[やぶちゃん注:伝不詳。]の進じたる都鳥を橘成季に預けらるる事」である。新潮日本古典集成版(西尾光一・小林保治校注)を参考に、恣意的二に正字化して以下に示す。割注は概ね当該書の注を参照した。これを読むと、実は女房の代作として太政大臣藤原(西園寺)実氏が詠んだ歌であることが判る

   *

院[やぶちゃん注:後嵯峨天皇。在位は仁治三(一二四二)年から寛元四(一二四六)年。]の御隨身(みずいじん)右府生(うふせい)秦賴方、「みやこどり」を、ある殿上人に參らせたるを、成季[やぶちゃん注:橘成季(?~文永九(一二七二)以前に没)。従五位上・右衛門尉。大隅守・伊賀守などを歴任。本「古今著聞集」の著者(建長六(一二五四)年完成)。]にあづけられて侍り。くひ物などもしらで、よろづの蟲をくはせ侍るも、所せくおぼえて[やぶちゃん注:面倒に感じて。]、ゆゆしきもの飼ひ[やぶちゃん注:非常に珍しいものを飼っている人物。]なるによりて、小田河美作(おだがはみまさか)の茂平(しげひら)[やぶちゃん注:小早川茂平の誤り。暦仁(りゃくにん)元(一二三八)年に美作守。]がもとへ遣りて、飼はせ侍しを、建長六年十二月廿日[やぶちゃん注:ユリウス暦一二五五年一月二十九日。]、節分の御方違(おんかたたがへ)のために、前(さき)の相國(しやうこく)[やぶちゃん注:藤原(西園寺)実氏。後深草天皇生母姞子(きつし)の父。当時は太政大臣で六十一歳。]の富の小路の亭に行幸なりて、次の日一日、御逗留ありし。相國、みやこ鳥をめして、叡覽にそなへられけり。返し遣はすとて、少將の内侍[やぶちゃん注:左京権大夫藤原信実の娘。後深草院弁内侍の妹。]、紅の薄樣(うすやう)に歌を書きて、鳥につけて侍りける、

  春にあふ心は花の都鳥のどけき御代のことや問はまし

[やぶちゃん注:参考底本の訳に『あすは立春となりますが、春にめぐり合う気持にはなやぎます。さて、花の都の名を持つこの都鳥に天下太平のこの大御代の感想を尋ねたいものです』とある。]

大臣(おとど)、又、女房にかはりて、檀紙[やぶちゃん注:白い奉書紙のようなものを指す。]に書きて、おなじくむすびつけける、

  すみだ川すむとしききし宮こ鳥けふは雲井のうへに見るかな

[やぶちゃん注:参考底本の訳に『武蔵のすみだ川に住んでいると聞いた、その都鳥を、今日はうれしくも都の雲居(宮中)で見ることであります』とある。]

この事を兼直の宿禰[やぶちゃん注:卜部(うらべ)兼直。神道家で侍従・吉田神社禰宜・正三位。]、つたへ聞きて、本主[やぶちゃん注:持ち主。秦頼方。]に申しこひて見侍りて、返すとて、

   都鳥の芳名、昔、萬里の跡に聞く。

   微禽の奇體、今、一見の望みを遂ぐ。

   畏(かしこ)みて之れを悦ぶ餘り、

   謹みて心緖(しんしよ)を述ぶるのみ。

  にごりなき御代にあひみる角田(すみだ)川すみける鳥の名をたづねつつ

   前の參河の守卜部兼直 上(たてまつ)る

[やぶちゃん注:前書は原本では漢文のようである。「心緖」心の一端。歌は参考底本の訳に『政道の正しいこの大御代に幸いに生れあい、一見の望みも遂げました。すみだ川に住んでいたという都鳥にはその名にひかれて恋い続けていたのです』とある。]

   *]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 剖葦鳥(よしはらすずめ) (ヨシキリ)

Yosiwarazuzume

よしはらすゝめ 蘆虎【兼名苑】

剖葦鳥

        蘆原雀葭剖

        蘆鶯【以上俗称】

 

本綱【鷦鷯之下】剖葦似雀而青灰斑色長尾好食葦蠧亦鷦

鷯之類也倭名抄【兼名苑注】云巧婦鳥好割葦皮食中虫亦名

蘆虎

△按剖葦鳥【俗云蘆原雀】狀似倭𪄙大如雀青灰斑色長尾

 在田澤蘆葦中好食葦中虫其鳴喧聲高亮也天晴

 風静則愈群鳴蓋鷦鷯【-名巧婦鳥】與剖葦不一種【本草及和名抄

 爲一種非也】

 

 

よしはらすゞめ 蘆虎〔(ろこ)〕【「兼名苑」。】

剖葦鳥

        蘆原雀(よしはらすゞめ)

        葭剖(よしきり)

        蘆鶯(〔よし〕うぐひす)

        【以上、俗称。】

 

「本綱」【「鷦鷯〔(しやうれう)〕」の下。】、剖葦は雀に似て、青灰、斑色。長き尾。好んで葦の蠧〔(きくひむし)〕を食ふ。亦、鷦鷯の類ひなり。「倭名抄」【「兼名苑」の注に。】云はく、『巧婦鳥、好んで葦の皮を割〔(き)り〕て中の虫を食ふ。亦、「蘆虎」と名づく。』〔と〕。

△按ずるに、剖葦鳥は【俗に「蘆原雀」と云ふ。】狀、倭の𪄙〔(うぐひす)〕に似て、大ないさ、雀のごとし。青灰、斑色、長き尾。田澤の蘆-葦〔(あし)〕の中に在りて、好んで葦の中の虫を食ふ。其の鳴くこと、喧(かまびす)しき聲、高亮〔(かうりやう)〕なり。天、晴〔れて〕、風、静かなるときは、則〔ち〕、愈々、群鳴す。蓋し、鷦鷯【-名「巧婦鳥」。】剖-葦(あしはらすゞめ)と一種ならず【「本草」及び「和名抄」、一種と爲〔すは〕非なり。】。

[やぶちゃん注:鳴き声が特徴的な(私は姿も鳴き声も好き)、鳥綱スズメ目スズメ亜目スズメ小目ウグイス上科ヨシキリ科 Acrocephalidae のヨシキリ類(鳴き声と動画は例えばYou Tube ここ(オオヨシキリ)やここ(コヨシキリ))。本邦では、

ヨシキリ科ヨシキリ属オオヨシキリ Acrocephalus arundinaceus

ヨシキリ属コヨシキリ Acrocephalus bistrigiceps

の二種が夏鳥として渡って来る。両種とも背面は淡褐色で腹面は黄白色、オオヨシキリはおもに水辺のヨシ原など、コヨシキリは低地から山地の草原に棲息し、御椀形の巣を作る。いずれも東アジアで繁殖し、冬は南方へ渡る。本州中部以南に多いのはオオヨシキリで、繁殖期にはヨシ(単子葉植物綱イネ目イネ科ダンチク(暖竹)亜科ヨシ属ヨシ Phragmites australis:「アシ」は同一種の異名で、「葦」「芦」「蘆」「葭」も狭義には総て同一種を指す)などに止まって「ギョッ、ギョッ」と囀ることから、「行々子(ギョウギョウシ)」の異名を持つ。個人サイト「お気楽バーダー」の「ヨシキリ」の写真が二種ともにあり、よい。カッコウ(カッコウ目カッコウ科カッコウ属カッコウ Cuculus canorus)によく托卵される。ウィキの「カッコウ」に、自分より大きいカッコウの雛に餌を与えるオオヨシキリの写真が載る。荒俣宏「世界博物大図鑑」の第四巻「鳥類」(一九八七年平凡社刊)の「ヨシキリ」の項によれば、『属名アクロケファルスはギリシア語で』『〈とがった akron kephalē〉のこと』でヨシキリ類の『頭頂の羽が突きでているためである』とある。

「兼名苑」唐の釋遠年撰の字書体の語彙集であるが、佚して伝わらない。但し、本邦の「本草和名」「和名抄」「類聚名義抄」に多く引用されてある。

「蠧〔(きくひむし)〕」これは狭義の鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae のキクイムシ類ではなく、ヨシなどの茎に寄生して食害する虫類(或いはその幼虫)を指している。

「鷦鷯」先行する記載では良安は本邦種としてはこれに「みそさざい」を当てている。「さざい」は、「小さい鳥」を指す古語「さざき」が転じたものであるが、狭義には現在、これはスズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes を指す。先行する鶖(とつしう)〔ウ〕」の「鷦鷯」の私の注を参照されたい。

𪄙」「鶯」の異体字。スズメ目ウグイス科ウグイス属ウグイス Horornis diphone

「高亮」原義は「志高く行いの正しいこと」であるが、ここは「声が高く澄んでいること」の意。

『蓋し、鷦鷯【-名「巧婦鳥」。】剖-葦(あしはらすゞめ)と一種ならず【「本草」及び「和名抄」、一種と爲〔すは〕非なり。】』先に掲げた荒俣宏「世界博物大図鑑」の「ヨシキリ」の項に(ピリオド・コンマを句読点に代えた)、『ヨシキリの』古い『中国名は相当に困難である』(現代中国語では「苇莺」で「葦鶯」である)。『《本草綱目》にある鷦鷯(しょうりょう)(ミソサザイ)』(先に挙げたミソサザイ Troglodytes troglodytes)『の項では、その』一『種としている〈剖葦〉を《爾雅》』(じが:中国最古の辞書。著者には諸説あり未詳。全三巻。紀元前 二〇〇年頃の成立)より引用紹介している(ただし『《爾雅》原文では〈』「」『の一種〉となっている)』(「鷯」は「たうりやう(とうりょう)」と読んでおく)。『しかし一般に、ヨシキリは中国の鷦鷯(一名、巧婦鳥)それ自身であるとの見解が江戸時代から普及していた。そのため』、それに意を唱えて良安はここで『両者を別種としている』のであるとある。さらに、『日本でつくられた』小野蘭山による「本草綱目」の『注釈書《重修本草綱目啓蒙》は、李時珍による剖葦の引用を誤りとし、《爾雅》の原文に〈鷯〉とあり、明らかに〈鷦鷯〉とは別種だ、としている』とある。また荒俣氏は続けて『《甲子夜話》の著者松浦』(まつら)『静山は、巧婦鳥の巣を実見した結果、それが蘆花でできており、精細巧緻なところから、俗名〈女匠〉〈巧婦〉(巣づくりの巧みな鳥)が出たと解釈している』(「甲子夜話」の当該条情報は、暇な折りに探して追記する【2018年8月9日追記:これは「甲子夜話卷之五十七」の「巧婦鳥」であることが判明した。】)。『また、南都では高い木に巣をつくるところから〈高見(たかみ)鳥〉という』とある。但し、「保草綱目」では『鷦鷯を巧婦鳥とよぶのは、鳩は性(セックス)が稚拙であり、鷦は性が巧みだからであるとして』おり、『また、《爾雅》では〈桃蟲(巧婦鳥の別称)は鷦(しょう)なり、その雌を鷯という〉と述べ、鷦鷯を雌雄』一『対の名としている』とある。以上の「本草綱目」(後の「爾雅」もそこに引用されているが、そこでは「鷯」は「」と表記されてある。因みに、この「」は「鷯」の異体字ではないものの、中文の字書サイトには「鷦鷯の雌」或いは「鷦鷯の別称」と書かれてある)の原文は「本草綱目」巻四十八の「禽之二」の「巧婦鳥」である。

   *

巧婦鳥【「拾遺」。】

釋名鷦鷯【「詩疏」。】桃蟲【「詩經」。】蒙鳩【「荀子」。】女匠【「方言」。】黃脰草【時珍曰、按、「爾雅」云、桃蟲、鷦。其雌曰。揚雄「方言」云、桑飛自關而東謂之巧雀、或謂之女匠。自關而西謂之襪雀、或謂之巧女。燕人謂之巧婦。江東謂之桃雀、亦曰有母。鳩性拙、鷦性巧、故得諸名。】

   *

ともかくも、良安は自分が既に同定比定している「鷦鷯」=スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属ミソサザイ Troglodytes troglodytes と、この「剖葦鳥」=スズメ目スズメ亜目スズメ小目ウグイス上科ヨシキリ科 Acrocephalidae のヨシキリ類は全くの別種であると主張していることになり、これはすこぶる正当な謂いであることが判るのである。]

明恵上人夢記 66

 

66

 初夜の行法、子夜の行法、後夜の坐禪、早朝の行法、餘時の隨意の坐禪。

               朝合三度

 承久二年 同八月十一日 遮失顯德

            三時始之

一、七月、

一、同九月廿日の夜、夢に云はく、大きなる空の中に羊の如き物有り。變現窮り無き也。或るは光る物の如く、或るは人躰(じんたい)の如し。冠を着け、貴人の如く、忽ちに變じて下賤の人と成り、下りて地に在り。其の處に義林房有り、之を見て之を厭(いと)ひ惡(にく)む。予之方へ向ひて將に物云はむとす。予、心に思はく、是は星宿の變現せる也。予、之を渇仰(かつがう)す。願はくは不審を決せむ。卽ち、予に語りて曰はく、「多く人之(の)信施を受くべからず。」。卽ち、之を領ず。予、問ひて云はく、「予の當來之(の)生處(せいしよ)は何所(いづこ)か。」。答へて曰はく、「忉利天(たうりてん)也。」。問ひて曰はく、「彼(か)の天に生じて、已に五欲に就著(しゆうぢやく)せずして、佛道を修行せむか。」。答へて曰はく、「尓(しか)也。」。天の云はく、「尓(なんぢ)は頭(かうべ)を燒くべからざるか。」。答へて曰く、「尓也。」。心に思はく、『後生(ごしやう)吉(よ)くして此(これ)を志さば、何にてもありなむ。現世に人の前にて、何とも在るべくはこそはと云はる。』と思ふ。又、白(まう)して言はく、「常に此(かく)の如く護持せしむべし。」。答へて曰はく、「尓也。」。卽ち、覺(さ)め了(をは)んぬ。

[やぶちゃん注:底本注に、『以下』、ずっと後の「同八日の夜、山の峯に於いて、遙かなる海の上を見ると云々」『まで「明恵上人夢記」と題する一冊』とある。冒頭部は明恵が自身に課した厳重な勤行既定のメモであるが、それが夢の前に配されていることは、その覚悟が、その後に見た自身の夢と密接な関係性を持っていると明恵が強く認識していることを示している。

「初夜」通常ならば、初夜は六時(仏家に於いて一昼夜を晨朝(じんじょう)・日中・日没(にちもつ)・初夜・中夜・後夜(ごや)の六つに分けたもの。この時刻ごとに念仏や読経などの勤行を行う)の一つである戌の刻(現在の午後八時頃)に行う勤行のことである。

「子夜の行法」「子夜」は「しや」と読んでおく。「子(ね)の刻」のことで午前零時頃に行う勤行。「中夜」は現在の午後十時頃から午前二時頃までの広汎な時制を指すので、それと同じと考えてよい。

「後夜の坐禪」現在の午前四時頃に行う座禅。「朝合三度」はこれの左注と採るならば、朝と合わせて三度の座禅ということか。ということは、朝は二度定期の坐禅を行っているということであろうか。よく判らない。

「餘時」その他の時間。

「承久二年 同八月十一日」ユリウス暦一二二〇年九月九日。「承久の乱」の前年である。

「遮失顯德」よく判らぬが、「遮失」が「遮二無二」の「遮」と同義であるとすれば、「失を断ち切る」の意で「不断に」の意か。「顯德」は仏法の徳を顕かにすると採れば、そうした厳しい徹底した勤行をこの日、「三時始之(三時(さんじ)、之れを始む)」(「三時」は先の六時の晨朝 ・日中・日没 の昼三時と初夜・中夜・後夜の夜三時を指すから、イコール、全日を指す)で、完全に隙間なく開始したという意か。

「一、七月」以下何も書かれていないから、前の時制よりも前の七月に見た夢を記そうとして、そのままになったものか。

「同九月廿日」ユリウス暦十月三十日。

「義林房」既出既注であるが、再掲しておく。明恵の高弟喜海(治承二(一一七八)年~建長二(一二五一)年)の号。山城国栂尾高山寺に入って明恵に師事して華厳教学を学び、明恵とともに華厳教学やその注釈書「華厳経探玄記」の書写校合に携わった。明恵の置文に高山寺久住の一人として高山寺の学頭と定められ、明恵の没後も高山寺十無尽院に住した。明恵一次資料として重要な明恵の行状を記した「高山寺明恵上人行状」は彼の手になる。弟子には静海・弁清などがいる(以上はウィキの「喜海」に拠る)。この奇妙な挿入シークエンスは、明恵のこの弟子に対するというよりは、彼に代表される諸々の明恵の弟子たち総てに対する、明恵の潜在的な不満或いは心的複合(コンプレクス)がシンボライズされているように読める。

「渇仰」深く仏を信じること。咽喉の渇いた者が水を切望するように仏を仰ぎ慕う意。「かつぎやう(かつぎょう)」と読んでもよいが、私は一律、「かつごう」と読むことにしている。

「不審」何故に、わざわざ私の現前にかくも現われたのだろうという明恵の疑問。

「信施」信者が仏・法・僧の三宝に捧げる布施。「しんぜ」と読んでもよいが、濁音化はこの語の場合、私は生理的に嫌いである。

「領ず」諒承した。

「忉利天」仏教の世界観に現れる天界の一種。忉利はサンスクリットのトラーヤストリンシャ (或いはその俗語)の漢音写。「三十三天」と意訳する。須弥山(しゅみせん)の頂上には、帝釈天(インドラ)を統領とする三十三種の神が住んでおり、中央に帝釈天、四方にそれぞれ八天がいるので、合計三十三天となる。殊勝殿や善法堂をはじめ、数々の立派な建物・庭園・香樹などを備わり、一種の楽園としてイメージされている。釈迦の母が、死後、ここに転生したため、釈迦が彼女に説法するために、一時、ここに昇り、帰りに三道宝階によって地上へ降ったとされる(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「五欲」原義は眼・耳・鼻・舌・身が存在することから生ずる五種の欲望。色欲・声欲・香欲・味欲・触欲であるが、判り易く別に示されるものは財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲である。

「尓(しか)也」その通りである。請けがう台詞。

「當來之生處は何所か」来たるべき来世の私の生まれ変わることになっている時空間は何処か?

「尓(なんぢ)は頭(かうべ)を燒くべからざるか」「お前は自身の脳味噌を焼かないことはないか?」か。所詮、「人としての下らぬ智などを惜しまぬことはないか?」、さらには「人としての命を失ってしまうことを惜しむような気持ちはないか?」という意味で採る。

「後生(ごしやう)吉(よ)くして此(これ)を志さば、何にてもありなむ。現世に人の前にて、何とも在るべくはこそはと云はる」――『「死後の後生が仏法に則(そく)して善きものとなる」と心から信じているならば、この現在の仮象でしかないお前がどうなろうとよいのが真理である。現世に於いて、相対的な他者に対して、何かの存在であろうなどという考えることは、それこそ、全く無意味なことである』と仰っておられるのであろう。――という意味か。]

□やぶちゃん現代語訳

66

◎初夜の行法・子夜の行法・後夜の坐禅(朝と合せて三度となる)・早朝の行法・その他の時間の随意の坐禅

◎承久二年 同年八月十一日 徹底した厳格な勤行(それを日々完全に始動した)

 

○七月にこんな夢を見た――

[やぶちゃん注:以下、記載なし。]

 

○同承久二年九月二十日の夜、こんな夢を見た――

 

……大きな虚空の中(うち)に、羊の如き「なにもの」かが存在しているのが見える。

 それは――変現の窮りなき、しかし、確かな存在――である。

 それは、或いは「光るもの」のようでもあり、また、或いは人間の姿のようでもある。

 冠(かんむり)を被り、貴人の如くであったかと思えば、忽ち変じて下賤の民草の姿ととなり、そうして地上へ下って、「しっか」と立った。

 その附近には、私の弟子義林房が立っていたのが見えるのであるが、その「なにもの」かは、これを見て、義林房のことを――或いは、そこに義林房いることを――何故か、厭(いと)い憎んでいることが、ありありと私には感ぜられた。

 そうして、その「なにもの」かは私の方に向かって、まさに何かを言わんとした。

 その時、私が心に思ったことは、

『これは! 仏菩薩を守護なさる星宿の変化示現(へんげじげん)されたものである! 私は、それを心から信ずるものである! 願わくは、「何故に、かく畏くも、私の現前に現われなさったものか?」という、大いなる疑問を、これ、明らかにせずんばならず!』

という切実な思いなのであった。

 すると、直ちに、「そのお方」は私に仰せられた。

「あたら、多く人の信施(しんせ)を受けてはならない。」

 私は即座に、その命を肯(がえん)んじた。

 そうして私は「そのお方」にお訊ねした。

「私めの、来たるべき来世の存在する所は何処(いづこ)にて御座いますか?」

と。

 「そのお方」は答えて仰せられた。

「忉利天(とうりてん)である。」

と。

 「そのお方」は即座に再度、私にお問いになれた。

「汝(なんじ)は、かの忉利天に転生し、既に五欲に執着することなくして、正しき仏道を修行する覚悟があるか?」

と。

 私は答へて申し上げた。

「その通りで御座います。」

と、しっかりと。

 「天の星宿の権現なるお方」が、また、お問になられた。

「汝は汝の脳髄が焼き尽くされて消滅することを恐れぬか?」

と。

 お答えした。

「その通りで御座います。」

と、しっかりと。

 その瞬時、私が心に思ったことは、

『これは――「後生(ごしょう)が仏法に則(そく)して善(よ)きものとなる」と心から信じているのであるならば、この現世のお前という存在がどのようになろうと、そんなことは、どうでもよいことなのである。現世に於いて他者の前にあって、何らかの存在であろう、ありたい、などと思うことは、これ、全く無意味なことなのである――という真理を仰せられているのだ!』

という確信であった。

 そうして「そのお方」は最後に、また、仰せられた。

「常に、かくの如く、正法(しょうぼう)を護持するがよいぞ。」

と。

 私は自信を持ってはっきりと答えた。

「その通りで御座います!」

 

 その瞬間、私は夢から醒めていた。

 

2018/07/13

進化論講話 丘淺次郎 第十七章 變異性の研究(二) 二 溫度による變異

 

    二 溫度による變異

 

 溫度が動植物の發育に直接の影響を及ぼすことは、最も明なことで、同一の植物でも、暖い處と寒い處とでは、葉の大きさ厚さなどに著しい相違がある。動物の方で特に面白いのは、溫度と彩色との關係で、蝶類の如きは寒暖の度に隨ひ、種々の異なつた色を呈する種類が甚だ多い。我が國に産する「あげは蝶」の類も、春出るものと夏出るものとでは、色も大きさも餘程違ふ。「ひおどし蝶」の類も溫度次第で、種々の斑紋・彩色を現し、從來二種或は三種と見倣されてあつたものが、飼養實驗の結果、同種に屬することの確に解つた例が幾らもある。前に第五章に掲げた黃蝶の如きもこれと同樣な例で、飼養實驗によつて、始めてその悉く一種であることが明に知れた。

[やぶちゃん注:「蝶類の如きは寒暖の度に隨ひ、種々の異なつた色を呈する種類が甚だ多い」所謂、「季節型」と呼ばれる季節性個体変異。中日新聞平針専売店 ㈱村瀬新聞店 大角サイト季節型」にアゲハチョウを含め、何種かのそれが写真で掲載されているので、見られたい。

「あげは蝶」鱗翅目アゲハチョウ上科アゲハチョウ科 Papilionidae のウラギンアゲハ亜科 Baroniinae・ウスバアゲハ亜科 Parnassiinae・アゲハチョウ亜科 Papilioninae に属するアゲハチョウ類。我々が普通に目にし、イメージするそれはアゲハチョウ亜科アゲハチョウ族アゲハチョウ属亜属Papilio (Sinoprinceps)アゲハ Papilio xuthus である。

「ひおどし蝶」アゲハチョウ上科タテハチョウ科タテハチョウ亜科タテハチョウ族タテハチョウ属ヒオドシチョウ Nymphalis xanthomelas

「第五章に掲げた黃蝶」「第五章 野生の動植物の變異(2) 一 昆蟲類の變異」に例示した鱗翅目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目アゲハチョウ上科シロチョウ科モンキチョウ亜科キチョウ属キチョウ Eurema hecabe(但し、厳密には現行では二種。リンク先の私の注を参照されたい)。]

 

Hitorimusinoheni

 

[「ひとりむし」の變異]

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングし、補正して用いた。左右に番号が振られているのは、右手がページの綴じ込みで見難いかも知れないとの配慮に違いない。ちょっと感動した。丘先生! 素敵! 「ひとりむし」は本邦産種ならば、鱗翅目有吻亜目二門下目ヤガ上科ヒトリガ科ヒトリガ亜科ヒトリガ属ヒトリガ Arctia caja であるが、これは科レベル(Arctiidae)での、その仲間としておく方が無難であろう。]

 

 斯くの如く、蝶類の色や模樣は溫度次第で種々に異なるもの故、人工的に溫度を加減して飼養すれば、夏に出るべき形のものを冬に造り、秋に出るべき色のものを春に造ることも、決して困難ではない。尚この方法によつて、實際天然には生存して居ないやうな變つた蝶を造ることも出來る。この種類の實驗で最も古く行はれたのは、已に前世紀の中頃であるが、たゞ溫度の高低によつて、蝶の彩色に種々の變異の起ることを實地に試驗しただけで、その新な性質が子に傳はるものであるや否やまでは試驗して見なかつた。その後今より十數年前に至つて、フィッシュルといふ人が頗る多數の材料を用ゐて同樣の實驗を試み、且溫度の高低によつて人爲的に造つた變種を更に繁殖せしめて、初めてかやうな後天的の性質が確に子に傳はることを證據立てたのである。次[やぶちゃん注:ここでは前に掲げた。]に示す圖の中で㈢は「ひとりむし」と名づける蛾の一種で、普通にはこの圖に見る如き斑紋が翅にあるが、之を卵の時から溫度を高くして育てると、終に成長して㈡の如き黑色の勝つた變種が出來る。次にこの黑色の勝つた變種に卵を生ませ、之を普通の溫度の所で飼育したら、㈠に示す如き蛾と成つた。これはその親なる㈡に比べると、黑い處が幾分か減じて居るが、㈢なる普通のものに比ベて見ると、尚著しく黑色が勝つて居る。卽ち、㈡なる親蛾は、溫度の高い所で飼育せられたために、その影響を受けて、普通のものよりは遙に黑色が勝つたといふ新な性質を獲たが、その産んだ卵を普通の溫度の所で育てて見て、それから出た蛾が、普通の㈢に比べて尚著しく黑いのは、全く以上の後天的の性質が親から子に傳へられたものと考へねばならぬ。從來用ゐ來つた普通の意味でいへば、之は確に後天的性質の遺傳であつて、若し之を遺傳と名づけぬとすれば、遺傳といふ字の意味を改めて、特別の極めて狹いものとせねばならず、隨つて從來遺傳と稱し來つたことの大部分は、その範圍以外に出てしまふであらう。

[やぶちゃん注:「フィッシュル」不詳。識者の御教授を乞う。]

諸國里人談卷之四 塩泉

 

    ○塩泉(しほのいづみ)

下野國日光山の北、七、八里がほどに栗山(くり〔やま〕)と云〔いふ〕溫泉あり。此所の山に少しの洞(ほら)あり。此滴(したゝ)り潮(しほ)水也。燒(やか)ずして、その儘に食物(しよくもつ)につかふに、味ひ、燒(やき)たる塩のごとし。弘法大師の加持ありし所と云り。此所は至極の山中にて、海邊(うみべ)へは四日路(ぢ)を過〔すぎ〕たり。米穀の貧しき所也。

此溫泉は諸々の痔の病ひを治(ち)す事、神變なり。

[やぶちゃん注:塩泉連投。前条でも紹介した「たばこと塩の博物館だより」の同館学芸員高梨浩樹氏の第十五回『「移動」をともなわない塩適応(その2)』に、『栃木県塩谷郡栗山村』(現在の日光市栗山。(グーグル・マップ・データ)。東照宮の北山間部、湯西川の南)として、松浦静山の「甲子夜話」に『「塩泉の水を食物に用いれば焼塩と変わらない味だという」と記述があ』り(甲子夜話電子化注手掛てお、全巻所持するが、膨大な量なので当該項は今は探さない。判ったら、ここで追加して電子化する)、「諸国里人談」にも『この塩泉は「焼かずにそのまま調理に使っても、甘い焼き塩のようだ」と記述がある』と本条が紹介されてある。しかし、ここでの製塩については、少なくともネット上ではロクな記載は見当たらない。今のうちに採話しておかないと、永久に謎になりそうな気がする。]

諸國里人談卷之一 塩の井

 

    ○塩の井

陸奧國會津若松より米澤への往還、「六十里越(こへ[やぶちゃん注:ママ。])」といふ山の梺(ふもと)に、大塩といふ驛(むまぢ)あり。若松より五里余、此所、町の川岸に、「潮(うしほ)の泉(いづみ)」、大小、二ケ所あり。大木を刳(くり)て、底なき桶のごとくにして、その泉を、かこふ。此木、年來(ねんらい)、塩に朽(くち)て岩のごとし。此潮(うしほ)を汲(くみ)て塩に燒く也。民屋(みんをく)、七、八十軒、皆、塩を燒(やき)て産とす。此所より、海邊(かいへん)へ四日路(ぢ)より近きはなし。唐(もろこし)雲南省・四川省にある所の塩井も是也。○夏、此潮(うしほ)を浴(あび)て乾(かはけ)ば、惣身(そうしん)より塩のこぼるゝ事、燒(やき)たる塩のごとし。又、浴衣・手拭等(とう)に「さらさら」と塩のこぼるゝなり。

[やぶちゃん注:本条の挿絵がに載る(①)。海塩でない、内陸産の塩である。塩分を含んだ地下水や塩泉の温泉水を汲み揚げて煮詰めて作るもの。「たばこと塩の博物館だより」の同館学芸員高梨浩樹氏の第十五回「移動」をともなわない塩適応(その2)(及びそこからリンクされている前回分)を見ると、我々の知識としては馴染みの薄い、本邦の内陸性製塩の歴史が垣間見えてきて、必見である(本条関連と思われる西会津の事例も見られたい)。また、そこでも紹介されてある、長野県下伊那郡大鹿(おおしか)村(海のない同県でしかもこの村の標高は七百五十メートルである)の塩泉製塩については、「JA長野」公式サイト内の塩水の湧泉から採取される大鹿村の山塩の謎に詳しく、その歴史は古く、伝承では、『太古の昔、信濃の国を開拓した建御名方命(たてみなかたのみこと)が狩りをしたとき、鹿など動物が集まる水場を調べると、そこは「塩泉(しおせん)」であったと、伝えられて』いるとし、史実上は『ひも解くと、西暦』八百『年代にまでさかのぼ』るとして、『当時、上下諏訪社の領地として管理され、塩を産出するこの地には、多くの牧場が作られ、貴重な塩分が与えられた良馬が育ち、諏訪社の祭りや農耕に重宝されていたと伝えられて』いるという(『草食動物は、尿と一緒にカリウムと多量のナトリウムが出ていくため、補うためにどうしても「塩」が必要にな』る)。『南北朝地時代になると、後醍醐天皇の第八皇子「宗良(むねなが)親王」が大鹿村に住み、親王を護衛する城が作られ』るが、『その中のひとつ、「駿木(するぎ)城」では、護衛と同時に、この塩を守ることも重要な任務で』、『この駿木城の遺跡からは、塩を作っていた製塩の様子を伝えるものも見つかってい』るとある。『江戸時代になると、塩を「塩壷(しおつぼ)」で製塩するようになり』、明治八(一八七五)年に『旧徳島藩士である黒部鉄次郎という人物を中心に岩塩を見つけようと』、『大きな夢を抱いた人々が鹿塩地区へやってきます。後に「白い鉱山師(やまし)」と呼ばれる彼らは、塩水を煮詰めるなどの製塩事業をしながら、山を掘り』、『岩塩発見に執念を燃やしますが、結局発見でき』なかった。則ち、何故、この大鹿『村に塩水が湧き出るの』『か』は、『実は』、『その理由は』現在も『解明』されていないのであり、まさに『これは、神秘の塩なの』だとある。うん! ゼッタイ、この塩、欲しい!!!

「六十里越」現在の新潟県魚沼市と福島県南会津郡只見町との間にある峠。(グーグル・マップ・データ)。最高標高は八百六十三メートル。

「大塩といふ驛(むまぢ)」(「むまぢ」は「馬路」の当て読み)「大塩」の宿場名に拘るなら、六十里越と会津若松(「若松より五里余」は短過ぎるが)とのスパンを考えると、福島県大沼郡金山町大塩としか私には思われない。(グーグル・マップ・データ)。

「此所より、海邊(かいへん)へ四日路(ぢ)より近きはなし」この大塩村から海辺に辿り着くまでには、どの道を通ったとしても、丸四日の行程がかかり、それ以上近い位置には海辺はない。

「唐(もろこし)雲南省・四川省にある所の塩井」雲南省の例は個人ブログの「中国貴州省とそこで暮らしている苗族トン族等の少数民族を紹介しています。」の雲南省の塩造がよい。それによれば、『雲南省の各地では、意外にも多くの場所で塩が採れ』、『雲南の塩は岩塩ではなく』、『井戸などから汲み上げた塩分を含んだ水を煮詰めて造る所が多いよう』だとある(製塩写真有り)。同ブログには別に雲南省楚雄市石羊鎮の塩造りもあり、そこでは本邦の流下式塩田の装置に酷似したものを画像で見ることが出来、必見。四川省については、九江論文(水盛涼一四川盆地における古代の塩業技術 考古遺跡や遺物を焦点として――PDF)によれば、製塩が太古の昔まで溯れ、『四川盆地内の塩はおおむね井塩』(せいえん)『の形式であり、ほかに少量の岩塩が存在する。四川盆地での井塩生産の歴史はとても長く、考古的発見からみれば、現在の状況からしても少なくとも今から四千五百年ほど以前の新石器時代晩期にまで溯ることができ』、『その長い歴史もあって古代における煎熬』(せんごう:製塩に於いて塩水を濃厚にして得た鹹水(かんすい)を煮つめて塩を製すること)『採塩技術の際立つ代表となっている』とあり、『近年』、『考古学発掘隊は相次いで重慶市忠県の中壩遺跡』を始めとした遺跡群に於いて、『一連の塩業に関する考古調査や試掘』を進めており、『これら塩業遺跡の周辺の地域での発掘活動においても少々ながら古代の塩業に関する考古学的発見があった。この一連の発掘により得られた重要な成果により、四川盆地の井塩の発展の歴史研究は大きく前進し、おおむね古代』、『なかでも先秦時代における塩生産工程が解明され、古代の井塩技術の歴史研究はさらなる高みに到達したのであった』とある。また、ウィキの「自貢市(現在、四川省の重要な化学工業基地の一つ)によれば、同地区は『古代よりこの地で産出される「井鹽」(井塩)という塩は貴重なものとして各地へ売られ、製塩業や塩の売買、塩に関係する工業で財をなした富裕な商人が多く住んだ。近代的な製塩技術が導入されるまでは、製塩と塩取引で栄える自貢は中国でも豊かな都市の一つであった』とあり、事典類にも、自貢市は古くから岩塩の産地として知られ、塩井が多く、製塩が盛んなため、「塩都」の称があり、現在も四川産塩の二分の一以上を同市が産しているとか、戦国末期から塩井を掘り、天然鹹水を汲み上げて煮つめ、井塩を採取しきた。唐代になると規模も拡大され、各王朝は塩税を課して塩の専売を行った。また、塩井とともに「火井(かせい)」と呼ぶガス井(せい)から天然ガスを採取し、それをまた、塩の精製に利用してきたとある。

「惣身(そうしん)」「總身」。]

2018/07/12

帝銀事件

私が20代の頃に出遇った老人は私の帝銀事件の推理を微笑しながら黙って聴いておられたが、最後に「君の推察は概ね正しい。……私が死んだら、私の手帖をあげましょう」と言った。そうして「あの事件だけは真実が語られなければいけない……」と呟いた――彼は敗戦前後の内務官僚であった…………

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 ヱゴダイ (コショウダイ? コロダイ?)

 

ヱゴダイ

 

Egodai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。体が膨らまずに側偏して見えること、背鰭と尾鰭の小さな暗色斑が散在すること(これが和名の胡椒鯛の由来)、眼の位置が上吻より有意に高い位置にあることから

スズキ目スズキ亜目イサキ科コショウダイ属コショウダイ Plectorhinchus cinctus

を考えたが、決定打の体側にあるはずの三本の灰色の斜走帯がないのがダメだ。しかし、「WEB図鑑」の「コショウダイの解説に『背鰭と尾鰭が黄色味を帯びることがある。また、稚魚では体が茶色』いとあるのは、あってるじゃないか! 「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「コショウダイの異名欄に「エゴダイ」もあるぞ! と力づいてきた。そこでふと、この図、見たことがある気がして、「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年平凡社刊)を開いて見たら、あった! 田中誠氏(東京衛生局)の「栗本丹洲」のパートの図(百九十八ページ)に載っていた。キャプションを見ると、おう! 『コショウダイ?』とあった! と……ここで悠然と「コショウダイ?」で標題しようと思ったのだが、ここで今度は「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「コショウダイに『コロダイと呼び名などで混同があり、コロタイ、コロダイと呼ぶ地域がある。またコロダイをコショウダイという地域もある』という一文が眼に入ってしまった。そこで「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「コロダイ」を見た。コロダイも「エゴダイ」の異名がある!

スズキ目スズキ亜目イサキ科コロダイ属コロダイ Diagramma picta

だ……『側扁し、灰青色に黄色い斑文が散らばる』とあるし……なんか、似てる!……「WEB図鑑」の「コロダイ」も見る……トップの写真! 似てるし!……縞いらねえし!……うへ~! 二種候補併記で手打ち!]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 スミヤキダイ 石ダイノ類 (不明)

 

スミヤキダイ 石ダイノ類

 

Sumiyakidai2

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。かなり魚相が悪いなぁ……体色もやけにしっかり黒々してる……魚体の形状も妙に体高さが高い……どうも前の「スミヤキダイ」スズキ目スズキ亜目イシナギ科イシナギ属オオクチイシナギ Stereolepis doederleini とは似てないし……しかもこれ、先の「スミヤキダイ」の真下に並べて貼り付けてある分、余りに相違点が目立ち過ぎる……う~ん、判らん! 体高が異様に高いことと、黒いという点では、

スズキ目スズキ亜目イサキ科コショウダイ属クロコショウダイ Plectorhinchus gibbosus

が思い浮かんだが、特徴の一つである、上顎が有意に突出していて非常に厚みがあるべきところが、ないからなぁ……ただ、未成魚の写真を見ると、それほど分厚くなく、白い口辺が、この図と似てなくもない(例えば、「WEB魚図鑑」の)。ただね、このクロコショウダイは眼が真ん丸で、こんなに悪相じゃあないんだよなぁ……お手上げ!]

栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 スミヤキダイ (オオクチイシナギ)

 

スミヤキダイ

 

Sumiyakidai

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちら(「魚譜」第一軸)の画像の上下左右をトリミングして用いた。

スズキ目スズキ亜目イシナギ科イシナギ属オオクチイシナギ Stereolepis doederleini

でよかろう。別名に現行でもスミヤキダイもある。本邦では各地に分布し、通常は深さ四〇〇~五百メートルの岩礁域の深海に分布するが、産卵期には百五十メートル程度の深さまで上がってくる。幼魚は水深八十~二百メートル附近から漁獲される。図ではちんまいが(幼魚かも知れない)、成魚は二メートル前後と甚だ巨大になる。美味い魚であるが、肝臓には大量のビタミンAが含まれており、知っていて少しにしようと思っても、味わいがいい(私も試しに食べたことがあるが、実際、美味い)ためについ食が進んでしまうことから、急性のビタミンA過剰症(食中毒)を起こす虞れは高い。症状は「激しい頭痛・嘔吐・発熱・全身性皮膚落屑(はくせつ)」等であり、食後三十分から十二時間程度で発症する。]

譚海 卷之二 安永八年八月江戶幷日光山大雨風洪水の事

○安永八年八月廿五日、大雨風洪水、其夜神田和泉橋落(おち)たり。目白下の水道の懸樋(かけひ)の岸二十間ほど崩(くずれ)たるに樋の口埋(うづま)る。仍(よつ)て樋の口を掘出(ほりいだ)す際、井の頭水筋(みづすぢ)に付(つけ)たる江戶の水道通ぜず。廿日餘り井の水に渇し、日々本所より水をくむ事にて、兩國橋の上(うへ)乾く事なし。同時下野日光山大風雨にて、御宮御修覆御用に登山(とうさん)致居(いたしを)られし、山口忠兵衞と云(いふ)人の居(をる)小屋のうしろにある大木、根よりぬけいで小屋へ倒れかゝり、右忠兵衞主從三人、鼠のをとしにひしがれたる如く暴死(ぼうし)す。中禪寺の稻荷の社、風に卷去(まきさ)られて行方(ゆくへ)を知らず。中禪寺より初石邊まで往還の道、杉の葉にて埋(うづま)り、道みえぬ程也。日光開闢已來未曾有の大風と申(まうし)あへり。又天明元年七月十二日、江戶大風雨にて、翌十三日洪水、新大橋・永代橋を押流(おしなが)し、淺草新堀ばた水入(みづいり)、家の床(ゆか)を浸し、三味線堀邊は下谷(したや)御步行町(おかちまち)幡隨院店(ばんずゐんだな)のあたりまで水あふれ來り、四五日の間往來のもの脚(あし)の三里まで水にひたり、潮(しほ)のさしくる時殊にふかく成(なり)て難儀せり、新吉原土手むかふ、洪水海の如く、大門の内へ水おし入らんとせしが、衣紋坂(えもんざか)きれざるによりて幸(さいはひ)に無難なる事なり。

[やぶちゃん注:サイト「防災情報新聞」に、安永八年八月二十四~二十五日(グレゴリオ暦一七七九年十月三日~四日)にかけて、東海を中心に関東・東北で暴風雨・洪水があった記録が載る(太字下線は私が附した)。

   《引用開始》

 台風によるものか、東海地方を中心に、関東、東北にかけて暴風雨になった。

 林春齋が編集した歴史書「続日本王代一覧」によれば、929日(旧暦820日)から大雨が連日降り続き、103日~4日(824日~25日)になると暴風雨となり、羽州(山形県)米沢、奥州(岩手県)盛岡、同(宮城県)仙台、常陸(茨城県)、下野(栃木県)、上総(千葉県)の各地の河川が氾らんし洪水となる4日(旧25日)江戸では、神田川が氾らんして和泉橋が落ち、目白下の水道の掛樋の堤が20間(約36m)ほど崩れて、小日向、水道町の道路が5尺(1.5m)ほど冠水した(武江年表)

 中でも東海地方の被害は大きく、三州(愛知県)岡崎では大洪水となり“城下近郷の民家ことごとく漂流”し、40万石余の収穫に相当する田畑が水没したという。ほとんど全滅である。[やぶちゃん注:以下、略。]

   《引用終了》

「神田和泉橋」(グーグル・マップ・データ)。

「目白下の水道」神田上水の取水口であった目白下大洗堰。東京都立図書館によれば、『井の頭池や善福寺池などから引かれた水が、この堰で』二つに分かれ、『上水として必要な分は水戸徳川家の御屋敷に送り、その後地下を通って江戸中に配水され、余った水はここで江戸川に落とされた』とあり、『この設備が設けられたのは三代将軍・家光の時代で』あったとある。リンク先では斎藤長秋(ちょうしゅう)編・長谷川雪旦画の「江戸名所図会」(天保五(一八三四)年~天保七(一八三六)年刊)第四巻の「目白下大洗堰」の挿絵が見られる。
(グーグル・マップ・データ)にあった。

「二十間」三十六メートル三十六センチ。

「山口忠兵衞」不詳であるが、小杉放菴記念日光美術館作成「日光歴史年表」に、元和六(一六二〇)年六月に『山口忠兵衛常信が日光目代となる』とある(寛永八(一六三一)年七月二十六日に『山口忠兵衛が没』ともある)から、この人物の後裔であろうと思われる。因みに、同年表のこちらで、この大災害のあった三ヶ月後の同安永八(一七七九)年十一月十三日、『日光山の諸堂社の修復が成り、正遷宮・正遷座』とあるから、それがせめてもの、この「山口忠兵衞」ら三名への手向けととなったものとは思う。

「鼠のをとし」「鼠落とし」で鼠取り。餌を食うと、重量のある上乗せが落下して圧殺するタイプのものか。

「暴死」頓死。急死。

「初石」不詳。或いは、思うのは中禅寺湖畔の東端にある「巫石(みこいし)」の崩し字を誤って読んだものか? (グーグル・マップ・データ)なら、南へ中禅寺への参道が続くからである。「巫石」については諸國里人談卷之二 巫石を参照されたい。

「天明元年七月十二日、江戶大風雨」グレゴリオ暦一七八一年八月三十一日。このクレジットの記録は見つからなかったが、多摩川がこの年、享保以来の大洪水を起こしていることが、きゅーサイト「あばれ多摩川発見紀行年表で判る。

「新大橋」隅田川に架橋された三番目(①千住大橋・②両国橋)の橋で、「大橋」と呼ばれた両国橋に続く橋ということで「新大橋」と名づけられた。(グーグル・マップ・データ)。

「永代橋」隅田川に架橋された四番目の橋。(グーグル・マップ・データ)。

「淺草新堀ばた」東京都台東区鳥越から寿附近。一帯(グーグル・マップ・データ)。

「三味線堀」(グーグル・マップ・データ)。浅草新堀一帯の西側。

「下谷(したや)」附近(グーグル・マップ・データ)。

「御步行町(おかちまち)」御徒町。

「幡隨院店(ばんずゐんだな)」現在の台東区東上野四・五丁目附近と推定される。(グーグル・マップ・データ)。

「新吉原土手むかふ」附近(グーグル・マップ・データ)。

「衣紋坂」江戸新吉原の日本堤から大門(おおもん)までの間にあった坂。遊客がここで衣服をつくろったところから、この名がある。(グーグル・マップ・データ)。

「きれざる」衣紋坂の東が山谷掘であるから、ここが決壊しなかったということであろう。]

ブログ・アクセス百十一万突破記念 梅崎春生 井戸と青葉

 

[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年八月号『小説新潮』に発表された。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第四巻」(昭和五九(一九八四)年刊)を用いた。

 二箇所で鈎括弧の不具合を発見したが、孰れも脱落と誤植と断じて訂した。活字のカケも一箇所あったが、これも前後の文脈から字を確定して補正した。

 冒頭に出るこの当時の国際的社会的事件について簡単に注しておく。一部を除いて、本作品の主題とは無関係だが、若い読者のために、この時代の主人公にタイム・スリップして同化してもらえるよう、かなりマニアックに注してある。

「核爆発の実験」一九六二年当時は、前年四月に在米亡命キューバ人部隊がCIAの支援を受けてグアテマラで軍事訓練を行い、キューバに侵攻してカストロ政権の打倒をしようとした「ピッグス湾事件」が起こり(失敗。戦死者百十四名、捕虜千百八十九名)、同年八月末、ソ連共産党書記長フルシチョフはソ連が三年間停止していた核実験を終了して九月一日からの実験再開を宣言、これに対し、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは核実験計画「ドミニク作戦」(Operation
Dominic
)の実施を承認することで応え、この一九六二年、アメリカは太平洋核実験場(主にクリスマス島(現在はキリバス共和国内))及びネバダ核実験場で百五回にも及ぶ核実験を実行している。ウィキの「ドミニク作戦」を見ると、この一九六二年には主な実験だけで本作公開の前六月までに三十七回も行われている米ソ冷戦の緊張が最も高い時期に行われた驚愕の痙攣的実行回数の核実験群であった。

「ラオス問題」一時、親米に偏っていたラオス王国では反政府活動が激化、一九六〇年八月、王国政府軍がクーデターを起こし、元首相に左派グループとの連立組閣を要請、連立政権が発足すると、アメリカはラオス援助を停止し、タイ王国もアメリカの要請で国境封鎖を断行した。これらの経済制裁のためにラオス政府は困窮し、ソビエトに援助を要請、国交を樹立した。アメリカはクーデターから避難していた右派の軍人を援助、軍を再編成して、一九六〇年十二月十六日、首都ヴィエンチャンを奪回して内閣を発足させた。それに対し、反政府側は一九六〇年末から、再び、軍事行動を開始、一九六一年一月一日のシエンクワーン占領を皮切りに、諸地域を次々と占拠していった。こうした事態を受け、アメリカ合衆国大統領ドワイト・アイゼンハワーは第七艦隊に警戒態勢を発動するなどして圧力をかけたが、反体制勢力の躍進は止まらなかった。一九六一年五月十六日からのジュネーヴ国際会議では、チューリッヒでラオス諸派の会談を設けることが決定され、翌一九六二年六月十二日のこの三派会談によってプーマ首相による新連立政権樹立が合意された(その後、これを受けてジュネーヴ国際会議は「ラオス王国の中立に関する宣言」を一九六二年七月に採択、ラオス王国内に駐留していたアメリカ軍及びベトナム軍は撤退し、ようやく平和が訪れたかに見えたが、一九六三年には中立派軍人と左派の外相が暗殺され、以後、右派の政治勢力が台頭することとなる。後、一九七五年五月首都で住民二万人規模の大規模な反右派デモが発生、十二月一日の「全国人民代表者会議」に於いて暫定国民連合政府によって当時のサワーンワッタナー国王の退位が承認され、王制廃止と共和制への移行が宣言され、スパーヌウォン最高人民議会議長兼国家主席を代表とする「ラオス人民民主共和国」が誕生した。以上は主にウィキの「ラオスの歴史に拠った)。

「電車衝突」国鉄戦後五大事故の一つに数えられる、この昭和三七(一九六二)年の五月三日に常磐線三河島駅構内で発生した「三河島事故」のことである。信号無視によって脱線した下り貨物列車に下り電車が衝突、さらにそこへ上り電車が突っ込んで二重衝突に発展、百六十人が死亡し、二百九十六人が負傷した

「ダンプカー事故」「交通戦争」(昭和三十年代(一九五五年~一九六四年)以降、交通事故死者数の水準が日清戦争での日本側の戦死者数(二年間で一万七千二百八十二人)を上回る勢いで増加したことから、この状況は一種の「戦争状態」であるとして付けられた名称)の前期で大型車であったダンプカーによるそれも有意に多かった。ただ、明言は出来ないが、ここは前からの「電車衝突やダンプカー事故」でセットで読むと、踏切の無謀な通過を行おうとして列車との甚大な衝突事故がこの頃、頻繁に引き起されていた資料も見出せるので、その意味も含ませてあるのかも知れない

「水不足」ブログ「新聞集成昭和編年史」の「昭和37年(1962年)34月の主な出来事」の「社会」の項に、同年四月十六日、『東京都水道局、都内の水不足対策として夜間の第』二『次給水制限を実施』。五月一日、『臨時都渇水対策本部発足』。五月七日、『昼間の給水制限実施』され、これが解除されたのは夏を過ぎた九月十三日のことであるとある。春からの施策によってこの年の水不足の深刻さがよく判る。しかも練馬に住んでいた梅崎春生はまさにこの給水宣言をまともに喰らっていたのである。なお、この水不足は、例えば、四国災害アーカイブズ」の「昭和37年の干ばつ」を見ると、昭和三七(一九六二)年の九月から十月にかけて、徳島では『台風の影響が全くなく、深刻な水不足となり、電力は底をついた。また、阿波郡を中心とする吉野川北岸地区は農作物の干害が続出し、陸水稲、野菜、果樹の被害額は』実に二億五千万円にのぼったとあり、一年を通じてこの年は甚大な水不足に陥っていたことが判明する

「ニセ千円札事件」この前年末からこの翌年にかけて発生し続けた「チ-37号事件」ウィキの「チ-37号事件」によれば、昭和三六(一九六一)年十二月七日、『秋田県秋田市にある日本銀行秋田支店で、廃棄処分にされる紙幣の中から』、『偽千円札が発見された。これ以降』、二年後の昭和三八(一九六三)年まで、実に二十二都道府県から合計三百四十三枚もが発見された(「チ」は紙幣偽造事件において千円札を意味する警察コードで、「37」は「三十七番目の千円札の偽札事件」であることを意味する符牒である)。『偽札は本物に比べて紙の厚さや手触りに違いがあったが、あくまで本物と比較した場合に「辛うじて判別できる程度」の細微な違いであり、偽札だけを手に取っても、まず判別は不可能であるほどの精巧な作りであったという』。『警視庁捜査第三課が捜査するも、-37号は巧妙化していった。初めは通し番号が「WR789012T」と連続した数字で、数字の配列が右下がりになっていたことが新聞で報道され』たが、翌一九六二年春に発見されたものでは、『数字が「DF904371C」となった上、数字の配列が真っすぐになるなど、より偽札の精度が高いものになっていった。また、肖像の目尻が本物より下がっていると指摘を受けると、それも修正』が行われて使用されている。『警察庁は、地方紙だけに情報を載せることによって、犯人の居場所を特定しようとしたが、犯人はどんな小さな記事も見逃さず、偽札に改良を加えていった』。『偽札を使った「犯人らしき人物」は、何度か目撃されている』。昭和三七(一九六二)年九月十日、『千葉県佐倉市の駄菓子屋で、偽の』千『円札を使用してチューインガム』百『円を購入して、つり銭を受け取った男性が目撃された。男性は年齢は』三十五~三十六『歳、白いハンチング帽を被り、体は小柄だが』、『ガッシリしており、顔は黒かった』。一九六二年九月六日、『警視庁は、偽千円札を届け出た者に対して』一『枚につき』三千『円の謝礼、犯人に繋がる重要な情報を提供した者には』一『万円から』百『万円の謝礼を出すことを決定した。銀行協会も犯人への有力情報に』百『万円の懸賞金を出すことを発表し』ている(当時の大卒初任給平均は約一万四千八百円)。昭和三八(一九六三)年三月五日、『静岡県清水市(現・静岡市清水区)の青果店で、偽の』千『円札を使用して』百『円のミカンを購入して、つり銭を受け取った男性が目撃された。男性は年齢は』三十『歳くらい、背丈は』百五十五『センチくらい、丸顔であった』。昭和三八(一九六三)年三月六日、『静岡県静岡市の青果店で、偽の』千『円札を使用して』三十『円の干し椎茸を購入して、つり銭を受け取った男性が目撃された。男性は年齢は』三十『代、黒いハンチング帽を被り、黒縁メガネをかけ、丸顔であった』。『佐倉市の目撃証言は、駄菓子屋の主人が片目に障害があったため、人相がはっきりしなかったが、清水市と静岡市の人相に関する目撃証言によって、モンタージュが作成されて公開されたが、検挙には至らなかった』。昭和三八(一九六三)年十一月四日に『偽札が発見されたのを最後に、偽札が出てくることはなくなった』。昭和四八(一九七三)年十一月四日、『公訴時効が成立して、捜査打ち切りで迷宮入りとなっ』ているとある(うん? 偽造・変造通貨行使罪の公訴時効は十五年のはずだが? この時代は十二年だったのかなあ? にしても月日が合わないのもよく判らないな。誰か、教え子の法学部出の人、教えて!)なお、この事件を受けて翌一九六三年十一月一日には、『紙幣の信頼維持のため、肖像を聖徳太子から伊藤博文に変更した新千円紙幣(C号券)』が発行されたともある。また、『事件や警視庁の』謝礼『対応は当時の小学生にも知れ渡り、「Aさんが』三百『円の品物を千円札で買ったところ』、二千七百『円のお釣りが返ってきた。それはなぜか」という内容のクイズが流行した。これは漫画「三丁目の夕日」でも描かれている』とある。「チ-37号」は『「日本の偽札史上、最高の芸術品」といわれている』とある(下線太字はやぶちゃん)。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが百十一万アクセスを突破した記念として公開する。【2018年7月12日 藪野直史】] 

