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2018/07/15

諸國里人談卷之四 掘兼井

 

     ○掘兼井(ほりかねのゐ)

武藏國入間郡(いるまのこほり)掘金(ほりかね)村小高き山に、淺間宮の梺(ふもと)に、すこし窪める所、「掘兼の井」の蹟(あと)なり。方六尺ばかりの石を窠(くは)して井桁(いげた)とし、半(なかば)は埋(うづ)みて苔むしたり。傍(かたはら)に碑(ひ)あり。近きころ、川越のものゝふのこれを建(たて)し也。【川越より二里、未申の方。】

「千載」                俊成

 むさし㙒〔の〕のほりかねの井もあるものをうれしく水に近づきにけり

[やぶちゃん注:ここに碑の図が入る(①②③総て同位置)。例外的に基礎底本の③にもあり、①よりも遙かに見易いので、ここはそれをリンクさせておく。これである。以下、図の碑文を以下に電子化しておく。碑面に彫られた通りに改行してある。但し、四行目(字下げの行。碑本文への後注である)は現存する当該の石碑の写真(「地盤環境エンジニアリング株式会社」の作成になる「58.掘兼の井戸が物語るもの(1)」PDF)。これには続きの「59」(「(2)」)及び「60」「(補輯)」がある。孰れもPDF)を見るに、「以」の字が脱字していることが判ったので、特異的に補填しておいた

   *

此凹形之地所謂掘兼井之蹟也恐久而

遂失其處因以石井欄置坳中削碑而建

其傍以備後監

 里語掘而難得水故云尓以兼通難未知只從俗耳

寶永戊子年三月朔

   *

なお、碑の左側面に碑文ではなく、碑の高さが、

   高五尺二寸

と記されてある。メートル換算すると、一メートル五十七センチメートル五ミリメートルほど。]

此あたりに「掘兼井」と稱する所、夛(おほ)し。此外を「淺間掘兼」といふ也。是より五六町南に、方二十間ばかり、から堀(ほり)のごとく窪める所、これも其井の跡也と云。又、乙女新田(おとめしんでん)或は入曽里(いりそのさと)にもあり。惣(そう)じて此所、土地高くして、水を得がたし。よつて「掘かねたる」といふ里語(りご)によつて、眞跡(しんせき)を迷(まよわ[やぶちゃん注:ママ。])したる也。掘金の名水なれば、掘金井といふを、「兼」の字を書(かく)より、まことの所を失(うしなへ)るなり。

[やぶちゃん注:以下、原典は全部文が続いているが、ここから物語仕立てになるので、特異的に改行を加えた。]

○享保九辰の夏、三緣山増上寺の塔中(たつちう)淸光院・昌泉院の退院、むさし野に優遊(ゆうゆ)し、「掘かねの井」を溫(たづぬ)るに、本所(ほんじよ)、しれがたく、まよふ折から、飛脚などゝおぼしき男、文箱(ふばこ)を杖にむすびてかつぎたるが、

「をのをのは、いかなる所を求め給ふ。」

「掘かねの井をこそ。」

といふ。

「それは、此あたりにあらず。」

と、道しるべして、此所に來り、

「是こそ實迹(じつせき)の地なり。此井につきて、物がたりあり。

――むかし、川越の城主より、鎌倉殿へ鯉を獻ず。使(つかひ)の者、此井にて水をそゝぐに、あやまつて此井に落しぬ。その時、かの者、行(ゆく)こと、あたはずして、川越に歸りて、しだいをいふに、『憎きものゝわざかな』と誅せられたり。その時、かの者、

