諸國里人談卷之四 靑葉楓
○靑葉楓(あをばのかいで[やぶちゃん注:①。ママ。])
武藏國金澤稱名寺の堂、ひがしに一木の楓あり。
藤原爲相卿
いかにして此一もとのしぐれけん山にさきたる庭のもみぢば
此哥よりこのかた、紅葉(こうやう)せずと也。金澤に八木(はちぼく)の名樹あり。
所謂(いはゆる) 西湖(さいこの)梅 黑梅 櫻梅 文殊梅 普賢象(ふげんぞう)桜 蛇混(だこん)柏 一ツ松 靑葉楓等(とう)也。
[やぶちゃん注:これは私は既に「新編鎌倉志卷之八」の「稱名寺」(その原資料とも言うべき水戸黄門の日記(実は「黄門さま」は生涯にたった一度だけしか旅していない。その稀有の旅日記である)「鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」の称名寺(ブログ版)もリンクさせておく)及び「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の「六浦」の「八木【靑葉楓・西湖の梅・櫻梅・文殊梅・普賢象梅、是は稱名寺境内にあり。黑梅今は絶たり。蛇混柏、瀨戸の神社に有。外に雀ケ崎の孤松、是を八木といふ。】」(西湘桜・桜梅・普賢象桜・青葉楓の挿絵が有る)、さらにはブログの「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より金澤の部 稱名寺(Ⅳ)」等でテツテ的に注釈している。ここに追記することは最早ない。それらをご覧あれ。なお、私が訳した冷泉(藤原)為相(れいぜいためすけ 弘長三(一二六三)年~嘉暦三(一三二八)年:公卿で歌人。藤原為家三男、母は阿仏尼。冷泉家祖。正二位・権中納言。家領の相続を廻って異母兄二条為氏と争そい、しばしば鎌倉へ出向き、関東歌壇の指導者として重きをなした。通称は藤谷(ふじがやつ)中納言)の当該和歌の訳を掲げておく。
……どうしたらこの一木(いちぼく)にだけ、それを紅葉させる時雨が降るなどということがあり得よう……そんなことはあり得べきもないはず……しかし事実、周囲の山々の木々に先だって確かにこの庭の一木だけが紅いに染まっていることよ……
と詠んだら、彼の疑義に観応した楓がこれ以降、厳冬になっても青葉のままであったという奇瑞である。以下の「八木」についても、主に「新編鎌倉志卷之八」に於いて、可能な限り、植物学的な考証と、現存・非存の確認もしてあるので、興味のある方はそちらを参照されたい。但し、私の注全体はかなりの分量があるので、まともに読むと、相応の時間がかかることは覚悟されたい。]