 

  井戸と青葉 

 

 某月某日、朝、山名君から電話がかかって来た。丁度(ちょうど)その時、私は朝食をすませて、また寝台にごそごそと這い登り、新聞を丹念に読んでいた。

 近頃の新聞記事や解説は実に多様多彩で、読みでがあって、時間がかかる。読みでがあるというと他人事みたいだが、核爆発の実験やラオス問題、身近には電車衝突やダンプカー事故、水不足やニセ千円札事件、ことごとくわが身に直接間接降りかかって来る問題なので、丹念に読まざるを得ないのである。四種類の新聞を読み終るのに、最低一時間やそこらはかかる。

 新聞はそのままにして、電話口に出た。山名君の声が言った。

「もしもし。今日、お暇ですか」

「そうだね。さし当って今日は、取り急ぐ予定はないけれど、忙しいと言えば忙しい」

「朝飯は食ったんですか」

「うん。子供といっしょに済ませて、今寝床で新聞を読んでいる」

「子供というと、学校に通ってるから、朝飯も早いんでしょう?」

「うん」

「それからあんたはずっと新開を読んでんですか?」

 電話の向うで、彼は舌打ちのような音を立てた。

「寝ころがって一時間半も新聞を読んでいて、よくも忙しいなどと――」

「いや。何も暇つぶしに新聞を読んでいるわけじゃない。君も知ってるだろ。近頃はいろんな事件があって――」

「しかし、こんないい天気だというのに、いくら何でも、一時間半は読み過ぎですよ。折角部屋を明るくして上げたのに、のうのうと寝ていては困りますねえ。この間もこんこんと説明したでしょう」

 先日山名君はふらりとわが家に遊びに来て、生憎(あいにく)とその日私が書斎にごろ寝して雑誌などを読んでいたもんだから、枕もとに坐り込んで文句をつけた。

「冬や夏じゃあるまいし、今の時節に暗い部屋でふて寝をしているなんて、運動不足になるのは当然ですよ。起き上って、そこらを散歩したり、かけ回ったりしてはどうですか」

 山名君は私より七つ八つ年少の友人で、たいへん親切な男ではあるが、少しそそっかしく早呑み込みをする癖がある。それに親切が過ぎて、おせっかいの傾向もあるのだ。

「そうじゃないよ。ごろ寝を始めたのは、今から五分ぐらい前だ。郵便屋さんが雑誌をどさりと配達したもんだからね。雑誌類を僕が寝ころんで読むことを、君は知ってるだろ」

「雑誌などは、いつでも読めます。配達されたからって、すぐ読まなきやいけない義理はないでしょう。それにこんなに光線の入らない部屋で――」

「そりゃ君が日盛りからいきなりここに入って来たから、暗いように感じられるんだよ。初めからここにいる分には、けっこう明るい」

「何ですか。それはまるで童話のモグラモチのセリフです。眼を悪くしたら、どうするつもりですか」

 もっとも私の書斎は、東と南に大きな窓があるが、周囲に雑多な樹を植え過ぎて、それがむんむんと梢を伸ばし葉をつけて、太陽光線はその隙間をやっと通り抜け、青い光となってこの部屋を満たしている。椿。蘇芳(すおう)。サンショウ。藤。グミ。その他名の知れぬ木など。

 これらが若葉の頃は、実によかった。光や風が適当に通り、部屋の空気は若葉に染まっていたが、近頃は青葉が重なり過ぎて、この部星に身体を伸ばしていると、深海魚とまでは行かないが、中海魚みたいな気分になって来る。しかしこの気分も悪くないので、そのままにしている。

「こんなに葉っぱを繁らせて、その中でじっとしているなんて、ミノ虫みたいですな」

 彼はあきれ果てたように言った。

「五分前に寝ころんだとおっしゃるけれど、ぼくがお宅に伺う時は、いつも横になっているじゃないですか。寝ているか、酒を飲んでいるか――」

「そういうことになっているか」

 しかし、私の方から言わせると、ごろ寝をしたり酒を飲み始めたりすると、きっと山名君がやって来るのである。世の中にはそんな不思議な現象はよくあるもので、説明してやろうと思ったが、彼は自分の見たものしか信じない休験派の性格なので、説得は取りやめにした。来る度に寝ころがっているのを見て、一日中ふて寝をしていると断ずるのは、一斑を見て全豹を卜(ぼく)すようなものだと思うけれども。

 結局その日は何やかやの押問答があって、私の体の調子の良くないのは、結局私の運動不足のためという結論(彼だけの)に達し、その不足の原因のひとつは、この青ぐらい書斎のせいだということになった。

「体のためにいいわけはないですよ。風通しは悪いし、毛虫は這い込むし――」

 そして山名君は庭木の梢や葉の整理を勧告し、私をうながして、うちにある木鋏や花鋏、脚立(きゃたつ)のたぐいまで総動員させて、伐採(ばっさい)に取りかかった。考えてみると、葉が繁り過ぎて、私も幾分うっとうしいような気にもなりかけている。どうせ植木屋を入れなくちゃならない時期が近づいているから、山名君がそんな申し出をして呉れるのなら、渡りに舟である。タダほど安いものはない。そう了承して、手分けして作業にとりかかった。

 書斎の周囲は彼にまかせ、私は庭の中央にあるニセアカシヤに取りついた。この木は、その葉の形からそうきめているが、あるいは別種の木かも知れない。まことに可笑(おか)しな木で、冬の間は枯木のように縮まって、まるで棒を地面に突き刺したように見える。春が来ても、まだ枯れている。他の木が若葉をつけ終った頃、やっと幹から芽を出して、それからの成長ぶりがものすごい。枝だの梢だのをやたらに伸ばし、幹の高さも二倍ぐらいになる。枝や梢も勝手に葉をつけ、むんむんと繁茂する。ところが肝心(かんじん)の幹が、背は伸びたが太さは旧のままで、枝葉が栄えている割には、どうも足元が心もとない。

 春が過ぎて、夏が来る。夏の終りに大風が吹く。そうするとムリに高度成長したこのニセアカシヤはひとたまりもない。一夜の嵐が過ぎて、雨戸をあけると、他の木はさしたる被害もないのに、この木だけは枝は折れ幹は裂け、ふくろ叩きにあったクラゲみたいな惨状を呈している。仕方がないから折れた枝を払い、裂けたところをつくろってやると、すなわち一本の幹になってしまう。秋から冬にかけて、彼はそのまま一本棒である。こんなに傷めつけられたのだから、もう枯れたんだろうと思っていると、次の年の春になると、またもりもりと枝葉を伸ばし始める。この木を植えて五年になるが、毎年その繰返しである。

「も少し計画的に枝葉を伸ばせば、どうにかなるだろうに、この木はバカじゃないだろうか」

 と私はかねて思っているが、木には木の思惑があるのかも知れない。しかし嵐の後の惨状を見るに忍びないから、今のうちに幹の負担を軽くしてやろうと、先ず私はこの木に取りついたのである。

 枝を取り払うというのも、かんたんな作業ではない。風向きを考え、恰好(かっこう)のことも考慮し(眺めて観賞する都合があるから)少しずつ切って行く。時々縁側に腰かけて、タバコをのみながら、今度はどの枝をどのくらい刈ろうかと思案する。庭師や植木屋がしばしば休憩して、茶を飲んで庭を眺める。あの気分と同じなのである。一時間ほどかかって、やっと形良く仕立てたら、山名君がやって来て、あきれ声を出した。

「まだこの木にかかっているんですか。実際悠長なものですなあ。書斎のまわりは、全部済みましたよ」

 そこで初めてそちらの方を見て、私はアッと驚いた。バッサバッサと伐採して、枝葉が地面にうず高く積み重なり、足の踏み場もないほど散乱している。樹々は丸裸とまでは行かないが、わずかに下着をとどめた乙女みたいに、身をよじて恥かしがっているように見えた。

「ああ。何て傷ましい」

 私は慨嘆した。

「こりやあまり切り過ぎじゃないか。他人の家の木だと思って。可哀そうだとは思わないか」

「何を言ってんですか。可哀そうだなどと」

 山名君はせせら笑った。

「木はね、人間と違って、切られても痛くも何ともないんですよ。感傷的な言い草はよしなさい」

「そりゃ痛くはないかも知れないが――」

「僕はあんたのためを思って、枝を払って上げたんですよ。人間と植物と、一体どちらが大切です?」

 山名君も縁に腰をおろして、タバコの煙をくゆらした。

「それに根本からバッサリ切るのは、これは気の毒ですよ。しかし枝をチョイチョイと払った程度ですから、人間で言えば爪や髪を切ったのと同じで、またすぐ生えて来ます。さて、残りのやつも、一気呵成(かせい)にやっつけますか」

「いえ。もう結構。あとは僕がやるよ」

 そこで二人は縁に上り、書斎に戻ったら、青い部屋の雰囲気は消え、なんだか白っ茶けた感じの部屋となり、畳の汚れや焼焦げがへんに目立って見えた。私は何もムードを尊重するたちではないが、空気がいきなり散文的になるのは、好もしいものではない。がっかりして部屋を見回していると、山名君は得意そうな面もちで、

「どうです。さっぱりしたでしょう。この空気の明るさ。それに風通しのいいこと」

 窓をあけ放って、深呼吸をした。

「しかし、風通しがいいからと言って、ここにじっとしてちゃ、何にもなりませんよ。少し出歩いて、山登りをするとか、魚釣りをするとか、体を動かさなくちゃダメです」

「そんなものかね」

「そうですとも。だから切り落した枝葉の始末は、あんたがやりなさい。本来なら僕がやるべきだけれど、そうすると為にならないから、そのままにしときます」

「え? おれに片付けさせると言うのかい?」

「そうですよ」

 山名君はうまそうに茶を飲んだ。

「これから出来るだけチャンスをつくって、あなたに運動させることにしましょう。無精というやつが、一番人間をダメにさせる。判りましたね」 

 

 電話がかかって来たのは、それから五日目のことである。

「うん。判ってるよ。あれから毎日、適当に運動しているよ」

「ほんとですか?」

 疑わしそうな声が、受話器を通して聞えた。

「今日はあんたにひとつ運動していただこうと思って、いえ、散歩や庭掃きみたいな小運動ではなく、ちょいとした大運動です」

「大運動って、何だい?」

「そりゃ拙宅に来ていただければ判ります。服装? そりゃなるべく簡略な、お粗末な方がいいですな。少しよごれるかも知れないから」

「魚釣りかね?」

「魚釣り、じゃありません。水には関係がありますが――」

「水に?」

「そうです。とにかく十二時までに是非うちに来て下さい。今日は予定はないと言ったでしょう。お待ちしています」

 おい、おい、一体どんな仕事だと、問い返す前に、彼は電話をがちゃりと切ってしまった。話が一方的で、押しつけがましいのが、彼の生れつきの性格なのである。

 仕方がないから、一番粗末なシャツとズボンを着用、下駄ばきで十一時半に出かけた。この間の植木刈りではタダ働きをしてもらったんだから、すっぽかすわけには行かない。私の家から山名宅まで、バスと徒歩を併用して三十分の行程で、丁度(ちょうど)正午に着いた。山名君は門の外に立って待っていた。

「やあやあ、よく来て呉れましたね」

 山名君は操(も)み手をしながら、喜ばしげに言った。彼が揉み手をするなんて、珍しいことだ。

「お昼はまだでしょう」

「うん。まだだ」

「ではザルソバ、いや、モリソバでも振りましょう。どうぞお上り下さい」

 彼の画室に通ると、三人の先客が待っていた。それぞれ名前を紹介されたが、三人とも山名君と同年輩で、絵の方の仲間らしい。あいさつを交して、私はおもむろに山名君に訊ねた。

「水に関係のある運動って、一体何だい?」

「井戸掘りですよ」

 彼はあっさりと答えた。

「水道の水が全然出ないでしょう。それで今度うちで井戸掘りすることにしたんです」

「井戸掘り?」

 私は思わず大声を出した。

「僕にそれをやらせようと言うのか。そりゃ運動じゃなくて、労働じゃないか」

「運動も労働も、体を動かすという点では、同じようなものです。青空の下でやるんだから、健康にはとてもいいですよ」

「健康にはいいかも知れないが、井戸掘りなどという器用な真似(まね)は、僕には出来ないよ。そんなのは井戸屋に委(まか)せりゃいいじゃないか。おれ、もう帰るよ」

「いえ。ちょっと待って下さい。実は井戸屋に頼んだんですけどね――」 

 

 モリソバを食べながら、山名君が説明するところによると、ここらは都内でも有数の水道の出の悪いところで、夜間は全然断水、昼間でもチョロチョロ水で、コップ一杯を充たすのに一分間ぐらいかかるという。周囲の畠が宅地に変って、家が建て込んで来たが、管の太さが旧のままで、ふだんでも出が悪いのに、昨今の断水騒ぎでますます状態が悪化した。ついに意を決して、井戸屋に頼みに行く気持になった。

 井戸屋は山名君の家から一町ほど行ったところにあって『井戸掘ります』と紙の看板がぶら下げてある。いつも散歩の行き帰りに、その看板がふらふらと風に揺られているのを見て、何と不景気な看板だろうと彼は憫笑(びんしょう)していたが、いざ頼みに行ってみると、そこのオヤジは実に横柄だったそうである。案内を乞うと、

「井戸の用事かい。庭の方に回んな。庭の方に」

 そこで庭に回ったら、丁度時分どきで、オヤジさんは刺身だのトンカツなどを肴にして、ビールを飲んでいた。不景気な看板にしては、豪勢な食事をとってるなあと、山名君は感嘆しながら、

「実はね、うちの水道の出が悪いんで、井戸を一つ掘ってもらいたいんだがね」

「水道の出は、どこだって悪いよ」

 コップを傾けながら、オヤジはそっけなく答えた。上れとも何とも言わないから、彼は余儀なく縁側に腰かけて言った。

「うちのは特に出が悪いんですよ。コップ一杯ためるのに、五分間かかる。これじゃ飢え死、いや、干乾(ひぼ)しになるおそれがあるんで、大至急に井戸を――」

「大至急? そりゃダメだね」

 オヤジは刺身を見せびらかすようにしながら、ぽいと口に放り込んだ。

「近頃申し込み殺到でね、大至急だなんて、そんなゼイタクな――」

「じゃ掘って呉れないと言うんですか?」

「そりや商売だから、掘りますよ。順番を登録しといて、番が来たら通知するから、それまで待つんだね」

「待つと言うと、一週間ぐらいですか」

「とんでもねえ。そうさね」

 オヤジは壁にかけた黒板を見上げた。

「まあ早くて、一カ月だね。とにかく予定がつまってんだから」

 そう言われて山名君は愕然とした。しかし考えてみると、今の水道の状態では、皆が井戸屋に殺到するのは当然の話である。も少し早く申し込めばよかったと思っても、もう遅い。

「弱ったなあ。どうにかなりませんか。親方」

 親方呼ばわりはしたくはないが、一カ月も待たせられてはかなわないので、彼は下手に出た。

「僕は貧乏絵描きで、冷蔵庫もまだ買ってないんです。それでビールを飲みたいと思っても、冷やす場所がない。せめて井戸でもあればねえ。親方。どうにかなりませんか。」

「うん」

 オヤジは若干心を動かされたらしく、箸の動きがとまった。

「ビールや西瓜(すいか)を冷やすには、やはり井戸が一番だ。なにしろ大自然の冷蔵庫だからな」

「そうでしょう。時にその親方のビールは、よく冷えてるようですねえ。うらやましいですよ」

「うん。これはあの真中の井戸で冷やしたんだ」

 オヤジが庭の方に顎(あご)をしゃくったので、見ると庭には三つも井戸が掘ってある。実物見本のつもりなのだろう。でも、

「では、あれを一つ譲って下さい」

 と持って帰るわけには行かないところに、山名君のつらさがある。オヤジは得意そうに、また憐れみをこめて言った。

「あんた、絵描きかね?」

「そうですよ。絵を描くのにも、やはり水が要るんです。どうですか。料金二割増しというところで、大至急願えませんか」

「うん。二割増しか」

 オヤジはコップを置いて、壁の黒板をにらみ、しばし首を傾けた。

「よし。どうにかやりくりして、明日やって上げることにしよう。特別だよ。あっしは芸術家が好きなんだ」

「え? 明日? そりゃありがたい」

 山名君は躍(おど)り上りたいような気持になった。

「是非お願いします」

「でもね、あんたは今の人手不足は知ってるだろ」

 オヤジはビールをぐっとあおった。

「ホリヤとゲンバはこちらから出すが、ツナコとドロカキはそちらで集めてもらいたいね」

「ホリヤと言いますと?」

「ホリヤとは井戸を掘る人だよ。こりゃ専門家じゃなくちゃ、出来ねえ」

「ゲンバは?」

「ゲンバは現場に立ち合って、指図する人のことだ」

 オヤジは面倒くさそうに、舌打ちか舌鼓か知らないが、舌をタンと鳴らした。

「明日の午後、二人さし向けるから、ちゃんと用意しときな」

「ツナコにドロカキは、何人ぐらい必要でしょうか」

「まあ四、五人てえところかな」

「ええ。承知しました。では、明日、お待ちしています」

 話をしている中に、オヤジの気が変ったらたいへんなので、山名君はペこりと頭を下げて、早々に退散したのだそうである。

「井戸屋があんなに威張ってるとは、僕も気がつきませんでしたよ」

 と、山名君は述懐した。

「もっとも水がないんですからねえ、横柄なのもムリはないと患うけれど。終戦直後の農家と同じですな」

「しかし、井戸屋が水を持ってるわけじゃない。水はおれたちの地面が持ってるんだ」

 仲間の一人がそう言った。

「あいつらが持っているのは、それを地面に引っぱり上げる技術だけだ」

 そう言えば終戦の時と、ちょっと違うような気が私もする。

 この間キャベツが一箇五十円とか七十円の高値をつけた時、私は八百屋に聞いてみた。

「一箇七十円だなんて、儲かって儲かって、笑いがとまらないだろうね」

「とんでもありませんよ。旦那」

 八百屋は真剣な顔をして手を振った。

「こりや市場で仕入れた元値で売ってるんです。キャベツを置いとかねえと、なんだ、キャベツも置いてねえのかって、お客さんからバカにされるんでねえ。儲かったのは、去年の安値の時ですよ」

 話によると、去年のバカ安値の時は、市場に行っても、小売商がそっぽを向くから、キャベツがごろごろ転がっている。そいつを一箇一円ぐらいで仕入れて来て、店に並べ、

「どうです。奥さん。こんなでっけえの、一箇十円」

 と突き出すと、奥さんは大喜びで十円玉を出し、笑いがとまらない風で帰って行く。八百屋もそれを見送りながら、笑いがとまらない。それが今年の七十円の値になると、奥さんは忌々しそうに百円札を出し、キャベツ一箇とおつりの三十円を持って、口惜し涙にかきくれながら立ち去って行く。八百屋さんも口惜し涙を流しながら見送るという寸法で、

「あっしどもの商売もつらいもんですよ」

 とのことであった。その反対に一部の農民が笑いをとどめかねたり、悲憤の涙を流したりしているのだから、結局は終戦の時と同じだとも言えるが、威張る奴がいないのは幸せなことである。

 その井戸屋も、芸術家が好きだから便宜(べんぎ)をはかったのではなく、料金二割増しに心を引かれたのだろう。

 モリソバを御馳走になったからには、おれはイヤだよ、と席を蹴って帰るわけには行かない。もじもじしていると、山名君が、

「あなたにはドロカキをやっていただきましょう」

「ドロカキ? ドロカキは困るよ」

 ドロカキってどんな仕事かしらないが、私ははっきりと断った。

「何故です?」

「名前が気に食わない。ドロカキというと、最低の仕事のような気がする。せめてツナコの方に――」

 と言いかけた時、玄関の方から、御免、御免、という声が聞えて、もう井戸屋がやって来たのである。それっ、と言うわけで、私も山名君にうながされて、古ズボンの裾をまくり上げ、裸足で庭に飛び出た。山名宅の庭にも木が多く、むんむんと青葉を繁らせている。全然手入れしてなく、桜の木などには毛虫がたくさん巣をつくっている。自分の庭はほったらかして、わざわざ他人の庭木の手入れに来るんだから、おせっかいもはなはだしいと言うべきであろう。

 井戸掘りの場所は、その庭の隅ということに決った。 

 

 そしていよいよ井戸掘りが始まった。

 ホリヤというのが、山名君が言っていたれいの横柄なオヤジらしい。初めの中は私たちはただ眺めているだけだったが、段々掘り進むと、穴の中にバケツをおろし、綱を滑車にのせて、ゲンバの命令一下、その綱を勢いよく引っぱって走る。ヨイトマケにもちょっと似ているが、あんなにのんびりはしていない。穴の壁から水がシュウシュウ噴き出すので、大急ぎで引き上げねばならぬ。ゲンバがその泥水をあける。ツナコというのは、その引っぱり役のことだ。何の因果でおれがツナコなどを勤めねばならないのか。少々腹立たしくなって来たし、十分ぐらいやっていたら、日頃の運動不足がたたって息が切れて来たので、もはや耐え難くなり、ドロカキをやっている山名君に、

「おい。おれ、少しくたびれたよ。ドロカキにして呉れえ」

「そうでしょう。だから初めからドロカキをやりなさいと言ったんだ」

 山名君はそう言って代って呉れ、とうとう私は最低のドロカキになってしまった。最低と言っても、これは割にラクな仕事である。ゲンバがあけた泥水を、スコップで整理するだけなので、そう急ぐ必要はない。いい加減に桜の木の下に積んだり、下水溝に流したり、あれこれやっている中に、垣根の向うに人だかりがして来た。服装から見ると、近所の人達らしい。もの珍しさと、いつかは自分のとこでも掘るからその参考にと、集まって来たのだろう。

 その衆人環視の中で、私はなかばヤケッパチになって、せっせと泥をかいた。どうにでもして呉れと、居直るより他はないのである。

 井戸は夕方になって、やっと完成した。ちゃんと蓋をつけて、ポンプも取りつけた。私はくたびれ果てて、先に足を洗って画室の長椅子に横たわっていたので、山名君が井戸屋にいくらぐらい支払ったか知らない。井戸掘りの相場は知らないけれど、ツナコとドロカキの日当が只だから、結局相場より安くついたんじゃないかと思う。

 私が画室にいると、庭の方で何か言い争うような声が聞えて、やがて山名君が画室に飛び込んで来た。

「困ったことになりましたよ」

「何だい?」

「何だいって、あんた、流水をずいぶん下水溝に流したでしょう」

「うん。流したよ。それがドロカキの仕事なんだもの」

「弱りましたねえ。それで下の方の溝に泥が停滞して、近所から文句が来たんですよ。今日中にさらって呉れなきゃ、流し水が道にあふれるってね。あんたの責任ですよ」

「冗談じゃないよ」

 私はむっとして言い返した。

「これ以上おれに泥かきをさせようと言うのか。四十面を下げて、下水の泥かきが出来ると思ってるのかい」[やぶちゃん注:本作発表当時、梅崎春生は四十七歳であった。]

「そ、そう言わずに、あとでビールか何かを御馳走しますから、五人で手分けをして――」

「イヤだよ」

 私は断乎としで言った。

「君たち四人で手分けしてやれ。僕はビール買いの役目を引き受ける」

「そうですか」

 山名君は不服そうな声を出した。しかしテコでも動かぬという態度を私が示したので、ついに諦めて画室を出て行った。私は重い腰を上げ、下駄をつっかけて、酒屋におもむいた。

「ビールをだね、二ダースばかり届けて呉れ。うん。すぐそこの山名の家にだ」

 日当分ぐらい飲まなきゃ、腹の虫が収まらない。

「それからカニ罐、牛罐、南京豆もたのむ。勘定は山名から取って呉れ」

 家に戻って待っていると、やがて届けて来た。すなわち大盥(たらい)を井戸端に持ち出し、ギイコギイコと水を入れ、ビールをその中にひたした。なるほど水道の水よりはずっとつめたいようだ。

 一時間ほど経って、ドブさらいを終えた山名君たちが、どやどやと井戸端に行く気配がした。私は立ち上って、窓から眺めていると、大盥を見て山名君はギョッとした様子である。

「あれっ。豪勢に買い込んだもんだなあ」

 山名君の嘆息の声が聞えた。私は窓を開いて、声をかけた。

「まだもう一ダース、あるんだよ。それから罐詰もたくさん買っといた」

「え?」

 山名君は渋面をつくったが、三人の仲間は嬉々として、代りばんこにポンプを押して、手足を洗っていた。タダほど高いものはないと、彼も身にしみて知ったに違いない。

 それから画室で酒宴を開いたが、疲労しているせいか、すぐに酔ってしまった。せめて七八本は飲んでやろうと思っていたのに、三本ぐらいで私は千鳥足となってしまったのである。これから他人に酒をおごるには、くたびれた時を見はからって飲ませるに限る、という貴重な教訓を私はこの夜学んだ。 

 

 一週間ほど経った。山名君から印刷のハガキが来た。

[やぶちゃん注:以下の山名からの手紙文は、二箇所ともに底本では全体が一字下げとなっているが、ブログ上の不具合を考え、引き上げて示した。] 

 

『拝啓

 水不足の折柄、たいへんお困りのことと存じます。小生宅ではこの度井戸を掘りました。深さは五メートル程度ですが、とてもつめたく、おいしい水です。飲みたい方は拙宅においで下さい。腹いっぱい飲ませて差し上げます。もちろんタダです。

 貴台の健康をいのりつつ、まずは御報告まで』 

 

 印刷までしたところを見ると、ずいぶん沢山の人に出したのだろう。移転通知や年賀状じゃあるまいし、たかが井戸一つ掘っただけで印刷状を出すなんて、大げさな話だと思う。でも誇りたい気持は私も判らないではない。私の家でも水道はチョロチョロである。

 印刷文の空白に、ペンで次のように書いてある。 

 

『この間は御苦労さまでした。いい運動とレクリエイションになったと思います。今度は魚釣りに行きませんか』 

 

 何がレクリエイションかと、面白くない気持になったが、しかし考えてみると、私が恨むべきは山名君でなく、都の水道局、いや、都知事や都議であるのかも知れない。彼等の無能無策のために、私はドロカキにまで身を落した。これで税金だけは、遠慮容赦なく取り立てるのは、一休どういう気持なのだろうと思う。

 それから五日目に、山名君が私の家に姿を現わした。白っ茶けた書斎に寝ころんで、週刊誌を読んでいた時だったので、あわてて私は起き上り、机の前に坐った。彼はのっそりと書斎に入って来た。手に一升瓶をぶら下げている。

「おや。今日はふて寝をしていませんね。めずらしいことだ」

「いつもいつも寝ててたまるか」

 私は答えた。

「なんだい、その酒瓶。この間のお礼に持って来たのか」

「冗談じゃないですよ。お礼はこの間の晩に、たっぷりしましたよ」

 山名君は大切そうに一升瓶を置き、あぐらをかいた。

「ほんとに皆よく飲み、よく食べましたねえ。酒屋の請求書を見て、僕はがっくりしましたよ。あれじゃあアルバイト学生でも雇った方が得だった」

「まあまあ、そんなにがっかりするなよ」

 少し気の毒になって、私はなぐさめてやった。

「ではその酒、どこかに持って行くのか」

「こりゃ酒じゃありません。うちの井戸水です」

「ほう。僕に飲ませようと持って来たのか」

「いえ。そうじゃありません」

 彼は忌々(いまいま)しげにポケットから一遇の手紙を取り出した。

「これ、田園調布に住んでいる後輩から来たんですがね、まあひとつ読んで下さい」

 私は封筒から引き出して、文面を読んだ。

[やぶちゃん注:以下の手紙文は字下げはない。] 

 

『井戸をお掘りになられました由、おめでとうございます。しかし小生はお宅の井戸水がうまいということに関して、一抹の不安を感じるのであります。すなわち、井戸は昔から深い方が良い水が出ることは定評があり、浅い場合は充分ロカされない汚れが井戸水に混入するおそれがあります。率直に申しますと、御近所の便所のカメが破れていたりしますと、ハイセツ物はどうなるでありましょうか。言うまでもなく地面に吸収されるのであります。地面に吸収されたそのモノは……。とにかく山名先生の御健康のためにも、御近所の便所の構造が完全であることを、小生は祈りたいと思います。味がよいなどという宣伝は、ひかえられた方がよくはないでしょうか。化学で習った限りでは、水は無味、無臭、透明な液体であるべきなのです。

 先輩に直言して失礼とは思いますが、お許し下さい。

     水道局の水道の愛好者の

    一人であるところの 三谷朱男』

[やぶちゃん注:「ロカ」(濾過)・「ハイセツ」(排泄)・「モノ」(「物」だか、ここはカタカナの方がよりよい表記ではある)のカタカナはママ。] 

 

「ね。癪にさわるでしょう」

 読み終えるのを待って、山名君は言った。

「三谷の奴はね、僕が井戸を掘ったのを嫉妬してんですよ。あいつの家は高台で、水道の出が悪いんです。そこへ僕のあいさつ状が届いたもんだから、カッと頭に来て、こんないやがらせの手紙を書いたんです」

「そうかも知れないね」

 私は答えた。

「この文面はケチをつけてやろうという精神に満ちあふれているね。それで、その一升瓶を田園調布に持って行って、その男に飲ませようと言うのか」

「いえ。それほど酔狂なことはやりませんよ」

 山名君は苦笑いをした。

「これを保健所に持って行って、水質検査してもらおうと思うんです。その証明書を二通つくってもらって、一部を三谷に送ってやろうと思うんですがね」

「証明書たって、飲料には不適という結果が出るかも知れないじゃないか」

「いえ。大丈夫です。うちの井戸に限って、不適なんてなことはあり得ません」

 自信たっぷりの表情で彼は断言し、それから保健所におもむくために、立ち上った。それから二週間経つが、山名君は私の家にやっても来ないし、電話もかけてよこさない。もしかすると、飲料不適の結果が出て、大言壮語の手前、姿を現わさないのかも知れないと、私は心配している。

甲子夜話卷之四 34 本多唐之助病死のとき、有德廟上意の事

 

4-34 本多唐之助病死のとき、有德廟上意の事

德廟の御時、本多唐之助、疱瘡を患て沒したり。時、年十七以下なれば其跡たゝざる規定ゆへ、病死のことを、老職、密に御聽に入たるに、上意には、「疱瘡と云ものは面體のかはる者なり」と度々、仰あり。此御旨を心得て、かの家臣へ通じたれども、悟らざると覺て、其實を申出し故、御規定の如く、其家、たゝず。僅に小祿の苗跡を遺せる計になりたり。

■やぶちゃんの呟き

末期養子の連投であるが、こちらは「有德廟」徳川吉宗がわざわざ暗に誤魔化しを匂わせた上意を下して呉れたのに、それに心づかず、正直に報告してしまい、減封(御家断絶となったように見えるが違う。次注参照)となった不幸なケースである。

「本多唐之助」大和郡山藩第四代藩主本多忠村(ほんだただむら 宝永七(一七一〇)年~享保七(一七二二)年)の幼名。ウィキの「本多忠村によれば、享保二(一七一七)年、『父の死去により』、『跡を継ぐ。幼少のため』(数え八歳)、『幕府は郡山の重要性から忠村を別の領地に移封しようとしたが、将軍の徳川吉宗が許したため、移封を免れた』が、享保七(一七二二)年九月『晦日、天然痘のため』、『江戸で死去し、跡を弟の忠烈が継いだ』。享年十三歳。『松浦清(静山)の『甲子夜話』によれば、忠村の死に際し、吉宗が「天然痘というものは、ずいぶん容貌が変わるそうだ」とたびたび語っていたという。これは、他の人物を忠村ということにしてすり替えても分からない、と暗にすり替えを勧めていたのではないかとされるが、本多家中の者は忠村の死をそのまま幕府に報告したため、減封の上で幼少の弟・忠烈に継がせることとなった』とある(太字やぶちゃん)。清廉実直、と言うより馬鹿正直にして将軍の忖度を理解出来なかった凡愚な家臣故の悲劇と言うべきか。

「疱瘡」天然痘。

「患て」「わづらひて」。

「年十七以下なれば其跡たゝざる規定」ウィキの「末期養子によれば、『江戸時代初期には、大名の末期養子は江戸幕府によって禁じられていた』が、慶安四(一六五一)年に『幕府は末期養子の禁を解いた。とはいえ、末期養子の認可のためには、幕府から派遣された役人が直接当主の生存と養子縁組の意思を確かめる判元見届という手続きが必要であり(ただし、後に当主生存の確認は儀式化する)、無制限に認められたわけではなかった。また、末期養子を取る当主の年齢は』十七『歳以上』五十『歳未満とされており、範囲外の年齢の当主には末期養子は認められていなかった』。十七『歳未満の者が許可されるのは』寛文三(一六六三)年、五十『歳以上の者が許可されるのは』天和三(一六八三)年に『なってからであった。それも当初は米沢藩の上杉綱憲の相続のように、全ての所領を相続できず』、『減知されるといった代償が存在した』(この場合がそれ[やぶちゃん注:太字やぶちゃん])。『その後もこの規準は公式には遵守されており』、享保四(一七一九)年に『安芸広島藩の支藩三次藩主浅野長経が公式上』十三『歳(実際は』十一『歳)のために末期養子が認定されず』、『改易となり、宗藩にあたる広島藩に所領が併合され、藩士は広島藩士に転籍している。また、元禄六(一六九三)年に『備中松山藩主水谷勝美が親族の水谷勝晴を末期養子としたものの、その直後に当の勝晴が正式な家督相続前に亡くなった際には、「末期養子の末期養子」は認められず、水谷家は改易となっている』。『このために、諸藩では早い段階で嗣子が不在か末期養子が適用できる年齢に満たない場合は、末期養子の適用が可能な年齢の一族を仮養子や中継ぎに立てることや、当主死亡を幕府に届けるのを遅らせた上で嗣子の年齢詐称を行ったりしている。後者の場合、何らかの理由を付けて認められるのが常であり、形骸化していた。より軽格の旗本御家人などの場合、当主の年齢が』十七『歳に満たないことが明らかであっても当人が』十七『歳と称した場合にそれを認める(勝小吉の勝家相続のケース)など、幕府側が露骨に不正を黙認した例もある。そういった備えが出来ないまま』、『末期養子の禁に抵触しそうな場合には、藩主のすり替えが、時には幕閣の示唆で行われたこともあった』とある。『こうしたすり替えは多くの場合、すり替えても不自然ではない年齢で血筋上も妥当な相続者を一族内から選び、藩内で内密に行われた』ともある。

「老職」老中。

「密に」「ひそかに」。

「御聽」「おきき」。将軍の御耳にお聞かせ申し上げること。

「面體」「めんてい」。

「仰」「おほせ」。

「悟らざると覺て」「覺(おぼえ)て」。折角の将軍の御配慮の真意を汲み取ることが出来なかったと思われ。

「其實」「そのじつ」。末期養子の正式な手続きを全く採らず、十三歳で病死した事実。

「苗跡」「みやうせき(みょうせき)」その家の名を以って代々所有し来たり、また、子孫に伝えるべき土地・財産・権利。

「計」「ばかり」。

甲子夜話卷之四 33 假養子願書を取替たる事

 

4-33 假養子願書を取替たる事

予が親類の一侯、在所に往とて、亡父の時、其弟の末家を繼せたるを假養子に願置て立しが、間もなく在所に於て沒したり。定て家頼抔の所爲か、假養子の願書を申下して、別人を願替て、沒後に、某氏、養子となり、養父の忌服を受たり。然ば假養子の願書は自筆調印の例なるが、印は人も押すべし。自筆は誰が書せしにや。近來の新事と云べし。

■やぶちゃんの呟き

末期養子のすり替え例(当主が既に死亡しているにも拘わらず、周囲の者がそれを隠して当主の名に於いて養子縁組を行って家督を存続させた違法行為)ではあろうが(ウィキの「末期養子を参照されたい)、この話、私が馬鹿なのか、今一つ、関係がよく呑み込めない。弟は継いでいた分家が困るから養子縁組に難色を示していたものか、或いは、家臣たちが理由は判らぬが実弟の養子縁組に実はもともと反対だったのか? どなたか、判り易く解説して下されよ。語注だけしておく。

「往とて」「ゆくとて」。

「末家」「ばつけ」。分家。

「立しが」東洋文庫版「立(たち)しが」とルビ。

「定て」「さだめて」。

「家頼」「家來」に同じい。家臣。

「願替て」「ねがひかへて」。

「然ば」「しからば」。

「假養子の願書は自筆調印の例なるが」仮養子願いの上申書は養父の本文自筆の上、本人の書き判が定めであるが。

諸國里人談卷之四 若狹井

 

    ○若狹井(わかさのゐ)

南都東大寺二月堂の若狹井は、常に水なし。毎年二月朔日より十四日まで法會あり。于ㇾ時(ときに)、寺僧、加持して井に向ひ、「若狹々々」と、三遍、喚(よべ)ば、則〔すなはち〕、水、涌出(わき〔いづ〕)る也。此水を以て、墨を摺り、牛王(ごわう)を押(おす)事、恆例、かはらず。此日、若狹國「鵜の瀨の渕」の水、涸(かるゝ)也。是、「おにふ明神」より進ぜらる所の水也と云。「鵜の瀨」は遠敷〔おにふ〕郡の山の梺(ふもと)にある川の渕なり。

遠敷明神は、祭神 上ノ宮彦火々出見尊(ひこほゝでみのみこと)。下ノ宮、豐玉姫(とよたまひめ)也。往昔(むかし)、國主、これをうたがひ、其節、かの渕に糠(ぬか)を蒔(まき)たるに、その日、二月堂の井に、糠、水に交はりたるよし、いひつたへたり。

二月堂は肙索院[やぶちゃん注:①③もママ。「肙」は「羂」が正しいと思われる。吉川弘文館随筆大成版は「羂」になっている。]と云。本尊十一面觀音。長〔たけ〕七寸の銅佛也。難波(なには)の浦より出現、祕佛の像也。牛王の符は弘法大師の作。

[やぶちゃん注:「南都東大寺二月堂の若狹井」二月堂下にある閼伽井屋の中にある井戸。ここにある通り、この井戸は若狭国(福井県)の小浜と水脈が繋がっていると伝承されている。「奈良県」公式サイト内の県民だより奈良記事によれば、以下の話が伝わるという。

   *

 昔、実忠和尚が、修二会の行法中(ぎょうぼうちゅう)、「神名帳(じんみょうちょう)」に書かれた全国の一万七千余の神様の名を読み上げ、参集(さんしゅう)を求めた。神々はすぐに集まってこられたが、若狭国の遠敷明神[やぶちゃん注:「おにゅうみょうじん」。]だけが川で魚釣りをしていて遅刻された。

 それを他の神が口々に咎(とが)めた。そこで遠敷明神は「これは申し訳ない。お詫びとして、ご本尊にお供えする霊水を若狭からお送りしよう」といい、二月堂下の大岩の前で祈られた。すると、大岩が動いて二つに割れ、黒と白の鵜が飛び立ち、続いて霊水が湧き出た。和尚はこれをお供えの水とされた。これが今も二月堂下にある若狭井戸である。

   ※

「実忠和尚」(神亀三(七二六)年~?)は奈良時代の僧。ウィキの「によれば、『良弁に師事して華厳を学んだ。実忠は東大寺の十一面悔過(けかえ、通称お水取り)の創始者とされ、二月堂を創建し』、天平勝宝四(七五二)年二月一日から十四日間、修法『したとされる』。天平宝字四(七六〇)年には目代(東大寺の役職。工務事業統括と財政を担当)となり、『東大寺を始め』、『奈良西大寺・西隆寺の造営に参画し、東大寺大仏光背の造作や大仏殿歩廊の修理と寺観整備、百万塔を収める小塔殿や頭塔の造営を行い』、神護景雲元(七六七)年には『御所より光明皇后の一切経をもらい受け』、『如意法堂を建てて納め、春秋』二『回の一切経悔過を開始し、それともに財政の整備に貢献し』、『その後、東大寺少鎮・三綱のうちの寺主及び上座・造寺所知事などを歴任し』た実務面でも優れた名僧である。なお、若狭おばま観光協会公式サイト内「お水送り」によれば、これに合わせて、事前(奈良東大寺二月堂での修二会(しゅにえ)の「お水取り」は現在、三月十二日に行われる)に、現在は毎年三月二日に小浜市神宮寺で「お水送り」が行われている(地図と写真有り)。それによれば、『その「お香水」は、若狭鵜の瀬から』十『日間かけて奈良東大寺二月堂「若狭井」に届くといわれてい』るとあり、小浜市神宮寺の方の『「お水送り」は午前』十一『時、下根来八幡宮で営まれる山八神事から行事はスタート。神宮寺僧と神人がカシの葉に息を吹きかけ、手を交差させて後ろに投げます。これは、体内に宿った悪霊を振り払うためです。それから赤土をお神酒で練ったものをご祈祷してからなめて、残り土で柱に「山」と「八」の字を書き込みます』。『午後』一『時からは神宮寺境内において弓打神事。紫の装束に身を包んだ氏子代表が古式にのっとり』、三十『メートルほど離れた的に向けて弓を放ちます』。『午後』五『時半ごろ、白装束の僧がホラ貝を吹きながら』、『山門をくぐり入場します』とある。

「牛王」牛頭天王(ごずてんのう:本邦で生まれた神仏習合神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされる一方、蘇民将来説話の武塔神(むとうのかみ)と同一視され、薬師如来の垂迹であるとともに、スサノオの本地ともされ、陰陽道では天道神と同一視された。道教的色彩の強い神であるが中国の文献には見られない)の護符である「牛玉宝印」。独特の書体で書かれ、戸口に貼ったり、木の枝に挟んだり、病人に用いるなどして、厄除け・降魔(ごうま)を目的とする。起請文を書くための紙としても用いられた(ウィキの「牛頭天王に拠る)。

「遠敷〔おにふ〕郡」若狭国にあった旧郡(現在の小浜市の大部分と他一部が含まれる)。詳しくはウィキの「遠敷を参照されたい。

「おにふ明神」「遠敷明神」現在の福井県小浜市(上社・福井県小浜市龍前(りゅうぜん)/下社・福井県小浜市遠敷(おにゅう))にある若狭彦神社。若狭国一宮。下社は(グーグル・マップ・データ)。上社はその南一キロ強の位置にある。]

諸國里人談卷之四 ㊆水邊部 水辯

 

諸國里人談卷之四   菊岡米山翁著

  ㊆水邊部(すいへんのぶ)

    ○水辯(みづのべん)

水は坎(かん)の象(かたち)なり。其文(もん)、横にする時は、則〔すなはち〕、「☵」とす。縱にする時は、則、「※[やぶちゃん注:「※」には「☵」を九十度回転させたもの(縦にしたもの)がここに入る。以下同じ。す。其體(たい)は純陰、其用(やう)は純陽、上(のぼ)時は雨露霜雪(うろさうせつ)たり。下時は海河泉井(かいかせんせい)たり。流止(りうし)・寒温(かんうん)は、氣の鍾(あつまる)所、既(すでに)、異(こと)也。甘淡(かんたん)・鹹苦(かんく)は味(あじはひ)の入〔いる〕所、同じからず。水は萬化(ばんくは)の源(みなもと)たり。土は万物(ばんぶつ)の母たり。飮(のむ)は水に資(より)、食(しよく)は土に資(よる)。飮食(いんしい[やぶちゃん注:ママ。])は人の命脉(いのち)なり【「本艸」。】。水は火より柔(やはらか)にして、水の患(うれひ)は火より慘(はなはだ)し。火は避(さく)べし。水は避(さく)べからず。火は撲滅(うちけす)べし。水は如何ともする事なし。男女陰陽(いんよう)の氣性(きいせい)、然(しか)なり。○「茶經〔ちやきやう〕」云〔いはく〕、『山水を上とす。江水、これに亞(つ)ぐ。井の水、下とす【下略。】』。○「谷響集〔こつきやうしふ〕」云、『沙(すな)を盆に、又、盆に水をし添へ、滿つるに、溢(こぼ)れず。沙水(すなみづ)、同処にして、兩(ふたつ)ながら相礙(あいさはら)ず。復(また)、塩一升を以〔もつて〕、一升の水に和(まぜ)るに、其水、増(ま)さず。

[やぶちゃん注:基本、陰陽五行説に基づいた「水」の総論と分類学。前半の「本草綱目」のそれは、巻五の目録「水部」冒頭にある以下。但し、これと同じ部分を寺島良安は「和漢三才図会」の巻第五十七「水類」の冒頭の「水」で引いているから、やはり沾涼はそれを参照(孫引き)している可能性が濃厚である。

   *

李時珍曰水者、坎之象也。其文橫則爲、縱則爲※。其體純陰、其用純陽。上則爲雨露霜雪、下則爲海河泉井。流止寒溫、氣之所鐘、既異。甘淡鹹苦、味之所入不同。是以昔人分別九州水土、以辨人之美惡壽夭。蓋水爲萬化之源、土爲萬物之母。飮資於水、食資於土。飮食者、人之命脈也。而營衞賴之。

   *

「坎(かん)」易卦の八卦の一つ。「」で示され、下から初爻(こう)は陰、第二爻は陽、第三爻は陰で構成される(爻は一つの横棒と真ん中が途切れた二つの短い横棒の二種があり、「経(けい)」(儒教原典)では前者を「剛」、後者を「柔」と呼ぶが、「伝」(儒教経典の注釈書)では「陽」と「陰」とする。陽爻と陰爻は対立する二面性を表わし、陽爻は男性・積極性などを、陰爻は女性・消極性などを表わす。これらを三つ組み合わせた三爻により八卦が、六爻により六十四卦が作られる。このように陽爻と陰爻を組み合わせることにより事物のさまざまな側面を説明する)。ウィキの「坎」によれば、『原義は「外陽にして中は陰」。外側に陰柔の卦があるが、内部は陽剛である。「中に何かがある」と捉え』、『水・陥・豕・耳・秘密・姦計・色情・専門性・交渉・冷静・重病・中男などを象徴する。方位としては北(地支では子)を示す。実際の占断で坎の卦がでると』、『病勢は重症か、かなりの困難を考えなければいけない』とある。ここで「」をわざわざ縦にして「」と示す意味は易に興味がない私にはよく判らぬ。但し、要はこの八卦は純粋な時空間を示す記号であるから、縦で示すことで、それらを全的に表示することが出来ると考えているいるものかも知れない。或いはこの横と縦のデザインが示すところから「水」「川」「雨」などのシミュラクラを狙った確信犯かも知れない。比喩好きの中国人ならば有り得るようには思う。

「鍾(あつまる)」「集まる」に同じい。

「茶經」唐(八世紀頃)の陸羽によって著された、当時の茶に関する知識を網羅した書。「五之煮」に『其水、用山水上、江水中、井水下』と出る。以下前後の省略部は中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のを参照されたい。

「谷響集」「寂照堂谷響集」。江戸前期の真言僧泊如運敞(はくにょうんしょう 慶長一九(一六一四)年~元禄六(一六九三)年:大坂出身の智山派最大の学匠。十六歳で出家し、智積院の日誉・元寿に師事し、醍醐寺の寛済らからも密教を修学した。また他に師を求めて華厳・法相・天台等も学んでいる。寛文元(一六六一)年、智山第七世能化(学頭)に就任。綱紀を粛正し、将軍家綱や後水尾上皇の帰依を受け、智山派黄金時代を築いた。文献学や実証研究に優れた。霊力も抜群で、寛文八(一六六八)年の大旱魃の際には雨乞の祈請を成就したとされる)が、能化を辞し、寂照堂に隠棲していた頃、来客の質疑に応じて説いたものを、侍者に筆録させて成ったものが原型で、元禄二(一六八九)年の板行に際し、自ら「谷響集(こっこうしゅう)」と名づけたもの。探すのに苦労したが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該箇所を視認出来た。左頁冒頭の「盆沙水不ㇾ溢附鹽水」である。以下、それ(塩水が増えないこと)は何故か? という答えは、

   *

鹽從ㇾ水出。得ㇾ水依舊。

   *

「鹽は水より出づ。水を得れば、舊に依ればなり。」であろうか。]

諸國里人談卷之三 寒火 / 諸國里人談卷之三~了

 

    ○寒火(かんくは)

「本草綱目」云〔いはく〕、『南海の中に蕭丘山(しやうきうさん)あり。上に自然の火、有〔あり〕、春、生じ、夏、滅す。一種の木を生ず。但(たゞし)、小(すこし)焦げ、黑色(くろいろ)なり。又、云〔いふ〕、火山軍(くはざんぐん)、其地、鋤耘(しようん)する事、深く入〔いるる〕時は、則(すなはち)、烈焰(れつえん)あり。種(もの)を植(うゆる)に妨(さまたげ)ず。亦、寒火也矣。』。是、越後入方の火の類ひなり。

   里人談三終

[やぶちゃん注:明の本草家李時珍の「本草綱目」(一五七八年完成・一五九六年上梓)の巻六の「火」の冒頭「陽火・隂火」からの引用。本「光火部」冒頭の「火入方火の注で出して注も附したが、今回、ゼロから始めて再考し、詳注を施しておく。

   *

有蕭丘之寒火【蕭丘在南海中、上有自然之火、春生秋滅。生一種木、但小焦黑。出「抱朴子外篇」。又陛游云、火山軍、其地鋤耘深入、則有烈熖、不妨種植。亦寒火也。】。

○やぶちゃんの書き下し文

「蕭丘の寒火」、有り【『蕭丘は南海中に在り、上に、自然の火、有り。春、生じ、秋、滅す。一種の木を生ず。但し、小し焦げて、黑し。』と「抱朴子外篇」に出づ。又、陛游云はく、「火山軍、其の地、鋤耘(じようん)すること、深く入るるときは、則ち、烈熖有り。種(たね)を植うるには妨げられず。亦、寒火なり。」と。】。

   *

『土地を耕す際に鋤を深く入れると、激しい焔が噴き出て、種子を植えることが妨げられる。これは「寒火」である』というのだが、何故、「寒火」なのかは判らぬものの(ここでは農作物の種を植える分には問題がないから「寒火」だとするのは私には全くの半可通としか思えない)、この記載のそれは天然ガスか或いは「蕭丘」が南海中とするならば或いはメタン・ハイドレート(methane hydrate:低温且つ高圧の条件下でメタン分子が水分子に囲まれた、網状の結晶構造を持つ包接水和物の固体)のようなものかも知れないと思ったりする。

「蕭丘山」(原典には「山」はない)不詳。原典の引用が葛洪の神仙術書「抱朴子外篇」(三一七年完成)のであるから、実在しないと考えた方がよい。従って、そこに生えるという少し焦げた(ように見える)黒質の木も実在しないと考える。尤もツツジ目カキノキ科カキノキ属 Diospyros の黒檀(Ebony:エボニー)等がモデルかも知れぬが。

「陛游」南宋の政治家で詩人として有名な、「南宋四大家」の一人である陸游(一一二五年~一二一〇年)のことか。「古名録」(江戸後期の紀州藩藩医で本草学者・博物学者でもあった源伴存(ともあり 寛政四(一七九二)年~安政六(一八五九)年:別号・畔田翠山(くろだすいざん)の名物書(辞典)。全八十五巻)のこち同一箇所引用(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)では「陸游」となっている。

「火山軍」山西省河曲県とその東北に接する偏関県一帯の旧称(ここ(グーグル・マップ・データ))。

「鋤耘」畑地を掘り返して耕すこと。]

2018/07/11

諸國里人談卷之三 火浣布

 

    ○火浣布(くはくわんふ)

元祿のころ、長崎の住花明(くわめい)といふ人【はいかい師也。】、小袋(こぶくろ)を所持しけり。白茶宇(ちやう)の地組(ぢぐみ)なるもの也。これを「火浣布」といふとぞ。中華雲南省の南海に火山(くはさん)といふ所あり。其山の洞(ほら)に常に火熖あり。その中に、鼡(ねづみ)あつて、火を喰(くら)ふ。毛、長く細くして、糸のごとし。捉(とらへ)て水中に入〔いる〕れば、則(すなはち)、死す。その毛を紡績して、布に織(をり[やぶちゃん注:ママ。])、用(もちゆ)るなり。垢(あか)づける時は、火中に入〔いれ〕て、これを燒くに、淸(きよ)うして本のごとしと云。唐(もろこし)にても此布を本奔(ほんぽう)しけるにや。淸(せい)明(みん)戰ひの時、明朝より、國性爺(こくせんや)を味方に賴むに、數(かず)の宝を贈りけるが、その中に、是、一なり。

[やぶちゃん注:「火浣布」(かかんふ)は石綿糸(せきめんし)で織った不燃性の布のこと。煤(すす)や垢などの汚れも火の中に投入して焼けば、布は燃えず、汚れだけが落ちるところから、「火で浣(すす)ぐ(=濯ぐ)」という意で、この名がある。石綿布とも称し、アスベストの一種。耐熱性耐火性に優れており、高熱作業や汽缶などの保温用に使われた。中国では古くからこの製法が知られていることを青木昆陽が指摘している。日本では、本書刊行(寛保三(一七四三)年)から二十一年後の明和元(一七六四)年、かの博物学者平賀源内(享保一三(一七二八)年~安永八(一七八〇)年:彼は鉱山技師でもあった)が秩父山中で発見した石綿を用いて、中川淳庵らとともに製作したものが国産第一号とされる(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。現在は肺線維症・肺癌・悪性中皮腫の原因物質として使用が禁止されている。理科実験の五徳の石綿が懐かしい。但し、古くから存在は知られており、ここにある通り、中国南部の火山に住むとされた想像上の動物である「火鼠」の毛で織り、汚れたら、火に投げ入れれば、汚れが燃え落ち、本体は焼けることがないと伝えられた織物として「竹取物語」にも「火鼠(ひねずみ)の皮衣(かはごろも)」として、右大臣あべのみむらじへ出される難題として登場し、中国人のイカサマ商人「わうけい」を介して入手するも、かくや姫が火の中へくべさせると「めらめらと」美事に焼けてしまう。

