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2018/07/20

譚海 卷之二 紀州熊野鈴木三郎子孫の事

 

紀州熊野鈴木三郎子孫の事

○紀州熊野那智邊に鈴木三郞と稱する鄕士あり。則(すなはち)源九郞義經の家臣の末孫也。これも一村主人と尊(たつと)み、紀州御入國の時も立(たち)ながら式臺(しきだい)する程の事にて、一向年貢も指出(さしだ)す事なく、今に所住するとぞ。

[やぶちゃん注:「鈴木三郎」源義経に従い、源平合戦(治承・寿永の乱)の諸戦で活躍したが、衣川館で義経と最期をともにしたとされる武将鈴木重家(久寿三(一一五六)年~文治五(一一八九)年)。ウィキの「鈴木重家によれば、『紀州熊野の名門・藤白鈴木氏の当主であ』った彼は、『平治の乱で源義朝方について戦死した鈴木重倫の子。弟に弓の名手と伝わる亀井重清がいる』。「義経記」には『義経に最期まで従った主従のひとりとして登場するほか』、「源平盛衰記」でも『義経郎党として名が見られる。熊野に住していた源行家との関係から義経に従ったともいわれる』。『重家は、熊野往還の際に鈴木屋敷に滞在した幼少時代の源義経と交流があり』、「続風土記」の『「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると弟の重清は佐々木秀義の六男で、義経の命で義兄弟の契りを交わしたとされる。その後、重家は義経が頼朝の軍に合流する際に請われて付き従ったとされ』、「治承・寿永の乱」では『義経に従って一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどで軍功を立てて武名を馳せ、壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて源氏の勝利に貢献した。また、重家は義経から久国の太刀を賜ったとされる(穂積姓鈴木系譜)。平家滅亡後は源頼朝から甲斐国に領地を一所与えられて安泰を得ていた』。『しかし、後に義経が頼朝と対立して奥州に逃れた際、義経のことが気にかかり、所領を捨て長年連れ添った妻子も熊野に残して、腹巻(鎧の一種)だけを持って弟の亀井重清、叔父の鈴木重善とともに奥州行きを決意』、文治五(一一八九)年、『奥州に向かった。その奥州下りの途中』では、一度、幕府方に『捕らえられて、頼朝の前に引かれた』。その『時には、頼朝に堂々と義経のぬれぎぬを弁明し』、『功を論じた』。『重家の妻・小森御前は、重家が奥州に向かう際は子を身ごもっていたために紀伊国に残されたが、夫を慕い』、『わずかな家来を連れて後を追った。しかし、平泉に向かう途中に志津川(現在の宮城県南三陸町)の地で夫が戦死したことを聞かされ、乳母とともに八幡川に身を投げて自害したとされる。その最期を哀れんだ村人たちが同地に祠を建てたと伝わり、現在でも小森御前社として祀られている』。「義経記」に『よると、義経主従が奥州高館の衣川館で藤原泰衡の討手の軍勢を待ちうけながら開いた宴のさなか、重家は馬の足を踏み外して痛めながらも熊野より到着し、源義経より佐藤兄弟(佐藤継信・佐藤忠信)の残した鎧を賜った』としている。文治五(一一八九)年閏四月三十日、泰衡は五百騎の『兵をもって、武蔵坊弁慶、重家、重清らわずか』十『数騎の義経主従を襲撃した(衣川の戦い)。弁慶が「はやせよ、殿ばら。東夷の奴ばらに我らが優美の道を思い知らそう」というと、すぐに重家・重清兄弟が鼓と笛ではやしたて、弁慶はうたいながら』、『舞った。その後、重家、重清、弁慶は馬を並べて太刀を抜き、大声で喚きながら馬を駆けたために敵は秋風が木の葉を散らすように元の陣に逃げていったといわれる』。『重家は、逃げていく泰衡の郎党・照井太郎に、敵に背を見せて逃げずに止まるよう声をかけ、戻ってきた照井太郎を斬り負かして右肩を斬りつけ、照井太郎を引き下がらせた。重家はその他にも左手に』二『騎、右手に』三『騎を斬り倒し』、七、八人に『手傷を負わせたところで』、『自分も深傷を受け、「亀井六郎犬死にするな、重家は今はかうぞ」を最後の言葉に太刀で自らの腹を掻き切って自害したと伝わる』。享年三十三歳、『重清も「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年』二十三、『弓矢の手並日来人に知られたれども、東の方の奴ばらは未だ知らじ。初めて物見せん」と言いながら大勢の中に割って入り、兄の後を追って自害し果てた』。『重家の次男・重次の直系は藤白鈴木氏として続いた。この一族からは雑賀党鈴木氏や、江梨鈴木氏などが出て各地で栄え、系譜は現在に続いている。伊予土居氏の祖・土居清行は重家の長男とされ、河野氏に預けられて土居氏を称したと伝わる。重家の子のひとりとされる鈴木小太郎重染は、父の仇を討つため』、『故郷の紀伊国から陸奥国に入り、奥州江刺に到って義経・重家の追福のため』、『鈴木山重染寺を建てたと云われる』。但し、『重家は衣川館で自害せずに現在の秋田県羽後町に落ち延びたという伝承もある。その子孫とされる鈴木氏の住宅「鈴木家住宅」は国の重要文化財に指定されて』おり、また『他に、平泉を脱した後、義経の命により』、『岩手県宮古市にある横山八幡宮の宮司として残ったと記す古文書もある』とある。

「紀州御入國の時も立ながら式臺する程の事にて」徳川家康の十男徳川頼宣(慶長七(一六〇二)年~寛文一一(一六七一)年)が駿河国駿府藩から紀伊国和歌山藩藩主となって入国した折り(元和五(一六一九)年))のことか。「立ながら式臺する」屋敷の玄関に設けられた板敷きの部分に立ちながらに礼したということか。

「一向年貢も指出す事なく、今に所住するとぞ」こんなことが許されていたとは、ちょっと信じ難いのだが?]

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