 武藏野のほりかねの井の井の底にわれぞこひするこいぞ一かけ

と詠じて、むなしくなりたり。――

御僧達、逆緣(ぎやくゑん)ながら、吊(とむら)ひ給へ。」

といふに、兩僧、暫く、經念佛してげり。

傍(かたはら)の菴室より、老僧、いでゝ、

「我、久しく所に住めども、かゝる事をきかず。今、物語ありしは、いかなる人。」

といふ。

兩僧、

「たゞ道ゆく人にてありける。」

と、かの者を尋るに、其行方(ゆくかた)をしらず。

「かの奴(やつこ)が亡霊ならん。」

と。

歸府(きふ)の後、演譽白隨(ゑんよはくずい)大僧正にこの事を申〔まうさ〕ば、則(すなはち)、戒名を授玉(さづけたま)ひ、吊(とむら)ひありける。

昌泉院に石塔を立(たて)られ、奴(やつこ)が墓とて、今、あり。

去(さり)し申〔まうす〕は、その年より十七年にあたるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、年忌の吊ひありける也。

[やぶちゃん注:現実にある井戸に、碑の図を添えて考証した上で、それに纏わる怪談を徐ろに附した沾涼渾身の条である。リアリズムからホラーへ、而して鎮魂で大団円を配したところ、実に上手い。さて、碑の現存するこの「掘金の井」は、現在の狭山市大字にある堀金神社境内に「堀金の井」として埼玉県指定文化財に指定されてある(但し、現在、水はない)。ここ(グーグル・マップ・データ)。「狭山市」公式サイト内の「堀兼之井」によれば、直径七・二メートル、深さ一・九メートルの『井戸の中央には石組の井桁』があるが、『現在は大部分が埋まっており、その姿がかつてどのようであったかは不明で』、『この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる「ほりかねの井」の一つと考えられて』おり、『これを事実とすると、掘られた年代は平安時代までさかのぼることができ』るとする。『井戸のかたわらに』二『基の石碑があ』る『が、左奥にあるの』が、まさに沾涼が記した宝永五戊子(ぼし)(一七〇八)年三月に『川越藩主の秋元喬知(あきもとたかとも)が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたもので』、『そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在をこの凹(おう)形の地としたこと、堀兼は掘り難がたかったという意味であることなどが刻まれてい』る。『しかし、その最後の部分を見ると、これらは俗耳』(土地の者の言い伝えや認識)『にしたがったまでで、確信に基づくものではないともあ』る。『手前にある石碑は』、天保一三(一八四二)年に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明(きよはらのぶあき)の漢詩が刻まれてい』る。但し、『都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すの』かと言われると、疑問はあるといった旨が附せられ、『神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道であったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと思われ』はするものの、『このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようで、江戸後期に』編纂された「新編武蔵風土記稿」を『見ても「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは定めがたいとあ』る。『堀兼之井が後世の文人にもてはやされるようになったのは』、まさに秋元喬知が宝永五年にこの『石碑を建ててから以後のことと考えられ』るとしている。

「淺間宮」同じく「狭山市」公式サイト内の「堀兼神社」によれば、『社伝によれば、日本武尊が東国平定の際、当地において水がなく、苦しむ住民を見て、水を得ようと富獄(富士山のこと)を遥拝』『し、井戸を掘らせ、水を得ることができたため、浅間社を祭った、と創祀を伝えてい』るとあり、本殿は有意に高い位置にあることがリンク先の写真から判るので、「の梺(ふもと)に、すこし窪める所」は現在のロケーションにも一致する。

「窠(くは)して」窪み或いは穴をあけて。

「近きころ、川越のものゝふのこれを建(たて)し」「川越のものゝふ(武士)」は先の川越藩主秋元喬知で、彼がこれを建立したのが宝永五(一七〇八)年三月一日、本「諸國里人談」刊行は寛保三(一七四三)年だから、三十五年前、まあ、「近き頃」で問題あるまい。

「川越より二里、未申の方」川越市中心部から約八キロ、北北西であるから、問題ない。

「むさし㙒のほりかねの井もあるものをうれしく水に近づきにけり」「千載和歌集」の「巻第十九 釈教部」にある皇太后宮大夫藤原俊成の一首(一二四一番)、

   法師品(ほつしほん)、

   漸見濕土泥(ぜんけんしつどでい)

   決定知近水(けつじやうちごんすい)