「元祿」一六八八年~一七〇四年。

「住花明」全く不詳。「長崎」といい、俳号としても如何にも日本人離れした名前であるが、俳諧師とする以上、日本人なのであろう。

「茶宇(ちやう)」「茶宇縞」(ちゃうじま:現代仮名遣)の略。インドのチャウル地方から産出し、ポルトガル人によって伝来したことからの名称。琥珀織りに似て、軽く薄い絹織物。日本では天和年間(一六八一年~一六八四年)に京都で製出した。主に袴地に用いられた。こういうものらしい(サイト「染織のホーム」)。

「地組(ぢぐみ)」不詳。織物全体の基本の織りを指すか。

「中華雲南省の南海に火山(くはさん)といふ所あり」不詳。現在の海南省の大部分を占める海南島を指すか。最高のピークは五指(ウーチー)山で千八百四十メートル(ここ(グーグル・マップ・データ))。鉱物資源の豊富な島ではある。

「本奔(ほんぽう)」不詳。ある対象求めるために、何もかも擲って「本」気で奔走するの意か。

「淸(せい)明(みん)戰ひ」七世紀初頭、明の冊封下に於いて満洲に住む女直(ジュルチン・女真族)の統一を進めたヌルハチ(太祖)が一六一六年に建国した後金国が清の前身で、ここから南下して明の制服を狙って、明とは戦争状態となる。一六一九年にヌルハチが「サルフの戦い」で明軍を破り、さらにその子ホンタイジが渤海の北の明の領土と南モンゴルを征服、一六三六年に女真族・モンゴル人・漢人の代表者が瀋陽に集まって、大会議を開き、そこで皇帝として即位するとともに女真の民族名を満洲に改めた。ついで一六四四年、明では農民反乱指導者李自成が北京を攻略、西安に入った李自成は国号を順(大順)改め、この地で順王を称して明は滅んだ。しかし、同年、清は明の遺臣呉三桂の要請に応じて万里の長城を越えて李自成を破り、清は首都を北京に遷し、中国支配を開始した。

「國性爺(こくせんや)」明の軍人で遺臣の鄭成功(ていせいこう 一六二四年~一六六二年)。諱は森。字は明儼。日本名は福松。日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川マツの間に生まれた。父鄭芝龍は福建省泉州府の人で、「平戸老一官」と称し、平戸藩主松浦隆信の寵を受け、川内浦(現在の長崎県平戸市川内町字川内浦)に住んで、田川マツを娶った。幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼時は平戸で過ごしたが、七歳の時、父の故郷福建に移った。鄭一族は泉州府の厦門島・金門島などを根拠地に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のため、私兵を擁して武力を持っていた。十五歳で院考に合格、泉州府南安県の生員になった。以後、明の陪都(国都に準じる扱いを受けた都市)南京で東林党の銭謙益に師事した。清に滅ぼされようとしている明を擁護して抵抗運動を続け、台湾に渡り、鄭氏政権の祖となった。様々な功績から、南明(明の皇族によって一六四四年から一六六一年までの間、華中・華南に建てられた明の亡命政権)の第二代皇帝隆武帝は、明の国姓である「朱」と称することを許したことから「国姓爺」とも呼ばれた(但し、鄭成功は固辞している)。台湾・中国では民族的英雄として人気が高く、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文・蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。本邦では、日中の混血児であることと明への忠節のゆえに「和唐内」と愛称されたこと、近松門左衛門の名作浄瑠璃「国性爺合戦」で、やはり人気が高い。隆武帝の軍勢は北伐を敢行したものの、大失敗に終わり、隆武帝は殺され、彼の父、鄭芝龍は抵抗運動に将来性を認めず、清に降った。父が投降するのを鄭成功は泣いて止めたものの、彼は翻意せず、ここで父子は今生の別れを告げた。その後、鄭成功は広西にいた万暦帝の孫朱由榔を明の正統と奉じ、抵抗運動を続け、厦門島を奇襲して従兄弟達を殺すことによって鄭一族の武力を完全に掌握した。一六五八年、鄭成功は北伐軍を立ち上げたが、南京で大敗、勢力を立て直すために台湾を占領してそこを拠点とすることを目論んだ。当時の台湾はオランダ東インド会社が統治していたが、鄭成功は一六六一年に澎湖諸島を占領した後、同年三月からゼーランディア城(知らない方は私の「佐藤春夫 女誡扇綺譚 / 一 赤嵌城(シヤカムシヤ)址」の冒頭の注を参照されたい)を攻撃、翌一六六二年二月、遂にこれを落として、オランダ人を一掃、台湾に鄭氏政権を樹立、ゼーランディア城跡に安平城を築いて王城として清に対峙する国家体制を固めたものの、熱病に罹患し、死去した(以上は主にウィキの「鄭成功に拠った)。

「數(かず)の」沢山の。]

諸國里人談卷之三 入方火

 

    ○入方火(いりかたのひ)

越後國蒲原郡(かんばらこほり)入方村、庄右衞門と云〔いふ〕村長(むらおさ[やぶちゃん注:ママ。])の居宅(きよたく)の庭に、火の燃出(もへ〔いづ〕[やぶちゃん注:ママ])る穴あり。常は石臼を以〔もつて〕、蓋(ふた)とす。其臼の穴より、炬松(たいまつ)のごとく、嚇々(かくかく)として、家内(かない)を光(てら)し、燈火(よゐのひ[やぶちゃん注:ママ。])に十倍す。夜(よる)は、近隣の家々に大竹を以〔もつて〕筧(かけひ)とし、あなた此方(こなた)へわたし、此火をとり、夜(よる)の營(いとなみ)のあかしとする也。陰火なれば、これがために物を燒(やか)ず。希代(きだい)の重宝(てうはう[やぶちゃん注:ママ。])なり。寒火(かんくわ)といふは、是なり。

[やぶちゃん注:挿絵有り(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースの①の画像)。この話は私の橘崑崙の「北越奇談 巻之二 古の七奇」(文化九(一八一二)年刊。本書(寛保三(一七四三)年刊)の六十九年後)の「火井(くはせい)」で詳細に語られてある(しょぼくらしい本挿絵より遙かに勝れた葛飾北斎の絵もある)ので参照されたい。言わずもがなであるが、これは無論、天然ガスである。石油が地熱で温められて気化し、概ね、地層が地上に向かって山型に曲がった部分に溜まったもので、成分の殆んどはメタン(CH4)で、有害な一酸化炭素は含まれていない。空気より軽いため、家屋内では高い所(天井)に貯留する。この話は例えば、寺島良安の「和漢三才図会」の巻第五十八の「火類」の「寒火(かんくは)」にも載る。同項目は冒頭にまさにこの次の次の「寒火」に引く明の李時珍の「本草綱目」を引用しており、私は多分に沾涼は「和漢三才図会」(正徳二(一七一二)年頃刊)を参照したのではないかと考えている。以下にここに関わる当該部を示す。

   *

越後蒲原郡入方村寬文年中初出寒火有村長名莊右衞門構宅圍之用一磨蓋火光出於磨孔而嘗不假燈油隣家亦用筧取光橫斜數條任意其竹木紙帛觸之而不焚也晝則覆石塞孔於今無斷絕所謂火山軍寒火之類而實是陰火也

○やぶちゃんの書き下し文

越後の蒲原(かんばら)郡入方村に、寬文年中[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年]、初めて寒火を出(いだ)す。村長(むらをさ)有り、莊右衞門と名づく。宅を構へて之れを圍み、一磨(うす)を用ひて火を蓋(おほ)ふ。光、磨(うす)の孔より出でて、嘗(かつ)て燈油を假(か)らず[やぶちゃん注:用いない。]。隣家にも亦、筧(かけひ)を用ひて光を取りて、橫斜[やぶちゃん注:傾斜をつけて横に配することであろう。]數條、意に任す[やぶちゃん注:ガスの分配使用を許可したのである。]。其れ、竹木・紙・帛(はく[やぶちゃん注:布。])、之れに觸れて焚(やか)ず。晝(ひる)、則(すなはち)、石を覆ひて孔を塞ぐ。今に於いて斷絕無し。所謂(いはゆ)る「火山軍の寒火」の類ひにして、實(げ)に是れ、「陰火」なり。

   *

「火山軍」山西省河曲県とその東北に接する偏関県一帯の旧称(ここ(グーグル・マップ・データ))。「本草綱目」に出る。本「諸國里人談卷之三」最終条の「寒火」を参照。

なお、沾涼の本記載に遅れること、五十二年後の天明六(一七八六)年刊の橘南谿著「東遊記」(但し、こちらは実見旅行記)にも出、そこでははっきり「如法寺村」「百姓庄右衞門」とある。この話は鈴木牧之著「北越雪譜」の「三之卷」の「地獄谷の火」の冒頭に記されおり(同巻は天保一二(一八四一)年刊)にも載る(そこでは「莊衞右ヱ門」)、牧之の執筆時に現役であったとすれば、ガス発見の寛文年中から実に百八十年もの間、噴出し続けていたことになる

「越後國蒲原郡(かんばらこほり)入方村」現在の新潟県三条市如法寺(にょほうじ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。沾涼は「いりかた」とルビするが、これは実は前に掲げた「北越奇談」で判る通り、これで実は「入方村(によほうじむら)」と読む。寺社名の神聖を憚って漢字表記を変えるのは民俗社会では普通に行われる。

「陰火なれば、これがために物を燒(やか)ず。希代(きだい)の重宝なり。寒火(かんくわ)といふは、是なり」完全に誤り。ちゃんと焼けちゃいますよ、沾涼はん!]

諸國里人談卷之三 油盗火

 

    ○油盗火(あぶらぬすみのひ)

近江國大津の八町(〔はつ〕てう[やぶちゃん注:ママ。])に、玉のごとくの火、竪橫に飛行(ひぎやう)す。雨中(うちう)には、かならず、あり。土人の云〔いはく〕、「むかし、志賀の里に油を賣ものあり。夜每(よごと)に『大津辻(つじ)の地藏』の油をぬすみけるが、その者、死(しゝ)て、魂魄、炎(ほのう[やぶちゃん注:ママ。])となりて、迷ひの火、今に消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])ずとなり。

○又、叡山の西の梺(ふもと)に、夏の夜、燐火(おにび)、飛ぶ。これを「油坊(あぶらぼん)」といふ。因緣、右に同じ。七條朱雀(しゆじやく)の「道元が火」、みな、此類ひなり。これ、諸國に多くあり。

[やぶちゃん注:「近江國大津の八町」滋賀県大津市の入り口にあった八つの町とも、現在、「本陣跡碑」の立つ通りを「八町通り」と呼ぶが、ここは前の、上関寺町((グーグル・マップ・データの「大津百町(概略)」内))から「本陣跡碑」の西側の町「札の辻」((グーグル・マップ・データ))までの距離が八町(約八百七十二メートル)あったからとも、その間に八か町あったことによるとも言われている。東海道筋の旅籠町である。

「大津辻(つじ)の地藏」不詳であるが、話柄から考えて、この現在の「八町通り」沿いにあったものであろう。

「油坊(あぶらぼん)」不詳。日文研「怪異・妖怪伝承データベース」()では本条を出所として記す。

『七條朱雀(しゆじやく)の「道元が火」』不詳。「七條朱雀」は七条大路と朱雀大路との交差点。附近(グーグル・マップ・データ)。道元は僧名っぽいが、かの道元とは無縁であろう。]

諸國里人談卷之三 狐火玉

 

    ○狐火玉(きつねのひだま)

元祿のはじめの頃、上京(かみぎやう)の人、東川(ひがしがわ[やぶちゃん注:ママ。])へ夜川(よ〔かは)〕に出〔いで〕て、網を打(うち)ける。

加茂の邊(へん)にて、狐火(きつねび)、手もとへ來りしかば、とりあへず、網を打かけゝれば、一聲(ひとこへ[やぶちゃん注:ママ。])鳴(ない)て、去りぬ。

網の中に、光るもの、とゞまる。

玉のごとくに、その光り、赫々(かく〔かく〕)たり。

家に持歸り、翌日(あけのひ)、これを見れば、その色、うす白く、鷄(とり)の卵のごとし。

晝は光(ひかり)なし。夜(よ)に入れば、輝(かゝや)けり。

夜行(やかう)の折から、挑灯にこれをうつせば、蠟燭より明らか也。

「我(わが)重宝。」

とよろこび、祕藏してけり。

ある時、又、夜川に出けるが、かの玉を紗(しや)の袋に入〔いれ〕、肘(ひぢ)にかけて網を打しが、大さ、一間ばかりの、大石とおぼしきもの、川へ、

「ざんぶ。」

と落(おち)て、川水、十方(じつぽう)へ、はねたり。

「これはいかに。」

と驚く所に、玉の光、消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])たり。

袋をさぐれば、ふくろ、破れて、玉、なし。

二、三間むかふに、光りあり。

「扨はとりかへさる。」

と口おしく、網を擔〔になひ〕て追行(おひゆき)しが、終にとり得ずして、むなしく歸りぬ。

[やぶちゃん注:直接話法が多いので、特異的に改行した。

「元祿のはじめ」元禄は一六八八年から一七〇四年までの十七年。

「東川」京の東を流れる賀茂川の異称。対語は西を流れる桂川の「西川」。

「夜川」は「夜川網漁」(よかわあみりょう:現代仮名遣)即ち、夜の川漁のこと。但し、狭義には「鵜飼い」をする川に於いて夜に行う漁に用いる語であるらしい。

「加茂の邊」より山が近い上賀茂神社と採っておく。別に、当時の下賀茂神社でも草木深くはあるから、それを外すものではない。

「一間」約一メートル八十二センチ。

「二、三間」三メートル六十四センチから五メートル四十五センチほど。]

諸國里人談卷之三 千方火

 

    ○千方(ちかたの)火

勢州壱志郡〔いしのこほり〕家城〔いへき〕の里、川俣川の水上より、挑灯(ちやうちん)ほどなる火、川の流(ながれ)にそひて、くだる事、水より、はやし。これを「千方の火」といふ。むかし、藤原の千方は此所に住しけると也。大手の門の礎(いしずへ)の跡、今に存せり。それより、簱屋(はたや)村・的場村・丸之内村・三之丸・二の丸・本丸といふ村々あり。今、凡(およそ)七千石程の所なり。千方は今見(まみ)大明神と云。則(すなはち)、此所のうぶすな也。

[やぶちゃん注:最後の「と云。則(すなはち)、此所のうぶすな也。」の部分はでは割注形式で小さく二行に書かれているが、続いていて割注ではおかしく、これはがここが帖の終りで詰めた結果であるので、に従った。

「壱志郡家城」「川俣川」これは思うに、「卷之二 窟女」と同じロケーションではないか? そこで私はそちらの「勢州壱志郡川俣川」について、『「壱志郡」は一志(いちし/いし)と読み、伊勢国及び旧三重県にあった郡。しかし、「川俣川」という川は不詳。「川俣」という地名はあるが、ここは旧一志郡内ではない。しかし、後の「川向(〔かは〕むかひ)の家城村」が判った。これは「いえきむら」で、現在の三重県津市白山町南家城を中心にした一帯である。(グーグル・マップ・データ)。現在、ここを貫流する川の名は「雲出川」であるが、一つのロケーションの可能性は雲出川が東へ屈曲する辺りか。東から支流が入って俣になっているからである』と述べた。ここでもそれに従いたい。

「藤原の千方」平安時代に鬼を使役したとされる豪族で、同名の人物は藤原秀郷の子であった千常の子(「尊卑分脈」)に見え、或いは千常の弟ともされる。但し、後に示す「太平記」のそれは天智天皇の御世としていて話が合わない。ウィキの「藤原千方の四鬼」によれば、『三重県津市などに伝えられる伝説の鬼』で、『様々な説があるが、中でも『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事が最も有名』とし、『その話によると、「藤原千方」は、四人の鬼を従えていた。どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき。「怨京鬼」と書く事も)である。藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になる』。『他の伝承では、水鬼と隠形鬼が土鬼(どき)、火鬼(かき)に入れ替わっている物もある。 また、この四鬼は忍者の原型であるともされる』とある。「太平記」巻第十六「日本朝敵事」の当該の一節は以下である(新潮日本古典集成版を元に恣意的に漢字を正字化した)。

   *

また天智天皇の御宇に藤原千方(ちかた)といふ者有つて、金鬼・風鬼・水鬼・隱形鬼(おんぎやうき)といふ四つの鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立たず。風鬼は大風(たいふう)を吹かせて、敵城を吹き破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地(ろくち)に溺(でき)す。隱形鬼は其形を隱して、にはかに敵をとりひしぐ。かくの如くの神變、凡夫の智力を以て防ぐべきにあらざれば、伊賀・伊勢の兩國、これがために妨げられて王化に從ふ者なし。ここに紀朝雄(きのともを)[やぶちゃん注:不詳。]といひける者、宣旨をかうむつて、かの國に下り、一首の歌を讀みて、鬼の中へぞ送ける。

 草も木も我大君の國なればいづくか鬼の棲(すみか)なるべき

四つの鬼、此歌を見て、「さては、我等、惡逆無道の臣に從つて、善政有德(うとく)の君を背(そむ)き奉りける事、天罰遁るるところ無かりけり」とて、たちまちに四方に去つて失せにければ、千方、勢ひを失ひて、やがて、朝雄に討たれにけり。

   *

 また、落王氏のサイト「U-dia」の「藤原千方伝説を訪ねて」には、『首謀者の藤原千方は、家城付近の雲出川の岸の岩場で酒宴をしてゐるところを、対岸から紀友雄に矢で射られて死んだ(または、一騎打ちに望んだが激戦の末生け捕られた)。千方は首を切られ、その首は川を遡って川上の若宮社の御手洗に止まったので、若宮八幡宮にまつられたと言う。この地方では節分に「鬼は外」とは言はない。鬼は人と神の仲取り持ちをする眷族とされるからで、伊勢・伊賀地方では鬼に関はる行事も多いといふ。紀友雄は勝ちどきを上げ』『、志賀の都(近江)へと帰還した。千方が籠もったと言われる千方窟は忍者発祥の地と言われ、かつての伝説を今に伝えている』とあるのであるが、この『家城付近の雲出川』とはまさに私がここのロケーションと否定した先の地と完全に一致し、「千方窟」(三重県伊賀市高尾中出。(グーグル・マップ・データ))は家城はここから東北東九キロメートルと比較的近い(画面右中央が家城)のである。さらに、落王氏の上記のページの下方からリンクされてある窟」訪問記録ページを見ると(写真豊富)、ここは明らかに古い山寨の後であることがよく判り、千方城郭の正門跡とされる「大門跡」があり、そこは大門の『石柱が折損したところと言われ、西に数百メートルの大通』り『があったと伝えられる』とあって、これはまさに本文の「大手の門の礎の跡」と合致すると言える。

「簱屋(はたや)村・的場村・丸之内村・三之丸・二の丸・本丸といふ村々あり」現在の三重県津市及び伊賀市には孰れにも「的場」や「丸之内」という旧地名は見出せる。そもそもが伊賀地方は江戸時代、伊勢津藩領である。因みに、津藩は総石高十一万八百四十三余石で、その内、伊賀郡は三万二百九十八余石であった。「七千石」というのは伊賀郡では四分の一強になるが、千方窟周辺は山間部であるから、ここは現在の津市に跨った広域で概略計算したものであろう。

「今見(まみ)大明神」不詳。「今見」もこれを「まみ」と読む読みも、私は出逢ったことがない。先の落王氏の窟」ページの「千方明神」の写真に、宝暦一〇(一七六〇)年『建立の石神で藤原千方と若宮明神(高尾 若宮神社)を祀っている』とある。ただ、「まみ」といえば、「猯(まみ)」・「魔魅」で、これは穴居性のタヌキやニホンアナグマ及びそれらに由来する妖怪であるから、穴に住んだ四鬼及びそれを使役した藤原千方のシンボライズとしては私は腑に落ちる。おぞましき悪鬼悪霊にずらした目出度い漢字名を与えて封印するのは御霊信仰の常套手段ではある。

「うぶすな」産土神。土着の古からの土地神。]

2018/07/10

諸國里人談卷之三 秋葉神火

 

    ○秋葉神火(あきはのしんくわ)

遠江國秋葉山(あきはさん)より、夜(よる)、玉のごとくの火、幾許(いくばく)ともなく空中を飛(とん)て、沖の方へ行く事、折(をり)として、あり。土人、是を「狗賓(てんぐ)の漁(りやう)あり」と云り。將(はたし)て、其二、三日は浦々の漁獵(ぎよりやう)、曽(かつ)て、なし。

[やぶちゃん注:「遠江國秋葉山」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家にある秋葉山(あきはさん)。赤石山脈南端にあり、標高八百六十六メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。詳しくは秋葉山の怪異を語る、私の 之三 秋葉の魔火の事、また、柴田宵曲 妖異博物館 「秋葉山三尺坊」を参照されたい。

「狗賓」天狗に同じい。]

諸國里人談卷之三 姥火

 

    ○姥火(うばび)

河内國平岡に、雨夜(あまよ)に、一尺ばかりの火の玉、近鄕に飛行(ひぎやう)す。相傳ふ、昔、一人の姥あり。平岡社(ひらおかのやしろ)の神燈の油を夜每(よごと)に盗(ぬすむ)。死(しゝ)て後(のち)、隣火(おにび)となると云々。さいつころ、姥火に逢ふ者あり。かの火、飛來(とびきたつ)て面前に落(おつ)る。俯(うつぶし)て倒(たをれ)て潛(ひそか)に見れば、鷄(にはとり)のごとくの鳥也。觜(はし)を叩く音、なり、忽(たちまち)に去る。遠く見れば、圓(まどか)なる火なり。これ、まつたく鵁鶄(ごひさぎ[やぶちゃん注:ママ。「ごゐさぎ」が正しい。])なりと云。

[やぶちゃん注:これは沾涼にしては珍しく擬似怪奇として、正体を実在する鳥綱ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax  に帰結させる手法を採っている。

「河内國平岡」現在の大阪府東大阪市枚岡(ひらおか)地区か。非常に古くは「平岡」と書いた。そこならば、「平岡社」は東大阪市出雲井町にある枚岡神社となる。(グーグル・マップ・データ)。

「鵁鶄(ごひさぎ)」夜行性のゴイサギが青白い光を放つというのは、実は、よく言われることである。また、ゴイサギはその立ち姿は何か哲学者然としたヒトのように私には見える。怪異譚は勿論、ゴイサギを妖怪や怪火と見間違えた擬似怪談も実は多い。私の 之七 幽靈を煮て食し事諸國百物語卷之五 十七 靏る)のうぐめのばけ物の事を見られたい。また、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」の「夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし」の私の注も是非、参照されたい。

諸國里人談卷之三 狸火

 

    ○狸火(たぬきび)

 

攝津國川邊郡東多田村の鱣畷(うなぎなはて)に燐(おにび)あり。此火、人の容(かたち)あらはし、ある時は、牛を牽(ひき)て、火を携へ、行〔ゆく〕也。これをしらぬ人、其火を乞(こひ)て、煙草をのみて相語るに、尋常(よのつね)のごとし。曾(かつ)て、害をなさず。おほくは雨夜(あめのよる)に出〔いづ〕るなり。所の人は「狸火なり」と云。

[やぶちゃん注:「攝津國川邊郡東多田村の鱣畷」現在の兵庫県川西(かわにし)市東多田(ひがしただ)附近らしい。(グーグル・マップ・データ)。]

諸國里人談卷之三 光明寺龍燈

 

    ○光明寺龍燈(くわうみやうじのりうとう)

 

相模國鎌倉光明寺の沖に、每年、十夜(や)の内、一兩度、龍燈、現ず。はるかの海上、雲にうつりて見ゆるなり。

[やぶちゃん注:これは神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗大本山の一つである天照山光明寺の奇譚であるが、鎌倉史を数多く手掛けてきた私にして、この話は知らなかった。今回、調べてみたところ、「祐天上人御一代記」(著者未詳・明二〇(一八八七)年金泉堂刊)の中に「鎌倉光明寺十夜影祭(かげまつり)の節(せつ)龍燈上(あが)る事」というのを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で確認出来た。ここと次のページである。読まれたい。かの江戸最強のゴースト・バスター祐天が光明寺の十夜念仏を成さんとするということで民草が群聚する中、突如、由比ヶ浜沖の『海中より龍燈出現し、大空へ上りけるを拜するにてぞ有りける。祐天も暫(しばし)見とめて拜し玉ふに、此龍燈、次第次第に近附、遂に祐天の立給ふ頭(あたま)の上に止り動かざるこそ不思議なれ。抑々(そもそも)此龍燈の事、光明寺に名僧ある時は、十夜の晩、海中より出現する例なりと申し傳へり』という分かり易い奇瑞である。

「十夜」(じゅうや)は浄土宗の法要で正しくは「十日十夜法要」という。元来は陰暦十月五日の夜から十五日の朝まで十日十夜に亙る法会(ほうえ)で、公的には室町時代の明応四(一四九五)年に光明寺第九世観誉祐崇(かんよゆうそう)上人が後土御門天皇に招かれ、宮中で「阿弥陀経」講義と念仏を修し、そこで光明寺での当該法要の勅許を得た。現在も「お十夜」として頓に知られる。

「一兩度」二度。]

諸國里人談卷之三 野上龍燈

 

    ○野上龍燈(のがみのりうとう)

 

周防國野上庄(のがみのしやう)熊野權現に、每年十二月晦日丑の刻に、龍燈、現ず。又、西の方、五里がほどに「龍が口」といふ山より、矢を射るごとく、飛來る、神火あり。里人、これを拜して越年す。

[やぶちゃん注:恐らく、現在の山口県周南市野上町の西直近の山口県周南市権現町内にある熊野神社と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。

『「龍が口」といふ山』現認出来ない。識者の御教授を乞う。]

諸國里人談卷之三 嗟跎龍燈

 

    ○嗟跎龍燈(さだのりうとう)

 

土佐國幡多郡(はたこほり)嗟跎岬(さだのみさき)【高知より西三十里。】嗟跎(あしずりの)明神に「天燈龍燈」あり。天に、ひとつの火、見ゆれば、同時に海中より、龍燈、現ずる也。當所に七不思議あり。〇一「天燈龍燈」。 ○「潮石(うしほいし)」 凹(なかくぼ)の石也。滿潮の時は、水、湛(たゝへ)、干泻(ひがた)の節は、水、なし。○「龍馬(りうめ)」 丑の時に、龍馬、來つて、小笹(おざゝ)をくらふ。此所の笹、のこらず、馬の喰(くひ)たるがごとし。○「震石(ゆるぎいし)」 方六尺、高〔たかさ〕四尺の石あり。そのうへに、一尺ばかりの石、有〔あり〕。六尺の石をゆすれば、上の小石、動出(うごき〔いだ)〕す。○「金石(きんせき)」 扣(たゝ)きて、鳴る音、金(かね)のごとし。○「每日雨(ひごとのあめ)」 每日、午の剋に雨降る事、今、以〔もつて〕、違(たが)はず。○「不增不滅水(ふぞうふめつのみづ)」 霖雨(ながあめ)に增さず、旱天(ひでり)に減らず。

昔、忠義(ちうぎ)上人、此所に住居し、後に普陀洛山(ふだらくさん)にわたる。時の人、名殘をおしみて、嗟跎(あしずり)をして涕悲(なきかな)しむ。それより「嗟跎寺(さたじ)」といふ。また、飼(かひ)たる犬、かなしみ死して、石となる。「犬石」とて、今にあり。土佐守忠義(たゞよし)は忠義上人の再誕といふ。諱(いみな)も判(はん)も相同(あひおな)じと云〔いへ〕り。普陀洛山は中華浙江省の嶋にて寧波府(ねいはふ)の内なり。また、梅岑山(ばいきんさん)とも云〔いひ〕、觀音の淨土也。日本の僧慧蕚(ゑがく)と云〔いふ〕人、此所を開基す。此島、今、以、出家のみ住す。九州より二百五十里あり。

[やぶちゃん注:「嗟跎岬(さだのみさき)」は現在の高知県土佐清水市にある足摺岬の古称。ここ(グーグル・マップ・データ)。中世には南方にある補陀洛(ふだらく)浄土(「補陀落」は梵語「ポタラカ」の漢音写。観音菩薩が降臨するとされた伝説上の山で、インドの南端の海岸にあるとされた)へ渡る、「補陀洛信仰」の「補陀落渡海」の有名な出航地の一つ(他に那智勝浦・室戸岬・那珂湊など)であった。四国最西端の愛媛県佐田岬(さだみさき)とは別なので注意されたい。「嗟跎」は「蹉」も「跎」も孰れも「躓(つまず)く」の意で、ぐずぐずして空しく時を失うことを言うが、ここでは「嘆いて地団駄(じだんだ)を踏むこと」の意で用いている。この「あしずり」という地名の由来譚は中世の後深草院二条の日記「とはずがたり」の巻五に出る以下の話(伝承譚紹介形式)が最も古いものの一つであるようだ。補陀落渡海説話を素材としているので、掲げておく。一九六八年岩波文庫刊を参考に、恣意的に漢字を正字化し、改行や句読点・記号を追加して示す。

   *

 これには幾程の逗留もなくて、上り侍りし。船の中に、よしある女あり。

「われは備後國和知といふ所の者にて侍る。宿願によりて、これへまゐりて候ひつる。すまひも御覽ぜよかし。」

など誘へども、

「土佐の嗟跎(あしずり)の岬と申す所がゆかしくて侍るときに、それへまゐるなり。かへさにたづね申さむ。」

と契りぬ。

 かの岬には、堂一つあり。本尊は觀音におはします。へだてもなく、また坊主もなし。ただ、修行者、行きかかる人のみ集まりて、上もなく、下もなし。

「いかなるやうぞ。」

といへば……

……昔、一人の僧、ありき。この所に、おこひて、ゐたりき。小法師一人、使ひき。かの小法師、慈悲をさきとする心ざしありけるに、いづくよりといふこともなきに、小法師一人、來て、時(とき)・非時(ひじ)を食ふ。小法師、必ずわがぶんをわけてくはす。坊主いさめていはく、

「一度二度にあらず。さのみ、かくすべからず。」

と言ふ。

 又、あしたの刻限に來たり。

「心ざしはかく思へども、坊主、叱り給ふ。これより後は、なおはしそ。今ばかりぞよ。」

とて、また分けてくはす。

 いまの小法師、いはく、

「此のほどのなさけ、忘れがたし。さらば、我がすみかへ、いざ、給へ。見に。」

と言ふ。

 小法師、語らはれて行く。

 坊主、あやしくて、忍びて見送るに、岬に至りぬ。

 一葉の舟に棹さして、南を指してゆく。

 坊主、泣く泣く、

「われをすてて、いづくへゆくぞ。」

といふ。

 小法師、

「補陀落世界へまかりぬ。」

と答ふ。

 見れば、二人の菩薩になりて、舟の艦舳(ともへ)に立ちたり。

 心憂く悲しくて、なくなくあしずりをしたりけるより、「あしずりのみさき」といふなり。

 岩に足跡とどまるといへども、坊主はむなしく歸りぬ。

 それより、

「へだつる心あるによりてこそ、かかるうきことあれ。」

とて、かやうにすまひたり、といふ。

 三十三身の垂戒化現(すゐかいけげん)、これにやと、いとたのもし。

   *

「七不思議」カッチンカチャリコズンバラリン氏のブログ「怪道をゆく(仮)」の番外編 四国のミチ 足摺の七不思議(上)本「諸國里人談」(寛保三(一七四三)年刊)より古い、長曾我部元親の一代記「土佐物語」「正徳三(一七一三)頃?)の中に出ることが判った。そこに『「惣じて此山に、七不思議あり」とあるのが』、『足摺の七不思議の初出』の『比較的早いものになる』かとされ(一部に手を加えさせて貰った)、

①「龍石」本堂の前にあり、毎夜、竜の灯がこの石の上にきて仏前を照らす。

②「夜のさヽ湖」毎夜、丑の時に本堂の庭に潮がさし、階段を浸す。

③「竜の駒の笹」夜な夜な、竜がきて、笹を食べる。歯跡があり、馬の病を治すという。

④「午時の雨」毎日午の時になると、必ず雨が降る。

⑤「潮のまこしの石」石の上の水が潮の満ち干きにあわせて増えたり減ったりする。

⑥「不増不減の水」石の上の水が雨でも日照でも増減しない。

⑦「ゆるぎの石」罪のないものが押せば動くが、罪のあるものが押そうとしても、びくともしない。

を列挙してある。これは貴重な資料としてまず念頭に置こう。特に③は他に見られない特異点である。さて、それでは現代の記載を検証してみよう。まず、サイト「あしずり温泉郷」のこちらによれば、『足摺七不思議は』七『つだけではなく、実際には二十一もあるといわれて』おり、『弘法大師や金剛福寺にまつわる不思議が多いのが足摺七不思議ならではであ』るとし、「地獄の穴」・「大師の爪書き石」・「亀呼び場」・「一夜建立ならずの華表(とりい)」・「寝笹」・「汐の満干手水鉢」・「亀石」・「ゆるぎ石」の他、「竜の駒」・「行の岩」・「鐘石」・「ア字石」(「ア」は梵字種子の「阿」のこと)・「亀呼び石」・「竜の遊び場」・「犬塚」・「午時の雨」・「クワズイモの群生地」・「天灯松」・「竜灯松」・「汐吹きの穴」(ここまでで二十)があると記す。そこに出る金剛福寺というのは足摺岬にある真言宗蹉跎山(さだざん)補陀洛院(ふだらくいん)金剛福寺(本尊千手観世音菩薩・四国八十八箇所霊場第三十八番札所)で、この話のメイン・ロケーションの一つ。ウィキの「金剛福寺」によれば、『寺伝によれば』、弘仁一三(八二二)年、『嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。寺名は、五鈷杵は金剛杵ともいわれそれから金剛を、観音経の「福聚海無量」から福を由来したとされている』。『歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備した。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣している』。『鎌倉時代後期(建長から弘安期)には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、また阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられている。南仏を「南仏房」と記す史料もあり、南仏(房)は慶全の別名であったとみられる』。『室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた。戦国期に一時荒廃したが』、『江戸時代に入っても土佐藩』第二『代藩主山内忠義が再興した』とある。また、足摺岬の観光パンフレット(カラー版・PDF)では、「足摺岬の七不思議」として遊歩道の途中にあるものを弘法大師所縁のものとして紹介、そこでは①「亀石」・②「汐の満干手水鉢」・③「ゆるぎ石」・④「地獄の穴」・⑤「弘法大師の爪書き石」・⑥「亀呼場」・⑦「大師一夜建立ならずの華表」を挙げて、それぞれに簡単な説明がある。また、このパンフには、足摺岬の先端近くの海岸段丘の一角には縄文早期(紀元前五千年頃)から弥生時代にかけての石器や土器片が数多く出土しているとし(唐人駄場遺跡)、『一帯にはストーンサークルと思われる石の排列や、高さ』六~七メートルも『ある巨石が林立する唐人岩があり、太古の巨石文明の名残りでははいかと言われている』とあって、この「七不思議」に含まれる怪石・奇石の幾つかも、そうした古代人の遺物・遺跡である可能性もあるのかも知れない。さらに、トラベル・サイト内のアルデバラン氏の「金剛福寺」の訪問記(写真多し。必見)に画像である同寺のパンフレット「足摺山七不思議(遺跡)案内図」を見ると(それぞれ解説有り。必見)、①「天灯竜灯の松」・②「力の石」・③「動揺の石(ゆるぎの石)」・④「不増不滅の手水鉢」・⑤「潮の満干の手水鉢」・⑥「亀石」・⑦「亀呼場」・⑧「一夜建立の鳥居」・⑨「名号の岩」・⑩「地獄の穴」・⑪「阿字石」・⑫「展望台(燈明台)・⑬「天狗の鼻」の十三名数を掲げてある。なお、この内、「嗟跎」という地名に関わる重要な一つとして⑬「天狗の鼻」がある。そこには『昔』、『金峯上人(行の行者)』、『天魔(天狗)』が修行を『障害するにつき』、『一指をあげて降したるに』、『天魔』、『嗟跎して退散したるにより』(この「嗟跎」は先に挙げた正しい意味である)、『嗟跎山と云ふなり。役の行者は二鬼を使って全国の天狗を集めたと云はれ当山の天狗は放生坊と云ひ両面一蘆の天狗と縁起に見られる』とある。「天狗の鼻」という海に突き出た名所も足摺岬にはある(「土佐清水さかなセンター足摺黒潮市場」の足摺の名所・七不思議」参照)。

「天燈龍燈」金剛福寺パンフレットや、「土佐清水さかなセンター足摺黒潮市場」足摺の名所・七不思議」によれば、金剛福寺の尊海法親王(調べて見たが、法親王なのに事蹟不詳である。ウィキの「金剛福寺」の『室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた』とあるのが唯一知り得た事実である。識者の御教授を乞う)の書いた「嗟跎山縁起」の中に「天灯松樹に輝き、竜灯佛前を照す」云々とあり、本堂前に松の大木があったが、現在はその跡をとどめるのみである、とある。

「潮石(うしほいし)」先の「潮の満干の手水鉢」である。

「龍馬(りうめ)」先の「竜の駒」であろうが、不詳。「龍馬」自体は中国や日本に伝わる馬と竜の合わさった想像上の動物である。それが「來つて、小笹(おざゝ)をくら」うために、「此所の笹、のこらず、馬の喰(くひ)たるがごとし」というのは、笹の縁(へり)が岬特有の強い潮風によってささくれ裂け千切れているのをそう見たものであろう。

「震石(ゆるぎいし)」金剛福寺パンフレットによると、『弘法大師当山開山の砌』、発見した石とし、『この岩のゆるぎの程度により』、『心の善悪を試す岩と云』う、とある。

「金石(きんせき)」先の「鐘の石」であろう。これは前の「釣鐘石」で注した、非常に高く有意に強い金属音がする、火山岩の安山岩の一種であるサヌカイト(sanukite:讃岐岩(さぬきがん))なのではなかろうか。

「每日雨(ひごとのあめ)」先の「午時の雨」。「うしどきのあめ」と訓じておく。これは現実的にあり得そうになく、一番先に亡んでしかるべき名数という気はする。大きな滝か何かが近くにあれば別だが。

「不增不滅水(ふぞうふめつのみづ)」金剛福寺パンフレットによると、『平安期の中頃』、『賀登上人とその弟子日円上人が補陀落渡海せんとした時』、『弟子日円上人が先に渡海したので賀登上人は大変悲しみ』、『岩に身を投げ』、『かけ落ちたる涙が不増不滅の水になったと云』うとある。これは若衆道の気配が濃厚であり、また、先の「とはずがたり」の伝承との親和性が強く感じられる。賀登上人は長保(九九九年~一〇〇三年)の頃の渡海上人とある。

「忠義上人」不詳。補陀落渡海自体は中世の話であるから、名が調べられないのは不審。これは山号「嗟跎」を後付けで由来するためと、後の土佐守忠義の話に繫げるための作話になる架空人物ではなかろうか? と思ったりした。以下の「犬石」の注を参照。

「普陀洛山(ふだらくさん)」補陀落山(ふだらくせん)に同じい。

「犬石」不詳。但し、カッチンカチャリコズンバラリン氏のブログ「怪道をゆく(仮)」の先の続きである番外編 四国のミチ 足摺の七不思議(下)に『補陀落に渡った上人手飼の犬が待ち続けて石になったという「犬石」』の記載があり、ありそうなので探ってみたころ、四国ツーリング個人ブログ高知県 足摺岬で発見した。「犬石」ではなく、「犬塚」として現存している(「石」と「塚」では大いに違う。以下をお読みあれ)がそれ(写真リンク)。この方、ちゃんと説明版を写して呉れており、感謝感激である。しかも、その解説を読むと、ある僧が、『「この乱世を立て直す為、一国一城の主と鳴り生まれ来たらん」と言い、手の腹に南無阿弥陀仏と書き』、『その手をにぎりしめ、この断崖から身を投じたという』とあって、その僧を『慕っていた一匹の犬が、この場所から動こうともせず飲まず食わずひたすら待ち続け、ついに生き絶えた。村人はその姿を哀れと思い、この場所に犬塚を建てたと言われている』。『そののち、幾百年が過ぎ、土佐藩は山内家となり二代目忠義公には手の腹に黒い生印』(「しょういん」か。生まれつき持っている痣を指すのであろう)『があり、その言い伝えを知った忠義公は「自分はそのお坊様の生まれ変わりではないだろうか」と思うようになり、足摺山金剛福寺を深く信仰し度々参拝に訪れている。又、本堂・仁王門・十三重の塔など数多くのものを寄進している。それ以来金剛福寺は山内家と同じ丸に三ツ柏の家紋を頂戴している』とあって、「忠義上人」の話とリンクするわけだ! 彼は補陀落渡海ではなく、完全な捨身転生なのだ! これなら納得だ!

「土佐守忠義」安土桃山から江戸前期にかけての大名で土佐藩第二代藩主となった山内忠義(文禄元(一五九二)年~寛文四(一六六五)年)。ウィキの「山内忠義によれば、『山内康豊の長男で、伯父の山内一豊の養嗣子』。慶長八(一六〇三)年に伯父『一豊の養嗣子となり、徳川家康・徳川秀忠に拝謁し、秀忠より偏諱を賜って忠義と名乗』った。同十年に『家督相続したが、年少のため』、『実父康豊の補佐を受けた』。慶長一五(一六一〇)年、『松平姓を下賜され、従四位下土佐守に叙任された』。『また、この頃に居城の河内山城の名を高知城と改めた』。慶長十九年の「大坂冬の陣」では『徳川方として参戦。なお、この時預かり人であった毛利勝永が忠義との衆道関係を口実にして脱走し』、『豊臣方に加わるという珍事が起きている』。慶長二〇(一六一五)年の「大坂夏の陣」では、『暴風雨のために渡海できず』、『参戦はしなかった』。『藩政においては』、慶長十七年に法令七十五条を『制定し、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった』。寛永八(一六三一)年からは『野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から伊予宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。改革の効果は大きかったが、兼山の功績を嫉む一派による讒言と領民への賦役が過重であった事から』、『反発を買い』、明暦二(一六五六)年七月に『忠義が隠居すると、兼山は後盾を失って失脚した』とある。

「諱(いみな)」本名。

「判(はん)」花押。

「普陀洛山は中華浙江省の嶋にて寧波府(ねいはふ)の内なり。また、梅岑山(ばいきんさん)とも云〔いひ〕、觀音の淨土也」中国では現在の浙江省舟山(しゅうざん)市普陀区にある舟山群島の南沖合にある島普陀山((グーグル・マップ・データ))を補陀落とし、遠隔地にまで観音信仰が広がった。

「慧蕚(ゑがく)」(生没年未詳)平安前期の本邦の僧で、日本と唐の間を何度も往復した。私の北條九代記 卷第十一 惠蕚入唐 付 本朝禪法の興起を参照されたい。ウィキの「惠蕚」によれば、彼の事蹟は本邦及び中国のさまざまな書籍に断片的な記載はあるものの、多くは不明である。ここで示されたように嘉智子の禅の教えを日本に齎すべしとの命を受けて、『弟子とともに入唐し、唐の会昌元年』(八四一年)『に五台山に到って橘嘉智子からことづかった』『贈り物を渡し、日本に渡る僧を求め』、『その後も毎年』、『五台山に巡礼していたが、会昌の廃仏』(開成五(八四〇)年に即位した唐の第十八第皇帝武宗が道教に入れ込んで道教保護のために教団が肥大化していた仏教や景教などの外来宗教に対して行った弾圧)『に遭って還俗させられた』。この『恵萼の求めに応じて、唐から義空が来日している。のち、恵萼は蘇州の開元寺で「日本国首伝禅宗記」という碑を刻ませて日本に送り、羅城門の傍に建てたが、のちに門が倒壊したときにその下敷きになって壊れたという』。『白居易は自ら『白氏文集』を校訂し、各地の寺に奉納していたが、恵萼は』その内の『蘇州の南禅寺のものを』会昌四(八四四)年『に筆写させ、日本へ持ち帰った。これをもとにして鎌倉時代に筆写された金沢文庫旧蔵本の一部が日本各地に残っており、その跋や奥書に恵萼がもたらした本であることを記している。金沢文庫本は『白氏文集』の本来の姿を知るための貴重な抄本である』。恵萼はまた、『浙江省の普陀山の観音菩薩信仰に関する伝説でも有名である』。諸伝書によれば、『恵萼は』大中一二(八五八)年に『五台山から得た観音像(『仏祖歴代通載』では菩薩の画像とする)を日本に持って帰ろうとしたが、普陀山で船が進まなくなった。観音像をおろしたところ船が動くようになったため、普陀山に寺を建ててその観音像を安置したという。この観音は、唐から外に行こうとしなかったことから、不肯去観音(ふこうきょかんのん)と呼ばれた』とある。この最後の話は私の「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」に出、そこで私は補陀落渡海についても注しているので、是非、参照されたい。]

2018/07/09

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴴(ちどり)

Tidori

ちとり   千鳥【俗】

     【萬葉集爲乳鳥又爲智鳥】

△按鴴在江海水邊百千成羣仍稱千鳥類鴫似鶺鴒而

 小其頭蒼黑頰白眼後有黑條背青黑翅黑腹白胸黑

 嘴亦蒼黑尾短脛黃蒼而細長冬月最多飛鳴于水上

 呼侶肉味美也歌人詠賞之

一種頭背翅俱黑腹白尾黑似燕尾而有岐常群飛江上

 其翔翺甚迅疾也人剪紙作片以擲于彼則喜飛而弄

 之播州遠州多有之凡鴴種類甚多【有四十八品種云】皆有少異

 蓋諸鳥脚三指皆有前杜鵑三指前二後一鴴四指前

 三後一唯此二物異他鳥矣

                  西行

  一つをも千鳥といへる鳥あれは三つ有とても蝶はてふなり

ちどり   千鳥【俗。】

     【「萬葉集」、「乳鳥」と爲し、

      又、「智鳥」と爲す。】

△按ずるに、鴴、江海の水邊に在り、百千〔の〕羣れを成す。仍つて「千鳥」と稱す。鴫の類にして鶺鴒に似て小さく、其の頭、蒼黑。頰、白く、眼の後に黑條有り。背、青黑。翅、黑。腹、白く、胸、黑し。嘴も亦、蒼黑。尾、短く、脛、黃蒼にして細長し。冬月、最も多し。水上に飛び鳴きて、侶〔(とも)〕を呼ぶ。肉味、美なり。歌人、之れを詠賞す。

一種、頭・背・翅、俱に黑く、腹、白く、尾、黑く、燕の尾に似て、岐(また)有る〔あり〕。常に江上〔(こうしやう)〕に群れ飛ぶ。其の翔〔(と)び〕翺〔(かけ)るや〕、甚だ迅-疾(はや)し。人、紙を剪〔(き)〕りて片と作〔(な)し〕、以つて彼〔(かれ)〕に擲〔(なげう)〕つときは、則ち、喜〔として〕飛〔びきたつ〕て之れを弄〔(もてあそ)ぶ〕。播州・遠州に多く之れ有り。凡そ鴴の種類、甚だ多し【四十八品種有りと云ふ。】。皆、少異有り。蓋し、諸鳥の脚は三指(ゆび)にて、皆、前に有り。杜鵑(ほとゝぎす)は三つ指〔にして〕、前に二つ、後に一つ。鴴は四つ指にして、前に三つ、後に一つなり。唯だ、此の二物、他の鳥に異〔(こと)〕なり。

                  西行

 一つをも千鳥といへる鳥あれば三つ有りとても蝶〔(てふ)〕はてふなり

[やぶちゃん注:チドリ目チドリ亜目チドリ科 Charadriidae に属する種の総称(チドリという種は存在しない)。本邦では十二種が観察され、その内の五種が繁殖する。参照したウィキの「チドリ」からそのれらの種を引く。

チドリ科タゲリ(ケリ)属タゲリ(田鳧)Vanellus vanellus(繁殖種)

タゲリ(ケリ)属ケリ(鳧) Vanellus cinereus(繁殖種)

チドリ科チドリ属ハジロコチドリCharadrius hiaticula

チドリ属イカルチドリ(桑鳲千鳥)Charadrius placidus(繁殖種:「いかる」は古語で「大きい・厳めしい」の意)

チドリ属コチドリ Charadrius dubius(繁殖種)

チドリ属シロチドリ Charadrius alexandrinus(繁殖種)

チドリ属メダイチドリ(目大千鳥)Charadrius mongolus

チドリ属オオメダイチドリ(大目大千鳥)Charadrius leschenaultii

チドリ属オオチドリCharadrius veredus

チドリ科 Eudromias 属コバシチドリ(小嘴千鳥)Eudromias morinellus

ムナグロ(胸黒)科ムナグロ属ムナグロ Pluvialis fulva

ダイゼン(大膳)Pluvialis squatarola(和名は平安朝に於いて宮中の食事を司った大膳職に於いて特に美味であったことから食材としてしばしば用いられたことが由来とされる)

小学館「日本大百科全書」によれば、『雌雄の羽色はほとんど同色、体つきはずんぐりしていて、頭と目が大きいのが一般的特徴である。嘴』『は短めで、先のほうに膨らみがある。足の指はかなり長めで』、ダイゼンを除いて後趾(こうし)がなく、三本指である(チドリの後趾が退化しているのは、速歩に都合が良いからである。良安の「鴴は四つ指にして、前に三つ、後に一つなり」というのはおかしい指摘である)。『大部分は海岸地域や平野にすんでいるが、山地にすむものもいる。採餌』『は草原や川原、河川、水辺、湖沼、海岸などで行い、ミミズ類、昆虫類などを主食とする。採餌の際、すこし歩いては地面をつついて餌』『をとり、また数歩歩いてはつつく。頭を下げたまま採餌するのはシギ類で、チドリ類はそうした動作はしない。巣は荒れ地や草地のへこみを使い、小石や枯れ草などを多少敷いて』三、四『卵を産む。雛』『は孵化』『後数時間で歩くことができる。卵の色は周囲の荒れ地に紛れるように模様がある』。『なお、「千鳥」は俳句の季語としては冬に入れられているが、日本のチドリ類の生態をみると、かならずしもあたってはいないので注意を要する。また、海岸にたくさんの鳥が集まっているようすから「千鳥」とよぶこともありうるが、この場合はチドリ類のみでなく、同様の環境でみられるシギ類をもさしていると思われる。シギ・チドリ類の群れは冬にもみられるが、春と秋の渡りの時期に大きな群れがみられる』。古く万葉時代から『歌材として詠まれ、「近江(あふみ)の海(み)夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのに古(いにしへ)思ほゆ」』(巻第三・柿本人麻呂)『などと詠まれている。「友呼ぶ千鳥」や「佐保(さほ)の川原で鳴く千鳥」など、類型としてよく詠まれた。また、「思ひかね妹(いも)がり行けば冬の夜の川風寒(さむ)み千鳥鳴くなり」』(「拾遺和歌集・冬・紀貫之)『などと詠まれるように、冬の景物となった。「浜千鳥」という形でも多く詠まれ、筆跡・手紙・書物の意に用いられるようにもなった』。「枕草子」の『「鳥は」の段に「いとをかし」と記され』、「源氏物語」では「須磨」「総角(あげまき)」に三例、『冬の心象風景としてみえる』とある。

「侶〔(とも)〕」伴侶。

「翔〔(と)び〕翺〔(かけ)るや〕」同紙の部分の読みは東洋文庫訳を援用した。「や」は間投助詞として補った方が判りがよいと思い、私が挿入した。

「四十八品種有り」これは多過ぎ。本邦で見られる十二種の内、チドリ科タゲリ(ケリ)属タゲリ(田鳧)とタゲリ(ケリ)属ケリ(鳧)は古くから「千鳥」としてではなく、別に「鳧」(先行する「計里(けり)」を参照)として認知されていたから、それを除くと、十種で、♂♀の相違(本邦のチドリ類には大きな性的二型を持つ種は少ないが)や幼鳥と夏羽・冬羽を四掛けしても、四十種。恐らくは、チドリ類とは異なる川や海の小型の鳥類をも「千鳥」と呼んでいたのであろうと思われる。

「諸鳥の脚は三指(ゆび)にて、皆、前に有り」誤り。鳥類の趾(あし)は四本が基本型で、前に三本、後ろに一本が多い。これを「正足(せいそく)」或いは「三前趾足(さんぜんしそく)」と称する。枝に止まる時は前向きの三本と後ろ向きの一本の指で枝を摑む。

「杜鵑(ほとゝぎす)は三つ指〔にして〕、前に二つ、後に一つ」これも誤り。前二本、後二本という珍しい形態をしている。これは「対趾足(たいしそく)」と称し、長時間、安定して枝に止まれるように進化したものと推定されている。どうも良安は鳥類を親しく観察した経験があまりないのではないかと思われる。鳥の趾の細かな形態の違いについては、ウィキの「趾(鳥類)」が詳しいので参照されたい。

「一つをも千鳥といへる鳥あれば三つ有りとても蝶〔(てふ)〕はてふなり」偽作。落語「西行」に、

 一羽にて千鳥といへる鳥もあらば何羽飛ぶとも蝶は蝶なり

と出る。「千鳥」の「千」を「蝶」で「兆」に掛けている、下らぬ狂歌である。良安は何でこんなものをここに引いたのか、よく判らぬ。幾つか真正の西行の「千鳥」の歌を引いておく。

 淡路潟(あはぢがた)磯囘(いそわ)の千鳥聲繁み瀨戸の潮風冴えわたる夜は(「山家集 上 冬」)

 淡路潟瀨戸の汐干(しほひ)の夕暮れに須磨より通ふ千鳥鳴くなり(「山家集 上 冬」)

 冱(さ)え渡る浦風いかに寒からむ千鳥群れゐる木綿崎(ゆふさき)の浦(「山家集 上 冬」)

   月の夜(よ)、賀茂にまゐりて詠み侍りける

 月の澄む御祖川原(みおやがはら)に霜冱えて千鳥遠立(だ)つ聲きこゆなり

なお、東洋文庫版は幾つかの和歌を注で参考に示しているので、それを参考までに、恣意的に正字化し、出典を補填して掲げておく。

 千鳥鳴く佐保の河瀨のさざれ波止む時もなし我が戀ふらくは (藤原麿に大伴郎女(いらつめ)が答えた歌・「万葉集」巻第四(五二五番))

 さ夜中に友呼ぶ千鳥物思ふとわびをる時に鳴きつつもとな (大伴家持に大神郎女が贈った歌・「万葉集」巻第四(六一八番))

 しほの山さしでの磯にすむ千鳥君(きみ)が御代(みよ)をばやちよとぞ鳴く (読人知らず・「古今和歌集」巻第七「賀歌」(三四五番))

最後の「やちよ」は千鳥の鳴き声のオノマトペイア「ちよちよ」に「八千代」を掛けたもの。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶺鴒(せきれひ/にはくなぶり) (セキレイ)

Sekirei

せきれひ    【鶺同】 雝渠 雪姑

にはくなふり 【和名爾波久奈布里

        
又云止豆木乎之木閉止里】

鶺鴒 

スヱッリン  【今用字音呼之】

 

