諸國里人談卷之四 ㊇生植部 曽根松
㊇生植部(せいちよくのぶ)
○曽根松(そねのまつ)
播磨國印南郡(いなみのこほり)曽根村にあり。天滿宮の神木也。相傳ふ、菅公(かんこう)、筑紫(つくし)へ赴き給ふ時、此地に寓(ぐう)し給ひ、此所に小松を植られ、邪正榮枯(じやしやうゑいこ[やぶちゃん注:ママ。])を誓ひ給ふとなり。其松、枝葉(しやう)さかえて、今、扶桑㐧一の名木となる。
高サ一丈三尺
周(まは)リ一丈八尺
乾(いぬい[やぶちゃん注:ママ。])より巽(うしとら[やぶちゃん注:ママ。])へ指(さし)テ 七丈
艮(たつみ[やぶちゃん注:ママ。])より坤(ひつじさる)へ徑(わた)リ 十一丈
這(はふ)枝毎に杖にす。其數、百五十八本。
[やぶちゃん注:後半部分は原典では全体が一字下げで概ね一字分空欄を挟んで連続しているが、ブラウザの不具合を考えて、各条で改行して一字下げて示した。また、パート標題は①の巻頭にあるルビを採用した。③には「うへほくのぶ」(判読に自信はない)というようなわけの判らぬルビがあるが、採らない。意味は「植物の部」の意でよい。現在の兵庫県高砂市曽根にある曽根天満宮にあった菅原道真の手植えとされる霊松「曽根の松」。ウィキの「曽根天満宮」によれば、同天満宮の創建年代は不詳であるが、社伝では延喜元(九〇一)年、『菅原道真が大宰府に左遷される途上に伊保の港からここに上陸し、「我に罪なくば栄えよ」と松を手植えしたとされ、後に播磨国に流罪となった子の菅原淳茂が創建したものと伝えられている』とある。「曽根の松」の初代は寛政一〇(一七九八)年)『に枯死したとされ』、一七〇〇『年代初期に地元の庄屋が作らせた』約十分の一の『模型が保存されており、往時の様子を知ることができる。天明年間に手植えの松から実生した二代目の松は』、大正一三(一九二四)年に『国の天然記念物に指定されたが』、昭和二七(一九五二)年に枯死し、『現在は五代目である。枯死した松の幹が霊松殿に保存されている』とある。本「諸國里人談」は寛保三(一七四三)年刊であるから、未だ初代(と伝えるもの)が現存していたことになる。
「邪正榮枯」前の引用にある通り、「我に邪(よこしま)なるものありとせば、枯れよ。我、正しきとならば、栄えよ」という起誓を言っている。
「高サ一丈三尺」高さ、約三メートル九十四センチメートル。
「周(まは)リ一丈八尺」松の廻り、約四メートル八十八センチメートル。これは根回りであろう。
「乾(いぬい[やぶちゃん注:ママ。])より巽(うしとら[やぶちゃん注:ママ。])へ指(さし)テ 七丈」「乾」(いぬゐ)は北西、「巽」は「たつみ」で南西(漢字を正しいと採る)で、「七丈」は約二十一メートル二十一センチメートル。
「艮(たつみ[やぶちゃん注:ママ。])より坤(ひつじさる)へ徑(わた)リ 十一丈」同前で北東から南西に向けて三十三メートル三十三センチメートル。
「這(はふ)枝毎に杖にす」これは匍匐する枝を支えるために、枝ごとに支えの「杖」=支柱を小まめに配したことを指すのであろう。名所図会等の古い絵図をみると、事実、そうした支えの柱が何本も立てられているのが判る。]
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