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2018/07/30

進化論講話 丘淺次郎 第二十章 進化論の思想界に及ぼす影響(二) 二 進化論と倫理

 

     二 進化論と倫理

 

 倫理學も從來は人間を一定不變のものと見倣し、且宇宙間に他に類のない一種靈妙なものとして人間のことばかりを論じ來つたが、進化論によつて自然に於ける人類の位置が明になつた以上は、根本からその仕組を改めてかゝらねばならぬ。人間が獸類の一種であつて、猿と共同な先祖から降つたものとすれば、善とか惡とかいふ考も決して最初から存した譯ではなく、他の思想と同樣に漸々の進化によつて生じたものと見倣さねばならぬが、これらの點を詳細に研究するには、先づ世界各處の半開人[やぶちゃん注:「はんかいじん」。文化が未開を越えて、少し開化してきている人集団。]や野蠻人が、如何なることを善と名づけ、如何なることを惡と名づけて居るか、また實際如何なることを爲して居るかを取調べ、尚人間以外の團體生活をする獸類・鳥類が平生なし居ることをも調査し、之を基として論ずることが必要である。人間の身體ばかりを解剖して如何に丁寧に調べても、人間の身體各部の意味が解らず、他の動物と比較して見て、初めてその意味が解る如くに、人間の行爲も之ばかりを調べたのでは、何時まで過ぎても容易に意味の解るものではない。他の團體生活をする動物の行爲に比べて見て、初めてその意味が明に解るものも澤山にあるべき筈である。

 例へば、動物界には人間の外に團體生活を營むものは澤山にあつて、之を竝べて見ると、單獨の生活をなすものから、一時的團體を造るもの、少數の個體が常に集まり生活するものなど、種々の階級を經て、多數の個體が永久の團體を組んで生活するに至るまでの進化の順序を知ることが出來るが、これらの動物の行爲を調ベると、善惡の分れる具合も、多少明に解るやうである。先づ單獨の生活を營む動物の行爲は、善惡を以て評すべき限ではないが、團體を組んで生活するやうになれば、生存競爭の單位は團體であるから、その中の各個體の行爲は全團體に影響を及ぼし、一個體が團體に利益ある所行をなせば、團體内の他の個體は殘らずその恩澤を蒙り、一個體が團體に不利益な所行をなせば、團體内の他の個體は悉く損害を受ける。假に身を斯かる團體内に置いたと想像して見れば、前者の行爲を善と稱し、後者の行爲を惡と名づけるより致し方はない。されば團體生活を營む動物では、一個體の行爲が全團體の滅亡を起す場合が最高度の惡で、身を犧牲に供して全團體の危難を救ふことは善の理想的模範である。

 また數個の團體が對立して互に競爭する場合には、如何なる性質を具へた團體が最も多く勝つ見込を有するかと考へるに、それは無論各個體が全團體のために力を盡し、自己一身の利害を第二段に置くやうな團體である。上下交々[やぶちゃん注:こもごも。]利を征めては[やぶちゃん注:「せめては」ではおかしい。そういう訓はないが(人名の訓ではある)「もとめては」と読んでおく。]、到底敵である團體と相對して存立することは出來ぬから、團體聞の生存競爭に於ても、やはり自然淘汰が行はれ、團體生活に最も適する性質を具へたもののみが長く生存し、各個體には自己の屬する團體のために誠を盡すといふ性質が、益發達するわけになる。蟻・蜜蜂等の如き社會的昆蟲の動作を見れば、このことは最も明白であるが、人間の道德心の如きも或は斯くの如くにして生じ來つたものではなからうか。若しさうとしたならば、善惡といふ考も團體生活とともに起つたもので、世の中から團體生活をする動物を取り去つたならば、たゞ火が燃え、水が流れるといふやうな善でも惡でもないことばかりとなつて、善惡といふ文字の用ゐ處も無くなつてしまふ。

 尚人間には生れながら良心といふものが具はつて、惡事をなした後には心中大いに安んずることが出來ぬものであるが、この良心といふものもやはり團體生活と共に起つたものではなからうか。團體生活を營む動物では、一個體の行爲が全團體の不利益を生じた場合には、他の個體が集まつて之を罰することが常であるが、罪せられることを豫め恐れる心持は、所謂良心といふものと全く同じ性質の如くに思はれる。

 人間の道德心の起源の如きは、大問題であつて、素より一朝一夕に論じ盡せるわけのものではないが、人間が獸類の一種である以上は、之を研究する方法もやはり比較解剖學・比較發生學等と同樣に、先づ事實を集め、次に之に通ずる規則を探り出し、その規則に從つて原因を調べるといふ順序でなければならぬ。この順序によりさへすれば、恰も比較解剖學・比較發生學等によつて、人間の身體の進化し來つた徑路が多少明になつた如くに、人間の道德心の發生の徑路が、幾分か解るやうになるであらう。野蠻人の行爲や諸動物の習性を調ベることは、素より容易ではないが、今より後はこの方法により實驗的に研究して行く外に適當な法はないやうである。

 從來の倫理學は規範學科などと稱して、單に思考力のみに依賴し、高尚な議論ばかりをして居たから、人生と最も直接な關係を有すべき學科でありながら、實際に於ては最も人生と緣の遠い有樣であつたが、規範學科であれば尚更のこと、先づ人間といふものは實際如何なることをして居るか、またその行爲の原因は何であるかを詳しく調べ、之を基として議論を立つべき筈である。されば倫理學は全くその研究の方法を改め、純正學科としては單に實驗・觀察によつて人類の行爲を研究し、之を支配する理法を探り求めることだけを目的とし、更に應用學科として人間の行爲は斯くあるが最も宜しいといふ規範を種々の場合に當て嵌めて、定めることを勉めたれば宜しからう。人間が尚進化の中途にあるものとすれば、萬世不易の善惡の標準といふやうなものは、到底定められぬかも知れず、單に思考力によつて之を求めようとすれば、益空論の範圍に深入[やぶちゃん注:「ふかいり」。]して、現實の世界から遠ざかるばかりである。特に人間には團體に種々の階級があつて、小團體が集まつて、大團體をなして居るから、その中の各個人には、小團體の一員としての資格と、大團體の一員としての資格とがあり、時と場合とに隨ひ或は甲の資格を取り、或は乙の資格を取ることが必要であるから、同一種類の行爲でも、或は善となり或は惡となることもある。例へば病原黴菌といふ人類共同の敵に對する場合には、各個人は人類といふ大團體の一員たる資格であるから、黴菌撲滅上肝要な一大發見をした學者が、直に之を他國の學者に通知することは、全團體の利益となる所行故、先づ善事と見倣さねばならぬが、國と國とが戰爭をする場合には、各個人は國といふ小團體の一員たる資格であるから、兵器改良上肝要な一大發見をした學者が、之を敵國の學者に通知することは、敵の戰鬪力を增さしめる所行故、確に惡事と見倣さねばならぬ。かやうな例を考へれば、幾らでもあるが、これらを見ても、善惡の標準は時と場合とに隨つて改めなければならぬことは、明であるから、倫理學は應用學科として、常に斯かる點を研究すべきものであらう。

 

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