三才圖會云鶺鴒雀之屬飛則鳴行則揺大如鷃長脚尾

腹下白頸下黑如連錢故又謂之連錢其色蒼白似雪鳴

則天當大雪故俗稱雪姑

△按鶺鴒狀類燕而青灰色頸下眼後有黑條長尾尖嘴

 腹白胸有黑文毎鳴于水邊求匹能揺首尾字彙云其

 首尾相應比兄弟一名雝渠是也【諸本草未載鶺鴒】

黃鶺鴒【胸正黃色】 背黒鶺鴒【背正黑色】 白鶺鴒【背白項黒】

 樊中貯水石以畜之亦能馴焉特以白者爲珍

 日本紀伊弉諾伊弉冉二神時有鶺鴒飛來揺其首尾

[やぶちゃん注:「伊弉冉」の「冉」は原典では「册」の字に似た異体字であるが、現行の一般的なそれで示した。]

 神見之而學得交道

  逢ふ事をいな負せ鳥の教へすは人を戀路に惑はましやは

 

 

せきれひ    〔(せき)〕【「鶺」に同じ。】

        雝渠〔ようきよ)〕

        雪姑〔(せつこ)〕

にはくなぶり 【和名、

       「爾波久奈布里〔にはくなぶり)〕」、

        又、云ふ、

       「止豆木乎之木閉止里〔とつぎ

        をしへどり〕」】

鶺鴒

スヱッリン  【今、字音を用ひて之れを呼ぶ。】

 

「三才圖會」に云はく、『鶺鴒は雀の屬、飛べば、則ち、鳴く。行くときは、則ち、揺〔(ゆら)〕ぐ。大いさ、鷃〔(ふなしうづら)〕のごとく、長き脚・尾、腹の下白く、頸の下、黑く、連錢(れんせん)のごとし。故に又、之れを「連錢」と謂ふ。其の色、蒼白、雪に似る。鳴〔かば〕則ち、天、當(まさ)に大雪〔(おほゆきふ)〕るべし。故に俗に「雪姑」と稱す。』〔と〕。

△按ずるに、鶺鴒、狀、燕に類〔(たぐひ)〕して、青灰色。頸の下・眼の後に黑條有り。長き尾、尖りたる嘴。腹、白く、胸に、黑き文、有り。毎〔(つね)〕に水邊に鳴きて、匹〔(つれあひ)〕を求め、能く首尾を揺〔ゆら)〕す。「字彙」に云はく、『其の首尾、相ひ應じて〔あるを〕、兄弟に比す。一名、「雝渠」〔は〕是れなり【諸本草、未だ鶺鴒を載せず。】。

黃鶺鴒(きせきれい)【胸、正黃色。】 背黒(せぐろ)鶺鴒【背、正黑色。】 白鶺鴒〔(はくせきれいひ)〕【背、白く、項〔(うなじ)〕、黒し。】

 樊〔(かご)の〕中に水石を貯へて、以つて之れを畜〔(か)ふ〕。亦、能く馴れ、特に白き者を以つて珍と爲〔(な)〕す。

 「日本紀」、伊弉諾〔(いさなき)〕・伊弉冉〔(いさなみ)の〕二神(ふたはしら)の時、鶺鴒、有り、飛來して其の首尾を揺〔(ゆら)〕す。神、之れを見て、得交(とつぎ)の道を學ぶ。

 逢ふ事をいな負〔(おほ)〕せ鳥〔(どり)〕の教へずは人を戀路に惑はましやは

[やぶちゃん注:尾を上下に振ることでお馴染みの私の好きな鳥、スズメ目スズメ亜目セキレイ科セキレイ属 Motacilla・イワミセキレイ属 Dendronanthus に属するセキレイ類である。本邦で普通に見られるセキレイは

セキレイ属セグロセキレイ(Motacilla grandis:固有種)

セキレイ属タイリクハクセキレイ亜種ハクセキレイ(Motacilla alba lugens

キセキレイ(Motacilla cinerea

の三種である。

イワミセキレイ Dendronanthus indicus

は一属一種(和名は鳥取県岩美町で最初に観察されたことに由来。全長約十五センチメートルで、頭から上尾筒までの上面は緑灰色を呈し、喉から下尾筒までの下面はくすんだ白色。黄白色を眉斑を持ち、胸に黒いT字形の斑がある)で、ロシア極東沿海地方・中国北部から東部・朝鮮半島で繁殖し、冬期はインド東部からジャワ島・ボルネオ島までの東南アジア方面に渡って越冬するが、日本では数少ない旅鳥又は冬鳥として、春秋の渡りの時に渡来し、西日本での観察記録が多い。ごく少数の個体は夏鳥として渡来し、福岡県・島根県では繁殖記録もある。因みにイワミセキレイは尾を左右に振る(ここはウィキの「イワミセキレイに拠る)。カワセミ類はその特徴的な尻振り行動から、異名が異様に多く、イシクナギ(石婚ぎ)・イモセドリ(妹背鳥)・ニワクナギ(庭婚ぎ)・ニワクナブリ(後注参照)・イシタタキ(石叩き・石敲き)・ニワタタキ(庭叩き)・イワタタキ(岩叩き)・イシクナギ(石婚ぎ)・オシエドリ(教鳥)・コイオシエドリ(恋教鳥)・トツギオシエドリ(嫁教鳥:後注参照)など、その大半は性行為のメタファーであるように私には思われる。中国名は「相思鳥」である(主にウィキの「セキレイを参照した)。

「雝渠」「雝」は和睦の意があるから、水路での睦み合いからの合字か。

「にはくなぶり」「庭」で「くなぶ」るような動きをする鳥の意であろう。「くなぶる」は恐らく、「婚(くな)ぐ」(交合する・性交する)と「嬲(なぶ)る」(手で弄(い)じる・もてあそぶように玩弄する)の合成語ではないかと私は思う。

「とつぎをしへどり〕」の「と」は「戸」「門」で上代には「と」は男女両性器・陰部のある「處」(ところ)を意味しており、その両方の「と」を「継(つ)ぐ・接ぐ」という意で、「御戸(みと)の目合(まぐあ)ひ」(交合・性交)の意となった。後に出る通り、そのコイッスの仕方を「教え」て呉れた「鳥」の意である。

「鷃〔(ふなしうづら)〕」旋目鳥(ほしご)(ゴイサギの幼鳥)で既出既注であるが、再掲しておくと、この漢字は現代中国ではチドリ目ミフウズラ(三斑鶉)科ミフウズラ属チョウセンミフウズラ Turnix tanki に与えられている。但し、このミフウズラ類はウズラと体形等がよく似ているものの、ウズラ類はキジ目キジ科ウズラ属Coturnixであり、我々の知っているウズラ Coturnix japonica とこのチョウセンミフウズラ Turnix tanki は縁遠い種である。

「字彙」既出既注

「其の首尾、相ひ應じて〔あるを〕、兄弟に比す」これは、恐らく「詩経」の「小雅」にある「常棣」(じょうてい)に基づく謂いである。セキレイの尾を頻りに振る行動を、兄弟が火急の危機を相手に教えようとしているものと採ったのである。簡単にはサイト「今日の四字熟語」の「【鴒原之情】(れいげんのじょう)を、詩篇「常棣」総てを知るゆとりのある方は個人ブログraccoon21jpのブログを、それぞれ参照されたい。

「樊」(音「ハン」)には「籠・鳥籠」の意がある。]

和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵠(くぐひ) (コハクチョウ)

Kuguhi

くゞひ

【音各】 【和名久久比】

コッ

 

三才圖會云鵠鳴哠哠夜飛眼光而不宿者也遠舉難中

中之卽可以告故射侯棲鵠中則告勝字彙云鵠小鳥也

射者設之以命中小而飛疾故射難中是以中之爲儁

夫木

 暮かゝる波のねぬなはふみしだき刈田のくゞひ霜拂ふなり

                  資隆

鵠大似水雞而頭背灰色腹白翅及脚灰黑色觜黑

 飛捷難捕也蓋鵠同名異鳥有【胡谷切音斛大鳥白鳥古祿切音谷小鳥久久

 比】人以相混雜矣【詳于前白鳥下】

 

 

くゞひ

【音、「各」。】 【和名、「久久比」。】

コツ

 

「三才圖會」に云はく、『鵠の鳴くこと、「哠哠〔(かうかう)〕」たり。夜、飛び、眼、光りて宿せざる者なり。遠く舉〔(あ)がり〕て中〔(あた)り〕難し。之れ、中〔る〕時は、卽ち、以つて告ぐべし。故に射-侯(まと)、鵠を棲〔(す)まはせ〕、中るときは、則ち、勝(かち)を告ぐ』〔と〕。「字彙」に云はく、『鵠は小鳥なり。射る者、之れを設(もふ)け、以つて中(あ)つることを命〔ずるも〕、小にして飛ぶこと、疾し。故に射(ゆみい)るに、中り難し。是れを以つて之れに中〔(あつ)〕るを儁〔(しゆん)〕と爲〔(な)〕す。

「夫木」

 暮〔(くれ)〕かゝる波のねぬなはふみしだき刈田のくゞひ霜拂ふなり

                  資隆

按ずるに、鵠の大いさ、水雞〔(くひな)〕に似て、頭・背、灰色。腹、白。翅及び脚、灰黑色。觜、黑。飛〔ぶこと〕、捷〔(はや)く〕して捕へ難し。蓋し、「鵠」、同名異鳥、有り【「胡谷」の切、音「斛」は、大鳥〔にして〕白鳥なり。「古祿」の切、音「谷」は、小鳥〔の〕「久久比」なり。】。人、以つて、相ひ混雜す【前の白鳥の下に詳〔かなり〕。】。

[やぶちゃん注:「鵠」(くぐい)は広義の「白鳥」(鳥綱カモ目カモ科ハクチョウ属 Cygnus 或いは類似した白い鳥)の古名であるが、辞書によっては、

ハクチョウ属コハクチョウ亜種コハクチョウ Cygnus columbianus bewickii

とする。私もそれを採る。ユーラシア大陸北部で繁殖し、冬季になると、ヨーロッパ(アイルランド・イギリス南部・オランダ・デンマークなど)・カスピ海周辺(西部個体群)か、大韓民国・中華人民共和国東部・日本など(東部個体群)へ南下し、越冬する。ハクチョウ属内では相対的に頸部が太く短く、全身の羽衣は、より白い。嘴の先端が丸みを帯びるか、或いは角張って、突出せず、色は黒い。鼻孔は嘴の中央部より、やや先端寄りに開口する。気管が長く紐状で、後肢は黒い(幼鳥は全身の羽衣が淡灰褐色を呈する)。翼長はで五十一・五~五十三・五センチメートル、で四十七・五~五十二・五センチメートル。上嘴の基部から鼻孔にかけて、黄色い斑紋が入るのを本亜種の特徴とする(以上はウィキの「コハクチョウ」を参照した)。

「哠哠〔(かうかう)〕」オノマトペイア。「廣漢和辭典」にも載らないので、歴史的仮名遣(現代仮名遣は「コウコウ」)は「皓」を参考に推定した。

「遠く舉〔(あ)がり〕て中〔(あた)り〕難し。之れ、中〔る〕時は、卽ち、以つて告ぐべし」素早く飛翔し、弓矢が当たり難い。だから、運よくこれを仕留めた時には、これを人に告げて自慢するだけの価値がある、というのである。

「射-侯(まと)、鵠を棲〔(す)まはせ〕、中るときは、則ち、勝(かち)を告ぐ」東洋文庫訳の注に弓術に於ける『射侯』(まと)『は十尺四方の的で』、『中に鵠の画がかかれてある』とある。鵠の絵が描かれている的の画像は見出せなかったが、個人ブログ「BIFFの亜空間要塞」の『「正鵠」の意味は、単なる「的の中心」ではないという話』で「鵠」の字を的の真ん中に書いたものを見ることが出来る。そこに『「弓の的」という意味の成り立ちを持っているのは、この「侯」という文字で』あり、『一方で誰もがごく普通に「まと」だと思っている「的(てき)」という文字は、本来「あきらか」という意味で、それが転じて「弓のまと」の意味に使われるようになったもので』あるとする。辞書を引いてみると、「侯」の原字は「矦」とあり、「人」と「厂」(がけ)と「矢」の合字で、「厂」は「的に張った布」の意とある。さらに『古代の中国では、弓の的を「侯」「鵠」「正」など種類別の名で呼ぶことが多かった』が、『これら「侯」「鵠」「正」を日本語に訳すと、どれも「まと」ということにな』るとされ、『「鵠」や「正」の大きさはどのくらいであったかというと、「周礼」の注釈に「十尺四方のものを「侯」といい、四尺四方のものを「鵠」といい、二尺四方のものを「正」という」とあり』、『周代の一尺は現在の』二十二・五センチメートル程であるから、「鵠」は九十センチメートル四方、「正」でも四十五センチメートル四方はあったことになる、と記されておられ、『現在の日本の弓道で、遠的競技(通常』六十メートル『の距離から射る)に使われる的が直径』一メートル、二十八メートルの距離から射る近的競技『に使われる的が直径』三十六センチメートルである『から、「鵠」や「正」はほぼそれらに匹敵する大きさで』、『どちらも「的の中心の黒星」などという代物では』なく、『かなり立派な大きさの四角い「まと」であると』ある。因みに辞書には、古えは天子・諸侯クラスの者達が春・秋に「大射の礼」を行ったことから転じて、「侯」の字が君・諸侯の意に用いられるようになったといったことが書かれてあった。

「字彙」既出既注であるが、再掲しておく。明の梅膺祚(ばいようそ)の撰になる字書。一六一五年刊。三万三千百七十九字の漢字を二百十四の部首に分け、部首の配列及び部首内部の漢字配列は、孰れも筆画の数により、各字の下には古典や古字書を引用して字義を記す。検索し易く、便利な字書として広く用いられた。この字書で一つの完成を見た筆画順漢字配列法は清の「康煕字典」以後、本邦の漢和字典にも受け継がれ、字書史上、大きな意味を持つ字書である(ここは主に小学館の「日本大百科全書」を参考にした)。

「之れを設(もふ)け」実際の生きた鵠を射的対象として準備し。

「儁〔(しゆん)〕」ここは射芸に秀でた名手の意。

「暮〔(くれ)〕かゝる波のねぬなはふみしだき刈田のくゞひ霜拂ふなり」「夫木和歌抄」の巻十七 冬二」に載るが、「波」は「沼」の誤り

 暮れかかる沼のねぬなはふみしだき刈田(かりた)のくぐひ霜拂(はら)ふらし

である。「資隆」は平安後期の官吏で歌人の藤原資隆(生没年未詳)か。「ねぬなは」は「根蓴」「根蓴菜」でジュンサイ(スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi)のこと。

「水雞〔(くひな)〕」既出の鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ亜種クイナ Rallus aquaticus indicus

『「鵠」、同名異鳥、有り』ハクチョウ属オオハクチョウ Cygnus cygnus を指していると考えてよい。「オオハクチョウ」の中文ウィキ大天に『又名』とある。

『「胡谷」の切、音「斛」は、大鳥〔にして〕白鳥なり。「古祿」の切、音「谷」は、小鳥〔の〕「久久比」なり』反切(はんせつ:漢字の発音を示す伝統的な方法の一つで、二つの漢字を用い、一方の声母と、他方の韻母及び声調を組み合わせて当該漢字の音を表わすもの)いよって同名異種を解説しているのであるが、正直、孰れも「コク」で、中国語が判らなければ、この解説は一般の日本人には違いは判らない。因みに現代中国語では「斛」は「」、「谷」は「」或いは「」である。

「前の白鳥」先の天鳶(はくちやう)のこと。]

2018/07/08

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(43) 大乘佛敎(Ⅱ)


 さて此處で、これ等敎義の、近世思想との關係に就いて、これを簡單に考察することは、無益な事ではあるまい、――先づ最初の一元論から始めよう、――

[やぶちゃん注:以下、一行空け。]

 形若しくは名を有りて居る一切のものは、――佛、神、人間、及びあらゆる創造物――太陽、世界、月、一切の目に映ずる宇宙――これ等は皆、變轉常なき現象である……。ハアバアト・スペンサアの說に從つて、實體の證左となるものは、其の永久性にあるとすれば、何人もかくの如き考へ方を怪しむものはなからう、此の考へ方は、スペンサアの『第一原理』の結論たる其の最後の章の敍述と殆ど同じである――

 『主觀と客觀の關係が、吾人に、精神と物質との相對的槪念を、必要と感ぜしむるとは云へ、前者(精神)も後者(物質)も共に、兩者の土臺に橫たはる未知の實體の標章に過ぎない』――一八九四年版

[やぶちゃん注:ハーバート・スペンサーの全十巻から成る「総合哲学体系」( System of Synthetic Philosophy )の第一巻の「第一原理」(First Principles)。初版は一八六二年刊。引用部“Though the relation of subject and object renders necessary to us these antithetical conceptions of Spirit and Matter; the one is no less than the other to be regarded as but a sign of the Unknown Reality which underlies both.”はまさに「第一原理」の最終章「第二十四章 概括と結論」(CHAPTER XXIV.: SUMMARY AND CONCLUSION.)の擱筆である(正確には文頭は“He will see that”始まり、though 以下に続く)。]

 佛敎に於て、唯二の實體は、絕對と云ふものである、――佛陀を、自由自在無限の存在として。物質に關しても、將又精神に關しても、佛陀以外に眞の存在はない、眞の個性もなければ、眞の人格性もないのである、『我』と云ふ名『非我』と云ふも、本質的には決して異つたものではない。吾々は、つぎの如き、スペンサア氏の立脚地を想起する。卽ち『吾人に示されてある實體が、主觀的なりと云ひ、或は客觀的なりと云ふも、それは決して異るものではなく、二者同一である』と。スペンサア氏はなほ續けて云ふ、主觀と客觀とに、必然的に意識に依つて左樣考へられるものではあるが、實際に存在するものとしては、兩者の共働に依つて生ずる意識の中にはあり得ない、主觀と客觀との對立は、意識が存在する限り、決して存在を超越し得るものではなく、主觀と客觀とが結合されて居る其の究極の實體に就いての知識を不可能ならしめる』と……。私は、大乘佛敎の大家と雖も、スペンサア氏の此の實體變形說の狭義を論難する人はなからうと思ふ。佛敎も、現象としての現象の現實性を否定するものではないが、現象の恆久性及び現象が吾々の不完全なる感覺に訴へる現象の眞實性に對してはこれを否定する。變轉常なく、見えるが儘でないのであるから、現象は幻影の性質を備へて居るものとして考へらる可きである――唯一の恆久性ある實體の不恆久的なる表象として考へらる可きである。併し佛敎の立脚地は、不可知論ではない、それは驚くべき程それとは異つて居るものである、今玆にそれを攷へて[やぶちゃん注:「かんがへて」。]見ようと思ふ。スペンサア氏は、意識が存在する限り、吾人は實體を知ることが能きない[やぶちゃん注:「できない」。]と云ふ――其の所以は、意識の在る限り、吾人は客觀と主觀との對立を超えることは能きない、而して意識を可能ならしむるものは、實に此の對立であるからである。これに應ヘて『如何にもそれは、その通りだ。吾々は、意識が存在する限り、唯一の實體を知ることは能きない。併し、意識を破棄せよ。然らば、實體を認識するに至らむ。精神の幻影を棄てよ、然らば光明は射し來たらむ』と佛敎の哲學者は言ふであらう。此の意識の破棄が、涅槃の意である、――それは吾々が自我と呼ぶ所のものを、盡〻く亡くしてしまふ[やぶちゃん注:「ことごとくなくしてしまふ」。]ことである。自我は盲目である、自我を亡ぼせ、然らば、實體は無限の幻像、無限の平和として、示現せられるであらう。

 さて。佛法の哲學に從ふと、現象としての目に見える宇宙とは何であるか、又知覺する所の意識の本性は何であるかを、尋ねて見なければならない。變轉無常とは云へ、現象は意識の上に印象を具へる、又意識それ自身も、たとへ變轉無常とは言へ、存在をもつて居り、其の知覺たるや、よし欺くものであろとしても、現實の關係に就いての知覺である。玆に佛敎は、宇宙も意識も二つながらに、業――遠い遠い過去からの行爲と考へとに依つて、形成せられた狀態の、計量すべからざる複合物――の單なる綜合に過ぎないと答へる。一切の本質、一切の有限の精神(絕對の精神から區別されたる)は行爲と考へとの產物である、行爲と考へとに依つて、身體の微分子は構成せられる、而して其の微分子の親知力――科學者に云はせれば、其の微分子の兩極性――は無數の死滅せる生命の内に、その形を成したる諸〻の傾向を示してゐる。私は、その問題を取扱つた近代日本の論文を、次に掲げる事にしよう。――

  

 「あらゆる有情物の集合的動作は、山や河や國等の種別を生ぜしめた。これ等は、集合的動作に依つて生じたのであるが故に、綜合成果と呼ばれる。吾人の現在の生は、過去の行動の反映である。人々は、これ等の反映を、眞の自我と觀じてゐる。彼等の眼、鼻、耳、舌、身體は――彼等の庭園、樹木、田畠、住居、下僕、下婢と共に――自己の所有物であると、人々は思つてゐる、然るに、事實それ等は、無數の行爲に依り、無限に產出された成果に過ぎぬ。萬物を、其の究極の過去にかのぼつて、尋ねて見るとも、吾々は其の始源を見極めることはできない、故に死と生とに始めなしと云はれてゐる。また、未來の究極の涯を尋ねるとも、吾人は遂に其の終端を見る事はできない』

  註 黑田著『マハアヤアナ哲學槪論』

[やぶちゃん注:原文はOutline of the Mabâyâna Philossophy, by S.Kuroda.で、英文のそれで検索しても、平井呈一氏の「マハーヤーナ哲学概論」という訳でも探して見たが、影も形も出てない。作者も判らぬし、出版年も不明。お手上げ。識者の御教授を乞う。【2018年7月19日:追記】何時も、種々、私の電子テクスト注の疑問や誤謬について情報や補正指摘を頂戴しているT氏より、以上についての情報を戴いた。それによれば、

小泉八雲の記した“ Outline of the Mabâyâna Philossophy. は少し不正確で、“ Outlines of The Mabâyâna as Taught by Buddha が正しいこと。

当該の文章は浄土宗の僧で仏教学者であった黒田真洞(くろだしんとう 安政二(一八五五)年~大正五(一九一六)年)が明治二六(一八九三)年九月に「シカゴ万国博覧会」の一部として開かれた「万国宗教会議」で配布したものであること。

また、

英文の同書“ OUTLINES OF THE MABÂYÂNA AS TAUGHT BY BUDDHA “Internet Archive”公開こと。

ことを御教授戴いた。

 “ Outlines of The Mabâyâna as Taught by Buddha は「釈迦によって思念されたマーハヤーナ(大乗仏教)の概要」となる。

 この著者黒田真洞は江戸日本橋生まれで、安政六(一八五九)年、四歳で江戸・芝の増上寺に入って出家剃髪し、同寺の石井大宣らに師事した。後、京都に遊学、智積院の弘現や三井寺の敬徳、和田智満・福田行誡といった高僧たちのもとで学んだ。明治一七(一八八四)年、増上寺に戻って、学頭となり、明治二十年には浄土宗学本校の創設とともにその初代校長に任ぜられた。明治三〇(一八九七)年には宗務執綱に就任し、宗憲の制定や全国を八つの教区に分けるなど、浄土宗内の改革・刷新を断行した。その後、伝道講習院長や浄土宗大学学長などを歴任し、明治四十年からは宗教大学(現在の大正大学)学長を務めた。著書に「大乗仏教大意」「法相伊呂波目録」「浄土宗綱要」などがある(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

 因みに、T氏は、さらに、以上の情報は、

駒澤大学院人文科学研究科仏教学専攻のステファン・P・グレイス氏の博士論文「鈴木大拙の研究 現代「日本 」仏教の自己認識とその「西洋 」に対する表現PDF)に基づいた。

とされる(その三十二ページ末から。なお、そこには、大拙の事実上の処女作というべき明治四〇(一九〇七)年の“ Outlines of Mahayāna Buddhism (「大乗仏教概論」)が『内容、構成、文体、さらにはレイアウトにいたるまで、非常に多くの共通点をもつ。両書があまりにもよく似ているので、大拙の『大乗仏教概論』が、黒田の『大乗仏教大意』[やぶちゃん注:Outlines of The Mabâyâna as Taught by Buddhaのこと。]に』、少し許り『変更を加えた「改訂増補版」のように見えるといっても決して過言でないほどである』という、非常に興味深いことが記されてあるので、必読である)。

 さらに、T氏は、

“ Outlines of The Mahāyāna as Taught by Buddha の元版(日本語)は、黒田真洞「大乗仏教大意」国立国会図書館デジタルコレクションの画像明治二六一八九三)仏教学会刊・四十ページ)全文

と、メールの最後に添えて下さった。まことに痒いところに手が届いた御教授、恐縮の極みで、感謝に堪えない。ここに再度、T氏に御礼申し上げるものである。

 因みに、小泉八雲原文引用箇所(同じく“Internet Archive”236237ページ)と比較してみると、同書の、

Chapter. Actions and Results, Causes And Effects. (上記日本語版では「第四 業報因果)10-11ページの内容を本文に即しつつ、英語圏一般読者向けに操作している

ことが判った。]

 

 萬物は業に依つて造られると云ふこの敎へは――美なるものはすべて功績高き行爲若しくは考への結果を表現し、惡なるものはすべて惡行若しくは惡念の結果を表現する――五大宗派の承認する所となつた、されば吾々は日本佛敎の主要なる敎義として、これを容認して然るべきであらう……。卽ち宇宙は業の集合體である、人の心も業の集介體である、その始めは不可知であり、終りも亦想像することの出來ないものである。玆に涅槃を其の歸着點とする精神上の進化があるのであるが、吾々は實質と精神との形成が永久に休止するといふ、普通の安息の究極狀態に關しては、何等明言する處を聞かない……。而して綜合哲學(スペンサアの)は、現象の進化に關して、これと極めて類似した立脚地を採つて居る、卽ち進化には始まりなく、認知し得べき終極もない。私は『北米評論』に現はれた位置批評家に與へたスペンサア氏の答辯を引用する。――

   

 『論者の言ふ、かの「地上に於ける有機的生活の絕對始源」を、余は「容認せざるを得ず」との意見を、余は明確に否認す。宇宙の進化を肯定する事は、それ自體が、萬物の絕對始源を否定する事となるのである。進化と云ふ言葉を以て解說すれば、萬物は、先在する物の上に、不知不識の間に一段一段と積み重ねられた修正の結果であると考へられる。此の考へ方は、有機的生活のつぎつぎの發展に關して、と同樣に又假設の「有機的生活の始源」に關しても、全く適用されるものである……有機的物質は、一朝にして造り出されたものではなくて、段階を經て造られたものであるといふ。此の信念は、化學者の經驗に依つて、十分證されてゐる』

   註 『生物學原理』第一卷第四八二頁

[やぶちゃん注:「総合哲学体系」( System of Synthetic Philosophy )の第二巻の“ Principles of Biology (一八六四年刊)。]

 勿論、萬物の始源と其の終極とに關して、佛法が沈獸を守つて居るのは、單に現象の出現に限るのであつて、現象の一群の特殊な存在に就いてではないと云ふことは、了解して置かなければならない。始源と終極との斷言出來ないといふ事はこれ卽ち永遠の變遷に過ぎない。その起原である古い印度哲學と同樣、佛敎は宇宙の交互的顯出と消滅とを教へる。無量の或る時期に於て『十萬億土』の全宇宙が消えてしまふ――燒失するか或はその他の方法で破壞されて――しかしそれは又再び造りかへされるのである。これ等の時期を稱して『世界の周紀』といふ、そして各周紀は四つの『無邊』に分割されてゐる――併し、此處では此の敎義の詳細に就いて述べる必要はない。實際興味のある處は、進化の律動を說くその根本的思想にあるのみである。宇宙の交互的分壞や囘復は、また科學的槪念であり、進化論の信念から言つても、一般的に容認されたるその信條であるといふことは、讀者諸君に注意する迄もないことである。併しながら私は別の理由から、この問題に關するハアバアト・スペンサアの意見を表明する章句を、次に引用して見よう。――

   

 『吾人が既に說いた如く、明らかに索引[やぶちゃん注:原文は“forces of attraction and repulsion”であるから、★「牽引」(力)の誤植である。確信犯としても日本語では「牽引」が妥当である。平井呈一氏も『牽引』と訳している。注さないが、後の「索引」も同じ★。]と反撥との遍在する共力が、宇宙を一貫して、一切の微紬な變化に律動を必要ならしめ、また變化の總和に對しても律動を必要ならしめる――かくの如き共力は、或る場合には索引力を優勢ならしめ、宇宙の集中を行ふ涯りなき[やぶちゃん注:「かぎりなき」。]一時期を現出し、さらに反撥力を優勢ならしめ、擴散を行ふ涯りなき一時期を現出する――かくて父互に進化と離散との時代を現出する。かくの如くして、現代に於て行はれつつあるが如き、繼續的進化の行はれたる過去の時代に關する槪念が吾々に暗示されるのである、而してまた別の同樣な進化が行はれる未來の時代も亦附示される――原理に於ては常に同一なるも、具像的の結果[やぶちゃん注:原文“concrete result”。「具象的な結果」に同じい。]に於ては同一ならざるものである」――『第一原理』 一八三項[やぶちゃん注:「頁」の誤植である。]

   註 此の項は第四版から引用したもので、
     一九〇〇年の決定版には著しく改訂
     されてある。

 更に、スペンサア氏は、此の假定に包含せられて居る論理的結果を指示してゐる。――

   

 『吾々は當然さう考へるべき理由があるが、若し萬物の總和には、進化と離散の交互作用があるとすれば――又吾々は力の永續性からさう推論せざるを得ないが、若し此の廣大なる律動の何れかの一端への到達が、其の反對の運動の發生するやうな狀態を惹き起すとすれば――さらに、若し吾々が涯りなき過去を掩ふであらう進化の槪念、及び涯りなき未來を掩ふであらう進化を、容認するの已むなきに至るとすれば――吾々は、も早や明確な始點と終點とを持つやうな、或は孤立したやうな、認知し得る天地の創造を考へることはできない。さういふ天地は、現在の前後のすべての存在に歸一せしめられるやうになる、そして宇宙が示す力は、考への上に何等の制限をも認めない、時間と空間との同じ範疇に入つてしまふ』――『第一原理』第一九〇項[やぶちゃん注:「頁」の誤植。]

   註 一九〇〇年の決定版中には簡約され
     多少修正もされた、併し今の場合に
     於ける說明の便宜上、第四版を選ん
     だのである。

 以上述べた佛敎の立脚地は、人間の意識は轉變無常の集合體に過ぎず――永久的實體ではない、と云ふ意味を十分に示してゐる。恆久の自我と云ふものはない、あらゆる生に通じて唯一つの永遠の原理があるのみである――最高の佛陀がそれである。近代の日本人は、此の絕對を、『精神の心髓』と呼んでゐる。近代の日本人なる一人は曰く、『火は薪に依つて燃え、薪の失せると共に消える。併し火の本質は破壞される事はない……宇宙に在る萬物は、すべて精神である』と。恁ういふと、この立場は非科學的である、併しかくして到達した結論に關しては、ワラス氏が殆ど同樣のことを言つてゐるし、又『心より成る宇宙』の敎義を說く近代の牧師も二三に留まらない事を記憶しなければならない。此の假說は『考へ得べからざる』ものである。併し最も眞面目な思想家は、一切の現象と不可知(アンノアブル)[やぶちゃん注:“unknowable”。]のものとの關係は、波と海との關係に似て居ると云つた佛敎の斷定に同意するであらう。スペンサア氏は云ふ、『あらゆる感情とか思想とか云ふものは、ほんの轉變無常のものであるから、かかる感情や思想で出來上つてゐる全生活も亦轉變無常なものに過ぎない――否、縱令[やぶちゃん注:「たとひ」。]幾分は轉變無常でないとしても、生命が過ぎ通つて行くその周圍の物象は、晩かれ早かれそれそれの特性を失ひ行くものであるから――恆久なるものと云ふのは、變はり行く形相[やぶちゃん注:「けいさう」。]の一切の底にかくれて居る未知の實體を指すのであると云ふことが判かる』と。此處に於て、イギリスの哲學者と佛敎哲學者とは相一致したわけであるが、其の後忽ちに兩者は相分離する。何となれば、佛敎はノステイシズム(神祕可知哲學)[やぶちゃん注:“gnosticism”。]であつて、不可知論(アグノステイシズム)[やぶちゃん注:「アグノステイシズム」はルビ。“agnosticism”。]ではなく、不可知のものを知らんことを揚言するものであるからである。スペンサア學派の思想家は、唯一の實體の性質に關して假定を與へることをなし得ないし、且つ又其の表現の理由に關しても假定を與へないのである。スペンサア學派のものは、力、物質、及び運動の性質を理解する事に關し、知的無能力者であると云ふことを自ら白狀しなければならない。その學徒は、一切既知の要素は、一個の本源なる無差別的本體から展開されたものであると云ふ假說――この假說に就いては化學が有力に證據立ててゐる――を容認するのは理の當然であると考へる。併し彼は其の本源の實體を精神の實體とは決して同一視しないし、又精神の實體を完成するに與つて[やぶちゃん注:「あづかつて」。]力ある諸〻の力の性質を、說明しようともしない。吾々が物質を解するに、單にこれを諸〻の力の集合であるとか、又は微分子では力の中心か、然らざれば力の結節であると解することを、スペンサア氏は既に承認して居るのであらうが、氏はまだ微分子が力の中心であつて、他の何物でもないと宣言した事はない……。併しドイツ統の進化論者に、佛敎の立場に甚だ近い立場を取つて居るのを見る――則ちそれは宇宙の感性、もつと嚴密に云へば、宇宙のやがて發展すべき潜力的感性を意味するものである。ヘッケル其の他のドイツの一元論者は、すべての實體に對してかくの如き立場をとつて居る。故に彼等は不可知論者ではなくて、ノステイツクである。そしてそのノステイツクの哲學たるや、大乘佛敎に非常に近いものである。

[やぶちゃん注:「ワラス氏」“Mr. Wallace”。イギリスの博物学者でダーゥインと並ぶ進化論理論家アルフレッド・ラッセル・ウォーレス(Alfred Russel Wallace 一八二三年~一九一三年)。彼は斬新な新理論を提示しながら、一方で心霊主義に傾き、進化には「目に見えない宇宙の魂」が人干渉したと主張し、「宇宙の存在意義が人類の霊性の進歩である」と信じていた。進化論講話 丘淺次郎 第十五章 ダーウィン以後の進化論(4) 四 ウォレースとヴァイズマンを参照されたい。

「ヘッケル」生物学者で哲学者でもあったエルンスト・ハインリッヒ・フィリップ・アウグスト・ヘッケル(Ernst Heinrich Philipp August
Haeckel
 一八三四年~一九一九年)。私の敬愛する生物学者である。進化論講話 丘淺次郞 第十五章 ダーウィン以後の進化論(3) 三 ハックスレーとヘッケルを参照されたい。]

諸國里人談卷之三 虎宮火

 

   ○虎宮火(とらのみやのひ)

 

攝津國島下〔しましも〕郡別府村の虎の宮の跡といふ所より出て、片山村の樹(き)のうへにとゞまる、火の玉なり。雨夜(あまよ)に、かならず、いづる也。これに逢ふ人、こなたの火を火繩などにつけてむかへば、其まゝ消(きゆ)る也。「虎の宮」又「奈豆岐宮(なづきのみや)」ともいふ。是、則(すなはち)、前(さき)にいふ所の「日光坊」の一族、其腦(なづき)を祭る神といひつたへたる俗說あり。又、云、「延喜式」に、『攝州武庫郡、「名次神(ナヅキノカミ)を祭。』歟〔か〕。

 

[やぶちゃん注:これは「摂津名所図会」(京の町人吉野屋為八が計画、編集は俳諧師秋里籬島(あきさとりとう)が、挿絵は竹原春朝斎が担当した。秋里籬寛政八(一七九六)年から同一〇(一七九八)年に刊行)に「虎宮火」として出る。国立国会図書館デジタルコレクションの画像こちらの「虎宮火(とらのみやのひ)」を視認して電子化しておく。

   *

別府村田圃(でんぽ)の中、虎の宮といふ神祠の古跡あり。此森より雨夜(あまよ)に火魂(ひのたま)出て、其邊を飛(とび)めぐり、片山村の樹上(じゆじやう)に止(とまる)といふ。これに遇ふ人、大に恐る。又、土人曰(いはく)、「火繩を見すれば、忽(たちまち)消(きゆ)る」といへり。按ずるに、初夏より霖雨(りんう)の後(のち)、濕地に暑熱籠りて、陰陽剋(こく)し、自然と地中より火を生じ、地を去る事、遠からず。往來(ゆきゝ)の人を送り、あるひは人に先立て飛(とび)めぐるもあり。みな、地中の陰火の發(はつ)するなり。恐るゝに足らず。陽火を以て向ふ時は狐狸(きつねたぬき)の火(ひ)とても、消ゆるなり。日中に顯はれざるにて知るべし。腐草(ふさう)化(け)して螢となるの大なる物也。「天文志」にも見へ[やぶちゃん注:ママ。]たり。

   *

以上は本書刊行(寛保三(一七四三)年)から五十三年後であり、記載も本書を一部援用している可能性があるが、以上を見てもオリジナリティに富み、当時の通俗地誌・観光案内書としては優れた記載である。「天文志」は後漢の班固・班昭らによって編纂された前漢史である「漢書」の中の「天文志」のことであろう。

「攝津國島下郡別府村」現在の摂津市別府附近(グーグル・マップ・データ)。

「片山村」現在の吹田市片山町。ここ(グーグル・マップ・データ)。別府の西直近。

「虎宮」bittercup氏のブログ「続・竹林の賢人」の「虎宮火」に「摂津名所図会」の考証記事と地図が載るが、現在、既に「虎宮」は存在せず、近くの「味舌(ました)天満宮」に合祀されていることが判る。同ブログのオリジナルな書き込みのなされた地図でそれぞれの大体の位置が判る。

「日光坊」前の火」を参照。

「腦(なづき)」ここは頭蓋骨・髑髏の意。これは如何にもおどろおどろしくていいじゃない!

「攝州武庫郡」現在の兵庫県西宮市名次町にある廣田神社の境外社(但し、同じ名次町内)である名次神社は「延喜式」の「神名帳」に載る。これだとすれば、後代に分祀されたということか? と沾涼は言っているのだろうか? 今一つ判らない。

「名次神(ナヅキノカミ)」戸原氏の個人サイト内に名次神社ページがあり、その解説によれば、『社頭に掲げる由緒では名次大神というが、これは祭神を特定しない一般的神名であ』るとあるから、沾涼の言うような附けたりはいらない気がする。則ち、この「虎宮」もそうした祭祀神を特定しない(出来ない・憚れる)ものとしてかく「なづきのかみ」としたに過ぎず、この名次神社とは関係がないとした方が、すっきりするのである。]

諸國里人談卷之三 二恨坊火

 

    〇二恨坊火(にこんぼうのひ)

 

攝津國高槻庄(たかつきのしやう)二階堂村に、火あり。三月の頃より、六、七月まで、いづる。大さ、一尺ばかり、家の棟、或は、諸木の枝梢(ゑだこずへ[やぶちゃん注:ママ。])にとゞまる。近く見れば、眼耳(がんに)・鼻口(びこう)のかたちありて、さながら、人の面(おもて)のごとし。讐(あだ)をなす事あらねば、人民、さしておそれず。むかし、此所に日光坊(にくわうぼう)といふ山伏あり。修法(しゆほう)、他(た)にこえたり。村長(むらおさ)が妻、病(やまい[やぶちゃん注:ママ。①は「やまふ」。])に臥す。日光坊に加持をさせけるが、閨(ねや)に入〔いり〕て一七日(いつしちにち)祈るに、則(すなはち)、病(やまひ)、癒(いへ)たり。後に「山伏と女、密通なり」といふによつて、山伏を殺してげり[やぶちゃん注:①も③「げ」。]。病平癒(やまいへいゆ[やぶちゃん注:「やまい」同前で①は「やまふ」。])の恩も謝せず。そのうへ、殺害(せつがい)す。二(ふたつ)の恨(うらみ)、妄火と成りて、かの家の棟(むね)に、毎夜(まいや)、飛來(とびきた)りて、長(おさ)をとり殺しけるなり。「日光坊(につこうぼう)の火」といふを、「二恨坊(にこんぼう)の火」といふなり。

[やぶちゃん注:本話は私は既に柴田宵曲 妖異博物館 「怪火」と、この伝承を強烈にインスパイアした宿直草卷五 第三 仁光坊と云ふ火の事で注している。ここで言い添えるべきことはない。

「攝津國高槻庄二階堂村」ウィキの「二恨坊の火に『摂津国二階堂村(現・大阪府茨木市二階堂)』及び『同国高槻村(現・同府高槻市)に伝わる火の妖怪』とある。この二地名は無論、異なる場所なのであるが、茨木市は東で高槻市に隣接しており、後者の高槻市には二階堂の地名は現行では見当たらないものの、前者の(グーグル・マップ・データ)に「二階堂」というバス停を発見出来る。則ち、古くはこの辺りから、東の安威川(あいがわ)を渡って東方の現在の高槻市内辺り(市境までは八百メートル未満)までを「二階堂」と呼んでいたものかも知れない。]

諸國里人談卷之三 分部火

 

    ○分部火(わけべのひ)

伊勢國安濃津(あのつ)塔世(とうせい)の川上、分部山より、小〔ちさ〕き挑燈ほどなる火、五十も百もー面に出〔いで〕て、縱橫に飛(とび)めぐりて後(のち)、五、六尺ほど、一かたまりになりて、塔世川をくだる事、水より、はやし。又、塔世が浦に「鬼の鹽屋の火」といふあり。此火中(くわちう)には、老嫗(おいたうば)の顏のかたち、ありける。かの川上の火と行合(ゆきあひ)、入〔いれ〕ちがひ、飛(とび)かえりなどして、相鬪(あひたゝか)ふ風情なり。少時(しばらく)して、又、ひとつにかたまり、そのゝち、また、わかれて、ひとつは沖のかたへ飛(とび)、一つは川上へ奔(はしる)なり。

[やぶちゃん注:この話、ネットで検索しても、本書の記載ぐらいしか見当たらない。則ち、怪異の由来譚などが一切失われてしまった古い怪火伝承だと思われる。――分部山(わけべやま)から提灯ぐらいの大きさの小さな火の玉が五十も百も出現し、自由自在に飛び回り、その後、それらが集合して一メートル五十二センチから一メートル八十二センチほどの大きな火の塊りとなって、安濃川の水上を川水よりも速く下って行く。一方、安濃川河口左岸の塔世村の東の海浜「塔世が浦」には、別に「鬼の塩屋の火」と呼ばれる怪火があって、この火の玉(有意に大きいのであろう)の中心には、はっきりと老婆の顔があるのだという(これだけでもキョウワい!)。その「鬼の塩屋の火」が、下って来た川上の「分部の火」と行き合って、互いに無視してかわして素通りしたかと思うと、後戻りして飛び返りなど、複雑に飛び交い、見るからに火球同士が盛んに戦うといった様子を見せる。暫くすると、何と、戦っていた二つの火球が一つに固まって大火球となり、その後、再び、分離し、一つは「塔世が浦」の沖合を目指して飛び去り、一つは安濃川の川上を指し走り去ってしまう――理由が全く語られないだけに真正の怪談として成功している。現地のこの伝承が残っているのなら、是非、採取したいものだ。

「伊勢國安濃津(あのつ)塔世(とうせい)」三重県の旧安濃(あの)郡塔世村(とうせむら)附近。現在の津市中心部の北東、概ね、安濃川の河口左岸に相当する。附近(グーグル・マップ・データ)。

「分部山」不詳。但し、安濃川川上に三重県津市分部の地名が見出せ((グーグル・マップ・データ))その北西域外直近に三重県津市美里町家所に山頂が属する長谷山がある。ここか。標高三百二十一メートル。

「塔世川」安濃川の津市内での旧称。]

諸國里人談卷之三 焚火

 

 

    ○焚火(たくひ)

 

隱岐國の海中に夜、火、海上に現ず。是、燒火權現(たくひごんげん)の神霊也。此神は風波(ふうは)を鎭(しづめ)給ふ也。いづれの國にても難風(なんぷう)にあひたる舩、夜中、方角をわかたざるに、此神に立願(りうぐわん)し、神号を唱ふれば、海上に、神火(しんくわ)、現じて難を遁(のが)るゝ事、うたがひなし。後鳥羽院、此島へ左遷(さすらへ)給へる時、風たちて、浪あらく、御舩(みふね)、危ふかりければ、

 

 我こそは新島守(にいじまもり)よおきの海のあらき浪風心してふけ

 

此御製、納受(のふじゆ)ましましけるにや、風波、靜(しづま)り、夜に入〔いり〕て、神火、出現す。

 

 泻〔かた〕ならばもしほやくやとおもふべし何をたくひの煙なるらん

 

御舩、三保の浦につきぬ。そのゝち、大山權現(おほやまごんげん)に詣でさせ給ひ、燒火山(たくひやま)を改(あらため)て、雲上寺(うんじやうじ)と号(なづけ)させ給ふ。

 

○海部郡(あまこほり)島前(どうぜん)美田庄(みたのしやう)にあり。一條院の御宇に海中より出現し給ふ。大山權現、又、離火權現(たくひごんげん)といふ。祭(まつる)神、大日孁貴〔おほひるめのむち〕。

 

〇一曰〔いはく〕、「此、乃、天照皇大神(てんせうくわうたいしむ)之垂跡同一而ニ乄、於イテㇾ今、海舶、多免(まぬか)漂災(ひやうさい)者〔は〕因神火(しんかう)光(ひかり)。最不ㇾ可カラㇾ疑[やぶちゃん注:「ウ」はママ。]。」。

 

[やぶちゃん注:現在の島根県隠岐郡西ノ島町(にしのまち)美田(みた)にある焼火山(たくひやま:標高四百五十一・七メートル)の山頂附近に鎮座する焼火(たくひ/たくび)神社に纏わる怪火(かいか:御神火)。明治初頭の神仏判然令以前は焼火山(たくひさん)雲上寺(うんじょうじ)と号した。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「焼火神社」によれば(太字下線やぶちゃん)、概ね、中世頃から、『航海安全の守護神として遠く三陸海岸まで信仰を集めた』(現在はかなり寂れている)。『大日孁貴尊(おおひるめむちのみこと)を祀る』。(大日孁貴尊は天照大神の別称)。『焼火山は古く「大山(おおやま)」と称され、元来は山自体を神体として北麓の大山神社において祭祀が執行されたと見られているが』、『後世修験道が盛行するに及ぶとその霊場とされて地蔵尊を祀り、これを焼火山大権現と号した』。『やがて祭神を大日孁貴尊とする伝えも起こって』、元禄一六(一七〇三)年には「燒火山大權現宮(中略)伊勢太神宮同躰ナリ、天照大日孁貴、離火社神靈、是ナリ、手力雄命、左陽、万幡姫命、右陰」(「島前村々神名記」)と『伊勢の皇大神宮(内宮)と同じ神社で、伊勢神宮同様』、三『座を同殿に祀ると説くようにもな』ったが、『明治初頭に大日孁貴尊のみを祀る現在の形となった』。『「焼火山縁起」によれば』、一条天皇の治世(在位:寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年)、『海中に生じた光が数夜にわたって輝き、その後のある晩、焼火山に飛び入ったのを村人が跡を尋ねて登ると』、『薩埵(仏像)の形状をした岩があったので、そこに社殿を造営して崇めるようになったと伝えている。また』、承久三(一二二一)年七月、「承久の乱」で敗北して隠岐に配流された後鳥羽上皇が(延応元年(一二三九年)二月に配所で崩御。享年六十歳)、『漁猟のための御幸を行った際』、『暴風に襲われ、御製』(ここに出る知られた後鳥羽院の歌「我こそは新島守よ沖の海のあらき浪かぜ心してふけ」(「後鳥羽院御百首 雜」)『を詠んで祈念したところ』、『波風は収まったが』、『今度は暗夜となって方向を見失ったため』、『更に祈念を凝らすと、海中から神火が現れて雲の上に輝き、その導きで焼火山西麓の波止(はし)の港に無事着岸、感激した上皇が「灘ならば藻塩焼くやと思うべし』『何を焼く藻の煙なるらん」と詠じたところ、出迎えた一人の翁が、「藻塩焼くや」と詠んだ直後に重ねて「何を焼く藻の」と来るのはおかしく、「何を焼(た)く火の」に改めた方が良いと指摘、驚いた上皇が名を問うと、この地に久しく住む者であるが、今後は海船を守護しましょうと答えて姿を消したので、上皇が祠を建てて神として祀るとともに』、『空海が刻むところの薬師如来像を安置して、それ以来』、『山を「焼火山」、寺を「雲上寺」と称するようになったという』(ここに出る二首目の歌は、本文の「泻(潟)」と「灘」(なだ)の異同があるが(意味としては「灘」ではおかしい)、孰れにせよ、この一首は現行の後鳥羽院の歌には見当たらない。また、本文は隠岐配流の際の詠としているのに対し、ここは配流後の一齣としてある点でも異なる。ここも配流時のシークエンスの方が真正の御製「新島守」との絡みで、よりしっくりくる)。『上述したように、元来』、『焼火山は北麓に鎮座する大山神社(島根県隠岐郡隠岐郡西ノ島町美田(東の大山地区ではないので注意)に現存。(グーグル・マップ・データ))『の神体山として容易に登攀を許さない信仰の対象であったと思われるが、山陰地方における日本海水運が本格的な展開を見せる平安時代後期』(十一~
十二世紀頃)『には、航海安全の神として崇敬を集めるようになったと見られ』、『その契機は、西ノ島、中ノ島、知夫里島の島前』(どうぜん)三『島に抱かれる内海が風待ちなど停泊を目的とした港として好まれ、焼火山がそこへの目印となったため』、『これを信仰上の霊山と仰ぐようになったものであり、殊に近代的な灯台の設置を見るまでは』、『寺社において神仏に捧げられた灯明が夜間航海の目標とされる場合が大半を占めたと思われることを考えると、焼火山に焚かれた篝火が夜間の標識として航海者の救いとなったことが大きな要因ではないかと推定され、この推定に大過なければ、『縁起』に見える後鳥羽上皇の神火による教導』という伝承も、『船乗りたちの心理に基づいて採用されたとみることもできるという』。また、「栄花物語」では永承六(一〇五一)年五月五日の『殿上の歌合において、源経俊が「下もゆる歎きをだにも知らせばや
焼火神(たくひのかみ)のしるしばかりに」と詠んでおり』(巻第三十六「根あはせ」)、江戸中期の国学者谷川士清(たにかわことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年)は、『これを当神社のことと解しているが(『和訓栞』)、それが正しければ』、『既に中央においても』、『著名な神社であったことになる』。『後世』、『修験者によって修験道の霊場とされると、地蔵菩薩を本尊とする焼火山雲上寺(真言宗であるが』、『本山を持たない独立の寺院であった)が創建され、宗教活動が本格化していく。その時期は南北朝時代と推測され、本来の祭祀の主体であった大山神社が、周辺一帯に設定されていた美多庄の荘園支配に組み込まれた結果、独自の宗教活動が制限されるようになったためであろうとされる[8]。以後明治に至るまで、雲上寺として地蔵菩薩を祀る一方、「焼火山大権現」を社号とする宮寺一体の形態(神社と寺院が一体の形態)で活動することになり、日本海水運の飛躍的な発展とともに広く信仰を集めることとなる。その画期となったのは』天文九(一五四〇)年の『僧良源による造営のための勧進活動であると推測され』、現地では永禄六(一五六三)年九月に『隠岐幸清から田地』二『反が寄進されたのを始め、各所から田畠が寄進されており(社蔵文書)、近世に入ると社領』十『石を有していたことが確認できる』。『また注目されるのは』、『西廻り航路の活況と』、『そこに就航する北前船の盛行により、日本海岸の港はもとより』、『遠く三陸海岸は牡鹿半島まで神徳が喧伝されたことで』、『歌川広重』(初代及び二代目)『や葛飾北斎により』、『日本各地の名所を描く際の画題ともされており(初代広重『六十余州名所図会』、北斎『北斎漫画』第』七『編(「諸国名所絵」)など)、こうした信仰上の展開も、上述した港の目印としての山、もしくは夜間航海における標識としての灯明に起因するものと考えられる。なおこの他に、幕府巡見使の差遣に際しては雲上寺への参拝が恒例であり、総勢約』二百『人、多い時には』四百『人を超える一行を迎える雲上寺においては、島前の各寺々の僧を集めてその饗応にあたっており、これには焼火信仰の普及と雲上寺の経営手腕が大きく作用していたと考えられている』とある。以下、「神事」の項。「例祭」は七月二十三日で午後八時頃から『本殿祭が行われ、その後、社務所を神楽庭(かぐらば。神楽奉納の場)として隠岐島前神楽(島根県指定無形民俗文化財)が舞われる。かつては夜を徹する神楽であったというが、現在は遅くても深夜には終わることになっている』。「龍灯祭」は旧暦十二月大晦日に行われ、『社伝によれば、焼火権現創祀の契機となった海上からの神火の発生が大晦日の夜だったので』、『それに因んで行われるといい、現在でも旧暦大晦日の夜には海中に発した神火(龍灯)が飛来して境内の灯籠に入るとも、あるいは拝殿の前に聳える杉の枝に掛かるともいう(この杉は「龍灯杉」と呼ばれる)。以前は「年篭り(としごもり)」と称して、隠岐全島から集まった参拝者が社務所に篭って神火を拝む風習があった。なお、同様の龍灯伝説は日本各地に見られ、その時期も古来祖先祭が行われた』七『月や大晦日とするものが多いため、柳田國男はこれを祖霊の寄り来る目印として焚かれた篝火に起源を持つ伝説ではないかと推測、これを承けて当神社においては、航海を導く神火の信仰を中核としつつ、そこに在地の祖霊信仰が被さったと見る説もある』(これに対する南方熊楠の反論は「橋立龍」の注で引用済みなので参照されたい)。「春詣祭(はつまいり)」は『島前の各集落がそれぞれ旧正月』五『日から約』一『か月の間に適宜の日を選んで参拝し、社務所で高膳(脚つきの膳)を据えての饗応と宴会が催される。上述「年篭り」の名残であるという』とある。以下、「信仰諸相」の項。「神火の導き」。『船が難破しそうになった時に焼火権現に祈念すると、海中より』三『筋の神火が現れ、その中央の光に向かえば無事に港に着けるという』。「日の入りのお灯明行事」。『北前船の船乗りに伝承された船中儀礼で、航海安全などを祈るために焼火権現へ灯火を捧げる神事。「カシキ」と呼ばれる』十三歳から十五~十六歳の『最年少の乗組員が担当し、日の入りの時刻になると』、『船尾で炊きたての飯を焼火権現に供え、「オドーミョー(お灯明)、オキノ国タクシ権現様にたむけます」と唱えながら』二『尺程度の稲または麦の藁束で作った松明を時計回りに』三『回振り回してから海へ投げ入れ、火がすぐに消えれば雨が近く、煙がしばらく海面を這えば風が出ると占ったといい』、『しかも』、『この神事を行う船乗り達は隠岐の島への就航の経験がなく、従って「オキノ国タクシ権現様」がどこのどのような神かも知らなかったという』。『なお、上述広重や北斎の描いた浮世絵は北前船におけるお灯明行事の光景である』。「銭守り」。『焼火権現から授与され、水難除けの護符として船乗りに重宝された。かつては山上に』一『つの壺があり、そこに』二『銭を投げ込んでから』一『銭を取って護符とする例で、増える一方である筈なのに』、『決して溢れることはなかったという』。『近世には松江藩の江戸屋敷を通じて江戸でも頒布されたため、江戸の玩銭目録である『板児録』にも記載されるほど著名となり、神社所蔵の』天保一三(一八四二)年十二月の『「年中御札守員数」という記録によれば、年間締めて』七千九百『銅もの「神銭」が授与されていたという』とある。なお、私の小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (七)も是非、参照されたい。小泉八雲が隠岐を愛したように、私も隠岐が好きだ。七年前にただ一度行っただけだけれど。

