諸國里人談卷之五 ㊈氣形部 犬生ㇾ人
諸國里人談卷之五
㊈氣形部
○犬生ㇾ人(いぬ、ひとにむまる)
和泉國堺の邊、淨土宗の寺に、白犬(しろいぬ)ありける。
二六時中、勤行の時節、堂の緣に來りて平伏する事、年(とし)あり。又、常に、修行者、大路にて念佛すれば、衣の裾にまとはり、おかしげに吠(ほへ[やぶちゃん注:ママ。])ける。
或(ある)師走(〔し〕わす)、餅(もち)を搗(つく)日〔ひ〕、餅をあたへければ、咽(のど)につめて死(しゝ)てけり。
和尚、あはれみて、戒名を授(さづ)け、念頃(ねんごろ)に吊(とむら)ひぬ。
一夜(あるよ)、住僧の夢に、かの犬、來て曰はく、
「念佛の功力(くりき)によつて、人間(じんかん)に生ず。門番人〔もんばんにん〕が妻(さい)にやどる。」
と。
はたして男子を産(うめ)り。
和尚、しかじかの事を親に示して、六、七歳の頃より、出家させけり。
聰明叡智にして、一(いつ)を聞(きゝ)て十を慧(さと)る。よつて、こよなふ大切に養育してけり。
此者、幼少より、餅をきらひて食(しよく)せざりける。
前生(ぜんしやう)の犬なりける事、誰(たれ)いふとなく、新發意(しんぼち)の中にて仇名(あだな)を、
「白犬〔しろいぬ〕」
とよびけるを、やすからず思ひて、十三歳の時、和尚に問(とふ)。
「我を『白犬』といふ事、何ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]かくは侍ふやらん。此事、とゞめて給はれ。」
と云。
「わどの、餅をきらふゆへにこそ左(さ)いふなり。」
「しからば、餅を食(しよく)し侍らば、此難(なん)あるまじきや。」
「いかにもその事なるべし。」
「いざ、食ふべし。」
と、餅の日、膳にむかひけるが、用ある躰(てい)にて座を去りて、行方(ゆきかた)しらずなりぬ。
その所を求むれども、あへてしれざりき。
和尚、
「よしなき事をいひつるものかな。」
と、甚(はなはだ)後悔してげり。
常に手習ふ机のうへに、一首を殘せり。
何となくわが身のうへはしら雲のたつきもしらぬ山にかくれじ
[やぶちゃん注:部立の「氣形」(きぎょう)とは生き物(動物)の意。なお、本条は物語性が高いので、読み易さを狙って、特異的に改行した。
「何となくわが身のうへはしら雲のたつきもしらぬ山にかくれじ」「うへ(上)」「しら雲」「たつ(立つ氣)」「山」は縁語、「しら雲」は「白雲」に「知ら」(それとなく気づいた)を掛け、「たつき」は「立つ氣」に「方便・活計(たつき)」(「手(た)付(つ)き」の意で、古くは「たづき」、中世以降に「たづき」「たつき」となり、現代では「たつき」)生きてゆくための手掛り・寄る辺)を掛ける。「じ」(①が「じ」で示されてある。③は「し」だが、和歌だから濁点がないのは普通)は打消推量・打消意志の孰れでも「隠れることはないだろう」「隠れまい」と意味の上ではおかしい。牽強付会するなら、こうなった上は(自分の前世が畜生の犬であったことを知ったからには)深山に隠れ住むなどという甘いことはするまい、誰にも逢うことのない別世界へ行く、命を絶つ、とでも解するか。或いは、前世で犬であった「わが身のうへ」は「何となく」私にも知れてしまった、犬畜生であった私は僧として生きてゆく「たつきも」最早、ない、即ち、犬であることを「しらぬ」人は最早いない、それは「かくれじ」、それを隠すことは、最早、出来まい、さればこそ、私はここを去って行く、とでも謂うものか。和歌嫌いの私には、よく判らぬ。]