   の心をよみ侍りける

 武藏野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近づきにける

前書(ブラウザの不具合を考えて、短く改行して示した)の「法師品」は「法華経第十品」のこと。「漸見濕土泥(ぜんけんしつどでい) 決定知近水(けつじやうちごんすい)」とは「ようやく湿った泥土を見て、確かに水はもう近いということを知る」の意。ありがたい「法華経」の教えを読み聴くことで、仏だけが持つ広大無辺な真実智に近づくことの喜悦を比喩した歌であることを示す。

 なお、ここは東国の見もしない田舎にも拘わらず、古くから知られ、歌枕としてもよく詠まれている。まず、超ベストセラー、清少納言「枕草子」の「井戸尽くし」の章段(一六三段)で冒頭に掲げられている。

   *

井は、ほりかねの井。玉の井。走り井は逢坂なるがをかしき。山の井、さしも淺きためしになり始めけむ。飛鳥井(あすかゐ)は、「御水(みもひ)も寒し」とほめたるこそ、をかしけれ。千貫(せんくわん)の井。少將の井。桜井。后町(きさきまち)の井。

   *

私は井戸フリークではないので、注は附さない。他に、歌枕として詠まれた例を示す。

   *

 いかでもと思ふ心は堀兼の井よりも猶ぞ深さまされる 伊勢(「伊勢集」)

 あさからず思へばこそはほのめかせ堀兼の井のつつましき身を 俊賴(「俊賴集」)

 くみてしる人もありなむ自づから堀兼の井のそこのこころを 西行(「山家集」)

 いまやわれ淺き心をわすれみすいつ堀兼の井筒になるらむ 慈円(「拾玉集」)

 むさしなる堀兼の井の底をあさみ思ふ心を何にたとへむ 詠み人知らず(「古今和歌六帖」)

   *   *   *   *

 以下、挿絵の碑文、

「此凹形之地所謂掘兼井之蹟也恐久而遂失其處因以石井欄置坳中削碑而建其傍以備後監

  里語掘而難得水故云尓以兼通難未知只從俗耳

 寶永戊子年三月朔」

我流で訓読する。

   *   *   *

 此の凹形(おうけい)の地、所謂(いはゆる)「掘兼の井」の蹟なり。恐らくは久しくては、遂に其の處を失(しつ)せんとす。因つて、石の井欄(せいらん)を以つて坳(くぼち)が中に置き、碑を削りて其の傍らに建てて、以つて後監(こうかん)に備ふ。

  里語の「掘」とは、水の得難き故に、尓(しか)云ひ、「兼」は通し難きを以つてす。未だ知らず、只だ、俗耳(ぞくじ)に從(よ)るのみ。

 寶永戊子(つちのえね)年三月朔(つひたち)

   *   *

「後監に備ふ」後世の検証・考察の縁(よすが)とする。

   *

『此あたりに「掘兼井」と稱する所、夛(おほ)し。此外を「淺間掘兼」といふ也。是より五六町南に、方二十間ばかりから堀(おり)のごとく窪める所、これも其井の跡也と云。又、乙女新田(おとめしんでん)或は入曽里(いりそのさと)にもあり』これは、この堀金神社のもの以外の有象無象の「掘兼の井」と称するものは、この本家本元(かどうかは実は不明なのであるが)以外は総称して「淺間掘兼」の井戸と言っているということらしい。先の「地盤環境エンジニアリング株式会社」の作成になる「58.掘兼の井戸が物語るもの(1)」にも、この古書(書誌を記さず)によれば、この地には「掘兼の井」以外に「七曲の井」(リンク先の後半部に掲げられているので位置その他はそちらを参照されたい)の他、「比丘尼の井」という『古井の跡が北入曽村に三箇所あって何れも掘兼』の『井と唱え』ているとし、『また他に『今伝うるは、当郡はもとより、他の郡にも掘兼の井跡と称する井あまたありて、何れを実跡とも定めがたし』ともある。このように掘兼井にはなお考証の余地がありそうである』と記した上、加えて注では、『ネット上の検索によれば鎌倉街道沿いの狭山市掘兼2332には八軒家之井』(長径十六・五センチメートル/短径十四・五センチメートル/深さ三メートル)『もあり、掘られた時期は特定されていないが、掘兼井と同一の性格・構造を有する井戸と見られている。さらに狭山市堀兼・入曽地区には江戸時代にこのような井戸が計』十四(堀兼に七箇所、堀兼新田に二箇所、北入曽に三箇所、南入曽に二箇所)『あったと伝わっている』とある。本文に「是より五六町南に、方二十間ばかり、から堀(ほり)のごとく窪める所、これも其井の跡也と云」とあるが、現在の堀兼神社から南へ五百四十六~六百五十四メートルというと、まさに埼玉県狭山市堀兼2332附近ここになるのである。以下、「乙女新田」は不詳、「入曽里(いりそのさと)」は堀兼神社の西南直近地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、ウィキの「まいまいず井戸」には、『まいまいず井戸とはかつて武蔵野台地で数多く掘られた井戸の一種である。東京都多摩北部地域から埼玉県西部に多く見られ、同様の構造を持つ井戸は伊豆諸島や群馬県の大間々扇状地などにも存在した』とし、『地表面をすり鉢状に掘り下げてあり、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造である。すり鉢の内壁に当たる部分には螺旋状の小径が設けられており、利用者はここを通って地表面から底部の垂直の井戸に向かう』とあって、本「堀兼之井」や「七曲井」を始めとして、幾つもの井戸が写真附きで解説されている。ウィキペディアを馬鹿にする安物のインク臭のする諸君は、是非、一見あれ。