 

「三保の浦」不詳。しかし、これはどうみても、焼火山を見て、左(西)に廻り込んで、東北へ貫入する西ノ島町美田湾、「美田の浦」の誤りとしか思われない。

 

「大山權現」先の大山神社。]

2018/07/07

諸國里人談卷之三 橋立龍

 

    ○橋立龍(はしだてのりう)

 

丹後國與謝郡(よさのこほり)天橋立に、毎月十六日夜半のころ、丑寅の沖より、龍燈、現じ、文殊堂の方にうかみよる。堂の前に一樹の松あり。これを「龍燈の松」といふ。また、正・五・九月の十六日の夜に、空より、一燈、くだる。是を「天燈」といふなり。また、一火あり。是を「伊勢の御燈(ごとう)」といふ。○切戶文珠(きれともんじゆ)は海中より出現、閣浮檀金(えんぶだごん)の像なり。「拾芥抄(しうかいしやう)」云〔いはく〕、『智恩寺は、丹後九世戶(くせど)の文珠、天龍、六斉、供(けう)燈明。」とあり。松並の林、海中へさし出〔いで〕たり。東西二里、南北二町あまり、北より南へさして入海なり。舩にて渡る。その間、四町餘あり。尤(もつとも)佳景の地、日本三景の其一つ也。

「夫木」               好忠

 よさの海内外(うちと)の濱にうらさびてうき世をわたるあまのはし立

[やぶちゃん注:①②③総て標題同じ。吉川弘文館随筆大成版は「橋立龍燈」とする。甚だ不審。

「丑寅」東北。

「文殊堂」現在の京都府宮津市天橋立文珠小字切戸(きれと)、「天橋立」の南側の海岸にある臨済宗天橋山(てんきょうざん)(または「五台山」とも称する)智恩寺(ここは「切戸の文殊」「九世戸(くせど)の文殊」「知恵の文殊」などとも呼ばれる。ここ(グーグル・マップ・データ))の本尊を祀る文殊堂(本堂)。現在のものは明暦三(一六五七)年改修のものであるから、菊岡沾凉(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)が生きた時代にはもう今のものである。以上の怪火(と言うよりは龍が文殊菩薩に捧げる神聖な冒頭の火)現象は本寺に伝わる天橋立(人来臨譚。本条の「天燈」)の生成と文殊信仰(神の導師とされる)との関係が神話的に述べられいる「九世戸縁起」に基づくものである(この説話を元に書かれたのが謡曲「九世戸」(作者未詳)や世阿弥の「丹後物狂」)。サイト「謡曲の統計学」の「天橋立・智恩寺〈九世戸・丹後物狂〉」がそれらをよく纏めておられ、理解し易い。ご覧あれ。

「正・五・九月の十六日の夜」ウィキの「龍燈」によれば、『柳田國男は、「龍灯」は水辺の怪火を意味する漢語で、日本において自然の発火現象を説明するために、これを龍神が特定の期日に特定の松や杉に灯火を献じるという伝説が発生したとし、その期日が多く祖霊を迎えてこれを祀り再び送り出す期日と一致することから、この伝説の起源は現世を訪れる祖霊を迎えるために、その目印として高木の梢に掲げた灯火であろうと説き、更に左義長や柱松も同じ思想を持つものと説』いている(「龍燈松伝説」。初出は大正四(一九一五)年六月発行の『郷土研究』)が、『この説に反論する形で南方熊楠は、龍灯伝説の起源はインドにあり、自然の発火現象を人心を帰依せしめんとした僧侶が神秘であると説くようになって、後には人工的にこれを発生させる方法をも編みだしたが』(注に『ここで南方は柳田を揶揄する形で、自分の陰嚢の影が龍灯のように樹上に懸かった実例(?)を持ち出す』とある)、『それが海中から現れ』、『空中に漂う怪火を龍神の灯火とする伝承があった中国に伝わって習合し、更に中国に渡った僧侶によって日本に伝来、同様の現象を説明するようになったものであるとし、また左義長や柱松は火熱の力で凶災を避けるもの、龍灯は火の光を宗教的に説明したもので、熱と光という火に期待する効用を異にした習俗であると説』いている(「龍燈について」。初出は大正五(一九一六)年十二月発行の『郷土研究』)。私は熊楠に軍配を挙げる。

「伊勢の御燈」それにしても日本神話の神々に天照大神・文殊菩薩・龍神とは豪華オール・スター・キャストだね、この話。豪勢に火も燃えるわけだわ。

「閣浮檀金(えんぶだごん)」サンスクリット語の漢音写で、仏教の経典中にしばしば見られる想像上の「金」の名。その色は紫を帯びた赤黄色で、金のなかで最も優れたものとされる。経典に現われる香酔山の南、雪山の北に位置し、無熱池の畔(ほとり)にある閻浮樹林を流れる川から採取されることから、この名称があるとされる。

「拾芥抄」(しゅうがいしょう)は中世に書かれた類書(百科事典)。全三巻。ウィキの「拾芥抄」によれば、『古くは南北朝時代の洞院公賢が著者、子孫の実熙が増補したとされてきたが』、永仁二(一二九四)年(これは公賢未だ四歳の年である)に『書写された『本朝書籍目録』写本に「拾芥抄」の名が見られることから、今日では鎌倉時代中期には原型が成立し、暦応年間に洞院公賢がそれを増補・校訂したと考えられている。現存本は『口遊』・『二中歴』などの先行の書物の流れを引き継ぎ、歳時以下、経史、和歌、風俗、百官、年中行事など公家社会に必要な知識を中心とした』九十九部『及び「宮城指図」「八省指図」「東西京図」などの地図・図面類を多数含んでいる』。「源氏物語」については、『その巻名目録に現行の』五十四『帖に含まれない』「桜人」の『巻を挙げるなど』、『独自の記述を有している』。『現存最古の写本は室町時代初期のものと推定されている東京大学史料編纂所所蔵の残欠本で』、現在、『重要文化財に指定されているほか、室町時代から戦国時代にかけての写本が多数現存し、江戸時代には慶長活字本などたびたび刊行された』とある。

「六斉」一ヶ月のうち、日を六回、事前に定めておき、定期的に事を行うこと。また、その日のことか。

「東西二里、南北二町あまり、北より南へさして入海なり」東西七キロ八百五十四メートル、南北二百十八メートル。この数値はどこをどう測っているのか判らない、「入海」である宮津湾(橋立の外洋側)の、北東湾口から橋立南西端位置までの距離ならそれに近いが、天橋立を知らない読者は百人中百人がこれを「天橋立」の長さだと思うであろう。因みに、現在の「天橋立」は全長約三・六キロメートル、幅は約二十~百七十メートルである。幅は時代の違いによって許せる範囲であるが、長さは北の陸地部分や南の近接海岸部を算入しても、四キロメートルに満たない。頗る不審である。或いはと橋立と宮津湾を完全に横切るドンブリ勘定か。しかし、それでも「二里」は長過ぎるし、逆に阿蘇海の湾奧でも「南北二町」は短過ぎる。お手上げ。

「舩にて渡る。その間、四町餘あり」「四町」は四百三十六メートル。これもよく判らない。船で渡るのは、現在の智恩寺の東にある小橋立を経ずに大橋立に渡ることしか考えられないが、例えば、智恩寺の側にある橋立観光船の船着き場から大橋立までは直線で百五十メートルもない。阿蘇湾に流れ込む海流に乗って渡るとして考えると、或いは小橋立のずっと南方向の、対岸陸側にある「涙ヶ磯」(先の能「丹後物狂」に登場する場所)の北西直近辺りから小舟を出せば、この距離にはなる

「日本三景」後の二つは現在の宮城県宮城郡松島町を中心とした多島海である「松島」海域と、広島県廿日市市にある厳島神社を中心とした宮島(厳島)周辺。ウィキの「日本三景によれば、『江戸時代前期の儒学者・林春斎が』、寛永二〇(一六四三)年に『執筆した著書『日本国事跡考』の陸奥国のくだりにおいて、「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立・安藝嚴嶋爲三處奇觀』『」(句読点等は筆者付記)と書き記した』の『を端緒に「日本三景」という括りが始まったとされる』とし、『その後』の元禄二年閏一月二十八日(一六八九年三月十九日)に『天橋立を訪れた儒学者・貝原益軒が、その著書『己巳紀行』(きしきこう)の中の丹波丹後若狭紀行において、天橋立を「日本の三景の一とするも宜也」と記して』おり、『これが「日本三景」という言葉の文献上の初出とされ、益軒が訪れる以前から「日本三景」が一般に知られた括りであったと推定されている』とある。それぞれ、本書刊行(寛保三(一七四三)年)の百年前と五十四年前に当たる

「よさの海内外(うちと)の濱にうらさびてうき世をわたるあまのはし立」「夫木和歌抄」の巻二十三の「雜五」に載る曾禰好忠(そねのよしただ 延長元(九百二十三)年頃?~?:平安中期の歌人。「曾根」とも書く。丹後掾(たんごのじょう)であったため、「曾丹(そたん)」と呼ばれた。歌人としては優れていが、性格上、偏屈な面があったことから、不遇な生涯を送った。歌風は古語や俗語を取入れたり、新奇な語法を用いたりした清新さに満ちたもので、受領層歌人の生活感情を連作によって提示する「百首歌」を創始した。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に九十首近くが入集している。歌界に新風を吹込んだ功績は和泉式部とともに高く評価され、歌風は源俊頼らによって継承された。ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)の一首。「好忠集」では以下の前書と後の添え書きを持つ。

   圓融院の御子(おほんね)の日に、
   召しなくて参りて、さいなまれて、
   又の日、奉りける

 與謝の海の内外の濱のうら寂びて世をうきわたる天の橋立

     と名を高砂の松なれど身はうしまどに
     よする白波のたづきありせばすべらぎ
     の大宮人となりもしなましの心にかな
     ふ身なりせば何をかねたる命とかしる。

「御子の日」ここは「子の日の御遊(おあそ)び」のこと。平安時代、正月の最初の子の日に、貴族が行った物見遊山。「小松引き」(小松の根を引き抜遊び)や「若菜摘み」などが行われた。これらは年頭に当たり、松の寿を身に移したり、若菜の羮(あつもの)を食して邪気を払おうとしたものと考えられている。「與謝の海」は天橋立の砂州で区切られた潟湖である阿蘇海の旧称。「内外の濱の」までが「うら」を引き出すための序詞的用法だが、それが普通の序詞のようには無効にはならず、そのまま生きてうら寂しい橋立の景が表の絵となっているのは上手い。「海」「濱」「うら」「うき」「わたる」「天の橋立」は縁語である。「世をうきわたる」は辛い思いをしつつ、この世を生きてゆかねばならぬで、「うき」は「浮き」と「憂き」の掛詞。水垣サイト「とうた」の「曾禰好忠の本歌の「補記」に、『寛和元年の円融院紫野行幸での子の日遊びの行事に、召されもしなかった好忠が推参し、追い払われた翌日、朝廷に奉った歌。歌に続く「と名を高砂の…」以下の文章には、「橋立と名を高砂の松なれど身は牛窓によする白波」「白波のたづきありせばすべらぎの大宮人となりもしなまし」「死なましの心にかなふ身なりせば何をかねたる命とか知る」という歌三首が埋め込まれている』とある。この三首は、尻取り的な形の歌になっている。「高砂の松」は現在の兵庫県高砂市高砂神社境内にある相生(あいおい)の松であるが、ここはその歌枕を「子の日遊び」の「小松引き」に通わせ、さらに名「高い」に掛けたものであろう。「牛窓」は岡山の古くから風待ち港と知られた湊で、ここはさらに「牛」に「憂し」を掛けている。「白波」は苦海の世渡りする(「たづき」する)ことの漠然とした障害のように見えるが、実際には好忠を軽蔑し、昇進を認めない朝廷(高官)の権力をシンボライズしたもののようにも読めなくもない。そんな奴らによい「たづき」(コネ。人脈のパイプ)がないから昇進も出来ないというのではなかろうか。「かねたる」は「しようとして躊躇してしまう」の意で、ここは強烈な自己卑下の反語。]

大和本草卷之八 草之四 鹿角菜(ツノマタ)及び海藻総論後記 / 大和本草卷之八 草之四~完遂

 

鹿角菜 本草水菜ニ載ス大寒無毒解熱然𪜈性不

 良其形鹿角ニ似テ小ナリ海中岩間ニ生ス乾シ收

 メ用ル時水ニ浸シ醋ニ和乄食フ

[やぶちゃん注:以上の「鹿角菜」ここで終わり、以下の二字下げ部分は海藻類全般についての益軒の感想と後記が続く。書き下し文ではここにアスタリスクを挿入した。]

  本草所載水草苔類不過于十餘品無海草門

  凡本草載諸海産甚略矣本邦海中所産藻苔

  之類各處土地ニヨリ異品多シ窮知リカタシ不可

  枚擧凶年ニハ貧民海草ヲ取食ヒ飢ヲ助クル事山

  蔬ニマサレリ海草ノ民用ニ利アル事亦大ナル哉然

  海草之性皆寒冷滑泄能傷脾胃伐發生之氣

  脾胃虛冷之人不可食又海草有蟲子之毒者

  不可食

大和本草卷之八[やぶちゃん注:終りを意味する柱。書き下し文では省略した。]

○やぶちゃんの書き下し文

「鹿角菜(ツノマタ)」 「本草」は「水菜」に載す。大寒。毒、無し。熱を解す。然れども、性、良からず。其の形、鹿の角に似て、小なり。海中の岩間に生ず。乾し收め、用ふる時、水に浸し、醋に和して食ふ。

   *

「本草」〔の〕載する所の水草・苔の類、十餘品の過ぎず、海草門、無し。凡そ「本草」は諸海産を載すること、甚だ略せり。本邦の海中、産する所の藻・苔〔(のり)〕の類ひ、各處、土地により、異品、多し。窮め知りがたし、枚擧すべからず。凶年には、貧民、海草を取り食ひ、飢〔(うゑ)〕を助くる事。山蔬〔(さんそ)〕にまされり。海草の民用に利ある事、亦、大なるかな。然〔(しか)れども〕、海草の性〔(しやう)〕、皆、寒冷・滑泄〔(かつせつ)にして〕、能く脾胃〔(ひい)〕を傷〔つけ〕、發生の氣を伐〔(た)〕つ。〔ゆゑに〕脾胃虛冷の人、食ふべからず。又、海草、蟲-子〔(むし)〕の毒有るは、食ふべからず。

[やぶちゃん注:「鹿角菜(ツノマタ)」は紅藻植物門紅藻綱真性紅藻亜綱スギノリ目スギノリ科ツノマタ属ツノマタ Chondrus ocellatus。田中次郎著「日本の海藻 基本284」によれば、属名Chondrus は「軟骨質の」、種小名 ocellatus は「角叉」の意。ツノマタ属は本邦では八種が知られており(但し、鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」のスギノリ目のページを見ると、何と、二十一種も挙げらてある。当該サイトは日本産海藻リストである)、形状が近似し、それらも多くは食用とされるから、益軒のこれはそれらも総て含むと考えた方がよいだろう。田中氏によれば、『潮間帯下部に生育する代表的な紅藻である。体色は七変化』で、『緑、青、紫、赤などの色合いのものがある。基本的には広い枝が二叉分枝する。枝はねじれることが多い。高血圧などの民間薬の原藻としても知られ』、『カラギーナン寒天としても食されることが多い。汁の実や刺身のつまにも使われる。また漆喰の糊料としても有名である』とある。最後なので、今まで盛んに参考にさせて戴いた鈴木雅大氏のサイトの、ツノマタのページもリンクさせておく。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のツノマタのページによれば、和名「ツノマタ(角又)」は『鹿の角のように股状になっているところから』の呼称で、『ツノマタを食用としている地域は少なく、主に壁土に入れる、石けんなどとして利用していた』。『食用としている地域で有名なのは、千葉県銚子市、茨城県鹿嶋市などで、コトジツノマタ』(コトジツノマタ(琴柱角叉)Chondrus elatus鈴木雅大氏のサイトのコトジツノマタのページも参照されたい)や『ツノマタを煮溶かして固めて食べ』、『これを海藻』・『海草』と称し、『千葉県銚子市、茨城県神栖市でコトジツノマタ、ツノマタをブレンドして煮溶かしてコンニャク状に固めたもの』を指すという。『海藻らしい風味が楽しめて、なかなか美味』とある。先の鈴木雅大氏のサイトのコトジツノマタのページで現物が見られる。涎が出てきた。

「本草」「本草綱目」の巻十九の「草之八」には海藻は「海藻」・「海蘊」・「海帶」・「昆布」・「越王余」・「石帆」・「水松」の七つしか載らず、巻二十一の「草之十」を見ても海苔を乾した「乾苔」が載る程度で、益軒の「十餘品」というのが他に何を指しているのかはよく判らない。他の項に分散して出るか。判明したら、追記する。

「海草門、無し」海藻(或いは顕花植物としての海草)の部立がないことを言う。

「山蔬〔(さんそ)〕」山菜。

「滑泄」既出既注。漢方の症状としては激しい下痢の水様便を指すが、ここは便をそうした状態にしてしまう性質の意であろう。

「脾胃」既出既注。漢方では広く胃腸、消化器系を指す語である。

「發生の氣を伐〔(た)〕つ」漢方では人体も自然界の春と同様に、人体内で生気が発生する、起ると考えるから、そのメカニズムが致命的に断たれるということであろう。

「脾胃虛冷の人」既出既注。虚弱体質、或いは、体温が有意に低下するような疾患に罹っている人、或いは、消化器系疾患等によって衰弱している人。

「海草、蟲-子〔(むし)〕の毒有るは、食ふべからず」「蟲子」は虫のことであるから、海藻に虫が寄生し、そのために毒化しているものがあるから、それは食ってはいけない、というのであろう。海藻類に寄生する生物(博物学的な意味での虫類)としては、節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類(代表種はワレカラ科ワレカラ属マルエラワレカラCaprella acutifrons・トゲワレカラ Caprella scaura・スベスベワレカラ Caprella glabra など。大和本草卷之十四 水蟲 介類 ワレカラを参照されたい)や甲殻亜門マルチクラスタケア上綱Multicrustacea Hexanauplia 綱橈脚(カイアシ)亜綱 Copepoda に属するコペポーダ類の中の葉上性カイアシ類(強酸アミジグサに生活する葉上性カイアシ類が参考になる。藻体をかじったり、汚損させたりする害虫としては認識されており、海産で本邦には三十種はいるらしい)等がいるが、これらが人体に有害な毒性を持つという話は聴いたことがない。プランクトン食をするそれらの中に有毒な種がいる可能性は否定は出来ないが、ワレカラヤカイアシ類が付着した海藻で食中毒を起こしたというようなケースは私の知る限りでは報告されていないと思う。寧ろ、何遍も注した通り、オゴノリ類の中毒死亡例が複数あること、それを説明するとされる、prostaglandin E2(プロスタグランジンE2)摂取に始まる人体内機序の例や、ハワイで発生したオゴノリ食中毒の要因研究の過程で疑われているアプリシアトキシン aplysiatoxin という消化管出血を引き起こす自然毒(これは単細胞藻類である真正細菌 Bacteria 藍色植物門 Cyanophyta の藍藻(シアノバクテリアCyanobacteria)が細胞内で生産する猛毒成分)といった物質やそれを含んだ藻類が付着した海藻を知らずに摂取する結果として中毒が起こることはあり得るし、海産中毒や死亡例では原因が不明なケースもある。古くから食べられてきた種でも、海域が廃棄物によって汚染されているものもある。危きは口にせず、は悲しいが、しょうがない。

 残す水族の本文は巻十三の魚類のみ。但し、「附錄」と「大諸品圖下」がまだある。]

 

大和本草卷之八 草之四 コモ (考証の末に「アカモク」に同定)

 

【和品】

コモ 細莖長ク乄穗ノ如クナル小キニシテ丸キ物多クツケ

 リタヽキテ羹トスホタハラニ似タリ又菰ハ水草ナリ別ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「コモ」 細莖、長くして、穗のごとくなる小さきにして丸き物、多くつけり。たたきて羹〔(あつもの)〕とす。「ホタハラ」に似たり。又、菰〔(こも)〕は水草〔(みづくさ)〕なり。別なり。

[やぶちゃん注:「コモ」という和名の海藻は現行では見当たらない。しかし、

①茎が有意に細長い(ということは藻体全体が有意に長いと言い換えてよいであろう)。

②極めて特徴的な小さな穂のような丸いものが、数多く藻体に形成されている。

③「ホタハラ」=ホンダワラに似ている。

④敲いて味噌汁のタネとする。

というからには、

褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae

或いは同科の

ホンダワラ属 Sargassum

の仲間である(とまず考えてよいのではないかと思った。

 その中でも、私が最初に想起したのは、

長さ三~五センチメートルにも達する、ホンダワラ属の中でも最も巨大な雌性雄性の生殖附属器の枝を持つ(

褐藻綱ヒバマタ亜綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属バクトロフィクス亜属 Bactrophycus スポンゴカルプス節 Spongocarpus アカモク(赤藻屑)Sargassum horneri

であった。鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」のアカモクのページによれば、益軒の言うように、『雄性生殖器床は細い円柱形』で、『雌性生殖器床は雄よりも太い円柱形』を成し、『気胞は円柱形で細長い形態をしてい』るとあるのである。さらに鈴木氏は、

   《引用開始》

アカモクはコンブ類に匹敵するほど大型になる海藻ですが,その大きさについては様々な説が飛び交っています。一般的には3-5 m位と考えられていますが,日本海のように透明度の高い条件では「30 mを超えるアカモクの大森林がある」という話もあります。さすがに30 mは言い過ぎと思わなくもないですが,5 mを超える個体があるのは確かで,ホンダワラ属の中でも群を抜いて大きくなる種です。海藻の大きさの記録を取るのは難しく,「世界一」,「日本一」と安易に決定することは出来ませんが,現在日本の海藻の中で最長と考えられているナガコンブ(Saccharina longissima,注)に次ぐか匹敵する大きさの海藻と言えるかもしれません。公式には何mとなるのか,気になるところです。

注.ナガコンブは通常210 m,最大で20 mに達すると言われています。

   《引用終了》

と記されておられるのは、本種が有意に長大に成り、それは本邦産海藻類で最長の種に入る可能性を持つ()ことを明らかにされておられるのである。事実、田中次郎著「日本の海藻 基本284」の「アカモク」は『長さ 10m を超す個体もよく見られる』とあるのである。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のアカモクのページによれば、『食べる地域と食べない地域にくっきり分かれる海藻』で、『日本海富山県、新潟県、山形県、秋田県などでは盛んに食べている』とあり、『生殖器床が顕著になった時期にゆでると』、『ネバリが出る。これを摘み取り、湯通しして、醤油、酢みそ、七味唐辛子などで食べる』とし、味噌汁については、『水洗いしたアカモクを適宜に切り、カツオ節だし、煮干しだしなどに入れてみそを溶く。簡単にできて』、『とても味のいいみそ汁になる』とあるのである(。なお、「あかもく(赤藻屑)」という和名については、『暖かくなると』、『切れて海上を藻屑となって漂うため』とそこにある。

 これでもうキマリであろう。

「菰〔(こも)〕は水草〔(みづくさ)〕なり。別なり」単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae Oryzeae 族マコモ属マコモ Zizania latifoliaウィキの「マコモによれば、『東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行』である。]

大和本草卷之八 草之四 奥津海苔(〔オクツ〕ノリ) (興津海苔(オキツノリ)の誤り)

 

【和品】

奥津海苔 廣六七分或七八分長五六七寸許頗

 厚可食紫色水ニ洗ヒ曝日則變爲黄白色駿州奥

 津ニアリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「奥津海苔(〔オクツ〕ノリ)」 廣さ、六、七分、或いは、七、八分。長さ、五、六、七寸許〔(ばか)〕り。頗〔(すこぶ)〕る厚し。食ふべし。紫色なり。水に洗ひ、日に曝〔(さら)さば〕、則ち、變じて、黄白色と爲る。駿州奥津にあり。

[やぶちゃん注:二箇所の「奥津」はママであるが、「興津」(現在の静岡県静岡市清水区興津(おきつ)。(グーグル・マップ・データ)。清水港の北直近)の誤りである。古くから海産物で知られる。

紅藻綱カギノリ目オキツノリ科オキツノリ属オキツノリ Ahnfeltiopsis flabelliformis

である。。鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」のオイキツノリのページで藻体を見られたい。田中次郎著「日本の海藻 基本284」によれば、興津だけでなく、日本各地潮間帯下部やタイド・プールにしばしば優先種として繁茂する。高さは三~八センチメートル、茎幅は一・五~二ミリメートルで、一枚一枚は『平面状に広がるが、それらが重なり合って半円球状になって生育して』おり、『暗紅色で』、『規則的に二叉分枝する』とある。因みに、形の良さから、刺身のツマとして使われることはあるが、現行では、主に質が固いために食用としては認知されていない。]

大和本草卷之八 草之四 海薀(モヅク)

 

海薀 本草時珍云縕亂絲也其葉似之故名正月

 取タルハワカク柔ニ乄良シ鹽ニ淹セハ久ニ堪フ薑醋ニ

 テ食フ性冷利食物本草所載苔菜ヲ向井氏ハモツ

 クナルヘシト云ヘリ食物本草曰苔菜生海中浮波面其

 形縷々線ノ如シ鹽醋ニ拌食ス味淸鮮トイヘリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

「海薀(モヅク) 「本草」〔に〕時珍〔が〕云はく、『縕は亂絲なり。其の葉、之れに似る。故に名づく。』〔と〕。正月に取りたるは、わかく、柔〔(やはらか)〕にして、良し。鹽に淹〔(ひた)〕せば、久〔(ひさ)〕に堪ふ。薑醋〔(しやうがず)〕にて食ふ。性、冷利なり。「食物本草」載する所の「苔菜〔(たいさい)〕」を、向井氏は『「モヅク」なるべし。』と云へり。「食物本草」に曰はく、『苔菜は海中に生じ、波の面に浮ぶ。其の形、縷々〔(るる)として〕線(いとすぢ)のごとし。鹽醋〔(しほず)〕に拌〔(ま)〕ぜ、食す。味、淸鮮。』といへり。

[やぶちゃん注:「モズク」は「水雲」「海蘊」等と漢字表記し、そのままの標準和名種は

褐藻綱ヒバマタ亜綱シオミドロ目ナガマツモ科モズク属モズク Nemacystus decipiens

で、他にナガマツモ科Chordariaceaeに属するモズク類の総称であるが、本邦で食用として流通している「モズク」は、上記の真正の「モズク」ではなく、

ナガマツモ科イシモズク属イシモズクSphaerotrichia divaricate

ナガマツモ科オキナワモズク属オキナワモズク Cladosiphon okamuranus

とが九割以上を占めている。しかし、私には一九八〇年代まではモズクかイシモズクが「モズク」であり、今はなき大船の沖繩料理店「むんじゅる」でオキナワモズクを初めて食した際には、私には「このモズクでないモズクに少し似た太い別種の海藻を食品名としてかく命名した者は大きな誤りを犯している」(と私は心底そう感じた)と、その後も長く思い込んでいたものであった。また、これほどオキナワモズクが「モズク」として席捲するとも思っていなかった(私は沖繩を愛すること、人後に落ちないつもりであが、こと、モズクに関して言えば、あの「オキナワモズク」を「モズク」と呼称することについては、私の『味覚・食感記憶』が今も強い違和感を覚えさせるのである。但し、オキナワモズクの天ぷらは美味い)。イシモズクもいやに黒々して歯応えも硬過ぎる気がして、やはり「モズク」と呼称したくないのが、正直な気持ちである。但し、現在、沖縄に於いて、全国への流通量が少なくなっていた真正のモズクNemacystus decipiens(奇異なことに「オキナワムズク」を「モズク」と呼称するようになってしまい、本来の真正モズクであるそれが流通名で「イトモズク」とか「キヌモズク」とか呼ばれるようになってしまったのは著しく不当であると考えている)の養殖が行われており、商品として沖繩産でありながら『おや? これはオキナワモズクではないぞ? 「モズク」だぞ!』と感じさせるものが出回るようになったのは嬉しい限りである(それがまた沖繩産であることも快哉を叫びたい)。一般にはモズク Nemacystus decipiens 等が同じ褐藻綱のホンダワラ(ヒバマタ目ホンダワラSargassum fulvellum)等に付着することから、「藻に付く」「もつく」となったのが語源とされるが、実は我々の知る上記のオキナワモズク・イシモズクは他の藻に絡みつかず、岩石に着生するのである(されば和名語源から言えばオキナワモズクとイシモズクはモズクに非ずということになるのである)。なお、本邦には他に、

イシモズク属クサモズク Sphaerotrichia divaricata(食用)

モズク科フトモズク属フトモズク Tinocladia crassa(食用。鈴木雅大氏サイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」のフトモズクのページによれば、加藤氏の採取したものには、高さ三十~四十センチメートル、主軸直径一センチメートルにも及ぶものがあるとされる。リンク先に写真有り)

ニセモズク科ニセモズク属ニセモズク Acrothrix pacifica(ヒバマタ亜綱コンブ目ツルモ属ツルモ Chorda asiatica に着生。薬剤素材となっているから、食用は可能と思われる)

等の近縁種がいる。なお、鈴木氏は先のサイトのクサモズクのページで、クサモズク Sphaerotrichia divaricata 『個人的には最も美味しいモズクの仲間』とされておられる。岩手に行ったら、入手するぞ!

『「本草」〔に〕時珍〔が〕云はく、『縕は亂絲なり。其の葉、之れに似る。故に名づく。』〔と〕』「本草綱目」「草之八」の「海蘊」は全体が短い。

   *

海薀【溫・縕・、三音。「拾遺」。】

校正自草部移入此。

釋名時珍曰、「縕亂絲也。其葉似之故名。」。

氣味鹹、寒。無毒。

主治癭瘤結氣在間下水【藏器】。主水廕【蘇頌。】。

この時珍の「海薀」の「薀」の「縕」は「亂絲」の意と記すが、これ、よく意味が判らないのだが、「縕」は実は麻(バラ目アサ科アサ属 Cannabis。或いはカンナビス・サティバ(大麻草)Cannabis sativa を指す。だから、これはアサ類の葉っぱに似ているという意味であろう。しかし、この「縕」の字自体に派生的な「水草」(淡水産顕花植物)の意があり、「マツモ」や「キンギョモ」を指し、これまた、「マツモ」が実は狭義の双子葉植物綱スイレン目マツモ科マツモ Ceratophyllum demersum var.demersum を指すに留まらないこと、同様に「金魚藻」と呼称される種も極めて多種多様な水草群を含んでいること等から、混迷を極めてしまうので、この話はここまでとしておく。なお、モズク Nemacystus decipiensという学名もこれ、属名がギリシャ語の「Nema」(糸)と「cystus」(嚢)の合成で、種小名は「虚偽の・欺瞞の」という意味なのである。

「鹽に淹〔(ひた)〕せば、久〔(ひさ)〕に堪ふ」塩に漬けて塩蔵すれば、永く保存に耐える。

「食物本草」元の李東垣の著(但し、出版は明代の一六一〇年)になる「東垣食物本草」であろう。

「薑醋〔(しやうがず)〕」生姜酢。

「冷利」冷たくすっきりした食感を指すのではなく、漢方で体温を速やかに下げるの意であろう。

「向井氏」本草学者で医師の向井元升(げんしょう 慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年)であろう。ウィキの「向井元升」によれば、『肥前国に生まれ』で五『歳で父、兼義とともに長崎に出て、医学を独学し』、二十二『歳で医師となる』。慶安四(一六五一)年、ポルトガルの棄教した宣教師クリストファン・フェレイラの訳稿を元に天文書『乾坤弁説』を著し』、承応三(一六五四)年には『幕命により、蘭館医ヨアン(Hans Joan)から通詞とともに聞き取り編集した、『紅毛流外科秘要』』全五『巻をまとめた』。万治元(千六百五十八)年、『家族と京都に出て医師を開業した』。寛文一一(一六七一)年、『加賀藩主前田綱紀の依頼により『庖厨備用倭名本草』を著した。『庖厨備用倭名本草』は、中国・元の李東垣の『東垣食物本草』などから食品』四百六十『種を撰び、倭名、形状、食性能毒等を加えたものである』。なお、彼の『次男は俳人の向井去来』である。ここで『向井氏は『「モヅク」なるべし。』と云へり』というのは、この「庖厨備用倭名本草」に書かれている。幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションの「庖厨備用倭名本草」第三巻の画像で当該部「苔菜(タイサイ/右ルビ:モヅク/左ルビ)」を探し当てることが出来た。である。そこで向井は「モヅクなるべし」という推定ではなく、「元升曰此ノ説ヲミレハ今俗ニ云モヅク也」と断定している。但し、「東垣食物本草」の原典に当たることが出来ないので私はこの李東垣の『苔菜は海中に生じ、波の面に浮ぶ。其の形、縷々〔(るる)として〕線(いとすぢ)のごとし。鹽醋〔(しほず)〕に拌〔(ま)〕ぜ、食す。味、淸鮮』という見解(しかし「苔菜」という呼び名を除けば、確かにこれはモズクの記載としてしっくりはくる)及びそれに基づく向井及び貝原の見解、則ち、「苔菜」=「モズク」とする主張への受け入れを留保する。何故なら、李東垣より後の「本草綱目」の巻二十六の「菜之一」の「紫」の異名に「苔菜」が出るのであるが、本文を見ると、水辺に植生するとあるものの、それは淡水で「海中」の文字は全くなく、しかも植生するのは水の中ではない。しかもこの「紫」とは現在のキンポウゲ目ケシ科キケマン属ムラサキケマン Corydalis incisa か、その近縁種を指すように思われ、同項目前も「堇」で、これは明らかに陸生植物であるからである。]

2018/07/06

大和本草卷之八 草之四 鮫皮苔(サメノリ) (フダラク?)

 

【和品】

鮫皮苔 ヨコ五分許長二三寸靑色ナリ鮫皮ノ如クナル

 星多クシテ其處少高シ「經ノ紐」ヨリヨシ稀有ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「鮫皮苔(サメノリ)」 よこ、五分許り。長さ、二、三寸。靑色なり。鮫皮のごとくなる星、多くして、其の處、少し高し。「經ノ紐」より、よし。稀有〔(けう)〕なり。

[やぶちゃん注:この名では判らぬ。しかし、

①名にし負う「鮫皮のごとくなる星、多くして、其の處、少し高」くなっていると叙述。

②全体は「靑色」(緑色?)を呈すること。

③『「經ノ紐」より、よし』(食って美味いの意であろう)という叙述から或いは紅藻植物門真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イソノハナ目ムカデノリ科マタボウ属キョウノヒモ Polyopes lancifolius との近縁関係があるかも知れないこと。

そう簡単には見つからないということは潮間帯下部以深に植生する可能性が高いこと。

などを頼りに図鑑や画像を見て行くと、有力な一つの候補として、私は

真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イソノハナ目ムカデノリ科タンバノリ属フダラク Pachymeniopsis lanceolate

に眼が止まった。「ふだらく」は「補陀落」ではなく(それに掛けた可能性はないとは言えないようには思うのだが)、田中次郎著「日本の海藻 基本284」によれば、『成熟してくると表面に胞子囊の集まりである大きな斑(ふ)が入ることが多い。そこから「斑(ふ)」だらけ」と呼ばれ、転じて和名がつけられた』とあり、同種は潮間帯下部から潮下帯を棲息域とする。さらに鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌(Natural History of Algae and Protists)」の同種のページを見て戴きたいのだが、上から四・五・六枚目の写真を見ると、はっきりと斑が見える。さらに、何となく鮫の皮っぽい感じがし、鮫肌っぽいブツブツさえ六枚絵目の右端には現認出来る。しかもこの六枚目の写真では、藻の一部が有意に薄緑を呈しているのが判り、田中次郎著「日本の海藻 基本284」の写真でも、薄緑と、かなり濃い青緑の斑(まだら)模様になった藻体写真が載るのである。無論、他の種で候補となりそうなものはまだあるけれど、私としては一つの候補を出せれば満足なので、これまでとする。よりよい同定種があるとなれば、是非、御教授あられたい。]

大和本草卷之八 草之四 經ノヒモ

 

【和品】

經ノヒモ 昆布ニ似テ小也廣二三寸長五六寸ハカリ

 食スレハ脆ク味ヨシ醋ミソニテ食ス

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「經ノヒモ」 昆布に似て小なり。廣さ、二、三寸。長さ、五、六寸ばかり。食すれば、脆く、味、よし。醋〔す〕みそにて食す。

[やぶちゃん注:「經の紐」は「キヤウノヒモ(キョウノヒモ)」で、現在の和名もそのままに、紅藻植物門真正紅藻綱マサゴシバリ亜綱イソノハナ目ムカデノリ科マタボウ属キョウノヒモ Polyopes lancifolius である。「千葉大学海洋バイオシステム研究センター銚子実験場」の「海藻海草標本図鑑」によれば、『からだは扁平で被針形。基部付近は細い円柱状の茎状となる。分枝はするものもしないものもある。生長した個体では縁辺や体表面から小枝をマット状に密生するようになる。細胞層は皮層に小さな球形の細胞が多数並び,皮下層にやや大きな細胞が並ぶ。髄層は糸状細胞からなる。手触りは若い個体では柔らかで滑らかだが』、『老成した個体では軟骨質になり弾力を持つようになる。生体は黄色がかった紅色〜暗紫紅色。押し葉標本は台紙につかない。似たものとしてヒラムカデ』(ムカデノリ科ムカデノリ属ヒラムカデ Grateloupia livida)『やムカデノリ』( ムカデノリ属ムカデノリ Grateloupia asiatica)『があるが』、『ヒラムカデは小枝が少なく』、『押し葉標本は台紙につき』、『ムカデノリは』『表面からの小枝はもたず』、『基部付近に円柱状の部分がみられない。ただし』、『これらは非常に形態変異が激しく』、『小枝をほとんど持たないキョウノヒモや』『細かく分岐したヒラムカデなど』、『典型種とかけはなれたものも多く』、『形態からの判断が非常に難しい事がよくある』とある。田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)によれば、『和名は江戸時代初期には見られるが、由来ははっきりしない』とある。

「昆布に似て」ません!]

大和本草卷之八 草之四 黑ノリ (ウップルイノリ)

 【和品】

黑ノリ 若狹ノ海ニアリ岩ニ生ス臘月ニトル黑クウルハシ

 味ヨシ

 

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「黑ノリ」 若狹の海にあり。岩に生ず。臘月にとる。黑く、うるはし。味、よし。

[やぶちゃん注:「若狹」(日本海中部)という限定性、「岩」海苔、則ち、養殖ではない天然物であること、「臘月」=旧暦十二月に採取すること、呼称から藻体が有意に「黑」いこと、味がよいとすることを綜合すると、私は、

植物界紅藻植物門ウシケノリ綱ウシケノリ目ウシケノリ科アマノリ属ウップルイノリ(十六島海苔)Porphyra pseudolinearis

を挙げるべきかと思う。本種は別称を「クロノリ」とも呼ぶからである。分布と「岩海苔」とすることからは、

アマノリ属ツクシアマノリ(筑紫甘海苔)Porphyra yamadae

も挙げられるが、ツクシアマノリは有意に緑色を呈しており、黒くないので外れる。

 ウルップイノリは多くの方には馴染みのない名前であろうから、私の寺島良安の和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔から、訓読文と私の注を引いておく(原文はリンク先を参照されたい)。

   *

うつぷるいのり

十六島苔

        【宇豆布留伊。】

               附〔(つけた)〕り

                       雪苔

 

按ずるに、此の苔、雲州[やぶちゃん注:出雲。]十六島(うつふる)より出づる。故に名づく。海中の石上に附生す。長さ、二~三尺、幅二寸ばかりにして、細(こまやか)なること、髮のごとく、紫黑色。味【甘、微鹹。】極美なり。國守、海人をして之れを取らしめ、海人、海底に入り、採りて腰帶と爲し上(あが)る。其の得る所の三分が一を海人に賜ふ。最も苔中の珍品と爲す。

 ゆきのり

 雪苔

按ずるに、雪苔は雲州加加浦に、之れ、有り。畧(ちと)「十六島苔」に似て、短く、紫色。冬の雪、石面に雪降りて、乍(たちま)ち、變じて、苔と爲る。之を刮(こそ)げ取る。夏に至りては、則ち貯(たくは)ひ難し。丹後にも亦、之有り。

   *

ウップルイノリは潮間帯上部に生育し、幅が狭く長い。成長したものは長さが約三十センチメートル、幅五センチメートルまで伸長するが、長さ二十センチメートル、幅一~二センチメートルが通常個体である(良安の叙述の長さは後述するように有意に大き過ぎる)。雌雄異株で、秋から一月ぐらいまで岩礁に見られる。北方系の種である。

「十六島」現在の島根県出雲市(以前は平田市であったが、二〇〇五年三月に旧出雲市・平田市・簸川郡佐田町・多伎町・湖陵町・大社町の二市四町が新設合併して新しい「出雲市」となった)十六島町(うっぷるいちょう:(グーグル・マップ・データ))にある十六島湾(うっぷるいわん)を指す。「十六島」という単独の島の名ではない。航空写真で見ると、十六以上の大小様々な島が見える。如何にもアイヌ語の語源を感じさせる地名であるが、これに関しては、「日本古代史とアイヌ語」というサイトの「十六島」に実に緻密で詳細な考察がある。それによれば、アイヌ語で「松の木が多いところ」若しくは「穴や坂や崖の多いところ」という意味である可能性が高いとある。このサイト、震えるほど素晴らしい! 是非、ご覧あれ。

「採りて腰帶と爲し上る」とあるが、アマノリの類いは、上記通り、潮間帯上部に繁茂し、岩礁帯をちまちまと摘むように採取するものと思われる。このように海中に潜水して多量に採取し、更にそれを腰に帯のように巻いて浮上するというのは私には考え難いのである。挿絵から見ても、良安は昆布類の採取と錯誤しているように思われるのだが、如何? 識者の意見を乞う。

「雪苔」ユキノリ これは現在、佐渡島で「イワノリ」の呼称として用いられているのだが、「イワノリ」という呼称自体、広義のウシケノリ科アマノリ属 Porphyra 類の総称として用いられている。なお、ここでの良安が雪から海苔を生ずるという化生説を無批判に採用しているのは驚きである。

「雲州加加浦」は、現在の島根県松江市(以前は八束郡であったが二〇〇五年三月に旧制の松江市が、八束郡に属する鹿島町・島根町・美保関町・八雲村・玉湯町・宍道町・八束町の一市六町一村が合体合併して新しい「松江市」となった)島根町加賀の加賀漁港周辺地域を指すものと思われる。(グーグル・マップ・データ)。]

大和本草卷之八 草之四 於期(ヲゴ)ノリ (オオオゴノリ?)

 

【和品】

於期ノリ 海中石上ニ生ス亂髮ノ如シ靑黑色ナゴヤ

 ヨリ大ニヒシキヨリ小也飯ニ加ヘ食スル事ヒシキノ如ニス

 性滑泄虚冷人不可食發腹痛性不良

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「於期(ヲゴ)ノリ」 海中の石上に生ず。亂髮〔(みだれがみ)〕のごとし。靑黑色。「ナゴヤ」より大〔(だい)〕に、「ヒジキ」より小なり。飯に加へ食する事、「ヒジキ」のごとくす。性、滑泄。虚冷の人、食ふべからず。腹痛を發〔(おこ)〕す。性〔(しやう)〕、不良〔なり〕。

[やぶちゃん注:『「ナゴヤ」より大〔(だい)〕に、「ヒジキ」より小なり』とあるから、紅色植物門紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オオオゴノリGracilaria gigas だろうか?(学名が「デカい」だからと安直だが) 「三重大学藻類学研究室」公式サイト内のオオオゴノリ Gracilaria gigas Harveyによれば、『体は円柱状でひものように長い。枝分かれの仕方はやや規則的な互生または扁生である。枝は短く』、『そのつけねはくびれることが多い』。長さ二十五~三十センチメートル(これはオゴノリ Gracilaria vermiculophylla の標準と変わらない)、直径四~七ミリメートル(これはオゴノリ(一~二ミリメートル)より遙かに太い)『のものが多いが』、『淡水のまざる静かな海ではそれ以上になることもある。体色は肌色または薄い緑色』とあるから、これに比定しておく。なお、同属は毒性が疑われるから、先の心太」ナゴヤ(オゴノリ)」を必ず参照されたい。ここでも益軒の警告は優れていると言える。

「ヒジキ」先の鹿尾菜(ヒジキ)、藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme。そこで記した通り、長さは三十~八十センチメートル、時に一メートルに達するものもある。

「滑泄」漢方の症状としては激しい下痢の水様便を指すが、ここは便をそうした状態にしてしまう性質の意であろう。

「虚冷の人」既出既注であるが、再掲しておく。虚弱体質、或いは、体温が有意に低下するような疾患に罹っている人、或いは、消化器系疾患等によって衰弱している人を指す。

「性〔(しやう)〕、不良〔なり〕」全体的な食としての性質はよろしくない、と言うのである。

大和本草卷之八 草之四 松藻(マツモ)

 

【和品】

松藻 松杉ノ葉ニ似テ靑シ石上ニ生ス生ニテモ乾テモ

 可食

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「松藻(〔マツ〕モ)」 松・杉の葉に似て、靑し。石上に生ず。生〔(なま)〕にても乾〔(ほし)〕ても食ふべし。

[やぶちゃん注:本邦では、褐藻植物門褐藻綱ヒバマタ亜綱イソガワラ目イソガワラ科マツモ属マツモ Analipus japonicus 及びイトマツモ Analipus filiformis・グンジマツモ Analipus gunjii の三種が知られる。田中次郎著「日本の海藻 基本284」(二〇〇四年平凡社刊)によれば、マツモ Analipus japonicus が最大種で、高さ三十~四十センチメートル、枝の直径は一ミリメートルで、『岩上に匍匐』し、『紐が絡まったような形状をした「座」と呼ばれる付着根かの上に直方体ができ』、その『中軸から四方八方へ輪生する短い枝が伸びる。全体として』松『の葉のようになるのでこの名がある。春から夏には食用とする上部の枝が枯れ落ち、座の部分だけが越年する』。『三陸地方の特産種で、現地では大がかりに養殖されて』おり、『生のまま、あるいは乾燥させて板海苔、焼きマツモとして加工して食用とするが、板海苔状のものがとくに多い。その香ばしい香りはまさしく磯のもので、海の珍味として有名である』とある。私も大好物で、焼きマツモがなんとも言えず、美味い。海藻類としてはやや値が張る高級品の一種である。]

大和本草卷之八 草之四 ナゴヤ (オゴノリ)

 

【和品】

ナゴヤ 海藻ニ似テマルシ枝多ク細長シ色靑シ或褐色

 也煮食ス又沸湯ニユヒキテ味曾ニ和乄食ス性アシヽ

 往々發腹痛不可食

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「ナゴヤ」 海藻〔(ナノリソ)〕に似て、まるし。枝、多く、細長し。色、靑し。或いは褐色なり。煮て食す。又、沸湯にゆびきて、味曾〔(みそ)〕に和して食す。性〔(しやう)〕、あしし。往々〔にして〕腹痛を發〔(おこ)〕す。食ふべからず。

[やぶちゃん注:「ナゴヤ」は前に心太」で注した紅色植物門紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla に代表されるオゴノリ科Gracilariaceae のオゴノリ類の九州での方言。本邦産だけでも、オオオゴノリGracilaria gigas・ミゾオゴノリGracilaria incurvata・フシクレオゴノリ Gracilaria salicornia・シラモGracilaria bursa-pastoris・カバノリGracilaria textorii・シンカイカバノリGracilaria sublittoralis等、実に二十種が知られており、普通に刺身のツマとして使用され、食べている(私も好んで総て食う)のであるが、益軒が「性〔(しやう)〕、あしし[やぶちゃん注:「惡しし」。]。往々〔にして〕腹痛を發〔(おこ)〕す。食ふべからず」とまで言い切っているのを不審に思われる方もあるかも知れぬので再掲しておくと、実は、オゴノリと言えば、本邦ではオゴノリ類によると疑われる中毒が数例報告されている。しかも死亡例も複数あり、それらは総てのケースが血圧低下によるショック死で、全員、女性である。それらはみな、オゴノリ類の生食(記載によっては真水につけて刻むともある)によるもので、現在ではその中毒機序は一応、まずは――オゴノリの脂質に含まれるPGE2prostaglandin E2プロスタグランジンE2)摂取が行われ、次に、このPGE2を更に増殖させる酵素の摂取、即ち、刺身などの魚介類の摂取=魚介類に多く含まれる不飽和脂肪酸であるアラキドン酸(Arachidonic acid)の多量供給により、PGE2が摂取者の体内で過剰に生成されたのが原因ではないか――と疑われている。さらに、プロスタグランジン類には主に女性に対して特異的限定的薬理作用を持つものがあり、その子宮口軟化・子宮収縮作用から産婦人科で分娩促進剤として用いられており、更に血圧低下・血管拡張作用等を持つ。低血圧症であったり、若しくは、逆に、高血圧で降圧剤を服用していた女性に、そうした複合的条件が作用し、急激な低血圧症を惹起させたのではないかという推定がなされている。但し、市販されているオゴノリは青色を発色させるために石灰処理を行っており、その過程で以上のような急性薬理活性は完全に消失しているので、全く危険はない。しかし、そうした中毒原因の推理の一方で、その後にハワイで発生したオゴノリ食中毒の要因研究の過程では、その原因の一つにPGE2過剰等ではなく、アプリシアトキシンaplysiatoxinという消化管出血を引き起こす自然毒の存在が浮かび上がってきている。これは単細胞藻類である真正細菌 Bacteria 藍色植物門Cyanophyta の藍藻(シアノバクテリア Cyanobacteria)が細胞内で生産する猛毒成分である。即ち、本邦の死亡例も、オゴノリに該当アプリシアトキシンを生成蓄積した藍藻がたまたま付着しており、オゴノリと一緒に摂取してしまった、とも考えられるのである。ネット上の情報を縦覧する限り、本中毒症状は、未だ十分な解明には至っていないという印象を受けるのである。それにしても、この益軒の記載がそうした極めて数少なかったはずの中毒例の江戸前・中期の記録警告であるとすれば、非常に貴重な記載と言えると私は思う

「海藻〔(ナノリソ)〕に似て」いません!

「沸湯」「ふつたう(ふっとう)」と読んでいるか。

大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ) (ホンダワラの仲間)

 

 

海藻 本草ニノセタリ集解ニイヘル處ナノリソニヨクカナヘリ

 ナノリソト名ツケシ事ハ日本紀允恭帝紀ニ見ヱタリ倭

 俗又神馬藻ト云和名ヲナノリソト云ユヘニ神馬ニハノ

 ル事ナカレト云義ヲ以テ神馬草トカケリ下學集曰神

 功皇后之攻異國時舩中無馬秣取海中之藻飼

 馬故云神馬草也篤信曰此説イマタ出處ヲ見ス神

 馬藻ト書故ニカクノ如ク附會セルナルヘシ是ナノリソト

 名ツケシ日本紀ノ本緣ヲシラスシテ妄ニ云ナリ凡下

 學集ノ説信シカタシ萬葉集第七第十卷ニナノリソヲ

 ヨメリ其老タルヲホダハラト云倭俗正月春盤ノ上ニヲ

 クモノ也海中ニ生ス短キ馬ノ尾ノ如ク細葉如絲節々

 連ル枝多シ生ナル時黑シ湯ニ入レハ靑クナル魚ノ脬ノ如

 クナルモノ多ク枝ニツケリ見事ナル藻ナリ毒ナシ俗ニ疝

 氣ヲ治スト云海草ノ上品ナリ本草ニ甘草ニ反ストイ

 ヘリワカキ時ユヒキ或煮テ食ス脆ク味ヨシ

○やぶちゃんの書き下し文

「海藻(ナノリソ[やぶちゃん注:これは右ルビ。斜線の下は左ルビ。]/ホタハラ)」 「本草」にのせたり。「集解」にいへる處、「ナノリソ」によくかなへり。「ナノリソ」と名づけし事は「日本紀」〔の〕「允恭帝紀」に見ゑたり。倭俗、又、「神馬藻〔(じんばさう)〕」と云ふ。和名を「ナノリソ」と云ふゆへに、神馬にはのる事なかれ、と云ふ義を以て「神馬草」と、かけり。「下學集〔かがくしふ〕」に曰はく、『神功皇后、異國を攻む。時に舩中、馬の秣(まくさ)無し。海中の藻を取り、馬を飼(か)ふ。故に「神馬草」と云ふ也。』〔と〕。篤信曰はく、此説、いまだ、出處を見ず。神馬藻と書く故に、かくのごとく附會せるなるべし。是、「ナノリソ」と名づけし「日本紀」の本緣をしらずして、妄〔(みだり)〕に云ふなり。凡そ「下學集」の説、信じがたし。「萬葉集」第七・第十卷に「ナノリソ」をよめり。其の老いたるを「ホダハラ」と云ふ。倭俗、正月、春、盤の上に、をくものなり。海中に生ず。短き馬の尾のごとく、細葉、絲のごとく、節々、連なる枝、多し。生〔(なま)〕なる時、黑し。湯に入〔(いる)〕れば、靑くなる。魚の脬(みつふくろ)のごとくなるもの、多く枝につけり。見事なる藻なり。毒、なし。俗に疝氣を治すと云ふ。海草の上品なり。「本草」に甘草に反す、といへり。わかき時、ゆびき或いは煮て食す。脆く、味、よし。

[やぶちゃん注:狭義のホンダワラは不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属バクトロフィクス亜属 Bactrophycus テレティア節 Teretia ホンダワラ Sargassum fulvellum であるが、専門家の記載を読むと、この真正のホンダワラは日本近海では稀であるとするので(事実、二〇〇四年平凡社刊の田中二郎氏解説の「基本284 日本の海藻」には狭義の「ホンダワラ」を種として挙げておられないのである。則ち、とりもなおさず、本種は「日本の海藻」の一般的「基本」種には含まれないことを示唆している)、

ホンダワラ科 Sargassaceae

或いは、

ホンダワラ属 Sargassum

に止めておくのが正しいでは、「種は?」と聴かれれば鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」の「ヒバマタ目」 Fucales の「ホンダワラ科 Sargassaceae」の膨大なリスト、或いは、同サイト内の「ホンダワラ属」のページを見て戴ければ、列記する私の意欲が失われることが判ることと存ずる。さて、宮下章氏の「ものと人間の文化史 11・海藻」の「第二章 古代人海藻」の「莫鳴菜(ナノリソ) 神馬藻(ナノリソ)」によれば、『和名は不明』としつつ、「塵袋」『という江戸期の書物は、これを食べると「ハラハラ」と鳴ってうるさい』(気泡体を噛み潰す音が、であろう)『ので「菜莫鳴(ななり)」(鳴るな)の藻と名付けたのだと説いて』おり、また、『ノリに神仙菜、トサカノリに鳳尾菜の雅名を贈った古代中国は、莫鳴菜も「神馬草」の雅称で呼んだ』が、ここでも益軒が記すように、『神馬は神聖だから「莫乗(なのり)」(乗ってはならぬ)藻だから、われわれの祖先は「ナノリソ」としゃれて読んだ』としつつも、『神馬藻の文字は、中国伝来ではなく』、本邦の『つぎのような故事から生まれたものだとする説もある』として、やはり益軒の掲げる神功皇后の三韓征伐時のエピソードを示しておられる。

 

   《引用開始》

「神功皇后が、三韓征伐のため九州から渡航する途中、船中の馬秣(まぐさ)が不足して困った。そのとき海人族[やぶちゃん注:「あまぞく」。]の勧めで、ホンダワラを採り、馬を飼ったので、神功皇后[やぶちゃん注:底本は「神宮皇后」であるが、訂した。]のひきいる神馬の食べる藻神馬藻と書くようになった」

   《引用終了》

また、それとは別に益軒が『「ナノリソ」と名づけし事は「日本紀」〔の〕「允恭帝紀」に見ゑたり』とするだけで内容を記していない一説を以下のように紹介されておられる。

   《引用開始》

「允恭天皇は、皇后の妹、衣通郎姫(そとおりいらつめ)をも愛するようになったが、皇后に知られることを恐れて、和泉国(大阪府)の海辺に建てた茅淳宮(ちぬのみや)にかくまった。

 逢瀬もままならかったが、ある日やっとのことで天皇を迎えることができた姫は、切ない胸のうちを浜藻にたとえて訴えた。

  とこしへに君もあへもや漁(いさな)とり

   海の浜藻の寄する時々を

 天皇は、この歌が皇后に知れれば一騒動持ち上がると案じて固く口止めしたのだが、いつのまにか世間に知れ渡ってしまった。そこで人々は浜藻を「莫告」(人に告げるな)の藻と書くようになったという」

   《引用終了》

さらに以下、『奈良朝時代の正倉院文書には「奈能利僧」、万葉集には「名乗藻」「莫告藻」と書いてある』とあるが、他に「万葉集」では「莫謂」「勿謂」「莫語」「名乘曾」等もある。

 因みに、「万葉集」では以下の十三首に出現する。「万葉集」のサイトは腐るほどあるのに「なのりそ」歌群を纏めたサイトはないようなので、ここでオリジナルに示すこととする(中西進氏の講談社文庫版を参考にした)。語注や歌意は附さない。国家大観番号で検索され、有象無象の訳注サイトで読まれたい。

   *

みさご居(ゐ)る磯𢌞(いそみ)に生ふる名乘藻(なのりそ)の名は告(の)らしてよ親は知るとも (山部赤人(巻第三(三六二番))

   *

みさご居る荒磯に(ありそ)に生ふる名乘藻のよし名は告らせ親は知るとも 山部赤人 (巻第三(三六三)・前の歌の別稿で「或本歌曰」の前書有り)

   *

   丹比眞人笠麿(たぢひのまひとかさまろ)、

   筑紫國に下りし時に作れる歌一首

   幷(あは)せて短歌

臣女(おみのめ)の 匣(くしげ)に乘れる 鏡なす 御津(みつ)の濱に さにつらふ紐解き離(さ)けず 吾妹子(わぎもこ)に 戀ひつつ居(を)れば 明け晩(く)れの 朝霧隱(あさぎりこも)り 鳴く鶴(たづ)の 聲(ね)のみし泣かゆ 吾(わ)が戀ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる 情(こころ)もありやと 家(いへ)のあたり 我が立ち見れば 靑旗の 葛城山(かつらぎやま)に たなびける 白雲隱(しらくもがく)る 天ざかる 夷(ひな)の國邊(くにべ)に 直(ただ)向ふ 淡路を過ぎて 粟島(あはしま)を 背(そがひ)に見つつ 朝なぎに 水手(かこ)の聲(こゑ)呼び 夕なぎに 楫(かぢ)の音(と)しつつ 波の上(へ)を い行きさぐくみ 岩の間(ま)を い行き𢌞(もとほ)り 稻日都麻(いなびづま) 浦𢌞(うらみ)を過ぎて 鳥(とり)じもの なづさひ行けば 家の島 荒磯(ありそ)の上に うちなびき 繁(しじ)に生ひたる 莫告(なのりそ)が などかも妹に 告(の)らず來にけむ 巻第四(五〇九)。短歌(五一〇)も併記しておく)

 

白栲(しろたへ)の袖解きかへて歸り來(こ)む月日を數(よ)みて行きて來(こ)ましを

   *

   敏馬(みぬめ)の浦を過ぎし時に、

   山部宿祢赤人の作れる歌一首

   幷せて短歌

御食向(みけむか)ふ 淡路の島に 直(ただ)向ふ 敏馬の浦の 沖邊(おきへ)には深海松(ふかみる)採り 浦𢌞(うらみ)には 名告藻(なのりそ)刈る 深海松の 見まく欲(ほ)しと 名告藻の 己(おの)が名惜しみ 間使(まつかひ)も 遣らずて吾(われ)は 生けりともなし 巻第六(九四六)。反歌(九四七)も併記しておく)

 

   反歌一首

須磨の海人(あま)の鹽燒衣(しほやきぎぬ)の馴れなばか一日(ひとひ)も君を忘れて念(おも)はむ

   *

漁(あさり)すと磯に吾が見し莫告藻(なのりそ)をいづれの島の白郎人(あま)か刈るらむ (巻第七(一一六七))

   *

梓弓(あづさゆみ)引津(ひきつ)の邊(へ)なる莫謂(なのりそ)の花摘むまでに逢はざらめやも勿謂(なのりそ)の花 (巻第七(一二七九))

   *

海(わた)つ底沖つ玉藻の名乘曾(なのりそ)の花妹とわれ此處にしありと莫語(なのりそ)の花 (巻第七(一二九〇))

   *

沖つ浪寄する荒礒(ありそ)の名告藻(なのりそ)は心のうちに疾(やまひ)となれり (巻第七(一三九五))

   *

紫の名高(なたか)の浦の名告藻(なのりそ)の礒(いそ)に靡(なび)かむ時待つ吾(われ)を (巻第七(一三九六))

   *

 

梓弓引津の邊なる名告藻の花咲くまでに逢はぬ君かも (巻第十(一九三〇)・先の出した巻第七(一二七九)の旋頭歌を短歌に改作したもので、続く古歌(一二八〇)と組み合わせたもの)

   *

住吉(すみのえ)の敷津(しきつ)の浦の名告藻(なのりそ)の名は告(の)りてしを逢はなくも怪し (巻第十二(三〇七六))

   *

みさご居(ゐ)る荒礒(ありそ)に生ふる勿謂藻(なのりそ)のよし名は告(の)らじ父母(おや)は知るとも (巻第十二(三〇七七))

   *

志賀(しか)の海人(あま)の礒(いそ)に刈り干す名告藻(なのりそ)の名は告(の)りてしを何(なに)か逢ひ難(かた)き (巻第十二(三一七七))

   *

なお、現行の民俗行事に於いては「なのりそ」をホンダワラとして「穂俵」の漢字を当てている。その気泡体が米俵に似ていることから、豊作に通じる縁起物とされ、正月飾りに利用されているのはご承知の通りである。

『「本草」にのせたり。「集解」にいへる處、「ナノリソ」によくかなへり』「本草綱目」巻之十九の「草之八」の「海藻」の「集解」は以下。

   *

「別錄」曰、『海藻生東海池澤、七月七日采、曝乾。』。弘景曰、『生海島上、黑色如亂髮而大少許、葉大都似藻葉。』。藏器曰、『此有二種。馬尾藻生淺水中、如短馬尾細、黑色、用之當浸去鹹味。大葉藻生深海中及新羅、葉如水藻而大。海人以繩系腰、沒水取之。五月以後、有大魚傷人、不可取也。「爾雅」云、「綸似綸、組似組、東海有之、正爲二藻也。」。』。頌曰、『此卽水藻生於海中者、今登、萊諸州有之、陶隱居引「爾雅」綸、組注昆布、謂昆布似組、靑苔、紫菜似綸。而陳藏器以綸、組爲二藻。陶似近之。』。時珍曰、『海藻近海諸地采取、亦作海菜、乃立名目、貨之四方云』。

   *

但し、ここに記されたものが確かに限定的にホンダワラを指しているかどうかは、私はやや疑問である

「下學集〔かがくしふ〕」全二巻から成る、意義分類型の辞書。室町中期の文安元(一四四四)年の成立であるが、板行されたのは、百七十三年後の江戸初期の元和三(一六一七)年である。著者は「東麓破衲 (とうろくはのう)」の自序があるが未詳。室町時代の日常語彙約三千語を天地・時節・神祇・人倫・官位・人名・家屋・気形・支体・態芸・絹布・飲食・器財・草木・彩色・数量・言辞・畳字」の十八門に分けて、それぞれに簡単な説明を加えたもの。但し、その主要目的はその語を表記する漢字を求めることにある。室町時代のみならず、江戸前期にはよく利用され、それにとって代わった類似の「節用集」(基本、漢字の熟語を並べ、読み仮名をつけただけのもの)に影響を与えたと考えられている。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで当該条を視認出来る(写本)。

「篤信」「あつのぶ」。貝原益軒の本名。

「妄〔(みだり)〕に云ふなり」ろくな根拠もなく、いい加減に言ったものに過ぎない。

『「萬葉集」第七・第十卷に「ナノリソ」をよめり』前注参照。二巻で六首ある。巻第七は計六種で「万葉集」中「なのりそ」を最も多く所載する。

「ホダハラ」「穗俵」であろう。冒頭注末参照。

「正月、春、盤の上にをくものなり」盤は正月飾りの「蓬莱(ほうらい)飾り」のこと。関西で、新年の祝儀の飾り物の一つで、三方(さんぼう)の盤の上に白米を盛り、熨斗鮑(のしあわび)・搗(か)ち栗・昆布・野老(ところ:山芋)・馬尾藻(ほんだわら)・橙(だいだい)・海老などを飾りつけたもの。江戸では「食い積み」と呼んだ。「蓬莱山」或いは単に「蓬莱」とも呼ぶ。

「魚の脬(みつふくろ)」「魚の浮き袋」のことを指している。「脬」(音「ホウ・ヒョウ」)は中国語では「膀胱」のことであるから、ここは魚のそれとして「みづぶくろ」(尿を入れる「ゆばりぶくろ」の認識か)と読んでいるように思われる。

「疝氣」下腹部の痛む病気。

「海草の上品なり」これが少なくとも江戸時代の一般的な庶民の通年だったのである。因みに、私も大好物である。佐渡産が美味!

『「本草」に甘草に反す、といへり』「本草綱目」の「海藻」の「氣味」には『苦、鹹、寒。無毒【權曰、「鹹有小毒」。之才曰、「反甘草」。時珍曰、「按東垣李氏治瘰癧馬刀散腫潰堅湯海藻甘草兩用之。葢以堅積之病非平和之藥所能取捷必令反奪以成其功也。」。】。』とある。甘草(かんぞう:マメ目マメ科マメ亜科カンゾウ属 Glycyrrhiza の根(一部の種類は根茎を含む)を乾燥させた生薬)と同時に用いると、有害な作用がある、という意である。

「ゆびき」湯引き。]

2018/07/05

大和本草卷之八 草之四 鹿尾菜(ヒジキ)

 

【和品】

鹿尾菜 順和名比須木毛伊勢物語ニヒジキモヲ哥

 ニヨメリ海中石ニ附テ生ス圓ニ乄末尖ル乾セハ黑色ナリ

 煮テ食ス貧民米ニマシヱテ飯トシ粮ヲ助ク

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

「鹿尾菜(ヒジキ)」 順が「和名」に、『比須木毛(ヒズキモ)』。「伊勢物語」に「ひじきも」を哥によめり。海中、石に附きて生ず。圓〔(まどか)〕にして、末、尖る。乾かせば、黑色なり。煮て食す。貧民、米にまじゑて飯とし、粮〔(かて)〕を助く。

[やぶちゃん注:褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科ホンダワラ属ヒジキ Sargassum fusiforme長さ三十~八十センチメートル、時に一メートルに達するものもある。主枝は円柱状で太さは三~四ミリメートルである。宮下章氏の「ものと人間の文化史 11・海藻」の「第二章 古代人海藻」の「鹿尾菜(ヒズキモ・ヒジキモ)」によれば、『庶民にはよく食べられていたに違いない』『が、支配階級には余り食べられなかったらしく、記録に見られることが少ない。養老令』(天平宝字元(七五七)年施行)『では貢物に指定されていないが、延喜式』(完成は延長五(九二七)年であるが、施行は康保四(九六七)年)『になってから貢納品に選ばれた。しかし貢納価値は低かった。志摩国の名産なので伊勢神宮の神饌に選ばれ、後世』、「伊勢ひじき」『として有名になる素地は古代からできていた』とする。かつては旧態然とした形態分類から Hizikia 属として独立させていたが、現在はご覧の通り、分子系統学的研究によってサルガッスム(ホンダワラ属)に移されている。春から初夏にかけての磯(潮間帯)の風物詩的な存在と言える。生体時は幼体はやや緑色が多いが、成体になると、全体に薄い褐色を呈する。言わずもがなであるが、加工されたようには黒くはない。なお、近年、本種が無機ヒ素の含有率が有意に高いことから、多くの国で警告がなされていることはかなり知られている。ウィキのヒジキによれば、二〇〇一年十月、『カナダ食品検査庁』『は、発癌性のある無機ヒ素の含有率が、ヒジキにおいて他の海藻類よりも非常に高いという報告を発表し、消費をひかえるよう勧告した』。『これは複数の調査によって裏付けられ』、『イギリス』『・香港』『・ニュージーランドなどの食品安全関係当局も同様の勧告を発表した』。しかし、『一方、日本の厚生労働省は』、二〇〇四年七月、『調査結果のヒ素含有量からすると、継続的に毎週』三十三グラム『以上(水戻しした状態のヒジキ。体重』五十キログラム『の成人の場合)を摂取しない限り』、『世界保健機関(WHO)の暫定的耐容週間摂取量を上回ることはなく、現在の日本人の平均的摂取量に照らすと、通常の食べ方では健康リスクが高まることはない、との見解を示した。また、海藻中のヒ素による健康被害があったとの報告はないとした』とある。ともかくも、福島第一原発の放出した放射性物質による癌発症リスクの方を心配した方が遙かに現実的である。

『「伊勢物語」に「ひじきも」を哥によめり』第三段。

   *

 むかし、男、ありけり。懸想(けさう)しける女のもとに、「ひじき藻」といふ物をやるとて、

 

  思ひあらば葎(むぐら)の宿に寢(ね)もしなむ

    ひしきものには袖をしつつも

 

 二條の后(きさき)の、まだ帝(みかど)にも仕うまつりたまはで、ただ人にておはしましける時のことなり。

   *

この歌は後の「大和物語」百六十一段にもほぼ同様の話として載る。「ひしきもの」は贈った「ひじき藻」を詠み込みつつ、「引き敷き物」、逢瀬の「褥(しとね)」を掛けて主意の共寝を詠った。「二条の后」は在原業平の悲恋の相手藤原高子(たかいこ:清和天皇の女御となり、後に皇太后となった陽成天皇の母)。]

諸國里人談卷之三 不知火

 

    ○不知火(しらぬひ)

豐後國宮古郡(みやこのこほり)甲浦(かんのうら)の後(うしろ)の森より、挑灯(ちやうちん)のごときの火、初更のころより、出る。また、松山より、ひとつの火いでゝ、空中にて行合(ゆきあひ)、戰ふごとくにして、海中へ「颯(さつ)」と落る。又、海上にて鷄(とり)の蹴合(けあふ)にひとしくして、少時(しばらく)、捻(ねぢ)あひて後(のち)、出〔いで〕たる所の山森(〔やま〕もり)に入る也。四・五月、八・九月に、かならず、あり。これを「つくしのしらぬ火」といふ也。そのかみよりありて、來歴、しれず。日本第一の妙火也。今つくしのまくら言葉となる。

[やぶちゃん注:挿絵有り(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースの①の画像)。

「豐後國宮古郡(みやこのこほり)甲浦(かんのうら)」この地名にはテツテ的に疑義がある。先ず、「豐後國」(宇佐市・中津市除く大分県域に相当)には「宮古郡」という郡は存在しない。また「甲浦(かんのうら)」という地名は知られたものでは、あさっての方向の高知県安芸郡にあった甲浦村(かんのうらむら)があるが(現在の安芸郡東洋町(とうようちょう)甲浦(かんのうら))、話にならない。豊後には「甲浦」は見当たらない。そもそもが語ろうとしとるのは妖火「不知火」(しらぬい)なんじゃろが?! 何で大分なん?! 「不知火」は文字通り、不知火海が御本家じゃろ?! しかも「つくし」の枕詞じゃで! この「つくし」は九州の古名と採っておくなら、福岡に限定する必要はなかとでしょう! さればこそ! これは不知火海=有明海かそれに連なる南の島原湾か八代海のどこかと考えるのが、これ、普通でしょうが!

 さてもそこで、まず「豐後國」は誤りとして排除し、有明海の周辺の肥前・筑後・肥後が比定範囲とすれば、そこに「宮古郡」はあるかといえば、これが、ないんじゃ!

 しかしじゃ! 現在、ズバリ!「不知火町」というのがあるんじゃが、それは今の熊本県宇城(うき)市不知火町(しらぬひまち:表記は現在も歴史的仮名遣。但し、読みは「しらぬいまち}。いいねえ! お洒落で! 一帯全体goo地図)じゃ。さて。そこよ。この不知火町、元は宇土(うと)郡不知火町なんじゃ! ……「宇土郡」?……「宮古郡」?……何だか、字が似てねえっかってんだよ!!

 儂はピンと来たね! 宇土郡の崩し字を見て、沾涼(他人の記録を見て無批判に安易に写して調べもしなかったケース)か版元の彫師(これは沾涼が正しく書いたそれを誤判読したケース)が「宮古」と誤読したんじゃねえか? ってね。

 なお、実は「不知火町」は別に今一つ、福岡県大牟田市不知火町(しらぬひまち:ここも歴史的仮名遣)が存在する((グーグル・マップ・データ))。位置的にはこちらの方が有明海湾奧の東岸で狭義の「筑紫」じゃけん、ロケーションとしてはバッチリなんじゃが、しかし、私はやはり、宇土郡を採る。何故か? ウィキの「不知火(妖怪)を見て貰いたいのだ。そこに研究者『丸目信行は文献集『不知火』に、『不知火町永尾剣神社境内から阿村方面へ時間経過による不知火の変化』と題し、多数の写真を載せている』(注に一九九三年の資料とある)とあるのだが、その不知火町永尾の剣神社というのは、(グーグル・マップ・データ)で、宇城市の方の不知火町だからさ(「阿村」というのは八代海の西に浮かぶ上島(かみしま)の熊本県上天草市松島町阿村のこと。(グーグル・マップ・データ))。「不知火」はね、八代海や有明海に現れるんだ。宇城市は八代海の湾奥だもの!

 『これで不知火町近くの古地名に「甲浦」があったら、儂の推理はピッタシカンカンなんだけどなぁ……』と思いながら、地図を探していると……おや?

――宇城市三角町郡浦

ってあるぞ! なんて読むのかな?
――みすみまち こおのうら

だっツ! これだ! 「甲の浦」=「郡浦(こうのうら)」だ! やったぜ! ベイビー! だよ(グーグル・マップ・データ)! 宇城市不知火町の西の直近の八代海を望む絶景だもんね! 久々に僕の憂鬱が完成したわ!!!

 最後にウィキの「不知火(妖怪)を引いておこう。『不知火(しらぬい)は、九州に伝わる怪火の一種。旧暦』七『月の晦日の風の弱い新月の夜などに、八代海や有明海に現れるという』。『なお、現在も見え、大気光学現象の一つとされている』。『海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現する。それが左右に分かれて数を増やしていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶ。その距離は』四~八『キロメートルにも及ぶという』。また、『引潮が最大となる午前』三『時から前後』二『時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされる』。『水面近くからは見えず、海面から』十『メートルほどの高さの場所から確認できるという』。『また』、『不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行く』。『かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていた』。『『日本書紀』『肥前国風土記』『肥後国風土記』などに、景行天皇が九州南部の先住民を征伐するために熊本を訪れた際、不知火を目印にして船を進めたという記述がある』。『大正時代に入ると、江戸時代以前まで妖怪といわれていた不知火を科学的に解明しようという動きが始まり、蜃気楼の一種であることが解明された。さらに、昭和時代に唱えられた説によれば、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が』六『メートルも下降して干潟が出来ることや』、『急激な放射冷却、八代海や有明海の地形といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説された。この説は現代でも有力視されている』。『宮西道可は熊本高等工業から広島高工の教授であり、専門的な研究をした。彼によると、不知火の光源は漁火であり、旧暦八朔の未明に広大なる干潟が現れ、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こし、そのため』、『漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して』、『目の錯覚も手伝い』、漁火が『怪火に見える』のだという』。『また山下太利は、「不知火は気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象である。そして、その光源は民家等の灯りや漁火などである。条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こる。逃げ水、蜃気楼、かげろうも同種の現象である」と述べている』とある。但し、『現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことで、不知火を見ることは難しくなっている』とする。

「初更」午後七時頃又は八時頃からの二時間を指す。

「松山」八代海からやや内陸だが、熊本県宇城市松橋町松山なら、ある。(グーグル・マップ・データ)。しかし内陸でいいんだ。後で「山森」と言っているもの。

「鷄(とり)」ニワトリ。

「捻(ねぢ)あひて」互いの炎がぶつかり合い、捩じれ合って絡まったりして、恰も闘鶏を見るようなのだろう。本書の挿絵は正直、上手くないが、この絵はその感じを上手く出している。

「來歴、しれず」沾涼は暗にだから「知らぬ火」だと言いたそうな感じはする。]

諸國里人談卷之三 ㊅光火部 火辨

 

  ㊅光火部(くうくはのぶ)

    ○火辨(ひのべん)

陽火(ようくは)は、金(かね)を戛(うつ)の火・石を擊(うつ)の火・木を鑽(うつ)の火、是(これ)、「地の陽火」也。太陽の心火・星精(せいせい)の飛火(ひくわ)は「天の陽火」、君火(くんくわ)は「人の陽火」也。○水中火・石油火は「地の陰火」、龍火・雷火は「天の陰火」、相火(さうくわ)・下火(あこ)は「人の陰火」也。陰火六、陽火六、天地人の火十二なり。又、狐・鼬(いたち)・鵁鶄(ごゐさぎ)・螢・蛛(くも)等(とう)の火は、火に似て火にあらず。連俳にて「似せものゝ火」といふなり。色靑く、焰(ほのふ[やぶちゃん注:ママ。])なし。寒火(かんくわ)・陽焰(ようゑん)・鬼燐(をにび)・金銀の精氣の火は陰火にて、物を焚(やか)ず。又、石灰(いしばい)・桐油(おうゆ)・麥糠(むぎかす)・馬糞(ばふん)・鳥糞(とりのふん)より出〔いづ〕る火は、陽火にて、ものをやくなり。雷火は天の陰火なれども、物を焚く。これ、陰中の陽火なり。淺間・阿蘇・雲仙・燒山(やけやま)の火は、砂石を燒(やく)。是また、陰中の陽火也。○「本草綱目」云〔はく〕、『田野燐火(でんやりんくは[やぶちゃん注:ママ。])。人及〔および〕牛馬兵死スル血、入(し)ㇾ土(つち)、年久(ひさ)シク所ㇾ化(け)。皆、精靈(せいれい)之極(ごく)也。其色、靑、狀(かた)、如ㇾ炬(たいまつ)。或聚(あつま)、或來(きた)。逼(せま)ツテ、奪(うぼ)精氣【下略。】。

[やぶちゃん注:末尾の漢文部分は概ね読みを含んだ訓点(原典は読み・送り仮名は総てカタカナで、送り仮名の部分が分明でないところは私の判断で送り仮名にした。読みは読み易さを考え、ひらがなに代えた)が振られてあるので、特異的に以上のように原典の雰囲気を出して示した。基本、陰陽五行説に基づいた「火」の総論と分類学であるが、この箇所、沾涼は最後に徐ろに引いている明の本草家李時珍の「本草綱目」の「火之一」の「陽火・陰火」を実は下敷きにしている。中文の「維基文庫」のそれを見られたい(リンク先冒頭)。

「戛」(音「カツ」)元は金属製の戈(ほこ)で、そこから「打つ・叩く」の意が生まれ、さらに「擦(こす)れ合う・金属や石が触れ合って鳴る、或いは、その音」となり、ここではさらに金属同士をぶつけ合わせて火花を散らして火を起こす意として用いたのであろう。

「鑽」(音「サン」)は通常、本邦では「きる」と訓じ、木と木をこすり合わせて摩擦により火を取ることを指し、古神道では最も神聖な火を得るために行われる。但し、本来は直前にある、石と金属をぶつけて(「擊」)火花を起して火を採る意味にも用いる字でもある。

「太陽の心火」芯火の謂いか。中心から熱核融合を起こしている太陽の中心核には相応しい。

「星精の飛火」太陽以外の太陽の光を反射して光って=燃えて見える惑星や太陽系外の恒星だけでなく、「飛火」とするからには火花のようにも見える流星も含んだものと考えるべきであろう。

『「君火」は「人の陽火」也』は後の「相火」『は「人の陰火」也』と合わせて、陰陽五行説に基づいた漢方医学に於いて人体を暖める火とされるもの。「君火」別に漢方の臓腑としての『「心」の火』で、人体で最も重要な火とされる。「心」以外の臓腑に関係した火を「相火」と呼ぶ。特にその「相火」中でも「腎」の火を別に「命門の火」と呼び、この火は身体を温める火ではなく、最低限度の生命を維持する火、謂わば「種火」と考えてよいものとされる。

「水中火」不詳。プランクトンや水産の発光生物による水中での発光現象や不知火のような海上に見える蜃気楼現象を指すか?

「龍火」不詳。竜巻の中で発生する雷電現象を指すか?

「下火(あこ)」は「下炬」とも書き、限定的には、禅宗で火葬の際に僧が遺骸に火をつけることを指すが(元来は松明(たいまつ)に火を付ける意)、「人の陰火」と言っているところからは、遺体が燃える火を指すのではなく、所謂、死後の遺体から抜け出る限定的な「鬼火」「人魂」のことを指しているのかも知れない(後の「鬼燐(をにび)」をもっと広義に採る場合である)。

「鼬」は古来、本邦では狐と同じように妖怪視され、狐のように化けるとも言われてきたから、狐火同様の現象を引き起こしても不思議ではないので、ここに狐と並んで出るのは、私には腑に落ちる。「和漢三才圖會」の「鼬」(巻第三十九の掉尾)によれば、

   *

夜中有熖氣高外如立柱呼稱火柱其消倒處必有火災蓋群鼬作妖也

(夜中、熖氣(えんき)有りて高く外(のぼ)り、柱を立つるがごとし。呼んで「火柱」と稱す。其の消え倒(たふ)るる處、必ず、火災有り。蓋し、群れ鼬、妖を作(な)すなり。

   *

とあるのを紹介すれば、ご納得戴けよう。

「鵁鶄(ごゐさぎ)」夜行性の鳥綱ペリカン目サギ科サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax が青白い光を放つというのは、よく言われることである。怪異譚や擬似怪談も多い。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵁鶄(ごいさぎ)」の「夜、飛ぶときは、則ち、光、有り、火のごとし」の私の注を是非、参照されたい。

「蛛(くも)」クモ類は多くは八個の単眼を持ち、夜間や室内ではそれが光って見える。クモの糸も光るからこれは納得されるであろう。

「連俳」連歌と俳諧。或いは俳諧の連句のこと。ここは後者。沾涼は俳人であることをお忘れなく。

「寒火」やはり先の「本草綱目」の同一箇所に、

   *

此外又有蕭丘之寒火。【蕭丘在南海中、上有自然之火、春生秋滅。生一種木、但小焦黑。出「抱朴子外篇」。又陸游云火山軍、其地鋤耘深入、則有烈焰、不妨種植。亦寒火也。

   *

とある。「火山軍」は山西省河曲県とその東北に接する偏関県一帯の旧称(ここ(グーグル・マップ・データ))。ここで土地を耕す際に鋤を深く入れると、激しい焔が噴き出るが、作物の種子を植えることには何ら問題はない。これは「寒火」である、というのだが、何故「寒」なのかは判らぬものの、天然ガスかメタン・ハイドレート(methane hydrate:低温且つ高圧の条件下でメタン分子が水分子に囲まれた、網状の結晶構造を持つ包接水和物の固体)のようなものか?

「陽焰」前の「本草綱目」の「寒火」に続いて、

   *

澤中之陽焰【狀如火焰、起於水面。出「素問王冰注」。】。

   *

と出る。

「鬼燐(をにび)」同前で、

   *

野外之鬼磷【其火色靑、其狀如炬、或聚或散、俗呼鬼火。或云、「諸血之磷光也」。】。

   *

と出る(下線太字は最終注を参照)。所謂、広義の狐火や怪火を広汎に含んだ「鬼火」で、昔、火の気のない墓の地面で人の骨の燐(リン)が燃えると言ったような妖火の類いのように私には感じられる。

「金銀の精氣の火」同前で、

   *

金銀之精氣【凡金銀玉寶、皆夜有火光】。

   *

とある。

「燒山(やけやま)」既出既注。恐山の別名。

「「本草綱目」ニ云……」以下の引用は怪しい。この白文の一連の文字列は出てこないのである。どうも貼り交ぜた感じがする。まず、第八巻の「金石之一」の「諸鐵器」の中に、

   *

馬鐙【綱目】主治田野燐火、人血所化。或出或没來、逼奪人精氣。但以馬鐙相戞作聲、卽滅。故張華云、金葉一振遊光斂色【時珍。】。

   *

とあり、また、第五十二巻の「人之一の「人血」の「集解」中の末尾には、

   *

萇弘死忠、血化爲碧、人血入土、年久爲磷、皆精靈之極也。

   *

とあり、さらにさっきの「鬼燐(をにび)」に注したように、「火之一」の「陽火・陰火」の中に『其火色靑、其狀如炬、或聚或散』の文字列が出現しており、これらをパッチ・ワークすると、概ねここに出る文章となるからである。或いは、沾涼は本当の「本草綱目」に当たらず、その抄約本か注釈ものに当たったのかも知れない。「兵死」は妙だ。「斃死」(行き倒れて野垂れ死にすること)をだろう。以下、敷衍訳するなら、

   *

――田野に頻繁に出現する火の怪「燐火(りんか)」――

 これは、人間及び牛馬の斃死したものの血が、地面に浸み入って、年を経て、化したところのものである。これは皆、精霊(せいれい)・精鬼の究極の忌まわしい最終形態である。その火の色は青く、形状は松明(たいまつ)に似ている。或いは集合し、或いは散らばってやって来る。生きた人間に迫って来て、その精気を奪い去ってしまう恐るべきものである。

   *

でよかろう。]

諸國里人談卷之三 黑塚 / 卷之三~了

 

    ○黑塚

武藏國足立郡大宮驛(おほみやのしゆく)の森の中にあり。又、奧州安達郡にもあり。しかれども、東光坊、惡鬼退散の地は、武藏の足立郡を本所と云。則(すなはち)、東光坊開基の寺、東光寺と云あり【今は曹洞宗。】。

紀州那智の記錄にも、『武藏國足立郡の惡鬼退散』とありて、奧州の事は見えず、と也。

[やぶちゃん注:内容的に本条を殆んどカバーして余りある内容となっているので、ウィキの「黒塚」を全面的に引かせて貰う(太字やぶちゃん)。『黒塚(くろづか)は、福島県二本松市(旧安達郡大平村)』((グーグル・マップ・データ))『にある鬼婆の墓、及びその鬼婆にまつわる伝説。安達ヶ原(阿武隈川東岸の称。安達太良山東麓とも)に棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆(あだちがはらのおにばば)」として伝えられている』。『黒塚の名は』、『正確にはこの鬼婆を葬った塚の名を指すが、現在では鬼婆自身をも指すようになっている』。『能の『黒塚』も、長唄・歌舞伎舞踊の『安達ヶ原』、歌舞伎・浄瑠璃の『奥州安達原』も』、『この黒塚の鬼婆伝説に基づく』。『黒塚の近隣にある観世寺の発行による『奥州安達ヶ原黒塚縁起』などによれば、鬼婆の伝説は以下のように伝わっている』。『神亀丙寅の年』(七二六年)『の頃』、『紀州の僧・東光坊祐慶(とうこうぼう ゆうけい)が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、一軒の岩屋に宿を求めた。岩屋には一人の老婆が住んでいた。祐慶を親切そうに招き入れた老婆は、薪が足りなくなったのでこれから取りに行くと言い、奥の部屋を絶対に見てはいけないと祐慶に言いつけて岩屋から出て行った。しかし、祐慶が好奇心から戸を開けて奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。驚愕した祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、あの老婆こそが件の鬼婆だと感付き、岩屋から逃げ出した』。『しばらくして岩屋に戻って来た老婆は、祐慶の逃走に気付くと、恐ろしい鬼婆の姿となって猛烈な速さで追いかけて来た。祐慶のすぐ後ろまで迫る鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に経を唱えた。すると菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めた』。『鬼婆は命を失ったものの、観音像の導きにより』、『成仏した。祐慶は阿武隈川のほとりに塚を造って鬼婆を葬り、その地は「黒塚」と呼ばれるようになった。鬼婆を得脱に導いた観音像は「白真弓観音(白檀観音とも)」と呼ばれ、後に厚い信仰を受けたという』。『なお、伝説にある神亀年間(奈良時代前期)とは時代が異なるものの、祐慶は平安時代後期に実在した人物であり、『江戸名所図会』などに「東光坊阿闍梨宥慶」の名で記載されており』、長寛元(一一六三)年に『遷化したとされる』。『鬼婆の顛末については、以下のような別説もある』。『観音像の力で雷鳴が轟き、鬼婆は稲妻に打たれて絶命した』。『鬼婆は殺されたのではなく、改心させられて仏教へ帰依し、高僧となった』。『祐慶は追いかけてくる鬼婆から必死に逃げ、夜が明けたのでそのまま逃げ切り、命が助かった』。『また以下のように、祐慶は鬼婆に偶然出遭ったのではなく、鬼婆を討つ目的で安達ヶ原へ向かったという伝説もある』。『祐慶は安達ヶ原で旅人たちを襲う鬼婆の調伏の命を受け、ただちに安達ヶ原へ向かった。しかし一足遅く、鬼婆は北方へ逃走していた。後を追って尾山(現・宮城県角田市)で鬼婆に追いついた祐慶は、鬼婆に斬りつけた。しかし惜しくも鬼婆はわずかに傷を負ったのみで逃げ去ってしまい、祐慶はその地に一堂を建立した』。『その約』三年後のこと、『ある旅人が鬼婆を目撃し、報せを受けた祐慶は』、『すぐさま』、『退治に向かい、逃走する鬼婆を追い詰めた末、見事に退治した。鬼婆の頭部は祐慶の建てた堂に保管され、胴体は尾山のとある丘に埋められ、供養のために桜が植えられた』。『鬼婆の頭部があった東光寺は後に廃寺』(後の記載にはさいたま市大宮区へ移転したと出、実際に現存する(グーグル・マップ・データ)。現在は曹洞宗大宮山東光寺で、寺」公式サイトの「由緒・歴史」によれば、大治三(一一二八)年頃に『紀伊国(現和歌山県)熊野那智山の天台宗の寺院・青岸渡寺光明坊の僧侶・宥慶阿闍梨(ゆうけいあじゃり)が関東へ下った際、足立原に宿泊し、大宮黒塚(氷川神社の東側、現・産業道路脇)において旅人の肉を食う悪鬼が住んでいることを聞き、法力によってその悪鬼を退治し、その側に坊舎(庵)を建立し、東光坊と号して庶民救済のために開いたのが草創で』、『草創当時は天台宗であり、「熊野の光明が東国に輝いた」ということから東光防の名がつけられ』たとあり、『その後、永享年間』(一四二九年〜一四四〇年)『に梁室元棟和尚が曹洞宗に改宗して開山となり』、さらに『寛文年間』(一六六一年〜一六七二年)になって、東光寺十一世『鉄船大牛和尚が中仙道開通のため』、『寺を現在地(宮町)へ移転し、伽藍を再興し』たとある。下線やぶちゃん)『となり、祐慶の子孫とされる安達家に頭蓋骨が伝えられている。この安達家の名も安達ヶ原に由来しており、尾山には他に安達という名は確認されていない。また、胴体を埋めた跡に植えられた桜は、後に見事な大木に育ち、毎年美しい花を咲かせているという』。『前述の観世寺の近隣には恋衣地蔵という地蔵があるが、これは鬼婆に殺された恋衣という女性を祀ったものとされ、この地蔵の由来として、鬼婆が人間から鬼婆に変じた物語が以下のように伝わっている』。その昔、岩手という女性が京の都の公家屋敷に乳母として奉公していた。だが、彼女の可愛がる姫は生まれながらにして不治の病におかされており』、五『歳になっても口がきけないほどだった』。『姫を溺愛する岩手は何とかして姫を救いたいと考え、妊婦の胎内の胎児の生き胆が病気に効くという易者の言葉を信じ、生まれたばかりの娘を置いて旅に出た』。『奥州の安達ヶ原に辿りついた岩手は岩屋を宿とし、標的の妊婦を待った。長い年月が経ったある日、若い夫婦がその岩屋に宿を求めた。女の方は身重である。ちょうど女が産気づき、夫は薬を買いに出かけた。絶好の機会である』。『岩手は出刃包丁を取り出して女に襲い掛かり、女の腹を裂いて胎児から肝を抜き取った。だが女が身に着けているお守りを目にし、岩手は驚いた。それは自分が京を発つ際、娘に残したものだった。今しがた自分が殺した女は、他ならぬ我が子だったのである』。『あまりの出来事に岩手は精神に異常を来たし、以来、旅人を襲っては生き血と肝をすすり、人肉を喰らう鬼婆と成り果てたのだという』。『なお、岩手が奉公していた「公家」とは武家時代以降に用いられた言葉だが、祐慶が鬼婆に出遭った神亀年間は平安遷都すら行われていない時代のため、岩手が奉公していた時代には、奉公先のはずの京の都自体が存在していないという矛盾がある。また、岩手という名は戯曲の『岩手』で創作された名前であり、実在するはずがない。以上の理由から、この鬼婆の由来に関する伝説は、一種の方便として作られたものと見られている』。『また、青森県にはこれとは別に、鬼婆の由来を説く伝説が以下のように伝わっている』。『白河天皇の時代。源頼義の家来の安達という武士が、頼義に敵地である陸奥への潜入を命じられ、いわという名の妻を連れ、幼い娘を乳母に預けて陸奥へ赴いたが、敵に討たれて命を落とした。いわは夫の霊を異郷に残して故郷へ戻るのはしのびなく、そのまま陸奥に留まった。数十年後、いわの住む庵に、旅の若夫婦が宿を求めた。女のほうは身重だった。故郷に帰りたくても帰れない身のいわは、仲睦まじい上にもうすぐ子宝に恵まれる幸せそうな夫婦に殺意を覚え、ついに包丁で女の命を奪った。しかしその女は、他ならぬ彼女の娘だとわかり、いわは』七日七晩』『泣き明かした挙句に心を病み、旅人を襲う鬼婆となった』。『青森の三戸郡五戸町浅水には、鬼婆が人を殺した際に包丁を洗ったという滝が伝わっており、浅水(あさみず)という地名も、安達ヶ原へ行った者は殺されるために翌朝を迎えることができないという意味の「朝見ず」が由来とされている』。『上記の観世寺は、祐慶が観音像を祀るために建立した寺であるとされている。同寺の境内には鬼婆像の他、鬼婆の墓や、鬼婆の住んでいた岩屋、血で染まった包丁を洗ったという池など黒塚伝説にまつわる物が多く残されて』いる。『伝説は時を経てなお人々の心に恐怖と哀しみを与え続けているといわれ、俳人・正岡子規もこの寺を訪れ』、『「涼しさや聞けばむかしは鬼の塚」と詠んでいる』。『また寺にある如意輪観世音菩薩の胎内には、祐慶が鬼婆退治に用いたとされる如意輪観世音菩薩が埋め込まれており』、六十『年ごとに開帳される』。『平安時代、三十六歌仙の』一『人である平兼盛が以下のように詠んでいる」』。「拾遺和歌集」巻九の「雜下」の一首(五五九番)。別に所持する岩波新古典文学大系7を参考に漢字を正字化して示す。

   陸奥國(みちのくに)名取の郡(こほり)

   黑塚に重之が妹あまたありと聞きつけて

   いひつかしける

 陸奥(みちのく)の安達の原の黑塚に鬼こもれりと聞くはまことか

『これは黒塚に住む三十六歌仙の』一『人、源重之』(?~長保二(一〇〇〇)年頃?:上野太守貞元親王の孫で三河守・源兼信の子。伯父の参議源兼忠の養子となった。官位は従五位下・筑前権守。父・源兼信が陸奥国安達郡に土着したことから、伯父の参議・源兼忠の養子となって、各地の地方官を歴任したが、長徳元(九九五)年以後は陸奥守藤原実方に従って陸奥国に下向し、当地に没したとされる。ここはウィキの「源重之に拠った)『の姉妹たちに対して兼盛が送った恋歌である。姉妹たちを「鬼」とたとえたのは、辺境の陸奥に住む娘たちを深窓の令嬢と推測し、隠れて姿を現さない「鬼」を掛けた洒落の一種である』。『兼盛の時代以前より黒塚の鬼婆伝説が存在し、兼盛はそれを下敷きとしてこの歌を作ったといわれるが』、『逆に歌の方が伝説より先に存在し、この歌が後に文字通りの意味に解釈され、黒塚に鬼婆が住むという伝説が生まれたという説もある』。以下、「発句」の項はリンク先のものを、恣意的に漢字を正字化し、一部の記号を除去・追加し、配置を変えて読点を添えて示す。

   *

 黑塚や白塚と化す雪女 名古屋清直(「ゆめみ草」)

 黑塚や跡追ふて來る一しぐれ

(「かんこ鳥塚」。芭蕉とされているが、偽作。)

 黑塚や鬼こもるとも人すずし

(芭蕉とされているが、「つかの間や鬼こもるとも夕すずみ(維舟)」が誤傳されたもの。)

 黑塚の誠こもれり雪女 其角(「雜談集」)

 黑塚の客あしらひや閨の雪 其角

 夏木だち黑塚遠く雲渡る 嘯山

 黑塚や蚋旅人を追ひまはる 曉臺

   *

『安達ヶ原と同様の鬼婆の伝承は、埼玉県さいたま市にも「黒塚の鬼婆」として伝わっている』。『江戸時代の武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』には、祐慶が東国足立ヶ原(あだちがはら)で黒塚の悪鬼を呪伏して東光坊と号したとあり、前述の平兼盛の短歌もこれを詠んだものだとある』(比定地として一つ、埼玉県さいたま市大宮区堀の内町にある真言宗黒塚山大黒院がある。(グーグル・マップ・データ))。『東光寺(さいたま市)の撞鐘の銘文にも、かつて安達郡にあった黒塚という古墳で、人々を悩ませていた妖怪を祐慶が法力で伏したとある』。『寛保時代の雑書『諸国里人談』によれば』、『こちらが伝説の本家とされ』、『昭和以前には、埼玉のほうが東京に近く知名度が上ということもあり、埼玉を本家と支持する意見が多かった』。『歌舞伎の『黒塚』を上演する際に俳優がこちらを参詣することもある』という。『昭和初期には、福島の安達ヶ原と埼玉の足立ヶ原の間で、どちらが鬼婆伝説の本家かをめぐる騒動が勃発した。これに対し、埼玉出身の民俗学者・西角井正慶が埼玉側を「自分たちの地を鬼婆発祥の地とすることは、この地を未開の蛮地と宣伝するようなものだから、むしろ譲ったほうが得」と諭して埼玉側を退かせたことで、騒動は幕を閉じた。かつて黒塚にあった東光寺も後にさいたま市大宮区へ移転しており』、『埼玉の黒塚のあった場所は後の宅地造成により見る影もなくなっている』(これは甚だ面白い経緯と事実である)。『また、岩手県盛岡市南方の厨川にも安達ヶ原の鬼婆伝説があり、ここでは鬼婆の正体は平安中期の武将・安倍貞任の娘とされる。奈良県の宇陀地方にも同様の伝説があり、東京都台東区の「浅茅ヶ原の鬼婆」もこれらと同系統の伝説である』。『安政年間の土佐国(現・高知県)の妖怪絵巻『土佐お化け草紙』にも、「鬼女」と題して「安達が原のばヽ これ也」とある』。『天狗研究家・知切光歳の著書『天狗の研究』によれば、東光坊祐慶の「東光坊」は、熊野修験の本拠地である熊野湯の峯の東光坊に由来するもので、この地の山伏は修行で各地を回る際、「那智の東光坊祐慶」と名乗っていたらしいことから、祐慶を名乗る山伏たちが各地で語る鬼婆伝説がもととなって、日本各地の鬼婆伝説や黒塚伝説が生まれたものと見られている』。『また、前述の埼玉の鬼婆伝説については、氷川神社の神職の人物が、禁をやぶって魚や鳥を捕えて食べようとした際、鬼の面で素顔を隠したことが誤伝されたとの説もある』とある。

「紀州那智の記錄」不詳。識者の御教授を乞う。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年  糸瓜の水も間に合わず / ブログ「鬼火~日々の迷走」十三周年記念 全オリジナル電子化オリジナル注完遂

 

    糸瓜の水も間に合わず

 

 いよいよ最後の九月になった。「仰臥漫録」の「麻痺剤服用日記」は七月二十九日で絶えてしまったが、巻末に記された歌や俳句はその後も絶えなかったらしい。短歌では

 

   九月三日椀もりの歌戲(たはむれに)寄隣翁(りんおうによす)

 麩(ふ)の海に汐みちくれば茗荷子(みやうがこ)の葉末(はずゑ)をこゆる眞玉白魚(またましらうを)

 

というのが最後のものであろう。隣翁はいうまでもなく羯南翁である。

[やぶちゃん注:「仰臥漫録二」の『おくられものの歌數首「病牀六尺」の中にあり』と記した巻頭にあるもの。]

 

 「仰臥漫録」には記されてないけれども、九月五日の「病牀六尺」に左の長歌が出た。

[やぶちゃん注:ブラウザでの不具合を考え、頻繁に改行して示した。後も同じ。以下は「子規居士」で校合したものを示した。後で初出(表記が異なる)を改めて示す。

 

 くれなゐの、旗うごかして、夕風の、

 吹き入るなべに、白きもの、

 ゆらゆらゆらぐ、立つは誰、

 ゆらぐは何ぞ、かぐはしみ、

 人か花かも、花の夕顏

 

 「くれなゐの旗」というのは、佐藤肋骨氏が天津から送って来た樺色の旗で、それが三二旒(にりゅう)床の間の鴨居にかけ垂(たら)してあった。この夕顔は前年「仰臥漫録」によく出て来た扁蒲(へんぽ)ではなしに、夜会草と称する鉢植の花の方である。彼の旗の下にこの鉢を置くと、また変った花の趣になる。「この帛(はく)にこの花ぬひたらばと思はる」といって詠んだのがこの長歌なので、これが最後の歌であった。

[やぶちゃん注:改めて初出で全部(「百十六」回分)を示しておく。

   *

○暑き苦しき氣のふさぎたる一日もやうやく暮れて、隣の普請にかしましき大工左官の聲もいつしかに聞えず、茄子の漬物に舌を打ち鳴らしたる夕餉の膳おしやりあへぬ程に、向島より一鉢の草花持ち來ぬ。綠の廣葉う並びし間より七、八寸もあるべき眞白の花ふとらかに咲き出でゝ物いはまほしうゆらめきたる涼しさいはんかたなし。蔓に紙ぎれを結びて夜會草と書いつけしは口をしき花の名なめりと見るに其傍に細き字して一名夕顏とぞしるしける。彼方の床の間の鴨居には天津の肋骨が萬年傘に代へてところの紳董[やぶちゃん注:「しんとう」。地方の高位の身分の有識者らをさす。]どもより贈られたりといふ樺色の旗二流おくり來しを掛け垂したる、其もとにくだり[やぶちゃん注:「件(くだん)に同じい。]の鉢植置き直してながむれば又異なる花の趣なり。此帛に此花ぬひたらばと思はる。

  くれなゐの、旗うごかして、夕風の、吹

  き入るなへに、白きもの、ゆらゆらゆ

  らく、立つは誰、ゆらくは何ぞ、かぐ

  はしみ、人か花かも、花の夕顏

   *

長歌中の清音はママ。なお、実は初出ではこの本文の後に、罫線が入り、四字下げで『鉢植の朝顏の明日の朝初めて』(改行)『咲くべきを蕾を見手よめる』という後書があるのであるが(現行の刊本にはない)、これは『日本』の編者が添えた半可通の添書きのように思われるが、如何?