「享保九辰」一七二四年。

「三緣山増上寺」現在の東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗のあの増上寺のこと。

「淸光院」現存するとする記載もあるが、どうもないようである(明治三〇(一八九七)年には現存していた)。廃院されたのか、宗旨変えをした(或いはして移った)か、よく判らぬ。

「昌泉院」廃院して現存せず。

「退院」隠居。二人ということであろう。

「優遊(ゆうゆ)」のんびりと心のままにするさま。

「溫(たづぬ)る」「温故知新」で知られる通り、「温」には「尋ねる・復習する」の意がある。

「道しるべ」道案内。

「鎌倉殿」室町時代の鎌倉公方もいるいにはいるが、ここはまさに鎌倉街上道(かみのみち)沿いであり、鎌倉時代に溯る設定と読むべきである。

「武藏野のほりかねの井の井の底にわれぞこひするこいぞ一かけ」下句の意味が私にはよく採れない。「こひ」は「戀」或いは命「乞ひ」と「鯉」を掛けているか? 「一かけ」の「かけ」は「一影」(さっと落ちていったその鯉の姿)に飛脚としての「一驅(か)け」を掛けているか? などとは思うが、全体の意味が腑に落ちない。識者の御教授を乞う。

「逆緣(ぎやくゑん)」、仏の教えを素直に信じていなかった下賤の者、そのような救い難い人を指す。ここはその飛脚のこと。

「奴(やつこ)」「あやつ・あいつ」。他称(卑称・軽蔑、或いは、親しみを持っての)の人称代名詞。

「歸府(きふ)」江戸へ帰ること。

「演譽白隨(ゑんよはくずい)大僧正」三十八代増上寺法主(ほっす)。

うさ〕ば、則(すなはち)、戒名を授玉(さづけたま)ひ、吊(とむら)ひありける。

昌泉院に石塔を立(たて)られ、奴(やつこ)が墓とて、今、あり。

「去(さり)し申〔まうす〕は」「つい先年と申しますは」の意で採っておく。次注参照。

「その年より十七年にあたるゆへ、年忌の吊ひありける也」数えであるから、十六年目の十七回忌法要である。一般に現行では、ここまで年忌法要を行い、ここから先は二十三回忌(二十二年目)、二十七回忌(二十六年目)のスパンを空けた法要を行った後、さらに間を置いて三十三回忌(三十二年目)や五十回忌(四十九年目)で「弔い上げ」とする場合が多く見られる。享保九(一七二四)年から十六年後は元文五(一七四〇)年に当る。本書は寛保三(一七四三)年刊であるから、記載内容時制はその前年以前、則ち、寛保二(一七四二)年以前と読めるから、前の私の「つい先年と申しますは」という解釈がぴったりくることが判って戴けることと思う。]

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