「佐藤肋骨」(明治四(一八七一)年~昭和一九(一九四四)年:旧姓は高橋。養嗣子。肋骨は本名らしい)は後、陸軍少将で衆院議員・俳人。既出既注であるが、再掲しておく。『在外武官として』は二十『年余に及び、退役後は衆院議員、東洋協会理事、拓殖大学評議員、大阪毎日新聞社友などを務めた。支那通として知られ』、『「満蒙問題を中心とする日支関係」「支那問題」などの著書がある。近衛連隊に在職中五百木瓢亭、新海非風らに刺激されて俳句の道に入り、子規の薫陶を受けた。日清戦争で片足を失い』、別号を「隻脚庵主人」また「低囊」とも称した。『句集はないが』、『新俳句』『春夏秋冬』などに『多く選ばれている。蔵書和漢洋合わせて』三『千余冊と拓本』一『千余枚は拓殖大学に寄贈された』と、日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」にある。

「樺色」(かばいろ)は赤みのある橙色。

「扁蒲(へんぽ)」「夜会草」孰れも通常、被子植物門双子葉植物綱スミレ目ウリ科ユウガオ属Lagenaria siceraria 変種ユウガオ Lagenaria siceraria var. hispida のことを指す。宵曲はあたかも違う種類のように記しているが(食用の実を成らせることを専らの目的とした本種に対して、鉢植えにして専ら花を楽しむだけのために改良した品種の可能性もあるかも知れぬが)、私は全くの同一種と思う(子規の「病牀六尺」の記載もそう読める)。因みに、「仰臥漫録」の「二」に二枚の子規自筆の写生図が載る。私のこの本電子化注も最後なので、岩波文庫版に載るそれ(図のみ)を以下に転写する。

 

Yugao1

Yugao2

 

二枚目に「卅五年」/「九月三日写」/「夜会草ノ花」と手書きで添えてある。]

 

 この年居士は「煮兎憶諸友歌(うさぎをにてしょゆうのうたをおもう)」をはじめ、比較的多くの長歌を作っている。八月には「おくられるものくさぐさ」六首があり、旱(ひでり)の歌二首がある。旱の歌が

 

 天なるや旱雲(かんうん)湧き、

 あらがねの土裂け木枯る、

 靑人草(あをひとくさ)鼓(つづみ)打ち打ち、

 空ながめ虹もが立つと、

 待つ久に雨こそ降らめ、

 しかれども待てるひじりは、

 世に出でぬかも

 

といい、

 

 旱して木はしをるれ、

 待つ久に雨こそ降れ、

 我が思ふおほき聖、

 世に出でゝわをし救はず、

 雨は降れども

 

といい、二首とも聖ということに言及しているのは注目に値する。

[やぶちゃん注:長歌は前と同様、恣意的に頻繁に改行した。

「煮兎憶諸友歌(うさぎをにてしょゆうのうたをおもう)」「国文学研究資料館所」の「近代書誌・近代画像データベース」内の高知市民図書館・近森文庫所蔵「定本 子規歌集」の「煮兎憶諸友」で画像で読める。

『「おくられるものくさぐさ」六首』上記画像でも続けて読め、一部は以前にその中の一つ、新免一五坊が子規に贈ったヤマメの返礼歌を「歌の写生的連作」の「一五坊」の注で示したが、このは全部が「病牀六尺」の「九十九」(八月十九日)に載る。初出をリンクさせておく。

「旱(ひでり)の歌二首」「国文学研究資料館所」の「近代書誌・近代画像データベース」内の高知市民図書館・近森文庫所蔵「定本 子規歌集」の「旱の歌 二首」で読める。それで以上は校合した。各句改行したのは、実は校合したものが、明らかに読点の後を一字分ほど空けているからでもある。

「あらがねの」枕詞。一説に、粗金(あらがね:精製されていない金属)が土中にあるところからとも、また、金属を打ちきたえる鎚 (つち) の縁で同音の「土(つち)」にかかるとも言う。

「靑人草」人民・民草のこと。「古事記」に出る上代語。「人が増える」ことを「草が生い茂る」のに譬えた語とされる。

「わをし」「吾をし」で「し」は強意の副助詞であろう。]

 

 八月中の居士の手紙には、苦言忠告の書がぽつぽつ見えるが、九月に入ってからの「病牀六尺」にもまたそれがある。「近頃は少しも滋養分の取れぬので、體の弱つた爲か、見るもの聞くもの悉く癪にさはるので、政治といはず實業といはず新聞雜誌に見る程の事皆われをぢらすの種である」とあるように、癪に障った結果が「病牀六尺」に現れたのだとも解釈出来るし、何か目に見えぬ力が居士をしてこの種の文をなさしめたのだとも考えられる。

[やぶちゃん注:以上は「病牀六尺」の「百十九」(九月十日)の頭の部分。例の国立国会図書館デジタルコレクションの初出切貼帳のここで校合した。]

 

 九月九日には左千夫、四方太、節(たかし)の諸氏が枕頭にあった。居士の足にはすでに水腫(すいしゅ)が来ており、病の重大なることを思わしめたが、煩悶叫喚の間にはいろいろ雑談の出る余裕があった。「病牀六尺」百二十二回(九月十一日)には足の腫(は)れたことからはじまって、当日の談片が材料になっている。

[やぶちゃん注:「百二十二」回を初出で示す。

   *

○一日のうちに我瘦足の先俄に腫れ上りてブクブクとふくらみたる其さま火箸のさきに德利をつけたるが如し。醫者に問へば病人には有勝の現象にて血の通ひの惡きなりといふ。兎に角に心持よきものには非ず。

四方太は八笑人の愛讀者なりといふ。大に吾心を得たり。戀愛小説のみ持囃さるゝ中に鯉丈崇拜とは珍し。

四方太品川に船して一網にマルタ十二尾を獲[やぶちゃん注:「え」。]而[やぶちゃん注:「しかも」]網を外はずれて船に飛び込みたるマルタのみも三尾あり、總てにて一人の分前[やぶちゃん注:「わけまへ」。]四十尾に及びたりといふ。非常の大漁なり。昨[やぶちゃん注:「また」。]隅田の下流に釣して沙魚[やぶちゃん注:「はぜ」。]五十尾を獲[やぶちゃん注:「え」。]同伴のもの皆十尾前後を釣り得たるのみと。その言にいふ釣は敏捷なる針を擇ぶことゝ餌を惜しまぬことゝに在りと。

左千夫いふ。性の惡き牛、乳を搾らるゝ時人を蹴ることあり。人之を怒つて大に鞭撻を加へたる上、足を縛り付け、無理に乳を搾らむとすれば、その牛、乳を出さぬものなり。人間も性惡しとて無闇に鞭撻を加へて教育すれば益〻其性を害ふて[やぶちゃん注:「そこなふて」。]惡くするに相違なしと思ふ。云々。

節[やぶちゃん注:「たかし」。]いふ。かづらはふ雜木林を開いて濃き紫の葡萄圃[やぶちゃん注:「ぶだうほ」。葡萄畑。]となさむか。

   *

「八笑人」は「花曆八笑人」(はなごよみはしょうじん:現代仮名遣)のこと。滑稽本。滝亭鯉丈(りゅうていりじょう ?~天保一二(一八四一)年)らの作。五編十五冊(第五編上巻は一筆庵主人作、中巻と下巻は與鳳亭枝成作)。文政三(一八二〇)年から嘉永二(一八四九)年にかけて刊行。気楽な江戸庶民の八人の仲間が集って、文化文政期に盛んであった茶番狂言を仕組むが、思わぬ手違いから美事に失敗するという筋を滑稽に描いたもの。「マルタ」は「丸太」で、条鰭綱コイ目コイ科ウグイ亜科ウグイ属マルタ Tribolodon brandtiiウィキの「マルタ」によれば、最大で五十センチメートル、千五百グラム程度にはなり、大型個体では『近縁種のウグイ』(ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis)『より大型になる。ウグイとの違いは、オスの婚姻色(赤色縦条)がウグイは』二『本であるのに対し、マルタは』一『本しかないことである。自然の状態でウグイと』『容易に交雑するか』どうか『は不明である』。『主に沿岸部から河川河口部の汽水域に生息し、春の産卵期には川を遡上する遡河回遊魚である。幼魚は』一『年ほど河口付近で過ごし』、七~九センチメートル『ほどに成長して海に降る』。『寿命は』十『年ほどと比較的』、『長命である。動物食性で、貝類やゴカイ類、エビなどの甲殻類といった小動物を捕食する』とある。]

 

 十日の『蕪村句集』輪講は居士の加わった最後の輪講である。前日より元気はなかったけれども、なお輪講が済んでから、かつて「病牀六尺」で評した鳴雪翁の句について、翁が『ホトトギス』で応酬したのに対し、切れ切れながら再駁(さいばく)するだけの気力を失わなかった。

 十二日以後「病牀六尺」の記事が目立って短くなる。その文句も未曾有(みぞう)の苦痛を帯ぶるに至った。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。初出で校合した。]

 

  百二十三

○支那や朝鮮では今でも拷問をするさうだが、自分はきのふ以來晝夜の別なく、五體すきなしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。(九月十二日)

  百二十四

○人間の苦痛は餘程極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像した樣な苦痛が自分の此身の上に來るとは一寸想像せられぬ事である。(九月十三日)

  百二十五

○足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石(だいばんじやく)の如し。僅(わづか)に指頭を以てこの脚頭に觸るれば天地震動、草木號叫、女媧氏(ぢよかし)未だこの足を斷じ去つて、五色の石を作らず。(九月十四日)

 

[やぶちゃん注:「女媧氏」古代中国神話で人類を創造したとされる女神。姓は風、文化文明の創造者伏羲(ふっき)とは兄妹又は夫婦とされ、二人が蛇身人首の絡みついた姿で描かれることがある。ウィキの「女媧」によれば、『女媧が泥をこねてつくったものが人類のはじまりだと語られている。後漢時代に編された『風俗通義』によると、つくりはじめの頃に黄土をこねてていねいにつくった人間が』、『のちの時代の貴人であり、やがて数を増やすため』、『縄で泥を跳ね上げた飛沫から産まれた人間が凡庸な人であるとされている』。『『楚辞』「天問」にも「女媧以前に人間は無かったが女媧は誰がつくったのか」という意味のことが記されており、人間を創造した存在であるとされていた』。『また『淮南子』「説林訓」には』七十『回生き返るともあり、農業神としての性格をも持つ』。『伏羲と共に現在の人類を生みだした存在であると語る神話伝説も中国大陸には口承などのかたちで残されている。大昔に天下に大洪水が起きるが、ヒョウタンなどで造られた舟によって兄妹が生き残り、人類のはじめになったというもので、この兄妹として伏羲・女媧があてられる。このような伝説は苗族やチワン族などにも残されている』。『聞一多は、伏羲・女媧という名は葫蘆(ヒョウタン)を意味する言葉から出来たものであり、ヒョウタンがその素材として使われていたことから「笙簧」』(しょうこう:笙のようなリード楽器)『の発明者であるという要素も導き出されたのではないかと推論仮説している』。『『淮南子』「覧冥訓」には、女媧が天下を補修した説話を載せている。古の時、天を支える四極の柱が傾いて、世界が裂けた。天は上空からズレてしまい、地もすべてを載せたままでいられなくなった。火災や洪水が止まず、猛獣どもが人を襲い食う破滅的な状態となった。女媧は、五色の石を錬(ね)りそれをつかって天を補修し(錬石補天)、大亀の足で四柱に代え、黒竜の体で土地を修復し、芦草の灰で洪水を抑えたとある』とある。子規の「五色の石を作らず」とはそのカタストロフの天地の修復・再生・蘇生を引っ掛けた洒落である。阿鼻叫喚の痛みとともにこの期に至っても諧謔を忘れぬ子規は、やはり、タダモノではない。]

 

 十四日の朝、前夜一泊した虚子氏に口授して文章を筆記せしめた。「九月十四日の朝」がそれである。居士は「病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持(もっ)てこの庭を眺めた事はない」といい、「何だか苦痛極(きわま)って暫く病気を感じないようなのも不思議に思われた」といっている。一種いうべからざる沈黙の気が文章全体に添っていて、「たまに露でも落ちたかと思うように、糸瓜の葉が一枚二枚だけびらびらと動く」というような小さな描写も、そのままには看過しがたいような気がする。納豆売が来たのを聞いて、自分が食いたいわけではないが少し買わせる。「余の家の南側は小路にはなって居るが、もと加賀の別邸内であるので、この小路も行きどまりであるところから、豆腐売りでさえこの裏路へ来る事は極て少いのである。それでたまたま珍しい飲食商人が這入(はい)って来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる」というのである。居士の心持はこの期に至っても決して曇っていなかった。

[やぶちゃん注:以上の「九月十四日の朝」の引用部は、口述筆記であることを考慮して、敢えて全くいじらず、底本のママとした。明治三五(一九〇二)年九月二十日発行の『ホトトギス』に掲載された。子規が没する前日である。「青空文庫」のこちら(「病牀に於て」の副題がある)で正字正仮名版が、こちらで新字新仮名版が読める。]

 

 居士が世の中に通した文章としては、先ずこの一篇を最後のものと見るべきであろう。「病牀六尺」は十五日には出たが、十六日は休み、十七日の百二十七回分は西芳菲山人(ほうひさんじん)の来書を以てこれに代えた。山人も「病牀六尺」の二、三寸に過ぎず、頗る不穏なのを見て見舞を述べ、「俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか」という狂歌を寄せ来ったのである。これが終に「病牀六尺」の最後になった。

[やぶちゃん注:「西芳菲山人(ほうひさんじん)」西芳菲(にしほうひ 安政二(一八五五)年~?:子規より十二歳歳上)は長崎生まれの理学士。東京帝国大学卒。工業学校長。教職の傍ら、狂歌などをよくし、正岡子規などとも交流があった。明治二二(一八八九)年二月十一日の大日本帝国憲法発布の日、森有礼文部大臣が暴漢に殺害された事件を題材にした狂句「ゆうれいが無禮のものにしてやられ」「廢刀者出刃包丁を橫にさし」を新聞『日本』に投句、これが後に同紙が川柳欄を開設する契機となり、明治新川柳の牙城となる端緒となった。後に彼は『日本』の時事句欄の選者ともなっている(以上は冨吉将平氏の論文「前田伍健の新出史料について」(二〇一六年十月発行の『松山大学論集』(第二十八巻第四号)の抜刷(PDFでダウン・ロード可能)に拠った)。達磨の収集家でもあったらしい。]

 

 何か写生するつもりで画板に紙の貼ってあったのを、無言で傍に持ち来らしめ、

 

 糸瓜咲て痰のつまりし佛かな

 をとゝひのへちまの水も取らざりき

 痰一斗糸瓜の水も間にあはず

 

の三句をしたためたのは、十八日の午前である。これが居士の絶筆であった。

[やぶちゃん注:辞世三句は、全く別に、絶筆画像を見て、表記文字を比定した。句の提示順序は宵曲のそれに従った。因みに「へちま水」は鎮咳・利尿・むくみの除去などの効果があるとされ、古くから化粧水としても用いられた。]

 

 この日はあまりものもいわず、昏睡状態が続いていたが、その夜母堂も令妹も、一人残って泊っていた虚子氏も、誰も気づかぬうちに、居士の英魂は已に天外に去っていた。あまり蚊帳の中の静なのを怪しんで居士の名を呼んだ時は、手は已に冷え渡って、僅に額上に微温を存するのみであった。時に九月十九日午前一時、虚子氏が急を報ずるために外へ出たら、十七夜の月が明るく照っていたそうである。

[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年九月十九日は前日十八日が満月で、子規が没する一時時間前のその日が旧暦八月十七日であったのである。]

 

 『ホトトギス』第六巻第十一号は八月に出るはずのが出ず、九月二十日に至って漸く発行された。居士の文章は「天王寺畔の蝸牛廬(かぎゅうろ)」及「九月十四日の朝」の二篇がこの号に載っている。

[やぶちゃん注:「天王寺畔の蝸牛廬(かぎゅうろ)」既出既注。]

 

 「天王寺畔の蝸牛廬」は「月の都」執筆当時の回想を述べたもので、以前に筆記してあったのが偶然この号に掲げられたのである。「子規子逝く。九月十九日午前一時遠逝せり」という簡単な広告を「九月十四日の朝」の余白に辛うじて組入れることが出来た。

[やぶちゃん注:先に示した「青空文庫」のこちら(「病牀に於て」の副題がある)正字正仮名版の末尾に、

   *

        子規子逝く

       九月一九日午前

       一時遠逝せり

   *

とある(字下げはママ)のがそれである。]

 

 居士の遺骸は二十一日午前九時、滝野川(たきのがわ)村字田端大竜寺(だいりゅうじ)に葬られた。会葬者は百五十余名に及んだ。戒名は「子規居士」と定め、明治三十八年に至って羯南翁の筆に成る墓石が建てられた。

 

 以上が子規居士三十六年の生涯の大体である。著者はここに至って更に結語や論讃めいたものを附加えようとは思わぬ。それは最初に予定した頁を超過したためばかりではない。居士の一生を要約して全体を結ぶような、適当な言葉を発見し得ないためである。

 孫悟空のように一度伸した如意棒を、また縮めて耳の中に収める手際を有せぬ限り、この辺で筆を擱くより仕方があるまいと思う。

[やぶちゃん注:三段落前と二段落前の間の一行空けは底本のママ。以上が本書のコーダである。

「滝野川(たきのがわ)村字田端大竜寺」現在の東京都北区田端の真言宗和光山(わこうさん)興源院大龍寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。ミネコ氏のブログ「本トのこと。」の「正岡子規のお墓参りと田端文士村記念館へ行ってきました」がバーチャルによい。

「子規居士三十六年の生涯」正岡子規は一八六七年十月十四日(慶応三年九月十七日)生まれで明治三五(一九〇二)年九月十九日であるから、満三十五歳に満たずして亡くなっている。

 最後に。本章を以って私のオリジナルな柴田宵曲「子規居士」(「評伝 正岡子規」の原題)の電子化注を終了する。因みに、私はこの最終章の公開を、このブログ「鬼火~日々の迷走」の十三周年記念日(2005年7月5日始動)に合わせた。私のブログを愛読して下さる諸氏に心より感謝申し上げる――2018年7月5日朝 藪野直史――

2018/07/04

諸國里人談卷之三 短册塚

 

    ○短册塚(たんざくづか)

奧州高舘(たかだち)の城跡(しろあと)は、今、過半、畑(はた)となり、僅に殘りける墁(なだらか)なる芝山也。小草(〔こ〕ぐさ)、茂合(しげりあひ)たるに、片岡・猿尾〔ましを〕・龜井等の討死の跡は、松を栽(うへ[やぶちゃん注:ママ。])て、むかしを殘せり。一とせ、芭蕉行脚の時、

   夏草やつはものどもが夢の跡   芭蕉

所の門人、此たんざくを茲(こゝ)に埋(うづみ)て碑を立〔たつ〕。此発句、彫(ほり)て「短尺塚〔たんざくづか〕」と号して、今に存す。

[やぶちゃん注:「高舘」現在の岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所で義経堂が建つ。(グーグル・マップ・データ)。義経堂公式サイト。義経一党が自刃したのは、文治五年閏四月三十日でユリウス暦一一八九年六月十五日(グレゴリオ暦換算では六月二十二日相当)で享年三十一、芭蕉が訪れたのは、元禄二年五月十三日でグレゴリオ暦一六八九年六月二十九日で、当時、芭蕉は数え四十六歳であった。しかし、この「短册塚」或いは「短尺塚」(後者の本文ルビは私が振ったが短冊と短尺は同義で用いるので誤りではない。但し、③では後も「短册塚」となってはいる)は高館跡(判官館跡/義経堂)にない。私は当初、これはサイト「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の第三集「芭蕉と平泉」の高館たかだちについてに記載のある、明和六(一七六九)年に高館から毛越寺(もうつじ)に移した芭蕉真筆の句碑がそれであろうと思ったのだが、「平泉観光」の「芭蕉句碑」を見ると、この碑の建立年を宝暦七(一七五七)年とするのだ。これでは、本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、違う。ということは、そこには失われた芭蕉のプロトタイプの「短冊塚」がかつて存在したということであろうか? 私は疑っているわけではない。芭蕉の門人の中に、そんなフリーキーな奴がいたとしても、これは少しもおかしくはないとは言える。但し、そのためにはその閉区間での実在を証明する他の実地で見聞したとする一次資料が必要だ、というより、あったなら、これは複数の人が記していなくてはならない。それを御存知の方は、是非、御教授あられたい。なお、「奥の細道」の平泉寺訪問の下りは私の今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 31 平泉 夏草や兵ものどもがゆめの跡 / 五月雨を降りのこしてや光堂及び今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 32 平泉 光堂での棄てられた一句 螢火の晝は消えつゝ柱かなを参照されたい。

「片岡」片岡常春(生没年未詳)は義経とともに討ち死にしたとされる人物。ウィキの「片岡常春より引く。『平忠常の子孫である両総平氏一族・海上庄司常幹の子。通称は太郎、もしくは次郎、八郎とも。片岡氏は常陸国鹿島郡片岡を名字の地とするが、本領は下総国三崎(海上)庄であった』。養和元(一一八一)年三月、『片岡氏が源頼朝と対立した佐竹氏と縁戚であった事から、頼朝に謀反の疑いをかけられ、常春を召還すべく下総に雑色が派遣された。常春は領内に乱入したとしてこれを傷つけ、縛り上げて晒し者にした事から罪科が重なったとして所領を没収された』。『その後』、『許されて源義経の平氏追討の陣に従い、『延慶本平家物語』では壇ノ浦の戦いで海中から浮かび上がった』神璽を『拾い上げる手柄を立てている』。文治元(一一八五)年十月、『常春は舅の佐竹義政に同心したとして』、『再び謀反の疑いをかけられ、所領である下総国三崎庄を没収され、千葉常胤に奪われている。その数日後、頼朝と対立して都から西国へ落ちる義経の一行の中に、「片岡八郎弘経(弘綱)」の名が見られる』。『『吾妻鏡』上では「片岡太郎常春」「片岡次郎常春」「片岡八郎常春」、「片岡八郎為春」「片岡八郎弘経」と名前や通称が不統一に散見されるが、次郎もしくは太郎を称した常春と、八郎為春(別名が弘経)という兄弟の存在が想定される』。文治五(一一八九)年三月に『三崎庄は常春に返還される沙汰が出されたが』、十三『世紀初頭には』、『この地は千葉常胤の子東胤頼の所領になっている事から、片岡氏は奥州合戦前後に滅亡したものと思われる』。『『義経記』では、片岡経春(片岡八郎)が義経の都落ちに従い』、文治五(一一八九)年)閏四月に』『平泉で自害した義経に殉じたとしている。兄弟とみられる弘経は都を落ちる義経に同行しているが、常春が都落ち後の義経に従っていたかどうかは不明。平泉付近には、彼が討ち死にした場所に植えられたという「片岡の松」が保存されている』とある。

「猿尾〔ましを〕」「猿尾の三郎」(「源平闘諍録」)は同じく義経に最期まで付き従った家臣の一人とされるが、詳細は不詳。猿尾氏は武蔵国比企郡北方の麻師宇(ましう/ましお)郷(現在の埼玉県比企郡小川町附近)を拠点としていた豪族である。

「龜井」亀井重清(?~文治五(一一八九)年)も同じく主君義経とともに果てたとする郎党の一人。ウィキの「亀井重清によれば、『穂積姓、藤白鈴木氏の一族、または佐々木氏の一族で、兄に鈴木重家がいた。弓の名手と伝わる』。「吾妻鏡」の文治五(一一八五)年五月七日の条に『兄頼朝の怒りを買った義経が、異心のない証として鎌倉へ起請文を送った使者として亀井六郎の名が見られる。この起請文は、義経がそれまで勝手な振る舞いをしてきて、今になって頼朝の怒りを聞いて初めてこのような使者を送って来たものとして許されず、かえって頼朝の怒りを深める原因になった』。また、「源平盛衰記」では『一ノ谷の戦いで義経の郎党亀井六郎重清として登場する』。「義経記」では『義経最期の衣川の戦いで「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年』二十三『」と名乗り、奮戦したのち』、『兄と共に自害した。弓の名人であったと』する。『重清の兄とされる重家は』、「源平盛衰記」にも『義経郎党』として名が見え、また、「続風土記」の『「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で鈴木重家と義兄弟の契りを交わしたとされる。鈴木は紀伊国熊野三党の一つで、海南市藤白に鈴木屋敷と伝えられる所がある』とある。]

諸國里人談卷之三 阿漕塚

 

   ○阿漕塚(あこぎづか)

伊勢國安濃津(あのつ)阿漕浦(あこぎのうら)の野中(のなか)に、榎(ゑのき)の古木(こぼく)を栽(うへ[やぶちゃん注:ママ。])し塚あり。漁獵(ぎよりやう)平次が塚也。【あこぎの事は世にしれる所なり。略ㇾ之。】」毎年七月十六日、津の岩田橋(いはたのはし)にて、深更にきけば、沖に網引(あびき)の聲するといひつたへたり。また、孟蘭盆(うらぼん)の内、近在の子供・童(わらんべ)、大勢つらなり、燧(ひうち)・火打石を以〔もつて〕、大路を切火(きりび)する事、あり。「あのゝこのゝなんあみだ、あこぎ菩提、なんまみだ」とはやしてあるく事、おびたゞし。これを制(せい)すれども、あへてきかず、隱れしのび出〔いで〕て、此事をなすなり。いつの頃、誰(たれ)人のはじめたるといふをしらず。阿漕がぼだいを吊(とふ)謂(いゝ[やぶちゃん注:ママ。])なり。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:挿絵有り(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースの①の画像)。

「阿漕塚」現在の三重県津市乙部にある浄土真宗太楽山上宮寺(じょうぐうじ)。津市最古の寺((グーグル・マップ・データ))に現存する。サイト「日本伝承大鑑」の阿漕塚」を見られたい。

「伊勢國安濃津阿漕浦」現在の三重県津市津興(つおき)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「あこぎの事」阿漕ヶ浦は古くより伊勢神宮に供える魚を獲るための禁漁域であったが、「阿漕の平次」と呼ばれる漁夫が、禁制を犯して繰り返し密漁を行ったために捕らえられたという伝承があり、古くは「古今和歌六帖」の歌「逢ふことを阿漕の島に引く網のたび重ならば人も知りなむ」が知られ、この話から能「阿漕」などのさまざまな話が創作された。室町期に成立した「源平衰退記」では、既に「あこぎ」を「度重なること」の比喩として使い、近世以降には「しつこいさま」の意味で使われるようになり、その後、「しつこくずうずうしいこと・義理人情に欠けていてあくどいこと・無慈悲に金品を貪ること」の意に定着した。以下、WEB画題百科事典「画題Wiki」の「東洋画題綜覧」の「阿漕が浦」を引く。『阿漕が浦は勢州阿濃郡にある、昔から阿古木の浜辺に古墳一堆榎一本あつてこれを阿漕の明神と云ふ、昔納所村から太神宮へ御供調進の砌此の浦にて贄の佳肴を漁した、其故に伊勢の海士の世を渡る漁りを禁戒してゐた処、あこぎといふあま、夜々忍んで網を引き渡世としてゐた処遂にあらはれて罪科に行はれ、此の浦の波間に沈められた、その悪霊祟りをなすので、十の祢宜より社を祠り悪霊邪気の沙汰も鎮まつた、それから毎七月十六夜はかの幽霊が網を引いた日とて、その夜に限り漁を断絶した(勢陽雑記)』。『謡曲の『阿漕』は此の伝説を骨子とした元清の作、前シテ漁翁、後シテ阿漕、ワキ旅僧である、一節を引く』(恣意的に漢字を正字化し、踊り字「〱」を正字化し、読点も追加した)。

   *

此浦を阿漕が浦と申す謂御物語り候へ、「總じて此浦を阿漕が浦と申すは、伊勢太神宮御降臨より以來、御膳調進の網を引く所なり、されば、神の御誓によるにや、海邊のうろくづ此所に多く集まるによつて、浮世を渡るあたりの海士人、此處にすなどりを望むといへども、神前の恐れあるにより、堅くいましめて、是を許さぬ所に、阿漕といふ海士人、業に望む心の悲しさは、夜々忍びて網を引く、しばしは人も知らざりしに、度重なれば、顯はれて、阿漕をいましめ、所をもかへず、此浦の沖に沈めけり、さなきだに伊勢のをの、海士の罪深き身を苦しみの海の面、重ねておもき罪科を受くるや、冥度の道までも「娑婆にての名にしおふ今も阿漕が恨めしや、呵責の責もひまなくて、苦しみも度重なる罪弔らはせ給へや、「恥かしや、古を、語るもあまり、實に阿漕が浮名もらす身の、なき世語のいろいろに、錦木の數積り千束の契り忍ぶ身の阿漕がたとへ浮名立つ、憲淸と聞えし其歌人の忍妻、阿漕々々といひけんも責一人に度重なるぞ、悲しき。

   *

但し、先のサイト「日本伝承大鑑」の阿漕塚」にも載るが、伝承のヴァージョンの一つでは、母の病いを癒すためにヤガラ(条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヤガラ科ヤガラ属 Fistularia。本邦近海ではアカヤガラ Fistularia petimba 及びアオヤガラ Fistularia commersonii が棲息)を漁をし、役人に捕まり、莚に巻かれて阿漕浦に投げ入れられて死んだことになっている。「三重県」公式サイト内の阿漕平治を参照されたい。そこにはその後の怪奇現象(真夜中に沖で網打つ音が聴こえ、その網の音や泣き声を聴いた者が病いとなる)と彼の慕っていた上宮寺の西信(さいしん)津師が彼の霊を鎮めたことも記されてある。

「七月十六日」先の「三重県」の阿漕平治では八月十六日となっているが、旧暦旧盆であろう。

「岩田橋(いはたのはし)」現在の三重県津市の岩田川に架かる国道二十三号(伊勢街道)の橋。ウィキの「岩田によれば、『初めて岩田橋が架橋された時期は不明であるが、江戸時代初期には木橋が架けられ、欄干が擬宝珠で装飾されていた。「参宮道中の橋に擬宝珠をつけたのは、瀬田の唐橋とこの岩田橋以外には天下にない」といわれていた。当時の橋の大きさは幅 三間』(約五・四メートル)、長さ 三十六間(約六十五メートル)『だった』という。(グーグル・マップ・データ)。

「網引(あびき)」万葉以来の古語の読み。

「燧(ひうち)・火打石」衍字ではなく、前が鋼鉄片の「火打金(ひうちがね)」で、後が石英などの「火打石」であろう。この二つを打ち合わせて、清めのための「切火(きりび)」、火花を打ち出すのである。ここには平次(平治)を御霊(ごりょう)とし、それを鎮める意味が込められているように思われる。

「大路をする」街道を行き来する。

「あのゝこのゝなんあみだ、あこぎ菩提、なんまみだ」「阿の」を「のこ」(或いは「阿の「漕「の子」)「の南無阿彌陀、阿漕」が「菩提」、「南無阿彌陀」か。

「これを制(せい)すれども、あへてきかず、隱れしのび出〔いで〕て、此事をなすなり」権力(役人というよりも神宮のそれ)への民衆の秘かな抵抗意識、特に前の念仏から浄土真宗信徒を中心としたそれが私には強く感じられる。三重県の浄土系の仏教徒は現在、八十%で全国的にも実は非常に高い。

「吊(とふ)」言わずもがなであるが、「とふ」には「弔(とむら)う」の意がある。]

諸國里人談卷之三 野守鏡

 

    ○野守鏡(のもりかゞみ)

南都春日飛火野(とぶひの)に野守池(のもりのいけ)あり。雄略帝、御狩(みかり)の時、鷹、翦(それ)て野に來(きた)る。一人の野守、鷹のある所をしりて、これを奏す。池水(いけみづ)に其影のうつるを見て、居ながらこれを知〔しれ〕り。よつて「野守の鏡」と云。

 箸たかの野守の鏡得てしがな思ひおもはずよそながら見ん

[やぶちゃん注:「南都春日飛火野(とぶひの)」奈良県奈良市街の東、春日大社に接する林野。「とびひの」とも呼ぶ。和銅五(七一二)年に急を告げるための烽火(のろし)台が置かれた地で、「万葉集」などの古歌に詠まれ、歌枕としても知られる。

「野守池(のもりのいけ)」能の「野守」などで知られ、何人かの方が位置を探しておられるが(例えば、或いは。前者では「鷹の井」なるものもあるらしい)、どうやら、確定比定出来る池は現在の飛火野にはないらしい。

「雄略帝」第二十一第天皇。在位は安康天皇三(四五六)年から雄略天皇二三(四七九)年とする。辞書には「袖中抄」などに見える故事とする。

「翦(それ)て」本字は「剪(き)る・挟み切る・切り揃える・挟む」、「削(そ)ぐ・削(けず)る」、「滅ぼす」の意であってピンとこない。狭義の御狩場から逸(そ)れるように周縁の野原に飛んで行って見失った、の謂いであろう。

「野守」御狩場ではなく、その周縁の禁足地である御料地の野の番人であろう。

「鷹のある所をしりて、これを奏す。池水(いけみづ)に其影のうつるを見て、居ながらこれを知〔しれ〕り」野中の溜まり水に物影が映るのを鏡に譬えたもの。能の「野守」を読むと、『来合わせた野守の老人に尋ねたところ、「ここの沼の底におります」と答えるので、狩人が水面を覗くと、確かに水底に鷹の姿が見えた。よく見ると、それは木の枝に止まった鷹の姿が水鏡に映ったものだった』とある(「喜多流流大島能楽堂」公式サイト内の鑑賞手引 野守り)のページより引用)。なお、同能は複式夢幻能で、前シテの野守の老人が、後シテでは鬼神となって示現する展開となっていて、そこでは「野守の鏡」は発展して、実は、ありとある全宇宙の、恐れ慄くべき様態をまざまざと映し出す「禁断の鏡」として出現することになる。

「箸たかの野守の鏡得てしがな思ひおもはずよそながら見ん」「新古今和歌集」の巻第十五の「恋歌五」に載る、よみ人知らずの一首(一四三二番)、

 はし鷹の野守の鏡得てしがな思ひ思はずよそながら見ん

――はしたかの居所を美事に映し出したという「野守の鏡」が欲しいものだ――あの人が私を思って呉れているかいないか、それに映し見られるように――。和歌では「野守の鏡」は「普通では見えないものを見ることが出来る鏡」の意で専ら使われる。「はしたか」は狭義の種としてはタカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus で、ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis とともに鷹狩に用いられた。ただ、「はいたか」は一般には「疾(はや)き鷹」の転訛とされるが、しかし、「箸鷹」とも書いた場合、これは鷹狩用に捕えたばかりの鷹を鳥屋(とや)に入れる前には、儀式として古い箸を焼いて入れることによる、ともあり、又は、神聖な箸を火に焼いて、その火影で鷹を鳥屋から出す、ともあった。されば、ここはハイタカに限定する必要はないようである。

諸國里人談卷之三 迯水

 

   ○迯水(にげみづ)

武藏野にあり。むさし野と云ふは中野の西、代々木野(よゝぎの)・宇陀野(うだの)といふ邊(へん)より、府中の邊までの曠野(くはうや)なり。迯水は、まことの水にあらず。むさし野の漭(ばうろう)の草もわかく生(おい)たちて、麗(うらゝか)なる春のそらに、地氣(ちき)立(たち)て、こなたより見れば、草の葉末(はすえ[やぶちゃん注:ママ。])をしろじろと水の流るゝごとくに見ゆる也。その所に至りて見れば、その影、なくて、また、むかふに、流るゝごとくの影あり。いづれまでも其(その)所を、さだめず。行(ゆく)ほど、先へ行(ゆき)て、迯行(にげゆく)やうなるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、かく名付(なづけ)たり。春より夏かけて、あり。秋冬は、なし。

夫木

                   俊賴

 あづま路にありといふなる迯水のにげかくれても世を過すかな

[やぶちゃん注:挿絵有り(リンク先は早稲田大学図書館古典総合データベースの①の画像)。お馴染みの気象現象としての「逃げ水」は地表近くで見られる蜃気楼現象の一種で、晩春から夏にかけて、よく晴れた日に、強く熱せられた道路のアスファルト面などを遠くから視線を低くして見ると、水たまりがあるように見えることがある。これは、地面付近の気温が非常に高くなったために起こる光象で、「地鏡(ちかがみ)」「擬水面現象」とも呼ぶ。しかし、気象学者がこの現象を専ら「逃げ水」と呼ぶようになったのは、大正末期からのことであり、古来、歌に詠まれて有名な「武蔵野の逃げ水」が、このような蜃気楼現象を挿したかどうかの確証はない。ここに書かれた古来の「逃げ水」の正体として、これを武蔵野特有の伏流水(末無(すえなし)川。小川の末流が地中に浸み込んで消滅してしまう現象)とする説もあるが、「逃げ水」は、江戸時代の儒者斎藤鶴城(かくじょう)が「武蔵野話」で述べているように、山裾のような地帯の、ほんの一メートルくらいの高さで低く這うような形で発生する霧か靄(もや)ではないかと思われる。そのような所を人が歩いて行くのを遠くから見ると、見え隠れしながら、水中を歩いて行くように見えるといわれる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠ったが、これはなかなか目から鱗だ)。

「代々木野(よゝぎの)・宇陀野(うだの)」サイト「すむいえ情報館」の【ヨヨギ】代々木の由来 1丁目~5丁目によれば、「代々木」の地名は『①』として「東都一覧武蔵考」(書誌不詳)によれば、『駒場野まで続く原野(代々木原)』(=「代々木野」)『に明治神宮も代々木練兵場(代々木公園)もなかった頃はサイカチの木が多く自生していて、その実は当時の石鹸』の代用品『であり、漢方では利尿・去痰(たん切り)に効く薬となるので、村では代々』、『収穫していた。つまりサイカチは「代々受け継ぐ木」だった』とし、『②』として『明治神宮は元は加藤清正の下屋敷で、同家断絶後は井伊大老家が継ぎ、維新後は皇室御料地となっていたが』、大正九(一九二〇)年十一月一日、明治『神宮が造営された』が、その『東門のところに一本の樅の巨木があり、代々受け継がれてきた。「代々の樅の木」→「代々の木」→「よよぎ」と転訛して何時しかそれが村名になった』(これは「大日本名所図会」に拠るらしい)。『この木は幾代か植え継がれたものらしく、幕末のものは高さ』五十メートル、幹周り十メートルもあって馬三頭を繋いでも、その姿が隠れて『見えなかったという。写真で見る限りそんな風には見えないが、確かに巨木ではあった。安藤広重が『代々木村の代々木』に描いており、当時は東京タワーのように遠くからも見え、旅路の目印だったとも伝わる』。『幕末に黒船が来た時、井伊家ではこの木に登ってそれを監視している。明治の中ごろに枯れたとも、戦災で焼け落ちたともいわれ』、昭和二七(一九五二)年四月三日、『新しい樅ノ木が植えられ』、看板が添えられてういるらしい。孰れの説にしろ、『代々木は代々木の杜の木』であるとする(ここに明治天皇御製三首が入るが、省略する)。続いて、『代々木村』についての記載があり、本書の作者菊岡沾涼が本書に先立つ九年前に板行した江戸の地誌(現在のムック本)「江戸砂子」(「江戸砂子温故名跡志」とも称する。享保一七(一七三二)年刊。編集に八年をかけ、江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している)によれば、江戸以前、代々木本町の北の辺り、現在の初台一~二丁目・西原一~三丁目・代々木四~五丁目は「宇陀野」と称し、渋谷川の支流である宇田川(現在は完全に暗渠化。町名としての「宇田川町」に名が残る)は「宇陀野を流れ出た川」の意であるとする。また「武蔵野」はこの「宇陀野」と「武蔵府中」の間のことを指すのだと言う。『村としての起立は江戸時代初期のようで、それ以前には宇陀村も代々木村も見られない。村名はともかく、古代遺跡が八幡神社にあることからして』、『集落があり』、『人々の生業(なりわい)があったことは疑う余地はない。宇田川流域(代々木本町から富ヶ谷の低地)が、古代においては江戸湾の深い入江で、江戸末期まで深町一円(代々木深町交差点からNHKの西側低地)は巨大な池沼だったことが判っており、明治初期に泥中から古い巨船が発掘されたという記録からして、他地域との交易もあったと考えられる』とある。

「漭(ばうろう)の草」「漭」(ボウ)も「」(ロウ)も「広大」なさまであるから、見渡す限りの広野の草の意。

「夫木」「夫木和歌抄」。鎌倉後期の私撰和歌集。全三十六巻。藤原長清撰。延慶三(一三一〇)年頃の成立とされる。「万葉集」以後の家集・私撰集・歌合などの撰から漏れた歌一万七千余首を四季・雑に部立てし、約六百の題に分類したもの。以後の勅撰集に備える目的と、歌道に志す人の参考書という性質としても編まれたものである。「夫木和歌集」「夫木抄」とも呼ぶ。

「俊賴」前出の歌論書「俊頼髄脳」で知られた歌人源俊頼(天喜三(一〇五五)年~大治四(一一二九)年)。堀河院歌壇の中心的存在であり、白河法皇の命により、「金葉和歌集」を撰進しており、勅撰集には二百十首も入集している。篳篥(ひちりき)の名手でもあったが、官途に恵まれず、木工頭(もくのかみ)で終わり、後年は不遇であり、遅くに出家をしているようである。或いは本歌は、一般的観念詠ではなく、そうした晩年の出家遁世の孤独な彼の影を偲ばせるものなのかも知れぬ。

「あづま路にありといふなる迯水のにげかくれても世を過すかな」「夫木和歌抄」の巻二十六の「雑八」にある。

2018/07/03

諸國里人談卷之三 室八島

 

     ○室八島(むろのやしま)

下野國惣社(そうじや)村室八嶋明神【壬生にちかし。】、野中に淸水あり。其水氣(すいき)、立登(たちのぼり)て、煙(けむり)のごとく見ゆるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に、「むろのやしまの煙」とはよめり。法性寺(ほうしやうじ)内大臣の歌合(うたあはせ)の時、攝津(せつつ)が、「絶えずたく室のやしま」とよみけるを、判者俊基(としもと)[やぶちゃん注:ママ。]、「たえずたく」の五文字を難じけるなり。まことの煙にあらざるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、とぞ。

                    實方

 いかでかはおもひありともしらすべきむろのやしまの煙ならでは

返し                   女房

 しもつけやむろの八嶋にたつ煙おもひありとも今こそはしれ

[やぶちゃん注:「室八島」「室八嶋明神」は栃木県栃木市惣社町にある大神神社(おおみわじんじゃ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。名の由来は歌枕として知られる境内にある池の八つの島(前の地図の左下の写真をクリックされたい)を指すということになっているが、これは如何にもこじつけっぽい個人ブログ「ハッシー27のブログ」の「旅 656 大神神社(栃木市)(1)」は現地案内板を丁寧に電子化しておられ、その辺に転がっている同神社に関する半可通なページよりも遙かに勝れている。その境内地の案内図を見て貰っても、凡そ行って見たくは全然ならないショボさである。要は八百坪ばかりの何の変哲もない濁った汚い池塘に八つの小島があって、その島を太鼓橋風のもので繋げ、それぞれの島に筑波・天満・鹿嶋・雷電・浅間・熊野・二荒山・香取の各小祠を配してあって、お手軽に神(権現)を全部経巡れるというだけのことである。私には全くの後代の付会としか思われない。私は、この怪しげな「室の八島」については、既に『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅2 室の八島 糸遊に結びつきたる煙哉 芭蕉』で拘って考証しているので、それを繰り返すつもりはない。芭蕉は日光への道程をわざわざ三里(約十一・八キロメートル)も遠回りして折角訪れた歌枕であったが、その実際の景観は残念ながら芭蕉が想像していたものとは激しく異なっていたようである。まだ、チンケならチンケなりに池と島があればマシで、実は芭蕉が訪れた当時は池の面影もなかった可能性もあるのである。要は「野中に淸水」は、ある。しかし「其水氣」が「立登」って「煙のごとく見」えることは、そうそうは、ない。冷え込んだ早朝などに、外気よりも、池や川の水温の方が高くなると、暖かい水面上に冷たい空気が接触して水面から蒸気が起つことはあるが、これはここに限ったことではない。或いは、野面で起こった規模の大きな陽炎(かげろう)ででもあったのかも知れぬが、そういう意味では「まことの」燃えた「煙にあらざる」というのは科学的には正しいわけだ(しかし、そんなこと言ったら、比喩は成立せんじゃろうになぁ)。しかし、何も行けもしないし、行きもしない東国の田舎にわざわざ妖しげな設定をするまでもなく、そうした川池から生ずる水蒸気は、寒暖差の激しい水域では結構見られるし、陽炎は京の近場でも幾らも見られる。まあ、〈鄙(ひな)の幻想的なミラージュ〉としては魅力だったものかも知れず、それに神や権現を関係付ければ、歌枕の一丁出来上がりというわけだろうが、私は俳句の季語嫌いと同じように、和歌の歌枕嫌いでもあるので、どうもこういうわけの判らぬ有り難がったところは最も生理的に不快を感ずるところなのである。

「法性寺(ほうしやうじ)内大臣の歌合(うたあはせ)」法性寺(ほっしょうじ)関白正二位内大臣藤原忠通(承徳元年(一〇九七)年~長寛二(一一六四)年)が元永元(一一一八)年一〇月二日に自邸で催したもの。三十六番の歌合で、参加した歌人は二十四人で、判者は源俊頼(天喜三(一〇五五)年~大治四(一一二九)年)と藤原基俊(康平三(一〇六〇)年~永治二(一一四二)年)。以下の判定は「袋草紙」(保元年間(一一五六年~一一五九年)頃に公家で六条家流の歌人であった藤原清輔が著した歌論書)の下巻に載っており、「戀」一番である

「攝津(せつつ)」摂津君(生没年未詳)。二条太皇太后宮令子内親王家の女房で、藤原佐宗の娘。「金葉和歌集」以下に十四首に入集している。

「絶えずたく室のやしま」摂津君は、

 たえずたくむろのやしまの煙(けぶり)にもなほたちまさる戀もするかな

と読み、左は源顕国(永保三(一〇八三)年~保安二(一一二一)年)で、

 さかづきのしひてあひみんとおもへばや戀しきことのさむるまもなき

であった。しかし歌合では、「左俊勝」「右基勝」となっており(佐藤雅代氏の論文「王朝和歌表現論 : 平安中期から院政期へ」(PDF)で確認した)、この「判者俊基」というのは「俊賴」の誤りであることが判明する。則ち、俊頼は摂津君の歌の方を勝ちとしたのある(俊基は顕国の歌を勝ちとしている)。それについて「袋草紙」では、

   *

俊賴云はく、『「たえずたく」といへる、僻事(ひがごと)ともや申すべからむ。かのむろのやしまは、まことに火をたくにはあらず。野中に淸水ありけるが、けのたつが烟とみゆるなり。それを「たく」といはんこと、かたし。右は[やぶちゃん注:顕国の歌。]、たくみのおもしろけれど、かならずよまるべき「さけ」のなきなり。また「のむ」といふこと大切なり。さきのうたは歌めきたれば、勝ともや。」。

   *

と評していて、俊頼は「まことの煙にあらざる」という点では『「たえずたく」の五文字を難じ』ているものの、勝負は摂津君の勝ちとしたのである。因みに、基俊はやはり「むろのやしま」の持つ二つの意味、一つはこの「室の八島」だが、今一つは「人家にある竈(かまど)に土壁を塗り込めたもの」(宮中の「大炊寮(おおいづかさ)」の壁に塗り込めた(それを「室」という)竃が原義かという。これは竈神で「大八島竈神」と呼ばれており、女房詞でその竈を「室の八島」と呼んだというのである)の意(この時代、既にこの「室の八島」という言葉の意味が判らなくなりつつあった証左である)を挙げて、どっちの場合(竈だって、始終、火をつけっぱななしにはしていないという謂いらしい)も絶えず火を焚いちゃいないんだから、おかしい、と訳の判ったような判らないようなことを言って、やはり彼も初五を批判しているから、或いは沾涼は二人の判者をごっちゃにした結果、名前まで合成してしまったようにも見受けられるのである。或いは沾涼は『判者俊・基』と二人のつもりで使ったものか? いや、だったら「としもと」とルビはせんだろう!(ルビは①にもある)。

「實方」藤原実方(天徳四(九六〇)年頃~長徳四(九九八)年)。左大臣師尹の孫。父は侍従定時、母は左大臣源雅信の娘。父の早世のためか、叔父の養子となった。侍従・左近衛中将などを歴任したのち、長徳元(九九五)年に陸奥守となって赴任し、任地で没した。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に六十七首が入集し、藤原公任や大江匡衡及び恋愛関係にあった女性たちとの贈答歌が多く、逆に歌合などの晴れの場の歌は少ない。慣習に拘らない大胆な振る舞いが多く、和歌だけでなく、舞いにも優れた。華やかな貴公子として清少納言など、多くの女性と恋愛関係を持ったが、奔放な性格と、家柄に比して不遇だったことから、不仲だった藤原行成と殿上で争い、相手の冠を投げ落として、一条天皇の怒りを買い、「歌枕、見てまゐれ」といわれて、陸奥守に左遷されたという話などが生まれ、遠い任地で没したことも加わって、その人物像は早くから、さまざまに説話化された(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「いかでかはおもひありともしらすべきむろのやしまの煙ならでは」「詞花和歌集」巻第七の「戀 上」の二首目、

   題不知        藤原實方朝臣

 いかでかは思ひありとも知らすべき室の八嶋の煙(けぶり)ならでは

「いかでかは」は反語。この歌が「室の八島」の歌枕の濫觴とされるようだが、これは実は「大八島竈神」の方らしいのである。しかも「金葉和歌集」(三奏本)にもあり、その詞書は「はじめたる人のもとにつかはしける」とあり、第二句は「思ひありとは」であるとある(水垣久氏のサイト「やまとうた」の「藤原実方」に拠る)。而して、その事実から考えてみれば、これは下野なんぞに行く前に読まれたものであって、下野国の「室の八島」なんで「一昨日来やがれ!」だ。

女房」不詳。前のプレイ・ボーイ実方の歌に合わせて相聞歌に仮託したのであろう。本歌の作者は公卿で学者・書家でもあった大江朝綱(仁和二(八八六)年~天徳元(九五八)年)とされるが、この作者比定は私は頗る怪しいと思う。

「しもつけやむろの八嶋にたつ煙おもひありとも今こそはしれ」これは現在知られている「室の八島」を詠った最古の一首とされるもので、「古今和歌六帖」第三帖の「水」の「島」に載る読人知らずの、

 しもつけやむろのやしまにたつけふりおもひありともいまこそはしれ

であり、これを後に、

 下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今日(けふ)こそは知れ

と大江朝綱がいじったとするのだが、このショボい剽窃は大学者の彼のしそうなことではない。何より、「古今和歌六帖」は成立が不詳で、現在の研究では貞元元(九七六)年から永観元(九八三)年まで、或いは、永延元(九八七)年までの間が一応の目安とされているのであるが、まあ、それでも「下野」「室の八島に立つ煙」は実方以前にその歌枕が形成されていたという有力な証左の一つではあることになる。個人サイト「kyonsightの「神社」では、この問題を取り上げ(コンマを読点に代えさせて貰った)、『朝綱はえらい人なので任地が分かっており、下野には来ていない。すると『古今和歌六帖』の「読人不知」の謎の人物が下野で詠んだか、下野出身者または任を終えた国庁関係者が都で詠んだか。消失した歌人の歌を朝綱が感銘を受けて』二『字かえて詠んだか。いかなる経緯で下野の八島が『古今和歌六帖』に収録されたかは不明』とされる。一つ、サイト「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」の十七芭蕉と室の八島で、「奥の細道」の「室の八島」の段(私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅2 室の八島 糸遊に結びつきたる煙哉 芭蕉』を参照)を解説して、『これは、古事記にある「一夜で懐妊したため貞操を疑われた木花咲耶姫が、不貞でできた子なら焼け死んで出産できないはずと、身の潔白を誓って無戸室に入って火を放ち、燃え盛る炎の中で無事に彦火々出見命ら三柱を産み落とした」という神話に依るもので、大神神社が「かまど(古くはかまどを『やしま』といった)のごとく燃え盛る無戸室」で出産した咲耶姫を祭っていることから「室の八島」と呼ばれるようになったことを説明している』とあるわけだが、そこまで神話の世界に飛び込んで焼かれないと出てこない解釈は、私はどうも胡散臭い。]

子規居士(「評伝 正岡子規」原題) 柴田宵曲  明治三十五年  「病牀六尺」百回

 

    「病牀六尺」百回

 

 「病牀六尺」は六月以降は一日も休まずに掲載された。五月中には何度か闕(か)けた日がある。古嶋一雄氏に宛てた左の手紙は月日を明(あきらか)にせぬが、多分その時分のものであろうと思う。

[やぶちゃん注:「古嶋一雄」ジャーナリストで後に衆議院議員・貴族院議員となった子規の盟友古島一雄(慶応元(一八六五)年~昭和二七(一九五二)年)。既出既注。当時、『日本』の記者。

 以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。「子規居士」で校合した。但し、元はカタカナ漢字交じりであるので、読み易さを考え、底本のひらがなを採用した。]

 

拝啓 僕の今日の生命は「病牀六尺」にあるのです。每朝寐起には死ぬる程苦しいのです。其中で新聞をあけて「病牀六尺」を見ると僅に蘇(よみがへ)るのです。今朝新聞を見た時の苦しさ、「病牀六尺」がないので泣き出しました。どーもたまりません。

若し來るなら少しでも(半分でも)載せて戴いたら命が助かります。

僕はこんな我儘をいはねばならぬほど弱つてゐるのです。

 

[やぶちゃん注:岩波文庫版「病牀六尺」の歌人で小説家・文芸評論家の上田三四二(みよじ 大正一二(一九二三)年~平成元(一九八九)年)氏の解説によれば、実はこれは『新聞が子規の病状を心配して休載の日をつくったことがあった』が、その際に子規が寄せたものであると記されてある。]

 

 居士はこの意味において怠らず原稿を送り、『日本』の方も闕かさず載せたので、八月二十日には遂に百回に達した。居士は「「病牀六尺」が百に満ちた」というよろこびの下に、こういうことを書いている。はじめこの原稿を書きはじめた時分に、毎日状袋の上書(うわがき)を書くのが面倒なので、新聞社に頼んで状袋に活字で刷ってもらった。それでさえ病人としてはあまり先の長い事をやるといって笑われはすまいかと心配したのに、社の方では百枚註文した状袋を三百枚刷ってくれた。この数には驚いて、十ヵ月先のことはどうなるか、おぼつかないものだと心配したが、思ったよりは容体がよく、遂に百枚の状袋を費したのは居士としてもむしろ意外であった。「此百といふ長い月日を經過した嬉しさは人にはわからんことであらう。併しあとにはまだ二百の狀袋がある。二百は二百日である。二百は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて來る。果して病人の眼中に梅の花が咲くであらうか」といふのである。

[やぶちゃん注:「病牀六尺」の「百」(文末クレジット「(八月二十日)」)の全文を例の初出で翻刻する。

   *

○病牀六尺が百に滿ちた。一日に一つとすれば百日過ぎたわけで、百日の日月は極めて短いものに相違ないが、それが予にとつては十年も過ぎたやうな感じがするのである。外の人にはないことであらうが、予のする事は此頃では少し時間を要するものを思ひつくと、是がいつまでつゞくであらうかといふ事が初めから氣になる。些細な話であるが、病牀六尺を書いて、それを新聞社へ每日送るのに狀袋に入れて送る其狀袋の上書をかくのが面倒なので、新聞社に賴んで狀袋に活字で刷つて貰ふた。其之を賴む時でさへ病人としては餘り先きの長い事をやるといふて笑はれはすまいかと窃に[やぶちゃん注:「ひそかに」。]心配して居つた位であるのに、社の方では何と思ふたか、百枚注文した狀袋を三百枚刷つて呉れた。三百枚といふ大數には驚いた。每日一枚宛書くとして十箇月分の狀袋である。十箇月先きのことはどうなるか甚だ覺束ないものであるのにと窃に心配して居つた。それが思ひの外五六月頃よりは容體もよくなつて、遂に百枚の狀袋を費したといふ事は予にとつては寧ろ意外のことで、此百日といふ長い月日を經過した嬉しさは人にはわからんことであらう。併しあとにまだ二百枚の狀袋がある。二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて來る。果して病人の眼中に梅の花が咲くであらうか。

   *]

 

 「病牀六尺」が百に達するよほど前から、居士は菓物(くだもの)の写生をはじめた。六月二十七日に青梅を画いたのを手はじめに、丹念な色彩の写生を続けて行った。くだものだけでなしに、南瓜(かぼちゃ)とか、茄子とか、胡瓜とかいうものを画いた日もあるが、とにかく八月六日までの間に十八の写生を完了した。而して菓物帖を画き上げるより早く、八月一日には別の画帖に移って草花の写生をはじめている。この写生画は一枚の葉を画くに当っても、何度となく絵具を塗抹し、実物の感じを出そうと力(つと)めたもので、健康者が画くにしても恐るべき努力を要するものである。

 居士は「病牀六尺」に次のように書いた。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。前後を一行空けた。以下も同じ。初出で校合した。前は「八十七」(後の文末「(八月七日)」クレジット分)の全文で、次のものは「八十九」「(八月九日)」クレジット分)の全文である。]

 

草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に寫生して居ると、造化の秘密が段々分つて來るやうな氣がする。

 

またこうも書いて居る。

 

或繪具と或る繪具とを合せて草花を畫く、それでもまだ思ふやうな色が出ないと又他の繪具をなすつてみる。同じ赤い色でも少しづゝの色の違ひで趣きが違つて來る。いろいろに工夫して少しくすんだ赤とか、少し黃色味を帶びた赤とかいふものを出すのが寫生の一つの楽みである。神樣が草花を染める時も矢張りこんなに工夫して樂んで居るのであらうか。

 

居士はモルヒネを飲んでから写生をやるのを何より樂(たのしみ)し、うまく画けても画けないでも、だんだんに写生帖の画き塞がれて行くのがうれしくて堪(たま)らなかったのである。

[やぶちゃん注:当該項(「八十六」・後の文末「(八月六日)」クレジット分)は初出全文を既に注で電子化してある。]

 

 草花帖の最後に羯南翁のところから朝顔の鉢を借りて来て、牛後から写生をやっているところへ、伊東牛歩(ぎゅうほ)、鈴木芒生(ぼうせい)両氏が訪ねて来た。この時芒生氏の齎(もたら)した南岳の「艸花画巻(そうかえまき)」は大(おおい)に居士の心を動かし、遂にこの画巻を割愛(かつあい)[やぶちゃん注:この場合は、「(相手が惜しいと思うものであろうが、それを)思いきって手放して貰うこと」の意である。]してもらうわけに行くまいか、と切出すに至った。これは居士が今生(こんじょう)における最後の願望であり、またこれまで物を所有するということについて、この時ほど熱烈な願望を懐いたことはなかったろうと思う。所蔵者たる皆川丁堂(ちょうどう)氏はやむを得ざる事情があるからとの理由で、割愛することは肯じなかったけれども、居士は更に切望の旨を牛歩、芒生両氏宛に手紙で申送り、結局居士の生前だけ提供するということで落著(らくちゃく)した。この画巻に対する執著(しゅうじゃく)が如何に異常であったかは、牛歩、芒生両氏に宛てた二通の手紙からも十分に察することが出来る。「病牀六尺」には二回にわたってこの顚末を記し、「艸花画巻」を「渡辺のお嬢さん」ということにして恋物語のような書き方を試みた。

[やぶちゃん注:「伊東牛歩(ぎゅうほ)」(明治一一(一八七八)年~昭和一七(一九四二)年)僧侶で俳人。東京生まれ。名は快順、牛歩は号。正岡子規に就いて俳句を学んだ。『ましろ』同人。

「鈴木芒生(ぼうせい)(明治一一(一八七八)年~昭和五(一九三〇)年)は教師で俳人。静岡県生まれ。東京高等商業学校を卒業後、同校専攻科卒。熊本高等商業学校教授及び山口高等商業学校教授となり、大正六(一九一七)年、海外留学を命ぜられて英・米・仏に一年半滞在し、帰国後は私立京城高等商業学校校長となった。昭和三(一九二八)年、病を得て辞任、山口の自宅にて静養中に死去した(以上はページの事蹟を参照したが、リンク先に掲げられている句を見る限り、後に新傾向から自由律に転じている模様である)。「春耕俳句会」公式サイト内の子規の四季(83) 2017年8月号池内けい吾渡辺のお嬢さんによれば、明治三五(一九〇五)年の『夏には、伊勢四日市の任地を辞して上京し、本所のある寺に泊まっていた。寺の住職の丁堂も寺に寄宿中の僧・牛歩も俳人で、三人連れ立って久しぶりに子規の病床を見舞おうということになった。ところが住職は急用ができたため、かねて一度子規に見せたいと思っていた住職所蔵の』渡辺『南岳の百花絵巻を芒生、牛歩の二人が借り受けて子規庵を訪れたのである』とある。

「南岳」渡辺南岳(明和四(一七六七)年~文化一〇(一八一三)年)。既出既注であるが、再掲しておく。京都の人。円山応挙の高弟で「応門十哲」に数えられた。美人画を得意とし、後年には尾形光琳に私淑し、その技法も採り入れている。後、江戸に出て、円山派の画風を伝える一方、谷文晁や酒井抱一らとも交遊した。

「艸花画巻(そうかえまき)」正しくは「四季草花圖卷」。京藝術大学大学美術館公式サイト所蔵作品データベースで見られる。確かに、「渡邊のお孃さん」、なかなかの才媛にして美女である。

「皆川丁堂(ちょうどう)」上記引用注以外のことは不明(寺の名ぐらいわかりそうなものなのだが、判らぬ)。子規の門人であった。「病牀六尺」では「丁堂」は「澄道」と出るが、ネット上の多くの記載は皆、「丁堂」である。

 最後の部分は「百四」(例のクレジットは「八月二十四日」)で(前日分「百三」の末尾から続きとなっている)、そこに「渡邊のお孃さん」と出、また、限定貸与されたシーンが百十一(「八月三十一日」)に出る。リンク先は孰れも国立国会図書館デジタルコレクションの初出切貼帳の画像(前者「百四」回は非常に長い。因みに、「百四」回の終りの方、画巻は取り敢えず手元に置かれたものの、手放すことは出来ないということに悶々とし、持ち来った二人に手紙を認め、そこに恨みを含んで、

 斷腸花(だんちやうくわ)つれなき文(ふみ)の返事かな

とやらかし、それでも『煩悶に堪へぬので、再び手紙を書』き、『今度は恨みを陳べた後に更に何か別に良手段はあるまいか、若し余の身にかなふ事ならどんな事でもするが、とこまごまと書いて』、

 草の花つれなきものに思ひけり

という句を添えている。「渡邊のお孃さん」への愛慾の妄執、凄まじ、である。而して、「百十一」で子規生前中のみ貸与が決した後のことを以下のように記す。

   *

予が所望したる南岳の艸花畫卷は今は予の物となつて、枕元に置かれて居る。朝に夕に、日に幾度となくあけては、見るのが何よりの樂しみで、ために命の延びるやうな心地がする。其筆つきの輕妙にして自在なる事は、殆ど古今獨步といふてもよからう。是が人物畫であつたならば、如何によく出來て居つても、予は所望もしなかつたらう、また朝夕あけて見る事も無いであらう。それが予の命の次に置いて居る草花の畫であつたために、一見して惚れてしまうたのである。兎に角、この大事な畫卷を特に予のために割愛せられたる澄道和尚の好意を謝するのである。

   *]

 

 居士は南岳の「艸花画巻」を得て、「草花帖(さうくわてふ)我に露ちる思ひあり」と詠んだ。「草花帖」の五字は後に「病牀の」と改められている。「草花を畫く日課や秋に入る」という句の通り、草花の写生に日を費して来た居士が、その完成する日に当って南岳の「艸花画巻」を見、熱烈な願望を起したのは、何だか偶然でないような気がする。居士は「これが人物画であったならば、如何によく出来て居っても、余は所望もしなかったろう、また朝夕あけて見る事もないであろう。それが余の命の次に置いて居る艸花の画であつたために、一見して惚れてしもうたのである」といっている。死期を前にしてこの願望を起した居士は、これを手に入れることによって最後の大満足を経験したのである。

 丁堂氏に対しては直に「我に露ちる思ひあり」以下七句を短冊にしたためて贈り、八月二十九日に至って更に十枚の短冊を贈った。その短冊の中に弘法、伝教、親鸞、日蓮、法然諸宗祖の讃の句があるのは、丁堂氏が一寺の住職である因により、新(あらた)に詠んだものであろうと思われる。この短冊に添えた一葉の端書(はがき)が、居士が今生において筆を執った最後の書信であった。

[やぶちゃん注: 俳誌『春星』のサイト内の中川みえ氏の「子規の俳句」のこちらの『子規の俳句(九五)』にも、『絵巻が自分のものになった時に、子規は七枚の短冊を書いて、取り敢えずの謝礼とした』として(冒頭の「書」は「畫」の誤りの可能性がある。子規の初出等を見ていると、「畫」の字の代わりに異体字「𤱪」「𤲿」のような字が盛んに用いられているからである)、

   《引用開始》

   丁堂和尚より南岳の百花書巻を贈られて

 草花帖我に露ちる思ひあり

   読幻住庵記

 破団扇夏も一炉のそなへかな

 草市の草の匂ひや広小路

 草市や雨にぬれたる蓮の花

 遠くから見えしこの松氷茶屋

 暁の第一声や松魚売

 夏野行く人や天狗の面を負ふ

 

   《引用終了》

とあり、その後、『丁堂へは、八月末になって、更に短冊十枚を贈った』として、

   《引用開始》

 

 龍を叱す其御唾や夏の雨    弘法大師賛

 此杣や秋を定めて一千年    伝教大師賛

 御連枝の末まで秋の錦哉    親鸞上人賛

 鯨つく漁父ともならで坊主哉  日蓮上人賛

 念仏に季はなけれども藤の花  法然上人賛

 十ヶ村いわし喰はぬ寺ばかり  大漁

 苗しろや第一番や善通寺

 豆の如き人皆麦を蒔くならし

 盆栽の梅早く福寿草遅し

 猩臙脂に何まぜて見むぼたん哉

 

   《引用終了》

とあって、最後にこの『短冊に添えたはがきが、子規自筆の最後の書信となった』とある。]

諸國里人談卷之三 土饅頭

 

    ○土饅頭(どまんぢう)

周防國吉敷郡(よしきこほり)高原(たかはら)、氷上(ひのかみ)山は叡山を移したる靈地なり。此山に米石(よねいし)・餠石(もちいし)・土饅頭といふあり。土中(どちう)より掘(ほり)いだす。これを以〔もつて〕、天行病(はやりやまひ)を防ぎ、瘧(おこり)のおつる事、神妙なり。むかしは毎年(まいねん)二月十三日、北辰尊星(ほくしんそんせい)の祭(まつり)あり。日本第一霊験(れいげん)のある大祭也。千種百味を備(そな)ふ。多々良(たゝら)家代々、一千余歳、祭り來れり。「運(うん)の祭」と云〔いふ〕は是也。多々良家の千余歳の内は、年毎(としごと)に星くだり給ふとなり。天文十八年より星もくだり給はず。大内義隆より、此祭、斷絶す。その昔の祭供(さいぐ)、土石(どせき)と成(なり)て土中に埋(うづも)れしと云(いへ)。○大内家は山陰・山陽の大守、當國山口の城に住す。千歳相續(あひつゞき)たる家にて、國中の賑(にぎは)ひ、都に增(まさ)れり。

[やぶちゃん注:これはもし、本当に食べられる土であるとするなら、恐らく、長野県小諸市で天然記念物に指定されている「テングノムギメシ(天狗の麦飯)」の類と似たような、土ではなくて、藻類の塊りなのではないかと私は思う。テングノムギメシは中部地方の火山地帯に産生する微生物の塊で、無味であるが、食用は可能である。ウィキの「テングノムギメシ」によれば、『形はさまざまであるが、大きさは』〇・一ミリメートルから一センチメートルぐらいの『小さな粒状で、弾力があり、乾燥すると味噌の塊のように見える』。「食べられる土」『として紹介される事もあり、古くは長者味噌』・『謙信味噌』・『飯砂(いいずな)とも呼ばれた。「桃の木から分泌される樹脂を少し堅くしたもの」を想像するとよい、と菌類学者の小林義雄は記している。長野県の「飯縄山(飯綱山)」の名称はこれに由来する』とあり、『戸隠山、黒姫山、飯縄山、群馬県嬬恋村、浅間山周辺など』、『比較的高地に分布』し、『山間部の草地で、凝灰質火山噴出物中』『の地下に層をなして見つかる。深さは地下数センチから』四十センチメートル『程度に渡って分布し、場所によっては地上に露出し、深いところでは』二メートル『にも達する。長野県小諸市では産出地が国の天然記念物に指定されている。他に群馬県嬬恋村にも産生地がある』とあるきりで、ロケーションが一致しないが、これと似たようなもののようにも思われるのである。また、「黒姫の風」氏のサイト内の「天狗の麦飯」は実体に迫って(写真有り)必見であるが、そこでは『天狗の麦飯の正体は藍藻類(クロオコッカセー科のグロエオカプサ、グロエオテース)などなどであるといわれて』おり、この『藍藻類には葉緑素は無く、そのため緑色ではなく薄い褐色をして』いる『ため、光合成とは違う化学反応で炭酸ガスの同化をしているのではないかとされ』るとあり、『天狗の麦飯の自生地では安山岩が多く、この安山岩の酸化分解によるエネルギーを利用しているのではないかとする説もあ』ると記されている。記者「黒姫の風」氏は実際に採取して食べており、『手で触れてみると』、『やわらかく、ゼラチン質(』『手で触れると』「くにゅくにゅ」』してい』る『)で湿りけがあり』、『食べてみると』、『味も香りも』ない、と述べておられる。上記の藍藻類は真正細菌ドメイン藍色細菌(シアノバクテリア)門 Cyanobacteria クロオコッカス目 Chroococcales クロオコッカス科グロエロカプサ属 Gloeocapsa・グロエオテーケ属 Gloeothece である。私はずっと先(せん)、テレビで、地図上にある不思議な名前の地を探る番組でこれを扱ったのを見たが国土地理院の地図を見られよ。ちゃんと「テングノムギメシ産地」と書いてあるんだ)、許可を得て採取し、発掘した公務員とレポーターが食べるのを見た。

「周防國吉敷郡(よしきこほり)高原(たかはら)、氷上(ひのかみ)山」山口県山口市大内御堀にある天台宗氷上山興隆寺のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「興隆寺(山口市)」によれば、『寺伝によれば、推古天皇二十一年』(六一三年)『に琳聖太子』(りんしょうたいし:百済国の聖明王(せいめいおう)の王子と言われる渡来人。大内氏の先祖の伝説では佐波郡多々良浜に着いた後、聖徳太子に会い、大内の地を領地として貰い受け、「多々良(たたら)」という姓も賜ったということになっている。本文の「多々良家」は大内氏の祖の本来の姓なのである)『が創建したと伝えられる』。天長四(八二七)年頃、『大内茂村が、現下松市の鷲頭山から氷上興隆寺に妙見社を勧請して氏神とし、大内氏の総氏寺に定めたという』。『この妙見社は祭神を北辰妙見大菩薩(妙見菩薩)と称し、興隆寺とともに、歴代当主の信仰があつく、妙見社大祭の二月会に際しても、当時の行事や条例などが興隆寺文書に記載されている』とあり、御詠歌『ありがたや 妙見菩薩の あまくだし すみたたえる 大内のてら』が挙げられてある。山笑氏のブログ「萩往還を歩く」の「長州藩と氷上山」によれば、『ここは大内氏ゆかりの寺社』で、『この辺り一帯は霊場氷上山として隆盛をきわめ、寺の数は』百『にものぼったといわれ』たが、その後、衰退し、今は興隆寺に『釈迦堂、妙見社社殿、鐘楼が残るのみ』とある。また、solo氏のブログ「ひっそり空閑」の「大内氏と妙見信仰」によれば(野尻抱影著「続 星と伝説」(初版は一九五四年創元文庫刊)に基づく記載)、『平安期、陰陽道・宿曜道が栄えると、星祭りが盛んになった。中期以降は特に北辰と北斗七星が崇拝され、朝廷では星に灯明を捧げる祭事「御灯」(みあかし)が行われた。こうした信仰は民間に広がって、北辰に灯を備え』、『福を祈る際に男女入り混じって歌舞を行うようになり、風俗が乱れたために禁止された』。『その後、朝廷でも信仰は衰えて御灯の行事も途絶えたが、中世以降、日蓮宗が力を持つと、北辰妙見信仰が再び盛んになった』。『もともと』、『この北辰妙見信仰は推古朝時代、百済から伝わったもの』で、『周防吉敷郡高原の氷上山は、この信仰をもたらした百済王子の子孫・多々良氏の聖地で、毎年』二月十三日に『に北辰を祀っていた』。『そしてこの多々良氏は、戦国大名大内氏の本姓』であり、『だから大内氏は、大内家壁書(大内氏掟書)で』「鷹餌鼈亀禁制事 爲鷹餌不可用鼈亀幷蛇也」『「鷹の餌として鼈亀ならびに蛇を用いてはならない」と定めた』のだという。『大内氏の幼名の「亀童丸」もこの信仰がらみらしい。北辰妙見菩薩は、北方の霊獣・玄武に乗った童形の仏』だからである、とある。本文の記載とリンクしているので、引用させて貰った。

「叡山を移したる靈地なり」最澄が三輪山から大物主神の分霊を日枝山に勧請して「大比叡」とし、従来の祭神大山咋神を「小比叡」とし、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵から成る小さな「一乗止観院」を建立したのは延暦七(七八八)年であり、年号からとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄(神護景雲元(七六七)年~弘仁一三(八二二)年)が没した翌弘仁一四(八二三)年のことであり、比叡山延暦寺が京の鬼門を護る国家鎮護の道場として栄えるようになるのは、それ以降のことである(ここはウィキの「延暦寺」に拠った)。氷上山興隆寺は前に引いた通り、寺伝に従うなら、推古天皇二十一(六一三)年で、創建自体はこちらの方が遙かに古い。まあ、一大道場と化した延暦寺の壮大な構成を、後の興隆寺が真似た(「移し」た)と読めばいいわけではある。

「米石(よねいし)・餠石(もちいし)・土饅頭」併記して後に続く以上、前二者も可食物質であると考えねばならない。

「瘧(おこり)」数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。戦中まで本邦ではしばしば三日熱マラリアの流行があった。太平洋戦争終結後、一九五〇年代には完全に撲滅された。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカAnopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。

「おつる事」「落つること」で、病気が落ちる、止む・治ること、の意。

「北辰尊星(ほくしんそんせい)の祭(まつり)」北極星を神格化した妙見菩薩に対する妙見信仰。日本の密教では、この菩薩を本尊として眼病平癒のために妙見法(北斗法・尊星法)という修法を行う信仰がある。妙見菩薩は天部の一人で妙見尊星王・北辰妙見菩薩とも呼ばれる。ウィキの「妙見菩薩には、『妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである』。本来は道鏡の神で、『北の星宿の神格化』されたものであり、『玄天上帝ともいう。宋代には避諱のため、真武と改名されている。清代には北極佑聖真君に封じられ』、『上帝翁、上帝公などとも呼ばれる』。『「菩薩」とは、本来サンスクリットの「ボーディ・サットヴァ」の音写で、「菩提を求める衆生」の意であり、十界では上位である四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)の一つだが、妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら』、『実質は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されている』。『道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰とも言う)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、妙見菩薩と称するようになった。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである』(だから密教の修法の対象疾患が眼病なのである)。『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経には「我れ、北辰菩薩にして名づけて妙見という。今、神呪を説きて諸の国土を擁護せんと欲す」とある』とある。

「千種百味を備(そな)ふ」その祭祀では、ありとある山海の珍味を悉く揃えて供(そな)える、の意。

「一千余歳、祭り來れり」琳聖太子の興隆寺開山に従うなら、推古天皇二一(六一三)年から「一千余歳」は単純に千年加算なら、慶長一八(一六一三)年となる。

「運(うん)の祭」不詳。但し、現在に残る妙見信仰では常に北を示す北極星が人生の道標(みちしるべ)とされ、妙見菩薩は「勝利開運の守護神」とされているから、この祭りの名は腑に落ちる。

「年毎(としごと)に星くだり給ふとなり」当祭祀は夜間に行われ、流星が出現するのを常としていたということになる。その奇瑞が見られなくなったことが、祭祀廃絶の大きな理由のように沾涼は記しているのである。なお、小さな流星は実際には日常的に毎晩幾らでも見られる。

「天文十八年」一五四九年。推古天皇二一(六一三)年から九百三十六年後後注参照

「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)室町後期の武将。周防生まれ。義興の長男で幼名は亀童丸。戦乱を逃れた公家たちを城下の山口に保護し、文学・学問を好み、明や朝鮮との交易を行なって「一切経」等の文物を輸入した。またザビエルを引見し、山口でのキリスト教布教を許可するなど、文化の普及・発展に貢献した。従二位に至ったが、文治政治に不満を抱いた同族の家臣陶隆房に謀反を起こされ、一族一党自害して、大内家は事実上、滅亡した。彼の家督相続は享禄元(一五二八)年十二月(父死去)であるが(推古天皇二一(六一三)年からは九百十五年後)、前に「天文十八年より星もくだり給はず」とあるということは、「天文十八年」以降は(=「より」)祭祀の最中の流星落下がなかったという意味だから、実際には天文十八年から暫くはそれでも「北辰尊星の祭」を行っていたと読むべきところである。義隆は天文二〇(一五五一)年九月一日に自刃しているどうだろう? こう読んでは? この天文二十年二月十四日の祭祀を、「星も降らんし、供物揃えの費用も馬鹿にならん。それに儂は切支丹の教えを好いておる」とか言って義隆は止めてしまった、その祟りで自死に追い込まれた、という捉え方である。沾涼の書き方はよく見てみると、そう解読されることを確信犯としているように私には見えてくるのである。因みに、天文二十年は推古天皇二十一年からは九百三十八年後に当たる。う~ん、しかし、どうも「一千余歳」がピシッと決まらないなぁ。待てよ? 本書の刊行は寛保三(一七四三)年だぞ! な~んだ、沾涼、書いてるうちに、年数計算の起点をうっかり執筆時に置いてしまったんだ! 推古天皇二十一年から寛保三年は千百十三年で「一千余歳」にピッタリくるもの!

「その昔の祭供(さいぐ)、土石(どせき)と成(なり)て土中に埋(うづも)れしと云」その祭祀に備えた神饌が腐ることなく旧祭祀場所から出土し、妙見の奇瑞によって、それらが悉く疫病やマラリアの薬餌へと変じていたとするのである。]

諸國里人談卷之三 土團子

 

    ○土團子(つちだんご)

甲斐國巨摩郡(こまのこほり)團子新井(だんごあらい)といふ、山の崕(がけ)に「土團子」とてあり。少(すこし)の大小はあれども、常の團子のごとし。丸きあり、また、少(すこし)角(かど)だちたるもありけり。色は、うす黃色にして、大豆粉(だいづのこ)を衣(ころも)にせしごとく也。割(われ)ば、中に、黑き土、饀(あん)のごとくにあり。麓(ふもと)へ轉げおつる事、沙石(させき)のごとし。

[やぶちゃん注:「山梨新報」公式サイト内の「山梨の地名と民話」の「7」に次注の「團子新居」の地名由来が書かれてあり、そこにこの「土團子」(そこでは「団子石」とある)の正体が説明されてあり、原物の写真もある。それによれば、これは同地区の北七キロメートル強に位置する茅ヶ岳(北杜市と甲斐市に跨る標高千七百四メートル)が約百万年前に噴火した際に噴出した火山性の岩石である。『外側が黄色、中が黒褐色。まるであんの入った団子のように見えることから「団子石」と呼ばれ、団子新居の地名の由来になったといわれる』。『団子石は、直径』二センチメートル『前後の球状の火山性の石』で、『全国でも産出され、「珍石」として知られる。団子石を展示している双葉歴史民俗資料館によると、団子石は火口内で、マグマで結晶化した輝石や磁鉄鉱などが凝灰岩や安山岩の破片に付着』し、『これに、ナトリウム、カルシウムなどケイ酸質の土壌が付いて形成されたといわれ、茅ケ岳山麓の標高』千メートル『前後のローム(火山灰)層下部で産出』されるとし、『甲斐ヒルズカントリー倶楽部(同市)周辺では今でも見つかるといい』、十八『番ホール近くには「団子石の碑」』『が建っている』(リンク先に写真有り)。『また』、『同市と韮崎市の境にあるホッチ峠などでは、かつては団子石よりも一回り大きい「饅頭(まんじゅう)石」が産出されたという』ともある。また、『団子石をめぐる弘法大師の伝説も伝わっている』として、山梨県連合婦人会編「ふるさとやまなしの民話」から以下が紹介されている。『弘法大師が修行をしながら旅をしていた時、茅ケ岳の麓を通ると、山中で老婆が団子を売っていた。長旅で空腹だった大師は「団子を恵んでください」と老婆に布施を求めたが、欲張りな老婆は「この団子は石なので食べられません」と断った』。『大師は老婆の強欲を哀れみ、心根を正すために経を唱えると、団子は本当の石に変わってしまったという。今も村奥の山中からは「団子石」が見つかり、村人はこの石がたくさん出る集落を「団子」と呼んだという』とある。

「甲斐國巨摩郡團子新井」現在の山梨県甲斐市團子新居。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

2018/07/02

諸國里人談卷之三 風穴 (前とは別項)

 

    ○風穴

 

甲斐國身延山、むかしは「蓑父」と書たり。日蓮上人開基の後(のち)、「身延」と改む。當山は新羅三郎四代の孫(そん)南部六郞實長の領地也。板野御牧(いたのみまき)、波木井(はきゐ)三郞の領主にて波木井殿(はきいどの)と稱す。上人に歸依し、當山を靈塲とせり。其むかし、西行法師、爰に來り、

 雨しのぐ蓑父の里の垣しはしすだちぞ初るうぐひすの聲

此谷を「うぐひす谷」といふ。此所より初音(はつね)しそめて、諸方の谷の鴬鳴くと也。題目堂のあなたに、風穴、あり。これより吹(ふく)風、尖(するど)にして、極熱(ごくねつ)にも、爰に至れば、肌(はだへ)、劔(つるぎ)をつらぬくごとし。此穴は信州諏訪へ通りぬけたり、と云り。いかなるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]か、諏訪の神体、當山の寶物にあり。七面山(〔しち〕めんさん)は夫(それ)より上(のぼ)事、三里、巓(いたゞき)に大きなる池あり。その形、曲龍(きよくりう)のごとし。底より涌(わく)淸泉也。其水の落るは「春氣滝」と云。百丈の白布をさらせり。これは天竺無熱池の水末なりといへり。此池に七ふしぎあり。くはしき事は「身延鑑(みのぶかゞみ)」にゆづりて、爰に省(はぶく)。

[やぶちゃん注:「新羅三郎」河内源氏二代目棟梁源頼義の三男源義光(寛徳二(一〇四五)年~大治二(一一二七)年)の元服後の呼称。兄に源八幡太郎義家がいる。その呼び名は近江国の新羅明神(大津の三井寺の新羅善神堂)で元服したことに由来する。

「南部六郞實長」(貞応元(一二二二)年~永仁五(一二九七)年)日蓮の有力壇越として知られる武士。ウィキの「南部実長によれば、甲斐国波木井(はきい《住所呼名》/はきり《有意に多くの記載に認められる読み方》:現在の山梨県南巨摩郡身延町波木井。身延山の南東山麓。ここ(グーグル・マップ・データ))に『居住したことから波木井実長とも呼ばれる』。『父光行から甲斐国巨摩郡飯野御牧内にある波木井郷(現在の南巨摩郡身延町梅平一帯)を割譲され、地頭職を兼ねた』。嘉禎四(一二三八)年、第四代『将軍藤原頼経が上洛した際には、兄実光と共に随兵を務めた』。文永六(一二六九)年頃、『鎌倉での辻説法を聞いて深く感銘し』、『日蓮に帰依し』、同十一年には、『流罪を解かれ』て『佐渡から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、まもなく領内の身延山中に草庵を造営し』、『外護の任にあたった』。弘安四(一二八一)年、『十間四面の堂宇を建立寄進し』て『「妙法華院久遠寺」と命名、また実長も出家し』、『法寂院日円と号した』。弘安五(一二八二)年九月、『病身の日蓮は病気療養の』ため、『常陸の湯に向かう途中』、『現在の東京都大田区池上に着くと』、『病体が更に悪化し、実長への』九『ヶ年の感謝と死期の近いことを知らせる最後の手紙を送っている(『波木井殿御報』)』。同年十月十三日朝、六十一歳の『生涯を閉じた日蓮の遺言通り』、『遺骨を身延の澤に埋葬し』、『実長を中心に六老僧等で護った』。『後代、長男実継の家系は陸奥国を地盤とする八戸氏(根城南部氏)として存続し、本拠地である甲斐国波木井郷は四男(一説には長男とも)長義の家系が継承した』。歴史学者で作家の七宮涬三(しちのみやけいぞう)は、『鎌倉幕府に迫害された日蓮を庇護し』、『信仰したその事績から、信念を貫徹する気骨のある人物であったろうと推測している。実長の気概の形成には日蓮と共通するものがあり、日蓮宗の教義の影響があった。そしてその気質は、子の実継や外孫の師行にも引き継がれたと指摘している』。『日蓮の死後、身延山初祖日興と実長の間に、日蓮によって禁止されたと思われる「神社参詣、神社への寄進、釈迦立像建立の可否」についての論争を生じ、その結果』、『日興は身延を離山した。この論争については、未だに富士系日蓮の派(いわゆる勝劣派)と身延系日蓮の派(いわゆる一致派)との決着をみていない。はじめは日興によって教化され、日興が身延の初祖の時は師としていたが、次位の日向が神社参詣、神社への寄付などを認めたので、日向に師を変更した。このため、日興との間に確執を生み、日興は身延を去って、富士に移った』とある。

「板野御牧(いたのみまき)」不詳。次注の引用に出る身延の南にある『甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)』(ここ(グーグル・マップ・データ))のことかと思ったが、現行の南部町には「板野」という地名は存在しない。いろいろ調べてみるうちに、デジタル版「身延町誌」の「第二節 日蓮聖人入山以前の身延」の「一、七面山と修験道」の「(三)身延と七面山との関係」の冒頭に(漢字を恣意的に正字化した)、

   《引用開始》

身延山史に、

 往古この地は河内領巨摩郡と稱し、身延は巨摩郡波木井鄕に屬して、飯野御牧と共に南部六郞實長の領邑なり。身延はもと「蓑夫」と書す。波木井の戌亥の隅にあたれり。すなわち東は鹽澤、波木井、西は小繩、高住、赤澤等に、南は大城、相又、船原に、北は下山村に接す。

   《引用終了》

とあるのを発見、沾涼は「飯野」と書くところを「板野」と誤ったのだということが判った。この「飯野」ならば、身延の北の山梨県南アルプス市飯野(ここ(グーグル・マップ・データ))が現存もするのである。

「波木井(はきゐ)三郞」実長の父で南部氏の始祖南部光行(永万元(一一六五)年?~嘉禎二(一二三六)年?)の別名。ウィキの「南部光行」によれば、治承四(一一八〇)年、『石橋山の戦いで源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)を与えられた。このときに南部姓を称したという』。文治五(一一八九)年、『奥州合戦で戦功を挙げ』、『陸奥国糠部五郡を与えられ』、『現在の青森県八戸市に上陸し、現在の同県三戸郡南部町相内地区に宿をとり、その後、奥州南部家の最初の城である平良ヶ崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いたという』。建久元(一一九〇)年には『頼朝に従って上洛し、その後、自身は奥州にはほとんど赴かず』、『鎌倉に在住した』。また、「吾妻鏡」同年六月九日の条に拠れば、『源頼朝の鶴岡八幡宮への御塔供養に際して「信濃三郎光行」が先陣随兵を務めており』、『この頃は「信濃」を名字としていたが』、「吾妻鏡」建久六(一一九五)年五月二十日の条の『源頼朝天王寺参詣に際には南部姓を称しており、この記事が下限となっている』。また、健治元(一二七五)年の『「六条八幡宮造営注文」に拠れば、列挙された甲斐国御家人の中に「南部三郎入道跡」が見られる』。『死没年には』『様々な説があるが』、嘉禎四(一二三八)年二月に『将軍藤原頼経に従って上洛したという説もあり、定かではない(有力な説は』一二三六『年説であり、頼経時代以後も生きていたかどうかには疑問がある)』。『六人の息子がおり、長男の行朝は庶子のため』、『一戸氏の祖となり、次男の実光が三戸南部氏を継ぎ、三男の実長は八戸氏の祖、四男の朝清は七戸氏の祖、五男の宗清は四戸氏の祖、六男の行連は九戸氏の祖にそれぞれなった』とある。

「雨しのぐ蓑父の里の垣しはしすだちぞ初るうぐひすの聲」先に挙げた、デジタル版「身延町誌」の「第二節 日蓮聖人入山以前の身延」の「一、七面山と修験道」の「(三)身延と七面山との関係」の引用の「身延山史」の続きの部分に以下のようにある(先と同様に漢字を恣意的に正字化した。また、一部の歴史的仮名遣の誤りを訂し、記号の一部も変更した)。

   《引用開始》

西行が歌に

 「あめしのぐ蓑夫のさとの垣柴に、すだちぞ初むるうぐひすのこゑ、とありと傳ふ。しかし、この和歌西行の「山家集」並びに「古今類句寸字篇」等にも出でず。南部近郊に西行坂、西行松のありしことは元政の身延行記に出でたり。西行法師が巡遊せしは明なり。更に勘ふべし。蓋し蓑夫の蹲踞せるが如く欝然として北東に聳え鷹取山これに對す。御遺文に「此の外を囘りて四つの河あり。從北南へ富士河、自西東へ早河、此は後なり。前に西より東へ波木井河の中に一つの瀧あり身延河と名付けたり。」と仰せらるも「蓑夫」を身延と替へ玉へるは入山早々にして文永十二年二月十六日の御消息に『此所をば「身延の嶽」と申す』とあるに徵して明なり。

   《引用終了》

「題目堂」不詳。現在の身延山久遠寺は江戸時代から近代まで、度重なる火災のために旧来の建造物は殆んど残っていない。

「風穴」不詳。現在の同寺境内にそうしたものがあるとする記載が見当たらない。あることを御存じの方があれば、是非、御教授戴きたい。

「諏訪の神体、當山の寶物にあり」不詳。御神体が何なのか、今もあるのか、何故、そこにあるのか(まあ、沾涼もそれは判らぬらしいが)、これも一つでもお判りの方は、御教授あれかし。

「七面山(〔しち〕めんさん)」山梨県南巨摩郡にある標高千九百八十九メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。東北七キロメートル弱の位置に身延山(標高千百五十三メートル)が連なる。ウィキの「七面山」によれば、山頂東北部の約七十三ヘクタールが『歴史的に久遠寺の寺領であり』、『現在も周囲を早川町に囲まれた身延町の飛地である』とある。『身延山久遠寺、また法華経を守護するとされる七面大明神(七面天女)を祀る信仰の山で、日蓮書状(「日蓮上人遺文」)にも記されており、日蓮の高弟である日朗が開いたといわれる』。『各所に崩落が見られるため「ナナイタガレ」「オオガレ」とも呼ばれ、日蓮書状にも崩落の様子が記されている』。『山頂近くの標高』『千七百メートル『付近には敬慎院があり、多くの人が宿坊に宿泊する。敬慎院から山頂付近にかけては富士山の好展望地として知られる』。『敬慎院には名物とも言える非常に長い敷布団があり、宿泊者はその布団に並んで寝る。なお』、『その敷布団を収納する際はロール状に丸めていく』。『奥の院には影嚮石(ようごうせき)という七面天女由来の磐座があり、その周りを回りながら願い事をするとよいという』。『頂上には一の池、二の池、三の池等、池がある。一の池正面の祠には水晶玉が祀られている』。『富士山のほぼ真西にあるため、春分・秋分の日には、富士山山頂からのご来光が望める』とある。

「大きなる池あり。その形、曲龍(きよくりう)のごとし」一の池のことか。七面山敬慎院しお(PDF)によれば、『本社正面右側に続く回廊をくぐりますと、高山には珍しい大きな池が見渡せます。その昔、日朗上人が登山してきてこの池のほとりに立ったところ、池に七面大明神が竜の姿で現れたと伝えられています。いまでもある日、突然に不思議な波紋が現れることがあると言われています。一の池は七面山信仰にかかわる存在で、池そのものが信仰の対象となっています。池は一年中かれることのない神秘的な水をたたえ、四季折々に幽玄なたたずまいをみせています』とある。

「春氣滝」「羽衣白糸の滝」のことか((グーグル・マップ・データ))。この滝近くの主流を「春気川」とも称する。「早川町」公式サイト内の早川町の地名(小字、地名の由来 等)の「赤沢」の項に『前を流れる春木川は、『春木川』・『春気川』『青木河』などと記録されているが、本来は『青気河』であったと考えられる。古代日本語で『青土』(アヲニ)といえば、青黒い色の土のことで、『出水の度に堆積する河原の土砂の色』であり、江戸時代の『春木石』の色である』とある。

「百丈」三百三メートル。誇張表現。「羽衣白糸の滝」は最大落差は三十五メートル。なお、七面山の北西に「見神(けんじん)の滝」という落差五十五メートルの二段に亙る壮大な滝があるが、ここは位置的に「一の池」の水が落ちる位置にはない

「天竺(てんぢく)無熱池(むねつち)」贍部洲(せんぶしゅう)(=閻浮提(えんぶだい))=インドの中心の大雪山の北にあるとする古代仏教の霊池。

「七ふしぎ」不詳。先の引用から考えると、一つは『突然に不思議な波紋が現れること』であり、今一つは『一年中かれることのない』だろうか。そもそもが、この名数は七面山という山の名からの発想であろう。個人ブログ地球く」に、

   《引用開始》

七面山は『此の山八方に門あり、鬼門を閉じて聞信戒定進捨懺に表示、七面を開き、七難を払い、七福を授け給う七不思議の神の住ませ給うゆえに七面と名付け侍るとなり』とあり、また七面大明神のもとのお姿は『安芸の国厳島弁財天』とされています。

   《引用終了》

とあり(以上は「身延鑑」の訳の一部?)、また、

   《引用開始》

七面大明神=七面天女を祀る敬慎院の裏には大きな池があります。この池が竜が棲むと伝える一の池です。また奥之院側には二の池があります。山中には全部で七つの池があると伝えますが三から七の池の場所は、はっきりしていません。特に七の池は「見ると目がつぶれる」といういい伝えがあり、誰も見た人はいません。

畔には七面山が開創される前から一の池をお守りしていた池大神として役の小角が祀られています。古来より修験道が盛んな山で山岳信仰には水神、龍神など滝や池に纏わる信仰がありました。七つ池にはいくつものお話が伝承されています。

   《引用終了》

として、「身延町誌」の「七つ池」から引いて、

   《引用開始》

「七面山には、池が七つあるという。そして第七の池は決して見ることができない。もし見ると、その人は必らず目がつぶれるといわれている。ある時、信州の樵夫(きこり)が山の中で迷ってこの池のほとりに出た。

清らかな水と静かな森にすっかり魅せられた樵夫は、美しく乱れている池のほとりの名も知らぬ紫の草花をむしり取って池の面へ投げた。

すると、不思議にも今まで少しも波がなかった水面に渦巻が起きて、それがだんだん大きくなって、果ては岸をかむ大波がものすごい勢でおし返すようになった。そして、その波の間から竜が突然飛び出して天上した。

この有様をみて驚いた樵夫は、一散に山麓へ逃げ下った。しかし、その時あわてて斧を置き忘れて来た。それで今後もし斧が発見された池があったら、それが七面山の第七の池であるといい伝えられている。

   《引用終了》

とあって、こりゃ、七不思議どころじゃなくて、沢山ありそうだ。

「身延鑑(みのぶかゞみ)」身延山久恩寺の案内。日亮著。延宝四(一六七六)年に都を発ち、身延の久遠寺に参詣した著者が、行き合わせた老僧から堂塔伽藍・地理・歴史・行事・故事など、様々なことを聞くという構成を採る。挿絵は師宣風。初版は貞享二(一六八五)年江戸の松会版。その後、元禄一七(一七〇四)年に再版本が出てより、版を重ね、宝暦一二年(一七六二)版(三種)・天保五(一八三四)年版、同六年版、同一五年版などが知られ、近代以降も復刻が行われている。これを読めば、前の「七不思議」は判るのかなぁ。国立国会図書館デジタルコレクションの画像はあるけど(以上の本書の解説はそこに載る岡雅彦氏の解題を参考にさせて貰った)、影印でパス!]

諸國里人談卷之三 風穴

 

    ○風穴(かざあな)

泉州和泉郡牛滝山に岩窟(いわはや)あり。深さ量(はかり)なし。常に烈風あり。よつて風穴と号す。當山は役行者(ゑんのぎやうじや)の草創なり。弘法大師・惠亮(ゑりう)和尚の經歷する所なり。大威德寺といふ。大瀧三つあり。一の滝【二丈。】・二の滝【十丈。】・三の滝【四丈。】。

叡山の惠亮和尚、此山にて大威德の法を修(しゆ)せられし時、大威德尊、三の滝より出現ありしと也。其乘(のり)たる所の牛、石に成(なり)て伏せるがごとし。其長、四丈。よつて「牛滝」と云。又、風穴は諸國に多し。

[やぶちゃん注:「泉州和泉郡牛滝山」「大威德寺」現在の大阪府岸和田市大沢町にある天台宗牛瀧山(うしたきさん)大威徳寺。紅葉の名所として知られる。(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「大威徳寺等では『牛滝山の山中にある』とするが、国土地理院の地図やグーグル・マップでは「牛滝山」の名は見えない。西南の後背地の二つのピーク(葛城山へ続く)辺りかと思ったが、多くのネット記載を見ると、圧倒的にこの寺自体を牛滝山と呼んでいるので、これ以上、調べる気がしなくなった。悪しからず。

「岩窟」三井寺の公式(?)ブログ「修験の道」の「妙経法師品第十、大沢神福寺跡、高座山轉法輪寺」に『葛城嶺中記 国立国会図書館蔵版』(調べたところ、「葛城嶺中記」というのは修験文書で天文一四(一五四五)年の成立らしい)として(思惟的に漢字を正字化し、一部の歴史的仮名遣の誤りを訂した)、

   *

牛瀧、石藏王山。法師品第十、一千百六十三字。大威德の瀧有り。峯分けて二十丁、藏王湧出地なるべし。この嶽に如法經。口傳有り。野多輪、忍辱岩。次、大に入りて釋迦の御鉢有り。惠比壽、行者、百濟國持ち來たれり。韋駄天、聖天、辨才天、三天を祝惠りて[やぶちゃん注:二字で「はふりて」と訓じているか。]如意寶珠と譽へ不問[やぶちゃん注:その由緒は語らていない、の意か。]。次、求聞持堂。行者堂、大威德が本尊也。御戸の内に牛の玉、馬の桶有り。本尊の寶也。

大威德、惠良和尚の作。不動は行者の御作也。

奧に不動の瀧有り。惠良[やぶちゃん注:「惠亮」の誤字か。]、會ひ奉り行動石高座、四尺餘方の石、此の上にて大威德を作れり。湧出し玉へし時、惠良、是を見玉ひ形を作れり。瀧大日、岩通の岩屋と行者云へり。之に依り爰にて惠良、如法經を行ぜり。後、一切諸經の文を問答へる所也。行者七寶の寶、岩堀に有りと云ふ也。

   *

とあり、「忍辱岩」(にんにくいわ)「岩通の岩屋」や「岩堀」(しかしこれは地名らしい)に、この風穴らしきものを感じることは出来るが、現在の大威徳寺の記載には「風穴」の記載は見当たらないようである。風穴学習会資料2」の、風穴の専門家阿部勇氏の書かれた「風穴の歴史 Ⅱ ―風穴利用の起源を求めて―」(二〇一六年・PDF)には、『最近、江戸時代の風穴に関する記録が、上田市塩田地域の旧家で発見された』。『この記録の付箋には、文化十一年』(一八一四年)『一月二十三日に書写されたとの注記があるので、文書はこの年より前に記されたされたものであることがわかる』として、まさにここの風穴の叙述が載り、『現地へ行って調査したいという思いにかられる』と書いておられるのであるが、リンク先を見て戴くと判るが、残念ながら、その新発見という文書は明らかに本「諸國里人談」の文章を写したに過ぎないことが判明する(本書の刊行は寛保三(一七四三)年)専門家でさえこう書いてしまう以上は、この「風穴」なるものは、少なくとも現存しないのではないかとさえ私には思われるのである。識者の御教授を乞う。

「恵亮」(えりょう 弘仁三(八一二)年(或いは延暦二一(八〇二)年とも)~貞観二(八六〇)年)は平安前期の天台宗の僧。信濃国水内郡の人。比叡山に入り、義真から戒を受け、円澄に従う。定心院十禅師・惣持院十四僧の役を勤め、円仁から三部大法の灌頂を受けた。内供奉十禅師として清和天皇を護持したことで知られ、同天皇(惟仁親王)が惟喬親王と立太子を争った際には、本文に出る呪殺祈願として知られる秘法「大威徳法」を修したとされる。貞観元(八五九)年に賀茂神・春日神のために延暦寺の年分度者(毎年一月得度にあずかる一定数の者)の二名増を申請して許され、西塔宝幢院の検校となったが、翌年、洛東の妙法院で遷化した。「大楽大師」と称された(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「二丈」六メートル六センチ。なお、これらの瀧は現存する模様。

「十丈」約三十メートル三十センチ。

「四丈」十二メートル十二センチ。

「大威德尊」大威徳明王。密教特有の尊格である「明王」の一尊。五大明王の中で、西方の守護者とされる。]

2018/07/01

諸國里人談卷之三 洞穴

 

    ○洞穴(ほらあな)

若狹國小濱(おばま)の空印寺は「八百比丘尼」の住(すみ)し所也。則(すなはち)、御影(みえい)あり。傍(かたはら)に洞穴(どうけつ)あり。其奧、かぎりしらず。土人云〔はく〕、「當寺、五、六世以前の住僧、この穴に入〔いり〕て、その奧をはかるに、三日を經て、丹波の山中に出〔いで〕たると云〔いへ〕。」。相傳ふ、「むかし、女僧(によそう)ありて、此所に住む。齡(よはひ)八百歳にして、其容-貌(かたち)、十五、六歳の壯美(せうび)なり。よつて「八百比丘尼」と称す。里語に云〔いはく〕、「此女僧は、人魚を食したるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]に長壽なり。」と云。○又、武藏國足立郡(あだちごほり)水波田(みづはた)村慈眼寺(じげんじ)仁王門の傍(かたはら)に榎(ゑのき)の伐株(きりかぶ)あり。周(めぐ)り、二丈あまり、莚(むしろ)六疊を敷(しく)也と。これ、若狹の八百比丘尼の栽(うへ[やぶちゃん注:ママ。])たる木也と云傳へたり。玆に又、「掘出(ほりだ)しの地藏」といふ、あり。近年、土中(どちう)より掘出したる本尊なり。その石櫃(せきびつ)に「八百比丘尼大化元年」と彫(ほり)たり。大化は三十七代孝德帝の年号にして、寬保まで凡(およそ)一千有余歳なり。

[やぶちゃん注:「空印寺」現在の福井県小浜市小浜男山にある曹洞宗建康山空印寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。この寺自体は新しく、ウィキの「空印寺」によれば、戦国大名『若狭守護武田元光が』大永二(一五二二)年に後瀬山(のちせやま)城を築き、『守護館も当時』、『長源寺のあった後瀬山城の山麓に移した。現在の空印寺はこの敷地跡にある。水堀を廻らせた堅固な若狭守護館は、戦国時代以降も麓の城として利用され織田信長の重臣である丹羽長秀や豊臣秀吉の親族である浅野長政、木下勝俊なども平時はこの地に住した』とあり、『京極高次が関ヶ原の戦いの論功行賞により若狭国主となり、同館の主となった。高次没後、息子の京極忠高が旧地を京極高次の牌所とし』、『泰雲寺を建立したが、京極家は』寛永一一(一六三四)年に松江へ転封され、その後、『小浜藩主酒井家の菩提寺として、酒井忠勝により』、『父酒井忠利の霊骨を移して建康寺と称され、二代藩主酒井忠直が酒井忠勝の七回忌法要を執り行うに当』って、寛文八(一六八八)年に伽藍を増築して空印寺となったとあるからである。後瀬山城は空印寺の陸側後背地直近(南南東三百メートルほど)で(ここ(グーグル・マップ・データ))、同じくウィキの「空印寺」やその他のネット記載を見ると、遠い昔、この「八百比丘尼」(やおびくに/はっぴゃくびくに)が、この後瀬山の山中にあった社(やしろ)の傍らに庵を建てて住んでいたが、この寺の境内地に現存する洞穴の中で、遂に齡八百歳で美事に入定したとする伝承があるといったことが書かれてある。五十嵐麻理氏の「日本珍スポット100景」の『人魚を食べて不老不死になった娘「八百比丘尼入定洞・空印寺」【福井】』が判り易く、伝わる人魚食いの伝承の概説(そこでは六五四年、『斉明天皇の御世、若狭の国の高橋長者という金持ちの家に、玉のように美しい娘が生まれ』たが、『娘が』十六『歳の時、父親の高橋長者はある男から夕食に招かれ』る。この男、『素性はよく分からないものの、いつのまにか村に住みつき、周りの者に溶け込んでた不思議な男で』あったとして、土産として長者が持ち帰った人魚の肉を娘が食ってしまうという展開。人魚は見えにくいが、非公開の絵巻の一部の写真から少年のような首の下に二本の腕があるが、背部から下半身は鱗を持った魚らしい。しかしこの西暦と天皇の名は厳密にはおかしい。斉明天皇は(皇極天皇の重祚)斉明天皇元年一月三日(六五五年二月十四日)が即位で、白雉五年中は同年十月十日(六五四年十一月二十四日)に亡くなった孝徳天皇(斉明天皇=皇極天皇の同母弟で、彼女の譲位は日本史上初の天皇の譲位である)の形式上の治世となるからである)や写真もある(豊富)ので、是非、見られたい。かなり綺麗なここで言っている御影像と思われる八百比丘尼の八百姫菩薩像や、洞窟の内部の写真もある。解説によれば、現在の洞窟の高さは一・五メートル、幅二メートルで、『以前はもっと奥まで洞窟は延びていたの』だ『が、国鉄が通ったときに洞窟奥を埋めてしまったんだとか』で、奥行は五メートルしかなく、ここにあるようなラビリンスの面影は、残念ながら、今や微塵もない。ウィキの「人魚」の「八百比丘尼伝説」の項を引いておく。八百比丘尼は『人魚など特別なものを食べたことで長寿になった比丘尼である』。『高橋晴美によると、その伝説は全国』二十八『都県』八十九『区市町村』百二十一『ヶ所にわたって分布しており、伝承数は』百六十六『に及ぶ(とくに石川・福井・埼玉・岐阜・愛知に多い)』。『白比丘尼とも呼ばれる』。八百『歳まで生きたが、その姿は』十七~十八歳のように『若々しかったといわれている』。『地方により』、『伝説の細かな部分は異なるが』、『大筋では以下の通りである』。『ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来』、『その女は不老長寿を得る。その後』、『娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て』、『全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる』。『新潟県の佐渡島にある羽茂町(現在の佐渡市)に伝わる話では、八百比丘尼はここで誕生し、上記の通りに人魚の肉を食べて』一千『年の寿命を得たが、自身は年をとらないことをかえってはかなみ』、二百『歳を国主に譲って』、『諸国を巡り、最期は』八百『歳になった時に若狭へ』辿りついて、『入定したという』。『また、岐阜県下呂市馬瀬中切に伝承される八百比丘尼物語は「浦島太郎」と「八百比丘尼」が混ざった話として存在し、全国的にも稀である』。室町時代の外記局官人を務めた中原康富の日記「康富記(やすとみき)」には、十五世紀中頃に「白比丘尼」という十三世紀生まれで今現在二百余歳とする白髪の尼が『若狭国から上洛し、見世物として料金を取った記述があるが』、ほぼ同時代の相国寺の僧瑞渓周鳳の日記「臥雲日件録」では、『白比丘尼は八百老尼と同じであると解されている。ただし、この老尼は八百比丘尼伝説を利用した芸能者だったと考えられている。当時から八百尼丘尼の伝説は尼によって布教活動に利用されており、こうした伝説を利用する女性も少なくなかった一例である』とある。『京都府北部の丹後半島の京丹後市丹後町では、丹後町丹後乗原(のんばら)に住んだ大久保家の娘が、人魚の肉を食べて』八百『年生きたと伝えられている。京都府北部では、栗田半島にも八尾比丘尼の伝承が残されている。』。『丹後地域にはこのほか徐福伝説(伊根町)や田道間守伝説(網野町木津)など、不老長寿にまつわる伝承が残されている』。『八百比丘尼が晩年に仕えたとされる小浜市の神明神社の境内には、八百比丘尼を祀る社があり、長寿を願う人々に厚く信仰されている』。『境内の八百姫宮には、室町時代と江戸時代(』十七『世紀後半)に造られたとされる』二『体の像がまつられており、江戸時代の新像は、神式風の衣装で、右手に願いを叶える宝珠、左手には白玉椿の枝を持ち、目に水晶の玉眼を施している』などとある。

「武藏國足立郡(あだちごほり)水波田(みづはた)村慈眼寺(じげんじ)」現在の埼玉県さいたま市西区水判土にある天台宗普光山華蔵院慈眼寺。(グーグル・マップ・データ)。いつもお世話になっている松長哲聖サイト「のあしあと」記載によると、本寺は『第三代天台座主慈覚大師円仁が』天長三(八二六)年に『開山、古くは蓮華寺と称していたといい、いつの頃からか普光山浄蓮寺と称するようになったと』され、『徳川家康が関東に入国した際に寺領』十『石の御朱印状を拝領、(喜多院住職で後に上野寛永寺を開山した)慈眼大師天海大僧正の弟子円海上人が中興したと』される。しかし、一方で、また、当寺には』、八百『年を生きたという八百比丘尼が』大化元(六四五)年に『地蔵尊を安置して開基したとの伝えもあると』あって、さらに「新編武蔵風土記稿」に載る慈眼寺の縁起が引かれてあり、そこには(漢字の一部新字を正字化した)、

   *

地藏堂。黃金佛にて長一寸八分、傳へ云此像は八百比丘尼の守護佛にて、壽地蔵と呼べりと。門外に石標を立て共舊跡なることを示す、此像も中古荒廢より以來、何れへか失ひて見えざりければ、代々の住僧深く是を愁へ、諸方を尋ねけれども求め得ざりしに、享保年中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。]はからず境内土中より掘出せしと云、其語り岩洞の内に安じ、岩の裏に孝の字かすかに見え、其左右に八百比丘尼大化元年とありしよしなれど、秘佛なりとて見ることを許さず、又かの尼が手づから植し木あり、先年枯れて今二王門の庇の下に片寄てあり、太さ五圍に餘り、木理檟[やぶちゃん注:「ひさぎ」。ここはアカメガシワ(キントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワアカメガシワ Mallotus japonicus)と本文の「榎」=エノキ(バラ目アサ科エノキ属エノキ Celtis sinensis)は全くの別種であるが、実はアカメガシワ=「檟」は「榎」とも書いた。]の木と見ゆ、彼尼が植たることは姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]置きて、いかさま數百歳をへしものと思はる、さてこの尼は上古若狹國にありて、常に延命地藏を信じ、一千の小石を集めて多年の供養を重ねしかば、其功德により悟道徹底し、遂に人間の塵緣を免れ、妙齡不老にして八百歳の壽を保てりと云、或は云彼尼は若州小松原の産なりしが、幼時父海濱に釣して怪き魚を得たり、卽ちこれを食はしめしに、夫より年を重ぬといへども、容貌衰へず、同國後瀨山の麓空印寺境内の岩洞に隱れ住、遂に八百歳に及ぶ、故に人呼でかく名付くと、肌膚至て白かりければ、一に白尼ともよぶ、寶德年中[やぶちゃん注:一四四九年から一四五一年。室町時代。]洛に至り、常に源平盛衰のさまなど、面[やぶちゃん注:「ま」。]のあたり見たりとて物語せしと云、寶德より大化元年まで八百年に餘れば、計へ[やぶちゃん注:「かぞへ」。]來てかくは呼しなるべし、いかにも妄誕の説に似たれど、舊く云傳ふることなれば、若狹國志等によりてほぼその傳をしるしをきぬ。

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「二丈」約六メートル。

「大化元年」六四五年。

「寬保」笨「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊。]

鈴木しづ子 サイト版句集群 表記 更新

本日、ツイッターでフォローされて来られた古書店「古書 古群洞」樣の『樹海』(第五巻二号から第六巻六号/揃十五冊/昭和二五(一九五〇)年から翌年にかけて発行)のこちらの商品見本画像で、鈴木しづ子の句の掲載部分の幾つかを拝見出来たが、そこでは漢字が総て正字化されていることが判った。私が嘗て

「やぶちゃん版鈴木しづ子句集(旧「鈴木しづ子句集」改訂増補版) 抄出217句」

及び

「鈴木しづ子句抄――雑誌発表句・未発表句を中心にしたやぶちゃん琴線句集」

で行った、恣意的な漢字の正字化の仕儀がまずは正しいことが立証された。ここに「古書 古群洞」様に御礼申し上げる。なお、今回、上記二テクストの未処理であった一部の漢字を正字化し、全体に細部の校正を施した。

紫雲英(げんげ)摘みたりあなたの胸に投げようか 

  ――鈴木しづ子 昭和23(1948)年の作――

げんげの大好きな僕は、しづ子からそれを投げられたい。……生きているおられるなら(昭和27(1952)年9月以降、行方不明)、九十九歳になる、可憐なしづ子に――

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